5−f へ

 逃走システムに異常はない!
54ゴヨン
 そこで芍薬の声は途絶えた。
 ニトロは雑踏の外側、車道側へと急ぎ移動した。54、54――車番ナンバー54667の無人タクシーが混み合う車間を縫ってこちらへ向かってきている。それは緊急事態に陥った芍薬の懸命の一手。ニトロは街灯に照らされ出した広い車道へ躍り出ようとして、瞬間、ぎょっとして足を止めた。
「飛ビ出シテハ危ナイデスヨ」
 伊達メガネのレンズに映る逃走システムを上書きして、そこに姿を表したのは撫子であった。喪服にも思える黒いキモノを着た肖像シェイプしずと車道に立っている。54667の無人タクシーが止まるはずだったその場所。そこに走り込んできたタクシーは撫子の像を突き抜けて、無人のまま、一歩先のエアカー発着ポートから空へ飛び去っていく。
 その時にはニトロは既に踵を返し、雑踏に戻っていた。不規則な流れをすり抜け、すり抜け、腕時計型の端末モバイルに決まった手順で触れる。そのショートカットによって起動したサブ逃走システムが伊達メガネのディスプレイを消し、代わりにコンタクトレンズ型モニターに周辺の入り組んだ路地を映す。良し、ここにまでは撫子の――ジジ家のA.I.の侵食はない。地図には即座に逃走経路のパターンが無数に表れる。ニトロの一歩一歩に合わせて目まぐるしく逃走経路が絞られ、変化していく中、彼は一つの勝機を得ていた。
 257m先に芍薬がいる。
 そこに巡回していた警察用アンドロイドに乗り込んだことを報せる標識サインがひときわ大きく輝いている。
「不覚デシタ」
 と言いながら、微塵も悔しさの滲まぬ撫子の声が外耳道に響く。
「ホンニ、イッタイワァ」
 芍薬の妹ともいえる百合花ゆりのはなの声。
「オユリチャンガ油断スルカラダヨー、モー。梅チャン大丈夫?」
 もう一人の妹、牡丹。
「問題アリマセン」
「問題アリアリヨォ、梅ガ盾ノ役目ヲチャント果タセテタラ逃ガシャシナカッタノニ」
「梅チャン、チャント盾ニナッテタヨ。オユリチャンガ芍薬チャンヲカラカウコトニ夢中ニナッテナカッタラ“パンク”セズ捕マエラレテタンダ」
「ソウイウ牡丹カテ驚カサレェテ、ヒトォツ遅カッタ」
「二人トモ後ニ。梅ハ速ク傷ヲ治シナサイ」
「「「ハイ」」」
 ジジ家のオリジナルA.I.達の陽気な声はニトロに絶望を与えてくる。
「それでも、俺は芍薬が勝つと思ってるよ」
 小さく呟くと、大なり小なりの笑い声が重なり、反響した。
「……」
 味方にすると心強い。敵に回すと恐ろしい。
「ニトロ様」
 まだ耳慣れぬ、梅と呼ばれるオリジナルA.I.のいとけない声。
「右ヲ」
 思わず、ニトロは振り向いてしまった。それが撫子、あるいは牡丹や百合花に言われたのであれば警戒心が勝っただろう。しかしジジ家の新たなサポートA.I.に対しては不慣れがあった。その不慣れが隙を生んだ。振り向いたニトロの目には一人の男があった。
「ヘイ、ラッキーガイ」
 身長2m近く、人混みの中から頭二つ分も抜き出た大男がいつの間にかそこにいた。
「ファニーライフを送っているかい?」
 浅黒い肌が爽やかな夕焼けの光に映える。持ち上げられたストローハットの下には後頭部から鋭くVの字に剃り出されたブロンドのモヒカンヘアー。色の薄いサングラスの奥に大きな双眸をぐっと見開いた下には、絵に描いたように口角を引き上げるビッグスマイル。ピッチピチで、今にも内から弾けそうなスーツの下には鍛え上げられた筋肉の漲ることが一目で判った。もしや、それは現役時代よりも鍛え抜かれているのではないか
「マックス・オーサム」
 その名がニトロの口から無意識に転がり出る。昔、プロレスが大好きだった友人が大ファンだったプロレスラー。その最後の試合となったチャンピオンマッチは自分の心も奪い、そう、俺も大ファンになったプロレスラー。
 憧れが足を今、その場に縫い止める。
 マックス・オーサムはさらにニヤッと口角を頬にめり込ませた。
「おお、ラッキーガイ。この俺様のことを覚えていたのかい? なんてファニーだ! ベリーファニーだ! Yaohヤオ、ご機嫌な俺様はお前にビッグなフォルトゥナを約束するぜ、ラッキーガイ!」
 彼がストローハットを空に投げると、一斉に足が止まった。
 ……一斉に、足が?
 そう! これまで怪訝にその大男と、彼に声をかけられるラッキーガイを眺めながらも動き続けていた雑踏が、ふいに、ザッと音を揃えて足を止めたのである。その瞬間、周囲に不規則に流れていた人々が壁となってこちらを取り囲んできた。
「ッ!」
 刹那、ニトロは失態を悟った。いや、もっと前から……そうだ、憧れに足を掴まれるよりも前、梅の言葉に反応してしまった時からすでに悟っていた失態を、今自覚した。
「Hai!」
 マックス・オーサムがサングラスを観衆の中に放り投げて掛け声を一つ、横身になって足を軽く曲げると大樹の根のごとき大腿四頭筋を膨らませ、半円を描くように両手を動かし大きく胸を張ると決めてみせるはポージング! 見事なりサイドチェスト! とうとうスーツが断末魔の悲鳴を上げる。ボタンが火矢のごとく弾け飛び、大胸筋がほとばしる! 周囲に壁を作った老若男女が歓声を上げる!
「「ナイスバルク!」」
「Haaai!」
 裂けたスーツを破り捨てたマックス・オーサムは返す刀で、自信の具現だモスト・マスキュラー! 山とそびえる肩の筋肉、腕の筋肉、いわおのごときその上半身! 歓声に熱が加わる。
「「キレてる、キレてるぅ!」」
 ニトロは知っていた。モスト・マスキュラーによって鳩尾みぞおちの前にセットされたマックス・オーサムの両拳は、これからさっと開かれ、その手は左右対称に、さながら鳥の翼を広げるように弧を描いて大空に差し上げられるだろう。そしてプロレスラーの拳は再び握られるのだ。そうして力強く握り込まれた拳は腕の力で天から引き戻される。すると鬼のごとく膨れ上がるのは上腕二頭筋――
「Hunnu!」
 雄々しきかな力こぶ! おお、花も荒れ狂うダブル・バイセップス!
「「デカい最強パンプアップ!!」」
 お決まりのコールの合唱の中、過去の憧憬を瞼の奥に映し、二重にそれを見つめていたニトロは気づいた。マックス・オーサムの双眸が潤んでいることに。――過去のマックス・オーサムは、この後、フィニッシャーの『パンプ・クラッシュ・ラリアット』を繰り出すのがまたお決まりだった。ティディアの指図があればそれを今また再現しようとしてくることもあり得たが、しかし、眼前げんじつの彼は既にそのパフォーマンスへ歓声を浴びたことに涙を滲ませていた。――そう、彼もまた、過去を憧憬している。
(なんだい、マックス・オーサム。本当に引退しちゃったんだね)
 過去を憧憬する過去の憧れの姿が、ニトロを現在に引き戻した。二重に見えていた景色がくっきりとした輪郭を帯びる。それと同時に彼は悔しさを味わっていた。
 あと3mだったのだ。
 背後の路地に飛び込めていれば、この群衆に取り囲まれることはなかったのだ。
 状況を理解してみれば、雑踏の全てが動きを止め、コールに参加していたわけではない。マックス・オーサムと自分を取り巻き、ここにさながら小さなリングを作って歓声を上げているのは自分達の周囲の者だけだ。人壁の二人、三人を越えた先には突然の出来事に目を白黒させる人々がいる。中に数人、どうやらこれが『ニトロ・ポルカト』絡みだと気づいたらしいのが目を輝かせていた。このことから分かるのは、つまり、あの梅の声に反応する直前まではまだ逃げることはできていたという確信。
 ――だが、悔いはまた後で味わえばいい。
 ようは二、三人を突破すればまだ足掻けるのだ。
 ならば足掻くことこそ我が道理。
 歓声に応えるように周囲へ眼差しを送るマックス・オーサムに背を向けるのは正直恐ろしい。体ごとぶつかるように固い力こぶを顎にぶち込んでくるあの必殺技が延髄にいつ襲いかかってくるかと思えば身が竦む。彼我の距離は五歩で足りる。それでなくとも背後から捕まえに来られるだけでもゾッとする。ティディアはマックス・オーサムに獲物を逃がすことまでは指示していまい。
 しかし、そのリスクを背負しょったとしても、可能性の高い逃げ道を選択せねば悔いも重なるものだ。
 意を決してニトロは踵を返した。
 そして、彼は息を止めた。
「――」
 自然、瞠目する。
 こめかみに電気が走り、脳天を突き抜ける驚愕が肺から酸素を引っこ抜いていく。
「うええッ!?」
 記憶が確かならすぐ背後には女性がいたはずだ。その後ろには青年と老人――しかし、眼前に壁をなすのは分厚い筋肉。
 ザ・肉の圧力。
 三人のレスラー達!
 ミスディレクション、なんて手品の手法がちらりと脳裏をよぎる。いつの間にか現れていたプロレスラーの中心に立つのは黒いショートタイツにブーツを履いたオールドスタイル。すらっとしたスタイルの良い無精ヒゲを生やした男前。腰に輝くのはチャンピオンベルト。
「ヒドゥン・ブレイバー……」
 プロレスに最も熱中していた時期には有望な若手に過ぎなかったが、現在は業界を代表するレスラーである。思わず漏らしたニトロの声に、彼は印象的な瞳を輝かせる。
「ご存じとは光栄だ! 逃げ場はないぜ、ブラザー!」
 白い歯に華のあるサムアップ。お決まりの口調も実に決まっている。彼の右隣にいる樽のような体をした巨漢は体重200kg超えのヘヴィ・ベイビー。左は白と黒のツートンカラーでデザインされたスリーピーススーツを纏うペイントレスラー、怪奇派としても知られるジ・イリーガル。数年でAクラスが総入れ替えとなるのも稀ではない中、第一線で、かつSクラスとしてその座を保持し続ける実力者達。その錚々そうそうたる迫力は、ニトロに自然とバックステップを踏ませていた。
「右斜メ後方ヘ!」
 耳の中に破裂した声に彼は躊躇なく従った。バックステップの勢いそのままに、右膝の力を抜き、はすに軌道を描いて後転をする。と、
「おお!?」
 どよめきの中に最も大きく響いたのはマックス・オーサムの声であった。三人のトップレスラーも感嘆したらしい、背後から迫る捕縛者マックス見もせずにかわしてみせたニトロ・ポルカトの芸当に。
(芍薬は――)
 その声はもう聞こえない。だが、ならば、むしろ、
(ここからだ!)
 落ちたハンチング帽を捨て置き、ニトロは地を蹴った。先ほどまでマックス・オーサムのいた場所、その後ろは壁が薄い。真正面にいるのはビジネスマンだ――いや、こちらの行く手を塞がんとする挙動からしてそういう格好をした仕掛け人だろう。彼は突進してくるニトロ・ポルカトを見て明らかにぎょっとした。瞬間、ニトロは加速した。依頼主からは対象の逃走を邪魔するよう言われているのだろうが、心に隙があるなら突破できる。ニトロの眼光は研ぎ澄まされ、腹を括った彼の意志が鋭く閃く。すると仕掛け人はニトロが思ったよりも――いや、正直予想外なほどに狼狽した。たった五、六歩の距離を詰める一瞬間に、あまりのことに当惑すら覚えるが、こちらの“仕掛け”は完全にその心を折るに十分だったらしい。
「ひぃ!」
 彼が悲鳴を上げて道を開けると、その後ろにいた少女も男も慌てて場を退く。自ら切り開いた囲いを一直線に抜けて、ニトロはガードレールを飛び越え車道に躍り出た。
 ロータリーの交通機能は、既に死んでいた。
 夕暮れ時にこれほど静まり返ったロータリーを見るのは不気味ですらあった。
 立ち並ぶビルに沿う区道からこちらへ進入するための信号は全て赤となり、そこで堰き止められた車は進路変更を余儀なくされてのろのろと他へ追いやられ、ロータリー内から外へ出る信号は全て青となり、規制時間内までに間に合ったらしい走行車ランナーの最後の一群が慌てて逃げ出している。どうやら飛行車スカイカーはほぼ全てその場から空へと飛ばされてしまったらしい。ちらと上を見れば優秀ながら強権的なナビゲートシステムに指導されているのだろう車達が渋々雁行している姿に、ちらと怒りも感じる。
 まばらに車道に残る私用車も商用車も、今や全てその場で動きを止めていた。
 一台の無人タクシーがすぐそばで止まっていた。エンジンはかかっているが、それ幸いと乗り込んでも閉じ込められるだけで用をなすまい。あちらの乗用車の運転席には諦めと憤懣の相混じる顔でこちらを見つめる若者がいる。十数メートル先に停車しているエアロバイクのシートでは、おそらく命令を受けながらも何かしらのトラブルによってその場から去れなかったらしい運転手が困惑し、ひどく不安げに周囲を窺っている。彼は有名なデリバリーストアの制服を着ていた。ニトロは、決意した。無論それも罠である可能性はある。しかし、あれを借りよう。借りれば罠だろうが何だろうが、例え死地にあっても芍薬は全力でバックアップしてくれる。だったらこちらとて体を張るのに躊躇はない。こんな時のためにもマニュアル飛行二輪の免許も取っておいたのだ!――が、
「?」
 エアロバイクに向けて走り出したニトロの目の端に、不吉な影がよぎった。思わずそちらに振り向く。
「ン゛ッ!?」
 ニトロの鼻から水が吹き出した。
 その瞬間、彼の目に飛び込んできたのはロータリーに流れ込んできた人波――その数は数十に上り、しかもいずれも鍛えこまれた肉体を誇る人々の押し寄せる光景であった。
「うわーおッ!?」
 ニトロは叫んだ。
 否、これが叫ばずにはいられようか?
 ロータリーに流れ込んできたそれは全てプロレスラーであった。男も女も無性もひっくるめ、イベンタークラスも中堅も練習生も含めてAPWの皆様総出であるらしい。ドッドッドッと肉感極まる足音も列を成し、先頭に立つのはそれに合流したマックス・オーサムとヒドゥン・ブレイバー。ジ・イリーガルはのらりくらりと体をくねらせ最後尾、ヘヴィ・ベイビーは巨体に似合わぬ快速で先頭に並ぶ。他にも名を知られた有名レスラーがそれぞれのコスチュームに身を包み、揃って全速力で追いかけてくる。これぞ名を上げる好機と目を輝かせる若手がベテランを追い越し気勢を上げていた。
「うわあああーーーおーーーッ!!」
 以前に比べて動じなくなった。ティディアめ、驚かせられるものなら驚かせてみろ――そうは思えど人間の心は驚くようにできている。
 ニトロも全力で走った。
 迫る筋肉集団の渦に巻き込まれてなるかと脱兎のごとく走った。
 すると今度は前方の歩道から溢れ出てくる波がある。
 群衆だ。
 そういう役目を帯びていたのであろう仕掛け人達が扇動している。そうして群衆化してしまったのは、もはやこれは『クレイジー・プリンセス』の“イベント”だ――つまりは誰でも参加オーケーの無礼講だと判じた人々である。正直、背後の筋肉達よりも危険性が高い。それを避け、ニトロは進路を変える。弧を描くように軌道を変えていくと、視界の隅に、抜群の運動神経を誇る空中戦の花形のマスクマンがレスラー軍団の中から一歩抜け出て、短距離走者もかくやというフォームで追いかけてくるのが見えた。
 ヤバい、疾い。
 追いつかれる!――ニトロはそう思うが早いか反射的に速度を緩めた。マスクマンはその職業故か、ニトロに掴みかかるのではなく、飛びかかってきた。
「とぉう!」
 繰り出されたのはお得意のフライングボディアタック。無論、それでダメージを与えることが目的ではない。激突するままに押し倒してしまおう、そうしてフォールしてしまおうとしたのだろう。が、刹那、ニトロは足を止めた。マスクマンが瞠目する。ニトロ・ポルカトは飛びかかってくるプロレスラーに真正面から対峙し、大きく腕を開き、
「だらっしゃああ!」
 そして彼は美しいフォームで飛来したマスクマンを受け止めるや、パワースラムで切り返す!――その時、幸か不運か、彼らの傍らには中途半端な道中に止めさせられた車があった。ニトロの閃きは、このままマスクマンをアスファルトに叩きつけるのではなく、そのタクシーの窓に叩きこむことを選択させた。瞬間、車両用の特殊ガラスの砕ける音が炸裂する!
「ぐはあ!!」
 マスクマンが苦悶に喘いだ。が、彼は軽量ながらも路上デスマッチすらこなしてきた剛の者。それを信頼したニトロは遠慮仮借なく、賽の目に砕けたガラスと共に地面でのたうつ追っ手を捨て置き彼は――その『英雄』は、衝撃で歪んだ伊達メガネを投げ捨ててざっと周囲を見渡した。
 タクシードライバーが運転席で怯え切って身を縮めている。衝撃を受けたタクシーの防犯システムがけたたましくアラームを鳴らしていた。何度も、何度も、その恐ろしい音の中、そこに何か“イベント”にはそぐわぬ凶暴を感じた群衆の足が緩んだ。が、一方で目の輝きを増したのはAPWのレスラー達である。
『ニトロ・ポルカト』のプロレス好きは有名だった。何しろ『映画』の舞台挨拶で主演女優おうじょさまにパイルドライバーをかましたことは現代の神話である。しかも今の切り返し、それを単なる素人の真似事と断じることはできない。レスラーの、同時にショーマンである彼ら彼女らの血が騒ぐ。
「捕まえた者には私からも一封出すぞぉ!」
 叫んだのはレスラー軍団の陰に隠れていた老人、傲慢姑息なキャラで知られるAPWの社長だった。おお! と歓声が上がる。
「いやいや煽るなプレジデント・ガッファー!」
 思わず抗議ツッコむニトロの怒声はさらにレスラー諸氏を煽り立てただけだった。
 殺到してくる。
 逃げようとしてニトロは左足首に怖気を感じた。マスクマンの手ががっちりと食い込もうとしている、瞬間、ニトロの体に染みこんだ護身術が足を動かし、その手を振りほどいた。もし、既にがっちりと食い込んでいたならば握力に負けて抜けられなかっただろう。
「やるね!」
 マスクマンの声にはもはや苦悶の名残もない。もう回復したのか――驚異のタフネスに付き合ってはいられない。
「後で握手を、アル・リストル!」
 ニトロはアラームを鳴らし続けるタクシーのボンネットに飛び乗り――刹那、ドライバーと目が合う。怯え続ける彼女へ謝罪の眼差しを送り――そのまま彼は追っ手の密度の薄い場所へ向けて飛んだ。背後にはマスクマンの哄笑があった。
 その時、広いロータリーは既に舞台として完成していた。車道に沿って弧を描く歩道には縁石沿いに人がごった返している。歩道と車道の接するきわには一種の結界のような力があるのか、この騒ぎに観客として参加することにした賢明な人々はそこで留まりざわめきながら逃げ道を探す『ニトロ・ポルカト』の進路を隙間なく埋め尽くしている。ロータリーの内部に群島のように存在するバス乗り場にいる人々も同じように見物を決め込んでいるようだ。一方、広い車道に停車する車やバスの合間を埋めるように、歩道側から徐々に扇動に乗じた群衆の侵食が広がっていっていた。
 先の『英雄』とマスクマンの衝突に一度は怯んだ人波も、仕掛け人達の努力もあり、それが“ショーマン”の関わることであるからと早くも気を取り直したらしい。ショーマン同士のことだから派手だっただけ、飛び入り参加の人間にはそこまですまい――故に、その一種無敵の思考は無鉄砲な勢いを生んでいた。俊足の若者が数人、レスラーに混じってやってきている。
「くそ」
 ニトロは毒づいた。実際、それに追いつかれればまずい。それらをステップワークで容易く翻弄できる確率は高い半面、例え彼らがそうされるのを“おいしい”と思ったとしても、信条的にマスクマンに対してやったことと同じ対応は出来ない。例えやむを得ぬとしてもそれを曲げて心が負けるくらいならアスファルトの上でヘヴィ・ベイビーの殺人バックフリップを受ける方がずっとましだ。といって、きっと加減を知らぬであろう相手に手加減をするのは困難極まる……
 現在、追っ手の密度の最も薄いのはあのカフェの二階から見た大型トラックの停まる辺りだった。
 ニトロはそれも気に食わなかった。
(誘導されてるな)
 レスラー軍団はヒドゥン・ブレイバーによって、群衆はそこに入り込む“プロ”によって軌道を修正されて、敵は確実にこちらの進路を狭めてきている。あのラッピングされたトラックの前後にはいつの間にか車体に何の社名もない大型トラックが一台ずつ現れていて、街路樹の向こうの区道がどうなっているのか様子を見せない。
 ――ふと、ニトロは思った。
「?」
 マックス・オーサムはどこに行った?
 レスラー達の先頭を走っていたはずの彼がいない。
 それに気づいた時、ニトロは、絶対的な不利を悟った。
「ヘイ! ラッキーガイ!」
 ニトロは空を仰ぎ見た。
 浮遊する無人タクシーの助手席に箱乗りしてこちらへ手を振るマックス・オーサム。その屋根には二人の女子レスラーが乗っている。
「そいつぁ違法だぞマックス・オーサム!」
「ファニーだろ!?」
 やああ! と声を上げて女子レスラーが降ってくる。片方は細身で、片方は男に勝るマッチョレディ。確か前者は前職警察官で、そのコスチュームも警察を意識している。後者はボディビル選手権で優勝し、アームレスリングでも優勝経験のある女傑だ。
「だああッ!」
 腕に迫った前者の得意はサブミッションの指をかわし、喉に迫った後者の得意はチョークスラムの手もかわす。両者の着地の隙を縫って距離を取れば、そこに時間差を置いて落ちてきたのはジ・イリーガルだった。後部座席に隠れていたのか! 背後からリーチの長い腕が伸びてくる、と思えば既にジャケットの後ろ襟を掴まれていた。
「ッ!」
 ニトロは渾身の力で前進した。ジ・イリーガルが見た目以上の怪力で引き返してくる。両者の力が瞬間的に拮抗し、両者の動きが止まった。その刹那を逃せばニトロは抗うすべなくジ・イリーガルに引き寄せられていただろう。しかし、そのタイミングを狙っていたニトロはそこでするりとジャケットを脱ぎ去った。
「おお!?」
 たたらを踏むジ・イリーガルが珍しく発した声を背に、ニトロは横から低いタックルを仕掛けてきた女傑を飛んでかわした。着地をするところに元警察が掴みかかってくる、そこに逆に肩から当たっていき――わずかに押し負けるが、負けるに任せて衝突のどさくさにたいを入れ替え、さらに背中で彼女を押す。その先にはジ・イリーガルがいた。押された彼女とぶつかりジ・イリーガルの足が止まる。が、元警察官の指は既にニトロの手首に絡みついていた。その執念に、足止めとして利用された怒りも加えて食い込まんとする鋼のような指をニトロは両腕と背中の渾身の筋力で振りほどく――女傑の腕が首に――ニトロはそれもすり抜けた。が、呼吸が間に合わない。息が上がってくるのを彼は感じていた。だが『師匠』に叩きこまれた逃げの技術を、死地にも鍛えられた精神力で駆使して回避し続ける。
 それでも――
 限界はあった。
「おお、おお、ファニーだ! ラッキーガイ!」
 心からの感嘆だったのだろう、マックス・オーサムのその声はすぐ近くに聞こえた。
 振り返るとそこに彼が迫っていた。
 それはフライングボディアタックというよりも、ただの飛びつきだった。現役のレスラー達とは違い、綺麗に捕らえることを放棄したのは引退して久しいからだろうか。それとも、それを選択できる頭の良さが現役時代の彼がチャンピオンベルトを一度しか巻けなかった理由だろうか。熱い彼の体温が、恐ろしく凝縮した体躯と共にぶつかってくる!
「ぐ!」
 それでもニトロは諦めない!
 圧し掛かってくるマックス・オーサムの体重を自ら後ろに倒れ込むことで可能な限りいなし、巨躯に覆い被さられながらも、二人同時に倒れ込んだ際にできた彼我の隙間に膝を押し入れて、そのまま彼を蹴り飛ばすようにしてくるりと身を後転させる。
「うお!?」
 過去はグラウンド技術にも定評があったマックス・オーサムだったが、ここに現役との差が出た。こちらの動きに後れを取った相手の下から抜け出したニトロは、
「――チクショウ」
 既に、ジ・イリーガルが先んじて逃走経路に長い手を回していた。左右から女子レスラーが組みついてきている。マックス・オーサムも現役時代を思い出したかのように素早く身を翻してこちらの両足を抱え込んできていた。
 完全に捕まってしまった!
 己を締め付ける複数の鋼のような力にニトロが顔を歪めると、そこで、まるで予期していなかった事態が起こった。
 ヒドゥン・ブレイバー率いるレスラー軍団が追いついてきたのである。
 一番にやってきたのは俊足の巨漢、ヘヴィ・ベイビー。
「Hoooooooooh!」
 独特の掛け声を上げて、文字通り飛び込んでくる200kg超級!
 ニトロはもちろん、マックス・オーサムも二人の女子レスラーも喉を引きつらせた。ジ・イリーガルは無言で天を仰ぐ。
 大肉弾おにくだん、着弾。
「「ぎゃああああ!」」
 折り重なった悲鳴の上に、後続のレスラー達がどんどん覆いかぶさっていく。さながらロイヤルランブルで有力なレスラーを多人数で抑え込むがごとき光景である。そこに仕掛け人率いる一般人の集団まで加わってきたからもう現場はカオスだ。
 怒号と悲鳴が交錯し、ほとんど乱闘となる中で、ふいにニトロはその混沌の外に出た。まるで、ぽいと投げ捨てられるかのように。
「あ」
 と、側にいた少女が口を開ける。
 ニトロ自身、何故、あの乱雑極まる現場から抜け出せたのかよく分からずにいた。ただ体のあちこちに色んな人の足が当たったこと。そして何度も引きずられたことを覚えている。そのうちの一つはジ・イリーガルの手によるものではなかったか? ヒドゥン・ブレイバーの大声がすぐ耳元で聞こえた気もする。
「ニトロ・ポルカト!?」
“あ”の形に口を開いたままの少女の隣で声を上げる者があり、そこで乱闘がぴたりと止まった。
 では、そのカオスの中心にあって抑え込まれているのは一体誰なのか。
「ヘイ! こいつぁまったくファニーじゃねえぜ!?」
 マックス・オーサムが心底驚いて、ヘヴィ・ベイビーの下からニトロ・ポルカトに背格好の似た若手を引き上げる。片手にぼろぼろの若手を掴み、片手で大仰に頭を抱える――それはまるで現役時代のようにコミカルなマックス・オーサムだった。そしてその姿に、ニトロには悟ることがあった。
脚本ブックか)
 おそらくそれを知るのはヒドゥン・ブレイバーを始め一部のレスラーだけだろう。マックス・オーサムはどうか怪しいが、彼らはこの“茶番”を“真剣勝負”に変換しながら自分を“そこ”に誘導しているのだ。
「捕まえろ!」
 ヒドゥン・ブレイバーが叫ぶ。
「ええい間抜け共が! 追わんかノロマ!」
 APWの社長が手近な若手の頭を叩きながら叫ぶ。
 ニトロは踵を返した。
 周囲には素人集団。中には怖いもの知らずもいるが、大抵は人を捕まえるということにも不慣れな人々である。それ故の恐ろしさは確かにあるものの、しかし先の四人のレスラー相手の大立ち回りが再び萎縮を生んでいた。ニトロが顔に向けて腕を伸ばすだけでほとんどが止まる。それを掴んで来ようとするならかえって護身術の餌食だ。逆に掴み返して他に接近してくる者への盾とする。たまのタックルには回転スピンで対処し身をかわし、稀に紛れ込んだ『マニア』らしい者の殺意のこもった拳は相手にせずに距離を取る。そうしているうちに、しかしいかに持久力に自信があっても息もつかせぬ戦況の中にあっては疲労が増していく。
 ふいに一人の少年に腕を掴まれた。
 乱れそうな息を整えるために一度大きく吸ったわずかな隙、その幸運を掴んだ少年は歓喜のままに『ニトロ・ポルカト』を引き倒そうとしてくる。
 ニトロは自然、引き倒そうとしてくる力に任せて引き寄せられた。
 それは思考の外にある、格闘トレーニングプログラムによって肉体に刷り込まれたパターンに従っただけの無意志の動き――されど瞳には意志が宿る。間近でそれを見た少年が、刹那、またニトロが当惑するほどに狼狽し、硬直した。その最中、互いの身が密着するか否かのタイミングでニトロは身を捻ってたいを返す。と、ふわりと少年が宙に舞った。
 驚愕、あるいは歓声が上がった。
 それは魔法のような投げだった。
 腕を掴んでいるのは少年なのに、まるで磁力に引きつけられているかのようにニトロ・ポルカトの弧を描く腕の動きに合わせて体勢を崩したかと思うと、その体躯はポンと跳ね上げられていたのである。
 そのままアスファルトに投げ落とされた少年は、しかしほとんど痛みを感じなかった。否、痛みのないように着地の瞬間に引き上げてやったニトロは、きょとんとしている同い年くらいの学生――気づけば先刻ハラキリ・ジジの噂をしていた一人だ――を捨て置いてすぐにその場を離れた。
 それは群衆化した人々の心に冷や水を差すに足る一幕であった。
 やはり彼は『英雄』なのだ。王女の『恋人』としては温和なお人好しとして知られていても、あの魔犬を屠ったハラキリ・ジジの弟子たる一面を実際に目撃すれば、いよいよ彼の捕縛に挑む一般人が少なくなる。すると、それまで群なす一般人が邪魔となって追いかけてこられずにいたレスラー達がぐっと接近してくる。
 しかしニトロはもう“そこ”に近づいていた。
 嫌も応もなくアイドルグループのイベント告知のラッピングのされた大型トラックの後ろへ回り込む。
 ――と、目に飛び込んできたのはいつの間にか現れたリングであった。
「……」
 何のロゴも描かれていない白いマットに四隅に立つ黒いポスト、四辺を囲むのは灰色のロープだ――そしてそこには誰もいない。だとしても、
「ああ、ドチクショウ!」
 結局は掌の上か。
 ニトロはロープをくぐってリングに飛び込んだ。
 土足で立つのは気が引けるが、それも含めて誘導されているのだ。彼がリングに立つと追いかけてきたレスラー達は足を止め、その周りにまるで後続を近づけぬように広がっていった。その多くの顔に落胆が見えるところからすると、先の社長の言も加味すれば、ここに逃げ込まれる前に捕まえられれば賞金が出るということになっていたのだろう。もしかしたら昇進もちらつかせられていたかもしれない。そして逃げ込まれた際にはそうやってガードになる手筈だったのだろう。落胆していない者らはこちらに「よく逃げ切ったなあ」と言わんばかりの眼差しを向けている。マックス・オーサムはあからさまに拍手をしていた。ヒドゥン・ブレイバーは悠然としている。ジ・イリーガルとヘヴィ・ベイビーの姿はない。アル・リストルは晴れやかだ。社長は足を挫いたらしく女傑の肩を借りていた。元警察官は落胆している。一体どれだけの人間が脚本を知っていたか、ニトロには見当がつかない。
 居並ぶレスラー達に堰き止められる形で、周囲にはどんどん人が集まって来ていた。“イベント”に参加していた群衆のみならず、それを遠巻きにしていた大衆も好奇心に引かれて続々と。こうなると、さながら独り舞台に超満員の客が押し寄せてきているかのようである。
 さて、一息が入ったことで、そろそろ何故姫君といるはずのニトロ・ポルカトが一人ここにいるのか、そして何故彼を捕まえねばならなかったのかと疑問に思う者が出てきたらしい。間近なところにそれを話し合う男女が見える。その声は周囲にも伝播していくだろう。だが、その疑問が深まるより先に、事態が動いた。
 三台並ぶ大型トラックの真ん中、初めからそこにいたラッピングのされた胴体のこちらに向けられた側面が持ち上がっていく。皆の注目がそちらへ向いた。ニトロもそちらへ向き直った。ゆっくりと上がるウィングの奥に見えてきたのは――実況席?

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