「ところで明後日のことなんだけど」
ほぼ日課である
すると眼前に表示された
その様子を見て――つまり通信も繋がったままであることを確認して、ティディアは内心安堵していた。もし自分の声があと一瞬でも遅れ、ニトロの腰が完全に椅子から離れていたら、この接続は芍薬の手によって切られていただろう。気がつけば、画面の右下隅にデフォルメされた芍薬の
「……また、その話か?」
と、ため息混じりに、A.I.と同じ不満一杯の目をしてニトロが言った。彼はあからさまにうんざりしている。ティディアは流石にむっとし、
「『また』も何もないわよ」
唇を尖らせて自分も不満を隠さずに言う。
「だってパティの誕生日なのよ? それをお祝いするパーティーに来ることが、そんなに嫌?」
明後日、8月28日――弟のパトネト・フォン・アデムメデス・ロディアーナは8回目の誕生日を迎える。
「お祝いする、のは嫌じゃない。パーティーに参加する、のが嫌だって何度も言ってるだろ」
「だからこっちもその『お祝い』をしに来てちょうだいって何度も言っているんじゃない。
それで、その日はたまたま
「だからこっちも何度も言ってるように、その『それだけのこと』が余計なんだ。ていうかお前の場合そっちがメインだろう、いい加減しつこいぞ」
「しつこくもなるわよ。だってニトロがいた方がパーティーは盛り上がるもの。それに、そうね、確かにニトロをパーティーに呼ぶのがメインだっていうのは認めるわ。だってニトロがいた方が私は嬉しい。そして私が嬉しいと私のことが大好きなパティはさらに輪をかけて嬉しい。あの子自身、ニトロに来てほしいって言ってもいた。それなら何度断られても参加してもらえるようにお願いしよう――姉としてそう思うのは、ねえ、不自然なこと?」
「自然だ。が、ていうかお前『私のことが大好きな』って随分な自信だな、おい」
「事実だもの」
「……お前は一日一回謙虚って言葉を読んで書き取って唱えた方がいいと思うぞ」
「謙虚は時として嫌味になるわねー」
「お前みたいに“さも当然”と言うのは時としてもっと嫌味になるよな」
「その通り!」
「……」
ニトロは頭を掻き、息をつき、
「話は終わりだな?」
ティディアは先ほどの不満を会話の楽しさで忘れていたことに気がつき、はっとしてブルブルと頭を振った。それからとにかく話を終わらせまいと、
「でも何でそんなに『パーティー』を嫌がるのよ」
口早く、もう何度目かの問いを投げる彼女の脳裏には大きな疑問があった。
先ほどもニトロが言った通り、彼はこの件に関して『パーティー』が嫌だと一貫して主張し通し続けている。しかし……本当に、何故、彼はそんなにも『パーティー』を嫌がるのだろうか。その理由が明確ではない。嫌だとしか彼は言わない。そしてまた、彼女の疑問にはある誤算も同居していた。彼はお人好しだから、弟のためと言えば結局最後には折れてくれると思っていたのである。高を括っていたと言えばそれまでだが、しかし、いやだからこその誤算であり、疑問だった。
ティディアは、ニトロの考えているのことを知りたい。彼女は訊ねる。
「もしパーティーが“『家族だけの誕生日会』じゃない”ってまだ疑っているんなら、それは心配いらないわよ? まだパティには色々早いもの。だから、本当に、私と、父と母と、パティだけ。芍薬ちゃんだって私が『サプライズ』のために裏で人を集めたりしていないって調べてあるでしょ?」
アデムメデスにおいて王家の子女の『誕生日会』は、それが『社交界的に開かれる』ことが決まった瞬間、特別な意味を持つことになる。アデムメデスの社交界のみならず、非公式ながら国においても重要なイベントとして認識されるのだ。何故なら、王家子女の誕生日会には普段王家と接点のない貴族や資産家、政治家、のみならず身分を問わずに一般市民までもが招待されることがあり、そこで培われたコネクションが後の世に大きな変化をもたらすことさえあるためである。現王ロウキルと、下級貴族であった王妃カディの出会いも、彼の王子時代の誕生日会にあった。
そのため、そういった性格上、王家子女の誕生日会は『次代の王を社交界へ顔見世する舞台』としても非常に都合の良いものなのだ。
ティディアからすれば外交の舞台ともなる王と王妃の公式誕生祝賀会こそが『ニトロ・ポルカト』を華麗にデビューさせる最良の条件であったのだが、その機会を得るには来年の1月か4月を待たねばならない。
となれば、直近の王子の誕生日を“次点の最良”として『サプライズ公開パーティー』にする気では? と、ニトロとその戦乙女が最大限に警戒するのは当然なことであろう。ティディアもそれは自然な反応であると思うし、その警戒も当然のことだから仕方がない。だが、妹の誕生日と成人を祝うパーティーには、あの事件への思いと、その縁も手伝って彼は参加を快諾してくれていたはずだ。
それなのに――
「ミリュウの時は良くて今回はダメって……一体何が違うの? 同じ身内だけのパーティーじゃない」
ティディアは、問いかけに応えず黙するニトロを、彼からその秘めたる心を引き出そうと目に力を込めて訴えかけた。
彼も、じっと、半眼でこちらを見返してくる。
画面右下隅に見切れている芍薬もマスターと同じ目をしてじっと睨みつけてきている。
じぃっと同じ視線を浴び続けていると、ただでさえ手強くも愛しい男と、厄介ながらも親しく思っているA.I.の競演だ、その画面の面白さからティディアは――上手くいかない説得に対する焦燥があるというのにも関わらず――どうしても笑いそうになってしまう。もちろんここで笑ってしまえば説得も交渉も何もなくなるから懸命に堪えるが、ちょっと……あ、わりとやばいかも。
「……」
「……」
「…………」
「…………」
「――――――」
そろそろ限界である。
ティディアの我慢がとうとう決壊しそうになった時、ふいにニトロが大きな息をついた。
「お前のことだから、てっきり全部解った上でしつこく言い続けてるんだと思ってたんだけどな」
「何が?」
ティディアは小首を傾げた。ニトロは数秒の沈黙を挟んでくる。その目はまたもこちらをじっと見つめているものの、その顔は妙に強張っている。
(――照れ臭い?)
ニトロの表情の変化をそう分析したティディアは、さらに疑問符を浮かべた。
「言っておくけど、私、ニトロのことになると馬鹿よ?」
「ていうかお前は基本バカだろ」
「いやん、そういうことじゃなっくってぇ」
「うっわ殴りてぇ」
「いいわよー、殴りに来て来て? ドアも股も開いておくから」
「……」
ニトロは閉口し、とんとんと眉間の皺を叩いた。
画面右下隅の芍薬の目は怒りを帯びて燐光を放っている。
一方、ティディアはニトロの“照れ臭さ”が薄らいでいることを見て取り、
「それで?」
機を逃さず、彼女は促した。
「お前の両親は一体誰だ?」
ニトロが、ようやく応えた。
だが、ティディアは、またも小首を傾げた。ニトロが言わんとしていることがいまいち掴めず、ひとまず言う。
「私の両親だけど?」
「そういうこっちゃなくて。あのな、お前の両親はつまり王様だろ? 王妃様だろ? 序列はあるけどお二人共にアデムメデスの君主だろ?」
「あ。もしかして、緊張しちゃうってこと?」
「もしかして、って。お前は一般市民が両陛下を前にしたらどんな気持ちになるか解ってないのか?」
「解っているけど……」
そこまで言って、ティディアは意外そうにニトロを見つめた。その視線に、彼は眉をひそめる。
「……何だよ」
今度はニトロが問うた。
「だって、ニトロ、私とはこんなに気楽に話しているじゃない。今さら?」
「今さらも何さらもないわ! 俺はまだ王様とも王妃様ともお会いしたことはないし、つうかお前を今さら王女様だと敬う方がおかしいわ! 別だ、全くの別だ!」
「私のことだけならそうなんだろうけど……でも、ミリュウとだってわりと親しくやっていたじゃない?」
その指摘に、う、とニトロは息を飲んだ。
「それは何か……まあそりゃあ色々あったけど、心繋げた仲って言うか、そういう奇縁があるからな」
ティディアは妹への羨ましさからちょっとむっとしかけたが、それは押し殺し、
「パティのことを可愛がってくれているのは? まさか王子様に乞われるままに、なんてことじゃあないでしょう?」
「いや……なんつうか、もはや俺にとっちゃ王家子女は王家子女として扱いづらいって言うかな?」
「他人事みたいに言うけど――それはまあ解る」
「いや他人事じゃないだろ。ていうか全面的にお前のせいなんだがな?」
「けれどニトロを今さら『一般市民』っていうのは全く理解できない」
「今さらそこも突っつくか、つーかそれに関しては全否定のツッコミを全力返してやりたいところだがどうにもツッコミが浮かばなくてひどく悔しい思いをしているよっていうかそれも完全完璧圧倒的にお前のせいだろうがッ」
「こっちもそれを否定するだけの理屈はないわねぇ。それじゃあ、ほら、いっそ何事も“私のせい”にして王と王妃とも気楽にハローってのはどう?」
「……お前は、だから王女様らしくないんだよなあ」
「だってクレイジー・プリンセスだもの」
「うるさいバカ姫」
ニトロは大きくため息をつき、
「それに、だ」
と言って、そこで彼は言葉を途切らせる。
「それに?」
ティディアが促すと、ニトロは逡巡を見せた後、そっぽを向いて言った。
「……両親に挨拶って。
ヤだ」
その告白に、そこに含まれる意味合いを瞬時に悟ってティディアは――思わず――吹き出してしまった。ニトロのコメカミが、揺れる。
「え?」
吹き出した後、笑い声だけは懸命に堪えて――しかし頬の緩みは嬉しさと彼の可愛らしさのあまりに止められない――ティディアは訊ねた。
「そんなに意識してくれていたの?」
「お前の期待に沿わない方向でな」
頑としてパティの誕生日会への出席を拒んでいた最大の理由をついに口にしたニトロは、そっぽを向いたまま不機嫌に言った。ティディアはおそろしく目尻を垂れて、
「だったら、別にいいじゃない。こっちだってそんな大層な意味で呼んでいるんじゃないんだから」
「そんな大層な意味で呼んでなくても、そこに大層な意味が生まれたらお前は目ざとく利用するだろ。そしたらそこからなし崩すのはお手の物、違うか?」
「ふむ、否定の意味はなさそうね」
「だろう? それに、だ。お前がそういう気じゃなくても周りは“そう”とは思わないはずだよ。ひょっとしたら……」
「当の父と母が“そう”思っているかも?」
「……」
正答を示されながらも肯定を返さぬニトロの唇がへの字に結ばれていることが、横からでもはっきりとティディアには見て取れる。年下の想い人の珍しい態度に彼女の喉が一度クッとおかしな音を立てた。
「そうねー、ニトロのこと、まるで、息子のように、歓迎するかもねー、いいえ、するわ、きっと」
ティディアは笑いを堪えるために途切れ途切れに言った。そのセリフは不機嫌なニトロの顔をさらに強張らせる。
ティディアは、限界だった。
王と王妃を前に緊張して顔を強張らせるニトロを、彼の気持ちとは逆に『未来の息子』として迎える両親、その光景――どんなすれ違いコメディトークが炸裂するだろう!――その双方のギャップを想像してしまっては、彼女にはもう堪えることが出来なかった。
「ッあっはっはっはっは!」
彼女は腹を抱え大口を開けて笑った。
ニトロのその不機嫌のなんと愛しいことか!
もちろん、彼が自分の期待に沿う形での緊張感を持ってくれていないのは確かに悲しい。
しかし、それでもそんな風に思ってくれていたと思えば喜びに胸が震える。
その上――もしかしたら? と思う――彼がそこまで気にするのも、私が本当に彼を愛していると知ってもらえたからなのかもしれない、だからこそ余計にそのシチュエーションを彼は嫌っているのかもしれないのだ! それが妄想だとしても、そう思えば何とも形容しがたい歓喜が後から後から彼女の口を突き、その笑いが笑いを呼び、比例して、ニトロの不機嫌がさらにさらに増していく。
「そういうわけで――」
ドスの効いた声がして、ティディアは
「断ル」
マスターの後を受けて画面右下隅の芍薬が“怒りマーク”付きで言い、通信が即座に遮断される。
「……」
モニターに表示されたデフォルト画面を眺め、やおら、ティディアはため息をついた。
「やっちゃった」
胸にはニトロに与えられた喜びと、同時に後悔がある。
「……ニトロのことになると、ほんと、馬鹿ね」
弟に何と言おうか。ニトロが誕生日にお祝いに来てくれないとなると、あの子はひどく残念がるだろう。何しろニトロは、父を除き、パトネトが初めて懐いた男性であるのだ。……いや、あるいは父以上に懐いているかもしれない。彼と付き合いだしてからというもの弟は日に日に明るくなっているし、これまで関心を向けていなかった事に対しても目を向け出して世界を広げている。さらに! あの子から取り除くには苦労しそうだと考えていた極度の人見知りまでもが急速に和らいできている。
『ニトロ・ポルカト』は、間違いなく、パトネトにとっても必要な人だ。そしてそれは自分にとって非常に嬉しいことでもある。私の愛する人が私の大切な弟にも重要な存在としていてくれるなんて、何と素晴らしいことだろう!
……それに。
今回の誕生日は元々身内だけで行うことが決まっていたとはいえ、ミリュウを、そのメンバーから外させてしまった。なればこそ、せめてニトロにその穴埋めをしてもらいたいと考えていたというのに……それをパトネトも期待していたというのに……
「……情けない」
自分が笑ったにしろ笑わなかったにしろ、どちらにしろ結果は変わらなかったとも思うが――
「……?」
ティディアの胸には、初めて感じる不思議な思いがあった。
――後悔している自分を、私は今、それさえも幸せに感じている。
「……――ッ」
ティディアは首を振り、頭をがしがしと掻いた。
「
「ハイ」
部屋付きのA.I.が即座に応えてくる。
「パティは?」
現在11時半。今日、弟とは朝食を一緒にしたきりだ。昼はこちらが公務で出かけ、晩はあちらが何やら作業をしているようで部屋にサンドイッチを運ばせていた。そのまま何事かに没頭し続けていれば今も起きているだろうし、そうでなければとっくに寝ているだろう。
pは言った。
「起キテイラッシャイマス」
「そう」
ティディアは一度伸びをして気持ちを切り替え、勢いをつけるようにして椅子から腰を上げた。
「ヴィタは?」
「植物園ニ」
「ハーブティーを淹れるように伝えて。目が醒めるものがいいわ」
「カシコマリマシタ」
A.I.の声を背にティディアは部屋を出て、一階上に用意したパトネトの部屋に向かった。
(正直に謝るしかないわね)
階段を降り、パトネトの部屋の扉を前にして、ティディアは結局そう結論した。
弟は明日、ニトロのところへ遊びに行くと言っていた。ニトロのことだから、きっとその時にでもお祝いしてくれるだろう。彼の祝福が無いわけではない。当日にお祝いに来てくれることが最良ではあったが、それを逃しても最悪ではないのだ。
……最悪ではないが、とはいえそれで最良を逃した現実を覆い隠せるものでもないのだが。
「……」
パトネトの部屋のドアを前にティディアは自身の失態を思い返し、吐息をついた後、軽くノックした。すると、一拍を置いてドアが開かれた。ドアを開いたのはアンドロイドであり、それを操作するのは弟のA.I.フレアである。
フレアが丁寧に辞儀をして姉姫を部屋に招き入れる。
いくつもの会話のパターンを脳裏に描きながら部屋に入ったティディアは、そこで眉をひそめた。
背後でドアの閉まる音がする。
ほぼ正方形の部屋。パトネトの好みのために狭く作られた部屋には、ベッドだけが置かれている。南には明り取りの小さな窓があり、壁の一方には部屋とほぼ同床面積のウォークインクローゼットがあり、その反対の壁には大きな扉がある。扉の先は工作室だ。そちらはこの部屋の五倍の広さがあり、バスルームとトイレもそちらに備え付けられている。
ティディアは、てっきりパトネトは工作室にいると思っていた。
だが、弟は部屋の真ん中に置かれた――これも彼の好みだ――大きなベッドの上にいた。弟は膝立ちとなり、膝の前には服が置かれている。見ればそれはウサギのプリント(それも出来の悪いデフォルメのプリント)がされたパジャマだった。ニトロに動物園に連れて行ってもらった際に買ってきたものである。そのパジャマの横には下着とお気に入りのバスタオルがあった。さらに横にはナップザックがあり、弟は何やら楽しげにナップザックに物を――今はモバイルコンピューターを――詰め込んでいる。
鑑みるに、外泊セット、そのような印象を受けるが……
「パティ?」
こちらを振り返ることなく黙々と、パジャマを丁寧に小さく畳んでザックに詰めているパトネトに、ティディアは声をかけた。
「なあに?」
パトネトはやはり振り返ることなく応えてくる。だが、それはどうでもいい。弟が作業に夢中になっている時はいつもこんなものだ。むしろ応答があるだけ良い。
ティディアは躊躇いがちに、そして疑問に眉をひそめながら、
「……ニトロね、やっぱりパーティーには来られないって」
「うん、いいよ」
パトネトの答えは至極あっさりとしたものだった。弟はザックからパジャマとモバイルを取り出している。詰める順番を変えることにしたらしい。最後に出てきたのは外出用の私服の上下、靴下もあった。
それを見て、ティディアは――正解を解っていながらも――問うた。
「何の準備をしているの?」
下着を畳んでザックに詰めながらパトネトは言う。
「お泊まりの準備だよ」
――お泊まり!
正解を解っていながらも、いざ正解を聞いた瞬間、ティディアは予想だにしない衝撃に襲われていた。
(――お泊まり!?)
脳が痺れる。
ティディアは、正解を解っていながらも、再び問うた。
「いつ、どこにお泊まりするの?」
それはあまりに愚かな質問であろう。もちろん、それもティディアは解っていた。しかし準備に夢中なパトネトは何の疑問も抱かずに答える。
「明日、ニトロ君のおうち。ニトロ君がせっかくだから泊まっていきなって」
「――!!」
ティディアの脳天から尾骨にかけて何だかえっらい電撃が突き抜ける。
ニトロの家に、お泊まり!!
そのあまりに甘美な響きが彼女の心臓を鷲掴みにする。
だが、彼女は、つい十数秒前、弟のこの部屋に入るまで“その概念”を忘れていた。いや、忘れていたというのは少々違う。そもそも彼女は、その概念に考えを及ばせることができていなかったのである。
何故ならば。
ニトロの家に泊まる……もし、自分がそうしたいと思ったら? そうしたいと言ったら? ニトロは微笑んで言うだろう「今すぐ脳外科に行こう」――私がニトロの家にお泊まり、などとはありえないことだ。だから全く考えていなかった。その可能性すら現時点では論外。その可能性自体が脳裏の奥にある引き出しの奥の隅に開けられた深い穴の奥のさらに深淵へと放り込まれて存在を限りなく消失していたのである。
だが、しかし、ニトロの家にお泊まり!? あまつさえ彼が「泊まりに来るか?」と誘ってくれる!?
嗚呼……なんと……なんという素晴らしい『夢』だろう!!
「――……」
ティディアは、気がつけば己の心音を聞いていた。
ほんの刹那の間に、彼に、あの可愛らしい不機嫌を見せた年下の男性に、そう、あのニトロから「泊まりに来るか?」なんて聞かれる事を白昼夢に見て! 彼女は頭がくらくらするくらいの興奮を覚えていた。体の芯が熱を持ち、全身の皮膚がほのかに上気し、心臓は頭の中心に移動してきたかのようだ。耳の裏側から鼓動が聞こえる。口を開けば心音が鳴り響きそうにも思える。
……だが。
彼女の興奮は、長くは続かなかった。
むしろ、興奮の強度が激しいばかりに、反面、ほんの刹那の白昼夢から戻ってきた彼女は冷徹な『現実』を味わうこととなったのである。
――そう。ありえない。
「もしかして」
ティディアは――そうだ、ありえないことだ――理性により急速に体が冷え、萎んでいく心音がやがて聞こえなくなるのをそのままに、
「一日早くパーティーをしてもらえるの?」
「うん。遅くまでたくさん遊ぶんだ。ご飯もいっぱい作ってくれるって。夜はね、エビがいっぱいのマカロニグラタンなんだよ! ニトロ君、僕のだいすきなの覚えててくれたんだ! ケーキも手作りなんだって。イチゴがいっぱいってお願いしたら、わかったって言ってくれたんだ」
パトネトは嬉しそうに言っている。
弟の喜びが、ティディアの痺れていた脳を先とは逆の意味で痺れさせる。
彼女は微かに眉を垂れ、
「お姉ちゃん、そんな話は聞いてないわ」
「だって今日約束したんだもん」
「……今日?」
「うん。夕方電話がかかってきて、誕生日のお祝いだけど、って」
ティディアは歯噛んだ。ということは、漫才の練習前には既に約束されていたということだ。
「お姉ちゃんも、行きたいな」
「だいじなお仕事があるから誘っちゃダメだよって、ニトロ君は言ってたよ?」
「……」
ちくしょう、と、ティディアは内心うめいた。
「そうね、言ってみただけよ」
確かに明日は重要な仕事がある。朝一でクロノウォレスの外相と星間通信会談をし、それから来月の王・王妃の外遊に随従する者達と会議をし、昼には西大陸へ飛んで、あちらで妹がサインを代行した案件に関連する会議に参加する。それらを――特に後者を――クレイジー・プリンセスの面目躍如とばかりにぶっ千切ることは可能ではある。が、もちろんそれをすればニトロは怒るだろう。その上、パトネトを介して釘を刺されてなお、ということになれば怒りの上にひどい侮蔑まで買ってしまう。
(裏で動いていたのは私じゃなくて、あっちだったってことね……)
もしやニトロのあの照れ臭さや、両親と会うことに対する抵抗感はこれを隠すための演技だったのだろうか。――ふと、ティディアはそんなことを考えた。そして、それは嫌だな、とすぐに思う。しかし思ってまたすぐに彼女は考えを改めた。
ニトロは、パトネトに口止めをしていない。
ということは進んでこの話題を出さなかっただけで、元より隠すつもりもなかったのだろう。とすれば、あの照れ臭さと抵抗感は彼の本心だ。そうであれば、やはり嬉しい。
(嬉しいけれど……!)
かといってニトロに“してやられた感”は拭えない。というか、これまでその件を察することも出来ずに隠し通されていた以上、完全にしてやられた。用意周到な罠というわけでもない小さな企みではあるが、それでも面白くない。そして何より面白くないのは――
「いいな」
ふいに口をついた己の小さな嫉妬、意図せずこぼれたその声にティディアは自分自身でひどく驚いた。
慌ててパトネトを見る。
弟にも、聞かれていた。
弟は大きくうなずいていた。
「うん、いいでしょ!」
パトネトの応えはとても無邪気だった。その目は荷物を詰め込み終え、きちんと閉じたナップザックに向けられている。ちゃんと自分一人で用意したことに満足の鼻息を鳴らして、明日これを背負ってニトロの家に行くのが楽しみで仕方がない――弟の赤らんだ頬はそう語っている。
「うん、いいわね」
ティディアは、弟の無邪気さに救われた気がした。
(もしかしたら)
ミリュウも、ずっとこんな気持ちを味わっていたのだろうか。
そう思い至れば、ずっと妹を支えてくれていた弟がこんなご褒美を受け取るのは至極相応のことだ。この子を羨ましく思ってしまうのはどうしようもないが、それでもティディアは調子を取り戻し、微笑みを浮かべ、
「楽しんでいらっしゃい」
――と、パトネトがそこで初めてティディアへと振り返った。
じっと姉を見つめ、やおら何か納得したように、彼はにこりと微笑む。
「うん!」
うなずく弟にはつい半年前からは信じられない明るさと力強さがある。
そこに『彼』の良い影響を見て取ったティディアは微笑みを深めた。
彼女は弟に歩み寄り、そして、その額に口づけをした。
ところで――パトネトがニトロの家に『お泊まり』するのは良いとしても。
弟の部屋を出たティディアは、全速力で自室に戻った。
乱暴にドアを開け、部屋に飛び込む。中には既にヴィタがいて、彼女はドリンク専用のワゴンの上に置いたクリスタル製のティーポットへフレッシュハーブを入れているところだった。
「お帰りなさ―」
と、言いかけたところで、主人の形相に気づいたヴィタが珍しくぎょっとする。普段は藍銀色の髪に埋もれるようにして隠してあるイヌの耳がピンと立ち上がってもいた。
「
「――着信拒否サレテイマス」
先手を打たれていた! 芍薬ちゃんだな!? ティディアは執事に振り返り、
「ヴィタ!」
執事は命じられる寸前から用意を始めていた。私用の携帯電話を操作し、一息置き、
「同じく拒否されています」
「〜〜〜〜〜ッ!」
ティディアは拳を握り締め、地団太を踏んだ。
「ッっもーーー! 文句くらい言わせなさいよ!」
一際強くダンと床を踏みしめ、ティディアは叫んだ。
「次会った時には絶対すっごいセクハラさせてやるんだから!」
「……」
「……」
「…………」
ティディアは叫んだ姿勢のまま動きを止めていたが……やがて、完璧ツッコミ待ちのセリフにいつまでたっても反応がないために、しょんぼりとうなだれた。
「――ヴィタ?」
うなだれたまま瞳だけを向けられたヴィタは、主人の苛立ちの原因は解らぬまでも“想い人からいけずをされた”状況であることは把握し、その上で、ゆっくりと首を左右に振った。
ティディアはヴィタから視線を外し、
「p?」
「録音ヲ送信シテオキマショウカ」
「あ、やめて、それはダメ」
「カシコマリマシタ」
少々淡白な部屋付きA.I.の反応は、実にpらしいものである。ティディアは小さく浮かべた苦笑を契機に気を取り直し、一度うんと背筋を伸ばし――しかし、再びうなだれた。
「……ちぇー」
頭髪を剃り上げたおよそ一ヶ月半前に比べれば随分と髪も伸び、そろそろベリーショートといった風情の形の良い頭が寂しそうに揺れている。もし足元に小石でもあれば、彼女は間違いなくそれを蹴飛ばしていたことだろう。
「目が醒めるものではなく、体が温まるものに変えましょう」
まるきり初恋に翻弄される少女……とまでは言わないが、それでも完全に恋の病に罹りきっている主人の様子にクスクスと笑いながらヴィタが言う。
「そうね……」
ティディアはため息をつき、腰に両手を当てて今度こそ背筋を伸ばし、
「それを飲んだら眠るわ。資料は起きた時に」
後半はpに向けられたものだった。A.I.から了解を受け取ったティディアは、もう一度息をついて心持ち肩を落とす。
「起床時間がずれるけど、ヴィタはいつも通りのスケジュールでいいから」
「かしこまりました」
ヴィタはポットからフレッシュハーブを取り除くと、ワゴンの中からティーキャニスターを取り出した。ラベルには『ポルカトブレンド・1』と記されている。ヴィタが私的に交流のあるニトロの母から教わったものだ。
「せめて良い夢をご覧になれるといいですね」
ティースプーンで葉を量り入れながらヴィタが言う。
ティディアはポットに熱湯を注ぐ執事の洗練された所作を眺めながら、やおらニヒルに笑った。
「良い夢なら、もうお腹一杯よ」