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充実一途

 全ての事を終え、『霊廟』からニトロと共に帰ってきた芍薬は、張り切っていた。


 ニトロの住むマンションは非常に多くのマスメディアや群衆に囲まれていた。
 地上には人が溢れ、空には何十台もの飛行車スカイカー空中走板スカイモービルが飛び交う。
 マンション周辺の道路からはほぼ車が追いやられ、あるいは人垣に堰き止められ、交通機能は完全に麻痺していた。
 空は空で飛行禁止域(生活圏・プライバシー保護のために家屋への接近を禁じられた範囲)への侵入や禁止行為(覗きを目的としたホバリング等)が繰り返され、市街中で定められている『空の道』からの逸脱も常態化している。警察が厳しい取締りに乗り出しているが、それでも帰還する『英雄』を迎えようという熱は抑えきれない。
 ニトロは、その中にあえて帰ってきた。
 マンションの屋上発着場に向かう一台のレンタル飛行車スカイカーに彼が乗っていることが判った時、熱狂的な大歓声が沸き起こった。パパラッチが取り巻くより早く所轄の空交通課のスカイモービルが護衛につく。地を揺らす出迎えの声を受けながら、車は無事に着陸した。空を飛ぶ各報道局のカメラがその光景を全国に中継していた。
 車の運転席からまず女性型のアンドロイドが降りる。その映像をそれぞれの端末機で見ていた観衆が歓声を上げた。
 芍薬の声が叫ばれていた。
 主人と共にあるオリジナルA.I.かくあるべしとばかりに大活躍した、『ニトロ・ポルカトの戦乙女』。今やアデムメデス一有名なA.I.にも惜しみ無い喝采が与えられていたのである。
 そして、周囲の安全を確認した芍薬が車の後部座席のドアを開け、そこから少年が現れた時、歓声がさらにいや増し大爆発した。
 名を叫び呼ぶ声、敬意あるいは感謝の言葉、指笛、拍手、およそ人が表しうる賞賛の嵐の中、屋上に降り立ったニトロの耳に、どこの局かの指向性スピーカーが質問を投げかける。
 屋上発着場からレンタル飛行車スカイカーが、備え付けの汎用A.I.によって店舗へ帰るために飛び立つのを見送ったニトロ・ポルカトは、質問に対してただ一言を返した。その口振りには強制力はないものの、どこか有無を言わせぬ力があった。それから真摯な会釈を一つ……そうして彼は、芍薬を従えてマンションに入っていった。各局のテレビカメラは、そこに、『英雄』の背中を見た。
 マンション内は、外とは比べ物にならないほどに静かだった。
 屋上からエレベーターを用いて自室のある階に降りたニトロは、共用部分となっている外廊下に誰もいないことに思わず微笑を浮かべた。“ご近所さん”は、気を遣ってくれている。穏やかな廊下を歩いて自宅の扉を開け、そして扉が閉まっていくのと同時に、外から聞こえる喧騒も消えていく。
 扉が閉まりきると、防音の効いた部屋はシンと静まり返った。
 実際には耳を澄ませば外からの大気の振動が分かるのだが、直前まで爆音に耳の慣れていたニトロには静寂しかない。その静けさが、彼に安息の地に戻ってきたことを実感させた。芍薬が先に入り、電気を点ける。追ってスリッパに履き替え部屋に入り一息をつこうとしていたニトロは、そこで、芍薬が大きく腕を広げるのを見た。
「サア、主様」
 芍薬は嬉しそうに言う。
「ドントオイデ」
 ニトロは、部屋に入るなりの芍薬の言動にいまいちピンとこず、小首を傾げて……
「ああ」
 と、うなずき、続けて苦笑した。
 彼の脳裏に『霊廟』でのやり取りが蘇る。確かに、自分は芍薬に「胸を貸してくれる」かと訪ね、芍薬は快く承諾を返してくれていた。
 ――が、
「もう泣きたい気分は消えたから、大丈夫だよ」
 ニトロがそう言うと、芍薬は少し寂しげに
「ソウカイ?」
 とつぶやくように言い、渋々腕を下ろした。
 しかし、芍薬は張り切っていたのである。
「ソレナラマッサージデモシヨウカ? 整体モデキルヨウニナッタヨ?」
 再び腕を広げて、さらに軽く手を振りながら瞳を輝かせる。
 ニトロは、戸惑った。
 芍薬は、まるで鼻息でも荒く吹き出しそうな勢いである。
 どうしても――胸を貸すなり、マッサージなりをしたい願望だだ漏れである。
 されど、
「この戦闘服ふくの機能でクールダウンは適切に行われてるし」
 しかもそれは芍薬の監督下で、だ。
「整体も、日頃の『メンテ』が効いてるから……」
 しかもそれも芍薬(とハラキリ)の監督下にある事だ。ジムのトレーナーが一流アスリート並みに恵まれていると舌を巻くほどの細やかさで、普段から、特に芍薬が世話をしてくれている。
「だから、今日はどっちも平気だよ」
「……ソウカイ?」
 ニトロの返答は、当然と言えば当然のものである。芍薬もそれは理解している。だが、芍薬は張り切っていたのである。
「ソレモソウダネ……」
 つぶやくように言って腕を下ろす芍薬は未練たっぷりだ。
 ニトロは怪訝に思い、ちょっとしょんぼりしかけている芍薬を観て……
(ああ、『できるようになった』――か)
 彼は芍薬のセリフを反芻し、そこに込められた芍薬の『歓喜』に気がついた。そして気がつくと同時、自分は果報者だと目元を弛ませる。
「明日の朝は、焼きたてのクロワッサンが食べたいな」
 ニトロの、その突然の希望に芍薬は小首を傾げながらも、
「御意」
 と返すと、マスターはさらに言った。
「昼は生パスタがいいな。ソースも任せるよ」
「……」
 その時には、芍薬は理解していた。
 ニトロの意図、気持ち、その思いやり、
「夜はちょっと豪華にフルコース。メニューも買い出しも、全部任せていいかな?」
「承諾!」
 そう、マスターの注文は、いずれもこれまでの多目的掃除機マルチクリーナーだけでは出来ないことばかりだった。クロワッサンは生地を作り、また生地とバターを折り重ねて伸す必要がある。生パスタも生地をこねる必要がある。この『伸す』や『こねる』という作業が、つまり体重をかける作業が、多目的掃除機では苦手とすることなのだ。もちろんそれぞれ専用の家電を併用すれば多目的掃除機でもなんら問題なく対処できるし、今時家庭でパンを作るなら『パン作り機』を使用するのが常識なのだが、そこら辺『手作り』を仕込まれているニトロはそれらを所有しない。ということは、必然、『その体で』手作りしてね――そういうことになる。買い出しなどは特に“極め付け”であろう。
 マスターがこちらの気持ちを汲んでくれたことも嬉しくて、芍薬は何度もうなずきをくり返した。
 その様子に満足したニトロは笑み、
「それじゃあ汗を流してくるから」
「甘イノガイイカナ?」
 ニトロはうなずき、バスルームに向かった。
 芍薬は早速ミルクティー用の茶葉を用意し――新しい体は本当に便利だ――湯を沸かして――この体は多目的掃除機と違って細かい作業もしやすいし、基本的に『人間』のために作られている間取りの中で非常に動きやすい――棚からカップを取り出した。
 そして、
(ソウダ)
 防音の効いた部屋の中にいても、人間レベルに調整した聴覚みみを澄ませれば外の騒ぎ声がかすかに聴こえてくる。部屋のコンピューターは、必要最低限の機能を残して『壊した』ままであるため、マンションの各監視カメラを通して外を観ることはできないが……
 芍薬は、閉め切ってあるカーテンと窓に向かった。ニトロが出掛ける際はセキュリティのためにいつもこうしているのだが、反面これでは外から中を窺うことはできない。もちろん手段を選ばない悪質なパパラッチには『違法ではない』装置を様々用いる者もあるが、軍用レベルの防音・防弾・防振動等各種性能のある特殊ガラスを用いた窓には偏光機能、赤外線カメラ対策機能等を備えた最新防犯シールも貼ってあり、よほどの計器を用いても、さらに分厚いカーテン(もちろん最新のセキュリティグッズ)を重ねられては太刀打ちできない。それでも、もし、これをも見透みとおせるような物を使ってきたら? 一般人に所有許可の出るレベルではあり得ない。その場合は『国家保安上のための協力』という建前で現行犯逮捕のために『自由に攻め込める』から、それはそれでありがたいものだ――特に、この機体を手に入れた今となっては。
 芍薬は部屋の電気を消し、カーテンを少しだけ開き、窓を開けてベランダに出た。
 ここに『保護対象』が明確に存在する今、流石に“完全に”本気になった警察によって飛行禁止域からスカイカー等はもう排除されているが――その瞬間、感度・範囲を全開にした芍薬の各種センサーは無数のカメラの存在を感じ取っていた。それらカメラは、あたしの背後に、ニトロ・ポルカト宅が早くも消灯しているのを見ているだろう。
 芍薬はベランダの際、手すりの直前に立ち……ここから最も遠い位置にいるカメラに眼差しを投げた。カメラを携える者は――ある大手放送局の『下請け』であったのだが――ゾッと背筋を凍らせた。
 最遠のカメラが目を反らしたのを『目視』した芍薬は、マンション敷地内に侵入して隠れている者に視線を移し、そして唇に人差し指を立てた。
 凛とした姿の、異国の装束に身を包む『戦乙女』の静かに叱りつけるその立ち居振舞いは、アンドロイドながらに……いや、アンドロイドであるからこそ美しく、激動と狂騒の『祭』を仕舞う絵として長らく評判となる一枚となった。そしてまた、芍薬の『警告』はそれが故に強力な規制ともなったのである。
 ――肉体を傷つけなくとも、カメラを壊すのは至極簡単。
 ――あるいは、現行犯逮捕も、朝飯前。
「……」
 目論見の成功をセンサーで確認した芍薬は部屋に入り、窓とカーテンを閉めた。それから暖色の常夜灯だけを点け、マスターの真新しい下着とパジャマをバスルームの前に置いておく。折り良くシャワーの音が止んだ。キッチンに戻った芍薬は電気コンロの上で保温状態に保たれていたヤカンからお湯をカップとティーポットに入れ、それぞれを温めながらヤカンを再沸騰の火に戻した。
(……)
 芍薬は、その時、ある事に思い至り、夕食のための『買い出し』はできないなと考え直していた。ついさっきの人間達の反応が表す通り、今は事件後最大の混乱期だ。マスターの側を離れるわけにはいかない。
 では、
(デリバリーヲ使ウカ)
 宅配ボックスに取りに行く程度なら、許容範囲である。
(注文内容ヲ漏ラスヨウナ所ヲ選バナイヨウニシナイトネ)
 そうこう考えている内、アンドロイドの『耳』に湯の沸騰を知らせる音が聞こえてきた。湯気を吹くヤカンを見ながら、そこで芍薬はふと、再び……いいや、今度はまるで天啓のごとくに思い至った! そして芍薬は――そう、張り切っているのである!――大きくうなずいた。
 やがてニトロがバスタオルで髪を拭きながら戻ってくる。
 そのタイミングで甘いミルクティーも出来上がっていた。
 ニトロは嬉しそうに微笑み、あえて冷たいミルクを多めに加えることで風呂上がりにちょうどいい温度に整えられた飲み物に口を添えた。
 ニトロは、ため息をつく。
 疲れが中からほどけていく。
 一人の時間……とでも言おうか。芍薬は話しかけず、ニトロもそれに甘えて話しかけない。ただゆっくりと、薄暗い部屋で静かな時を過ごす。そういえば何故部屋は暗くされているのかと彼は疑問に思うが、しかしそれも一瞬のこと。芍薬が何らかの気を利かせてくれたのだろうからそれでいい。
 やがてミルクティーを飲み終えたニトロは、
「美味しかったよ」
 と言って振り返り、そこでまた怪訝に眉を寄せた。
「芍薬?」
 床に、芍薬が正座していた。
 きちんと揃えられた膝の前にはクッションが二つ縦に並べられ、また芍薬の揃えられた膝と腿の上には折り畳まれたタオルが敷かれている。
「耳モ綺麗ニシヨウ」
 瞳を輝かせて、芍薬は言った。
 ニトロは思わず笑ってしまった。芍薬のその行動は明らかにはしゃぐ気持ちにあかせたものだ。そこまで? と半分呆れてしまうし、反対では、そこまで……と我慢させていたことに詫びる気持ちになる。
 ――しかし、
「サ、主様」
 ぽんと膝を打つ芍薬のもう片方の手には耳掻きがある。
「いや……」
 ニトロは苦笑した。
「でもそれはちょっと気恥ずかしいかな」
「何言ッテルンダイ。恥ズカシイコトナンテ一個モアルモンカ」
 チャキチャキとした調子で芍薬は言う。ニトロからすれば何はともあれ『膝枕』という行為自体が何ともあれなのだが……
(まあ、ね)
 ニトロは、うなずいた。
 芍薬の正面、クッションの上に一度座り、それから少しだけ躊躇いながら芍薬の膝に頭を載せる。
「硬クテ痛カッタラゴメンヨ」
 いくら素晴らしい人工皮膚と人工筋肉を使っていても、大部分は金属や無機質から成るアンドロイドの体だ。確かにその膝は人間のものらしからぬ硬度を感じさせ、『体温』も不自然である。
 だが、ニトロはそれらの奥にあるものは時に人より『アツイ』ものが流れていることを知っていた。
「大丈夫だよ」
 言って、横を向く。
 すぐに耳掻きが絶妙の力加減で掃除を始める。
「痛カッタラ言ッテオクレ」
「大丈夫、気持ちいいよ」
 実際、本当に気持ちがいい。
 こうして誰かに耳を掃除してもらうのは幼い日以来のことだ。母は下手だったから、この役はもっぱら父のものだった。しかし、その思い出の補正を借りてもなお、芍薬の腕前は素晴らしい。
「ハイ、反対」
 言われて向きを変えるニトロは、いつしかまどろんでいた。
 汗を流し、甘いミルクティーを飲み、そして、胸を借りることはなかったが、膝を借りてのこの心地よさ。
 数日に渡って強い緊張の中にあったニトロの心はすっかり弛緩し、彼が急速に深い眠りにつくのは自然なことであろう。
「……主様?」
 聞こえてきた寝息に問いかけを返してみるが、マスターは反応しない。
 自分の膝の上で眠りについたマスターを、芍薬は微笑んで見つめた。
 丁寧に掃除を終え、多目的掃除機を走らせて持ってきたドライヤーで髪を乾かす。
 その間もニトロは起きない。
 すっかり安心しきり、無防備に眠り続ける彼の姿は、つまり芍薬への信頼に他ならなかった。
 芍薬は、オリジナルA.I.としての『人生の手応え』……あるいは『生の実感』を強く強く胸に抱きながら、眠るマスターの体を軽々抱き上げた。
「コレカラハ、毛布ヲカケルダケ――ジャアナクナルネ」
 言いながら、ひょいと足も軽やかにベッドに向かう。そうしてマスターを優しく横たえ、ケットをかけ、
「オヤスミ、主様」
 返事はない。
 ただ穏やかな寝息だけが続いている。
 しかし、何よりこれこそが芍薬への最高の返事であった。
「――サテ」
 常夜灯も消し、真っ暗な部屋の中でも芍薬は昼の平原を歩くようにキッチンへ向かう。
(クロワッサンノレシピハ……)
 守りきった主のデータからパンのレシピ集を参照し、
(足リナイモノハ、ナイネ)
 ならば支障はない。
 芍薬は張り切っていた。
 朝が来たら、マスターを焼きたてのクロワッサンの芳しい香りで起こすのだ……と。

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