穏やかな夜風を浴びながら、ニトロは星を見上げていた。
東大陸の屋根、クレプス-ゼルロン山脈。
その一画にあるルッドラン地方。
八月、星の北半球は夏真っ盛りだ。ニトロの住む王都も暑い。王都のある地域は一年を通して極端な気温差のない温暖な気候ではあるが、それでもやはり夏は暑い。しかし、標高の高いこの地域には、暑気も山を登りきれないとみえて涼しさがある。
夜となって、ニトロには今が夏であるのが嘘であるかのように思えていた。薄い長袖を着てちょうどよく、体の感じる心地良さはそのまま心を快くしてくれる。
ニトロは、道端のベンチに座っていた。
ルッドラン地方最大の町の一画にあるルッド・ヒューラン邸――そこから五分ほど歩いた道端に出し抜けにポツンとあるベンチだ。セイラ・ルッド・ヒューランによると“死んだ修理屋のゴーロ爺さんが置いたもの”であるらしく、頑丈な合成木材製のそれは三十年を経ても未だ実用に足る。のんびり星を見るのに良い場所はどこかと問うて返ってきた答えがここであったのだが、なるほど、ニトロは目の前に広がる青黒い牧草地と気まぐれな波形を描いて背を伸ばす山の影の上、そこに雄大に広がる素晴らしい星空にもう何度目かのため息をついていた。
光の多い王都では見ることの決して叶わぬ満天の夢。
そう、夢だ。
あまりに多くの星は、現実にそれを見る彼に非現実的な世界にいるような感覚を与える。
星が流れた。
大気圏で消えた物は、どれくらいの大きさであったのだろうか。その儚さ、幻を見たという思いがまた彼を非現実的な感覚へ誘う。
人の寝静まった真夜中に吹く風は、人々を起こさないように放牧地の草を撫でて消えていく。
「いつまでもそんなところにいたら風邪を引くわよ」
ニトロは死角から『非現実感』に入り込んできた声を聞き、目を夢のような景色から現実に戻した。
声のした背後に振り返り、
「ぶ」
彼は吹いた。
そこにいたのは、オーバーオールを着た女であった。
オーバーオールの下は素っ裸のようである。
それはともかく女の頭があまりにもおかしい。
「モヒカン孔雀の羽添えってどんな自己表現だ!」
ニトロは見たままをツッコんだ。
すると、モヒカンカットにされた髪の両脇に孔雀の羽を飾るカツラを被ったティディアが喜色満面に笑顔を浮かべた。いそいそとベンチの前方に回りこむとニトロの一歩前に立って胸を張り、
「自己表現じゃないわ、ボケよ!」
「雑だ!」
「ちなみに製作時間10分!」
「10分!?」
「二つのカツラを切り貼りしただけ! まだ糊が乾き切ってないから微妙なしっとり感が微妙にいやん!」
「仕込みも雑か!」
「ちなみに制作費は116万リェン!」
「まさかの三桁!? え、内訳は?」
「モヒカンは既製品で15」
「意外にお高い!」
「孔雀は私の手作り、でも材料費で100!」
「ばかに高い! 何だそれ、本物か? 本物だとしてもそんなにするの?」
「異星の絶滅危惧種の羽だもの」
「なんと罰当たりな使い方してんだ阿呆!」
「大丈夫よぅ、研究用に飼っているやつの抜け羽だから。希少だから値は張るけどね」
「……残りの1は?」
「あ、えっとね」
ニトロの問いにティディアは楽しげにオーバーオールのポケットを探った。それが残りの1万リェンの正体らしい、何やら小さな懐中電灯を取り出し、
「ん」
と、笑みを堪えきれないように唇を尖らせてニトロへそれを渡す。
「……で?」
「照らしてみて」
ニトロは手の中の懐中電灯を不審気に眺めた後、スイッチを入れ、ティディアを照らした。すると、
「……で?」
ニトロは、ライトに照らされた孔雀の羽の『目玉』がキラキラと輝き出したのを見て首を傾げた。
「変わった孔雀でね。普通、飾り羽を持つのはオスでしょう?」
「その言い方だと飾り羽を持つのはメスってことか」
「そう。で、この孔雀には繁殖期って定められる時期がなくて、固体が繁殖可能になればいつでもいいのよ。それで、固体別に繁殖可能かどうか――発情を示すのが、これ。そのライトは生育星の月光と同じ波長に合わせてあってね。繁殖可能になったメスは飾り羽を開いて月夜に闊歩するわけよ。月の光を浴びて、こうやってオスへのアピールを煌かせて――さあ! 私とヤりたい奴は寄っといで!」
ニトロの見るティディアの頭の上では、孔雀の羽がキラキラと輝いている。しかし、それ以上にティディアの瞳が輝いている。
「私はここよ! 発情しているわ! どんとこい男共! 私と交尾ができるたった一人を選んであげる!」
ティディアの瞳が輝く一方、ニトロの瞳は輝きを失っていく。げんなりと。
「発情しているわ!」
「……」
「発情しているの!」
「……」
「発……」
「……」
「さっさと私と有精卵! あなたと私で有精卵!」
「どんなキャッチコピーだクソ阿呆!」
「あ痛ぁ!」
ニトロがライトを投げると額にヒット! ティディアはのけぞり悲鳴を上げた。勢い何歩か後退し……が、ぐっと体勢を立て直すや、
「痛すぎるじゃない! 物を投げるのは駄目よ! 愛がないわ!」
「うるっさいわこの痴女! 誰がお前なんぞに愛を送るか!」
「酷い!」
「酷いのはお前の誘惑の仕方だろう!」
「だってこれが私流なんだもの!」
「考えを改めろ!」
「改めたらノってきてくれる?」
「御免被る」
「それなら私流でいいじゃない! 無理して断られるくらいなら正々堂々攻めて負けたいじゃない! というわけで襲いかかってもいいですか!? さっきから、いいえ、一昨日からもう我慢の限界なのよ!」
「ふざけた犯罪予告してくんな! つうか襲いかかってきたらぶっ飛ばす!」
「ぶっ飛ばして! それならそれで満足だから!」
「マゾか!」
「ドMね!」
「マジか!?」
「ニトロが望むなら! さあ! お望みならドSにもなるわ! さあ!!」
ティディアは本気である。
鼻息荒く孔雀の羽をばっさばっさ揺らしてニトロにじりっと迫り、星明りの下でも判るほど頬を紅潮させている。
その様子を見て、ふいに、ニトロは笑った。
「パーティーじゃ、猫被り通してたのになあ」
ニトロの笑顔を見て――自分だけに向けられたその笑顔を見て、ティディアは彼に迫ろうとするのをやめた。わずかに身を引いて、どこか満足げに――まるで“演劇”を満喫した、とでも言い出しそうな態度で息をつく。
彼女は腰に手を当てると、ウィンクをしながら言った。
「そりゃ、主役はミリュウだからね」
「でも一度だけ主役を差し置いて悪目立ちしようとしただろ」
「止めてくれてありがとう」
ティディアはにこりと両目を細める。滑稽な姿をしているのに妙に絵になるのは蠱惑のなせる業なのか、それともクレイジー・プリンセスの魔力というものなのか。ニトロはため息をつき、
「それが、どうやら俺の役目だったみたいだからな」
「ダンスの相手もしてくれて嬉しかった。断られたらショックだったから、手を取ってもらえるかどうかドキドキしちゃった」
「そりゃあ今日ばかりは主役の顔を立てなきゃならないだろう」
どこか悪態をつくようなニトロの言葉に、ティディアは小首を傾げた。
「あれはミリュウの仕込みだろ?」
「解った上?」
「だから主役は、ミリュウだ」
素直なくせに素直じゃないニトロの答えを、ティディアは微笑んで抱きとめた。微笑みのまま、いや、消そうと思っても消せない微笑みを浮かべたまま彼女は言う。
「幸せだった。手を取ってもらえるまではドキドキだったけど、取ってもらってからは心臓が張り裂けそうだったわ」
「そうかい」
つれないニトロの返事も今は嬉しい。ティディアは微笑みを深めて、それよりも気になっていたことを訊ねた。
「それにしても、いつの間にダンスまで練習していたの? 折角リードしようと思っていたのに……結構うまくて驚いたわ」
「
そう言って、ニトロはもう用のないカツラを外しているティディアを見て口を閉じた。
彼が言葉を切った機会に、ティディアは彼の隣に座ろうと片足を踏み出した。
が、これ以上の好機はないと思いながらも、彼女はふいに思い止まる。
それを見たニトロがぶっきらぼうに言った。
「察しの通り、芍薬の監視下だ。けど芍薬は無粋じゃない。お前が節度を守っていれば大丈夫だよ。もちろん強姦目論むんなら、文字通りぶっ飛ばされるけどな」
先ほどの『ぶっ飛ばす』に二重の意味があったことを示されて、ティディアは苦笑した。
「やー、それは怖い」
言いながら、それでもいそいそとニトロの隣に座る。
と、その拍子に、腰を下すために前屈みとなった彼女とオーバーオールとの隙間から星明りに白めく乳房がニトロの目に飛び込んできた。
ニトロは慌てて目を逸らし、
「そんな格好してたらお前こそ風邪引くぞ」
「そしたらまたリンゴを剥いてね?」
「嫌だ」
「そんなこと言って、結局してくれるくせに」
「本気でそう思ってるか?」
「わりと本気」
「……ああ、大丈夫だ。馬鹿は風邪引かない」
「じゃあ前に風邪を引いた私は馬鹿じゃないってことね?」
「っ……」
久々にうまく言い負かされ、ニトロは口惜しく黙った。
ティディアは口を閉ざしたニトロへ目を細めて見せた後、それ以上は勝ち誇ることもペースを握って話を進めようともせず、彼から目をそらすように手にしていたカツラに目を落とした。そしてしばらく孔雀の羽を見つめ、やおらそれを脇に置くと、ふと目の先に見つけたクローバーの花を眺めながら、
「ねえ、ニトロ」
「なんだよ」
「ミリュウのこと、本当に、ありがと」
つぶやくような物言いに、ニトロは思わずティディアを凝視した。
ティディアは、段々と髪の伸び始めた頭を…一月前には妹のために剃り上げていたその頭を小さく下げている。それは彼女が夜風に揺れる白い野の花を見つめているためではあるのだが、同時に、ニトロに対して長く長く頭を下げているようにも見えた。
「いきなり改めて……何だよ」
戸惑い気味にニトロが問う。
ティディアは組んだ手を腿の上に置き、目を花から空へ移した。
「本当はね。猫を、被っていたんじゃないのよ」
ティディアはニトロを見ず、星を見続けながら言う。
「ミリュウに窘められたの。本当はさっきのカツラも出オチに使うつもりだったんだけどね……そこで止められたから、ちょっと我に返った。一昨日から我慢の限界でもうこれでもかってくらいにボケ倒すつもりだったんだけど、お陰で早いうちに思い止まれたわ」
ニトロはティディアの言葉に――あのミリュウがティディアを窘めたという事実に一瞬目を丸くし、それからふっと微笑んだ。パーティーでは姉のために小さな仕込みをしていたくせに、和やかな笑顔を取り戻したあの妹姫はその前に姉を窘めてもいたという。それを語るティディアの横顔には喜びしかない。姉と妹は、改めて、良い関係を築いていっている。それを知り、ニトロは心の底から笑みを浮かべたまま、
「それはミリュウが正解だ。妹のお祝いの日を壊す姉なんぞ、俺は嫌いだよ」
「うん」
ティディアはうなずき、それから視線をニトロに移した。彼を覗き込むようにして、眉をひそめる。
「けれど、変ね」
「何が?」
「こんな風に大きな隙を作って待っていてくれるなんてどういう風の吹き回し?」
「別に待っていたわけじゃない。来るなら来るでまぁいいか――その程度だ」
「私が見逃すはずがないって解っているくせに」
ティディアがさらにニトロを覗き込むように言うと、彼は息をつき、
「パティが、お姉ちゃんが元気がないってそれとなく言ってくるんだ」
「パティが?」
「『理由』は知っているから、それ以上は言ってこなかったけどな。本当にあの子は頭がいい。その分色々と年齢相応以上にバランスが悪いところもあるけど、あの年齢なのに驚くほど他人の心を慮ることもできる。きっと、あの子は歴史に名を遺す良き王子になるよ」
「それもニトロのお陰でね」
「俺の?」
「ニトロと関わってから人見知りもどんどん軽くなってきているしねー……それに、ニトロの言うことはわりと素直に聞くみたいだから。ね、だから、王城に来てパティの面倒を見てやってくれない?」
「それでなし崩しにお前とも一緒に暮らせ?」
「――駄目?」
「そんな見え透いてる上に強引な罠に引っかかるくらいなら、俺は今頃とっくにお前と子作りでも何でもしているよ」
「ちぇー」
表面上は悔しそうにしながらも、ティディアは実に嬉しそうに頬を緩めている。
「……でも、パティにそう言われたから――それだけ?」
「ん?」
「それだけじゃないでしょ? だってニトロ、二人きりでも、普通に……話してくれる。ひょっとしたらこれまでみたいに話してもらえないかも――なんて、不安にも思っていたのよ?」
彼女の声は、少し、震えている。それは不安を思い出してのものか、それとも喜びのためか。
「……」
ニトロは半眼で彼女を見つめてから、目を空に移した。
「お前は約束を守ったからな」
素早く言って、すぐに次の句を継ぐ。
「でも、やっぱりお前は相変わらずだなあ。パーティーの思い出だけにしておけば良かったのに」
それは明らかに話をそらすためのセリフだった。
「……」
ティディアはニトロの横顔を見つめ、微笑み、
「そうすれば、少しは好感度も上がっていた?」
「ほんの少しくらいは。でも、さっきのでマイナス」
「マイナス?」
「プラスを残せるわけがないだろう」
「……そうね。でも、私はやっぱりこうやってニトロにツッコンで欲しいから」
「相変わらず、今まで通りか」
「ニトロだって、私が急にしおらしくなったら不気味でしょ?」
「まあな」
ニトロは笑い、
「けど、それは自分で言うことか?」
「私は私が見えているのよ」
「そうは思えないけどなぁ。だったら、さっきの誘い文句はどうだ? 最悪だろう」
「でも、時々自分を見失うのよ。……ね? ニトロ」
「……」
ニトロは名を呼んだティディアに一瞥を送り、吐息を挟み、
「今の方が、口説き文句としては正解だな」
「冷静に分析してくれるわねぇ」
「俺はお前に心を許してないから、自分を見失わないんだ」
「いけずー」
口を尖らせるティディアにニトロはもう目もくれず、星を見上げている。
「……」
ティディアも、彼と同じ星空を見た。
天を埋める星の合間を縫って、また一つ、星が流れる。
しばらくして、ティディアが言った。
「この一ヶ月、つらかった」
ニトロは応えない。
ティディアは続ける。
「この一ヶ月、ニトロのことは考えないようにしていたんだけど、でも駄目、やっぱりニトロのことばかり考えていた」
ニトロはやはり応えない。
ティディアは、続ける。
「どうやってボケよう。どうやってニトロにツッコンでもらおう。どうやればニトロは素敵にツッコんでくれるだろう」
ニトロが、とうとう笑った。
「なんでそうなるんだよ」
やっと返ってきた応えに、ティディアが相好を崩す。
そして彼女はほのかに笑い、
「あなたに抱かれる夢を見ながら、私はネタを考えるのよ」
ニトロは苦笑する。
「二兎追う者は――って言うぞ?」
「どっちかを諦めるのは無理よ。だってどっちも欲しがるのが私だもの」
「にしたって欲しがる二つの関係性がおかしいだろう」
「どうやら私は人の愛し方まで『クレイジー』らしいわ」
肩をすくめながら、しかしさばさばとティディアは言う。
ニトロは思わず声を上げて笑った。
「そのせいで散々人に迷惑かけておきながら、そこまで悪びれなく言えるんなら上等だ」
にんまりと笑むティディアに、ニトロは言う。
「このバカ姫」
――ティディアは、思う。
片笑みを浮かべ、罵倒しながらも優しい彼のその唇に、いつか愛の言葉を囁かせてやろうと。
さらに、その裏側でまた思う。
(今度はどうやって
と。
幸せに。
星降る夜空の下で。
その身に許された温かな時間を過ごしながら。
「ニトロ、愛しているわ」
「そういうのってあんまり言うと軽くなるもんだと思うけどな」
「思いは口にすることで重みも増すものよ?」
「そんじゃあ俺はお前が嫌いだ、大ッ嫌いだ」
「うう、いけずー」
――幸せに。