5−e へ

 まず間違いなく、あいつも、親友も、既にこちらの意図を把握しているだろう。
 王都を東西に分けた時、ちょうど中心に位置するターミナル駅は帰宅ラッシュの前触れに静かに震えている。階層化された地下から上昇し、雑踏響くコンコースを抜け、夕暮れの空の下、かつては大きな池があったという広いロータリーに沿って流れる人混みに紛れてニトロは思う。
 こちらが“戦略”を変えたことをあの二人が気づかぬわけがない。それに気づかれるのは何ら問題はなく、むしろ計画の内でもあるのだが……問題は、その戦略上最大の爆弾にまであの恐ろしい敵の深慮が届くかどうかだった。それは現状、考えうる限り自分の最終兵器である。それが効果のない無用の長物となっては甚だ厳しい。それどころかすなわち自殺行為――否、自殺そのものになり果てる。しかし、今のところ爆薬の詳細には気づかれた感はなく、発破のための舞台も順調に整えられつつある。そう信じている。
「やっぱ本当らしいぜ」
 後ろに歩く学生の声がぼんやりニトロの耳に届いてくる。
「ええ? お前、疑ってたのかよ」
「だって疑うだろ、あんなの」
「俺は初めからフェイクじゃないと思ってたぜ」
「そおかあ? 俺はお前の方が信じてなかったと思うけどな」
「でもすげぇじゃん、あれ。やっぱ『師匠』なんだよ」
「そう言われてるだけだと思ってたんだよなあ」
「まあそれは俺も。だけどティディア様ん時のもすげぇじゃん? スライレンドの『魔女』を討ったっていう特殊部隊の兵士の正体も実はそうだって噂もあるぜ」
「嘘くさい話だけどなー、だってアニメだよ、あんなやつ」
「マジでな」
「マジですげぇや、ハラキリ・ジジ」
 思わず、ニトロの頬に笑みが浮かぶ。それを自覚して、彼は慌てて進路を変えた。人混みの中に異端の流れが生まれていくつかの歩が乱れる。彼はサラリーマンの前を――刹那、お見合いをしそうになるところを――素早く横切ってカフェの中へと滑り込んでいく。
 駅も間近なビルの1・2階をぶち抜いて看板を掲げるそのチェーン店は洒落た内装で知られていた。木目調の天板に黒い金属を組み合わせるテーブル、飾り気はないが洗練されたチェア、シンプルなインテリアの要所に置かれる観葉植物ドラセナ吊り鉢ハンギングバスケットに垂れるアイビー、見渡す限り1階に良さそうな席は空いていない。ジャケットのポケットから端末モバイルを取り出して店内情報を見てみれば、2階にはまだ余裕があるようだ。
 バーカウンターには垢抜けた服装の老人が一人、エスプレッソカップを受け取っている。
 老人と入れ替わり、ニトロはドリップコーヒーを頼んだ。
 バリスタの淹れるコーヒーは席に運んでもらえるという。端末(無論、別名義の)をリーダーにかざして支払いを済ませると、注文番号が同時にインプットされる。そこで彼が2階席に向かおうとすると、混み合うカウンター席の端で先ほどの老人が小さなカップから小さなスプーンを抜いているところが目に入った。老人は砂糖をたっぷり加えた甘くて苦い濃厚な黒褐色をすぃっとあおる。席に腰を下ろさず、立ったまま。手早くスプーンで溶け残った砂糖を舌にのせると一つ息をつき、老人は山高帽を手に颯爽と店から出ていった。
 ユニフォームのエプロンを付けたロボット店員がカップを片付けに出てくるのを後ろに、ニトロは螺旋階段を上っていった。ちょうど駅前ロータリーを臨むカウンター席に空きがある。非常階段も近い。その席に腰を下ろし、テーブルのセンサーに端末に残された注文番号を認識させると、すぐに応答があった。間もなくコーヒーを運んでくるという。
(カッコ良かったな)
 エスプレッソの老人を思い返し、顔を上げればロータリーを挟んで対岸のビルの大型モニターが目に入る。ゆっくり表れては消え、表れては消える文字列は、どうやら近隣で行われるイベント情報であるらしい。またそこから少し離れた右のビルにも大型モニターがあった。茜色を背景に影を落として居並ぶビルの頂にはいずれも商業的成功を目指す自己主張が様々に描かれている。その電光看板の中には王家運営会社ロイヤルカンパニーの製品に関わるものもあり、そこではきぐるみパジャマを着た王女が実に媚びたポーズをとっていた。そうやってPRをしているものは何かといえばアダルトな香水である。と思えばその看板の下の大型モニターには、昼に星の話題をさらった謎めく微笑があった。
 こちら側の大型モニターには今日これまでのフラッシュニュースが流れていたらしい。彼女のその微笑を認識した直後、そしてニトロの目に飛び込んできたのは、ある監視カメラの映像だった。
「オ待タセシマシタ」
 振り返ると、ロボット店員がドリップコーヒーを持ってきてくれていた。
「ありがとうございます」
 ニトロが言うと、テーブル席の大学生らしい女性がこちらに目を向けてきた。聞き覚えのある声だと思ったのだろう。一瞬、まじまじとこちらを見つめてくるが、ロボット店員が下がっていくのに合わせて思い直したように手の中の携帯モバイルに目を戻すと、何やら面白くないことがあったらしく鼻の頭に皺を寄せる。
 不思議なものだ、とニトロは思う。
 今の自分は大した変装などはしていない。カジュアルなミリタリージャケットとカーゴパンツに大きめのハンチング帽と縁の太い眼鏡を合わせた――それだけだ。なのに『ニトロ・ポルカト』は王城に、あるいはメディシアノス宮殿に姫君といる、という人々の思い込みが未だに自分の正体を覆い隠してくれている。最近は、どんなに凝った変装をしても簡単に正体がバレてしまうことが多かったというのに……。
 カウンターテーブルに置かれた白い厚手のカップに目を戻そうとした時、ニトロは空席を開けて二つ先の席の人が大判の板晶画面ボードスクリーンで見ている映像にちらと気づいた。
 それもまた、あの大型モニターに流れるものと同じ、ハラキリ・ジジの“英雄的行動”の記録映像であった。ただし、こちらは多く公衆に触れるメディアには流れぬ『完全版』であるらしい。誰が流したのか判らぬそれは、オリジナルは即座に削除されたものの、あっという間に全世界に広がってしまった。もはや完全に消し去ることは不可能だろう。
 ニトロもそれを観ていた。普段ならそのような違法映像――特にグロテスクでショッキングなものを進んでみることはないが、そればかりは熱心に何度も繰り返し観た。
 一昨日の深夜、その報を聞いた際には夜目もらんらんと醒めてしまったものだった。
 所はフエルシェスパ領グランダル市。かつては豪商の夢、現在は郷土博物館である中央大陸最古のワイン工場の跡地。
 そこが高く厚い壁に囲まれているのは、そもそも当時建設前からトラブルが頻出していたためだという。広範な農地を強引に買収してまで大量生産・薄利多売を目論み、一時の成功と引き換えに多くの恨みを買った商人は建設費の大半を費やして分厚いレンガの盾を打ち並べたのだ。囲いの中には工場のみならず彼の館もあった、大きな庭もあった、蒐集した品々を飾るための美術館もあった、また街道と川に面して広く作られた出荷場もあった。今では駐車場となったその出荷場に、その夜は『グッド・オールド・パーティー』のためのご馳走を載せた丸テーブルが扇型に並べられ、扇の要となる位置には立派な舞台が設けられていた。
 夜は深まり月も厚い雲に隠される。
 合成木材で組まれた舞台を照らし上げるのは、前時代的な松明トーチ油灯オイルランプ
 その赤と黄色に闇の混じる妖しい光の中で犬使いドッグマンなかま達はダンスを踊っていた。
 ドッグマンは古典時代の絵画にある同業の服を着て、リズムに合わせて陽気に足踏み。それを追いかけるように三匹の小型犬、二匹の中型犬、二匹の大型犬、そして一匹の巨大な犬がまた足踏み。小型犬の一匹がちょっと間違えた。不思議そうに首を傾げるその可愛らしく滑稽な光景に喝采を上げるのは、やはり古典時代の様々な階層の服を着る客達だ。
 この映像に音はない。だが、音は容易に想像がつく。
 酒宴の陽気にダンスは盛り上がる。とんぼ返りをする犬達。ドッグマンがご褒美を上げる。尻尾が振られ、媚と愛嬌に客達は笑い、拍手し、巨大な犬が横座りをしてまるで人間の女性がしなを作っているような素振りをすると感嘆の拍手が激しく鳴らされる。
 この『グッド・オールド・パーティー』はフエルシェスパ領グランダル市で毎年行われている収穫祭の企画イベントの一つであった。祭は長い歴史を持つが、このパーティーは近年のもので、参加者は主催者――この地方のブドウ栽培を保護してきた由緒ある貴族の若い令嬢に招かれた者に限られる。そのため参加者は自然と彼女の仲間達が中心となり、そこにいるのは上流階級の若者ばかりだ。しかし中には令嬢の選出、あるいは令嬢の示した試練を超えてその栄光を勝ち取った庶民の参加者もいた。ニトロは苦笑せざるを得ない。芍薬によるとその閉鎖性もまた一つの懐古趣味らしいが、なんのことはない、それは令嬢の不出来な『クレイジー・プリンセスごっこ』であった。まあ、だとしても、楽しい宴に変わりはないらしく、若さと楽しみに溢れた場所に出会いを求める者が少なくないことには今昔の差もないのだろう。酒宴は浮かれた空気に包まれている。
 やがて、そこに亀裂が生じた。
 巨大な犬が――真っ黒で、体高はおよそ1.5m、頭から尻尾の先端まで含めれば3mは優に超えるガルム犬が牙を剥いて唸り始めたのである。
 それは、元は北大陸で軍馬を噛み殺す軍用犬として交配されてきた犬種――太平の世になってからは赤銅しゃくどうヒグマを狩る猟犬として使役されてきたアデムメデス最大の犬種。主人には忠実であるが気性が荒く、番犬や猟犬ではなく愛玩犬として飼うのは絶対に非推奨、さもなくば食い殺される覚悟でどうぞ、と言われる猛犬。
 それを人前でショーまでできるように仕込んだその犬使いドッグマンの技はまさに“奇跡ミラクル”と讃えられていた。そして彼は系譜上祖先にあたる猛獣使役術アニマストラに並んで普段は人目を集めぬ絶滅危惧職にありながら、アイドルばりに様々なメディアに取り上げられる寵児であった。
 ナイトメア、と名づけられたガルム犬は、口角に泡を吹き出して、苛立たしげに鞭のような尾を振り、ガフ、ガフと吼え始める。
 他の犬達が尻尾を巻いて舞台から逃げ出す。
 観客はざわめく。
 ショーを台無しにされたドッグマンが何度も声を張り上げハンドサインを繰り返し、それが効かないとなると納品前日にバグに遭遇したエンジニアのように青褪めて、異様に口をもごもごとさせた後、それでもどうにかショーを取り戻そうと強気にナイトメア号に近づいていく。
 と、近づいてきたドッグマンに、愛犬は何の前触れもなく噛み付いた。
 喉。
 ミラクル・ドッグマンは気管を、食道を、頚動脈を、甲状腺を、甲状軟骨を、生命活動に必要不可欠な組織の全てを牙に裂かれた。誇り高い種族を媚びへつらいのために使役してきたことへの復讐、と言うにはあまりに機械的な動作で、ナイトメア号は肉を食い千切った。どこか呆けたように血が噴き出す。どう、とミラクル・ドッグマンが倒れる。見開かれた人間の眼が涙を流す間もなく暗い空を仰げば、これまで数々の命令を下してきた口からも赤い体液が溢れ出し、鼓動の停止と共に虚しく口腔の底に澱みを作る。
 オイルランプと松明の揺らめく赤光しゃっこうが、太古戦場に活躍した彼の祖先の姿を、毒々しくも神性を帯びて現世に照らし出していた。
 会場はパニックとなった。
 ナイトメア号が舞台を飛び降り、すぐ近くにいた婦人を次の標的に定めた。鋭い爪を地に食い込ませ、ベルベットの毛並みに筋力の波を立たせて躍動する。古典時代の貴族の服を着た婦人は半狂乱で腕を前に出し身を守ろうとした。帽子に挿された大きな花飾りが激しくおののく。彼女を助ける者はない。助けられる者もない。映像は無音だ。だが悲鳴が聞こえる、喚き声が聞こえる。あちこちでテーブルが倒れ、料理とワインが地面にまき散らされている。
 闇の塊が、華やかな色彩を飲み込んだかのように見えた。
 絶望に泣き叫ぶ声、それを目撃する悲鳴、これから起きようとすることに恐怖しながらも目を離せぬ者達が意味もなくどよもす声が聞こえるようだった。
 しかし、悪夢はそこでひどい引きつけを起こした。
 思えばそれは初めから体調を変じていた。
 ガルム犬は婦人に覆い被さった際にその心身に深い引っ掻き傷をつけ、ドレスをワインとスパイスの効いたソースで汚しはしたものの、彼女に牙と舌とを触れることもなく、ぬらつく泡を吐き出しながらガバと身を起こすと、よろめき、己の尾を追って二、三度ぐるぐると回り、ふいに動きを止めた。
 その視線の先には、また一人の女性の姿があった。
 倒れたテーブル、倒れずにあるテーブル、逃げ出した人々、逃げ惑う人々、凄惨な現場に魅入られたのか、身の竦んだのか、その場に居つく人々……運命に導かれたかのように狂気に血走る眼はその少女へと一直線に捧げられた。間に距離はある。障害物もある。獲物足りえる人間もいる。しかしそれが果たして何になるというのか。
 胸に花のコサージュをつけた町娘の装いの少女は、厚手のスカートを握り締め、どうにか気を失うことを堪えることが精一杯という様子で棒立ちになっていた。
 悪夢は少女を見つめる。
 少女も悪夢を見つめてしまう。
 悪夢と少女の視線が結ばれた。
 悪夢が、歩き出す。
 一歩、二歩、やがて速歩そくほから一気に襲歩しゅうほへ。
 少女はとうとう堪えきれなくなったかのように力を失い尻餅をついた。傍らのテーブルの陰に隠れてその姿が見えなくなる。
 進路上にあったテーブルを飛び越え、狂犬が迫る。
 少女の声は聞こえない。しかし、きっと叫んでいる。
 そこに、ふと、歩を進めてくる者があった。
 完全に、客観的に、外からカメラの映像を見ていてなお不意を突かれたように感じるほど、その野良着姿の少年はこの場において不自然に自然と足を運んでいた。
 彼は一人と一匹の間に身を割り込ませると、座り込んだ少女を背にし、面前に疾駆する悪夢を迎えた。
 真っ黒な風が鋭い牙の並んだ大口を開けて跳躍する。赤い舌を震わせて、ドッグマンの血の混じる唾液を滴らせながら、己に歯向かう新たな獲物に飛びこんでいく。
 その時、少年は、奇妙なほど緩慢に左腕を差し上げた。
 彼の――ハラキリ・ジジの頭蓋骨を一噛みに砕かんと開かれた大きなあぎとが、差し出されたその前腕をくわえ込む。
 と同時に鍛えられた大人の腕ほどもある両前足が少年の体に突き当たり、そのまま悪夢は生贄にのしかかった。
 それを観る者が想像するのは、次の瞬間、きっと少年の血が天に向けて噴き出すであろう光景。あのミラクル・ドッグマンが悲鳴の代わりに命を噴き出したように、彼もそうして死ぬのだ!
 されど想像は裏切られる。
 勢いがありすぎたのか狂犬は獲物を押し倒すとそのままくるりと前転した。
 まるで巴投げの要領で――と当然、哀れな獲物の体が上になる。
 もしこれが人間同士であれば、獲物たる少年はそのままマウントポジションを取り、戦いを優位に進めたことであろう。
 しかし、屈辱を払うかのように毛を逆立たせた巨大な犬は少年の左腕に牙をより深く食い込ませ、丸太のような首を振り、瞬時に体勢を逆転させて再び獲物を組み伏せた。
 今度こそ彼は食い殺されるだろう!
 勝利を確信したかのようにナイトメアが身震いする!!――身震いして、そして、いきなり激しく痙攣した。
 その痙攣は一呼吸の間に収まり、すると悪夢は何か霊的な存在に魂を抜かれたかのようにぐったりと身を伏せた。すらりと空に流れる尾が名残惜しげに一振りされて、動かなくなる。
 全てはその犬が異常を来たしてから二分と満たぬ間に起こった。
 ビルの大型モニターの映像は、巨大な骸の下から這い出す少年の姿を映していた。
 もちろんその映像では確認できないが、ニトロは『完全版』を芍薬が解析した結果から、ハラキリが何をしたのか知っていた。
 彼は、ナイトメアと交錯したあの一瞬、二度目に組み伏せられたその刹那、巨大な犬に串を突き立てていたのだ。そう、串である。古いレシピ、原始的なバーベキュー、手に潜ませていたその金串を彼はナイトメアの血走る目玉を貫いて奥深く刺し込み、脳髄を破壊したのである。
 軍馬を食い殺す軍用犬、赤銅ヒグマを狩り立てる狩猟犬――その数少ない子孫、ナイトメアと名づけられたガルム犬は、ほんの数秒前までは何者にも負けぬ威容を誇っていたのに、今では蛆虫にすら抵抗できぬ身となって横たわる。
 ハラキリ・ジジは血の流れる左腕を押さえて立ち上がり、己の庇った少女に向かって何か一言二言、そうして無事を確認すると、力尽きたようにその場に座り込んだ。テーブルの陰からようやく少女の身が覗く。どうやら彼の元に向かおうとしているが、どうしても力が入らないようで、ただ体を前後に揺らすことしかできないでいる。そちらに笑顔で声をかける『師匠』は――きっとその場で休んでいるよう言っているのだろう――野良着服の粗末な帯をほどいて止血を始めていた。
 そう、全ては、その犬が異常を来たしてから二分と満たぬ間の事。
 今朝のニュースでは、解剖の結果、ガルム犬の脳からチップが見つかったことが報じられていた。それもまた新たな問題になるだろう。ハラキリ・ジジのオリジナルA.I.が最も近くにあった医療用アンドロイドを操り駆けつけ、しかし彼の命令で、大怪我をしたマスターを放ってまで必死に救命したあの奇跡の犬使いミラクル・ドッグマンは、もしや意識を取り戻した暁には生きながら地獄を見ることになるかもしれない。そうしたら彼は生き延びてしまったことを後悔するのだろうか。助けてくれた相手を恨みもするのだろうか。
(こちらとしてはそんなこと知ったこっちゃありませんよ)
 と、ハラキリならそう言うかな?
 ニトロはブラックコーヒーを啜り、こうしてのんびり飲むのが好きな自分は、さっきの老人のようにはなれないなと思う。
(……でも)
 本当に、ハラキリが死なないでくれて良かった。
 あれから親友は聴取だ何だと忙しくて、この件についてはちゃんと話を聞けていない。
「……」
 世の中はいつも通りに動いている。
 普段は全く交渉のない人々が、互いに同じことに関心を寄せることだって何も不思議なことではない。天気のこと、芸能人のこと、政治のこと、スポーツのこと、それが時々災厄であったとしても、社会はそうして何か共通の事柄を糊代のりしろにすることで目に見えない紐帯を維持し、経済を回し、人を動かし、世代を重ねている。
 だから今日みたいに多くの人が王女の動向に関心を寄せるのも、その『恋人』の生まれた日を特別視するのも何も不思議なことではないのだ。
 ニトロは奇妙な気分だった。
 後ろの方で高校生のグループが熱心に王女のことを話している。その中の一人の口ぶりは『ティディア・マニア』であることを伺わせた。
 それもいつものことだ。
 ニトロは奇妙な気分だった。
 我ながら落ち着いた心地だ。が、落ち着いた心地と薄皮一枚隔てたところではひどく興奮してもいるようだ。
「……」
 それはきっと、メディア関係者からも、王家の警備からも、そしてジジ家の目からも姿をくらましてみせたことに一因があるだろう。『逃がし屋』を使うなんて“普通”ではないことも抵抗なくできるようになったことにさえ、今では自然体で「良し」と言える。
 ふと、メディシアノス宮の前庭に並ぶ彫像群が瞼に蘇った。
 それらは歴代の『王』の立像であった。
 三代王の始めたその事業。当初は代に数えられる『君主おう』のみがその姿を遺されたものだが、いつの頃からか、特別に妃に王婿――君主の配偶者も共に並べられる世代が現れるようになった。それはただ王夫妻をいつまでも一緒に、という情的な理由からではない。その選定基準は、当世としても歴史的にしても、その配偶者が特別な存在であり、またその時代に大きな影響を与えたと認められることである。
――「その意味では、初代覇王と二代聖母王は並んで立たれて然るべきかもしれません」
 その宮殿を管理する一族の、次代の当主はそう言った。
――「しかしニトロ様もご存じでありましょうが、我がロディアーナ朝成立時の事情からも、そして政治的歴史的に考慮しても、お二方はそれぞれ独立した存在としてお立ちになられるべきと結論されたのです」
 慈愛に満ちた、けれど、どこか憂いと疲れをうかがわせる眼差し。何かを訴えかけながら、全ての救いをもたらすであろう優しい唇。質素だが威厳のある衣をまとったその人。その大理石の像は、もしや本人が魔物の瞳によって生前のままに石化した姿ではないのかとさえ思わせる。全ての彫像の中でも抜きん出ている奇跡の彫像を現実たらしめたのは、きっと芸術家の二代女王への深い敬愛そのものが具現したからであろう。
 だが、その奇跡の先に立つ像は、いっそ恐ろしい。
 それは人の形をしていない。
 ただ人の影の形をしているだけの岩。
――「作れなかったのです」
 メディシアノス侯爵は言った。
――「誰もが作ろうとして作れなかったのです。しかし、それこそが初代様を何よりも表すものと私は信じます」
 メディシアノス家はたった一つの宮殿の管理と、その中で執り行われる事柄を任されるだけの一族だ。しかし当主はアデムメデスの貴族の最高峰、公爵の地位を戴く。婚姻の暁には序列はあれども共同君主の座に就き、場合によっては単独で君主にもなり得る『王の配偶者』を教育するという仕事はそれだけ重要視されているために。
 ニトロは、老いた母の意志しだいでは明日にでも極めて誉れ高い役目に就く壮年の、熱い眼差しに含まれるところを理解していた。
 最後に先代の王の像を紹介した彼が、示そうとしないようにしてなお示さずにいられないでいた“その先の先”を、今はまだ空白の、そこでいずれ石となって永遠に王国の行く末を見守るであろう希代の女王の傍らにその影を見つめるのを――期待するのを、ニトロが察さぬわけがなかった。
――「昼食会には参加されないのですか?」
 別れる直前、侯爵は何気なく言った。ニトロは言った。
――「自分はそのための学びを得ていませんから」
 それは嘘偽りない言葉である。もちろん婉曲な否定でもある。それとも、あるいはそれは自分の悪い癖――ツッコミの裏返しであったのかもしれない。相手の投げかけた言葉を思わず綺麗に打ち返してしまった。今思えば失言だ。が、侯爵は実に満足げに頷いていた。その時ニトロは、きっと彼は優秀な教育者たり得ないだろうと、どうしてか直感してしまった。
「……」
 何気なく端末モバイルを撫ぜる。
 メディシアノス宮から出て以降、『逃がし屋』に攫われてからも芍薬とは一度も連絡を取っていなかった。その代わり、伊達メガネのレンズ型モニターには注意せねばならない監視カメラの位置、警察の巡回ルート、王家に関わりのある機関の動き等がリアルタイムで表示されている。それは毎日毎時芍薬が、ティディアの寄こした許可ライセンスを以って公的なセキュリティの情報を集め、精査し、勤勉に実地と知見を重ねて構築した逃走システムだった。隠し味は『ジジ家のネットワーク』に連なる“目”をも避けられるようになっているところ。お陰で的確な誘導と危険信号アラートに従って、今もまだ一人優雅にコーヒータイムを決め込めている。
(……もし)
 このまま逃げ切れたなら。
(ああ、そうか。そうしたら)
 初めて誰とも祝いの席を共にしないことになるのか。父とも母とも、友とも。
「……」
 それは寂しいような、大人になったような……
(……大人、か)
 ニトロは奇妙な気分だった――そういえば、その奇妙さも、なんだか大人になった気分と言えるものなのかもしれない。
 これまで大人になった自分を想像したことはなかったし、今も想像はできない。しかし大人になったニトロ・ポルカトは一体どんな感じなのだろう?
(例えば)
 悪癖を克服したニトロ・ポルカト。
 大人らしい落ち着きを得て、何でもかんでも反射的にツッコまぬニトロ・ポルカト。
 このツッコミ癖こそが全ての厄災を我が身に呼び込んだのだ。それを長所と言う人もいるが、己にとっては重大な瑕疵である。瑕疵と分かっているならそれを律することこそ成長というものだろう。我ながら、色々経験させられたお陰で随分精神的にもタフになったと思うし、以前に比べて物事に動じなくなった。あのバカには驚かされたり仰天させられたり度肝を抜かれたり呆れ果てさせられたりしてきたものだが、実際未だに呆れ果てることは往々にしてあるものの、当初よりはずっと平静に対処できる。これを成長と言わずに何というのだ?
(そうだ)
 ツッコまないニトロ・ポルカト。きっとそれが大人になった自分ってものだ。なんにでも噛みつきにいくのは青臭さそのもの。成人となり、ティディアのみならずジジ家にも一杯食わせた今、幼年期から着続けていたコートを脱ぎ去ることこそ自分への最高の誕生日プレゼントではないか。
 そうと思えばなんだか自信が漲ってくる。
 ニトロ・ザ・ツッコミという忌名いみょうに別れを告げて、真のニトロ・ポルカトに生まれ変わるのだ。いや、もう生まれ変われている。あとはそれを自覚するだけだ。そうして落ち着いた自分は地に足のついた喜怒哀楽を送り、あの老人のように苦くて甘い一杯を颯爽と飲み干し去っていく。
「――」
 ふいに、嫌な感じがした。
 それは明確な予感ではない。
 ただなんとなく、嫌な感じがした。
「……」
 逃走システムに異常はない。
 異常はない。
 ニトロはぬるいコーヒーを飲み干し、席を立った。テーブルのシステムに退店を伝え、階段を足早に降りるとハンチング帽を目深に被り直しながら外に出る。ロボット店員の「アリガトウゴザイマシタ」が無人バスのタイヤの音にかき消される。
 人通りに異常はなかった。
 老若男女がそれぞれの目的地に向けて歩いている。雑踏は不規則な流れを生んで、時に別れ、時にぶつかりそうになりながらそれぞれの指針を歪めず進んでいる。
 異常はない。
 ニトロはロータリーの先に大型トラックのあるのを見た。胴体にはアイドルグループのラッピングがされている。来週のコンサートに向けて資材を運んでいるのかもしれない。それを見る女子学生が三人立ち止まり、雑踏の流れが乱れた。ニトロは乱れた流れに紛れて駅から離れていく。
「主様!」
 突然、耳の中に芍薬の声が弾けた。

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