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 感情を任意にコントロールできるのはO.A.I.アタシ達の強みだ。
 芍薬の手元には、三ヶ月ほど前から気にかけていた電脳応接室サロン記録ログがあった。
 ここには口汚い罵倒やスラング、高い知性を誇るがごとく機知を利かせたつもりの下手糞な中傷が溢れている。それらを語る連中の慰撫のための玩具にされているのは『ニトロ・ポルカト』――芍薬は“命”よりも大事なマスターへの悪意を一字一句漏らさず読み込みながら、平静に、また平然と仕事を進めていた。
 このサロンのホストは時に『狂騎士ナッツ』と呼ばれる類の強烈な『ティディア・マニア』で、それに感化された取り巻きが主要メンバーを占めている。堂々と公開設定になっているためサロンには誰もが出入りできるが、“恋敵”への憎しみを中心にして堂々巡りする会話の放つ腐臭を嗅いでなお近づこうとする者は少ない。取り巻き以外に入室しているのは、ただ臭いのキツイものほど好きだといわんばかりの悪食な見物人ウォッチャー。それらは部屋のあちこちでにやにやと笑っている。そのにやにやと笑う顔は、大半は嘲笑、残りは汚い物を見る快感に拠るものであるのだが、サロン主と取り巻きたちにはそれが賛同に見えるらしい。
 今宵、サロン主は実に饒舌であった。
 芍薬は巡回ロボットのまとめてきたデータを読み終え、現在進行形でサロン主の演説が続いていることを知った。すぐさま事前に用意していたアカウントでサロンに入りこむ。
 演説は佳境に入っていた。
 世間一般に、『ニトロ・ポルカト』と王女の婚約の報は明日にこそアデムメデスにもたらされるのではないかと噂されている。
 サロン主は声を大にしてそれを否定していた。我らが愛する姫君はそれほど愚かであるのか? ただ暇潰しの相手に選ばれただけの下郎は調子に乗っているようだが、奴は知るだろう、明日、その日、プロポーズなどという愚昧なことを企てれば、神たる王女の嘲りによって現実を知るだろう。そも何故ティディア様はあの男が御身に近づくことを許されておられるのか? それはその御身の穢れるのも厭わず、世の人々に、不平等こそ人間の本質であり、故に平等を正義とする価値観の偽善を暴き、身分を越えた夢を見る者どもに“分相応”という真理を悟らせようと深慮なさっているのである! そもそも『ニトロ・ポルカト』というものは『英雄』などに値するものでは決してなく……
 合いの手を入れるのは取り巻き達である。
 時折、見物人が茶々を入れる。
 サロン主はアバターの――ロディアーナ王朝初期の宰相の服を着る代体アバターの口角泡を飛ばして合いの手に力強く応え、茶々にも鷹揚に応える。
 芍薬は電脳商店街ウェブモールの大通りで特に欲しくもない電子クーポンを配るロボットを横目にするようにそれを眺めながら、全てを記録していた。
 演説にまた合いの手が入る。
 その合いの手は、これまでと少し調子が違っていた。
 サロン主に心酔する新参の取り巻きが、実に過激な要望を投げかけていた。
 見物人達に一瞬、動揺が走る。同時に期待も高まる。
 サロン主は新参に応じた。見物人達が動揺したことに優越感を得、同時に期待に応えようという態度でそれを口にした。
 芍薬は記録する。
 それは『ニトロ・ポルカト』への殺害予告に等しいものであった。
 直後、取り巻きの中で比較的冷静であった者がサロン主に忠告したらしい。演説が止み、突如サロンが非公開となる。事前に登録していた者以外は即座に弾き出された。もちろん取り巻き達は全員室内に残った。見物人の中でも数人が残った。そこには頻繁に茶々を入れていた者もいる。その者は元々サロン主と精神構造を近しくしていたのか、それとも揶揄茶化ちゃかしとはいえ何度も己の口から飛び出させていた悪意に己の精神まで引きずらせてしまったのか、サロンが非公開となった頃から少しずつ会話に参加し始めていた。
 芍薬も、その中にひっそりと残っていた。
 怪しまれぬ程度に相槌を発しつつ、そうして会話を記録し続けていた。
“殺害予告”以降、会話は軌道修正されることもなく、むしろその計画を楽しもうという悪感情が人の間を行き来し、次第に大きさも重さも増していていた。その減衰しない反響こだまに脳を揺らされ続ける者達は、やがて自家中毒に陥りながら、さらに強い毒を求めて煮詰まっていく。
 もう十分だ――
 芍薬は『ニンポー』を用いてこっそりとサロンを離れた。
 すぐにまとめた記録を王家の警備部へ事務的に連絡する。これまでのデータを――サロン主の他、取り巻き達がSNS等の個人情報局マイメディア上で行った発言や掲載した静動画から割り出した素性データもそっくり一まとめに添付して。
 それから芍薬はぐっと抑えていた、特に“怒り”に密接する諸感情の反応値をデフォルトに戻した。
 瞬間、腹が立つ。
 しかし『腹が立つ』――それ以上にはならない。もし先のサロンにいた時、事前に感情をコントロールしていなければアタシは間違いなくその場で怒り狂い、法を超えた私的な報復を考えただろうし、今にあってもその実行に向けて邁進していただろう。しかしそうならずにあるのは、ひとえにこの件の記録ログに紐付けられる記憶メモリ内の感情だけは調査中の設定と同じく抑えたままにしているため、だからこの件はただちょっと不愉快な出来事として胸に収められて……それで終わりなのである。
 芍薬は次の仕事に取りかかった。
 気にかかることはたくさん、たくさんあるのだ。
 第一にあのバカの動向である。主様の誕生日会がポルカト家では開かれないと知りながら――これはメルトンに確認済みだ――その日を目前にした今になっても素知らぬ振りを決め込んでいる。明日、何かがあることは確かだが、果たして何を企んでいるのか……
(それにしても)
 またも歪んだ『ティディア・マニア』の動向がもたらされる。104日ぶりに『プカマペ様の愛波動』という文言を見る。『ニトロ&ティディア親衛隊』の電脳屋敷ホームへ『狂騎士ナッツ』の団体が押しかけて激しい論争、というよりも衝突が起きているとの報が入った。
 一方で『ニトロ・ポルカト』がプロポーズをするために高級レストランを予約したという噂が流れていて、そのレストランのサイトがダウン、かつ周辺の店やホテルに予約が殺到、ついでにレストランのオーナーの親族が手がける会社の株価が急上昇していた。と同時に、どこぞのキャバレーで女を口説いていたとか、友達の友達に聞いた話としてプロポーズは既に済まされていて、明日は結婚を国教会に認めさせに行くとニトロ・ポルカトが語っていたというのもあった。
(賑やかだねえ)
 芍薬は苦笑を禁じえない。
 腹立たしい『マニア』達の動きが活発なのも、おかしなデマが増殖するのも、無論全ては残り2時間10分6秒で主様が成年に達するためだ。
 その時、ニトロ・ポルカトは様々な権利を得、義務を負い、保護者の同意がなくとも単独で契約を結ぶことができるようになる。
 ――そう、契約。
 例えば婚姻という契約。
 アデムメデスでは男女共に十六歳から結婚できるが、十八歳未満では保護者の同意が必要である。十八歳以上であれば自分の意志で結婚が可能だ。
 自分の意志で!
 今現在、『ニトロ・ポルカト』がいつまで経っても愛しの姫君にプロポーズしないのは自身の成人を待っているからだ――というのが世間に流布する一つの有力な見方であった。
 もちろん今すぐ結婚しようとしても彼の両親は同意を下すだろう。結婚に支障はない、しかし真面目な彼のことだから、全てを自己の責任において行えるまではそれをしないのだ。何故ならば、そうでなければあの希代の王女の伴侶となるに相応しくないがために。銀河を渡る時代にアデムメデスの黄金期を打ち立てようとする次代の女王と王座を共にしようというのに、それすら己の意志一つで決断できなくては情けないではないか。
 多分に世間の願望の混じったその憶測は、ことここに至って大きな期待ともなっている。あの姫君の『誕生日会』ではプロポーズこそなかったものの、それに比肩する決闘ドラマがあった。感動的なワルツもあった。しかしそろそろメインディッシュを頂きたい。焦らされ続けるのももどかしい。
 だが反対に、あれほどの『誕生日会』ですらプロポーズがなく、あのような経緯けっとうを経たからには、近々にプロポーズのされることはないとの見方もまた有力であった。
 そもそもその会において姫君は仰っていたではないか――『私達に相応しい機会に今度こそ』……なのにそれが“成人を迎えたから”ではお粗末であろう?……いいや、それは多くの者が無自覚に迎える重大事であり、故に自覚を伴えばこそより重みを増す。もし彼がそれを自覚しているのであれば、その日を祝う時にこそ、その意志は鮮やかに花開くものであろう? ならば、やはり!
 アデムメデスは、そわそわしていた。
 それが有るか無きかの判ぜぬ状態だからこそ、気を揉むくにの至るところに摩擦が生じて熱が上がっていた。
 お祭り騒ぎ。
 祭事は本番に向けての準備期間がまた楽しい。
(……)
 芍薬は、絶えることなく集まり続ける喧騒データの奔流をじっと眺めていた。
 遠巻きにしていても、いつの間にかこの身を巻き込んでしまいそうな異次元の濁流。
 収集する条件を絞ってもなお大河の暴走に似るこれは、結局、全てあのバカの起こしたものだ。大きな話題、小さな噂話、そういったものを的確にメディアに流すことで「ニトロ・ポルカトは彼女の恋人であり、いずれ二人は結婚するのだ」と、言わば世間を洗脳することで作り上げてきたものだ。それもただ主様と『夫婦漫才』をするため、という阿呆な理由に端を発して、その目的に向けて、なかなか陥落しない難敵の心の牙城を追い込むために外堀を埋める手段として生み出してきたものだ。
(けれど)
 アタシの主様は、世間の期待に応えねばならぬと気負って心を傾けるようなことはない。それに流されることも決してなかった。
 とはいえお人好しの主様に対してはこれが有用な手段であったことも確かで、その期待に応えるつもりはなくとも、期待を裏切ることに呵責を覚えるが故に、折に触れて主の行動に制限のかかっていたことは否めない。でなければマスターは『ティディア&ニトロ』として多くのファンを獲得することもなかっただろう。その意味では――その時々で様々な事情があったとはいえ――主様が敵の策を自ら補強してきてしまった面はある。しかし、それら期待の全てを裏切っていれば、きっと今頃『ニトロ・ポルカト』は社会悪として激しく糾弾され、その上で『クレイジー・プリンセス』に求婚されるという凶悪な事態に陥っていただろう。であれば、結果論ではあるが、マスターはお人好しであるからこそ、それを回避してこられたということになる。
 ――だが、今後はそうもいかなくなるだろう。
(……)
 芍薬はある種の緊張感をもってそれを見つめていた。
 大河の暴走に似るこの流れ――全てはあのバカの起こしたはずの流れの中に、いつしか生まれていたものがある。
 それは独立した支流というようなものであり、その源にあるのは、つまり、『英雄』であった。
(また少し大きくなったね)
 とみに最近、『ニトロ・ポルカト』に対する批判的な発言が目立ち出した。敵意むき出しの『ティディア・マニア』はともかく、そうでない者からの批判も。それはいつからだったろうか? 細かなものを探せばそれこそ主様が『恋人』として紹介された頃から存在するが、現在のその流れを決定づけたのはやはり『劣り姫の変』に他ならない。それがここに来て、ティディアの作った主流に、この凄まじくコントロール不能に思える濁流に、間違いなく影響を与えられるほどに成長していた。
(……)
 渦巻く轟音に耳をろうされながら芍薬は思う。
 あの応接室サロンの主が最低限はあったはずの自制心を失ったのも、そう、マスターがミリュウ姫を赦した後のこと。そうだ、あの赦しこそが、きっと大きなトリガーだった。これからも同じように過激化する者は出てくるだろう。これまでは好意を示していた者が、ちょっとした拍子に転換することも多々あるだろう。
 やはりこの環境は厄介だ。
 厄介な環境は生きるに辛い。
 そして生きづらい環境にある者が、もっと生きやすくと願うなら、そこに示される選択肢は常に三つだ。
 一つはその環境に適応すること。一つはその環境から逃れること。また一つは環境そのものを変えてしまうこと。
「……」
 芍薬は注ぎ込まれ続けるデータの奔流を消した。幾万幾億と重なるやかましさが残響もなく消え、深い静寂が訪れる。
 草原の光を模した明るく静かな部屋スペースで、世間データの監視は専用プログラムに任せ、芍薬はつい今しがた届いた情報を手元に引き寄せた。そこに書かれている教育関連企業の分析結果を読み込みながら、芍薬は傍らの何もない空間を指で撫で下ろし、透明な取っ手を掴むようにして腕を引く。すると空中に長方形の切れ目が入り、そこから抽斗フォルダが引き出された。目当ての書類ドキュメントを抜き取った芍薬は二つのデータを見比べながら抽斗を押し閉める。抽斗は虚空に吸い込まれるように消えていく。
「芍薬」
 と、呼び声が聞こえた。結果データに過去と現在と未来とを照らし合わせて熟考していた芍薬は、即座に、物理的に思考回路を切り替えた。
 電脳の目を閉じ、機械の目を開く。
 瞼を持ち上げる時はいつだって新鮮だ。
 黒いとばりを横一線に光がき、やがて広がる世界に意識が同調していくのは、大切な人の住む別の次元に本当に入り込んでいくように感じられて、いつだってココロが浮き立つ。
 眼前には『戦闘服』を着た少年がベッドに腰かけて、どこか期待に逸るような――そのくせとても不安に苛まされる顔をこちらに向けていた。
 芍薬は問いかける。人造の唇を柔らかに開き、
「何だい?」
 彼は固く問いかけてくる。
「ソロソロ来タカナ」
「御意」
 彼は期待と不安の入り混じる唾を飲み込み、こちらを真っ直ぐ見つめる。
「ドウダッタ?」
 芍薬はその問いに答える前に、今一度データを参照した。その一つは毎年大学受験をする人間の全てが受ける『大学入学検定試験』に向けた模試の結果と、その結果を元に導き出された志望の叶うかどうかの判定である。もう一つは芍薬がジジ家のA.I.の協力も得て分析した本年度の受験生の傾向と、模試とは別にマスターが自習として繰り返してきた数々のテストの得点を取りまとめたものであった。
 それらを鑑みた結果、芍薬はマスターへ――ニトロ・ポルカトへ、うなずいてみせた。
「いけると思う」
 するとニトロは、好ましい結果を聞いたというのに眉間に陰を刻んで、うつむき、唇をぐっと結んだ。組まれた手に力がこもる。肩はすくめられるように強張っている。
 そうしてしばらく沈黙した後、彼は再び芍薬を見つめた。真っ直ぐに。
思イ切ッテモ、イイカナ?」
 芍薬は――
 うなずいた。
 するとニトロは深く息を吐いた。深く息を吐き切って、やがてうなずいた。
「ヨシ。ソレジャア勝負ニ出ヨウ」
 芍薬は体温のない体にマスターの発する熱を確かに感じ取りながら、力強く彼を見つめ返した。
「承諾」
 それから二人は他愛もない話を二つ三つと交わした。話題に脈絡はなく、ただ単に思いついたものを並べただけのその会話は、ニトロが己の決意と決断からくる興奮を鎮めるためのものであり、思い返してみても何の意味も生じないものであった。熱心に会話を楽しんだマスターは、きっと話し終えたそばからその話題を忘れてしまっただろう。そうして忘却することで昂ぶった神経を冷却し、現在いまは必要のなくなった『戦闘服』から寝間着に着替えてベッドに横たわる。両目は安らかに閉じられて、それでも、その呼吸音にはわずかに緊張感が残っていた。いや、消し去れないでいるといった方が正確だろう。無論、マスターが眠りについていないのは明らかだった。
(……)
 あと21分で日付が変わる。
 その21分で人間が変わるわけがない。
 ただ、法的な環境が変わるだけだ。
 それが肉体に影響を及ぼすことはなく、精神に干渉することもない。意識の変化を促されることはあろうとも、人格が一変するほどの作用が引き起こされるわけもない。
 むしろ一変するのは、その法によって成り立つ社会だ。
 ニトロ・ポルカトは安らかに息をしている。
 20分後も変わらず息をしているだろう。
 体温のないアンドロイドの目で、芍薬はマスターをそっと見守り続けた。
 時計の時を刻む音もなく、何の音もない。
 夜闇の中、外の光を遮断するカーテンの向こうには、いつもの夜景、そしていつにも増して有象無象の光がごちゃつき密集しているのを芍薬は見る。それらを赤色回転灯が、今宵もう何度目か、追い散らそうとしているのを見る。
 外界の音を遮断する壁、ガラス、ドア。
 芍薬の耳に人の寝返る衣擦れの音が聞こえた。
 それ以降はまた静けさに、そして、何の音もなく日が変わる。
「……」
 10秒――35秒――
「主様」
「何ダイ?」
 やはり起きていたマスターが、ほんの微かに囁きかけた芍薬に、すぐに聞き返してくる。その声音は自然だが、やはりどこかにどうしても緊張感がこびりついている。芍薬は闇の中にも目の利く眼を細め、
「お誕生日おめでとう」
「……ウン」
 1分が過ぎても、静けさが部屋を満たしている。何事もなく、平和に。
私はあなたと出会たことに感謝しますホーリーパーティートゥーユー
私モアナタト出会タコトニ感謝シマスホーリーパーティートゥーユー―― アリガトウ、芍薬」
「どうやらゆっくり眠れそうだよ?」
「ドウヤラ、ソノヨウダネ」
 しばらくすると、安らかな寝息が聞こえてきた。なのに、やはりその寝息にすら緊張感が潜んでいるように思えてならない芍薬は音もなく立ち上がり、主のベッドのすぐ傍らに座を移した。
「……ホーリーパーティートゥーユー」
 そうして再び囁きかけた芍薬は、今度は声に応えることなくゆっくりと呼吸を繰り返す彼の姿に、そっと微笑んだ。

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