「明日の夕方、休暇が欲しい?」
そろそろ日も変わろうかという深夜。北大陸のとある領で論争の的となっている公共工事の資料に目を通していたティディアは、今しがたふいに投げかけられた希望をおうむ返しに口にして、眉をひそめた。
王女にその希望を提出した当の執事はコーヒーの粉を匙ですくいながら、
「はい」
とだけ応え、量り取った木目の細かい粉をエスプレッソマシンのフィルターに丁寧に詰める。
ティディアはいよいよ怪訝に己の執事たる藍銀色の髪の麗人を見やった。
基本的に、公私にわたって王女の補佐をするヴィタに、彼女個人で独立した定期的な休暇はない。彼女の休暇はすなわち主人の休暇と同義であり、主人の休暇がなければ彼女の休暇も存在しない。その上、往々にして、主人が休暇中であるがために休めない場合も当たり前に存在する。
しかし、ティディアは、だからといって従者に休暇を与えぬ主人ではない。必要な休みはきちんと用意するし、自由な時間も作らせている。もちろん理由の確かな休養の要請に無視などしたことはない。いかに『クレイジー・プリンセス』とはいえ、その辺りは一般よりもずっと一般的だ。その分仕事に対して非常に高い質を求められる点はあるものの、故にヴィタの待遇は下手な大貴族の執事のそれよりもずっと恵まれている。それなのに、ティディアが今回のヴィタの希望に対して顔を曇らせているのは、純粋に一つの疑念のためであった。
「随分急な話ね」
「急な話でしたので」
そしてティディアがヴィタの希望に対して怪訝を募らせるのは、特にヴィタが根拠を勿体振るように明示しないためであった――と同時に、その理由は、まず自分にとって面白くない理由があるためだと察知しているためでもあった。
しかも、いつもながら涼しい顔でエスプレッソマシンを扱っているこの女執事、明らかにこちらの反応を楽しんでいる。
「急な話を振ってくるとしたら……」
ヴィタの……ニトロの言葉を借りるなら『同好の同志』の“互いに相通じる態度”に腹を立てることは――同族嫌悪を与え合う間柄でもないため――ない。それよりもティディアには気にかかることがあった。
「ハラキリ君に何か頼まれた?」
ヴィタが目を細めた。
美しいマリンブルーの瞳が輝く。
その閃きに、ティディアは胸が締め付けられる思いがした。
「明日の夕方、『トレーニング』を手伝って欲しいと」
――それは、つまり、
「そこにあなたに『補佐を頼まれた私』が参加することは可能ッ?」
そう言ったところで、ティディアは自分が思った以上に語気を強めていたことに気づき(気を付けていたつもりなのに!)ハッとして口をつぐんだ。
ヴィタはマリンブルーの瞳をキラキラと輝かせながら、しかしその喜色に染まる顔とは反対に首を横に振り、
「記録媒体も持ち込み禁止とのことです」
ティディアの顔から、幾つかの色がさっと消えた。
妹の件でニトロから受けた罰――プライベートでの一ヶ月の接触禁止。それは、予想してはいたが、ティディアにとって非常に苦しいことだった。頻繁に彼と言葉を交わし、阿呆な発言にビシッとツッコミを返してもらえる時間がどれほど日々の楽しみ――日々の糧、人生の手応えとなっていたことか……罰の開始から、やっと一週間が経った。ようやく七日が過ぎてくれた!
そしてティディアは思う。
きっとこれからが一番辛い時期なのだろう。
なんらかの中毒患者が禁断症状に喘ぐように、彼女には今、ニトロ成分が枯渇していた。
その上、悪いことに、先日『仕事』で彼と会った際、彼に徹底的に上っ面の付き合いをされたことでショックを受けたばかりである。処罰期間中にも点在する仕事……ニトロと直接会う機会は、ニトロ成分を微かにでも補給するどころかむしろさらに干上がらせることが判明している。そう、今現在で枯渇しているというのに、これからずっと渇いていくことが宿命づけられているのである!
そこに、このタイミングでのこの『持ち掛け』。
これは無論仕事ではない。
また、ニトロに禁じられた行為にも触れない。
私はただヴィタに付き添ったために『たまたま』彼と一緒になるだけだ。調子に乗って話しかけたら約束を破ることになるが、それなら話しかけなければいいだけのこと。じっと部屋の隅にでも座っていて、そうして森林浴をするように楽しい時間と空間を堪能し、心は潤い、意気も満ち満ちて帰ってくることができる――絶好の機会!
期待するなと言う方が無理であるし、失望するなというのも無理な話だ。
「厳しいわねぇ……」
ティディアはため息をつく。
「ハラキリ様は、今はどんなに“誤魔化せる環境”があっても大人しく息を潜めておくが吉――そう言っていました」
その言葉に、ヴィタの言葉の意味するところに、ティディアの顔に幾つかの色が戻った。
「なんだ。ニトロのお達しじゃあないのね?」
記録媒体の持ち込み禁止がニトロ(及び芍薬)からの通告ならば、それはつまり拒絶の意志である。
だが、それがハラキリの手回しであるのならば、これはつまり、友達が、私がより不利な状況に陥る可能性を未然に防ごうとしてくれた思い遣りである。
「一ヶ月経ったらトレーニング用に映しているビデオを提供しますから――とも」
そのビデオは、師匠たるハラキリが、弟子たるニトロと見返しながら修正点の指摘などをするためのものだ。
ティディアは、大きくうなずいた。一つ、これは嬉しい処罰明けの楽しみができた。
――だが、そうはいっても、一人だけ除け者となる状況には変わりはない。
……されども、
「許可するわ。そのまま朝まで自由にしていい」
「ありがとうございます」
少し仏頂面のティディアにヴィタは頭を下げ、それからエスプレッソマシンを操作し、手早くカプチーノを作り上げた。
カップを受け取ったティディアは早速口をつけようとし、はたと思う。
「ヴィタの手伝いが必要って、ハラキリ君、何をする気なの?」
「私には身の丈ほどの戦斧を用意するそうです」
ティディアは、再び眉をひそめた。
「それで?」
「加えて獣人化して、ニトロ様が悪夢に見るほど追い回して欲しいと」
「……何のために?」
「ニトロ様は、今回の件で一つの成果を見せました」
「立派にね」
「ですので慢心しないよう釘を刺しておくそうです」
ニトロは……それで慢心するようなタイプではない。それでもハラキリがそれをするのは――
「『無意識の傲り』まで虱っ潰しにするつもりかしら」
「はい。その上で『自信の正確な固定』を狙うと」
それはつまり、一つトレーニングの段階を上げるということだ。おそらくニトロには、ニトロのレベルが上がったからここまでできるようになったのだ――とでも言うのだろう。ある種の証明書。無論扱いを誤ればせっかくの『一つの成果』から得られるはずのものまで潰しかねないが、まあ、あの師弟には信頼がある。問題はあるまい。
「にしても、ハラキリ君もまめねえ」
こちらとしてはニトロに慢心してもらった方が隙を突きやすくて都合がいいのだが、それは叶わぬ希望であるらしい。
「それで、ハラキリ君は何を?」
「本当の『多勢に無勢』を教えると息巻いていました。芍薬様も参加させるそうです」
「てことは、撫子ちゃんとハラキリ君のタッグ?」
「牡丹様に
ティディアは思わず苦笑した。
「それは酷いわねー」
いかにニトロと芍薬のコンビネーションが素晴らしくとも相手が悪すぎる。簡単に考えて、ニトロからすれば自分達の上位互換が数の暴力付きで襲いかかってくるのだ。さらに、彼は、個人戦では巨大な戦斧を軽々振り回す怪力の獣人に追い回されるのだから――
「……」
カプチーノを一口飲み、ティディアは一つ息を吐いた。
「残念ね。ニトロを慰めるチャンスだったのに」
そう言いながら、自分が彼を慰めることなんてできないのに……と、誰に言われるまでもなく思って、ティディアはまた苦笑する。
それから彼女は己の執事に目を向け、
「間違ってもニトロを殺さないようにね」
「かしこまりました」
「ハラキリ君にも『心遣い』へのお礼を」
「はい」
「もし打ち上げがあるなら貴女が出しておきなさい、私が持つから。あ、領収書はいらないからね」
「はい」
「それから、もし泣きたかったら私の胸を使ってねって、ニトロに一応伝えておいて」
「全くの無駄と思いますが、一応かしこまりました」
ヴィタの――己の執事の返答にティディアは本日一番の苦笑を刻み、
「もう。皆していけずなんだから」
そう言って、想い人の好きな飲み物で喉を潤した。