◆『劣り姫の変』終結から一ヶ月が経った。
この一ヶ月、私は人生の中で、最も健やかで、幸せで、そして厳しい時間を過ごしている。
ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ――私は、未だ王女の座にある。
霊廟でニトロさんとお姉様と別れた後、私はセイラに連絡を入れ、パティとフレアと共に彼女を迎えに行った。決闘の“決着”を多くの人間と同じく教団のサイトで見届けた彼女は故郷へ帰る前にロディアーナ宮殿に立ち寄り、自室の荷物をまとめているところだった。
私は生涯忘れることはないだろう。
ロディアーナ宮殿に急いだ私を出迎えてくれたセイラの泣き顔を。
私は彼女に抱きしめられ、泣いた。泣いてばかりもいられないのに、泣くことしかできなかった。
私は、彼女へ……私のもう一人の姉に頭を下げ、再び執事の座に戻ってもらった。彼女には少し間を空けてから執事に戻ってもらうつもりだったけれど、私のことを妹だと思ってくれている彼女は、それを拒んだ。
直後には、大変な会見が待っているというのに、彼女は執事として並び立つことを選んでくれたのだ。
『劣り姫の変』の真相を明かす会見では、私はもちろん非難を浴びた。
けれど、意外にも、会見に怒号はなく、厳しい非難はありながらも、どこか記者達にも後ろめたさのある様子で……少し、不思議な謝罪会見となった。
その理由は、パティが流した『わたしの心情』のためらしかった。それが『我らが子ら』の同情を引いていたのだ。弟の言葉を借りれば、『わたし』の苦しみを少しも知りもしないで勝手なことばかりを言っていた『我らが子ら』は、その時、必要以上の言葉を口にすることができずにいたのだ。
正直に語ると、いくら編集されたものであったとはいえ、内心を暴露されたのは裸を見られることよりも恥ずかしいことだった。けれど、弟は私のことを考えて、私のためにそうしてくれた……そして彼の行為は実を結び、私を守ってくれた。恥ずかしさはあったけど、それよりも私には弟にこんなにも思われ、また守られているのだという幸福感があった。
私は、本当に愚かであったと思う。
パティに愛されながら、彼に苦行を強いていた愚かな姉であったと思う。
しかし、私は弟にも許された。これからも姉でいることを許された。私は彼の良い姉であれるよう彼に誓う。
ただ、『劣り姫の変』において私が行ったことは、いくら国民からの同情があってもそれで済まされるものではない。まず殺人未遂罪として立件されるものだ。そしてこの国には法がある。明らかに一線を越えた私の告白を受け、もちろん検察も動いた。私はいかなる罪も罰も受け入れるつもりだった。両親からは本来の王権の主として恩赦を与えようという意志も見えたが、それは断じて断った。成人年齢には至らないけれど、成人として裁かれるつもりだった。
だけど、ここでも『我らが子ら』が私へ不思議な対応を見せた。
多くの人間が、温情ある判断を求めてくれたのだ。
それは同情だけからくる行動だとは思えないものだった。
セイラは「知らずとはいえ、ミリュウ様とニトロ様の対決を楽しんでいた手前がありますから。それを棚に上げて、ミリュウ様だけを責めることには気まずさを感じてしまうのではないでしょうか」――と、推測していたけれど、私には『我らが子ら』の心理は分からない。分からないけど、嬉しく、けれど申し訳なく、複雑に感じていた。
私は、温情を求める運動の集会に対しコメントを送った。「ありがとう。しかし、私は罪を償います」
すると驚くべき答えが返ってきた。「姫様は既に償っています」
何のことかと思えば、それはニトロさんから頂いた『頭突き』のことだった。あの映像も世に流れていたのだ。それを見た人は思わず自分の額を抑えるほどの衝撃映像だという。あるスポーツ医学者はその威力を分析し、私が死んでいないのが不思議だと言っていたという。そのためもあるのだろうか。大昔に存在した鞭打ちや石打ちの刑に類する罰として、それは世に受け止められていた。
私は……その映像は見ていない。できれば一生見たくない。しばらく消えなかったたんこぶと、十三日間消えなかった疼痛。今でも時々、ニトロさんの鬼のようなお顔と、あの瞬間に味わった痛みの全てが夢で再現される。夜中に飛び起きる。頭突きと聞くだけで、その言葉を思い出すだけで、これを書いているだけでも指が震えてしまう。ちょっと……トラウマになっている。
さらには事件の被害者当人であるニトロさんのコメントも世に大きな影響を与えていた。
あの日、大勢のマスメディア関係者が待ち構える自宅へ帰ったあの方は、その時一つのコメントを残された。「俺は怒りました。お仕置きもしました。彼女は受け入れた。反省している。それで決着です」
また後日、私の会見についてコメントを求められ「先日言ったように、個人的にはもう決着がついています。今後は法と社会の問題だと考えています」
ニトロさんに対しては少し意地悪な質問があった『そうは言っても“再犯”があった場合は?』ニトロさんは面倒臭そうに、けれどはっきりと言って下さった「再犯はありえません。もしあれば、また俺が責任を持って頭突いてやりましょう」
最後に私への温情を求める運動に関し「繰り返しますが、俺はもう何かを言える立場ではありません。姫君が罪に問われるとしても、そうでなくても。……ただ……この国では、やり直すことが許されている。一国民としてそう信じています」
あの方の発言は甘いと非難されてもいるようだけど、違う、あの方の最後の発言は、私にとってとても厳しいものだった。
――『やり直す』
それは私にとっては『王女』としてやり直すことだ。『わたし』は『王女』である自分に対しても苦しんでいた。ニトロさんがどこまでお考えになってその言葉を口にしたのかは判らない。ただ失敗や挫折、過ちからの回帰のみを示したかっただけなのかもしれない。だとしても、それでもニトロさんは『わたし』の苦しみを知っていた。事件を実際よりも過大に煽れば、あるいはこの場所から逃れられるかもしれない私に対し(そのことにニトロさんが無自覚なわけがない)わたしの絶望を受け止めてくださったあの方は、その上でまた私にやり直させることを示したのだ。結果的にしろ何にしろ、私がこの厳しいこの場所に残る結論に至る『やり直し』の道を公に示したのだ。
もちろん、ニトロさんはあえて世を動かすつもりでコメントしたわけではないだろう。
しかし最大の被害者であるニトロさんにそこまで言われたからには強く出られる者はいない。さらにはニトロさんの優しいコメントに含まれる厳しさにも誰かが気づき、『劣り姫の変』の本質を考えたならば『ミリュウ姫には王女であり続けてもらう』ことこそが最も罪滅ぼしに相応しいのだという世論が形成された。
そこに、セスカニアン
あの蠱惑の美女が外聞もなく妹の不始末のために髪を剃り上げ、頭を下げたのだ。アデムメデスは度肝を抜かれていた。悔しいけれど、私が『劣り姫の変』を開始した時の衝撃など足元にも及ばぬほどのショックが走っていた。それは国内に留まらない。銀河中のネットワークでトップニュース並みに扱われ、クロノウォレスでは号外が出ていたほどだ。
結局、私の行動はお姉様の経歴に傷をつけた。
お姉様の完璧さにも傷をつけた。
けれど、その瑕疵が『ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ』という宝石の価値を下げることにはならなかった。むしろ逆に高めてしまった。なぜなら、そもそも最近のお姉様は非人間的な神性よりも恋する女性としての人間性が高まっていた。より美しくなられたティディア姫――今回の件はまた『ニトロ・ポルカト』という“恋人”との関係性にも大きな影響を与え、それを強化してしまったのだ。
会見で頭を下げたお姉様は、以前から妹の抱える『問題』に気づいていたことを語った。そしてそれを解決するために『彼』に甘え、身勝手にも『彼』に任せ切ったことを告白した。正直に……しかしそれはあまりに正直な真実であったがために、ニトロさんにとっては悪い結果を呼んでしまったのだ。
つまり、問題を抱える妹を助けるために、お姉様は『ニトロ・ポルカト』という“家族”を頼った。そして彼は見事に“恋人”の期待に応えてみせたのである……そう、ミリュウ姫の“兄”として。――そういう図式が世に形成されてしまったのだ。そういう図式を、ニトロさんを次期王にと望む世間が形成してしまったのだ。
そうなってしまってはお姉様の評価が、その価値が下がるはずもない。何しろ稀有な宝石についたその傷は、宝石と並ぶ素晴らしい貴石によって埋められたのだから。それに傷自体にしても、あの恐ろしいクレイジー・プリンセスに、時に覇王の再来と呼ばれる得体の知れない才媛にそのような
お姉様の会見が終わってすぐに『ティディア&ニトロ親衛隊』のコミュニティに書かれていた一つの意見がある――そのお姿に誰より悔恨を抱いているのは『伝説のティディア・マニア』であろう――誰かが書いたその一文は、世論の核を的確に捉えていた。
皆がそれに同意を示した。
加えて、会見ではお姉様も、妹については今後も責任を負うと明言していた。
その言葉を聞いた時、自動的に、全責任を負うお姉様の隣には一人の男性の姿があることを世論は確信していただろう。
今になって穿って思えば、そこには私という重石をかけることで姉とニトロさんの
私は検察に厳格な捜査を希望していたが、全ての流れの帰する所、異例の早さで起訴猶予となった。並行して民事でも騒動において実害を受けたという百数十人からの訴えがあり、そちらについては適切に賠償するということで示談が成立した。
以上をもって、私はこれまでよりもずっと『優秀な王女』であることを求められ、王位継承権もそのままに置かれたのである。
しかし、ただ『我らが子ら』の慈悲を受けるだけでは王家の面目が立たない。父、王は周囲の進言を受け、私から領地など第二王位継承者としての幾つかの権利を剥奪した。お姉様は私を守らなかった。守らないでいてくれた。また、お姉様は王からの罰に加え、私に半年間の謹慎を申し付けた。
それについては「体のいい静養だ」と言う者がいたが、私もそう思う。
だけどあのお姉様が、それが静養であるのだとしても、ただの静養をお与えになるわけがない。
私はセイラの故郷で半年を過ごすことになった。
ここは貧しい地方で、王女として、私が学ぶべきことはたくさんあった。
農作業や牧畜も手伝わせてもらっている。
カロルヤギの乳搾りをさせてもらった時、全然うまくできなくて子ども達に笑われてしまった。子ども達は私の分まで搾ってくれて、皆で一緒に飲んだセイラのルッドランティーは涙が出るくらいに美味しかった。
五日前、私が蒔いた種が芽吹いた。カンガラマメの芽だ。春と秋に収穫のできるこの豆は成長が早く、日に日に大きくなっていく様を見るのは楽しい。同時に、この地で栽培可能な特産となり得る野菜の少なさと、この地で農業を営むことの厳しさを学んでいる。
一昨日は鶏の屠殺を経験し――少し吐いてしまった――今更食肉のできていく過程を学んだ。鶏の死ぬ姿には吐いたというのに、夕食に出た肉は美味しかった。『知識』と『理解』の差を改めて実感している。
市の職員から相談を受け、提供された資料を鑑みるとこの地方の未来は厳しい。観光事業だけでも立て直せればもう少し希望も見えてくるはずだが、近隣の有名観光地に対抗できる手段を見出せずに苦しんでいる。半年でどれだけできるか分からないが、できるだけの協力をしようと思う。
けれど……毎日、良き王女になることがどれほど厳しいことであるか痛感することばかりだ。もちろんそれがどれほど難しいことか以前のわたしも解っていたが、今の私は以前とは違う風景を見ている。新しく私の前に現れた『理想』は、以前にも増して遥かな高みにある。
一歩一歩、近づいていこうと思う。
疲れて空を見上げてみれば、ここの空は、本当に広くて美しい。
夜は満天に星が散らばり、肌寒い夜風も、温かな毛布とセイラの笑顔にあっては穏やかなものだ。
いつでも頼れる人がいてくれることの幸福に、私は心から感謝している。
お姉様の命を受けて
弟は今、王城でお姉様と共に暮らしている。
仕事でお姉様が帰らない日々も多いが、以前よりは人見知りも薄れてきて、相変わらずフレアを常に傍に置いてはいるが、それでも二人で機会がある度に(最近では二日と置かず)外出までしている。
初め、外出と聞いた時は耳を疑った。
どこへ? と聞いた時、私は納得した。
ニトロさんが、パティと遊んでくれているのだ。というよりも、パティがニトロさんに懐いて遊びに行っているのだ。あまり行くと迷惑ではないかと思ったが、数学を分かり易く教えてくれるから助かるとニトロさんは笑っているという。……ちょっとだけ、あの方の強さと成長力の源に触れられた気がする。
パティは食事もよくニトロさんに作ってもらっている。一週間前のメールには大嫌いなピーマンを食べたと書いてあった。ニトロさんとの『議論』――ピーマンは苦いから嫌いと言ったら、パティの好きなチョコレートにも苦味はあるよ、なのに何故? と問われ、チョコレートには甘さがあると答えたら、ピーマンも苦いだけじゃないよ、なのに何故?――ニトロさんは押し付けるのではなく、パティに合った教育法を考えてくれている。議論に負け、根負けもしたパティはついにピーマンを使った料理を食べ、するとピーマンも種類で味が違うことが判ったし、結構美味しかったと喜んでいた。ニトロさんは、諭すだけではなく、様々な方法で楽しく食べられるよう考えて料理を作ってくださるらしい。生き物にあまり興味のないあの子が動物園に行き、はしゃぎすぎてくたくたになっていたこともあった。ニトロさんに任せていればパティの人生は豊かになるだろう。
そうして日に日に新しいことを学んでいるパティは、それを毎日メールで教えてくれている。『今日は直った
本当に……私は幸せなのに、それを感じることのできない愚か者だったと、何度も改めて痛切に思う。
これも罰といえば罰なのだろう。
ああ、何と優しく、何と辛辣な罰!
私は、毎日、新しい発見と再発見をし続けている。
しかしそうなると、現在、パティよりも気がかりなのはお姉様のことだ。
お姉様とは週に一度、謹慎中の報告として
……お姉様とは、会見の日の翌日、『突然の帰星』をした第一王位継承者を王城に迎え入れてから、一日をかけて二人きりで話し合った。
お姉様の告白されたことは驚くことばかりだったけれど、お姉様に利用されていることは自覚していたから、さほど心が傷ついたということはなかった。けれど、正直に、私にどのような評価を与えていたのかということについては、ショックだった。思っていた以上に下に見られていた。セイラを私の執事に選んだ理由には、私が傷を舐め合える相手として選んだと、そのセイラを見下した理由には怒りを覚えた。酷い、と怒鳴ると、お姉様は何も言わずに私の非難を受け止めていた。一方でお姉様は私を確かに大切に思ってくださっていた。それは嬉しかった。なのに長兄の件をわざと見せられたということに至っては、もう笑うしかなかった。希代の王女、覇王の再来、クレイジー・プリンセス・ティディアの恐ろしさを私は客観的に知ることができてほとんど呆れてしまった。呆れながら、お姉様を責め、泣き、抱き止められた。
結局、私はお姉様と真の意味での『喧嘩』をすることはできなかった。
その喧嘩をするには心のぶつかり合いが必要だ。けれど、私の意見とお姉様の心はぶつからない。お姉様にはどうしてもどこか超然としたところがあって、私の心は単に受け止められるか、お姉様の心の下をすり抜けることしかない。心がぶつかり合わなくても喧嘩をすることはできるだろうけど、私はお姉様とそういう喧嘩ができる位置にもなかった。
だけど、すっきりした。
それをはっきりと判ることができて。
心のぶつかり合いができないということは、究極的なところで、真に解り合うことができないことも意味する。
それもはっきりと判ることができて、私はすっきりしたのだ。
それは同時に、“私”を見抜くことはできても、お姉様にも“私”を真に理解することは叶わないということなのだから。
私の中の『女神様』が手を振って、笑顔で去っていった。
絶望はない。
失望もない。
本当に解り合うことができない――ということは、決して理解しあえないということと同義ではない。理解しあうというのは、理解できるところをお互いに知りあうことだと私は思う。どんな人間であれ他の誰かを理解し切ることはできない。それでも理解しようとするから理解しようとしあえるのだ。それこそがきっと本当に理解しあうということなのだ。
私は、これからは、一人の姉、一人の女性であるティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナと向き合いたい。一人の妹、一人の人間として、お姉様と向き合おうと思う。
だから私は、お姉様が気がかりだった。
女神様に恋焦がれていたから、恋焦がれているお姉様が心配なのだ。
お姉様も、罰を受けていた。
お姉様とは週に一度、謹慎中の報告として
……ニトロさんも、罪な方だ。
私は、事件直後、処罰を待つ蟄居中にも関わらず、マードール殿下のたっての要望でセスカニアン星との会談に極秘裏に呼び出された。
そこではニトロさんはお姉様と『いつも通り』に漫才に近い会話をしてマードール殿下を喜ばせていた。ご親友のハラキリ・ジジと共にマードール殿下とも親しげに言葉を交わし、お姉様と一緒に笑顔で写真に納まり、その他のお仕事でも普段のままの『ティディア&ニトロ』を演じ、お姉様は……恋しい人に表面的に付き合われるということの悲しみを強烈に味わわされていた。
正直に言おう。それに対して胸のすく思いをしていた『私』は確かにいる。
けれど、それ以上に、私はわたしの味わってきた苦しみの中にいるお姉様が心配でならなかった。お姉様は強いお方だから決して私のような過ちを犯さないと思うけれど……けれど、お姉様はニトロさんに嫌われてしまっている。それを苦にするあまりに間違わないとは決して言い切れない。
私には今、夢がある。
ニトロさんにはひどい迷惑に違いないけれど、私の胸を心地良く締めつけるその夢は、お義兄様も一緒に家族皆で晩餐を楽しんでいる風景を描く。
私は私に誓った。
私は第一に、その夢のためにこそ、お姉様をお支えしようと。
私を呼び出したマードール殿下はこうご忠告をくださった。「この国は、今後、目立たぬところで貴女の尽力が必要となるだろう。何しろ上が目立ちすぎるからな。それなのに、この国に黄金をもたらす男は『女神』から逃げ回る。しかし王太子殿下にも王女という鎖がある。その鎖を千切らぬ限り王太子殿下は彼に見捨てられないだろうが、恋のためにその鎖を無視してもいいと思った時――さて、どうなるかは貴女がよく知っているな?」
私はもう『劣り姫』には戻らない。
そして私は心の底から優良な王女になりたいと願う。
お姉様の幸せのため、何より私の幸せのため、お義兄様をお迎えするために。
少しでもお姉様のご負担を軽くし、自由な時間を少しでも多くお作り頂き、お義兄様を思いっきり追いかけられるようその鎖を伸ばして差し上げなくてはならない。また、お義兄様を迎えるにあたって、その時、私という補助があの方にかかる負担を軽減するに足るものとして成り立っているよう私は努めていきたい。
それは『我らが子ら』への贖いともなるだろう。
パティにとっても幸いとなることだ。パティは、お義兄様をお兄ちゃんとして欲しがっている。もしかしたらあの子は、そうだ、あの子は賢い子だから、そのためにもお義兄様の家に入り浸っているのかもしれない。
……パティにだけ頑張らせるわけにはいかない。
私も全力を尽くす。
ニトロ・ポルカト様をニトロ・フォン・ジェス..▽
「ミリュウ!」
部屋に飛び込んできた声に、ミリュウはキーを打つ指を止めた。
振り返ると、ルッド・ヒューラン邸の薄い扉を壊れんばかりに開けて入ってきた姉がいる。
「ミリュウはどっちがいいと思う!?」
ティディアは鼻息も荒くその両手を示した。
ミリュウは目を丸くした。
簡単な部屋着姿の姉の片手にはモヒカンタイプのカツラがあり、もう一方には孔雀の羽に飾られたカツラがある。
「どっちが見た目、面白い!?」
薄く紅を引いた唇を弓なりにして姉は問う。少々瞳孔が開き気味だった。姉はここに来た時からずっとそわそわしていたが、それはもちろん一ヶ月ぶりに想い人とプライベートで触れ合うことが楽しみで仕方がないためだ。楽しみで仕方がなさすぎて、その時が間近となった今、その思いが羽目を外し始めているのだろう。きっと姉の頭の中には『ボケ』が詰まっている。ボケ倒す気も満々であろう。ボケ倒しすぎて今日の日をも倒してしまうかもしれない。
そういえば、と妹は思う。
あの心の世界で見た、ニトロ・ポルカトのティディアへの拒絶の歴史。無論それは歴史の全てではなく、印象深いものをピックアップしたダイジェストではあったが、中でもシゼモの一件は強烈な『裏切り』として義兄の記憶に刻まれていた。そしてミリュウは、その『裏切り』をした姉の顔が、直前、あまりの喜びに満ちていたことを知っていた。
(……なるほど)
今、あの件に非常に似た状態になっている気がする。可能ならば可能な限り姉の思う通りに行わせてやりたいが、明らかに酷く裏目に出るであろう事を放置するのは違うだろう。もちろん本来自制心の強い姉が途中で我に返る可能性は高いが、ここは万全を期した方がいい。
――何故なら、
(恋の病の諸症状、盲目――なのですね)
そう思えば、これまで本当に恐ろしかったクレイジー・プリンセスが、恋に浮き足立つ一人の女として可愛らしくて堪らなくなる。
妹は、むふーと鼻息を吹いて答えを待つ姉に微笑みかけ、
「どちらも素敵ですが、おやめください」
ティディアの表情が、明らかに曇った。伸び始めた極短い毛髪の下に不満が募る。
ミリュウはもう一度言った。
「お控えください、お姉様」
「でも……ニトロのツッコミが……」
物欲しそうな調子でティディアは言う。ミリュウは首を小さく左右に振り、
「ボケを最優先でお狙いになるのは懸命ではありません」
「だって嬉しいのよ? ニトロに一ヶ月ぶりにプライベート・ツッコミをもらえる、やっと……やっと! 待ちに待ったこの日なのよ!?」
「一ヶ月ぶりにプライベートで会うお姉様が何かをしようとしてくることは、ニトロさんも予想しているはずです。特に出オチは予想されているでしょう。冷笑されてしまいますよ?」
「実はそっちも楽しみ」
「お気持ちは解りますが、ここはお忍びください」
「えー」
未練がましく、ミリュウを非難するように口を尖らせる。しかしミリュウは言う。
「カツラは無しか、被るなら自毛のものになさってください。急がなくとも、ニトロさんはそのうちツッコンでくださいます。あの方は『ニトロ・ザ・ツッコミ』ですし、お姉様はそんなことをせずとも、いつどこでだっておボケになられるのですから」
「あら、ミリュウったら分かっているじゃない」
感心したようにティディアは言い、そして眉をひそめた。
「というか出オチなんていつ教えたっけ?」
「勉強いたしました。さあ、もうそろそろご到着される時間なのですから、しっかり用意を済ませてきてください。
……ちゃんと、スキンシップできるように取り計らいますから」
ミリュウがにこりと笑って言うと、ティディアは少し驚いたような顔をして、
「ちょっと直に見ない間に、随分頼もしくなったのね」
そうして浮かべられた姉の笑顔に、妹は目尻を下げる。その誉め言葉は、成人の誕生日――日は少しずれたけど、セイラを初めルッド・ヒューラン家が催してくれたささやかなお祝いのパーティーにおけるプレゼントとして最高のものであった。
と、ミリュウは窓の外に変わりがあるのに気づき、そちらを見、
「大変」
彼女はティディアに振り向いた。
するとティディアは窓の外、この二階からちょうど見下ろせる乗馬場の柵沿いの道。傍らに淑やかなキモノを着た芍薬を従え、パトネトを肩車して歩き、隣の親友と何やら言葉を交わしている『彼』を見つめて動きを止めていた。
「お姉様!」
ミリュウは慌てて姉の肩を押した。
「さ、お早く。ヴィタ! 聞こえるわね! カツラは無し! ニトロさんがもういらっしゃいました!」
隣の部屋からエプロン姿の――中庭のパーティー会場でバーベキューの肉を自ら焼いたそばから食べるつもりなのだ――藍銀色の麗人が出てくる。
「お引取りしましょう」
「え、あ、わ!」
門前で待ち構えていたセイラが彼らを出迎えに行っている。その出迎えを迎えるために彼らは立ち止まる。その間、ずっと想い人に見惚れていたティディアがヴィタに無理矢理担がれ連れていかれる。
それを見るミリュウは目を細め、
「本日の主役は私ですよ、お姉様」
「分かった! ちょっと出過ぎた真似をする!」
妹の意図を――流石はお姉様だ――即座に掴んで返事をした直後、ティディアは隣の部屋に連れ込まれていった。
「ふふ」
これで一つ、ツッコミどころの仕込みはできた。
ミリュウは小さな満足感を覚えながら息を吸い、
「さて」
と、つぶやき、彼女は気を取り直した。姉は早着替えを得意とするから、こちらももたもたしているわけにはいかない。
ミリュウは部屋に戻ると鏡の前に立ち、いそいそとペンダントをつけた。
それは――細やかな鎖につながれるオープンハート型のペンダントトップ。心はただ開かれているだけでなく、その内に三日月を抱いている。そしてその三日月もまた、一粒のサファイアを抱いている。白金製のハートとクレセントが描く曲線は素晴らしく上品であり、母に抱かれた子のようにはにかみ煌めく宝石は可愛らしい。――去年の誕生日に、お姉様がお義兄様と一緒に選んで贈ってくれた大切な宝物だ。
「よし」
と、うなずき、身だしなみの最終チェックをする。青空色のルッドラン地方伝統のドレスに乱れはなく、髪はセイラがセットしてくれたまま整い、化粧にも問題なし。最後に純白の大振りな花飾りのついた帽子を被り、少し角度を整える。
ミリュウはもう一度うなずき、部屋を出ようとして――
「あ、いけない」
と、出しっぱなしだった
「……最後のあたりは、今はまだ絶対内緒ね」
微笑み、まとめたうちのどの点を挨拶に組み込むかを決めてデータを完全消去する。
それから画面も消して、彼女は部屋を出た。隣の部屋の扉をノックし、
「お姉様、準備はできましたか?」
「あと十秒!」
きっかり十秒後、若草色のルッドラン地方伝統のドレスに身を包んだティディアが部屋から出てきた。姉の被るお揃いの帽子には薄黄色の小振りな花飾りがあり、胸元にはミリュウのものとペアになる、ルビーを抱いたペンダントが輝いている。
「お似合いです」
「ミリュウこそ」
そして姉妹は顔を寄せて、笑いあう。
窓の外には残雪に飾られた山並みと、白い浮雲の流れる青空が広がっていた。
終