1−b へ

 ニトロとパトネトは、結局、午前中をケーキ作りのみに費やした。
 菓子作りはもちろん料理もしたことのないパトネトだ。持ち前の手先の器用さと物覚えの良さがあっても何分全てが初体験。さらに知的好奇心旺盛なため、一つの工程を教わる時には必ず質問が出る。
 例えば、何故小麦粉をふるう必要があるの?――ダマにならないようにするためだよ。粉に空気を含ませるのもあったかな――『ダマ』って何?――塊のこと。後で泡立てた卵と混ぜる時に、ふるっておかないと卵の中で粉の塊が残っちゃったりするんだ――それが何でダメなの?――味にも食感にも悪い影響があるからだよ。それに粉を卵の空気を抜かないように混ぜないといけないのに、ダマを潰そうとすると泡も一緒に潰れちゃう――卵の空気? 泡? 泡立てた卵って、ぶくぶくって空気を吹き込んだ卵なの?――それはこの後に出てくるから、その時にね……と。
 卵を泡立てる際には、卵を泡立てる機械ハンドミキサーの登場に興奮し、さらに卵が空気を含んでいくに従い色を変化させることにも興奮し、では何故それで色が変わるのかを訊く。空気を含んでいくから、とニトロが答えると何故空気を含むと色が変わるのか、それに粘度も何故変わるのか?……ニトロは、流石にそれは分からない。そのような場合は芍薬の出番となり、資料を検索した芍薬から様々な関連事項を網羅した難しい説明を受けてやっとパトネトは納得する。ニトロも感心して――専門用語などは自分の解る範囲で――なるほどとうなずく。それが楽しいらしく、パトネトは笑っていた。
 とはいえ全てが順風満帆というわけではなかった。
 泡立ての工程において、パトネトはハンドミキサーの使い方を誤ったのである。
 ニトロから使用上の注意として言われていたものの、泡立て作業の楽しさからパトネトはうっかり材料から引き抜く前にスイッチを切るのを忘れてしまったのだ。回転したまま泡立てた卵から引き抜かれた羽は、もちろん盛大にそれを周囲に飛び散らせた。壁にも、ボウルを押さえていたニトロにも。が、ニトロは(芍薬はもちろん)怒らなかった。ニトロが怒らなかったのは、彼が『優しいから』というよりも、彼自身、同じ失敗をした経験があったためである。だから彼は、その時、父に言われたように次は気をつけようねとパトネトに注意を改めておくだけだった。一方で、彼にはまた――自身にも経験があるからこそ――パトネトが失敗することを予め織り込んでいた面もあった。
 ――それが、パトネトの不興を買った。
『初めてだから失敗はつきもの』という悪意のない態度も、パトネトからすれば“ニトロ君にそう思われていた”という一種の屈辱、また、激しい悔しさ……事実失敗してしまったからには拭い難い悔しさにしかならなかったのである。
 無論、パトネトのその反応はニトロからすれば思わぬことだった。それなのに不機嫌に頬を膨らまされては難しい。正直、困ってしまうしかない。――されど、ニトロはこれにも怒らず、飛び散った材料の拭き取りを芍薬に任せると態度を変えずにパトネトと作業を再開した。
 パトネトは不機嫌を直さず、ニトロとは口を利かず、しかしケーキ作り――『作る』ということ自体はやっぱり楽しいらしくニトロの教えを受けながら続行する。肝心のスポンジはうまく膨らみ(パトネトはちょっと機嫌を直した)、さあ、いよいよ生クリームを泡立てる段となった際、先の失敗が、ここで活きた。
 二度目の泡立て作業において、ニトロはハンドミキサーの扱いへの再度の注意も、先の失敗を思い出させるような言葉も口にしなかった。パトネトはどんどん粘度を変化させていく生クリームに夢中になり、危うく同じ過ちを繰り返しそうになった――が、彼は思い出した。先ほど失敗して悔しい思いをしたこと、それを寸前で思い出したのである。
 慌ててスイッチを切り、自らの力で失敗を回避したパトネトは、自らの力で失敗を防いだことに誇りを感じて顔を輝かせた。
 ニトロは、その時も生クリームのボウルを逃げずに固定していた。
 そのことに気がついたパトネトが笑顔でニトロを見上げると、ニトロはそれより前から笑顔を浮かべていた。それがまたパトネトには嬉しくて、その後には会話も復活し、ケーキ作りはまた、かつ、より楽しく進行した。
 イチゴをたっぷり使ったケーキは、無事に出来上がった。
 見てくれは多少悪くともニトロと一緒に、そして初めて自分で作り上げたケーキだ。パトネトは夜が待ち遠しかった。
 それからニトロは――芍薬からティディアがちゃんと王家専用機に乗り西大陸に向かったことを聞きつつ――『ヴァーチ豚のポークソテー(ジンジャーソース)』を手際良く作り上げ、のんびりと昼食をとった。
 以降は、三人で様々なゲームに興じた。
 まず遊んだのは協力型サバイバルゲーム『廃魔宮』――毎回マップや敵の出現ポイント、罠やアイテムの位置が変わる“廃れた(と設定上思われていた)魔宮”から脱出する、というコンピューターゲームだった。意心没入式マインドスライドを用いることが最も臨場感を得られるのだが、ヘッドマウントディスプレイを着けることでも三次元的にゲーム世界を認識できる。基本的なシステムは、いわゆるファーストパーソン・シューティングゲームだ。ヘッドマウントディスプレイに装備されている視線感知機能により、視点を集中した場所=敵を銃撃できる操作法は一種の超能力サイオニクス感を与える独特のもの。ラスボスはその魔宮を支配している魔王であり、そしてこのゲームの目玉の一つは、プレイヤーがそのラスボスとなれることだった。
 そう、マップの組み合わせや敵(ゲームのツールで新しい敵を作ることもできる)の出現ポイントなど自分で作った『廃魔宮』を公式サイトに投稿し、全世界のプレイヤーに公開できるのである。
 投稿の条件はクリア可能であること、その一点のみ。クリアが可能であれば難易度は問わない。月間で良作と認められた『廃魔宮』を作った投稿者には賞金も出る。また、エントリーページに表示される広告収入から数%を得ることも可能。バージョンアップも定期的に行われ、長い期間にわたって人気を保つゲームの一つだ。
 ニトロとパトネトは、その中で『最速20分クリア、平均45分』の中で『二人で遊ぶと最も爽快(難易度高め)』という評価を得ている廃魔宮ステージで遊んだ。ゲームの実力はパトネトがニトロの遥かに上であったため、三度のゲームオーバーを乗り越え、パトネトがニトロを導く形でそのステージをクリアした。ニトロはゲームをクリアしたことが満足であり、パトネトはニトロと一緒にクリアしたことが満足だった。
 さらに、ゲームクリア後に、ニトロはそのステージはパトネトが匿名で投稿したものだと明かされて驚いた。パトネトはニトロに『サプライズ』できたことが堪らなく嬉しくて、また彼に凄いと誉められて頬を真っ赤にして喜んでいた。
 それからは、芍薬も一緒に出来るものとしてトランプや運の要素が強く出るボードゲームで遊び、そうして、最後に最も盛り上がったゲーム――『何個』で大騒ぎした。
『何個』はカードもボードもコンピューターも使わないゲームである。
 使うのは両手の親指だけ。参加者は握った両の拳を縦に揃えて“場”に差し出し、掛け声と共に親指を上げ、もしくは上げず、立てられた指の合計が“親”の言った数と揃えば“親”の勝ちとなる。揃わねば引き分け。勝った際には“親”は手を一つ引き下げる。勝利・引き分けに関わらず順番は隣の“親”に移り、掛け声、また次の“親”に移り――結果、最初に両手を“場”から消せた者が勝者となる。そういうルールだ。
 古来より続くこの原始的なゲームは競うだけでも楽しいものだが、何かを“賭ける”と異常に盛り上がる。今回は、その時の流れで、『罰ゲーム』付きで遊ぶこととなった。
 罰ゲーム自体は、アデムメデス最大手のネット検索エンジンで『罰ゲーム』と検索し、出てきた結果の中から芍薬の作った即席プログラムでランダム抽出をして決めた。
 プログラム曰く、ニトロが負けたら『アイドルの真似をする(話題のセリフやポーズなどがあったら、それ)』。
 プログラム曰く、パトネトが負けたら『一番恥ずかしい失敗を話す』。
 ただ芍薬の罰ゲームは適当なものがなかなか出ず、そこでニトロはパトネトに一任することにした――のがまずかった。
 パトネト曰く、『今日一日、肖像シェイプと声をティディアお姉ちゃんにすること』。
 芍薬は悲鳴を上げた。
 ニトロは凍りついた。
 芍薬が負けた場合はニトロも大被害である!
 パトネトが姉を持ち出して、そうすることが芍薬への『罰』になると認めているのは面白い点ではあるが、そんなことよりもニトロと芍薬は、一瞬にして、可愛い王子様のその一言によって“精神的な死”に瀕することになったのである。よしんば耐え抜いたとしてもきっとトラウマにもなろう!
 三本先取。
 そう決まった『何個』は異様な緊張感に包まれた。
 負けて最も被害のない人間はパトネトであるが、彼も手を抜かない。実のところ負けず嫌いであるのだ。“親”が勝つ度に悲鳴や勝鬨が上がった。大した運動でもないのにニトロもパトネトも全身に汗をかいていた。確率だけでは計算しきれない心理の読み合いである、芍薬もアンドロイドのCPUを熱暴走寸前までフル回転させていた。
 白熱。
 苛烈。
 互角!
 二本奪取で、皆が並んだ。
 一に抜けたのは――芍薬であった。
 芍薬は思わず天井まで飛び上がって歓声を上げた。
 本気で小躍りしている芍薬の姿にニトロも内心、ちょっと安堵していたが……ふと思い出す。自分の罰ゲーム……『話題のアイドルのセリフやポーズ』――ちょうど、“ある”のだ。しかも最悪なものが。巨乳を売りにするアイドルが、胸の両手で挟み谷間を強調しながら腰を振り振り甘えるような口調で自分の名前を言う、というふざけたものが! あまりの馬鹿馬鹿しさ、出来の悪さでかえって話題となった深夜ドラマから飛び出てきたそのポーズが。
 ……負けられない。
 そんなことをしてみろ。そしてパティから“お姉ちゃん”に伝わってみろ。あいつにそんなことを知られたら……!
 一方、パトネトも熱くなっていた。芍薬に一抜けされたことも、彼に火をつけていた。それに、大好きなニトロ君のきっと面白いモノマネも見てみたい。だって僕は『ティディア&ニトロ』も大好きなんだ!
 接戦であった。
 どちらも本気であったからこそ、楽しくもあった。
 先にニトロが手を一つ引いた。
 ニトロはそのまま逃げ切りたかったが、パトネトが追いついてきた。
 負けられない!
 引き分けを繰り返すこと13回。
 そして――
 敗北したのは、ニトロであった。
 彼は膝から崩れ落ちた。
 芍薬は、罰ゲームハ無シデイイヨと言った。
 少々迷った後、パトネトも無しでいいよと言った。
 しかし、ニトロは、二人の言葉に甘えるのはどうかと考えてしまった。ここで逃げるのは真剣に楽しんだゲームへの裏切りのような気がする。さらに簡単に約束を反故にしてはパトネトへの教育上大変よろしくないようにも思う。彼の交流範囲はとても狭い。自分が大きな責任を感じる必要はないとは思うが、それでもこの小さな王子にとって、現状あの姉が最大の先達であることを考えれば――
 ――ニトロは、決心した。
 彼は敢行したのである。
 いくら決心したとはいえ羞恥を吹っ切れはしない。
 だから顔を真っ赤に染めて、彼は力一杯両手で胸を強調するポーズを取りながら腰を振り振り声もかわいく精一杯に、
「☆右も! 左も! メシの種♪ ディ・ティ・ナ・でぇんす☆」
 されど、基本的に自分の興味範囲外には知識のないパトネトである。当然、彼はニトロが真似したアイドルのポーズも口調も全く知らなかった。(色んな意味で)ニトロ渾身のモノマネは壮絶な空振りに終わり、幼い王子はただただぽかんと彼を見上げるばかりだった。
 ……地獄である。
 まさに地獄の恥悶ちもんである。
 ニトロが精神的に瀕死状態となったのは無理もない話であろう。
 とはいえその後、『きっと面白いモノマネ』がじわじわと効いてきたらしく、
「変なのぉ」
 と――そのセリフは自体はまたダメージとなったけれども――パトネトがくすくす笑ったのは、ニトロにとってせめてもの救いではあった。
 他方、芍薬はうちひしがれるマスターを気遣う裏で、密かにちょっと喜んでもいた。主様の激レアシーンだ。それも極めて激レアなシーンである。こんなに羞恥に耐えるマスターは初めて見たし、今後も見られるかどうか分からない。さらに言えば、ゲームでここまでニトロと盛り上がったのも初めてだ。楽しい一時の大切な思い出。芍薬は記憶メモリ記録ログと共にそっと録画した映像を(色々鋭い彼に勘付かれる前に)『宝物フォルダ』に厳重にしまいこんだ。
 ――ニトロの復活には、さして時間はかからなかった。
 落ち込むニトロにパトネトが当惑し出し、すると芍薬も慌てて慰め出す。芍薬を追ってパトネトも懸命に取り繕いの言葉をたどたどしく紡ぎ出し、その最中、ニトロは何故だか、次第に二人に慰められている自分が笑えてきたのだ。
 滑稽な自分の滑稽な顛末が馬鹿馬鹿しくなったとも言える。
 だが、ニトロが笑えば、パトネトも芍薬も笑い出す。
 笑い声は次の笑いを呼び、最後には三人とも純粋に笑い転げていた。
 部屋には黄昏の光が差し込んでいる。
 ちょうど頃合。
 ひとしきり笑った後、ニトロは晩餐の準備に取り掛かった。今度はパトネトも賓客として手伝わず、持ってきたモバイルコンピューターにフレアを呼び出し、限定条件の下、芍薬とフレアの模擬戦を楽しんだ。
 日が沈み、やがて美味しそうな香りがキッチンから流れ出す。
 そうして、パトネトが一番楽しみにしていた夜が来た。

 食卓には爽やかに香るドレッシングポットと、瑞々しく彩鮮やかな鯛のカルパッチョ&サラダが置かれている。
 取り皿もナイフやフォークも見事に磨かれて輝きを放っていた。
 席についているのは、パトネト一人だ。彼が遊びに来るようになったためにニトロが用意した、言わば彼愛用の座高調節用クッションを敷いた椅子にちょこんと座っている。
 彼は今、サラダを前にしてもそれを見てはいない。
 彼の体は左に横向けられていて、輝く瞳はそちらに見えるセミオープン型のキッチンに固定されている。床につかない足はぷらぷらと楽しげに揺れている。
 キッチンではカッポーギ姿の芍薬が鍋の様子を見ていた。ポトフだという。実の柔らかな蕪が崩れないよう弱火で温めている。
 そしてニトロは、今まさに、グラタン皿を二つ手にしていた。
 マカロニ、スライスしたタマネギとマッシュルーム、それといっぱいのエビ。白いベシャメルソースをうっすらと透くエビの鮮やかに紅い肌は見目にも食欲をそそる。それらを覆うのは、旨味溢れるエビに負けず、焼きたてのウインナーを齧るような歯応えでぷりぷりと弾けるエビの食感を活かしもするコク深い乳白色のチーズ。ニトロは、金冠エビの味を活かすために最もシンプルなレシピを選んでいた。
 あらかじめ熱しておいたオーブンレンジに皿を入れ、加熱を開始する。
「よし」
 これで程よい焼き目がつくまで、手がかからない。ニトロは仕事を終えた。サラダとスープを食べながら歓談している内にメインディッシュのグラタンができ、口直しに紅茶を挟んで、最後にパトネトと一緒に作ったケーキを食べる。思い描いた通りに進められそうで、ニトロの頬には自然と笑みが浮かぶ。残ったグラタン――足りないよりは多いほうが良いと作った余り――を粗熱が取れたら冷凍するよう芍薬に頼み、
「それじゃあ、後はよろしくね」
「御意」
 芍薬も笑みを浮かべる。
 ニトロはエプロンをハンガーに掛けて所定の位置に置き、キッチンからぐるりと抜け出て、
「お待たせ」
 笑顔でそう言いながら、歓迎の瞳を輝かせるパトネトの待つ食卓に座ろうとした――
 その時だった。
「主様」
 芍薬の声には、いくらか警戒が含まれていた。
 それを聞いた瞬間――ここまで順調計画通り、これからパトネトをお祝いしながら楽しく食事をして、風呂に入って、その後はゆっくり休んで、明日の朝にもう一度パトネトにお祝いを言って――そして彼を家族の待つ城へ送り届けよう……ニトロの脳裏に、それらスケジュールのあらましがまるで走馬灯のように駆け抜けた。
 ……嫌な予感が、してならない。
「?」
 ニトロが目を向けると、芍薬は言った。
「一台、ズット空中停止ホバリングシテイル」
「王家専用?」
「『レッカード』ノ“タムトン”」
 レッカード・インペルモーターズ社製の最大七人乗りのファミリースカイカー。家族向け飛行車の定番だ。実際、マンションの住人で使用している者もいる。
 芍薬はアンドロイドの無線を用いて壁掛けのテレビモニターの電源を入れた。すると、画面に屋上飛行車発着場の監視カメラの映像が表れる。そこには確かに何の変哲もない人気車種が浮かんでいた。
「西は?」
 ニトロはそれを眺めながら問うた。
「会議ニハ王家ノ代表ガ確カニ参加シテイルヨ」
 王家の代表――つまり、ティディアだ。
 芍薬は、首を捻っていた。不審な車を目にしてもなお判断を下せずにいるのだ。ニトロがその理由を問う目を投げると、
「ナンバーハ最上階ノ人ノナンダヨネ……」
 唸るように芍薬は言った。ただでさえ迷惑をかけている住人だ。となれば、疑わしい動きをしているだけで詰問をするわけにもいかない。
「下は?」
 ニトロが言うや、画面が二分割され、片方に朝にも見たマンション共用玄関のカメラの映像が表れた。副王都の片隅の市営動物園に散々寄り道しながら向かった王家専用車に目当ての人間がいないことがわかった後、特に夜になってからその数を増やした『ファン』の姿が多く見える。今日は王子もいるかもしれないとあっていつもより混雑していた。そして、その皆も、何やら口を動かしながら上空を仰ぎ見ていた。
 監視カメラという定点視点しかない芍薬だけでなく、無数の立ち位置から見てもやはりあのタムトンの動きは不自然なもののようだ。
 ニトロの中で、嫌な“予感”が嫌な“確定事項”へと変化していく。
 ――と、
「ア」
 ふいに、ひどく険のある音で芍薬がうめいた。
 画面では、わずかにスライド式のドアが開いているのが確認できる。ドアの隙間はまだ数センチである上、ルームライトも落とされているため人の目には中の様子は判らない。しかし監視カメラに目をリンクすることで速く細かく現場を捉えられる芍薬の反応を受け、ニトロはそれ以上画面を目にすることなく即座にベランダへ向かった。
 芍薬も電気コンロを止めてマスターの後を追う。
 パトネトだけが一人テーブルに残り、二人の背中を追うように体を窓に向ける。
 ニトロはレースのカーテンを開き、窓を開けた。空調の効いた部屋に、残暑にこもる夏の夜の空気がねっとりと流れ込んだ。かすかに歓声が聞こえる。彼はスリッパのままベランダに出た。芍薬が母から譲り受けたハーブの鉢が並ぶ中、腕を組み……待つ。
 すると、上方から、例えばゲームのラスボスが荘厳に現れる際に流れるような曲が聞こえてきた。
 しかし……
「?」
 妙に音量が、小さい。
 その上、変にくぐもっている。
 いつものあのバカならば指向性スピーカーなどを使って大音量で聞かせてくるだろうに、どうもその音は、携帯できるミニスピーカーをポケットに入れ、そこから無理やり鳴り響かせているといった風情である。
「……ア〜アア〜〜〜♪」
 数秒後、やけに美しい歌声が頭上から降ってきた。
 ニトロは片頬を引きつらせた。
 考えるまでもなく理解する。
 その曲だけでは物足りなくなったのだ。そこでアイツは、試しに自ら(ソロにも関わらず)コーラスを重ねてみた。そうに違いない。
 だが、
「ア〜ア〜あーあア〜アア〜♪」
 一瞬、歌声の中にため息が混じった。
 そう、彼女はコーラスを始めた直後に悟ったのだ。
 明らかにミスマッチである。
 歌声は曲の音質に比べて格段に美しく、さらには音量まで上を行ける。これでは曲の意味がない。バカは声量も声質も抑えて調整し――流石にその調整力だけは素晴らしく、かろうじて曲と歌声のバランスだけは整えられたが、とはいえそれでは質の悪い方へと妥協したことになる。完璧なる劣化にして、惨憺たる劣化の相乗効果。これならば曲なり歌なりどちらか一方で貫いたほうが格段に良い。それなのに始めてしまったからには止められず、彼女は今も未練がましく歌い続けている。
「諦めが肝心だろが」
 ぼそりと、険強くニトロが言う。
 その声は上には聞こえない。聞こえたのは芍薬とパトネトで、パトネトは足をぱたぱたさせて成り行きを見守っている。
 やがて、ようやく、それが来た。
 すらりと伸びた左の足――爪の一本一本、指の間までも玉のように磨かれた素足が、ベランダの上端から滑らかに、そして優雅に現れる。
 つま先、甲、踵と足首、アキレス腱からふくらはぎにかける曲線――ようやく飛び跳ねた直後のように折り畳まれた右足が現れ、突き出されたその右膝の上でミニスカートもかくやという際どさの白いスカートが……いや、違う、どうやら彼女の体には一反の白布が巻きつけられているらしい。ニトロの視界に飛び込んできたそのスカートは、スカートの様に巻かれた白布であり、布はそのまま彼女の体に巻きつけられるようにして一つの衣を形作っていた。
 衣は、『劣り姫の変』における『女神像』のものとよく似ていた。
 ただ、全体的に、露出はそう多くないのにどこか扇情的である。
 スカートはミニもかくやとばかりにアンダーラインが際どいわりに、上はへその下までゆったりと覆っている。一方引き締まりながらも滑らかな腹部は露となり、形のよいへそのくぼみがエロチックな陰影を生んでいる。布は背部を回って胸に至り、胸は隠されてはいるが布の巻きつきが緩く、見る者に、もし彼女が激しく動けばすぐに乳房がちらつくのではないかと予感させる。そうして最後に、一反の布の両端が彼女の両肩に巻き掛けられただけの形であることを悟ると、見る者は、もし彼女が激しく動けば布はすぐにでも解けて一気に彼女の裸体が露になるのではと非常に期待させられる
「アーハァアー〜ア〜アーー♪!」
 ここにきて、歌声が元気になっていた。
 今や、ニトロの眼前には金髪の『天使』がいた。
 白い衣を身にまとい、まるで天に向かって歌うように両腕を差し上げ、背にはそこらのホームセンターででも買ってきたかのような粗末な翼を生やし、枝毛どころかセットもままならずに乱れっぱなしの安っぽい仮装用カツラをかぶった天使バカがいた。
「ア〜アーーー!♪」
 バカはここが最大の見せ場とばかりに――もはや曲など知ったことか!――プロのオペラ歌手も顔負けのソプラノを披露している。
 そして彼女バカの姿を見たニトロは、考えるまでもなくその『元ネタ』を察していた。
「随分とまた雑な『クラウネ』だなオイ」
 すると、瞬間、
「ハーーーーーン!♪!」
 天使が瞳を輝かせて体を反らし――ああ、何の説明がなくとも意図を理解してもらえるこの大いなる悦び!――声を高らかに奏でた。
 差し出されていた両腕はまた一段と天に掲げられ、その勢いで彼女の体が横に、緩慢にくるんくるんと回転を始める。
 よくよく見れば、天使はワイヤーで吊られていた。
 夜空をバックにしていたため見え辛かったが、一度認識すれば目視も容易なワイヤーがニトロの目に映る。それも雑といえば雑だった。普段の彼女ならもっと材料を吟味するはずだ。完全に歌声に潰されたBGMも未だに続いている。が、流石にそろそろ潮時だ。息の続く限り声を伸ばしていた彼女が、やおらくるんくるんと回転したまま片手で白布――よく見ればシーツを裂いて作ったものらしい――が作る懐をまさぐる、と、次第に音量を下げて曲が止まった。どうやら携帯音楽プレイヤーを使っていたらしい。メロディの喪失の後も美しいソプラノは続いており、やがて、それもため息が出るような余韻を残して空へと消える。
 ニトロは、色々言いたいことをひとまず飲み込み、言った。
「仕事はどうした」
 天使はぱたぱたと腕を振っていた。その勢いで何とか回転する体を止めようとしているのだ。
「今日はお休みになったのよ」
 にっこりと笑ってティディアが言う。笑顔のままもう一度彼女はくるりと横回転し、そこでやっと止まった。
 ニトロは眉間に激しく皺を寄せ、
「お休みになった? 会議は行われてるそうだが?」
「そうよー、私の代わりに――って言うと順序が逆ね」
「順序?」
「父が急に自分が出るって言ってくれたのよ」
「王様がっ?」
 思わず、ニトロは声を大きくしてしまった。
「え? それで――」
 と、そこまで言って、ニトロは決まり悪く口を閉じた。
 確かに……ティディアの言う通り、アデムメデスの第一王位継承者は、西大陸で行われている重要な国策において、政に疎い父王に代わって働いている。実質はどうあれ、名目上は、王女はあくまで代行であるのだ。ならば王がその『代行』を休ませて会議に出るのは何もおかしいことではない。だが――
「大丈夫よぅ」
 口をもごつかせるニトロへ、ティディアは含み笑いを声の中に刻みながら、
優秀なサポートがついているから」
 言いながら彼女は、一瞬、右手で電話つうしんのジェスチャーを作る。
(――なるほど)
 西大陸の国策を、王は深く理解はしていない。しかし、その国策へのサインを代行(厳密には代行の代行)したもう一人の真面目な王女ならば話は別である。そのようなブレインがついているならティディアの穴を埋めるには――今回の会議に限れば――十分だ。
 ……というよりも、元より君主である王がそのように会議に出席することは全くの正常なのである。
 もしここでティディアに対して『仕事をサボるな』とでも言おうものなら、それはむしろ王に対する侮辱ともなろう。さらに、西の国策に王の出番がないことを不満とする原理的な伝統主義者も存在するため、今回の件はそちらへ満足を与えることにもなるだろう。その点からも彼女を非難する理由は削られる。となれば、このバカながらも国を富ませている王女が急遽休みを作れる状況とするならば、これは実に隙の無い“道理”だ。
 ――さて。
 ここでニトロにとって問題となるのは、では誰がそのようにはからったのか、ということになるのだが。
 無論、ティディアが父と妹を動かした……というのは当然考えられる。
 されどニトロには、とてもそうとは思えなかった。
 何故なら、もしティディアがそうしたならば、こんな準備不足も甚だしい格好でやってくるはずがないからだ。どんな馬鹿げた催しにも全力を尽くすクレイジー・プリンセスである。本当ならBGMのために楽団の一つは用意しただろうし、コーラスも一流どころを揃えただろう。天使の羽だってプラスチック丸出しなどではなく、本物の白鳥しらとりのものを使ったはずだ。なのに、これではまるで『急にスケジュールが変更になったため、道すがら手に入る材料だけで辛うじて形にしてみました』と言わんばかりではないか。
「……」
 ニトロは背後に振り返った。
 すると、こちらを楽しげに眺めていたパトネトが慌てて顔を背けた。
「……」
 ニトロは前に向き直り、
「……それなら、安心だな」
「ええ、安心」
 ティディアの満面の笑みは、ニトロの推理を肯定していた。
 ニトロは肩を落として吐息をつき、
「よし、帰れ」
「えええ!?」
 ティディアは心底驚いたようであった。
 驚きの余りにオーバーにアクションしてしまい、その拍子に肩にかかっていた白布が落ち、連鎖的に胸に巻きつけていた布が緩みそうになる。
「わ」
 彼女は慌てて布を抑えた。するとその動作の勢いがありすぎたためか、先ほどよりも増して彼女はくるくると横回転を始めた。ふわりと、スカートがめくれ上がりそうになる。
 ……一瞬、ティディアの目が見開かれた。
「わ!」
 再度声を上げ、ティディアはひどく慌てて両腿をぴったり合わせるや、片手で胸と肩の布を、片手でスカートを押さえて体を縮めた。
 彼女の頬には、紅も差している。
 やおらもじもじとして体勢を整えてから、彼女はいそいそと布の巻き付けを直し出した。と、その拍子に肩口のめくれた布の裏からテープで止められた極小の音楽プレイヤーと薄型携帯スピーカーが覗いた。タネを明かしてしまった新人マジシャンのように顔を強張らせ、彼女はそれも慌てて直していく。
 本当に……『クレイジー・プリンセス』たる年季の入った道化にしては段取りも反応も無様に過ぎる。
 ティディアが衣装を直す間、ニトロはずっと怪訝に眉をひそめていた。しかし、彼のその怪訝は彼女の無様に対するものではなかった。
 衣装の直しが終わったところで、ニトロは眉をひそめたまま問うた。
「何を恥ずかしがってるんだ?」
「――だって、見えちゃうじゃない!」
 ティディアは視線で下を示す。あえて覗き込むこともない。『観客』が集まっているのだ。そのざわめきはニトロの耳にも届いている。
 しかし、ニトロはいよいよ両眉がくっつきかねないほどに眉を寄せ、
「いや今更隠してもな……」
 例え真下でなくとも、下から見れば先ほどの降下中はもろ見えだったはずだが……
「それにそんなん気にする性質じゃないだろ?」
「今日は“見せパン”じゃないのよ!」
「お前、前にミッドサファーストリートで何て言ったか覚えてるか?」
「だからって……程度問題でしょう!?」
「――は?」
「お尻はいいの! でも前はダメ、だって今正面から見たらもんのすっごいエッチな勝負パ「芍薬」
「承諾」
 今まで黙ってニトロの背後に控えていた芍薬が、待ってましたとばかりに嬉々として左手を上げる。その中指はティディアの頭のすぐ上に向けられていて――
「ぅわーーーッ! 待って待って待って待って!!」
 ティディアは絶叫した。悲鳴どころではない。それは『警報』であった。
 その尋常ではない本気の制止に芍薬が驚き、止まる。
 無論、ニトロも驚いていた。芍薬と目を合わせてぱちくりと戸惑い、揃ってティディアに向き直る。
「今、何をしようとしたの!?」
 息を荒げて問いかけてくるティディアへ二人揃って答える。
「レーザー」「レーザー」
 ティディアは嫉妬に任せて叫んだ。
「もー! 何よその以心伝心相変わらずの息の合いっぷり! 私も混ぜて! そして結こ「芍や「承だ「ぅわあぁぁァぁぁあお!!!」
 わたわたとティディアが腕を振る。勢い、再び彼女はくるくると横回転を始める。
「……一体、何ダイ?」
 面倒臭そうに芍薬が問う。
 ティディアはくるっくる回りながら――スカートの短い裾を前後とも腿で必死に挟んでめくれ上がりを防ぎながら、叫ぶ。
「これを切られたら私は死んじゃうの!」
「ハァ?」
「芍薬ちゃんは判っているでしょう? 私はコレ一本でぶら下がっているって! 他に命綱はないって!」
 ティディアが示すのは彼女の首の後ろから頭上へと伸びるワイヤーだ。ニトロは当然、このバカが用意する『仕掛け』はそれだけではないと踏んでいたのだが……
「芍薬?」
「本当ダヨ。『ハーネス』ヲ体ニ付ケテ、ワイヤー一本」
「そのハーネスも細いやら素肌に直接付けてるやらでお股やらおっぱいの付け根やらが擦れて痛いの。だから後でお薬塗ってね、ニ・ト――ぅわゴメン! 二人揃ってそんな怖い顔しないで!」
「だったらもうちょっと真面目にやれ」
「いつも私は真面目にやっているわ!」
「性質が悪い」「性質ガ悪イ」
「もーーー!」
 ティディアは腿をぴったり閉じたまま、膝から下だけで器用に憤懣を表し足をぴょこぴょことさせ、それからうなだれた。
「だからそんな仲良し……私も混ぜてよぅ。真面目に浮かれているのよぅ。折角、来られたんだもの」
 ティディアは少ししょんぼりとして言う。
「本当に、あんまり急だったから道具は道なりの店々で揃えたものばかりで……このワイヤーだってヴィタが支えてるんだもの」
 くいくいと、ティディアの手が『手釣り』の動きをする。
「っておい、ヴィタさん相変わらず凄いな」
 思わぬティディアの告白に、ニトロは戦慄する。ということは、頭上の車の中で、女執事は手釣りの漁師よろしくワイヤーを垂らして大きな大きな錘を支えているということか。正直、人間業ではない。
「父から連絡を受けたのは飛行機の中。そこからはもう芍薬ちゃんに感づかれないよう戻ってくることだけに集中よ。私達だけならまだしも、父の動きも巧く隠さないといけないじゃない? 使える手段が限られるから人脈ネットワークも巧く駆使しなきゃいけないのに人脈使いすぎるとそこから感づかれるじゃない? 芍薬ちゃんのあみ王家うちにもかかっているから、変な犯罪組織相手にするより大変だもの。大変だったもの。緊張し続けてモーやっと一安心よ。でも万が一も考えずにまるきり『準備』してなかったのが残念でならないわよ。何とか形にはしたけど……形にするためには『安全装置』やらは邪魔だったし」
「基準が違うだろ、形より安全優先しろよ」
「死んだら笑えないからそりゃ安全も確保したいわよ! 本当ならこんな粗末な翼じゃなくて小型反重力飛行装置アンチグラヴ・フライヤー仕込んだ大きな翼を背負って、こう、後光だって背負ったわ! でもそんなのホームセンターやスポーツ店に置いてあるわけないじゃない!? 大体ヴィタに急いで買って来てもらったからろくに吟味する時間すらなかったんだもの、何このカツラ、パーティー向けのくせしてこんなチクチクするのをパーティーで被っていられるわけないじゃない!」
 ティディアの『バラし』に……偽りは、なさそうだ。
 ニトロには、背後の芍薬が出し抜かれたことに内心険立っているのが解る。同時に、既に今回使われた手段を――ティディアの言ったネットワークを使って洗い出しにかかっているであろうことも。
 そして、二人から反論が来ないことを好機と捉えたティディアは、畳み掛けた。
「だから今、私の装備はこれだけッ! 落ちたら死んじゃう!!」
 ティディアの力強い宣言に、しかし、ニトロは首を傾げ、
「うーん。そう言われてもなぁ」
 次いで、芍薬は“鼻”で笑った。
「信用デキナイ」
 ティディアはちょっと鼻につんと来るものを感じたが、それでも叫んだ。
「信用して!? ほらほら見て見て!?」
 くるくる回りながらティディアは腕を広げる。
「どうぞ今一度じっくりご覧あれ! この体のどこにどんな『安全装置』を付けているって言うの!? 足の裏にガス噴射機!? 懐にワイヤーガン!?」
「お前が付けてなくても他に用意している可能性はあるだろ」
応援スタッフヲ呼ビツケルノモ可能ダロウシネ。アア、ソウサ。ソリャモチロン一国ノ王女様ノ人脈ガあたし程度ニ“全バレ”スルノハ問題ッテモンダヨ? ソリャアソウサ。デモ、ソレナラココハイッソ徹底的ニ負カシテ欲シイモンダネェ」
「芍薬ちゃんたらきっつい台詞回しだこと!」
「既にスタッフが下の観客に紛れてマットなり爆張衝撃緩和嚢SAジェルバックを持ってたりね?」
「ニトロも乗るのっ!?」
「ヒョットシタラ、階下ノ住民ニ協力ヲ命ジテイルカモシレナイシネ」
「それがなくても、ひょっとしたら自力で着地できるかも」
「ムシロ自力デ飛ブカモネ」
「粗末な翼を手でパタパタやって? あ、超能力者サイキッカーを用意できてればそういう演出も可能だね」
「ソレトモ本人ガ実ハ超能力者サイキッカーダッタリシテネ」
「うーん、あり得そうで笑えない」
 つらつらと澱みなく畳み掛けられ、流石にティディアは歯噛んだ。
「そこまで疑う!?」
「「日頃の行いを思い返せ」」
 芸術的に揃って言われてティディアは悶えた。
「返す言葉もございません!」
 ティディアは胸に手を当て声を張り上げる。その様は空中にありながら地団太を踏んでいるようでもあった。
 彼女を吊るワイヤーが――耐荷重は十分許容範囲だろうが――びよんびよん揺れている。
 その様子を見て、ふと、ニトロは思った。
「……なあ、お前が動く度に、いくらなんでもヴィタさん辛いんじゃないか?」
「くたびれる前に事を済ませて下さいって言われているわ」
「……」
「……」
「……」
「……ニトロ、お願い。……入れて?」
「……」
 ニトロは眉間の皺を叩き、
「二つ聞く」
「何?」
「何で車のナンバーが住人のものと一緒なんだ?」
 芍薬が判断に苦しんでいた理由。
 それを聞かれたティディアは早口で、
「これだけは前から用意していたからよ! もちろん偽装だし一度しか使えない手だけど今こそその時!」
「なるほど。後で『用意していた車』の全リストを芍薬に渡すこと」
「一度しかって言っているじゃない一度使った手は芍薬ちゃんにはもう効かないんだから!」
「――で?」
「渡すわよ! 渡せばいいんでしょ!」
 顔を赤くしてティディアは口惜しげに怒鳴る。
 ニトロはうなずき、
「それで。それで本当にお前はうちに入れてもらえると思っていたのか?」
「だって入れてもらわないと――」
「単純にヴィタさんにワイヤーをもっと出してもらえば無事に着地できるな」
「……だって……誕生日プレゼント……」
「プレゼント?」
「そう! 今夜パティに甥か姪を「承諾」
 もはやニトロが言うまでもなく。芍薬は了解を返すや左手の中指から赤いレーザーを放った。ミーッと、音もなく発射できる光線のために味方が被害を受けないよう付けられた音がして、同時、ティディアの顔がさっと青褪める。
「ヒッ!――」
 短く甲高く喉を鳴らし、ティディアはワイヤーが焼き切られる直前――あるいは極めてその刹那、腹筋と背筋を瞬時に爆発させ、まるで空に飛び出したうおのように体を泳がせた。懸命に腕を伸ばし、限界まで指を伸ばし、そして
「ふんにッ!」
 気合一発、紙一重で届いたベランダの手すりに必死の形相でかじりつく!
「……」
 ニトロは腕を組んだままティディアを冷たく見据えていたが……はたと我に返ったように、
「あれ? マジで必死?」
「ていうか瀕死よ! 大真面目に死に直面していたわよ!」
 腕と胸で抱きかかえるように手すりにしがみつき、声を震わせ訴えるティディアはちょっと涙目である。
 どうやら……今回ばかりは真に心底から全てにおいて偽りないらしい。
 ニトロは首を傾げながら芍薬と目を合わせ、それから二人で小さくうなずき合う。
 その様子にティディアは眉を垂れ、
「うう、ホントに命を懸けないと何にも信じてもらえないのね」
「ト言ウヨリ、命モ懸ケラレナイノカイ?」
 と、ニトロが反応するよりも早く、芍薬が問うた。
 その質問にティディアは少し面食らったように目を丸めたが、その目で芍薬の瞳を見た時、人と違って心を映さぬ人工眼球ガラス玉の奥に確かに芍薬の意図を認め――
「ケースバイケースね」
 さらりと、ティディアは応えた。さらに“いつもの調子”で続ける。
「いくら『ニトロのため』だとしても、愛のためだとしても、何でもかんでも命を懸けるのは馬鹿のすることよ」
「ソノ馬鹿ガ何ヲ言イッテル」
「だけど芍薬ちゃんもそう思うでしょう? 貴女の『命』も、軽くない
 芍薬はティディアを見つめ、それからニトロを見た。
 ニトロは今のやり取りに少しの当惑を見せていた。流れとしては芍薬のツッコミとそれに対する受け答えだけ――と取ることもできる会話だが……いいや、芍薬にも、ティディアにも、そこにはどこか“敵対”とは違う奇妙な迫力があった。かと言って、もちろん“友好”とは全く違うのだが……
 初めて遭遇した状況を掴み切れずにいるニトロから、芍薬はティディアへと目を戻し、それからアンドロイドの体で器用に『ため息』をついた。
「引キ上ゲテモイイカイ? ココデ死ナレタラ主様ノ夢見ガ悪クナル。無茶サレテ大切ナ鉢ヲ倒サレルノモ嫌ダ」
 ニトロは今一度ティディアを見た。
 ティディアは未だに手と腕だけで体を支えている。脚を使わないのは事ここに及んでなお腿を閉じているからであるらしい。そして、芍薬の示唆するように、ティディアの身体能力ならば脚を使わずとも、また腿をぴったり閉じたままでも曲芸師のようにベランダに飛び込んでくるのは可能だろう。しかし彼女がそれをしないのは、おそらく芍薬が大切にしている鉢植えに万が一のないように配慮しているから――だろう。
 ニトロも、ため息をついた。
「……何で命懸けって分かっていながらこんな馬鹿なマネをするのかね」
「だって『守護天使』」
 そのセリフに、ニトロはもう一つため息をついた。
 そう、守護天使
 アデムメデス国教は一年368日、その一日一日に守護天使がいると教えている。8月28日を担当するのは『天使クラウネ』だ。クラウネは金髪で白布を身に巻いた女の姿で描かれ、司るのは『歌劇』である。前日の27日を守護する兄『クラウン』と共に特に喜劇を祝福すると言われ、女芸人の信仰厚い天使でもある。
 なるほど、一日早いが、彼女なりに弟を思っての仮装であるのは理解できるし、一目見た時にそれも含めて“意味”の全てを理解していた。
 だが、
「だからって、それなら玄関から来ればいいだろう。何でわざわざ命綱一本なんて危険な方法を採るんだ」
「堂々と玄関から来て、それでニトロが部屋に入れてくれるとは思えないわねー」
 ニトロは渋面を作った。自分で言っておきながら、確かにティディアの言う通りだ。
「それに――」
 と、ティディアは重ねる。
「何より普通にやって来ちゃあサプライズが足りない」
 体を支える腕をプルプルさせながら(もうちょっと頑張れる)ティディアはニトロの背後へと笑顔を送った。
「ね、楽しめた?」
 ニトロと芍薬は振り返った。
 すると、食卓の椅子で床に届かぬ足をぱたぱたと動かしながら、目尻を下げたパトネトが心から嬉しそうに笑っていた。
 それを見たニトロは、
(ああ、なるほど姉弟か)
 内心苦笑し、頭を掻き……
「芍薬」
「承諾」
「だからさっきからずっとその名前を呼んだだけで以心伝心なのは正直ずるいと思うの」
「ウルサイヨ」
「私ともそうなりましょう?」
「断固拒否」
「いけずー」
 芍薬に引き上げられながら文句を言うティディアを背後に、ニトロはスリッパについた砂を払ってから部屋に入り、パトネトと目を合わせた。
 パトネトは、今度は顔を背けない。
 ニトロは再度頭を掻き、
「今日だけ特別だ」
 振り返り、ひどい渋面の芍薬にワイヤーを外してもらいながら、自分はスカートの丈を長めに直しているティディアに言う。
「今日だけ、部屋に入れてやる」
 ティディアが何故か一瞬ぽかんとし、それから激しくうなずいた。その頬も、瞳も、実にキラキラと輝いていた。
 一方、ニトロは顔を曇らせて続ける。
「もちろん、解っていると思うが泊まりはなしだからな」
 ティディアはうなずき、それからいそいそと部屋に入ろうとして、そこでふと思い止まった。
 ニトロが何かと思えば、芍薬が多目的掃除機マルチクリーナーを操作して濡れ布巾を持ってきた。
 芍薬が先に入り、受け取った布巾で足の裏を拭いたティディアは――
「……」
 何やら万感の思いを噛み締めるように、じっくりと、一歩、部屋に踏み入った。
「……」
 ティディアは感動していた。
 ニトロに許されて――形はどうあれ、彼に初めて招かれて入ることのできた彼の部屋!
 単身者用ながら広い一室。窓の傍にあるベッド、壁掛けのテレビモニター、クローゼット、食事と学習を兼ねたテーブル、キッチン……既に知っているはずの間取りが、調度品が、何もかもが真新しく見える。何もかも、目に映る全てがこれまでになく輝いている!
「……嗚呼」
 その嘆息を聞き、ニトロは思わず苦笑した。
「大袈裟な」
 ティディアは彼のセリフを、あえて聞こえなかった振りをした。
 ――大袈裟だと、自分でも思う。
 しかし、決して大袈裟ではないのだ。
 と、玄関のチャイムが鳴った。
「ヴィタダ」
 芍薬がニトロに苦笑を見せる。
「三人ホド、ギャラリー付キダヨ」
「ここまで入り込んできた?」
「御意。警備会社ニハ通報済ミダヨ」
「ありがとう。――でも、お詫び巡りしなきゃね」
「御意」
「菓子折り代は私に持たせて?」
 ティディアの申し出に、ニトロと芍薬は同時に言った。
「「当たり前だ」」
 完璧なユニゾンにティディアがまたちょっと面白くない顔をする。が、それでもすぐに彼女は微笑み、うなずいた。
「さて……」
 芍薬が玄関に向かい、ニトロはキッチンに向かう。
 オーブンレンジを見ると火は消えていた。しまった! と思えば――いや、チーズは焼けていない。芍薬がこちらもすぐに止めておいてくれたらしい。いざとなれば冷凍用に取り置いたものをパトネト用に出すこともできたが、これなら問題はない。ニトロは粗熱を取るために置き放していたグラタンにもチーズを乗せ、それもオーブンレンジに入れ、改めてスイッチを押した。
(ヴィタさんはお腹空いているよな)
「お構いなく」
 と、芍薬に部屋に通されたヴィタが開口一番そう言った。
「私も共犯ですから」
 ニトロは面食らったが、すぐに微笑み、
「グラタンは二人で分ける。スープは間に合うかな。サラダも、まあ大丈夫。それで足りなかったら買い置きの冷凍食品かレトルトで我慢」
 彼の采配に、早速テーブルについてパトネトと歓談していたティディアと、そのティディアの肩に一枚羽織を掛けるヴィタが異論ないとうなずく。
「それから、パティが作ったケーキがあるから」
 その言葉に、ティディアもヴィタも大きく目を丸くした。黒曜石とマリンブルーの宝石が、驚きのあまりに不思議な輝きを見せていた。
「パティが?」
 姉の驚愕と感激の相半ばする声に弟は誇らしげに胸を張り、そして顔をほころばせた。
「ニトロ君と一緒に作ったの。みんなで、一緒に食べようね」

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