5−g へ

「さーあ、とうとう本日のメイン・イベントがやって参りました」
 大きなトラックの広い荷台にポツンと折りテーブルが一つ、粗末な丸椅子に座るのは二人。片方はこちらに背を向けていて――いや、その後ろ姿は……――もう片方のスタンドマイクを握りしめるフリフリドレスに身を包んだ女性は大きく息を吸い、
「ニトロ・ポルカト様生誕の吉日、神の祝福か朝方の恵みの雨も止み、洗い清められた空は昼過ぎから鮮やかに快晴。先刻には夕日も美しくありましたが今は既に太陽も地平線の彼方に身を移し、暮れなずむ西を薄く染める神秘的な残照はこれから執り行われる祝事ほぎごとの成功を予言しているかのようです。ご挨拶を申し上げます。本日のメイン・イベントは実況系アイドル、メルシーことメルミ・シンサーがお届けいたします。ワタクシ突如このような大役を頂き心臓が今にも爆発しそうで仕方がありません。解説はハラキリ・ジジさんです」
「どうも、よろしくお願いします」
 ブーッと、ニトロは噴いた。
「こちらこそよろしくお願いいたします」
 くるりと前に向き直った解説者に会釈するメルシーに、解説者もにこやかに会釈を返す。それを見るニトロは堪らない。
「いやいや待て待て待て待て、おいハラキリぃ!」
「おっとニトロ選手、ロープから身を乗り出して叫んでおります。まさに鬼気迫る表情。しかし怒りと焦燥に驚きを一匙加えたそのお顔、ワタクシとても味わい深く感じます」
「それ実況つうか感想だよね? てか選手て!」
「目に見えるものを目に見えるままに伝える実況は理想ですが、それだけでは無味乾燥ともなることにある日気づいたワタクシメルシー。実況も試合の一部。熱があるなら熱を帯びて参りましょう、選手が燃えるなら共に燃えてこその実況でございます」
「だから選手て!?」
「リングに立てば皆ファイター。選手でなければ決闘罪に」
「おっとちょっとそこツッコむとややこしそうだぞメルシー。つうか黙ってるだけで仕事してるつもりか解説者!」
「何故あんなにもニトロ選手は怒っているのでしょう。ハラキリ・ジジさん?」
「さあ? 聞いてみましょう」
「解・説・者!」
「で?」
「お前何やってんのッ!?」
「解説者です」
「分かってる、分かってるさ、ああ分かっているがそういうこっちゃなくって解説しろぉ!」
「驚いたでしょう?」
「驚いたよ!」
「ニトロ君は拙者の性格上、このような席に座るとはにわかには信じられず、しかし事実であるためあのように驚きを隠せないわけですが、一方でこうして友人がこのような席に座っていることにおちょくられてる感がマックスであるため怒りを禁じられずにいるのです」
「なるほどー」
「なるほどー、じゃねえんだ! ていうかてめぇら完全に俺がここで試合すること前提で話を進めてるようだがな! やんないぞ! 試合なんて!」
 ええ!? とどよめいたのはリングを囲む観衆である。
「流れ的にそうだよねー? ってなるのは分かる。期待するのも分かる。だけど俺はやんないぞ!――そこ! 文句言うな! 絶対にやらないっつってんだ!!」
「おっとニトロ選手、これはいけません。観客の皆様に怒鳴り散らしております」
「いえ、あれが彼のキャラクターなのです。よいパフォーマンスですよ」
「パフォーマンス言うな! つうかそもそも試合になんぞならねえだろう!?」
「なぜでしょう、ニトロ選手、対戦相手に不満でもあるのでしょうか」
「大ありだ実況!」
「なぜでしょうか、ハラキリ・ジジさん」
「大方、相手が誰か知らないからでしょうね」
「知ってる! 分かってる! ティディア以外に誰がいる!」
 その瞬間、実況のメルシーがきょとんとした。ハラキリはいつも通りの顔である。その落差が、ニトロを戸惑わせた。
「……あれ? 違うの?」
 いくらか落ち着いて――もしそうだとしたらここまでの不満爆発が恥ずかしい――若干おろおろして問うと、解説者ことハラキリ・ジジが頷いた。
「違いますよ」
「ええ? 違うのぉ?」
 ニトロが戸惑い狼狽える中、突然、
「光が消えました!」
 人々が大きくざわめく。
「ロータリーに無数に立つ街灯、周囲のビル、駅舎、信号に至るまでが突如、その光を消してしまいました!」
 ざわめきの中に朗々とメルシーの声が響く。
「残照はもはや背の高いビルに囲まれたロータリー全域を照らし出すには弱弱しく、地上に端末モバイルの光が星とばかりに散らばる中、純白のマットだけが大きく浮き上がって見えます。ッわあ!?」
 ヒィン、と、
「何でしょう! この音は? 耳鳴りに似た音。皆様どうか落ち着いてください。ああ、しかし、ビィンと羽鳴りに似た音もします! ワタクシ思わず怖気が……ッ」
 どよめきの中、その中心にあるリングでニトロは警戒を怠らず――今なら逃走を再開できるか?――ロープを背にマットの中央へ向き直った。
 実況席を背にした正面には、着ぐるみをきた王女の宣伝する香水の看板を戴くビルがある。その看板も今は光を消し、無色の素地を群青に染めている。
「キャア!」
 と、どこかで声が上がった。恐怖、驚き、そのどちらも含んだ声。続けてそこかしこで同じ声が勃発する。
「また音が! フィン、と、耳鳴りに似た音が高まり遠ざかります! ブィンと羽鳴りに似た音が高まり遠ざかっていきます――また来た!」
 観客をそこかしこで驚かすそれは、反応する観客の声を追ってみれば、目に見えぬ渦を作るように回っているようだ。
 その回転速度は次第に早まり、回転周期を短くしながら、不愉快な二つの音はどんどん高まっていく。比例して観客のざわめきが泡立つ。沸騰していくように。
「皆様落ち着いて! 落ち着いてください! しかし何でしょう、耳が痛くなります。もはや耳を塞いでいる者もおります! 音が、音が!」
 音が飽和する! そして
「――消えた? 突然音が消え――ああ、霧が!?」
 その言葉通り、音が消えた瞬間、瞬きをする間に周囲は霧に包まれた。それはあまりに突然のことで、急に湧き出た霧を人々が霧と認識できたのは実況があったためかもしれない。そうでなければふいに視力が失われたと思い込んでパニックに陥る者もあっただろう。
 薄ぼんやりとした白さのために周囲は寸前より明るくなったように感じる。その中に蠢く観衆の影。ヒステリックさも滲むどよめきを割いて、静かに、何か弦を叩くような音が聞こえてきた。
「またです。また音が聞こえます。なんの音でしょうか。ヴォン、ヴォンと短く。しかし先ほどの不愉快な音とは違います、今度はどこか耳に馴染む音です」
 それが次第に、再び高まっていく。その音の長さも増していく。すると姿を表したのはヴァイオリンの独奏であった。どこか物悲しく、しかし慈しい。
「ああ、ああ、思い出します。この旋律は、そうです、ワタクシには聞き覚えがあります。突然、それは我々の前に現れました」
 ヴァイオリンの独奏に荘厳な女声のコーラスが加わり、物悲しさから美しさへ、慈しみから不気味へと曲調が変化する。どこかに閃光が走った。悲鳴が上がった。ニトロは目の端に、霧をく小さな稲妻を見た。
「仮面に隠されたその顔を見ることは誰にもできません。その正体を探ろうとする者はことごとく姿を消しました。それに抗おうとすれば信じられぬ剛力で誰もがねじ伏せられます。美しい肢体に獣の心を宿すがごとし。畏怖――恐怖を越えて、それを見る者は畏怖によって膝を折るのです。歯向かう者に破滅をもたらす天使。それはそう言って然るべきかもしれません――あッ!」
 空中に磔にされたかのように浮かぶ人影が二つ現れ、霧に走る稲光に照らされては明滅する。実況は悲鳴を上げた。
「なんてことだ! ジ・イリーガル! ヘヴィ・ベイビーが!」
 曲調が変わる。これまで荘厳であった女性のコーラスがぶつぶつと途切れ出し、それはさながら呪文を唱えているように聞こえた。ヴァイオリンは金切り声を上げるようにかき鳴らされ、遅れて参入してきた男声コーラスが厚みを加える。
「あああッ!」
 再びそう声を上げたのは、今度は実況だけではない。観衆もまた声を上げていた。
 周囲に広がっていた稲妻を帯びる霧が急に生命を得たかのように動き出したのである。初めは身震いするように、それから揺らぐように、やがて明確な意思を以って上昇していく。引退後には間違いなく殿堂入りするであろうレジェンドレスラー二人を生贄として、その上空の一点に向けて霧が流れ込んでいく。霧は密度を増し、凝縮し――それにつれて霧は光り出した。初めは蛍の輝きよりも淡くぼんやりと、それから温かく、さらに熱く、ついには直視できぬほどに光り輝き、人々は悲鳴を上げる。悲鳴を上げる人々が照らし出され、人々の悲鳴そのものまでもが照らし上げられる。やがて一寸の陰もなくこの世を白光が埋め尽くす、と、ふいに光が四散した。
 炸裂するかのように。
 蒸発するかのように。
 突如として強烈な光が消えると、周囲は深い奈落の底に落ちたように思えた。目の眩んでいた人々はその闇に視力を慰撫され束の間の安堵を得たのだが、すぐにまた己の目はもしや潰れてしまったのではないかと不安に駆られてしまう。
 だが、それを払拭するかのように、ちらちらと輝き出すものがあった。それまで凝縮する光があったその空間、今はこの世ならざるほど真っ暗なその一点に、幻影のように、何か形が別次元から現れるかのように滲み出てきたのである。
 それはまるで白いローブを纏った人形ひとがたであった。
 どこか修道女を思わせるローブにその全身は隠れ――もしこれがニトロ・ポルカトの対戦相手というのなら、問題の仮面に隠されているという顔はフードの影のさらに陰に潜められている。特筆すべきはそれが翼を備えていたことであろう。まるで大理石でできているかのような不思議な質感であるのに、非現実的なほどの艶めかしさで悠然と羽ばたく。ニトロのまなじりが、ピリついた。
「降りてくる! それが降りてくる! あの時と同じだ、我々の前に初めて姿を現した時と同じだ! ジ・イリーガルは消えてしまった、ヘヴィ・ベイビーも行方が分からない。霧の中から、この霧もそれの成せる技なのか? それはあの時よりも神力を増してきたというのでしょうか、霧を集めて異世界から降臨するのはあの雨の日とまったく同じ姿! 降りてくる、降りてくる、マットに降り立つ、降り立つ、降り立った! ワタクシは幻を見ているのか? 翼が消えていきます、これは現実のことなのでしょうか、まるで朝日に照らされた霧のように大きな翼がワタクシ達の目の前で消えていきます。人の成せる業ではありません。これは……ゆらりと両の腕が広げられる。ゆっくりとその手がフードに掛けられる」
 そうして皆が注目する中、わずかな間、時が止まった。
 それが静止したのはほんの数秒であっただろう。
 しかしその数秒は永遠に凍結した世界を垣間見せ――皆が注目する、注視する、魅入られる――次の瞬間、嘘のような軽やかさでフードが外される。
!!
 刹那、歓声が爆発した。
 実況が叫ぶ!
「顕現したあ! 破滅の天使! マスク・ド・シースルーーーぅ!!」
「ティ・ディ・ア! じゃねぇか結局うぅぅ!!!」
 ついに我慢できず、ニトロは叫んだ。
 いや、よくここまで我慢できたと自分では言いたい。演出がかったレスラーの入場中に実況がごちゃごちゃいうのは好みではないが、それは個人的な嗜好であるし、このような突発的なイベントでは設定ギミックの説明も必要だろう。だが、それ以外はどうだ。一瞬まさかヴィタが相手かと思わされるところもあったが、途中からはもうに対して隠す気なんてさらさらない。挙句の果てにはその名、その仮面マスク
 するときょとんとしたのは実況と解説者である。
「ティディア様? ニトロ選手は一体何を言っているのでしょう」
「相手の神々しさに錯乱しているのかもしれませんね」
「はぁ!?」
 ニトロは激しく顔を歪めた。苛立ちのまま斜に崩れるように眉目と頬を引きつらせ、
「何をすっとぼけてんだ実況、解説者! 名前通り丸見えシースルーじゃねえかあの顔が!」
 ニトロの指の差し示すのは、確かに何らかの形状を持っているが――それは間違いなくあの『女神像』だろうが――まったくもって驚くほど透明なマスクである。ご丁寧に後頭部の紐まで透明だ。目の周りに視野を取る穴が開いていなくたって視界は良好。黒紫の瞳はらんらんと輝いている。
 それでも実況と解説は首を傾げる。
「顔ですか。さて、見えませんが」
「はい、ハラキリ・ジジさん。我々の目に見えるのはただ光り輝くマスク。間違ってもそのご尊顔を拝することなど叶いません」
「なるほど、今微妙に自白ゲロった気もするがね」
 歯噛み、ニトロはすっとぼけ続ける実況席から周囲に目を移した。レスラー達は、やはり、実況席と同じ反応をこちらに見せている。観客のほとんどは自分と同じような反応を見せていたが、それでも同意の声を上げてこないのは本能的に空気を読みでもしたのだろう。ニトロは犬歯を剥き出しながら肩をすくめると、
「オーケーオーケー、そういう設定ギミックで行くってんならそれでいいや。それともあれか? 私は裸のお姫様ですってセルフ風刺画カリカチュアだってんなら上出来だ、笑ってやるぞ?」
 ニトロは実況席からレスラー達へ、観客へ、最後にマスク・ド・シースルーを見やるが誰も何も言わない。そこで彼は、
「わははははは!」
「どうしたことでしょう、ニトロ選手、突然笑い出しました。気が触れてしまったのでしょうか!」
「いえ、あれは単なるヤケクソです」
「やけにもならせろバカヤロウ!――いや、待てよ?」
 ふいにニトロはゾッとした。マスク・ド・シースルー……
「まさかお前、下まで丸出しシースルーじゃねえだろうな?」
 そのセリフに、ふ、と彼女は笑った。
「待て待て脱ぐなそれを、うわあ!」
「おっと詰め寄ろうとしたニトロ選手にマスク・ド・シースルーのローブが顔面直撃! いい匂いがしそうだ!」
「なに実況して――」
 と、彼が視界を奪われている最中、周囲に沸き起こったのは――それが悲鳴と歓声の入り混じるものだったら彼は絶望しただろう――しかし聞こえたのは、ため息であった。
「?」
 体温の残るローブをかなぐり捨てたニトロが眼前に見たものは、セパレートタイプのコスチューム、それも白と黒と紫の三色で華麗にデザインされたものに身を包むマスク・ド・シースルーだった。リングブーツも質素なもの。そこには何の華もない。だが、そこに身を包む本人にこそ華はある。
 皆、目を奪われていた。
 実況が宣告していた通りの、美しい肢体に。
「ご満足頂けたかしら?」
 からかうように彼女は言った。ニトロは腹の奥底を震わせる。喉から怒気が溢れ出る、
「これでご満足させられッとでも思ってンならいよいよ終わりだぞドクソが」
 そして彼が眉目を吊り上げ再度彼女に詰め寄ろうとしたところ、
「これはいけませんね」
「おや、ハラキリ・ジジさん、それはどういうことでしょう」
「ニトロ選手、普段より口が悪い」
「そうですか? ニトロ・ザ・ツッコミはあのような調子では」
「険が立ちすぎています。どうも相当腸が煮えくり返っているようですね」
「ははあ、そうでしょうか。ですが何をそこまで怒るようなことがありましたでしょう?」
 メルシーの疑問はもっともだろう。確かに『ニトロ・ポルカト』が激怒するようなことを、それに慣れた人々から見ればマスク・ド・シースルーはおこなっていないだろう。
 ニトロは――絶妙なところで水を差されたニトロ・ポルカトは、解説者を一瞥した。飄々として解説者は言う。
「大方、試合をしないと言い張っている理由にでも、その理由があるのではないですかね」
 笑いそうになる。同時に苛立ちを激しく掻き立てられる。
「ああ、試合なんかしねぇぞ」
 悠然と立つマスク・ド・シースルーに目を戻し、ニトロは毒々しく言った。
「誰がこんな奴とプロレスの試合をするもんか」
「何故?」
 余裕に満ちてマスク・ド・シースルーが問う。ニトロは、叫んだ。
「いいか!」
 突如としたその大音声にメルシーや観客だけでなく、マスク・ド・シースルーまでも目を丸くする。
「プロレスってのはなぁ、簡単にできるもんじゃねぇんだ! ああ、そういう顔をするよな、お前は、運動神経抜群で何でもできる奴だ、プロレスくらい簡単にできると思ってやがんだろう。俺もそりゃプロレスを知ってるよ、プロレス技だってかけられる、お前に散々お見舞いしたようにな。ああ、ていうかその件についても負い目があるんだよ、本当は。家ではマネするな! 危険だ絶対に人にかけるな! プロレス業界が何百年言い続けても止めきれない大問題! だから俺は、ホントは、レスラーに顔向けできないんだ」
「でも貴方は誰にでも技をかけるわけじゃないじゃない」
 言い訳を与えるような、それとも単におちょくっているようなマスク・ド・シースルーにニトロはカッと赤くなる。
「当たり前だろ!? 誰にでも技をかけるようじゃ単なる乱暴者だ。俺より強い奴にドロップキックだ!――いや! そんなことより今問題なのは! 例えドロップキックができたとしてもそれでプロレスをできるかどうかっつったら、できるもんじゃねえってことだ! ここでお前と俺がプロレスをやってみせたところで、そりゃ“ごっこ”だ。プロレスの表面だけをなぞったお遊びだ! いいか、プロレスってなぁショーだ、格闘技じゃない。だけど戦いだ。演劇じゃない。格闘技じゃないが強くなけりゃならない。演劇じゃないが役を全うしなきゃならない。しかも全ては痛みを乗り越えたところに描かれる」
 始めは怒鳴るように言っていたのに、その真摯な思いが声を抑えさせていく。
「身一つで表現しなけりゃいけないんだ。そのために体を鍛えるんだ。鍛えなければ生み出せないもののために、苦しい練習を積んで“レスラー”になるんだ。だけどそれでも身一つじゃ表現できない。相手がいなけりゃならない。同じように身一つでその世界観を体現できる相手がいなけりゃならない。その相手とのぶつかり合いがなけりゃ、物語は生まれない。だけどただぶつかり合えばいいってもんじゃない。互いに互いの攻撃を受けて、受け切って、そして圧倒しなけりゃならないんだ。勝てばいいってもんじゃないんだよ。相手の意地も誇りも努力も全て飲み込むパワーを観客の心に刻み込まなきゃ勝利じゃないんだ。そのために大怪我をするリスクをも受け入れて、時に相手を殺してしまうかもしれないことも相手を信用して思い切らなきゃいけない。相手がどんなにクソみてぇな人間だったとしても試合中には敬意をもって、互いに相手を輝かせ合わなきゃならない。どちらか一方が輝くだけの試合なんてプロレスじゃない。――それは、とても難しいことなんだ。そんな難しいことに人生を、命だって懸けてるんだ、プロレスラーは。常に痛めつけられながら、そうして素晴らしいものを見せてくれるんだプロレスラーは!……そんな人達の前で“プロレスごっこ”をやれって? ンな失礼極まること誰がやれるかドチクショウ!!」
 静寂があった。
 マスク・ド・シースルーは――透明な仮面の下でティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナは呆気に取られていた。
 そして、いつしか万雷の拍手が鳴り響く。指笛を吹くのもある。
「ニトロ選手にプロレスラーが敬意を表しております。その熱い語り口、ワタクシメルシー、思わず感動してモノを言えずにおりました。ニトロ・ポルカトさんのリスペクトにプロレスラー達が熱い拍手で応えております」
 そう言われてみると確かに語り過ぎた。はたと我に返ったニトロが羞恥を覚えた瞬間、
「それなら私と貴方なら、むしろ最高のプロレスを魅せられると思うんだけどな」
 にやにやと、ティディアが胸に手を添えて言う。
「だってこの前はあんなにも熱くやりあったじゃない? 信用っていうのなら、貴方と私ほど信用しあっている仲もないでしょう?」
「信用しあってるだあ?」
 ニトロは歯を剥き出し、
「俺は、お前を、これっぽっっちも信用してねぇ。大体さっきの入場は何だ! 天使で降臨コーラス付きってのはいい、だけど既視感あるなーと思ったらありゃパティの誕生日ん時にヘタぶっこいたやつのリベンジだろ? だからそれはいい」
「おっとマスク・ド・シースルー? ものすっごい笑顔」
「元ネタ拾ってもらえて嬉しいのでしょう」
「だがな!」
「おっとニトロ・ポルカト翻って怒髪天!」
「その後がダメ過ぎる! 破滅の天使? BGM含めて明らかに完ッ全にミリュウの女神像のパロディじゃねぇか!――ダメだろ! 他の誰がパロろうが、そりゃお前だけは絶対パロっちゃダメなやつだろ!」
「それをあえてやるのがこの私、クレイジー・プリンセス!」
「今のお前はマスク・ド・シースルーだろうがあ! つーらーぬーけ! このリング上だけでもギミックを! それだけでもお前、このクソ女、どこに信用できる要素があるってんだ!?」
「それを含めて許してくれる貴方の愛の中に!」
「そんな都合のいいもんを俺は持ち合わせてねぇ!」
「ミリュウは持ち合わせているのに!?」
「そこで都合よく引き合いに出してやるなクズ姉貴! ミリュウもミリュウで今すっげえ大変だろう!? そこでお前がこんな事してたらどうしようもねぇじゃねぇか、どうすんだこの後!」
「大丈夫! ちゃんと考えがある!」
「言ってみろ!」
「私もまとめてニトロに面倒見てもらう!」
「おおおおおおおおおお」
「ニトロ選手、頭を抱えております! くるくる回って悶えております! マスク・ド・シースルーの精神攻撃! しかしワタクシ、ちょっと彼に同情を禁じえません!」
「それでもそうなったらそうなったで頑張っちゃうんでしょうけどね、お人好しですから」
「ははあ、それではニトロ選手の胃に穴が開くのも時間の問題ですね」
「おーまーえーら! 他人事のように言うなあ!」
「しかし実際他人事」
「お前のそういうところホント非道いと思うぞ、ハラキリ!」
「ワタクシもちょっと引いてしまいました。しかしどうでしょう。本当にこのまま試合はぐだぐだと始まらないのでしょうか」
「始まらない!」
「ええー? 始めましょうよう。だってほら、レフェリーいつまでも呼ばれないからしびれを切らしてそこに出てきちゃった」
 と、ティディアの指差した先にはまさにレフェリーという格好のヴィタがいた。どうやらリングの下にスタンバっていたらしい。おそらく何らかの登場プランがあったのだろうが、地べたにちょこんと座ってリング上の舌戦をおっとりと眺めている。
「おっとニトロ選手頭を掻き毟る! 一体どうした! 地団太だ!」
「どうしたもこうしたもレフェリー完ッ璧にティディアの味方じゃねぇか! お前これでよく信用とかなんとか口にできたな!?」
「そこらへんニトロなら空気を読んでしれっとスルーしてくれるでしょ? ギミックってそういうものじゃない」
「だからその舐め腐った態度で……ッ――」
「おや? どうしたことでしょう。ニトロ選手、急にうなだれました。ため息です。じっとマスク・ド・シースルーを見つめます」
「大体な?」
「何?」
「お前、本当なら試合をするつもりなんてなかったんじゃないか?」
「……何故、そう思うの?」
「この前はあんなにも熱くやりあった――そうだな。お前の誕生日会の『余興』で俺はお前と戦ったよ。それで今度は俺の誕生日の余興でお前は俺と戦うって? そんなネタ被り、初めから企画するような奴じゃねぇだろう」
 瞬間、ティディアは声を立てて笑った。
 彼女が笑う理由を、リングを見つめる全ての者が悟っていた。
 信用。
 むしろ、それを無いと言うニトロ・ポルカトが間違っていると皆は思う。
「そうねー、その通り」
 目の端に涙を浮かべて彼女は言う。
「ニトロには『余興』でプロレス観戦してもらうつもりだったのよ。サプライズは一夜限りのマックス・オーサムのカムバック。メインは彼も含めたロイヤルランブル。そこでヒール軍団にリングの内外で暴れさせて、そこでもう一つのサプライズ! 貴方をリングに放り込む予定だった。もしそうなっていてもきっと貴方はさっきみたいに逃げ回って、だけどやっぱり最後には狭くて広いリングで捕まっていたでしょう。そこに颯爽と登場するのよ、この私、マスク・ド・シースルーが!」
「それで恋人を助けて拍手喝采? ひでぇマッチポンプだな」
 一瞬、ティディアはニトロを凝視した。ニトロは腕を組んで毒づく顔のまま。――透明な仮面越しに、『恋人』は微笑む。
「だけど、そういうものでしょう? 馬鹿にするわけじゃなくてね」
「……」
「それなのにニトロったら今日に限って逆サプライズ……いえ、今日だからこそ? いつも迷惑かける私に仕返しみたいに逃げ出しちゃって、お陰で予定は滅茶苦茶よ。こうなったら直接お仕置きしてやるって思っていたのに今度は試合はしないの一点張り。もー、いつもいつも思い通りになってくれないんだから……大好き」
 一拍の沈黙があり、そして黄色い声が爆発した。
 低い嘆息がそれを支える。
 実況は実況を忘れている。
 解説者は解説する必要がない。
 ニトロはわずかに目を伏せ――次の瞬間、息を飲んだ。
「だからちょっとじゃれ合いたい」
 少なくとも三歩の距離はあった。
 なのにそれが半歩に縮んでいる。
 右足を大きく踏み込んで、右肩を押し出すようにしてマスク・ド・シースルーは身を捻る。
 ニトロは反射的によけようとした。しかし視界の端々に映る姿に、その眼差しに、本能がその場に足を縫い止める。腕を上げての防御態勢は取れない。代わりに彼は胸を張り、押しいでる。
「逆水平チョップだー!!」
 鞭のようにしなり、振り抜かれたマスク・ド・シースルーの右手。それを受けたニトロの胸板に衝撃が炸裂する。バチィ! と爆ぜた音はそれを聴く者達に痛みを伝え、かつ急転した事態を理解させるに十分だった。
「もう一発!」
 初弾で目覚めた観衆が、二発目に沸き立つ。
 またも胸で受けたニトロの顔は苦悶に歪んだ。相変わらずこのティディアという女の身体能力はどうかしている。単純な筋力だけなら自分より弱いのに、いざ実践となると異様な力を発揮する。この逆水平チョップ、胸の表に走る痛みももちろん、それより芯に残る威力が半端ない。たまにジムで他のトレーニーとスパーリングをしたことがあるが、これに比肩する攻撃力を持った男は片手に余る。おそらくフォームが完璧なのだ。足の裏から右手の先まで筋肉も関節も骨も血管も何もかもが理想的に連動し、
「さらに一発!」
 バヂィ! と唸る打撃音に沸く歓声には驚愕の息も入り混じる。そして感嘆、それも純度の高い感動――レスラーだけでなく、一般観衆の中にもその美技に酔いしれる者がある、憧れる者がある。
 ゴングが鳴った。
 カァン! と甲高く、力強く。
 それを鳴らしたのは、ハラキリ・ジジ。
 おい解説者! とニトロはツッコもうとしてそれを成せない。胸に衝撃! こらえても肺が止まる。呼吸が止まれば声も出ぬ。うめき声だけなら漏れ出ようが、それは死んでも出してなるものか。ニトロは胸を張ってまた耐える。実況が叫ぶ。
「一撃一撃が美しく、重い! その体からは考えられぬ破壊力!」
「ニトロ選手もよく受けています」
「はい! しかし――また一発! 声援に応えてまた一発! ニトロ選手がじわじわと後退していく! 押し込まれる! ロープに追い詰められた、ニトロ選手をマスク・ド・シースルーが向かいのロープに振る!」
 ジムで休憩中にプロレスごっこよろしくロープワークを楽しんでいたことが災いした。ニトロは固いロープの反発力をうまく利用し、跳ね返る間際――彼は真正面にハラキリの顔を見た。全てを見透かした親友の顔。内心苦笑する。そうだよ、試合はしないと言ったよ。だけど憧れたマックス・オーサムが、プロレスラー達が見ている中で、プロレスを吹っかけられて手は抜けない。お前はそれを真面目と言うだろう、お人好しと言うだろう。いいや、これは、意地だ!
 ニトロは身を低めて突進した。
 ティディアがそれをぴょんと開脚ジャンプで飛び越え、
「ニトロ選手が跳ね戻る、伏せるマスク・ド・シースルー、それを飛び越え――」
 さらにもう一度、ニトロはロープに体を預け、その反発力で最後のランに入った。ここできっとあいつは何かを仕掛けてくる。それを受けて……
「!?」
 受けることは決めていた。が、ニトロは瞠目した。ロープから跳ね返った時、彼の視野を埋めたのは影である。膝を抱え込むようにして宙に跳ぶ人影。その膝の向こうに鋭い眼光が閃いていた。にわかには信じられなかった。彼女の腰の位置はこちらの目の高さの上にある。その驚異的な垂直跳びから繰り出されるのは、
「ドロップキーック!」
 実況が叫び、跳び両足蹴りがニトロの頭部にヒットする!――が、実際には彼は左手を間に入れてどうにかガードしていた。ティディアもまた全力で蹴るように見せながら体重までは掛からぬよう巧みに抜いていた。しかしそれでもカウンターでの一撃、その衝撃は凄まじい。演技でもなんでもなく堪え切れずにニトロは吹っ飛んだ。
「ニトロ選手がリングから転がり落ちる! おっと、そこにAPWのレスラー達が殺到するぞ!」
「言い忘れていましたが、これはランバージャック・デスマッチです」
「そこ大事なとこぉ!」
 場外で一息入れて、あわよくばこれで打ち切ろうと思っていたニトロは悲鳴を上げた。ランバージャック・デスマッチは現在のようにリングをレスラー達が囲み、試合をする選手を逃がさぬようにするだけでなく、もしリングから落ちてきたらそいつをすぐにリングに戻すのだ。その際に殴る蹴るの“おまけ”があるのも風物詩である。
「わー!?」
 ニトロを捕まえたのは、アル・リストルだった。
「いいねえ、ニトロ・ポルカト!」
 パーン! と肩を叩かれる。そこに敵意はない。ただそれは荒くれ者の挨拶といったものであった。が、正直物凄く痛い。
 そしてそれを皮切りに、ニトロはレスラー達に揉みくちゃにされた。観衆の声も高まり、レスラー達も口々に何か言っているが、どういう言葉をかけられていたのかは判らない。しかしそのほとんどが称賛と祝福だったように思う。バチバチと背中を叩かれる音に紛れて実況の声。視界は筋肉、コスチューム。汗と人いきれ。熱気。ぐわんぐわんと耳の中に反響するのは自分の血の流れだろうか。
「よう! ラッキーガイ!」
 がっちりと、ニトロの両肩を掴んだのはマックス・オーサムである。
「なんてファニーだろうな? まったく熱い奴だぜお前は!」
 ニトロは言葉が出なかった。
 ふいに感動が喉を塞いだ。
 自分はひどい目に遭っていると思う。だけど、感情はこの喜びを謳歌する。
 と、がっちり両肩を掴んだマックス・オーサムが、くるりとこちらの体を反転させた。気がつけば羽交い締めにされていた。すると目に入ってきたのは、5m先に身構えるヘヴィ・ベイビーである。
「ちょ――ッ」
 あんたさっきはりつけられてただろう、なに元気にやってんだ!? とツッコむ暇もあらばこそ、
「Hoooooooooh!」
 奇声を上げて身を丸めたヘヴィ・ベイビーが真正面から駆け込んでくる。バイバイベイビークラッシュ――彼の必殺技フィニッシャーの一つ。巨漢の体当たり、という実に分かりやすい脅威。観衆がニトロ・ポルカトの危機に絶叫する。彼はマッチョマンに拘束されている。逃げられない!
 と、ふいにニトロを拘束するマックス・オーサムの力が緩んだ。
 ヘヴィ・ベイビーが――まさに手加減無用に――激突してくる直前、ニトロは羽交い絞めから脱し、身を翻した。
 驚嘆と悲鳴が交錯する。
 マックス・オーサム諸共、その背後に固まっていたレスラー達をも薙ぎ倒したヘヴィ・ベイビーが、自身もダメージを受けて地に伏せる。その機を逃さずニトロはリングに戻った。そこに待っていたのはマスク・ド・シースルーである。すらりとした指がギチリと彼の手首を捕らえ、
「おっとマスク・ド・シースルー、ニトロ選手に脇固め!」
 それをニトロは前転でかわす。その動きを読んでいたマスク・ド・シースルーが彼を袈裟固めに捕え直し、そこからヘッドロックに移行しようとしたところ、すかさずニトロはブリッジをする要領で相手を持ち上げ体の上で転がすと、自身も反転することで位置を入れ替えマウントを奪うやその勢いを利用して固められかけた首を引き抜いた。そして間髪入れずに立ち上がる。が、
「そこにマスク・ド・シースルーの足が絡みつく! アキレス腱を狙っているか!? だがニトロ選手倒れない! 堪える、堪える、膝十字固めに切り替えたマスク・ド・シースルー、地獄の底まで引きずり込もうかという執念雁字搦がんじがらめ! そーれでもニトロ選手倒れない! 堪え切って足を引っこ抜く! ここで両者離れた!」
 おおおおお、と、どよめきが地を震わせる。自然と拍手が打ち鳴らされる。普段プロレスを見ない者、格闘技の類は嫌いだと言う者、例えそうであっても皆が流れるような攻防に魅せられて声を上げる。
 何より、マスク・ド・シースルー、あまりに透明な仮面が隠せぬその笑顔! ただの笑顔ではない。優しさも慈しみも親しさもそこにはない。好戦的で、挑戦的で、とても活力に溢れた身を震わせる笑み。クレイジー・プリンセスの享楽的で残酷であるのにどうしようもなく心を掴む笑い方とも違う――そうしてその魅力に引き込まれた者は、ふいに気づくのだ。それを引き出した存在に。
「ハラキリ・ジジさん」
「はい」
「これは、これはプロレスですよね?」
「何故です?」
「あの……ええっと」
「ああ、すみません。分かります。試合はしないと言っていましたから、ニトロ君は」
「そうです、そうなんです! わたし、今、とても感動しています。正直申し上げましてこれほどのものとは思っておりませんでした。しかし、お二人とも素晴らしいではありませんか!」
「そうですね。でも、これはプロレスではありません」
「――。
 ええッ!?」
 実況の、メルミ・シンサーの驚愕は観衆の多くにも共感を引き起こした。中にはレスラー達にも共感する者があっただろう。これがプロレスでなくて、一体何だというのだ?
 ニトロは身構えるマスク・ド・シースルーの背後にAPWのチャンピオンと怪奇派のベテランレスラーを見ていた。二人は解説者の意図を、ひいてはこちらの意図を理解している。無論、目の前に立つマスク・ド・シースルーも。
「やー」
 前掛かりの構えを解いて、マスク・ド・シースルーは身を起こした。
「ほんと、クッソ真面目で意地っ張り。そのまま一つも反撃しないで終わらせる気?」
「始まってもいないものをどうやって終わらせるんだ?」
 ニトロは腕を組み、屹立する。
「言ったろ? プロレスは表現するものだ。俺とお前はどんな役を得て、このリングで何を表現するんだ? それはこのリングの上で決着することなのか?――ここまでだよ。これ以上は本当に“ごっこ遊び”だ」
 言い切る青年は揺るぎない。
「だが、見事」
 そこに言葉を送ったのは、ジ・イリーガルだった。チャンピオンは不動だ。
 ニトロは目を細めた。
「感謝します」
 ため息が漏れる。
 それは観客が発したものではない。
 見ればマスク・ド・シースルーが頭を振っていた。
「ま、そうね、潮時を間違えちゃ白けちゃうわね」
 異様とも言える沈黙が観衆を支配していた。皆が、この騒ぎの中心に目と耳を集めていた。
「ねえ、ニトロ。これが決まったら試合が終わるって技のこと、何て言ったっけ?」
 そんなこと聞かずとも知っていように。しかし、ニトロは応えた。
「フィニッシャー。フィニッシュ・ムーブとも言うな」
「そう。それじゃあこれが私の必殺技フィニッシャー
 そう言って、マスク・ド・シースルーは天に人差し指を突き立てる。
「『ザ・職権乱用』」
 瞬間、けたたましく警報アラームが鳴った。耳を聾する不快な電子音。人々の背筋を凍らせるその音は地域警報エリアアラームに他ならなかった。誰もがそれぞれのモバイルを確認する。その最中、ニトロの耳道に貼り付けられたマイクロスピーカーは完全に沈黙していた。実況役のメルシーも、APWの社長でさえも慌てて携帯を見ているというのに。
 そしてモバイルを確認した皆は一様に、再び彼女を仰ぎ見た。
 透明なマスクを脱ぎ去って、魔法のように再び翼を背に広げるティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナを。
「「ニトロー」」
 と、油断せずティディアを視野に捉え続けていたニトロの背に、予測していなかった声がかかった。
 思わず振り返る。
 するとヴィタがリングのエプロンに立ち、トップロープにもたれるようにしながらこちらにモバイルを向けていた。その携帯は彼女の私用のものである。だからこそ、そこに映る人が本物で、映像がリアルタイムであるとニトロに疑わせなかった。
「やっほー」
 小さな画面に大写しになって、能天気な顔で父と母が手を振っている。その隅っこにはメルトンが小さく頭を半分だけ出している。「せーの」と父と母がにこやかに声を掛け合っているのが、観衆の沈黙する中で陽気に響く。
「「誕生日、おめでとー!」」
 両親のコーラスに、小さく『弟』の声も混じっていたろうか。
「さあ」
 ニトロはぞっとした。耳をくすぐる吐息、すかさず胴に巻き付いてきた両腕、いや、腕だけではない。それが何かは解らぬが、まるで透明なワイヤーが何重にも巻き付いたかのように己と背後の女が固定される。――しまった!
「少しの間だけ、ランデブーしましょう?」
 ふわりと体が宙に浮く。
「うわ!?」
 奇妙な浮遊感に内臓が困惑する。思わず口をついた驚きに、ふふ、と、また耳を吐息がくすぐる。
 ニトロは翼を生やしたティディアに抱えられて、ぐんぐんと上昇していった。白いリングが小さくなっていく。それを囲むレスラー達がこちらを見上げている。その周囲を取り囲む観衆達がこちらを見上げている。トラックの実況席ではメルシーがマイクを構えて何かを待っていた。ハラキリは、もういない。
 一番背の低いビルの屋上が肩越しに見えた時、
「ニトロ!」
 聞き覚えのある声を聞き、ニトロは驚いてそちらへ振り向いた。
 二番目に背の低い屋上に手を振る影がある。
「おーい、ニトロ!」
 それは間違いなくミーシャだった。クレイグがいる。ダレイ、フルニエ、クオリア、いつも良くしてくれる友達がいる。そのちょっと後ろに、今は疎遠になってしまった女友達キャシーまで。
 ぶんぶんと力一杯に手を振るクラスメートに向けて、ニトロは戸惑いながら手を振り返した。
 するとクレイグが音頭を取って、皆が声を揃える。
「「ホーリーパーティートゥーユー! ニトロ・ポルカト!」」
 それを追うように、ひぅと音がした。
 直後、夜空に花が開いた。
 次々と、美しい花火が色を散らし、空を明るく染め上げた。
 地上に轟きが生じる。
 ニトロはティディアに連れられさらに上昇していった。するとその軌道に沿って無数の宙映画面エア・モニターが表れる。手近なそれにはレスラーの姿があった。観衆の姿があった。足下の轟きは、皆の口にする祝福だった。
 先ほどの警報アラームがこれを指示するための物であったとニトロが悟るうち、次の画面にはどうやら王都の摩天楼に配されたらしいカメラの映像が表れる。
 そこにも口々に『ニトロ・ポルカト』への祝福を贈る人々の姿があった。
 続いて副王都セドカルラ西副王都ウェスカルラ北副王都ノスカルラ東副王都イスカルラ南副王都サスカルラ――それから五大陸の主要都市。それにどこかも分からぬ都市、町、村。朝のところもある、昼のところも、夕方のところも。無数のエア・モニターに映し出される祝福は、アデムメデスの至る所から絶え間なく届いていた。
 星中の人がまさに今、『ニトロ・ポルカト』の誕生日を祝っているのだ。
 花火の弾ける音が重なる。真横に丸く虹色の花が燃える。バラ色の火が輝く。黄金の花が咲く。エア・モニターの群れの中にミリュウがいたような気がした。はにかむように微笑んで、彼女の執事のセイラと、その家族と並んで慎ましやかに手を振っていたような気がした。
 ティディアはさらに空へ昇った。
 花火はもはやニトロの眼下に咲く。
 飛行機や人工衛星の光が横手の空を滑っていく。
 暗い蒼穹を薄く紫に染める赤と青の双子月が大きく見えた。
 美しかった。
 周りには何億もの人々の営みの生む夜景があった。なだらかな弧を描く地平線が遠くに見え、そこに向けて灯りが時に群れ、かたまり、時に散らばりながら断続的に広がっている。
 そしてニトロは息を飲む。
 見渡す限りの地表、その遠端に光がパッと灯った。その光がパッと消えるのに合わせて、それよりこちらに近い場所でまたパッと光が弾ける。一つや二つではない。見渡す地平線からこちらにむけて、都市の光の集まる空に無数の花が連鎖的に咲きながらどんどんとこちらに近づいてくる。花火はなくとも光線の束が踊る場所もある。聞こえるはずがないのに、その下にどよもす祝福が地鳴りのように聞こえる気がした。
 それらが彼の横顔を照らすのを見ながら、ティディアは『恋人』の胴に回していた腕を少しだけ上にずらした。
 さっき、我が手で強かに打った彼の胸にそっとその手を触れる。熱い。
 ニトロは何も言わなかった。拒絶したところで現状抵抗できぬと諦めているからかもしれない。
 ティディアは何も問わぬまま、ぎゅうと彼を抱き締めた。
 地平線から集約してきた火花がとうとう足下に辿り着いた時、今一度、そこに最大級の花束が咲き乱れた。
 やがて、眼下に弾けた爆音も声も遠くなる。
 周囲にはエア・モニターもなくなった。
 遥か彼方に飛行車スカイカー等の影はあるが、いや、だからこそ、この空には二人きりだと実感できる。気温も低く、二人の感じる温もりはただお互いの体温だけ。ティディアは、彼の背に押しつけた胸の鼓動を聞いていた。この激しい音が彼に伝わっていればと願った。
 ニトロは何も言わない。ずっと沈黙し続けている。
 だから、ティディアは少し不安になった。そしてその不安が彼女に口を開かせた。
「ねえ、ニトロ」
 だが、一体何を言おう?
 何かを言おうとした途端、ティディアは胸が一杯になってうまく言葉を紡げなかった。
 この腕に抱くこの人を、こんな“ごっこ”ではなくて、どうやったら私は本当に抱くことができるだろう?
「――いずれ、この全てが、貴方のものになるのよ」
 そう言った瞬間、ティディアは悪手を悟った。
 これまでどんな誘惑にも乗ってこなかった相手をこんな言葉で引きつけられるなどとも思っていなかった。それでも、であればこれまでにない言葉を試してみたくなった。欲を刺激したくなった。成長した彼の野心を掻き立ててみたくなった。そう、もしわずかにも彼がそれを望んだなら、それを叶えられるのは私だけなのだ。
 すると彼は小さく笑った。
「はっは」
 と、それだけで、他に何も言わなかった。てっきり怒るか、それでなくとも不快感を示すと思ったのに……その小さな笑い声はティディアに彼の表情を伝えない。彼女はまた不安になった。
「ニトロ?」
「あのなぁ」
 やっとまともに応えてきた彼の声は、不思議な響きを持っていた。怒ってもいないし不快感もこもっていない。
「こういう時は、普通に『おめでとう』とでも言っときゃいいんだよ」
 ティディアは、自分でも気づかぬうちにまた腕に力を込めていた。
 感情が溢れる。
 涙が滲む、喉が震える。
「そうね、ニトロ――ニトロ、ホーリーパーティートゥーユー……愛してる」

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