5−i へ

 遠吠えのように聞こえていた『マニア』の自己主張も今は止み、遠景にこちらを取り囲むビル群の明かりもほとんど消えている。足元に広がる闇は、すり鉢の中に落とし込まれた墨と灰とが混ざり切らずに揺らめいているようだ。宮殿を隠さんばかりに繁る木立の葉が揺れる度、それらを照らす赤と青の双子月の影が波打って、ここにいると、まるで夜の海辺にいるようにも思えてくる。
 メディシアノス宮主棟の屋上から眼下に立ち並ぶ歴代の王達の彫像を眺めながら、ニトロは火照る体を冷ましていた。
「今夜の風は幾分温かいですね」
 ニトロはちらりと背後を見、また前を向く。
「とはいえあまり当たると風邪を引きますよ」
「今更ながら、胸が痛いよ」
「おや、何か良心の呵責でも?」
「背中も痛い」
「ああ、そちらですか」
 ハラキリ・ジジは屋上の縁の間近にある石造りのベンチの端に腰かける。このベンチがいつから存在するのか公的な記録はないらしい。一説には『教育』の一環として星の動きを見るために設けられたと言われ、また一説にはその『教育』から逃れるためにある王が王妃候補のために設けたと言われている。おもだっては後者の説を取り、現在はこのベンチは“涙隠なくしの石座せきざ”と呼ばれていた。
 コト、と音がして、ニトロが見ればハラキリと己の間にビールの小瓶が置かれている。ハラキリは既に栓の開いた一本を手にしていた。何も言わないのは、飲みたければご自由にということだろう。
「芍薬」
「御意」
 側に控えていた芍薬が進み出てきて瓶の王冠を指で摘まみ開ける。プシ、と小気味の良い音が夜風に紛れた。小瓶を受け取ったニトロは解放された炭酸ガスの立ち昇る丸い口を見つめ、
「これが限界かな」
「ワイン二杯で顔が真っ赤でしたね」
「遺伝だね。どうも父さんと母さんと同じくらいか、少し多く飲めるくらいらしい」
「それでは酒席ではお気を付けなさい。特にお姫さんの影がちらつく際には」
 ニトロは肩を揺らした。
 ハラキリが小瓶を差し上げる。
 ニトロはその底に、己の小瓶の底を合わせた。コツ、と気持ちの良い音がする。一口含むと爽やかなホップの香りが鼻に抜け、軽やかな苦みが麦芽モルトのコクに洗われながら喉を駆け下りていく。
 はあ、と息をつき、
「これ、父さんが好きなんだ」
 風に葉のさらさら撫ぜられる音がかそけく。
「そうでしたか」
 ニトロはもう一口、父の好きなビールを飲み、
「――ダレイがあんなに酒に強いのは分かるけど、ミーシャが意外だった」
 ハラキリは笑った。
「わりとザルでしたね」
「フルニエが飲み勝負を煽り出したのには焦ったよ」
「彼は並でしたね」
「のわりには飲んでたな」
「今頃しこたま吐いているか、『酔い止め』が効くのを必死に待っているんじゃないですか? お姫さんがいる間は素面を装っていた根性は流石でしたが」
「根性でどうにかなるもんかなあ」
「実は限界を迎えてからは飲むふりをして飲んでいないのを見て見ぬふりをしていました」
「意地悪が。いや親切か?――でも、そうだったのか」
「ええ。個人的にはクレイグ君が下戸というのが意外でしたかね」
「すぐに『酔い止め』飲んでたな」
「彼の素晴らしい所です。賢明ですよ」
「キャシーは?」
「最初の一杯でやめてましたね。酒が全くダメってわけでもなさそうでしたから、きっと少しでも記憶の欠乏を招く危険を避けたかったのでしょう。彼女も賢明です」
「クオリアも最初の一杯だけだったな」
「彼女は酒を好まない感じがありますが、それでもそれを相手に気にさせないところには場慣れを感じますね。酒席に慣れているというのもありそうですが、身近に誰か見習える人がいる様子です」
 ニトロはため息をついた。
「相変わらず、よく観てるよなぁ」
「情報は一番の武器ですから」
「武器て」
 ニトロは笑い、ビール瓶を逆の手に持ち替える。
「……楽しかったよ」
「それは良かった」
「みんながあんなに喜ぶとは思っていなかった」
「良心の呵責ですか?」
 ハラキリはビールを飲み、はあと息をつく。ニトロは苦笑する。瞼の裏に重なるのは、王女に名を呼ばれて感激していた級友達と、ニュースで見た舞踏会に流れていた涙。
「そういうんじゃないけどね、友達甲斐がなさ過ぎたかなってね」
 夜闇のいずこからかすかに花の香が漂う。高高度を行く飛翔体の灯が明滅している。
「君にそれを期待するところは彼らだってないとは言い切れなかったでしょう。キャシーさんほどではないにしろね。だけど君に期待されていたことは、結局君にはできなかったことです」
「そうか?」
「君に招待されればガチの招待ですから。そうしたら皆さんガッチガチですよ。拙者に茶化される程度で参加させられている方がずっと気楽ってもんです」
 思わずニトロは吹き出した。思い出されるのはミーシャの顔だ。その茶化しの最大の被害者にして、本当は茶化されてなんかなかった彼女が真っ赤な顔でハラキリを蹴りまくる姿も思い浮かべれば笑いも止まない。やがて落ち着いたところで、彼は横目に親友を見た。
「悪い奴だなあ」
「お陰で誕生日プレゼントとしては上々となったようですので、脛を蹴られた甲斐もあったってもんですよ」
「全部計算づくかあ」
「いえいえアドリブばかりです。ただ最終目的がはっきりしていれば事は成しやすいだけでして」
「最終目的って、それってどんな?」
「君は、喜ぶ人を見ることに喜びを感じる人間だということです」
「……」
 なんと言葉を返せばいいか分からない。ニトロはビールを飲んだ。頬が熱い。
「それは君の長所だと思いますよ」
 笑みもなく嗤いもなく、親友は飄々と言ってのける。ニトロはもう一口ビールを飲み、
「……ハラキリは? お前はどんなことに喜びを感じるんだ?」
「そうですねえ、人に関係なく、自分勝手に喜びを感じますかね」
「例えば?」
「例えば君を喜ばせられたと自己満足」
「それも結局は喜ぶ人を見ることに喜びを感じてるんじゃないのか?」
「おや? これはどうやら一本取られましたかね」
 そう言いながらさして悔しそうな様子もなく、ハラキリは喉を鳴らす。そして、
「ただ、どうやら拙者は君に対して最悪の誕生日プレゼントも差し上げてしまったように思うのですよ」
「え? なんで?」
「今夜、少なくとも五人の『ティディア・マニア』が生まれました。彼ら彼女らはおひいさんの不幸をけして許さないでしょう」
「あー」
 そう言われればそうだろう。目に浮かぶ“ささやかな祝宴”の数々のシーンには、必ずそこにティディアがいる。あいつが級友達の心を鷲掴みにしている様がくっきりと彫り出される。宴の最後の方はほとんど古典に見る女主人の応接室サロンのようになっていた。ミーシャの、クオリアの、キャシーの、“女同士の”話し相手になってくれる姫君への熱い眼差しはこの目に焼き付いているし、それを眺める男性陣の恍惚も身に染みている。
「……五人?」
 ふと疑念が生じた。ニトロはハラキリを見る。
「キャシーさんは微妙です」
「ああ……」
 ニトロは青い月を見上げた。
「これだけ間近に『本物』を目にして?」
「身の程を痛感したでしょうね。なまじ彼女には才覚があるが故に」
「……憧れがひっくり返って、『アンチ』になる?」
「それはそれで君にとっては脅威になるでしょうが、どうでしょうね。憧れというものは見上げているだけで満足するものと、手にしたいと渇望せずにはいられないものがあるものです。渇望しながら手が届かないものに対してはそれを納得して次の道程への糧に出来るものと、それでも憧れを捨てきれず“捨てきれぬ苦しみ”を恨みに変えねばやり切れぬものがあるものです。ですがその恨みは惨めですよ。醜い。それを賢明なキャシーさんが自覚できないわけもない」
「自覚すればこそより恨むってのは?」
「あり得ます。……心配ですか? キャシーさんが
 ニトロは振り返った。ハラキリはいつものように笑っているような眼で赤い月を見ている。
「まあ、大丈夫でしょう。彼女は『マニア』となるか、憧れを脱して『目標』とするかしかない」
「何でそう言い切れるんだ?」
「魔女がそう呪っていたからですよ」
 言われてみれば心当たりがある。狭い部屋だ。“女同士の話”としても筒抜けだった。確かにティディアがキャシーに対して言っていたことの中にはいくつか引っかかるところがあり、だがそれはあまりに自然だったし、こちらもクレイグとダレイとの会話が楽しかったから気にしていなかったのだが……ニトロは苦笑する。
「そりゃ、すんごい説得力だ」
 言って、彼は祝宴のティディアを思う。その祝宴を成功させたのは、間違いなく親しく慈しみ溢れる姫君だった。
「でもニトロ君、君にキャシーさんを心配している余裕なんてありませんよ?」
「ん?」
「彼女が『マニア』になったら一番の突撃隊長になりますからね」
「うわ」
「今のところはミーシャさんがその筆頭候補ですが」
「うわあ」
 ニトロが呻くとハラキリは笑う。
 ニトロが睨めばハラキリはまた笑う。
「ただまあ」
 不機嫌そうにニトロがビールを飲むところに、ハラキリが言った。
「拙者も皆さんには感謝しなければなりません」
「お? なんで?」
「そうでもなければ、君に贈るものがありませんでしたからね」
「いや」
 ニトロは慌てて言う。
「別にそんな贈るものがなきゃいけないなんてことはないぞ?」
 と、言いつつも、彼はある記憶が脳裏をかすめるのを自覚していた。その自覚が漏れたのだろうか、ハラキリが奇妙な笑みを浮かべる。
「ええ、君はそう言うでしょう。ですがまあ、拙者は君にも感謝しているのですよ」
「お? おお?」
 奇妙な展開に、そんなことを言うとは思えぬ親友があからさまにそう言ってきたことにニトロが動揺していると、ハラキリはニッと悪戯っぽく笑って見せる。
「君のご両親にもね。去年、過分にも誕生日などをお祝いして頂きましたので」
 そう言われると“感謝”の意味合いがちょっと変わってくる。動揺したことに――つまり勘違いしてしまったことに――恥ずかしさも感じてニトロが反応に窮していると、ハラキリはジャケットのポケットを探り、
「はい」
 反射的にそれを受け取ったニトロは「?」を浮かべた。
 手の中にある物は長方形に整えられた木っ端で、表には奇妙な紋様が片側に寄って描かれている。そのさまは、どうも中央位置を間違えて木っ端にプリントしてしまったもののように見えた。
「なんだこれ」
「割符です」
「わっぷ?」
「相手がもう一つ持っていましてね、そいつと合わせるとそれがちゃんとした意味のある形になる」
 プリントミスしたような木っ端の紋様を一瞥し、ニトロはああとうなずく。
「――で?」
「といっても実は中にチップが入っていましてね。そいつが証明書になります」
 回りくどく言ってくるハラキリに、ニトロは眉をひそめて見せる。するとハラキリは笑い、
「フエルシェスパ領グランダル市」
 それはハラキリ・ジジが凄惨な事故――あるいは事件に巻き込まれたところである。
「ニトロ君は察していたのでは?」
「……まあ、期待がなかったと言えば嘘になるよ」
 フエルシェスパ領グランダル市はワインの名産地である。生産量はもちろん、そこには『ワインの王』――ディ・ヴォに並ぶものもある。
「『エェルノワーラ』の当たり年の物です」
 それはワインの女王。ニトロは目を丸くした。
「いや! そこまでは期待していなかったぞ!?」
「フィル・コーナスくらいでしたかね」
「それでも高級だけどな、ハラキリがそこにこのタイミングでいるとなったら……まあ、うん」
 素直な友の正直な言葉にハラキリは肩を揺らし、
「しかし、祝い事に贈るものとしてはあまりにケチがついてしまいましたからねえ」
「え? なんで?」
「拙者があの地であの時これを手に入れてきた。さて、君はどんなことを連想するでしょう」
「そりゃあ……」
 と、そこまで口にして、ニトロは唇を結んだ。ハラキリは、頷く。
「エェルノワーラは熟成を経ても“血のように紅い”と言われる」
 もしそれが注がれた時、グラスに満ちる液体に、自分は彼の腕から滴っていたものを思い出さずにいられるだろうか。しかも……
「ケチか」
「ええ」
「ケチって言うのは、なんかあれだけどな」
「まあ、分かりますよ。あの犬にはかわいそうなことになりました」
 ハラキリはビールを飲む。その小瓶を握る手によって、あのガルム犬は死んだ。例えそれが何らかの不運の連続によるものだったとしても、それは事実なのである。
「ですが折角手に入れた物です。本来君のご両親がパーティーを開くものだと思っていたものですから、その手土産にもちょうどいいと思っていたものでもあります」
 ニトロは苦笑する。ハラキリは肩をすくめ、
「それにしても、お姫さんの度肝を抜くとはご両親もやりますよねえ」
 思わずニトロは笑った。ハラキリはニトロの笑いが治まるのを待ち、
「だから、気が向いた時にでもご両親と飲んでください。何でもない日の何でもない夕食の時にでも」
「そんな風に飲むには高すぎるよ?」
「だからいいんじゃないですか?」
「……そうかな。……そうなのかもな」
「ボトルは厳重に保管されていますから、飲みたい時に合わせて郵送してくれるよう連絡してください。その際にその割符が必要になります。もし紛失した場合は面倒な手続きと結構な手数料を取られるのでご注意を」
「……」
 じっと割符を見ていたニトロは、やおらハラキリとの間のちょうど中頃にそれを置いた。そして彼は親友の左腕を一瞥する。
「傷は?」
「骨まで達していました」
「痛くなさそうにしてるけど、痛いだろ」
「酒が入って少しジリジリしている程度です。大したことはありません」
 ニトロは苦笑し、
活性治療ヴァイタライジングはしないのか?」
「感染症等の恐れがありましたからね。オールグリーンということで、明日から治療開始ですよ」
「そりゃ良かった……けど、時間が空いたから跡が残りそうだな」
「勲章ってことでいいんじゃないですか?」
「二つ目の?」
「二つ目?」
「これでハラキリが止めた『ナイトメア』は二つだろ?」
 ああ、とハラキリはうなずいて、そして笑った。
「そういえばそうですね。思えば、生まれのことも考えれば、どうも拙者は『悪夢』によほど縁があるようです」
「そうか、おばさんはおじさんとクロノウォレスの」
「ええ、あれも『呪物ナイトメア』絡みでした」
「いや……縁は異なものっつぅけど」
「まあ奇縁ですね、間違いなく」
「縁と言えばライリントン議員の妻はライリントン・オード・ウィリーズのCEOだっけ」
 ハラキリはビールを飲んだ。そのビールもライリントン・オード・ウィリーズ――アデムメデスの三大酒造・販売会社の一つのものである。ハラキリは言った。
「そのCEOの父は全経営権を娘に譲った後、妻の実家でエェルノワーラを『女神』にすることに情熱を燃やしていますね」
「そしてCEOの両親は、孫のレイン・ライリントンを溺愛している」
「良く知っていますねえ」
「『誕生日会』の時に予習したし、ハラキリが彼女と話していたからよく覚えている」
「その時にちょっと約束しましてねー。エェルノワーラの当たり年なんてとっくに買い占められていますので、そういうコネでも使わないと手に入りませんから」
「もしかして、いい仲なのか?」
 ニトロは、あの事件の映像を見た時から不思議に思っていたのだ。ああいう時、『師匠』はあんな風に“勇敢な行動”には出ない。むしろそれを避けろと教えてきた。なのに率先して、身を挺してまで助けるとなれば――
そう思いたいので?」
 しかし、ハラキリはニトロの急所を差してきた。ニトロは顔を背けるように視線を動かす。一等星すら王都の光に霞んでいる。星を見る友の横顔から正面のビル群の裏手に覗く空のハイウェイに無数に煌めく飛行車のライトに目を移し、ハラキリは口元を引き上げる。
「だから言ったでしょう? ケチがついたと」
「……」
「ええ、そうです。ワインのためにああしたのですよ。なにせ、もしライリントン嬢が食い殺されてみなさい? その晩に、やあ、この度はとんだことになってしまいましたね。ところでエェルノワーラを譲っていただけるというお話のことなのですが――なんて孫娘を見殺しにした男に言われたらどうします」
「酒樽に千年漬け込まれてもおかしくないな」
「となれば庇う一手です。その危険を君が心配こそすれ喜ばないことは承知だとしてもね」
「連れて逃げればよかったじゃないか」
 と、今度はニトロが急所にツッコんだ。そう、ハラキリ・ジジならそれを成すことは可能だったろう。わざわざ身を挺して狂犬を止める必要まではなかった。
 ハラキリはニトロを見た。
 一等星を見ていたニトロは、ハラキリの瞳を真っ直ぐ見返した。
「……」
 ハラキリはビールを一口、そうして吐いた息には諦めのようなものがある。
「これは、名誉心とでもいうのですかね」
「――うん?」
 意外な言葉が出てきた。ニトロが見つめていると、ハラキリは小さく笑う。
「あれで拙者が逃げたとして、アレが暴れ狂って死傷者が増えたとしたら? さて、拙者は君の『師匠』足り得たでしょうか」
 ニトロがきょとんとしているのをハラキリはおかしそうに笑い、それを最後には自嘲にも似た形に変える。
「我ながら不思議なものだと思いましたがね。君の言う通りです。ライリントン嬢を連れて逃げるために拙者は足を踏み出していたのですが、気がつけば狂犬を止める方向で動いていた。今思えば、あの場で逃げていれば、今頃拙者は君の友でいることを恥じていたかもしれないと思います」
「俺はそれでお前のことを恥ずかしいだなんて思わないよ」
「でしょうね。だからこそというところです。おそらく、それは拙者の意地だったのでしょう。あるいは――師も弟子に育てられるものですから、思わぬほどに君の影響を受けていたせいなのかもしれません」
 自嘲とからかいの混じる物言いにニトロは苦笑する。
「そこで俺のせいにするのかよ」
「どうです、見事なケチでしょう」
 ニトロは笑った。ハラキリも笑った。そして、ニトロは言った。
「だけど、分かる気がするよ」
「はい?」
「俺も、パティに対して勝手にそう思ってる」
 ハラキリの口の端に残っていた笑みが消える。彼はふむと鼻を鳴らすと、
「『パティに格好悪いところは見せられない』でしたっけ?」
 ニトロはまた苦笑する。
「そこまでよく覚えてるよなぁ」
 少しの間を置いて、ハラキリは言った。
「そろそろ確認してもいいのですかね? どうしてそこまで肩入れしているのか」
「こんな機会はまたとないからね」
 ニトロの口調は半ば浮かれていた。彼自身、それを自覚していた。先のハラキリの告白がとても嬉しかったのだ。尊敬する相手にそう思われるというのは、思っていたよりもずっと嬉しかったのだ。
「ハラキリ。俺は、パティには真剣に向き合っておこうと思っているだけなんだよ。格好いい言い方をするなら背中を見せているっていうのかな」
 また少しの間が開いた。ニトロはビールを飲んだ。心地良い酔いが星を回し始めている。ハラキリはビールを飲み干した。
「それは、いずれ去る者のセリフに思えますね」
「そうだよ」
「……」
「俺は、いずれパティの前から去る。死別じゃない。いや、死別の可能性もあるっちゃあるんだろうけれど、それは明日隕石が頭に直撃するかどうか分からないってのと一緒でさ」
「分かりますよ」
「だけど、去るんだ」
 その意味は訊かずともハラキリは理解している。しかし、理解しているからこそ、彼の面持ちは真剣みを帯びる。
「パティは、凄い子だよ」
 ニトロは双子月を交互に見上げて言う。
「ティディアは間違いなくこの星の歴史に大きな名を残すよ。けれど、銀河史に大きな名を残すとしたら、それはパティだ」
「お二人とも、かもしれませんよ」
「その可能性も高いとは思う」
「ですが、それと君の態度に何が?」
「だけどパティは不安定過ぎる。ハラキリはそうは思わない?」
「思いますよ。才覚に対してそれを受け止める器が、今はあまりに小さい」
「特に他人との関係がね」
「今時、一人でだって大を成せる時代です」
「『王子』であっても?」
 ハラキリは、やおら首を振る。
「それに一人で大を成すったって、結局一人じゃ無理なんだ。大を成すってことは、大を成される相手が必要なんだから」
「ふむ?」
「マッドサイエンティストの見る夢は、華が咲いたとしても一時の徒花さ」
「詩人ですね」
「酒のせいかな」
「はっは」
 ジャケットの懐からハラキリはスキットルを取り出して、その蓋を回し開けると口をつける。
「それで、特に人間関係が不安な王子様唯一のお友達は何をお考えで?」
「そう、どうやら俺は唯一心を開いてもらえている男友達で、どうやら兄のようにも思われている」
「はい」
「だけど、去るんだよ」
「……」
「彼の大好きな姉を振り払って、俺は姿を消すんだ」
「……」
「パティはどう思うかな。怒るだろうか、悲しむだろうか、恨むだろうか……恨まれるのは悲しいけどね、だけど、それも仕方がない」
「……」
「だけどさ、それで、恨みの一つだけで折角開きかけた自分の可能性を閉じては欲しくないんだ。ティディアもミリュウも弟が外に興味を開いたことを喜んでいる。パティ自身、外を楽しんでいる。まだまだ怖がっているけれど他の人とも接せられるようになってきている。いや、何が何でも他人と交流しなくちゃいけないなんて思わないし、誰とでも友好的な関係を作れるようになってほしいわけじゃないんだ。ただ全てをシャットダウンするんじゃなくて、パティなりにちょうどいい大きさに門を開けるようになってほしいんだよ。そこからはきっと楽しくて輝かしい未来が見える。つながっている。彼の力を存分に発揮できる世界に。それを開きかけたところで潰してしまうのは、あまりに残酷だろう?」
「ですが君は潰してしまうのでしょう?」
「……」
 しばらく沈黙したニトロは、やがて、うなずいた。
「ああ」
「それで、真剣に向き合って、そんな背中を見せておけば彼も解ってくれると? 君の気持を汲んで、新たな可能性を閉じずに成長してくれると?」
「虫がいい話だよな?」
 ハラキリはそう言って笑うニトロの顔に、自嘲を超えたものを見つけた。だからこそ彼は親友の決意の強さを知る。ニトロはビールを飲み干し、
「うん。虫がいい話だってのは解ってるんだ。それでもさ、俺はパティに嘘を残していきたくない。同じ消えるにしてもなだめすかして誤魔化して、ティディアの弟に対して別れを告げるんじゃなく、正々堂々、真剣に、パトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナ個人に対して別れを告げたいんだよ。いつか道が交わればまた会おう。さらばと言わずに手だけを振ろう……虫がいいよ? だけど、パティは解ってくれるんじゃないかって、勝手に期待している。もしパティが俺のことを良く思ってくれているのなら、少しの間は例えまた前のように閉じこもったとしても、いつかは彼を迷わせず真っすぐ進ませる灯りの一つになれるんじゃないかって」
 目を落とし、しばらく沈黙し、また顔を上げて地上の輝きに霞む一等星に向けて言うように、
「俺にはそういう人達がいてくれたからさ。ハラキリ、なあ、師匠」
 親友は応えない。ただ聞いている。ニトロは、躊躇うように続けた。
「それにさ、あいつも……ティディアも、やっぱりそうなんだよ。ハラキリ。だから俺はあいつとも真剣に向き合わなくちゃならない」
「……驚きの告白ではありますがね」
 だが、それは世界の法則が転覆するような驚きではない。反面教師とて一つの指針だ。良くも悪くもそうであったとは以前より己はそう思っていた。ただ、それを彼がはっきり口にしたことがハラキリには驚きであった。しばし考え、彼は問うた。
「それで、君は彼女と何を真剣に向き合おうと?」
「愛と」
「愛」
「どうやら、あいつは本気で俺を愛しているらしいんだ」
「ええ」
「だから俺は真剣に、あいつを拒むことにしたんだ」
「……お姫さんが聞いたら卒倒するんじゃないんですかね?」
「それでも……」
 ニトロは真っ直ぐくうを見つめた。
「あいつが俺を本気で愛してるってんなら、そうするのが俺の真剣な応えだし、礼儀だ」
 ハラキリは月を見上げた。地上から見ればとても仲が良さそうな赤と青の双子月。だが、その実際の距離はひどく離れている。
「別に、これまでと変わらず鬼ごっこでもしていてもいいんじゃないんですか? そのうち飽きるかもしれませんし」
「それまでずっと、俺のことを好きだ愛してるって言う女性が絡んでくるのを鬱陶しがりながら? そりゃ実際、いい御身分じゃないか。その気もないのにその気をたせて、金も地位もある美女に言い寄られ特別扱いさせておきながら拒絶して、そうやって追いかけさせていながらあいつが勝手にって自分を正当化する。そいつはひどい偽善だよ」
「では君は、善とは何かを知っているのですか?」
「え?」
「君はそこにある善を明示できなければ、それを偽物だと証明することはできません。証明できないのにそれを偽善と非難することこそ偽善でなくて何でしょう」
「……」
 ニトロは目を丸くした。完全に面食らってハラキリを凝視する。彼の口調は強かった。怒っているのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。相も変わらず飄々とした様子がそこにあり、しかし、天も焦がす王都の光と月明かりとに照らされる顔は不思議と優しい。
「……君は真面目で、クソ真面目ですねぇ」
 真剣な眼差しに、口元にはかすかな笑み。
 初めて見る親友のかおにニトロは言葉を紡げない。
「ところでその指輪は」
 ふいに話頭を転じられてニトロはまた面食らった。戸惑いながら両手の中指を見せるように動かして、
「あ、おお、えっとパティからもらったって言わなかったっけ」
 先刻の祝宴で、初めから目敏く見つけていたらしいクオリアの問いに答えたのはしっかり覚えている。それをハラキリも聞いていたはずだ。
「ずっと気になっていたんですけどね? 素材が気になるんですよ。見たところ、見たことのない金属だ」
「なんだろう……それはきいてないけど。芍薬?」
 ずっと傍に控えて黙していた芍薬が、困ったようにポニーテールを揺らす。
「解析不能――トイウヨリ、一致スルモノガデータベースニナインダ」
 ハラキリが問う。
「近似は?」
「一応、霊銀ミスリルダヨ」
「それでは人工霊銀Aミスリルもとにしたパトネト殿下の発明品でしょうね。なるほど、神技の民ドワーフ謹製のセンサーでも一応の近似を出すのでやっとですか」
 感嘆を眉間に表しハラキリは神秘的な輝きを持つ指輪を見つめ、やおら笑った。
「君の予言は成就するかもしれませんね」
 仮定形ではなく、確信なんだけどなと思いつつ、ニトロは言う。
「ずっと気になってたと言えば、俺も気になってたんだ」
「なんでしょう」
「なんで『解説者』なんて引きうけたんだ? 目立つのはきらいだっていつも言ってたくせに」
「ああ」
 ハラキリは苦笑し、
「単純な話です。拙者は、また目立たぬ暮らしに戻ろうというなら一度死ぬしかないくらいに目立ってしまいましたから」
「あ、やっとあきらめたんだ」
「そういうことです。――ああ、でも、そうか、その手があった。お姫さんに頼めば」
「ハラキリ?」
「いやいや、冗談ですよ。ああ、そうだ。神技の民ドワーフで思い出した」
「なにを? あ、そうだ、そういやそっちの仕事はどうだった?」
 狂犬事件に気を取られていたが、その直前にはハラキリは通常政府要人でも連絡を取ることが難しい神技の民ドワーフと商談のできるコネクションを作りに星外に出ていたのだ。
「成果はあったのか?」
「それは幸いに。ただ、そこで気になる話を聞きましてね」
「どんな?」
「あの『天使』を作った者が、何やらまた作り出しているらしいんですよ」
「え?」
「どうも何かのアニメを見て新たな嗜好に目覚めたのか、それとも『天使』の改良法について単に閃いたのか」
「いやでもあれはもうこりたとかそういう話じゃなかったっけ!?」
 ニトロは動揺を隠さない。それでこの世で一番迷惑を被ったのは――同時に恩恵を得たのは――間違いなく彼だ。ハラキリはふうと吐息をつき、
「危険物を放置して呪物ナイトメアなんてものを生じさせる連中ですよ? 全員が全員そうでないにしても、大抵全員変人です。気が変わるなんてことは風に吹かれる風見鶏のごとしです」
「うああ。いやでも、でもさ、それがまた?」
「うちは取引するつもりはないので、アデムメデスに入ってくるルートは今のところないはずですよ。新たにルートができていたとしたら分かりませんが、拙者の仲介者はそちらについて情報があったら知らせてくれると約束してくれましたし……ただ、ニトロ君は結果的にあの『天使』の制作者に気に入られていますので、もしや直接接触してくるなんてこともあるんじゃないかと思いまして」
「やめてくれ! そんなのノーサンキューだよ、そくお引き取り願うよ!?」
「そうしてください。だからお話しておいたのです。悪質な訪問販売は正体を知らなければかわしにくいものですからね」
「それはありがたいけど……でも、わかったよ。それじゃあそういうのを見かけたらすぐに消費者保護センターのハラキリ・ジジさんに連らくすることにしとくよ」
 そのセリフ回しにハッハと笑って、ハラキリは頼もしく頷く。そこで会話が途切れ、その間を埋めるように彼はスキットルに口をつけた。ニトロはもうアルコールを摂りたいとも思わなかったが、好奇心は疼いた。
「ところでそれは?」
「ウィスキーです。お姫さんが『解説者』のギャラにくれたものでして――飲みます?」
「興味はあるけどね、やめとく」
「見た感じ結構酔いが回っているようですが、まだ理性的ですね」
「ずいぶん恥ずかしいことをぺらぺらしゃべった気はするよ?」
「違いない」
 ニトロは笑った。火照る体に夜風が気持ちいい。
「だけどさ、ハラキリ」
「はい」
「きかないんだな。どうするつもりなのか」
「聞いたところで、君はもう決めたのでしょう?」
「うん、決めた」
「それなら、聞く必要はありません」
 メディア関係の飛行車だろう、赤月に重なって飛んでいた一台が警備車両に追いかけられて逃げていく。王都の光にその目の曇りを晴らされているのだろう、一羽の鳩が彫像の立つ前庭に降りていく。
「……なあ」
「はい」
「ハラキリはさ、やっぱいおれの、一番の友達だよ。いつまでも大親友だよ」
「なるほど、確かに君は酔っているらしい」
「ハラキリもそうおもわないか?」
 ハラキリはスキットルからウィスキーを口に流した。寝ぼけたように『マニア』の声が聞こえてくる。ニトロ・ポルカトには不安がある。決意をしても不安は消えぬものであるのだろう。ハラキリは静かに息を吐き、
「思う、と言ったなら、きっと君は拙者に幻滅するでしょう」
 その皮肉気な口調に、ニトロはむしろ満足気にうなずいた。その途端、彼の身が大きく前に傾いだ。
「おっと」
 前のめりに倒れそうになったところを膝に手をついて堪えたニトロは、瞼の緩んだ眼を動かすと、まだ置きっ放しだった“割符”を思い出し、
「これ」
 紋様の半分が描かれる木っ端を手に取り、ニトロはハラキリを見やった。
「ハラキリがいのち……」
 と、そこでニトロは目を上向けて、一度口を閉じる。そして、
「ありがとう。父さんも母さんも喜ぶよ」
 ハラキリは軽い会釈を返す。
 互いの間にある空気はよどみなく夜風に吹かれて流れていく。
 するとニトロはニッと笑み、それから顔を上向けると、はぁと大きく息を吐いた。
「さっきまではそうでもなかったのに、なんか急に来たなぁ」
「一口に酒が回るといっても条件次第でラグがありますからね」
「あー、なんか聞いたことある。あー……酔っぱらうってこんなんなんだなあ……『酔い止め』、今持ってる?」
「別にそのまま寝てもいいんじゃないですか?」
「いや」
「お姫さんならもうここにはいませんよ」
「え!?」
 ニトロは目を剥いた。想定以上のリアクションにハラキリもちょっと驚く。
「なんでもラミラスの特使と緊急に密談する必要ができたということで、先ほど宮殿を抜け出ていきました」
「……」
 ぽかんと口を半開きにするニトロの目は酩酊の雲がかかっているにしても――いや、だからこそ、その感情をハラキリに伝えてきた。拍子抜けしている。彼は、去年の彼であるならば手放しで喜んでいたろうに。それから彼の表に浮かび上がってきたのは苛立ちだった。
「逃げたなあんにゃろう」
 そういえば後で説教だとか言っていたなぁと思いながら、ハラキリはウィスキーを飲む。バニラのような樽香が果実の甘みをまとって濃く流れる。彼が様子を窺う中にニトロは言った。
「芍薬、ボイすメッセージ」
「御意」
 微妙に呂律の歪んだマスターの命に従って、芍薬は面前に回ってくると人差し指を立て、スイッチを押すように寝かせた。息を吸ってニトロが言う。
「職権乱用も王権乱用も『ティディア姫だし』って許されてるところがあるけどな、ダメだからな、何度も言ってるけど、ダメなもんは、ダメなんだ。特に今日は職権乱用だ、地域エリアアラームをあんな風に使っちゃ絶ッ対にダメだ。緊急時に人の命を守るためのシステムだろう? それを俺を祝うために皆でタイミング合わせられるようにって? ド阿呆。忙しいAPWの皆さんも借り出して、交通もマヒさせて、多勢に大騒ぎさせていくらなんでも方々に迷惑かけ過ぎだ。ああ、でも、そうだよ。嬉しかったよ。マックス・オーサムに会えたのは、夢中で応援したことのある人に、会えて嬉しくないわけがないだろう? 皆も楽しんでた。驚いたよ、まさかあんな和やかに楽しんでもらえるなんて思ってもいなかった。それなのにお前、黙って消えやがって」
 ニトロは大きく息を吸い、大きく息を吐く。そして彼は芍薬を――その先の人を見つめた。
「ありがとう」
 そして口をつぐんだニトロに合わせて芍薬はスイッチを離すように人差し指を立てた。
「リボンヲ付ケテ送ッテオクヨ」
 目を細める芍薬に、ニトロは喉を詰まらせるように笑う。一時いっとき消えていた酔いがその頬に戻っている。それを、そして二人のやり取りを、ハラキリは鍾乳洞にある自然の造形物を見る気持ちで眺めていた。驚きと、不可解と……
「何ヲ笑ッテルンダイ?」
 腰に手を当ててこちらを見やる芍薬は、何か文句でもあるのかという目つきをしている。
「いやいや」
 ハラキリは笑みを深めて芍薬からニトロに目を移し、いよいよとろんとしてきた友の顔にまた笑いながら、
「愉快なだけですよ」
「ああ、そうだね、愉かいだ」
「そういえば君があんなにもプロレスに熱いとは思っていませんでしたよ」
「俺もおどろいた」
「おや、そうなので?」
「うん。むねが痛いよ」
「ええ」
「背中もいたい」
「ええ」
「それがいま、うれしいよ」
「それなのに、最近は観ていないようですが」
「うん、たぶん、満ぞくしたんだ」
「満足ですか」
「マックス・オーサムのね、ふぐーの実力者のき跡の戴冠に、友達といっしょに大こう奮してさ。すごかったなぁ。それで俺は、まんぞくしたんだ。そのあとマックス・オーサムがいちどもぼーえー戦をしないで引退することになったのは、さびしかったけど」
「そうですか」
「あいつはみたかなぁ、おれがマックス・オーサムといたのを」
「きっと見たことでしょう」
 ニトロはゆらゆらしている。ハラキリはウィスキーを飲む。
「そういやその頃、そんなふうにリング上で酒をのむレスラーがいたな」
「その人は?」
「たしかインディーにうつったはずだけど……どうだったかな、あいつはそれもすきだったな」
「思い出なのですね」
「たのしかったんだ」
「そうですか」
「たのしかったよ」
 ハラキリはニトロを見た。彼はこちらを見て、微笑んでいる。
「それ」
「はい?――ああ、これですか」
 スキットルを持ち上げるとニトロはうなずく。その目は座り始めている。どうやら最後に気を張らせていたものが突如外れたことで酔いが加速しているらしい。
「一口」
 請われてハラキリはすぐに差し出した。芍薬が咎めるような眼差しを送ってくるが、実際に止めることはしない。スキットルを受け取ったニトロは勢いよくあおり、
「ぐほッ!!」
 思い切り、むせた。
「そりゃそんな勢いでいっちゃそうなりますって」
 苦笑するハラキリの傍らでニトロは激しく咳き込む。芍薬が心配そうに近寄ってくるが、ニトロはどうにか体勢を立て直し、
「これぁ、きついや」
 むせた瞬間、変なところに入ったのだろう、涙と鼻水がこぼれている。それを懐からハンカチを取り出した芍薬に優しく拭われながらニトロが差し返してきたスキットルを受け取り、ハラキリは(これがワンショットでいくらするかを知ったらどんな顔をするでしょうねえ)などと思いながら、
「もう少し慣れてからの方がよいでしょう」
「そうだ、ッな!」
 ふいに戻ってきた火酒の刺激に息を止め、それが鎮まったところでニトロは顔を上げる。
「あー、のどが痛い」
 言葉とは裏腹に気持ち良さそうな彼の瞼は少しずつ重くなっていく。再びゆらゆらと揺れながら、彼は言う。
「みんなはもう家についたかな」
「フルニエ君はバイトだと言っていましたよ」
「マジでッ? ほんと、よくはたらくなあ……」
「店先まで送らせてバイト仲間を驚かせるんだそうです。それまでに『酔い止め』が効いていなければそのまま帰されてしまうでしょうけどね」
 ニトロは笑った。そのフルニエだけでなく、級友の皆はティディアの手配した車で送られていった。今夜着た服と、王城のパティシエの作った菓子の土産を持たされて、王女の名代として見送りに出たヴィタと自分へ一様いちように、しかしそれぞれの性格の出る笑顔を残して。それを思い出しながら彼は言う。
「キャシー、綺麗だったな」
「ええ」
「クオリアは堂にいってた」
「ええ」
「ミーシャは、かあいかったよ」
「面と向かって言っておやんなさい。きっと脛を蹴ってくる」
「あっはっはっは。でも、クレイグがあんなにやり玉にされるとは思わなかったなー」
 女同士の話の格好のネタになっていた彼は苦笑混じりに、しかしそれをも楽しむ余裕を見せていた。それとも余裕を装っていたのか?
「ベタぼれのミーシャがつくすんだろうって思っていたけど、あんがい、尻にしかれるかもしれないな」
「彼もなかなかお人好しですからね。恋人に強く出るタイプでもなさそうですし、そうかもしれません」
「ミーシャはしあやせそうだよ」
「ええ」
「フルニエはやっぱり、たぶんキャシーより、一番よろんこでたな」
「そうですね」
「でもやっぱり、いつもとチがった」
大分だいぶん大人しかったですね。いつものように捻くれようとしてはいましたし、格好つけようともしていましたが」
「ダレイがなんだかんだ一番かっこーよかたよ。似合ぁてた、服もいちばん。ずっとクオリアをきづかってたあな。ふるまいも紳しだった。いいなあって、ちょっと思った」
「そうでしたか」
「ハラキリ」
「はい」
「にげきれなかったのぁ、ホンっトくやしんだ」
「はい」
「きょうは、いいたんじょうびだったよ……いいたんじょうびだと……思ってしあったよ」
 もうほとんど目を閉じているニトロに、それはきっと酔いがなければ吐露されなかったであろう彼の偽りない葛藤に、ハラキリは、静かに微笑する。
「それは何より」
 その声は果たして届いていただろうか? もごもごと何かを言いながら傾いていくニトロの肩を、芍薬がそっと支える。ハラキリはウィスキーで口を湿らせ、ふむとうなずいた。
「酔うと寝るタイプのようですね。それから少し喋り上戸か」
「気ヲツケルヨ」
「そうしてあげなさい」
 芍薬はニトロを抱え上げると、
「ハラキリ殿ハ?」
「もう少しここにいます」
「ソウカイ」
「『逃がし屋』に全部任せていれば、今日くらいは逃げ切れたかもしれませんよ?」
 芍薬は応えない。ハラキリは笑む。
「撫子がね」
「――何ダイ?」
「本人はいつも通りにしているようでしたがね、活き活きしていましたよ」
 芍薬は、微笑だけを返した。それから踵を返そうとするところへ、ハラキリが言った。
「それで、しばらくホテル暮らしをするのはいいとして、ずっとというわけにもいかないでしょう。引っ越すのですか?」
 ぴたと、芍薬が足を止める。
「イイヤ。ソレジャアマタスグ引ッ越サナイトイケナクナルカラネ。拠点ヲ増ヤスツモリサ」
「うちの契約物件を一つ格安で提供しましょうか」
「算段ガ潰レタラ頼ムヨ」
 算段ね、というようにハラキリは頷き、
「それなら、その算段にここで組み込んでおきなさい。別に遠慮することもでもないんです」
 芍薬は少し考え、やがて頷いた。それを了解するようにハラキリも小さく頷く。芍薬は踵を返し、
「ソレジャア腕ヲ大事ニネ。オヤスミ」
「ええ、お休みなさい」
「ししょー」
 と、ふいにニトロが声を上げた。芍薬が吃驚して目を丸くする。ハラキリも驚いたが、それが酔っ払いのうわ言だったと気づいて苦笑する。
「何です?」
 返答があるかどうかはともかく、聞き返す。するとむにゃむにゃと言葉にならぬ言葉を発した後、ニトロはため息をついた。そして、
「愛って、いったいなんだ?」
 その言葉にこそハラキリは目を丸くした。
「今、それですか?」
 しかしニトロにはもう会話をする力がない。すぅすぅと寝息が聞こえた。芍薬にお姫様抱っこされる彼の腕がだらりと垂れている。ハラキリは、思わず声を上げて笑った。
「チョット、起キチャウジャナイカ」
 そうハラキリを咎めながら芍薬も笑みをこらえることができない。
 それからしばらく、ハラキリも芍薬も黙した。
 ――ニトロは、心地良さそうに寝息を立てている。
 芍薬は何も言わずに足を踏み出し、そのまま静かにメディシアノス宮の屋上から姿を消した。
「……」
 夜風に吹かれ、ハラキリはウィスキーを飲む。
 ティディアの誕生日会では妹姫から古い酒をもらった。
 今日、親友の誕生日会では姉姫から幻の酒をもらった。
 あの日は『弟子』の成長に一献を傾けたものだ。
 だが今夜は、友の生き方に一献を傾ける。
「君がパトネト殿下の前から去るのなら」
 ハラキリは赤と青の双子月を見上げる。
「その時、君は拙者の前からも去るのでしょう」
 それを寂しいと思わぬと言えば嘘になるだろう。しかし、寂しくないと言っても嘘にはならない。その未来を想像した時、ハラキリは自分でも驚くほど強固な確信を抱いた。
 例え道が分かれても、それが二人を分かつことはない。そもそも二人は初めから分かれている。ただ一個の個人がそれぞれはっきり違う道を行くと理解し離れるだけだ。それは寂しくも、寂しくはない。それは未練を残して寂しさばかりが募る関係では決してないのだ。手を振って別れるその相手との間にはいつまでも残る紐帯ちゅうたいがある。そしてハラキリは今、その紐帯となるものが何かを悟っていた。
 陳腐な言葉だ。
 人はそれを友情という。
(しかし、それは君とパトネト殿下の間にも成立するのですかね)
 虫がいい話だ――ニトロが自覚している通り、それは希望的観測に過ぎぬと思う。されど一方、また違う形でそれに代わるものが二人の間には育まれているようにも思う。
「……」
 だが、その結末を想像するのは難しい。いかに神童とて子どもだ。しかも驚くほど強い一方で驚くほど繊細な精神の持ち主だ。
(まあ、そちらも見届けましょうか)
 ハラキリはそう決めると、ふと思い出した友の言葉を口に載せた。
「いつか道が交わればまた会おう。さらばと言わずに手だけを振ろう」
 そうしてハラキリは、ふっと吹き出した。
「格好よくなっちゃってまあ」
 くつくつと喉を鳴らして王都の明かりを眺めれば、そこに幾万と繰り返される出会いと別れを思う。そこに幾億と溢れる喜びと悲しみを思う。
 脳裏に浮かぶのは、大成功に終わったささやかな祝宴。提案した自分もあれほど親しみが各々を結ぶ会になるとは思わなかった。
 思えば、おそらく祝宴だけを催していたとしたらきっとあの雰囲気は生まれなかった。
 そこには間違いなく、宴の前のあの奇天烈な大騒ぎの影響があった。
 サプライズ!
 追い回される『英雄』!
 その彼と戦う謎の覆面レスラー!
 そして最後に、茶番を追い越していく祝辞の洪水。
 夜空を焦がす花火を見る人々の興奮は今もこの身に沁みている。それを見上げる人々はこの先、この星を照らす明るい未来を確信してやまなかったことだろう。そして光を浴びて空を舞う恋人達の幸福を分けてもらって、温かな気持ちに包まれたことだろう。メルミ・シンサーが言っていたように。
 その余韻が、あの祝宴をどうしようもなくぬくもらせていたのだ。
 そしてその温もりの中、時折は口喧嘩にも近いやり取りをしながらも宴を取り仕切る女主人ホステスの欲しいタイミングで何かを言ったりおこなったりする気の利く主役を眺めれば……二人が恋人どころか、もはや『夫婦』であると思わぬ者はなかった。ニトロとティディアを見るミーシャの眼差しは憧れだった。ダレイには敬意があった。やっかみ屋のフルニエでさえ納得せざるをえずに羨望を覗かせていた。あの二人は、その実態は愛と敵対であっても、外から見れば信頼で繋がれている。目で見たものしか信じぬ者がいたとしよう。であれば実際にその目で見ればこそ、その者が誤信ごしんすることを避けられぬほどに二人は強い絆で結ばれている。
 宴の終わりに客人達に丁寧な謝辞と別れを告げた後、ティディアは言った。
「それじゃあニトロ、おやすみなさい」
 ニトロは、それが何でもない日の何でもない事のように応えた。
「ああ、おやすみ」
 微笑む王女に見惚れる者は、離れたままに口づけるようなその姿を柔らかく受け止める彼を、理想的だと感じただろう。
 その直後、ラミラスこくの特使と緊急に密談する必要に迫られた王女は、それを口惜しがってはいなかった。これまでの彼女なら怒っていても不思議なく、クレイジー・プリンセスならばそれすらぶっち切っても不思議なかったのに、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナは笑みを絶やさずに宮殿を去ることを決めた。
――「満足したのよ」
 ニトロに自分のいなくなることを告げるよう頼んできた彼女は、穏やかだった。
――「もう十分。今日はもうこれ以上は必要ない。……戦略的にもね?」
 と、ほくそ笑んで見せる彼女は陽気であった。
――「あなただって、ここで打ち止めにしておくのが最善だって言うでしょう? シゼモの二の舞になんかなっちゃ目も当てられないもの」
 そう言われては苦笑せざるを得ない。浮かれる主人を見るヴィタの眼差しが奇妙に目に焼き付いていた。それは主人の浮かれ気分を自分も楽しみながら、あれは、どこか心配でもしていたように思う。
――「幸せな夜だった。ありがとう、ハラキリ君」
 そして彼女は“協力者”に晴れやかな笑顔と、とても珍しいことに、握手を残して去っていった。
 彼女に握られた右手を開き、握り、ハラキリは目を細める。
「……これ以上がありましたね、ティディアさん」
 あのボイスメッセージを聞く彼女を想像して、ハラキリはウィスキーを飲んだ。火酒に燃える喉をそらして、彼は再び赤と青の双子月を見上げる。
 友情と言うならば、友達の不幸を望む気持ちは自分にはない。
 といって覚悟を決めた友の行く手を阻む気も毛頭ない。
 ハラキリはウィスキーで唇を湿らせる。造り手の死と共に二度と生産されなくなった味は複雑な幾何学模様にも例えられ、そう、美しいほどに味わい深いのに、残り香はどこか切ない。
 霞む一等星、近くて遠い赤と青の双子月、人生の悲哀と苦しみと歓喜が織りなす王都の輝きにハラキリは吐息を混ぜる。彫像の肩で羽を休めていた鳩が飛び去っていく。少しばかり左腕の傷が痛んだ。
「…………」
 ややあって、宮殿内の礼拝堂から日付の変わる鐘の音が人々の眠りを妨げぬよう忍び足で駆け寄ってきた。
 ハラキリ・ジジは立ち上がり、数多の“婚約者”の涙を隠してきたメディシアノス宮の石座を後にした。

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