その時、ティディアは呆けた。
「――え?」
その時、ティディアは、それしか口にできなかった。
8月31日の晩のことである。
その日、ティディアは
ほとんどの人間が驚き、報道は驚愕一色に染まった。
だが、ほんの一握りの人間にとって、それはむしろ当然の展開であった。
実は、ティディアは汚職を決定づける証拠を長年握っていたのである。この事件が発覚したのも何を隠そう彼女が裏から手を回して発覚させたからだった。しかし長期化することが見込まれていた事件を颯爽と解決した王女の姿は、またしても民衆の喝采を呼んだ。さらには政局においても何かと
そうして
そして彼女は、居室に入るや否やすぐに首を傾げていた。
「……」
部屋に“異変”があったのである。目敏い王女の視線はベッドの上に置かれた封筒に向けられていた。彼女はほんの少し警戒心を起こしながら、
「
「ハイ」
「あれは?」
「安全デス」
「――ふむ」
ティディアは部屋付きのA.I.の応答とその調子から、pが何者かに操作されていないことと、これが身内の誰かからのものだということ、またその者がpを口止めしたことを察した。するとそこからは一つの『企て』と、一種挑戦的な姿勢が垣間見えてくる。ティディアは自分の頬も自然と挑戦的に笑むのを感じながら、ベッドに向かった。
残暑の盛りの北半球にあって、早くも秋の様相深まる北大陸である。秋用の毛布の上に置かれた封筒を手に取り、
(ヴィタ……じゃあないわね)
執事は今日一日ずっと自分と一緒にいた。もちろん他の者を使えばこうして仕込むことは可能だが、それなら今、何より面白好きの彼女がこの封筒に対するこちらの反応を見られるこの場所にいないのはおかしい。彼女は
(――父や母がこんなことをできるとは思えない)
ティディアは封書を見つめた。
表にも裏にも何も書かれていない。
ほのかにクリーム色の地は美しく、表の縁を飾る蔦植物の絵と、透かすように金箔で押し印された王家の紋章が封筒に厳かな趣を与えている。裏では格式を演出するために古めかしい封蝋がされており、そして、封蝋には意匠化された
「私の印章」
つまり、ティディア以外には扱えないものだ。
そもそもティディアにはこの封筒に見覚えがあった。
アデムメデスでは紙製の手紙が電子メールに駆逐された現在、それでもあえて紙製の手紙を用いる時は『特別な意味』を持つと相場が決まっていて、この封書に関して言えば、その『特別な意味』はつまり王家からの招待状である。
このデザインの封筒は今年使用されたもので、使用した人間は当のティディアだった。
また、この封筒を受け取った者は、来月末に開かれる第一王位継承者の誕生日会に招待された百五十名に限られる。であれば、これは予備のものを私に断りなしに抜き出し利用してきたのだろう。
(ミリュウか、パティか………それとも……)
ティディアはpの操作するアンドロイドが持ってきたナイフを使い――その双眸にかすかに緊張を滲ませながら――封を切った。
中には二枚の小さな便箋があった。
ナイフをpに返し、便箋を取り出して一枚目を見てみると、
(パティか)
ティディアは筆跡を見て微笑んだ。幼いながらも王子としての教育を受けたパトネトの筆致は大人びている。しかし、
<親愛なるお姉ちゃんへ>
大人びた筆は、反面、まだ幼い弟の口調を伝えてくる。
<お誕生日をお祝いします>
一枚目は、端的にそれだけで終わっていた。
二枚目を見る。
「 」
その時、ティディアは呆けた
「――え?」
それを見た時、ティディアは、辛うじて、それだけを口にした。
二枚目の便箋にはパトネトのものではない素朴な筆跡があった。
<出席>
一言、それだけ書かれていた。
「…………」
ティディアは我が目が信じられず、思わず目を
だが、間違いない。
これはニトロの筆跡である。
そして、何だ? 出席?――何に?
いや、それは考えるまでもない。この封筒は『ティディア姫の誕生日会』のために使われたものであり、そこに入っていた便箋には『出席』と書かれている。その意味するところは? 一つしかない!
「――え?」
されど、いやいやだからこそティディアには信じられなかった。
疑念と戸惑いと歓喜が作る渦に目が回る。
我ながら呆れるほどに理解ができない。
ティディアが己の愚鈍さに焦燥すら感じ出した時、やがてその渦の中から初めはぼんやりと、次第にはっきりと弟の文章が浮かび上がってきた。
――<お誕生日をお祝いします>
お祝いして、そして……?
「え……?」
何度目かのつぶやきを漏らすティディアの口の端が、思わず、また堪え切れずに持ち上がっていく。
「え?」
今やティディアの顔面はおかしなことになっていた。
上半分――眉は驚きに跳ね上がり、双眸は丸く開かれ、瞳はきょとんとしている。
一方、下半分――口は目一杯に引かれて笑みの三日月を形作り、そのくせ頬は緩みっぱなしで鼻は興奮にひくついている。
「え!?」
とうとうティディアは大声を上げた。
封筒と便箋を胸に抱き、
「ニトロが――」
それ以上は言葉にならなかった。
ニトロが、私の誕生日を祝いにパーティーにやってきてくれる!
ティディアの胸に、頭に、幸福の熱が溢れていた。彼女は空を仰ぎ見るように顔を上向けると双眸を泣き出しそうなほどに潤ませ、まるで今にも軽やかなダンスを踊り出しそうに体を振るわせた。
(――どうしよう)
ティディアは、思った。
(パーティーの案を練り直さないと!)
基本的に『クレイジー・プリンセス』となってからの誕生日会は当日に“サプライズ”として趣向やイベントを発表する形をとっていた。
去年は『結婚発表』を行う計画だったために会を開かなかったが、一昨年の会の“サプライズ”は『ドキドキ出会いの場、ドレスコードは水着だよ(当方でスゴいのを用意したので好きに選んでね☆ぽろりしちゃうのも大歓迎)』だった。『ニトロ・ポルカト』のいない当時、恐ろしいクレイジー・プリンセスの暴挙を止められる者は皆無である。普段から節制している者はいいが、そうでない者たちの見せた狼狽・屈辱・阿鼻叫喚の図は実に愉しかった。さらに、初めは羞恥に悶えていた者もやがて時間の経過と共に“それが自然”と受け入れ出した心理の動きも実に興味深かったものだ。
――だが、ニトロが来るとなるとそういう趣向は不可能である。
いや、もちろんそれをすることでニトロにツッコませるという手法はありだが、それは別の機会でも十分味わえる。わざわざ誕生日会に行う必要はない。何より、ニトロが祝いの場に来てくれる!――その幸福をわざわざ自分で壊すのはあまりに愚かと言うものであろう。
ちなみに今年の“サプライズ”は面白仮面舞踏会にするつもりでいて、またそのように用意を進めていた。趣向としてはニトロも許してくれる範囲であろうが、彼が来るというのにこれでは逆に物足りない。用意した幾つかの面白仮面についてはきっと「阿呆!」と脳天に踵落しを食らうと思うが、『仮面無し』を認めさせられたら途端に単なる舞踏会となってしまう。それはやっぱり物足りない。
(そうだ!)
参加者全員、衣装をクジで決めさせよう。今回は水着なんかじゃなく色んな地域や国の盛装や民族衣装にして。クジはもちろん八百長だ。私はウェディングドレス、ニトロは王家の男性が結婚式で着る礼装だ! ニトロだけ“当たり”だと言い逃れができないから他に何人かに特別サービスで着せてやる。一生に一度もない機会に当選者は喜ぶ。ニトロはその喜びの前では拒否を貫けまい。
(それとも)
いっそ、かの悪名高い酒池肉林を再現してみるか? 実在に疑問の余地のある、半ば伝説の覇王が暴挙の一つ。中毒性のある香(違法薬物)に満たされた場での酒宴!
ニトロはもちろん激怒する。
が、こちらは高らかに宣言するのだ「伝説を検証する、考古学の再現実験である!」と。私は考古学の博士号を持っているから新たな論文のためとすれば正当性はばっちりだ。ニトロの激怒も胸を張って突っぱねられる。さあ、彼はどれだけ正気を保って周囲の人間を制し続けられるだろう。私はもちろん酔う前から彼に襲い掛かる。こういう
(……いいえ、それだとやっぱり後がまずいわね)
というか、それ以前に、それだと“覇王の暴挙に関する再現実験”ではなくミッドサファー・ストリートの――『トレイの狂戦士』の再現としかならないだろう。その場には違法合法色んな飲み物を給仕する全裸の男女がいるからトレイももちろんたくさん存在している。――いいや? もっと考えてみよう。そこには、そう、酒瓶がある。酒瓶は硬いしそれなりに重いしそれで殴られたらとても痛い。その上割れたらそのギザギザっぷりで危険度倍増。『酒瓶、あるいは割れ瓶の狂戦士』? 死ぬ死ぬ。一昨年なんて比べ物にならないくらいに阿鼻叫喚。酒池肉林が酒血肉片になっちゃう。ああ、でも、ニトロに抱かれる可能性が少しでもあるのならそれもいいかもしれない!
(ああ、でも、どうせならもっと私達に相応しいシチュエーションを作りたいな。それならこんなことをしたらどうだろう!)
次から次へとアイディアを起こし、吟味している内に、ティディアはいつしか本当に踊り出していた。
封筒と便箋を胸に抱き、ミリュウの成人のお祝いパーティーで彼と踊ったワルツのステップを踏みながら、愉しい楽しい幸せな時間を思い描いて歓喜に酔いしれる。
スカートの裾が翻る度に
彼女は周囲に舞踏会場を、目の前にニトロの影法師を見ながらワルツのメロディを口ずさむ。
彼と手を取り合い、彼のもう一方の手が背に添えられているかと思うと眩暈を覚えるほどに体が火照る。
何て素敵で、何て素晴らしい。きっと生涯の中でも特に喜ばしい体験となるだろう!
しかしその最中、ティディアはふと喜びの他に胸を締めつけるものがあることを感じていた。それは不安に似ていた。常に歓喜という感情に付きまとう、例えばこの歓喜もいずれ終わることを予感させる不安。あるいはこの歓喜に比して現実は思ったよりも大したことがないのでは? と幸せであるが故に抱く未来への不安。彼女の胸を締めつけるものはそういった不安によく似たものであり、それは彼女が一歩ステップを踏むごとに強さを増していた。そしてその不安に似た締めつけはとうとう心臓を苦しくさせるところまで到達し、そのために彼女の夢想に走っていた思考が若干の我を取り戻す。
それでも踊り続けていたティディアは彼の影法師に合わせてひらりとターンし――と、その時だった。
ふいにティディアの目の前から影法師が消え、その視界に鏡台が飛び込んできた。
鏡の中には無論、封筒と便箋を胸に抱き、独り踊り回る女がいた。
「ッ 」
その時、ティディアは、思わず息を飲んだ。
鏡に映る己の姿を見て、彼女はあまりに驚き言葉を失っていた。
そこには見慣れているはずなのに、見覚えのない女がいた。
実にだらしなく顔を蕩けさせ、頬も耳も真っ赤で、双眸のみならず両の頬までもが燃える血の熱で溶かされたようにだらしなく垂れ下がっている……そこにいるのは完全に一人の男に心を奪われ、恥ずかしいほどただただ浮かれて正常な思考回路をすっ飛ばしてしまった女だった!
――その女と目が合った瞬間、ティディアの胸を締めつけていた苦しさが急変し、形をなし、それが、彼女の心臓を刺した。
激しい痛みは心臓を貫き心に到達し、彼女の精神を大きく萎縮させた。
そしてその時、ティディアの精神は、恐怖にかられて凍えたのである。
「……」
冷水を浴びたかのように彼女の顔が引き締まり、鏡の中のティディアが、冷静というよりも冷酷な光を帯びた瞳で『彼女』をひたと見据える。
「……馬鹿ね」
自嘲の、あるいは侮蔑の言葉を吐いた頃には、彼女の頭は完全に
――恋の病に浮かされることは、愚かだとは思わない。
だが、
(同じ失敗を繰り返すのは、愚かなこと)
過去、愛人の浮気のために嫉妬に狂ってそれまでの功績を台無しにした女王がいる。
過去、一人の女性の愛を勝ち取ることができずに自ら命を絶った王がいる。
私はそれらとは違う。
だが、それらと肉薄したところにいる『私』が既にシゼモにいたことは事実である。
鏡台に歩み寄り、鏡の中の自分を睨みながら彼女は思う。
(私は、バカだけど馬鹿じゃないはずでしょう)
それはあのニトロがそう認めてくれているように。――いや、ニトロに言われるまでもなく、己の抱くプライドとして、ティディアはそう思う。そしてまた嘲るように思う。
(私は、『私の弱いところ』で自慰していたいだけなのかしら?)
ニトロ・ポルカトというティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの弱点。
彼を想い、“彼を想う”想いに溺れることは……正直、とても気持ちが良い。
しかし、私は、私だけは、その弱点に負けてはならず、その快楽に溺れてはならないはずだ。
他の誰でもなく、私は、私のためにそうであってはならない。
そう。私は、私が認め、私が愛するニトロに愛されたい――そのためにも私は『私』を保たねばならないのだ。
そうでなければニトロに愛されることが叶わないために。それは既にシゼモで証明されているのだから。
なのに、こんなにも懸想の生む幻に酔いしれるのは、覇王の作った酒池肉林が生む幻に酔いしれるのと何ら変わりがない。目が醒めた時に己が見るのは、きっと地獄だ。そこに私の求める本当の快楽はない。もし私が弱点に負けて良く、その快楽に溺れて良い時があるとしたら、それはニトロに本当に愛された時だけだ。
ティディアは己の心臓を強く意識した。
己の心臓に痛みを生んだものが何だったのか、冷静となった今ではありありと解る。
彼女は心臓と深くつながる己の心に深々と突き刺さっているその『釘』を思う。
唯一の友達が与えてくれた、強い戒め。
「……」
これまでなかなかうまく『とっかかり』としても扱えていなかったが、ようやく少しは機能するようになったらしい。
「出席、か」
ティディアは、思考をあえて口に出した。
「でも、あのニトロが出席してくれるはずはないのに、何で出席してくれる気になったのかしら……」
便箋を見直す。
冷静になって改めて考えれば疑問が浮かぶ。
さて、パトネトは何故姉の封筒と封蝋を盗み使って送ってきたのだろうか。
まず、私はパトネトに招待状を送っていない。パトネトには必要がないからだ。それは弟が『人見知り』のためにこういう会には出席しないから、というわけではない。ミリュウにさえ招待状を送っていなかった。家族なら誰でも自由に出欠を決めて良い。単純に、そのために。
「……」
それなのに、パトネトはわざわざこうして知らせてきた。
もちろん、私を驚かせたかったということはあろう。しかし――
「ああ!」
脳裏に光が閃き、ティディアは声を上げた。
それは歓声でありながら、驚愕の声であった。
彼女は理解したのである。
――<お誕生日をお祝いします>
その直後にニトロの出席を見たために、それはつまり弟が私に少し早い『プレゼント』を贈ってくれたのだと勘違いしていた。
違う。
パトネトがわざわざ招待状用の封筒を使ってきたのは、単純に“サプライズ”としての意味もあろう(だから明確にパーティーに出ると書かず、こちらに考えさせる端的な短文なのだ。これだけで全て解るだろうというこちらへの信頼と、また、サプライズを演出するための小さな挑戦的な謎かけとして)。
だが、この封筒の意味するところでそれ以上に重要なのは、この招待状を受け取った者と同じ作法に従う、という含意だ。招待客は、会に付き添いを一人連れてくることが許されている。それを加味すれば、ニトロが私の誕生日会に出席するのは、つまりパトネトの『付き添い』としてであろう。
それに思い至れば、嗚呼、何ということだろう!
「『お誕生日をお祝いします』」
つまりそれは、当日会場でお祝いします――という意味だ。パトネトが、あの人見知りの激しい弟が! ニトロ・ポルカトという保護者同伴を条件にしながらも、何よりも彼にとっては大きな大きな勇気を振り絞って、初めて多くの他人の真っ只中に出てくると、それも私のためのパーティーに出席してくれると言っているのだ!
「……」
ティディアは、目を閉じた。
長い間双眸を閉じ続けたティディアは、ゆっくりと目を開き、
「ニトロも、パトネトも先に進んでいるのに……駄目ね」
つぶやく王女の相貌には、厳しさがあった。『恋の病』に罹ってから幾度も経験した心中のズレ――思えば物心ついた頃から完全に把握していた自心に未知の領域が現れたのは恐ろしいことだ――だが、今、鏡にはそのズレと真正面から向き合い、その難題を解消しようという王女の姿があった。
(……)
思えばニトロは、私と出会ってから驚くべき速度で成長したものだ。
ならば、私も彼に負けたくない。
「……」
ティディアは鏡の中の自分と見つめ合い――やおら、
「ふむ」
と、うなずいた。
脳裏に二つの案と、それぞれに付随する“サプライズ”が纏め上げられる。
一方の案は今から用意を始めても問題はない。が、もう一方の案には問題が存在した。
そして、その問題は何かというと、
「この髪よねー」
彼女の頭髪は現状ようやくベリーショートといったところである。
似合っていると思う。
これはこれでアリだと我ながら思う。
しかし、折角ニトロが来てくれる誕生日会にこの髪型は納得がいかない。ニトロを追い詰めるための『イメージ戦略』――お似合いの絵になる二人――としても、この髪型では欲しい方向性への力が足りない。ニトロが『英雄』となった今、となれば私が纏いたいのは世間的にある『大衆的なお姫様のイメージ』だ。『女神』でも『蠱惑の美女』でも『クレイジー・プリンセス』でもなく、妹を救われた姉として、英雄というその勇ましいイメージに対し、その隣で『女神』という神的なイメージを併せて共に輝くのではなく、今は、今こそは、彼を家に迎え入れる女性的な柔らかいイメージが欲しい。そのための最善は英雄譚に描かれるイメージ――そう、理想は『御伽噺のお姫様』である。
ティディアは鏡台の中の自分を再び見つめた。
「……」
鏡に映る自分は、やはり髪が短い。
「ん〜」
つまんでみるが、やはり短過ぎる。
「……」
一度剃髪した事情が事情とはいえ、こうなると少し悔やまれる。
「……一気に伸ばす方法は」
あるにはあるが……
「ん〜」
ひとまず、もう一方の趣向であればこの髪の長さでも最善を得られるし、こちらの案にしかない大きなメリットもある。しかし両案を天秤にかけてみて、現状、やはりここでは『お姫様のイメージ』が欲しい。ニトロを逃がさないためにも、彼を不利な環境で囲みこむという安心感が何より欲しい。彼が私を好きになってくれるどころか未だに私は彼の『敵』で、自業自得ながら悲しくも彼に『女』とすら思ってもらえていないと感じる現状……少しでも彼を囲い込む網の目を大きくしてしまっては、今の彼に少しでも隙を与えたならば、途端にこの手の届くところからするりと逃げられてしまいそうで不安で堪らないから。……ならば?……
「けど、この髪は私だけじゃあどうしようもないのよねぇ」
ティディアを悩ますこの問題の核心は、そこにあった。
現在私がこの髪型となっている事情が事情だけに、これは私の一存でどうにかするわけにはいかないものなのだ。
では、その核心を解決への指針とするには?
「――うん」
試してみる価値は――
(断然、あるわね)
片手で封筒と便箋を大切に抱え、ティディアは己の髪をつまみながらいつもの調子でにまりと笑った。脳裏には解決を得るための策が浮かんでいる。解決に向けて最大の障壁である『
「……うん?」
鏡の中の私は、知らずの内に少しだけ頬を染めていた。「その案はやっぱり恥ずかしいんじゃないかしら」――と、鏡に映る私は私に言ってきている。
心中のズレ。
ティディアはニトロと一緒にパトネトを祝った夜以来再び胸に去来したその情動を、鏡を通して、まさに目の当たりにして唇を波打たせるように歪めていた。
心臓は、ほのかに音を強めている。それは先程の『釘』のためのものではなく、ただ思い出した場面にいた自分と、思い描いた場面にいる自分の――言わば過去の恥じらいを再現し、未来の動悸を先取りした鼓動であった。
(……困ったわねぇ)
ティディアは封筒と便箋を持つ手を胸に添えたまま、髪をつまんでいた手で左胸に触れた。鏡の中の私もその手で胸に触れる。困惑に小首を傾げてみると、あちらの私はこちらへ問いかけるために小首を傾げたように思える。
鏡像であるのに、互いに向き合えていないかのような齟齬があった。
(何かしらね)
ティディアが疑問に眉をひそめると、鏡のティディアは困惑に眉根を寄せる。
「……」
彼女は自分相手に無言劇をしているような気になって、苦笑した。
その苦笑が彼女の情動を一度洗い流す。
「んー」
唇をへの字に曲げて唸りながらティディアは一度天井を見、考えを再びまとめると鏡に目を戻し、
「どうせなら一緒に恥をかきましょうよ」
話しかけるように独りごち、うなずく鏡の中のティディアは、困りながらも嬉しく笑うようにその柳眉を柔らかく垂れていた。