5−j へ

 ――夢を見た。
 だが、目の覚める直前にどんな夢だったのか全て忘れてしまった。
 それは良い夢であったのだろう。
 形が消えたからこそ唯一つ残った剥き出しの歓喜が身を震わせている。
 だから、夢を忘れてしまったとしても悔やむことはない。
「……」
 瞼を持ち上げたティディアは体を起こし、そっと微笑んだ。胸に残る喜びを、彼女は真新しい記憶に重ねた。
 思えばこれほど成果を得たことがあっただろうか。どういうわけかニトロ・ポルカトに対しては何でも思い通りにはできない私が――例えある程度の成功は果たせても肝心なところでは彼に逃げられ続け、反撃を許し続けてきた私が、昨日は全てがうまくいった。彼に想いを載せて触れることさえできた。あのささやかな祝宴については私の力によるものではないが、それだからこそ最高の結果を得ることができたのだろう。王城についてから聞いた彼のボイスメッセージをもう何度繰り返し聞いたか分からない。気がつけばティディアはまたそれを再生させていた。
『ありがとう』
 優しい彼の優しい言葉。酔いの揺らぎがそれを増幅させているのだろうか。その声は、私の胸の奥の奥まで沁み渡る。
「ふふ」
 唇の隙間からこぼれ出る吐息に、自らがくすぐられる。
 カーテンを開けばまだ開けぬ夜の帳が降りている。窓を開ければ夜明けを目前にした夜風がひんやりと部屋に染みこんでくる。
 深夜まで及んだラミラスの特使との密談も上首尾に終わり、それからセスカニアン星へ向かう使節団の一人にマードール姫への密書も持たせ終わった。時計を見れば眠りについてから二時間と経っていない。しかし、私人にしても公人にしても最良の目覚めだ。
(まだニトロは寝ているかしら)
 彼はメディシアノス宮に泊まると言った。それは驚きであったが、一方で納得できることでもあった。続けて彼は言ったのだ。近所迷惑を考えて、しばらくホテル住まいだと。ただ今日はその手配をするにも遅いから、警備の厚いここに泊まるのだと。彼の級友達は知らないが、ハラキリ・ジジもそこに宿を取っている。誕生日を祝うことには大いに手を貸してくれた友達も、ニトロに夜這いをかけることにはけして手を貸してはくれまい。
 ――夜這い?
 ふいにティディアは思考の流れに自然と現れたその行為に笑みを抑えることができなかった。
(そうね)
 夜這い。
 また笑ってしまう。
 そうだ、それこそはこのクレイジー・プリンセスらしい考えではないか。シゼモでは強引にいってトラウマ級の失敗をかまし、昨夜はそれを繰り返すまいと自ら友達に言いもしたのに、また性懲りもなくそれに思い至る『クレイジー・プリンセス』。
 ――だが、と、彼女は思う。
 ひょっとしたら、今度こそ、今なればこそいけるのではないかしら? そう思うのは間違いなく調子に乗った自惚れだと諭す己もいるが、いいや、ならばソフトにいってみようではないか。そうだ、正々堂々正面からそっと彼の部屋をおとなおう。品の良い薄着で、お茶でもいかがと誘ってみよう。媚薬は芍薬にバレるだろうから、ちょっとだけ、ちょっとだけでも手が触れられるように努力してみよう。
(……それを夜這いと、いうのなら)
 気がつけば随分慎ましくなってしまった己が企みに苦笑して、ティディアは大きく息を吸った。
(そうしてみるのも、きっといいわよね)
 そして彼女は振り返る。
ピコ
 部屋付きのオリジナルA.I.にかけられる声は明るい。
「ヴィタにマッサフの8番を用意させて。それからスライトにヘイムシエールのキャミの緑・白を持ってこさせるように」
「カシコマリマシタ」
 そうだ、とティディアは思う。今、彼の傍には芍薬がいるのだった。そもそも穏当にお茶をするだけというなら芍薬だって敵対的行為に及ばぬだろう。が、こんな時間に非常識だと妨害に出てくる可能性は極めて高い。あの躯体アンドロイドを制圧するのは無論尋常ではないにしても、場所がメディシアノス宮という歴史的価値もある建造物の中なら勝機はある。ヴィタにはパワードスーツを着させて、Åに王城最強の戦闘用アンドロイドを操作させるとしようか? それとも公務に出るまでのわずかな時間に愛する人と語らいたいという健気な望みをなんだかんだマスターに似て優しいオリジナルA.I.に訴えかけてみようか。
(そういえば)
 昨晩の祝宴では芍薬もまたニトロの級友達の注目の的だった。芍薬自身は祝宴を円滑に進行させるための歯車として振舞っていたため積極的に会話に参加することはなかったが、それでも名高い『戦乙女』であり、“理想のオリジナルA.I.ランキング”において今やトップに君臨する有名人だ。女子達はその“人格”に興味があり、男子達はその“体”により大きな興味を向けていたのも実におもしろかった。男の子はやはりロボットが好きなのだろうか? あるいは“女体”か――いいや、女子の中でもあの画家の少女は洗練の極みである人造物に飛び切りの関心を向けていたな。
「ティディア様」
 pが声をかけてくる。追憶に走っていたティディアは瞳を現在に戻し、
「何?」
 彼女が応じるや否や、眼前に宙映画面エア・モニターがパッと開いた。
 そこに映し出されたのは十数人の記者に囲まれたニトロ・ポルカトである。黎明を先触れする淡い曙光に曖昧に照らされる彼の表情は、明るい。
 これは個人報道者インディペンデント・リポーターのネットチャンネルだった。そのチャンネル主の名がジョシュリー・クライネットであると確認した瞬間、ティディアのうなじの産毛が総毛立つ。中継時間はまだ2分足らず。ニトロは昨日の『盛大なお祝い』について、祝福をくれた人々への御礼を述べている。それはとても模範的な態度で、言葉遣いもまた模範的だ。今日から王女の公務に同伴したとしてもこれなら立派に通用するだろう。
 その彼の姿にティディアは見惚れると同時、得も言われぬ恐怖を感じていた。
 部屋にヴィタが入ってくる。
 ノックはしたか? したとしても応答のないままに入ってくる非礼を咎めることをティディアはしない。これは、緊急事態である。
「先手を打たれましたね」
 ジョシュリー・クライネットはあの『映画』で名を上げ、後にカメラマンとの不倫で叩かれ、その件もあってテレビ局を辞した後、個人報道者の道を選んだものの初期のコメント欄は誹謗中傷に溢れて止まず、しかし、ニトロ・ポルカトへの初の単独インタビューを成功させて再び名を上げた不屈の女だ。
 彼女を誘ったのはきっと芍薬だろう。
 ふいにエア・モニターが三つに割れ、その一つに有名なパパラッチの個人情報チャンネル、また一つに早朝のニュース枠を削ってまで生中継を始めたATVアデムメデステレビが映り込む。が、それらは状況の把握のためだけに現れただけで、ジョシュリー・クライネットのチャンネルを残してすぐに消えた。今やこれらの映像の孫引き玄孫やしゃご引きが光速で広まっていることだろう。
「――はい。この宮殿での祝宴も素晴らしいものでした。ティディア様のお心遣いには感謝しかなく、改めてその優しさに心を打たれたしだいです」
 時に、確かに、ニトロ・ポルカトは王女の傍にいるがために強制的にこのような口調を強いられることがあった。だが単独で『恋人』について語る際の彼は常に丁寧ながらもつっけんどんな語り口であったものだ。質問をした記者も急に変質した調子に戸惑っているようで、「まあ」とか「はあ」とか意味を持たない感嘆でどうにか相槌を打っている。
 部屋にスライトも入ってきた。
 清純なデザインのキャミソールを手にした側仕えは、鋭い目つきで画面を眺め、また映像を見る主と執事を見つめる。
 他にも誕生日の騒ぎについての質問が飛び、一つばかりは王女の暴挙についての意見を求める者もあった。ニトロは頷き、
「叱っておきました。その際には皆様にご迷惑をおかけしたこと、それが私のためであったからこそ、ここにお詫び申し上げます」
 そこに嘘はなく、真摯な青年が首を垂れるとフラッシュが焚かれた。だが、それは狙っていたショットを収めようと待ち構えていたものではなく、むしろ反射的にぱちくりと驚きまたたいているだけのように思える。
 ティディアは、我知らず奥歯を噛みしめていた。
 その時が迫っている。そう予感する。ちりちりと導火線を走る火が心臓に向けて這い上ってきている。
「止めないのですか?」
 スライトが問うた。
「聞かねばなりません」
 ヴィタが答えた。それは確認しているような物言いでもあった。
 ティディアは、頷く。
 また無意味な質問が飛び、そして、また一つ昨日の感想を掘り下げようという質問が飛んだ時、
「ポルカトさんは進学すると伺っております」
 直前の質問を押しのけて聞こえたその声は、このチャンネルの主のものである。
 不意に方向転換を強いてきた問いかけに記者達がざわめく。カメラに向けて――装着式ウェアラブルカメラを付けているのであろうジョシュリー・クライネットに向けて、ニトロが振り返る。
「はい。進学します」
 それが将来に関わるものであり、ニトロが断言したために質問の割り込みを他の記者らは黙認する。ジョシュリーが問いを続ける。
「どちらの大学に通われるのでしょうか」
 すると、ニトロ・ポルカトは微笑した。
 瞬間、ティディアはゾクリと震えた。
 その微笑みはおよそ彼のみせたことのあるものではなかった。澄み切るほどに真摯でありながら、一種邪悪ですらあり、それ故にヴィタもスライトも目を離せない。記者達はそれを面前にして虚をつかれたように硬直しているようだ。そんな相手が聞き逃さないようにするかのように、ニトロは、ゆっくりと言った。
「まずは、星間遊学証インタグランスタディパスの取得を目指します」
 画面の向こうがざわつく。
 ヴィタとスライトはハッとティディアを見る。
 ――ティディアは、青褪めていた。
「ですが、今の私の成績ではBクラスを取るのが限界でしょう。奨学金を求めることはありませんが、専門的、選択的にも幅を増やすべく、遊学中にSクラスの取得まで同時に目指していく所存です。その上で、初めにセスカニアンこくのニウェウヒウ大学を視野に入れています。次はラミラス星のデゴ大学、クロノウォレス星のジンヴァレッド大学も外せません。もちろん、アドルル共和星、リクラマ星、そして全星系連星ユニオリスタの雄、フェロン大星グランステも回るつもりです」
 記者達はざわつき続けている。画面端の男がちらりとカメラを――ジョシュリー・クライネットを一瞥する。その期待に応えるかのように、彼女は問う。
「それについて、ティディア様はなんと?」
「これから話します」
 ざわめきが大きくなった。しかしニトロ・ポルカトは意に介さず微笑み続けている。
「反対されるのではないですか?」
 ジョシュリーの声はわずかに上擦っている。今最も熱く、離れ離れになることなど考えられぬ恋人同士。その片割れが独断専行でくにを出ることを決めるなど信じられないという声である。周囲の動揺もそれを支持している。彼は少しばかり眉間を曇らせる。
「そうですね、反対されるかもしれません。ここにいても比類なく最上の教育を受けることはできるでしょう。ですが、彼女はきっと分かってくれます」
 ティディアは唇を引き結ぶ。彼は続ける。
「皆様もご存知の通り、彼女は、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ王太子殿下は素晴らしいお方です。希代の王女として既に多くの実績も残され、次代においては類稀なる賢君としてこのくににさらなる繁栄をもたらすでしょう。その御名は間違いなく歴史に残り、その碑銘は燦然と永遠に黄金の輝きを伝えることでしょう」
 彼がわずかに身じろぎすると、つられてジョシュリーは視線を彼の背後にちらりと投げたらしい。カメラがそこに歴代の君主の彫像の影を捉える。その先に立つニトロ・ポルカトの隣には今、誰もいない。だが、誰もがそこに後光を背負う女王の像を見る。
「翻って私はどうでしょうか。先ほど申し上げた通り、私は星間遊学証のBクラスがやっとの男です。それでティディア様の隣に並ぶに足るのでしょうか。恋人としてなら良いかもしれません。しかし王配として、おこがましくも皆様の君主としてティディア様と共に立つに相応しいと言えるのでしょうか。それでも良いと彼女は言ってくれるかもしれません。皆様も良いと仰ってくれるかもしれません。しかし、それに甘えてはならないのです。彼女は素晴らしい方であると同時に、かなり、はっちゃけすぎる」
 そこでニトロ・ポルカトは間を置いた。ちょっとだけ苦笑する彼の表情に、今現在、最も『クレイジー・プリンセス』の害を被る彼の困り顔に、それを見る者達は自然と彼女の“悪事”を想起させられる。
「私はあまりに未熟です」
 青年は静かに語る。
「今は皆さまにもご好意をお向け頂けているようですが、実際に権力の座につけばその蜜の味に溺れないとも限りません。知恵なき理性は無力です。理性なき知恵は堕落する。長所も短所も常人を超える王太子殿下を支えるには、私も常に自己を磨かねばならないのです」
 記者達は静まり返っていた。
 いつしか彼の微笑は消え、そのおもてには決然とした眼差しだけがあった。
「それで皆様のご期待に沿える人間になれるかどうかは分かりません。その努力はし続けるつもりです。――ですが……いいえ、申し訳ありませんが、皆様のご期待に応える気など元より私にはないのかもしれません」
 刹那、記者達のざわめきが戻る。だが、ニトロ・ポルカトの瞳の奥にある意志の強さにまた皆は押し黙る。
「……俺は、ただティディアの期待に応えるために歩みを止めたくないんです。ティディアは――あいつは、愛を囁き、自分の一言一句、一挙手一投足を賛美し、優しく抱きしめてくるだけの相手を求めるような奴ではありません。時に全力で殴り合える相手こそ、あいつは愛する。それなら俺はそういう人間であり続けたい。対等に並び立てる日が来るかどうかは問題ではありません、対等に並び立とうという気概こそがティディアの愛に応える唯一の手段なんです。俺はあいつの、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの、恋人ですから」
 もはや、それ以上の言葉をニトロ・ポルカトに求める者はない。
 語り終えた青年は質問のないことを視線を巡らせることで確認すると、丁寧に頭を下げ、脇に向けて歩き出した。
 カメラが彼を追うとその先に、黒地に蝶の舞うキモノを着た芍薬が現れる。妖しくも凛としたアンドロイドと並んでいずこかへ歩いていく未来の君主を追おうとする者はない。見ればジョシュリー・クライネットのネットチャンネルに書き込まれるコメントの流れも著しく鈍化していた。
 ヴィタはエア・モニターを消した。
 非常に重要な会見だった。
 これまではずっと否定し続けていたのに、ここで初めて、極めて明確に己がティディアの未来の伴侶だと宣言したニトロ・ポルカト。
 そしてその自覚を基にした成人の、覚悟と理の通った計画。
 しかし彼は今、単独でアデムメデスの外に出ることはできない。何故ならそれは王女ティディアの命によって星外渡航を禁じられているために。それを解くことができるのは、無論、当の王女のみである。
 ティディアが彼の計画を是とするならばその禁を解かねばならない。しかし否とするならば、すなわち彼女への愛を根拠に未来を志す者との対立である。それは恋人達に破局をもたらすものとしては自然にして十分すぎるものであるだろう。しかも彼はそこに己の独断専行――若者にありがちな恋人への傲慢な信頼をメディアに載せてみせたのだ。あの一言に別れ話の予感を抱いた者は一体いかほどいるだろうか。
「いつの間にか喧嘩慣れしやがって」
 ぼそりとスライトが毒づくのをヴィタは聞かぬふりをして、ティディアを見つめた。
 かといってアデムメデスを離脱することを彼に許せば、それは永遠の逃亡を許すことにもなりかねない。どちらを選んでも凶悪な爆弾を炸裂させざるを得ないスイッチを投げ渡された女は、一面では狼狽し、また一面では冷ややかに黙していた。そしてその口元には決して抑え込めぬ陶酔があるのを、ヴィタは見逃さなかった。
 ティディアの携帯モバイルが鳴る。ベッド脇の小卓の上で、たった二人しか知らぬ回線の着信音を奏でている。
 ヴィタとスライトが注目する中、王女は悠然とそれを取りに行き、電話に出た。
「見テイタダロウ?」
 ティディアの耳と受話口の間から漏れる音をヴィタの超人的な聴力は捉える。
「明後日ノ20時。話シ合オウカ」
 今日明日は第一王位継承者の公務がぎっちりと詰まっていた。毎夜の『漫才』の練習時間は事前に確保してあるが、それは短時間の上に遠隔だ。面と向かってじっくり話せるのは確かにそのタイミングである。芍薬は有無を言わせぬ口調であった。ティディアは、笑った。
「いいわ。それじゃあ20時に『舞鳥の間』で。ところで誰に推薦状を書いてもらうつもり?」
「ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ」
「あっはっは、やってくれるわねー」
 通話はそれで終わり、携帯を小卓の上に置いた彼女は一度目を閉じ、開く。
「スライト、今日の衣装は“女教師”でいくわ」
「かしこまりました」
 優雅に首を垂れ、側仕えは早速準備をしに部屋を出ていく。
「ヴィタ」
 ティディアは執事に声をかけた。
「助けが欲しいわね。それもニトロ・ポルカトとやり合える、私だけの味方の助けが」
 どこか清々として言う主人に、その表情に、ヴィタは驚く。それは押し固められた不安を土台に、諦めと闘志の混じる切迫した笑顔であった。その瞳は活気を得て輝いているようにも見える。嘆きを得て潤んでいるようにも見える。
「どなたに助力を求めましょうか」
 新たな顔を見せたニトロ・ポルカトは、我が主にもまた新たな貌をもたらした。それに感じ入りながらヴィタが問うと、ティディアは厳然と言った。
「ミリュウを呼び戻しなさい。理由は何をでっち上げてもいい。至急、この王城へ」

5−jへ

メニューへ