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 ティディアが大汚職事件を颯爽と解決した、翌日。9月1日。
 北大陸ではアデムメデス国教会主催の由緒あるチャリティーイベントが開かれていた。
 開催会場は、北副王都ノスカルラにある5thクイーンスタジアム。武勇名高い偉大な祖母を讃えて7代王が作らせた複合競技場であり、老朽化する度に改築しつつ建設当時から同じ場所に存在し続けるアデムメデス最長の歴史を持つスポーツ施設。そのグラウンドに設置されたメインステージでは各業界の著名人らが、トーク、生演奏、話芸や寸劇、あるいは特別なファンサービスと様々な催しを自主的に開いて参加者を楽しませていた。
 毎年行われるこのイベントには、例年にも増して極めて多くの人出があった。
 その理由は明確で『ティディア&ニトロ』がやってくるためである。
 ただし、二人は今回漫才コンビとしてやってくるのではない。チャリティーオークションの司会のためにやってくるのだ。オークションの目玉は王女ティディアから出品されたドレスやアクセサリーである。司会の二人には、それらにまつわる思い出話を丁々発止のやり取りで紹介してくれることが期待されていた。
 加えてオークションの後には抽選会があり、もし特賞が当たれば“次代の君主夫妻”と今夜一緒にディナーを楽しめる。この『ディナー券』は、何らオークションに出品できるもののないニトロがティディアの提案を飲んだために作られた賞品であったが、何よりこれが超巨大な目玉としてさらなる話題を呼んでいた。何しろ『劣り姫の変』からまだ日も浅い。『英雄』たる少年への熱はまだ冷めぬ。となれば、希代の王女と最強のお目付け役付きで会食できることも含め、極めてレアなその機会を多くの者が欲するのは自然であろう。しかも! このディナー券を当てた者は、今宵の豪勢なディナーのみならず、同時に今月末に王都で開かれる第一王位継承者の誕生日会にも招待されるのだ!
 これで人出のないわけがない。300年の歴史のあるチャリティーイベントにおいて参加人数・募金額・売り上げ各種に空前の記録が生まれることも自然、いやむしろ必然であった。
「――というわけで!」
 楽屋として用意されたVIPルームの扉が開かれるなり、内で『相方』を待ち受けていたティディアは明るく元気に跳躍した。
「相談があるの!」
 ティディアが跳躍した先にはもちろんニトロがいた。そしてもちろん、ティディアはニトロに抱きつく予定だったのである。
 だが、開いた扉の先にニトロは確かにいたものの、それ以前に彼とティディアの間には一つの障壁があった。芍薬アンドロイドである。実際、扉を開いたのも芍薬であった。ドアノブを手にしたままの芍薬と、空中を行くティディアの目がばちりとぶつかる。アデムメデス人としては実に驚異的な跳躍を見せた王女は長い滞空時間の間に、
「体デ聞イテヤルヨ」
 と、にっこり笑いながら腕を広げる芍薬の声を聞いた。
「――いやん」
 頬を引きつらせてうめくティディアはそのまま芍薬に抱き止められ、
「っぬはああああ!!!」
 瞬時に、芍薬にベアハッグを極められて悲鳴を上げた。
 ニトロなら――『ニトロの馬鹿力』が発動したら別の話だが――ツッコミで撃退されていただけであっただろうに……流石にアンドロイドに機械式の馬力で胴を折りにかかられては堪らない!
「んのおおおほうぅぅぅ……!」
 まさに『戦乙女』の死の抱擁である。ティディアの顔が瞬く間に赤紫色となる。過去に食らったニトロのベアハッグも苦しかったが、それでもその苦しみの中には彼に抱きしめられているという喜びを見出せた。しかしこちらは苦悶オンリー。しかもニトロがこちらを見もせず脇をすり抜け部屋に入っていくからには心がロンリー。ドアの閉まる音がやけに寂しく聞こえる。ティディアは絞り出すような声で悲しく鳴き続ける。されど応える者はおらず、応えて欲しい人は振り返らず、その上悲鳴と共に吐いた息を横隔膜が満足に働けないために改めて吸い直すことが出来ないときた。悲鳴もやがて先細りする。流石に限界。タップをして降参を示すが――いやん、芍薬ちゃんたら離してくれない! 正直もう本気でイきそうです!
 一方、部屋に数歩入ったところで、ニトロは思い出したようにふと小首を傾げた。黒地に紅葉をあしらったキモノ姿のアンドロイドに大胆な紅いビキニ姿の女が折り曲げられているのを背にしたままに、正面に立つ女執事に訪ねる。
「ひょっとして、扉が開いたらそれが誰かも確認する前にとにかく飛びかかる――なんてことをしてた?」
「はい」
 ティディアは柔軟性も素晴らしい。普通なら背骨が折れているんじゃないかという勢いで背を反らし、白目を剥いてぴくぴく痙攣しては口の端に泡を吹き出している。そのざまを歓喜の瞳で観ていたヴィタはニトロへ短く気のない返事をした後、こちらもふと思い至ったように、
「何故ですか?」
 ニトロは主人を助けるどころか主人の苦悶に夢中になっていた執事に苦笑を送り、それから芍薬へ肩越しに視線をやった。
 その合図で、芍薬がティディアを解放した。すっかりぐったりしたティディアをぽいと部屋の中に捨て、楚々とニトロの傍に歩み寄る。
 その間、ようやく満足に息ができるようになったティディアは恐るべき回復力で復活するや首の力だけで床から跳ねて立ち上がり、数秒前までのぐったり具合が嘘のように力強く叫んだ。
「もう少しでオシッコ出ちゃうところだったわー! まさか白昼堂々お漏らしプレイ!?」
「いきなりシモネタか!」
 反射的にニトロは叫び、しまった――と思ったが、ティディアは既ににやりと笑っていた。
「違うわよぅ。失神と失禁は割合セットなの、知っているでしょう?」
 ティディアの言うことは、事実ではある。確実な“セット”ではないものの関係性は否定できない。とはいえこのまま話を合わせているとティディアのペースで事が進む。ニトロは眉間の皺を叩きつつ、
「ここに来る途中、ボーっと突っ立ってるスタッフさんを二人見かけたんだ」
 さらにティディアが何かを言おうとするより先に、彼はヴィタに答えた。
「どちらも男性で、どちらも妙に夢見心地な目つきで、そしてどちらも鼻血を垂らしてた」
「ここではッ鼻血は出していませんでしたが?」
 途中で妙なスタッカートを入れたヴィタには明らかに貴重なものを――性的興奮による鼻血を見逃した悔しさが滲んでいた。
 ニトロは彼女の反応からここで起こった全てをまるで我が目で見たかのように確信し、こちらの言葉を待ってうずうずとしている痴女に目をやった。
 すると、少し目を放した隙に距離を詰めてきていた彼女は両腕で胸を隠すようにして、そのくせ谷間をやたらと強調しながら唇を尖らせて、
「もう、恥ずかしい思いをしたのはニトロが遅いせいなんだからねッ☆ぁ痛!」
 ニトロに額を平手で打たれたティディアの悲鳴とスパンという小気味の良い音が見事なハーモニーである。
「ちょっと今のは理不尽じゃない!?」
 いくらか『痛く』叩かれたティディアが抗議の声を上げ、さらに続ける。
「私は二時間も前に来て待っていたのよ!?」
「そりゃお前が早く来すぎだろ。まだ刻限まで三十分もある」
 きろりと睨んでニトロは言う。が、ティディアはめげない。
「待った? ううん、私も今来たところ――でも実は二時間も前に来ていたことを知って胸がキュン☆ 普通はこれでしょ!?」
「言いたいことは色々あるがそもそも“仕事場”でンなお約束が成立するか」
「察しなさいよ!」
「それこそ理不尽だろが!」
 ニトロの怒声を受けてもティディアはやっぱりめげない。むしろ声を大にして叫ぶ。
「大体、反応が逆でしょう!?」
「逆?」
「そうよ! 逆よ! ニトロは全く正反対!」
 そう叫んだ後、ティディアは急に哀れな女を演じるように己の肩を抱いた。
「だって、だって……」
 嗚咽混じりの震え声は実に巧い。
 だからこそに余計に腹の立つニトロはティディアを半眼で見据えた。やおら彼女は嘆きに満ちて訴え出す。反面、彼は息をつく――
「見知らぬ男に強引におっぱいを顔面タッチされた「させた「傷心の「無傷の「彼女を慰めるのが「必要ないな「相方の役目ってもんでしょう!?」「俺はそういう“相方”じゃねぇ!」
 何一つ打ち合わせをしていないのに間断なく流れるようなセリフの打ち返し……ヴィタのみならず、今まで嘆きの演技はどこへやら、ティディアの瞳も輝いた。
「オッケー! 今日も今日とて絶好調!」
 高らかに歓声を上げるティディアの姿に、ニトロは再び眉間の皺を叩いて息をついた。
「……何だ?」
 そして、スタジアムのグラウンドを一望できる大きな窓を備え、有名ホテルのラウンジ然とした楽屋へやの中頃に進みながら――芍薬はいつでもマスターとティディアの間に割り込める位置についてくる――満面の笑みを絶やさぬティディアに問うた。
「今日はハナから馬鹿にハイテンションじゃないか」
 振り返るとやはりそこには満面の笑みを絶やさぬ王女がついてきていた。布地面積の少ないビキニ姿で。
「大体『というわけ』って、何が“というわけ”なんだ? それに――」
「そう、『相談』があるの!」
 ニトロの視界のど真ん中に立つティディアは、何と言うか……やたらと体を開いていた。脚を開いて仁王立ちとなり、大仰に腰に手をやり大きく胸を張り、その様はまるで「この自慢の肉体を見さらせ!」と全身で訴えかけているようである。――のわりに、腰がやや引き気味なのはどういう目論見のためなのであろうか。もう少しで完全にへっぴり腰だ。
 当初からのテンションといい、いまいち釈然としないティディアの様子に小首を傾げながら、ニトロは促した。
「その内容は?」
 ティディアは、すぐには答えなかった。相談があると自ら言い、それをとりあえず聞くと促されたというのに……相手のその態度にニトロは不満を抱いたが、しかし彼はすぐに気がついた。どうやら彼女は答えないのではなく、答えられないでいるのだ。彼女の頬には赤みが差し、言葉は今も息を飲むように止まっている。黒紫色の瞳は妙に揺れていた。たっぷり三度深呼吸できる間が置かれ、ふいに、やっと彼女は堪え切れないように口の端を高く引き上げ言った。
「『出席』してくれるなんて本当に思ってなかったから」
 彼女の声はわずかに震えていた。感激しているのだ。
「だから嬉しくて……ね?」
 ニトロは、ああ、と少し鬱陶しげに――実際にはティディアの純粋な感激への戸惑いを誤魔化す態度でうなずき、ぶっきらぼうに返す。
「一昨年みたいなことをするようならパティを連れて即行帰るからな」
「それは大丈夫。今回の趣向は、そういうのじゃあないから」
「……」
 笑みを浮かべるティディアの瞳に、キラリと、一瞬前とは違う輝きが閃いた。彼女はそれを隠そうともしていない。それこそは、まさにいつものバカ姫の表情であった。
 ニトロは再び半眼で睨みながら、
そういうのじゃあない、けど、とんでもない?」
 ティディアは笑みの形を少し変えて、ふふ、と笑い、
「まあ、楽しみにしていて」
「というかパーティー自体が別に楽しみじゃないんだがな?」
「ひどッ!」
 目に涙を浮かべる(これは演技だ)ティディアの文句を軽く受け流し、ニトロは肩を軽くすくめて言った。
「で? だから端からハイテンションで、ドアが開く度にとにかく抱きつこうと対象未確認のまま飛びかかっていた?」
「そう!」
 握り拳を作りティディアは肯定する。
 ニトロは深々とため息をついた。
「お前はやっぱりバカだなぁ」
 すると握り拳を作ったままのティディアは鼻息荒くうなずき、
「だって嬉しさ余って愛する人に抱きつきたくなるのは、罪!?」
「一般論的には罪じゃあないな」
 ニトロは面倒臭そうに言う。というか面倒だ。もはやこの先は読めているし、相談とやらの話も早く進めたいのに……どういうわけか、ティディアは仁王立ちしたまま(そのくせこっそり重心を移動させているが)しつこく本題から外れ続けてくる。
「そう、罪じゃあない!」
 ティディアはぐっと拳をさらに握り込み、一息の間を空け、それから思い切って叫んだ。
「というわけで! ニトロ!」
「だから何だよ」
「抱いて!」
 言うが同時に一瞬のタメ――ニトロからすれば脚力の溜め、ティディアからすれば刹那の躊躇ため――を挟み、半裸の女は跳んだ。人間大砲のごとき恐ろしい勢いで再び跳びかかってくる痴女に対し、ニトロは無論油断していたならば全く対応できなかったであろう。が、
「断る」
 彼女が重心を移動させるのを見て跳びかかってくることを予期していたからには対応も簡単である。
 ニトロは冷静に手を突き出した。
 彼に抱きつこうと頭から一直線に飛び込んできていたティディアの額がその手にぶつかる。
 その瞬間。
 ひどいことが起きた。
 ニトロの腕はつっかえ棒のごとく突っ張っている。そしてティディアの体は水泳の飛び込みの要領で彼に向けて前進してきていた。そこで彼の突っ張った腕に押し留められた彼女の頭部は急ブレーキがかかった格好である。
 分析しよう。
 ティディアの頭はその場に留まる。ここに支点が生まれた。
 されど彼女の胴体はニトロへ向けて跳躍の勢いのまま前進を続ける。言わば大きな力点である。
 では、作用点はどこにあろう?
 結論、頭部と胴体部をつなぐ関節――つまり首に出現した。
 ティディアの頭だけがのけぞり、その瞬間、L字に反った首だけに全ての力が集中したのである。まるでうつ伏せになって頭だけを上向けた姿勢での、一瞬の空中制止。当然、跳躍の勢いに乗る彼女の体重も首で堰き止められることとなる。運動エネルギーがただ首一点で衝突する。
 そう、支点・力点・作用点!
 メギョと、彼女の喉の奥からクラッシュ音がした。
「むんッ!?」
 おかしなくぐもり声も上がった。
 勢いを失った彼女はそのまま墜落する。無様に顎から、ついでにしたたかに『腹打ち』をするであろう体勢で、彼女は重力に従い落ちていく。
「モゴャッ!!」
 フローリングの硬い床に落ちたティディアは悲鳴を上げた直後に痛みのあまりに硬直し、その後、顎と首を押さえてのたうち回り出した。
「ッ……ぅぬ、うぬぅぅぅぅぅ――! うんッぬ!……ん!」
 足元で断続的に悶絶のうめきを上げては無様に転げ回るビキニ姿の王女を見下ろして、ニトロは深いため息をついた。
「で、『というわけで』に“内訳”もあったのは解ったけど……それで『相談』は何なのかな」
 ふざけ続けるバカを相手にしていても埒が明かない。そう判断したニトロがヴィタに問うと、王女の執事は一言、言った。
「当日の髪型について」
「髪型?」
 全く思わぬ話題にニトロが問い返すと、
「そう!」
 再びの復活、再びの握り拳でティディアが立ち上がった。
 ニトロの目が、若干据わる。
「……いい加減、イラっとしてくるわけだが」
「う」
 ティディアはうめいた。
 ニトロの感想は、正直なものであった。
 そして実際、ティディア自身、“今の自分”が話を進めたい彼を苛立たせることは解っていた。解ってはいたが……彼に怒気を込めて言われると、やはり堪える。ちょっといじけたくもなるが、それをしてはさらに鬱陶しさまで増してしまうだろう。
(潮時ね)
 ティディアはヴィタを一瞥した。すると彼女はうなずき、部屋の壁際にあるミニバーへと向かった。それを見て芍薬も動く。二人が何をする気なのか察してその背を目で追っているニトロを見つめ、ティディアは思う。
(もう十分、もう慣れた
 この姿。
 大胆なビキニ姿。
 ティディアの脳裏には、五日前、ニトロの部屋でパトネトの誕生日を祝った夜のことがあった。
 その時、私は下着をニトロにだけは見られたくないと思った。恥ずかしかったから。あの奇妙な感覚は、次は攻めると宣言してみたところで忘れられるものではなかった。下着はまだ踏ん切りがつかないが、それでは水着ではどうだろうか? だから今日、それを試してみた試しておかなくてはならなかった。――存外、彼に見つめられるとやはり恥ずかしかった。周囲が、特に彼が服を着ているのに自分だけが水着という光景も妙に恥ずかしく感じた。このクレイジー・プリンセスが! 彼に痴女と呼ばれ続けてきた、この私が。
 ――しかし、そう、それにももう慣れた。
 彼の目の中で一人半裸を晒し続けて、今、ようやく引けていた腰も戻っている。ドアが開く前から……彼の視線を避けたままに飛びかかるのではなく、彼の視線をまともに浴びながらもこの姿で“抱きつき未遂”を敢行できるほどに意気地も戻った。
 ティディアは思う。
 昨夜、あの鏡の前で、ニトロに歓喜を表し抱きつこう、ついでにそうすることで彼をこちらのペースに引き込みながら相談を持ちかけようと企てた際に胸に生まれた、抗いがたいあの躊躇。あの恥じらい。鏡の中の『私』と無言で問答した、私らしくないあの反応。
 それを今、私は、完全に克服したのである!
 リハビリはもう十分。
 ……リハビリ
(そういう意味では――)
 抱きつけなかったのは、正解だったのかもしれない。
 こんな姿でもし抱きつけていたら、ちょっとまずかったかもしれない。
 そう思い至ると、完全に克服したと思ったばかりなのに――いいや、克服したからこそだろう、ティディアは内心苦笑した。
(どうにも、やっぱり変ね)
 恋は心を狂わすというが、本当に……まさかこれほど影響があるものだとは。
 しかし、まあいい。色々なところに思わぬ不具合が生じているのなら、それを一つ一つこうしてニトロと触れ合って修正していけばいい。その過程で、きっと生まれるものもあるだろう。
「何をにやついているんだよ。なんかこう……いつもの変とは違ってまた変だぞ?」
 ふいにニトロに言われ、ティディアははっと頬に手を当て、それに対してニトロがまた怪訝な顔つきをするのを見て、彼女は思わず口を歪める。
 私に『愛されている』と知っても彼の態度は一向変わらないというのに……私ばかりが変わっていくようなのは、ちょっと寂しくもあるものだ。
「……本題に入るとね」
 訝しげなニトロに微笑みながら、ティディアは手でテーブルを示した。ニトロはその促しに応じて歩を進める。
 ゆったりとした椅子に座り、対面にニトロが座るのを見ながらティディアは言った。
「私ね、髪を伸ばしたいの」
 ニトロは両の眉根をくっつけそうなほどに寄せた。
「は?」
 彼の当然といえば当然の疑問符に、彼女は笑顔で答える。
「誕生日会で私はニトロと一緒にダンスをするでしょ? 『王子様』と『お姫様』――となれば、私は髪が長い方が絵になるでしょう? だから――」
「待て待て」
 ひそめていた眉を戻し、代わりに目に険を浮かべてニトロは言う。
「何か決定事項みたいに言っているけどな、俺はお前とダンスなんかしないぞ? ミリュウの時とは話が違うんだ」
「えー?」
「えー? じゃなくて」
 ニトロは呆れ気味に吐息をつき、
「この際はっきりさせておくけど、俺はお前を祝いに行くんじゃない。あくまで『パトネト王子の付き添い』として参加するんだ。当日は役目に徹するよ。それから――」
 そこで一度言葉を切り、ここが最も肝心と力を込め、
「俺は、もちろん『王子様』じゃあない」
 ティディアのセリフのその箇所を、その意味をニトロが見逃すはずなどなかった。彼の眼光は鋭い。そこには否定がある。拒絶ではなく――否定。そしてそれをティディアも見逃すはずなどなかった。彼の否定は、つまり『国民には実質的にそう思われている』ということを自覚しているが故の否定である。そして大衆の認識だけでなく、本音ではその自覚すらも否定したいという彼の涙ぐましい願望であるのだ。
 ティディアはテーブルに両肘を突き、組んだ手の上に顎を乗せて上目遣いにニトロを見つめて、そっと微笑んだ。
 彼女の微笑は妙に意味深長なものであった。
 ニトロは一瞬、ぞっとした。
 まるで誘いかけるような形に歪んだ唇は、言葉を発さなくともこちらの心に彼女の意志を差し込もうとしてくる。また、その唇の上には蠱惑の美女の魔眼がある。最上級の黒曜石を磨き上げたかのように深い紫色に透明な、こちらの魂の底を直接覗き込んでくるようなその瞳。実に魅惑的な微笑だ――そう、これこそが『ティディアの笑み』だ――今日はいつにも増しておかしい素振りを見せながら、それでも眼前にいる女はやはり『クレイジー・プリンセス』なのだと意を新たにしたニトロは、気勢を削がれないように肩を張り、
というわけで
 と、あえてティディアの口にしていたキーワードを盗って、言った。
「つまり、お前が髪を伸ばす必要も特になくなる。てか、長いのがいいなら相談も何もなくカツラを被れば済む話だろう」
 ティディアは目を細め、
「自前がいいのよ」
「何のこだわり?」
「私のこだわりというより、これは『見る側』の問題だからね」
 顎を組んだ手に乗せたまま、ニトロを覗き込むようにしてティディアは言った。胸中で調子が戻ってきたと思いつつ、そしてまたその調子が戻ったのも“ニトロのお陰”だと理解しつつ、何の話だと首を傾げている彼に言う。
ファンタジーが必要なのよ。その日その時その場限りでも皆を圧倒的に魅了するものが。私は、ほら、今はこれでしょう?」
 一度姿勢を戻し、ティディアは短い髪をつまんで見せた。
「これの印象は、強いわ」
「ああ……まあな」
 ことアデムメデスにおいて、確かにこの王女様の影響力は計り知れず、彼女の人心に残す印象もまた計り知れない。
 その事実の一つとして、今現在流行している髪型が『ベリーショート(あるいはショートカット)』であることが挙げられる。
 ティディアは剃髪したことを明かした後、たまに例の自毛のカツラを初め様々なファッションアイテムを着けることはあったが、大体は何も飾らず『反省と罰の証』を公にし続けていた。
 そして時が経つにつれ、当然、彼女の髪は伸びてくる。
 ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの髪が辛うじてベリーショートに届く頃だった。
 気がつくと、町には髪をさっぱりと切り落とした女性が一つの社会現象として目につくようになっていた。
 今日こんにち、ファッション雑誌はこぞって『可愛いショート特集』を組んでいる。短い髪でも工夫次第で印象が変わることを人気の美容師が語り、人気のスタイリストがショートに合うコーディネートを紹介している。そうしてティディアもまた、その時々の髪形に似合う服の着こなしを披露しては日々話題となっていた。ちなみにショートカットにも似合う服の種類ラインが豊富なブランド『ラクティ・フローラ』は濡れ手で粟である。そのブランドがそもそも戦乙女こと『芍薬』をイメージの背景に持っていることが知られた今となっては人気ぶりも輪をかけて凄まじい。
 もう一つ、強烈な『ティディア・マニア』の中には男女問わずに王女への忠義とばかりに頭を剃り上げる者がいたのも彼女の影響力を語る事例となろうか。
 ティディアの言葉は、真実である。
 ――『印象は強い』
 だから彼女がカツラを被れば、逆に、それは見る者に『カツラである』『ファッションである』と非常に強く訴えることともなる。歴史的には社交の場において令嬢が付け毛をするのは当然の時代もあったし、その流れも残ってはいるが、それでも、ティディアは自身のその印象のために『カツラである』『ファッションである』という“現実”をその身に引きずることになるだろう。そうなれば彼女の言う“ファンタジー”とやらは作れまい。作れたとしても、最大の効果は期待できまい。
 ティディアはニトロの目に理解が浮かぶのを見て、言った。
だから、自前がいいの」
 ニトロはうなずく代わりに、問うた。
「だったら、何でそうしないんだよ」
 髪を無理矢理伸ばす方法はある。活性治療ヴァイタライジングを応用した技術で、つまり毛根を短期間に異常に働かせて髪を伸ばすというものだ。しかし、それには技術的に通常の活性治療ヴァイタライジングとは別の問題があり、その問題を解決するためには非常なコストと施術時間がかかり、施術自体も難度が高く、また、全体的に髪を伸ばすと言っても実際には一本一本の髪の源、各々の一つの毛根を集中的に酷使することになるのだから、その結果、場合によっては後日毛根再生治療が必要になるという本末転倒なデメリットの存在する技術でもある。そのため現状ではデメリット、コスト等の問題から一般的には全く普及していない。というよりも、正直受ける者がほぼいないと言った方が正しいだろう。
 さて、無論、ティディアならばそれにかかる巨額な資金面はクリアできる。
 問題は多忙な彼女が施術を受ける時間があるかだが、まあ、彼女はやり遂げるだろう。一度の施術は短くとも、今から毎日二十数日をかけてやればそれなりに長くできるはずだ。……急ぐあまりに所々太かったり細かったり波打つように伸びちゃったり、最悪途中でごっそりイっちゃったりするリスクはもちろん常に存在し続けるけども。
 だが、
「自前を希望する以上、別にリスクを恐れてるわけじゃないんだろ? なら何を問題にしてるんだよ」
 ティディアはニトロの質問にうなずき、
「私が問題にしているのはね、私の意志を超えたところにあるのよ」
 今まで部屋のミニバーにいた芍薬が、ニトロの前にティーカップを持ってきた。ティディアの前にはヴィタがカップを置く。どちらのカップにもミルクを加えたハーブティーが淹れてある。
「喉によろしいですよ」
 ヴィタが言う。では、淹れたのは彼女か。ニトロが芍薬を見ると、芍薬は『問題ない』といううなずきを返してきた。ニトロは芍薬に礼も兼ねた目礼を送ってから、
「ありがとう」
「どういたしまして」
 ティディアはニトロが執事に礼を言い終わるのを待ち、そして彼が目を戻してきたところでまた髪をつまんで見せ、
「私が今、この髪型なのは?」
 ニトロは柔らかな味わいのハーブティーを一口啜り、
「ミリュウの件で」
 ティディアは――真面目に――うなずく。
「そう。それなのに『活性』を使ったら?」
「『ああ、どうせそうやって伸ばす気だったから剃ったんだ』――と、軽くなるだろうな」
「ええ。だから自然に伸ばし続けてこそ意味がある」
「それについてはちょっと不思議に思ってることがあるんだよ」
 ふいの問いかけに、ティディアは首を傾げた。
「お前、時々形を整えるために毛先を切り揃えてるよな」
 その言葉に、ティディアは――言ってないのに彼は気づいてくれている!――歓喜に目を輝かせてうなずいた。
「のわりに、髪が伸びるのも並より早くないか?」
 するとティディアは胸を張り、
「毎日しっかり手入れしているからねー。マッサージとか、薬用シャンプーとか色々こだわって」
 ニトロは、ああと言ってハーブティーを飲む。
 ティディアは淡白な反応に少々の不満を抱きつつも、同じくハーブティーを啜り、
「でも、それでも私が『活性』を使って髪を伸ばすことが許されるパターンが、一つだけあるでしょう?」
「――さて?」
 ティディアはカップを置き、ニトロを見つめ、
「ニトロ、あなたが許してくれる場合、その場合にだけ、私は今すぐに髪を伸ばしても皆に許される。妹のために髪を剃った、その重みを失わないままに」
 そこには、一種の政の匂いがあった。それとも談合の臭いだろうか?
 ティディアの言い分は、きっと正しい。
『劣り姫の変』の最大の被害者であり、またそこに存在した問題を解決に導いた人間である『ニトロ・ポルカト』だけが、あの件に対する『許し』に関する事柄全てへの決定権とでもいうべきものを持っている。
 しかしニトロは、哂った。
「そんな話に乗ると思うか?」
「簡単に乗ってくれるとは思っていない」
「簡単でなくなら乗ってくると思っている?」
「抱きついたドサクサ紛れ、が一番だったんだけどね」
「そりゃ残念だったな」
「まあ、それも折り込み済みよ」
「……」
 ニトロはティディアを睨んだ。
 ティディアは事も無げにハーブティーを啜る。
 彼はしばし彼女を睨みつけた後、
「例え俺が『許す』としても、それがパーティーの髪型のため――じゃあ重みは露と消えると思うけどな」
「それが『愛』のためならどう?」
「愛?」
「そう、愛。私の誕生日会にニトロが出るのは初めて。そこで、妹を救ってくれた、心から愛する男性のために『綺麗な身形で』と願う恋人の想いに胸を打たれ……っていう筋書きなら」
「そいつは安っぽいなあ」
「わりと安っぽいものの方が広く大衆に受けるものよ」
「だとしても安っぽかったらやっぱり重みは飛んじまうよ。ミリュウのためにも、それは許さない」
 ニトロは断じた。
 しかし、それがティディアには嬉しい。愛する妹を、あんな迷惑をかけられながらも気にかけてくれる優しい彼の心が。――が、嬉しく思うばかりではいられない。彼女は言った。
「ならミリュウへの『愛』として」
「また愛か?」
「ええ。きっと姉の髪について呵責を覚えているであろう妹の負担を減らすために、頃合としてもちょうどいいから――……ってのは、どう?」
「よくもまあ次から次へと」
 ニトロは呆れ半分、苦笑半分に口元を歪め、断りの代わりに皮肉を返した。
「それにしても随分都合のいい言葉だな、『愛』ってのも」
「それはそうよぅ」
 ティディアは笑った。それは不思議な笑みだった。ティディアらしくもあり、一方で彼女らしくない。理性と感情が半々に入り混じっているような顔で、
「だって『愛』は究極のエゴだもの。いくらでも都合によって形を変えるわ」
 その言い分に、ニトロは今度こそ苦笑する。
「それなら確かに“都合次第”なんだろうけどな。けどエゴに支配されてるんなら『愛の存在』ですらいつでも消せそうだ」
 暗に、だからお前は諦めろと示した言葉であったが、ティディアは無論理解しながらも軽やかに無視し、
「そうね」
 同意を示してから、おどけるように言う。
「それこそ『愛は幻』?」
「珍しく詩的じゃないか」
「どっちかって言ったら詩より哲学ね」
「……認識の違い、ってことか」
「ええ。その『違い』の中にこそ真実の愛はあるのかもね。――ということで、それを一緒に探しましょう? ひとまずここでは『違い』を埋めてみる所から始めてみるの。てことで『許す』って返事をどうぞよろしく!」
「いや許さないって」
「えー?」
「だから、えー? じゃなくてだな」
 ニトロは眉間をとんとんと指で叩いた。
「何にしたって『罰』を軽んじやしないよ。その髪は、お前なりのミリュウへのケジメだろ?」
 ティディアは、胸が張り裂けそうだった。ニトロのその言葉は、つまりミリュウに対してどうとか言うの前に、『姉のケジメ』そのものを重んじていることに他ならない。そう、彼は私の思いも大切にしてくれている! 思わぬところで明らかになったその事実に、彼女は言葉を失っていた。
 一方、ニトロは思わずティディアの『妹への思い』を大切にしてやっていることを告白してしまったのを恥じ、言葉を失っている彼女から目をそらしながら続けた。
「それにだ。『愛』だの何だの理屈を付けたところで、そんな『許し』を与えたら“ああ、結局ニトロ・ポルカトもそういう甘やかしをするんだ”って思われるのが関の山――」
 そう言った時、ニトロの脳裏に閃く光があった。
(――いや、そうすることで『俺』の評価を下げるのも有りか?)
 人から評価を下げられるということは気持ちの良いことではない。が、『ニトロ・ポルカト』が次代の女王の夫として“相応しい”と認識されているこの現状で……背に腹は変えられない。第一、既に他人からは好き勝手言われているのだ。どうしたってネタのタネ。となれば、いっそ見知らぬ誰にどう思われようが構わないではないか。
 ――ならば、
「よし、うん、伸ばして良いぞ! 許す!」
 ニトロは握り拳を作って力強く言った。
 待望の彼の『許し』である。
 だが、意外にもティディアは不本意極まる顔をして、
「ちょっと今何だか物凄い打算を働かせたでしょ!」
 むくれにむくれて、彼女は言った。
「駄目よ、そんなのは。ニトロの誠実な許しじゃないと意味がない!」
 我が儘な、反面筋が通っているようなことをティディアは言うが、その言葉はニトロにとって看過できないものだった。
「意味も何も、てか、普段から打算まみれのお前が言えたことか!?」
 その打算のために色々と厄介な目にも遭ってきているのだ。ニトロの抗議もまた筋の通ったものであるが、されどティディアは胸に手を当て堂々と言う。
「普段から打算まみれだからこそ誠実の尊さを訴えたい! わたくし、アデムメデスの王女・ティディアです!」
「何を標語風味に言ってんだ! つーか、お前みたいなバカ姫の臣民と思うと涙が出るわ!」
「お泣きなさい。その涙で、わたしはまた決意を新たにするから」
「……どんな?」
「民を泣かせてばかりではならない。もっとワラワセテあげなくっちゃ!」
「いや待てお前今絶対おかしなニュアンスで言ったな!? 同じ“わらう”でもそりゃ嘲りのやつだろ!」
「権力者を哂うのは古今東西風刺パロディの基本よ?」
「何をすっとぼけた顔して言うかねっていうかそれを権力者そのものがやるとまた意味が変わるだろ!」
 その瞬間、ティディアの双眸がこの上なくきらめいた。胸前で両手をグッと握り込んで力強くのたまう。
「自虐ネタも古今東西の定番よね!」
「むやみに目を輝かせて言うなボケェ! ああ、もーーー!」
 ニトロはガリガリと頭を掻き、びしりとティディアを指差し、
「やっぱりさっきの『許可』は無しだ! お前はその髪型で出ろ!」
「その頃にはもっと伸びているわよぅ」
 待望だったはずの許可を取り消されたというのに笑顔で言われては堪らない。ニトロは怒声を上げた。
「自然なことならどうでもいいわ! 大体長かろうが短かろうが現実だろうがファンタジーだろうが! お前はどんな髪型でも似合ってんだから何でもいいだろ!」
 ……その時――
 ティディアは、呆けた。
「――え?」
 その時、ティディアは、それしか口にできなかった。
 あ、と、ニトロが口を開く。勢い任せに口走ったことを己の鼓膜の中に反響させ、その意味するところを自ら理解して頬を固める。勢い任せだからこそ、それは皮肉でもツッコミのための口撃でもない、本音である。相手を嫌おうとも認めるところは認める、そうでなければ、認めないことに拠る失態を踏みかねないために。――だからとて、腹の中で判断しておくだけでいいことを声高らかに表明しては痛恨の失態に他ならない。それも、先に彼女の『思い』を認めていることを漏らした後の流れでは。
 長かろうが短かろうが――似合ってる
 その意味は!
「……」
 ニトロは気まずく口をつぐんだ。もう何も言わないとばかりに口を真一文字にして、目をそらした。
 目をそらした先にはヴィタがいた。
「……」
 ティディアの背後に控えるヴィタはいつも通りに涼しげであるが、いや、その口元はかすかににやついている。
 ニトロはどうしたものか解らず、沈黙の中、ちらりと背後を見た。芍薬は、困り眉をしてこちらを見ている。まさに「失態ダネ」と言われているようだった。
「……」
 沈黙は、長い。
「……?」
 あまりに沈黙が長すぎることを怪訝に感じ、ニトロはあえて(恥ずかしいので)注視しないようにしていたティディアに目を戻した。
 するとそこには、ぽかんと口を開ける間抜けな顔があった。
 ティディアは――てっきり鬼の首を取ったかのように勝ち誇ると思っていたのに……未だ状況を掴みかねているかのように、呆け続けていた。
「……ティディア?」
 ニトロが彼女の名を呼ぶ。
 と、彼に呼ばれたことで我を取り戻したティディアの顔が、一気に上気した。
「うわっ!?」
 その上気する様が見たこともないほどの勢いであったため、ニトロは思わず驚きの声を上げた。
 瞬きをする間に、ティディアの頬は、いや、頬のみならず顔全体、さらには耳、それどころか胸元の辺りまでもが紅潮していた。
 驚くほどの赤である。
 これこそ『湯気が出そうなほど』という表現が似合うだろう。
 真っ赤な顔の中で白色を持つ双眸がやけに輝いていた。潤んでいるのだ。涙が溜まっているわけではない。感情がそのまま彼女の瞳を潤しているのだ。黒曜石の瞳は先の魔的なものとは違い、純真な光を湛えてニトロを見つめている。見つめて――どこか気恥ずかしそうにティディアは目を落とし、またニトロを見つめる。おずおずと右手を差し上げると己の髪をつまみ、自分の聞いた言葉を信じられない思いで彼女は彼に確かめた。
「これも、似合っている?」
「――ッ」
 ニトロは、真っ赤な顔でティディアに素直に問いかけられ、言葉を返せなかった。
 今日は最初っからおかしいテンションで痴女と振る舞い、そうして今ではまるで初心うぶな調子で自信無さ気に確認を取ろうとしてくる。
 その姿はこれまでの『敵』――凶悪なクレイジー・プリンセスではない。そこにいるのはただ一人の女性だった。美しい顔を紅に染めたまま、潤んだ瞳でおそるおそる伺うように見つめ続けてくる、そっと触れただけで手折たおれそうな『ティディア』だった。
 ニトロは未だ言葉を返せない。
 彼女の瞳を見返す内、その瞳の中で歓喜と期待の底に不安が忍んでいることを彼は知り、その時、己の胸がドキリとしたことに彼はギョッとした。
 一瞬、眼前のティディアが見知らぬ女にも思えた。
 それにも彼は慄いた。
 ……おかしい。
 おかしいおかしい。
 あんまりおかしいからこっちもおかしくなりそうだ!
 ニトロは立ち上がった。
「ヴィタさん、お茶をありがとう」
 ヴィタを――ティディアの視線を感じながらも藍銀色の髪の麗人を注視して、ニトロは言った。
「美味しかったよ。……残しちゃったけど」
「どういたしまして」
 微笑み軽く頭を垂れるヴィタの目は『どちらへ?』と柔らかに――それはまるで年上の女性のこのシーンに対する余裕を見せつけるように、問いかけてきている。
 ニトロは硬い片笑みを浮かべ、
「先に舞台袖に行っているよ」
「かしこまりました」
 ニトロはそのまま席を立ちながら振り返った。目の先には芍薬の不思議な顔があった。微笑とも、不機嫌ともつかない顔。明らかに状況を楽しんでいるヴィタとは違い、静かにこの状況を見定めようとしている――そんな表情。
 と、芍薬の目元がふいに緩んだ。
 それは、失態から続くこの状況に戸惑うマスターに、その気持ちへの理解を示す眼差しだった。
 ニトロは複雑に笑みを返し、そして芍薬と共に、逃げるように部屋を出ていった。

 扉の向こうにニトロと芍薬が消えていくのを見送った後、
「……似合うって?」
 つぶやくように、ティディアは言った。
 すると彼女の背後でヴィタが答えた。ニトロは言葉で明示したわけではない。しかし、彼の意図は間違いなく、
「はい。そのように仰っていました」
 ティディアの紅潮はいくらか色を引かせていたものの、頬はまだ真紅に映えていた。耳は蒸気を浴び続けているかのように火照っている。少し耳鳴りのようなものを感じるのは内耳の奥までその熱が伝わっているからだろう。
 心臓は脳より先に全てを理解して、さっきからずっと飛んだり跳ねたり踊り回っていたらしい。気がつけば、短く激しく脈打っていた。
 そう思えば頬や耳のみならず全身が熱い。
 ふと見れば全身が薄桃に色づいていた。
 その白い皮膚を透くように染める色は、悦楽と幸福そのものであった。
 ……今一度、ティディアは髪をつまんだ。
「似合うって」
 そのつぶやきは誰でもない、自分に向けたものだった。
 我知らず顔が惚ける。
 ティディアは去り際のニトロを思い出していた。彼のあの動揺は、これまでのどんな動揺とも違う。彼は、私の異性としての反応に動揺していた。そう、異性だ! 彼は私のことを、あの瞬間、私のことを『敵』ではなく、間違いなく『女』として見てくれていた! 異性として――嗚呼、あの堅物のニトロに『女』として見られたこの悦び。
 そこでティディアは、ふと自分が彼にそう思われたことに対する悦びの大きさに驚き、一方でその悦びがあまりに大きいからこそ、ふいに不明瞭な恐れを抱いた。しかし、その不明瞭な恐れのあるがためになおさら『女』である自分と『男』である彼の間に訪れた一瞬が胸に迫る。
 心臓が破裂しそうなほどに高鳴っていた。
 頬や耳、顔面全体がもはや燃えている。
 体の奥底から突き上げてくる得体の知れないエネルギーが心臓を滾らせている。
 ティディアは全身の血が心臓と顔だけを往復しているのではと思えてならなかった。息苦しく、目の裏が痛く、頭がぼんやりとするのはきっとそのせいに違いない。
 果たして、上気し蕩ける王女の対面で、ニトロの残したカップを片付けようとしていたヴィタは、その時、王女の物思いと、おそらくは物思いのために増幅されているのであろう至福に溶ける笑顔に異変を認めた。
「ああ!」
 思わずヴィタが声を上げる。
「どうしたの?」
 珍しいヴィタの大声を聞き、物思いから引き戻されたティディアはそれでも目元も頬も緩みに緩ませたまま、何事か大きく目を見開いている執事を見た。
 面白好きのマリンブルーの瞳には、驚きというよりも、まざまざとただ『歓喜』があった。
「ヴィタ?」
 問われたヴィタは、先ほど見逃した現象をこの目で見られた幸運に感謝しながら言った。
「ティディア様、お鼻から血が!」
 その時、ティディアは呆けた。が、今度は我に返るのも迅速であった。ティディアは慌てて鼻の下を手で拭って血を確認するや顔をさっと青褪めさせた。赤から青、その色調変化は見事なまでに一瞬のことであった。まるで擬態能力を手に入れたかのような鮮やかな変色。人間という生物の持つ身体的驚異! それを一瞬たりとも漏らさず観察できたヴィタはさらに喜びに瞳を潤ませる。ティディアは、そのヴィタに激しく問うた。
「いつから!?」
 顔が熱すぎて、頭も胸も一杯過ぎて気がつかなかった。こんな恥ずかしい顔を誰に見られたって別に構わない、けれど――
「ニトロも……彼も見たかしら!」
「いいえ、ティディア様! ちょうど今、たらりと!」
「たらりと!?」
「はい、たら〜りと!」
 鼻息荒くヴィタは言う。
 その鼻息があんまり荒くて、ちょうど彼女が主人の血を拭ってやろうと取り出していたハンカチがひらひらとそよぐ。
「――あら」
 それに気づいたヴィタが、少々興奮しすぎたとばかりにつぶやく。
 そのつぶやきが、何故か、ティディアの心に触った。
「『あら』?」
 触られたティディアの心のその部分は、いわゆる『ツボ』であった。
 問いかけられたヴィタは主人の顔がどういうわけか破顔寸前であることを知り、それは一体何故だろうと小首を傾げ――すると、ヴィタの反応に、ついにティディアが堪えきれないように笑い出した。
(ああ!)
 そこでヴィタは、ティディアがどういうわけか『ツボ』にはまったのだと察した。そして察するが同時、
「あははははは……」
 とうとう声を上げて笑い出したティディアの“笑い”が、じわじわと、ヴィタにも伝染してくる。
「あはははははっ」
「――」
「あは、あはははは!」
「……ふふっ」
 とうとう、ヴィタも噴き出した。
「あっはっはっはははは!」
「ふふふふ、ははははは!」
 ――そうして二人は、やがて腹を抱え、誰に憚ることなく大声で笑い合った。





 そして、その夜。
 オークション後に行われた抽選会の幸運な当選者――素敵な老夫婦と共にしたニトロとのディナーを終え、客を送り出し、芍薬と歩いてホテルに向かう彼を見送り、その幸福感を身に纏ったまま宮殿へと帰り、今は、部屋に一人きり。
 ティディアは今日、一つ重大なことを理解した。
 自分が色々と不具合を起こしている原因。それを本質的に明確に理解したのである。
 もちろん、原因が明確となったからといっても、これから自分がすべきことは何も変わらない。彼に心を奪われ醜態を晒さないようにするのも、不具合への修正をするのも、これからどうすればいいのかも、これまでに考えたことの以外に方法はない。
 この原因の明確化がもたらしたものは、ただ一つ。
 これまで以上に自分自身に向き合えるということ。ただそれだけ。それだけだけど、とても大切なこと。
 ……私は……ニトロを愛している。
 しかし私は今、ニトロを愛しながら彼に激しく恋もしている。
 私を熱に浮かす『恋の病』……そう、つまるところは恋なのだ。何度もその言葉を思いながら、私はそれを本当の意味では理解していなかった。理解しているつもりで実際には理屈が先立っていた。思えばこれまでは単に自分の状況を表す“言葉”として、あるいはそのような“現象”として理解していたために、逆に本質的にはこの心を自覚できていなかった。
 私はこれまで、このように人を愛し、あまつさえ恋などしたことはない。
 ――初恋なのだ。
 彼だけだ、ニトロだけが私にこの気持ちをくれる。
 ――“あの時”私がニトロに、“彼だけには”下着を見らたくないと、そう恥ずかしく思った理由も理解した。
 もし、この心を暴露すれば、ニトロには軽蔑されるだろう。ハラキリにすら眉をひそめられるかもしれない。
 しかし、ティディアは理解する。
 今、自分にとって、異性はニトロ・ポルカトしかいないのだと。それ以外の男性は、例えるならば愛玩動物。もしそれらに全裸を見られても、ペットに裸を見られたところで何の痛痒もないのと同じように恥を感じない。父や弟、それに唯一友達のハラキリだけは愛玩動物に例えられないが、それでも同性と変わりない位置にいて恥を感じはしない。
 そう、何もかも、ニトロだけなのだ。
 彼だけを私は愛している!――その思いが強すぎて――以前なら他の男も異性としてむしろ強く認識していたのに、今や彼だけを見上げるばかりに他の男は異性という認識から完全に外れてしまっているのだ。……いや! それどころか――そう、この心を知られればきっとニトロには軽蔑される! 愛玩動物であるからにはどこかで他の誰をもニンゲンとは見ていない――そういう『認識』まで強くあるのだ! しかしこれは何もおかしいことではないだろう。何しろ、愛する実妹であるミリュウすらも平然と人形としていた私なのだから
 ……ヴェルアレインで、あの寒く雪の降る夜に、狂気に病んだ王の終の棲家となったあの城で、ハラキリ・ジジが吐露していたあの『杞憂』。
 私はここに、友達の描いた“最悪の予想”を弥増いやまし改めて大声で肯定しよう。
 そうだ、ハラキリ・ジジ、君は正しい!!
 本当に……正しい。
 もし、この想いを、ニトロを不手際で喪失した後に自覚していたら? きっと私は正気ではいられなかった。そしてニトロに軽蔑されるという最大の枷すらも失った私は、君の言うように、彼を引きずり出したいがために、侮蔑でも憎悪でも殺意でもいい、ただただ彼にもう一度間近で見つめられたいがためだけにこの国を弄んだことだろう。人柱としてでも、彼を手に入れようとしただろう!
 嗚呼!――そうだ。思えば、ようやく、やっとのことで私の愛を知ってもらえたというのに『お預け』をくらったあの辛い一ヶ月間が、あの擬似的な喪失の期間が、私の胸の彼に焦がれるこの想いを激しくしたのだ!
 彼と会えなかった寂しさが、悲しさが、辛さが、今! 燃料となって激しく燃え盛っている!
 だが、その一方で、あの空しい日々を経たからこそ、彼に向けて燃え盛りながらも彼だけは二度と失いたくないと、私の心は凍えるような恐怖を抱いてもいる……。
 彼と『再会』したミリュウへのお祝いのパーティーの日に味わった幸福感。それ以降も彼が与えてくれる幸いなる日々。擬似的とはいえ一度失ったからこそ以前にも増して私は彼がどれだけこの心に存在しているのかを確信し、だから彼を絶対に失いたくないと、常に心のどこかで喪失の恐怖がもたらす寒さに震えているのだ。そのため震える私は彼を想って燃え盛る炎がどれだけ私の人生に温もりを与えてくれているのかを実感し、そのため私の感情はまた彼を熱烈に欲しがって乞い焦がれる。されどその反面、その想いがどんどん熱を増すのに純粋に比例して、その温かさを手放したくないからこそ彼を『失う』ことへの恐怖がますます強くなっていく。けれど心に潜む恐怖が強まり私を凍えさせようとする冷気が増せば増すほど、私は自然と温もりを求めて彼への想いをまた募らせていくのである。喉を渇かせた者が水を求めて歩いたために一杯の水では足りなくなり、再び水を求めて歩き続けていくように。
 この無限回廊。
 そして上限のない灼熱、下限のない極寒。
 決して別つことのできぬ皮肉な関係で繋がりながら、そのくせ熱気と冷気の境界は互いに乖離しているほどに余りに明確すぎて、つまり“遊び”が少なすぎて、だからこそ私は彼との距離感を掴みかねて色々おかしくなっている。
 彼が欲しい。
 けれど欲しがりすぎれば彼を失う。
 それなのに、これまで通りでいいのか。
 いいえ、これまで通りがいいの。
 どの程度なら彼は受け入れてくれる?
 いや、彼は受け入れなくとも受け止めてくれる。
 それなら甘えよう。
 でも、甘えていいの?
 いいえ、甘えたい。
 嫌われない?
 嫌われたくない。
 それなら。
 けれど、私の愛は、私の愛し方は……!
 ――それら無意識下の逡巡が、無意識であるからこそ思わぬところで不具合を起こし続けていたのだ。
 彼を愛してから恋に落ちた、という順序も影響しているのだろうか。
 しかし、恋を経てのみ愛に通じるというわけではあるまい。愛が恋を呼ぶと考えるのもおかしくなんてない。では恋と愛の境はどこにある? この胸の切なさに境を作ることは出来るのか。恋も愛も同じ思いの一面に過ぎないのではないか? ならば愛も恋もただの言葉遊びに過ぎないのだろうか。
 そもそも『愛』とは一体何なのだろう。
 私は「究極のエゴ」とニトロに言った。今でもそう思う。けれど私の意見に対するニトロの苦笑も、彼の諸反応も間違っていないと思う。『究極のエゴ』ならばどんなものでも内包する。ならば『愛』は『全』なのか? だとしたら、全であるそこには憎しみや嫌悪という悪感情も存在しなければならないのではないだろうか。またそこには詩もあるのだろう、認識も、哲学も、あるいは神もあるのだろう。そういう存在である『愛』は、結局、一体何なのだろう――
 ……いいや、そんなことはどうでもいい。
 そんなことはもうどうでもいいのだ。
 ただ、この胸の想いだけは真実。それだけでいい。
 私はニトロを愛している。
 そして彼に初恋している。
 彼に軽蔑されるであろう心を抱えていることを恥ずかしく思いもするが、それもいずれ私の胸に唯一触れてくる彼の存在によって変わっていくだろう。そう思えば、変わっていくことに少しの恐れを抱きながらもそれを望まずにはいられない。私はその時、一体どのような『私』と出会うのだろうか。私はどのような『私』と彼に出会わせてもらえるのだろうか。打ち震えるほどに喜ばしい期待を覚えてならない!
 ティディアは、惚けていた。
 顔が熱かった。
 体が奥底から火照る。
 心臓がいつまでも早鐘を打って止んでくれない。
 耳の奥でこだましている。
 彼の声が聞こえ続けている。
 以前の自分なら、きっと彼にそう言われたとしてもただ平然と当たり前に受け止めていたであろうその言葉。
 しかし、今ではどんな黄金にも換えられない宝物。
「似合うんだって」
 鏡の中の彼女は、髪をつまみながら心から嬉しそうにはにかんでいた。

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