5−c へ

 モニターの中では、中央大陸西部最大の面積と経済力を誇る、ハロウヅ領で行われた大規模な舞踏会の様子が語られている。
 その舞踏会は女性が正式に社交界にデビューする場、つまり『デビュタント・ボール』として毎年10月9日――初代ハロウヅ領主の誕生日を記念して行われているものであった。ここでデビューする資格を有するのはハロウヅ領を含む中央大陸西部5領に住む、16歳から30歳までの者。定員は100名で、内、後見人が西部社交界の人員である者が50名、または社交界からの推薦のある者が40名、その他に指定の機関において学力・教養のあることとダンスを踊ることが可能であると認められ、審査を通った者が10名(いずれも男役パートナーは自身で用意せねばならない)である。
『デビュタント・ボール』は各地の社交界で様々に開かれているが、こと中央大陸西部においてはハロウヅ領主が主催を務めるこのユヴト舞踏会こそが最も格式高く、由緒正しい。会に参加するのはデビューする者と、その後見人、そして基本的には地域の大物ばかりだが、時には王族も現れ、今年は『王佐家』の一人――現国王の従弟であり、海を挟んでお向かいにある西大陸西副王都ウェスカルラを預かる大公が姿を見せていた。
 それほどの舞踏会。
 当然、中央大陸西部社交界の子女の誰もがここでのデビューを夢見るものだ。そして社交界に縁もゆかりもない者であっても審査さえ通ればこの舞踏会を足がかりに立身出世を目論めるため“塾”や“教室”に少なくない金額を支払い、中には住む場所を移してまで、毎年何千という人間が文字通り血と涙と汗を流して貴重な10席を争っている――と興奮気味にキャスターが説明しているのを、ニトロは銀河共通語に自動翻訳させて聞いていた。
 今年デビューする者の中で最も注目を集めているのはレッカード財閥当主の曾孫だとキャスターは言う。
 流石に舞踏会場に報道カメラが入ることは許されなかったのだろう、プレスリリースされたものであるらしい映像の中心に、17の少女がすっと背筋を伸ばして立っていた。舞踏会と契約を結ぶブランドがこの日のために仕立てた特別な純白のドレスを身に纏い、美しいプラチナブロンドの髪にダイヤを散りばめたティアラをいただいて、アデムメデス最大の財閥の令嬢はこのうえなく上品な笑顔をカメラに向けている。
 その隣で彼女に腕を貸すのは、ニトロにとっても馴染みのある、次代当主と目されるアンセニオン・レッカードであった。
 彼は姪の娘の父役として参加しているという。見目形よく挨拶する曾孫を見つめる当主の老レッカードは驚くほど柔和な皺を目元に刻んでいた。その背後では主催のスロウグ・ユヴト・ハロウヅ領主が、国政における最大野党の副党首であるライリントン衆議員と握手を交わしている。カメラの視線はその議員からさらに横に動き、そしてやはりこの日のための真っ白なドレスを着て、ダイヤのきらめくティアラを戴くライリントン嬢の姿を捉えた。
 キャスターが言うには、このライリントン嬢こそ“出世頭”だという。今年デビューする者が判明した折にはスポットライトの端に触れるくらいであったのに、彼女は先の『ティディア姫の誕生日会』においてあのハラキリ・ジジと重要な会話を交わしたことで注目を集め、しかも先日、またもそのハラキリ・ジジと共に凄惨な事故を生き残ったことで一躍時のヒロインとなったのである。
 彼女は良くも悪くも育ちの良さを感じさせる足取りでアンセニオン・レッカードへ歩み寄ると、どこかカーテシーの作法を自慢するように、朗らかな笑顔で膝を曲げてみせた。共に『誕生日会』に参加していた二人である、すぐに打ち解けた態度で言葉を交わす様はとても絵になっていた。片やあらゆる社交界でもてはやされる好男子にして、独り身の、顔も美々しい御曹司。片や話題ばかりが早咲きしたものの、今こそ本物の蕾がほころんだ可愛らしい少女――華々しいとはこのことだろう。
 リスニングの練習のために眉間に皺を寄せていたニトロはそこでふと息をつき、
「別世界だと思っていたよ」
 マスターの唐突な言葉に、運転席の芍薬が「ウン」と促しを返す。
「だけどここには知ってるだけじゃなくて、話したこともある、握手したこともある人がいて」
 どうやらデビューのワルツが終わり、懇談の場を映しているらしいカメラの画角に入る大勢の紳士淑女の中に、ティディアに『仕事』だと連れ回されるうちに見知った人が一人、また一人。その人達を背景にしてマイクを向けられているのは、有力な縁故コネもなく審査に通ってきた女性デビュタントだ。涙で顔をぐちゃぐちゃにした彼女はこの会場でデビューするのが夢だったと語る。――この人からすれば、自分は何と傲慢なのだろう? ニトロは彼女が涙を拭うために手にする、形は崩れているが確かに守護天使のマークであるらしい刺繍の入った白いハンカチを見ながら、
「地続きだったのか、ハシゴで登ったのか、釣り込まれたのか……知らぬ間に迷い込んで、いつの間にか慣れちゃってもいたけれど」
 次にカメラを向けられた男――審査組の女性のパートナーとして共に狭き門を抜けてきた“一般人”も、真新しい燕尾服の襟を皺が寄るほど握り込んで夢が叶ったと言った。
「こうして見ると、やっぱり別世界だね」
 芍薬はそれを観るマスターの横顔を見つめ、
「主様ハ、夢ニ見タコトハナイノカイ?」
 高熱に浮かされているように顔を真っ赤にした少女が、代表取材に応えている北大陸の貴族の後ろを横切って、ワルツのパートナーだったのだろうか? 同い年ほどの少年に話しかけにいく。デビューする者達は皆、お揃いの白いドレスとティアラを身につけているのだが、だからこそこれは残酷だとニトロは思う。皆で同じ格好をしているからこそ、その外見が、その内面が、その立ち居振る舞いの差が際立ってしまう。そしてそれを、彼女らを迎え入れる先人達は抜け目なく値踏みしているのだ。
 ニトロははっきりと言った。
「夢にも思わなかった」
「ソレナラ良カッタ」
「うん?」
「夢ナラ忘レルコトハデキテモ、殺スコトハデキナイカラネ」
「夢を殺すなんて、詩人みたいなことを言うね」
A.I.アタシ達ニ詩想ヲ吹キ込ム女神ミューズハイナイヨ、主様」
 ニトロが笑う眼前で、解説者がこの舞踏会が慈善事業への寄付を募るチャリティーイベントでもあることと、経済界にとっても重要な交渉の場であることを語っている。特に中央大陸西部の盟主であるハロウヅ領主とレッカード財閥の当主、そこに北大陸の貴族と西副王都の大公が揃ったことで、中央⇔北⇔西の大陸間海底トンネルの実現が近づいたのではないかとの推測がなされていた。
 次の特集は南大陸で第一王位継承者が起こした騒動に関するものであるらしい。だが、まあ、それはいつものことだ。話題を振るキャスターの顔も声も本来は大問題であるはずのことにすら平坦である。
 目的地も近い。
 ニトロはダッシュボードのモニターを消し、近づいてくる王城を見た。
 雨上がりの曇天を透く朝日を受けて鈍色に照る人造湖おほりの中に立つ美しい城は、もう何度も見たというのに素晴らしい。そこに住む者に何度煮え湯を飲まされようと、素晴らしいものは、やはり素晴らしい。
 しつこく周囲に取り巻いてきていた報道やパパラッチの車両が急に停止して後空あとに取り残されていく。城からは数機の無人警戒機と二台の装甲飛行車アーマード・スカイカーを率いて二人乗りの空中走板スカイモービルが飛び上がってくる。
 芍薬はハンドルを切った。
 城からの誘導に従うこちらと、こちらに迫る警備兵達はわずかに進路を開けあってすれ違い――その時、アーマード・スカイカーとスカイモービルに乗る警備兵達が一斉に敬礼した。ニトロは自然、瞠目した。その敬礼にも驚いたが、しかもスカイモービルの後部に光線銃を携えているのは警備兵長ではないか。顔も名も知っているが、ただその役職名を通してしか交流のない相手。そもそも部隊を指揮する立場の者が、それも報道陣を留めるためだけに前線に出てくることなどあり得ぬのに……厳格な眼差しと、驚きながらも謝意を示す素直な瞳が交錯し、すると王城を守る者達は空に残る無作法な一団に向けて加速していった。
「……」
 ニトロはバックモニターに警備兵達の活躍を見ながら、車が3番ポートに向けて降下していくのを体に感じていた。
 指定された場所に芍薬が車を下ろすと、迎えに出てきたのは警備兵の服を着たアンドロイドが二体。双方共に同じデザインの躯体で、徽章のない制服を着ているのに――不思議なものだ、それらを操縦しているのは誰なのかがニトロには判る。彼は思わず苦笑してしまった。これは、またも大物が出てきたものだ。
「おはよう、リットルオングストローム。突然訪ねてごめんね」
 王城のセキュリティシステムを統括しているオリジナルA.I.と、攻撃アタック部門のかしらであるオリジナルA.I.とが一糸乱れず敬礼し、
「オハヨウゴザイマス、ニトロ様。何時オイデニナラレテモ歓迎スルヨウ王太子殿下カラ仰セツカッテオリマスノデ問題アリマセン」
 無機質なその声はlのものだ。ニトロはそこで、黙した相手の欲する言葉を返した。
「ちょっと追いかけてくる人達をまきたくて、地下通路を借りたいんだ」
「承知イタシマシタ。ゴ希望ノルートハゴザイマスカ?」
「いや。lが、一番良さそうなところに案内してもらえる?」
 lは厳めしく造られた顔の、その双眸だけをニトロの背後へ向ける。芍薬は頷いた。Åはニトロだけを見つめている。
「承知イタシマシタ。コチラデ選定イタシマショウ」
 ニトロはうなずき、
「ありがとう。――ところでパティは? やっぱりまだ寝てるよね」
 lは厳めしく造られた顔の、その双眸でニトロを見つめる。まるで相手の脳を覗き込もうとするかのように。そして、言う。
「今ハ誰ニモオ会イニナラレナイトノコトデス」
「そっか」
 ニトロはうなずいた。
「よかったら起きるまで待って、少しだけ数学を教わっていこうと思ってたんだけど、それならしょうがないね」
 半分は嘘、半分は本当のことを言うと、相手は非常に珍しく困ったような声を返してくる。
「ソレハ次ニ機会ニ、是非マタオイデ下サイ」
 ニトロは笑った。
「そうするよ」
 その肯定に――その意味に、流石にlが反応を躊躇い硬直する。
「何カオ企ミノ上ダトシテモ、オ変ワリニナラレマシタナ。ソレモ急激ニ」
 と、そこにÅが割り込んできた。およそ隙を見せた味方に迫る刃を弾かんというタイミングでの発言であったが、そこに込められていたものは感嘆とは違い、ずっと素朴な感触だった。ただ事実を事実と言っただけだという感だろうか。それも“自分は疑っている”ということを隠さず示しているからにはその感触がより強まって感じられる。ニトロはそれを聞いた時――正直不思議に思っていたのだが――lがÅを帯同してきたのはこのオリジナルA.I.のこういう性質をたのんだためだろうと察した。そして実際、そこに作為を感じていれば、自分も素直には応えなかっただろう、
「いいや、Å、俺は何も変わっていないよ」
「謙遜カ、ソレトモ偽装デスカナ? 先刻ノ“挨拶”モ拝見シテオリマス。ソノ上デ、ソノヨウナオ言葉、トテモ信ジラレルモノデハゴザイマセン」
 ニトロは微笑む。かつて芍薬を苦しめた相手に、
「そう言ってもらえるのは嬉しいな。だけど、そうまで言われるってことは、きっとこれまでの俺こそ嘘つきだったのさ」
 それをlとÅはどう聞いただろう。そしてきっとこの情報を共有しているはずの王家のオリジナルA.I.達はどう聞いただろう? Åはまるで攻略しがいのある城を眺めるかのようにこちらを見つめている。そしてlは、
「立チ話ヲスルヨリモ、オ茶ヲ一杯イカガデスカ?」
 半ば冗談めかし、半ば実験的なセキュリティのおさの提案に、ニトロは即答した。
「お言葉に甘えてご馳走になるよ。誕生日に料理長のパンケーキを頂けるなら、それは嬉しいプレゼントだ」
 その瞬間、Åが笑った。lは何も態度を変えず、ただ優雅に会釈してくる。その制服には似合わぬ所作だが、そちらの方が相応しいと考えたらしい。
「料理長ハ喜ンデオ作リ差シ上ゲルトノコトデス。ドウゾ、ゴユルリトゴ滞在下サイマセ」
「ありがとう」
 ニトロは、そして言う。
「それから芍薬はここで帰るから、目的地までの先導を頼んでもいいかな?」
 lとÅは今度こそ明確に驚愕した。王家のA.I.達は芍薬を、その強力なアンドロイドを凝視した。ニトロは――ニトロ・ポルカトはあの『戦闘服』を着ていない。パワードスーツの類はおろかナイフの一本すら所持していない。まさかハラキリ・ジジが秘匿しているはずの魔薬、驚天動地の『天使』を既に内服済みなのか? 王家のA.I.達はそんな疑いさえ抱いてしまう。
 二人の様子に、ニトロは穏やかに苦笑し、
「芍薬はどうしたって目立つからね。これから姿をくらまそうっていうのに、一緒に行動するのはおかしいだろう?」
 その言い分はもっともである。だが、
「今シガタ、リットルニ茶席ノ提案ヲ撤回スルヨウ進言シマシタ」
 Åが言った。
「シカシ、ヤハリゴ滞在ヲ願ウトノコトデス」
 その声に失望はない。怒りもない。敵意すらもない。ただ純粋な警戒だけがある。それを示すためだけにÅはその情報ことばを開陳したのだ。ニトロはうなずき、
オングのそういうところ、俺は好きだよ」
 アンドロイドの顔は動かない。
 ニトロがlに目を移すと、lは改めて優雅な辞儀をした。その意図するところは先と同じで、しかし意味するところはわずかに違う。彼はそれを感じながら、それ以上に王家のA.I.達の、芍薬に向ける眼差しにこそ何か決定的な変化があると感じていた。機械仕掛けの瞳の色に変化はないのに、二人はまるでこれまで見たことのないものを見るように芍薬を凝視しているように思える。それはきっとオリジナルA.I.同士だからこそ抱く感情であるのだろう――いや、ニトロはふいに勘づいた。あるいは、この二人は、芍薬をこそ目前に見ようと現れたのではないだろうか。不可思議なニトロ・ポルカトではなく、不可解な行動をマスターに許す忠実なオリジナルA.I.を。
「……」
 ニトロは好奇心に抗えず、ちらと芍薬を一瞥した。芍薬はニトロが振り向くことを分かっていたかのように、微笑していた。
 ニトロは思わず口の端に笑みを浮かべながら、一歩城内へ招く扉へ足を踏み出した。そして、浮かべた笑みをそのまま王家のA.I.達に向け、
「心配しなくても、あいつが帰って来る前にはここを出ていくつもりだよ」
 それを聞いた刹那、lが居ずまいを正した。それは表面的な変化ではない。背筋を伸ばし、自然体で立つ――その見た目には何の変化もなくとも、そこにピリと稲妻に似た線が一本加えられたことが彼には確かに解った。
「ニトロ様」
「うん?」
「ゴ成人、オメデトウゴザイマス」
 その言葉の意味と意図にはまた齟齬がある。見ればÅは武人らしい微笑を差し向けてきていた。ニトロは、親しく応えた。
「ありがとう。これからも、よろしく頼むよ」

 ニトロ・ポルカトの通う高校は、奇妙な空気に包まれていた。
 元より今日、くにの話題の中心にいる彼が登校してくる可能性はゼロに等しいと誰もが理解していたというのに、今もなお門前には無数の非関係者がつめかけている。報道陣をはじめ、ニトロ・ポルカトのファン、あるいは単純に話題の人物を見たいだけの野次馬達。それらは目的の人物が王城に入ったと知ってもそこから離れない。確かに夜明け前よりもその数はずっと減っているし、警察や警備員の警告に従い校内への接近を慎んでもいるが、それでもしつこく『万が一』を待ち続けている。
 そして多勢に取り囲まれる敷地内にもまた、その『万が一』への期待が存在していた。
 外も内も“そわそわ”していた。
 彼をよく知るクラスメート達も、彼が来ないと解っていながら、それでもやはり期待していたのだ。
 いかに有名人であろうと、同じ学び舎で同じ授業を受けていれば慣れも生じていつしか『有名なだけのクラスメート』になるものだ――としても、今日という特別な日の空気にてられて、だるそうに座ってどんなに興味なさげにしているその男子も、離れた席で女子の交わす噂から耳を離せない。多目的黒板マルチボードの前では、このクラスで二大派閥ともいえる仲良しグループの一つが今度息抜きのために行くテーマパークのことを大きな声で交わし合いながら、しかし意識は常にちらちらと教室の一角へ送らずにはいられないでいる。
 ハラキリ・ジジ。
 ニトロ・ポルカトに並んで有名な、かつニトロ・ポルカトに並んで時の人たる彼もまた、今日は登校してこないと思われていた。だから朝一に登校してきた彼を見た正門前の観衆はどよめき、日ごろから一番に登校してくる女子が教室で読書をしている彼を見つけた時には思わず「きゃあ!?」と声を上げてしまったものである。
 ひとえに、未だニトロ・ポルカトへの登校の期待が消え失せずにいるのは、そのハラキリ・ジジの存在のせいと言っても過言ではなかった。あの『英雄』の親友にして『師匠』がここにいるのなら、彼ももしかしたら……いや、きっと。
 次々と登校してくるクラスメート達は既にSNSに飽和する情報によってハラキリのいることを判っていながら、いざ彼が黙々と手元の端末に字を追っている姿を目にすると必ず一度は未確認生物を見るような目つきになってしまう。それから――この奇妙な空気のせいだろうか? 彼に近づくのは何だか憚られ、その席を遠巻きにしながらも彼の興味を引きたくて、あるいは熱心にニトロ・ポルカトの噂話をし、あるいはその一挙手一投足をじっと探らずにはいられなくなるのだ。
 すうっと扉をスライドさせてクラスメートがまた二人、入ってくる。その二人もまた怪訝にハラキリ・ジジを見た――見て、その片割れはこれまでのクラスメート達とは違って躊躇いなく彼に近づいていった。黄色いラインの入ったスニーカーを勢いよく振り上げるようにして椅子に尻を落とした彼女は、その勢いのまま、
「おはようっ」
 ハラキリ・ジジは目を上げた。
「おはようございます」
「何を読んでるんだ?」
「『リオナ、それともパメラ・レオニラル』」
「……」
「アデマ・リーケインです」
「ふうん」
「……」
「クオリアも読んだことあるかな」
「あるでしょう」
「面白いの?」
「文学史に名を残す大傑作ですから」
「あたしはハラキリの感想を聞いてるんだ」
「はあ。まあ、面白くもあり、面白いわけではなくもあり」
「はあ?」
「“ペルソナ”の概念が生まれる前にそれを本格的に取り扱ったことでも有名なわけですが、その分途中は何だこれと思うところも多々ありまして、しかし読み切ると他にはない充実がある。そこで面白いと言うには違いますし、面白くないと言うのも違う」
「ああ……まあ、なんとなくわかるところもある、かな」
「で?」
「『で』?」
「ご質問は端的に」
 クラスメートは白歯を見せた。目の中にイラつきが表れるが、いや、これはいつものことだと吐息をつき、
「ハラキリはどう思った?」
「何をです?」
「ニトロだよ」
 教室は、いつしか静かだ。ハラキリは眼前の女子を見、その恋人が一つ席を空けた椅子に座しているのを見、
「特に何も」
「何も?」
「何を思うこともありません」
「いや、でもさ……」
 言いよどむクラスメートをハラキリは少しの目の動きで促す。彼女は口ごもるように、そして少し恥ずかしいかのように、
「だけど……なんか、あいつ、急に変わっちゃったっていうかさ……」
 ハラキリは、ふ、と笑った。
 それが気に食わなかったらしいクラスメートの目に今度こそ怒りが燃える。が、
「ミーシャさんは変わって欲しくなかったんですか? ニトロ君に。そのように言うということは」
 単刀直入に言われ、彼女は面食らったように意気いきを飲んでしまった。
「あー……えーっと……」
「はい、どうぞ」
「……。ちゃんとしてた、と思う。ニトロらしいっちゃらしかったと思うよ? あいつがいつだったかあんなふうに周りを治めるのも前に見たことがあった気もするよ? でもなんかいつもと違って……立派、っていうとなんかあれだけどさ、いや立派って言うより自信があるっていうのかな……」
「堂々としていた?」
「そうだ、堂々としていた。けどなんか、なんだか寂しくも感じちゃったんだ。こう言ったらニトロは怒るかな、堂々としてるってのも堂々としすぎてるってのかさ、なんとなく冷たいっていうか、急にこう……急に、偉くなっちゃった、みたいでさ……」
 ハラキリはまた笑った。今度はクラスメートは怒らない。その代わりにむすっと唇を丸める。そっぽを向こうとして向き切れない彼女の様子にハラキリは目尻を緩め、
「まあ、分かりますよ」
「ほんと?」
 不機嫌から一転、疑い半分、喜び半分に女子の目が輝くのを面白げに見てハラキリは言う。
「彼は変わりました」
「やっぱりッ?」
「けれど、それはこれまで彼はずっと変わってきていたというだけのことです。そういう意味では、彼は変わっていないのでしょう」
 彼女の表情が固まり、眉がわずかに潜められる。瞳が上に、次いで左斜め上に動いてしばし留まると、瞼が半ば落ち、眉間には濃い影が表れた。
「もしかして、バカにしてる?」
 ハラキリは苦笑し、
「とんでもない。ただ、そうですね――」
 実際、彼も今朝のニトロの動向を見て“変わった”と思ったものである。ただ、そう、それは、
「急に人格が変わったとか、そういうことじゃないということです。偉くなったわけでもない。きっと彼は今も目の前にボケがぶら下がっていたらツッコまずにはいられないでしょう」
「うん」
 あまりにもあっさりうなずかれ、ハラキリは吹き出した。それを彼女は怒らない。むしろ得意気に胸を張り、日焼けの名残を肌に残す頬には笑みを刻む。その貌を眺めて、ゆるやかにハラキリは言う。
「ニトロ君は、ニトロ君ですよ」
 一つ息が置かれ、それだけの合間に相手が焦れるのを慰めるように彼は続ける。
「ミーシャさんの知るあのお人好しのままです。そこはご安心を」
「それならそれでいいんだけど……だけど、変わったんだろ?」
 拭い切れぬ不安に揺れる口ぶりに、ハラキリは軽く片眉を跳ね、
「より正確に言うなら、おそらく、変えた――いえ、もっと言うなら決めたというところでしょう」
 そう、親友がずっと何かを考えていたことは知っている――そこまでは口にせずとも、ハラキリの口調に確かな根拠を感じたらしいミーシャはそれを信じつつも、一方で新たな疑問を得て、首を傾げた。
「決めた? 何を?」
「さあ? それは後で聞いてみようと思っています」
 するとミーシャはじっとハラキリを見つめた。彼のいつも笑っているような細い目を、その奥底を覗き込もうとするかのように。
「そっか」
 やおら、彼女は言った。
「じゃあハラキリもちゃんとは分かってないのか」
「ええ、ミーシャさんが本当に知りたいほどには分かっていないと思います」
「思います、って。そういう時のお前は大体全部分かってるんだよなあ」
 彼女は大きく息を吸い、はあと吐いた。
「それならいいや。ちょっと安心したし」
「それは何より」
「……。まあいいや。ところでさ」
「おや、何か拙者にご不満でも?」
「だからもういいって言ってんだ。あれだろ、お前、あたしが何か頼みごとをしてくると思って面倒だって思ってるだろ」
「よくお解りで」
「スネを蹴るぞこのやろー」
 と言いつつ彼女はハラキリの左腕をちらと見て、唇を尖らせる。
「別に、ハラキリに頼まなくてもいいんだよ。だけどハラキリが一番話が早いだろ? クレイグもクオリアも、みんなお前に頼みたいんだ」
「――ふむ、ではどうぞ」
「ニトロにお祝いをしたい」
「なるほど」
 ハラキリは微笑み、頷いた。そして彼はミーシャから彼女の恋人に、それからいつしかやってきていた友たちに視線を広げた。
「そういうことなら、こちらからも頼みがあります」

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