7−e へ

 宮殿に足を踏み入れた瞬間、ニトロは猛烈な解放感を味わった。
 宮殿内は広くない。むしろ狭い。それなのに、ニトロは解放されていた。
 あの圧力の暴威から。
 あの粘りつく地面から。
 あのふいに掴みかかってくる手から、天の地の底から轟いてくる雷鳴のような声から、恐ろしい無限の眼差しから。
 ここはつまり、シェルターだった。
 だが、
「相変わらず、喉だけは渇くなあ」
 しかしそれ以外は実に楽だ。
 ニトロは大きく息を吸いながら周囲を見渡し、首を傾げた。
「変な造りだ」
 おそらくロディアーナ宮殿のように古典的な造り……宮殿には廊下がなく、無数の部屋と部屋が連なる構造をしているのだろうが。だからって、玄関入ってすぐのエントランスが何もない四角形の部屋――ということはあるまい? 上階への階段もなく、調度品もない。ただ四方を壁に囲まれた部屋。しかも壁は下部に隙間がある上に柱がない。
「どうやって支えてるんだ?」
 常識的な構造は必要ない世界だとしてもそれが気になり、ニトロは身を屈めて壁の隙間を覗き込んだ。が、何も見えない。隙間の先は真っ暗である。左右の内壁には扉が据えられているのだが、隣の部屋の欠片も見えない。
「さすがに外壁には隙間はないか」
 つまり、どうやらこの宮殿は外壁だけで支えられているらしい。内壁は、壁とは言っても実質天井から垂れる巨大な石板に過ぎない。
「現実ならこんなところにゃ怖くていられないな」
 いつ潰れてもおかしくない……そう考えたところでニトロは気づいた。
「なるほど。ある程度解りやすく具体的に造られているんだな」
 この世界は。
 何しろ自分で自心を適切に図化することですら極めて困難なことなのだ。もし本当に他人の心の風景を何のフィルターもかけずに見たとしたら、それはきっと別の人間には写実主義者が象徴主義的な技法で宗教絵画を目指してシュルレアリスムに傾倒しながら描いた抽象画――とでもいうような、訳の解らない混沌図にしかならないだろう。
 そういえばと省みれば、外で見舞われた現象の数々も“こちらの心情”で解釈できるものだった。
「……人の精神パターンを解析して、そこから心理を抜き出して、さらに心理的負担やらをこんな風に具象化する? それを可能にするシステムに、そこに無理矢理人を引きずり込む装置?」
 言いながら、ニトロは呆れた。
「どんな天才マッドサイエンティストだ」
 齢七歳にして工学分野において類稀なる能力を発揮する『秘蔵っ子様』。ドロシーズサークルでは女の子にしか見えなかったパトネト王子。可愛い顔して末恐ろしい第三王位継承者。
「……二人の異常な天才に、見事なまでにサンドイッチか」
 そうつぶやきながら、ニトロは次の部屋に進もうと右の扉を開けた。すると、左の扉も同時に開いた。思わぬ反応にニトロはびくりとし、
「連動してるの?」
 振り返った時、彼の目に湧水の池が飛び込んできた。
「……」
 部屋を移った覚えはないのに、ニトロは別の部屋にいた。
 どうやら扉を開けた時点で部屋自体が切り変わるらしい。部屋の大きさも変わり、ちょっとした空き地程度の大きさになっている。ニトロの目を奪った美しい湧水の池は、湧き水らしい冷気を漂わせて石畳の部屋の中央に忽然と現れていた。
 そして、
「――ティディア」
 ニトロの目は、自然とその“存在感”に引きつけられていた。
 部屋の上座とでもいうのだろうか、その位置に、玉座がある。玉座は巨大な敷石を大中小と三段積み重ねた上にあり、少し今より幼い容姿ではあるが、そこには間違いなくティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナが威厳を漂わせて静かに座している。
「……ミリュウ姫」
 次いで、ニトロは玉座を置く台の下に跪くミリュウに気がついた。彼女も今より少し幼い。顔を上げ、ミリュウは台上の玉座を仰いだ。ティディアは無表情に妹を見下ろしている。
 ミリュウは立ち上がった。
 彼女は手にクリスタルガラスのコップを持っていた。
 厳かに湧水の池に歩み寄り、透き通ったコップでそれよりも透き通った水をすくう。
 表面張力ギリギリでこぼれないでいる――というほど満杯に水を注ぎ、彼女はそろそろと歩き出した。
 どうやらティディアに運ぶことが、彼女の重大な使命であるらしい。
 ニトロはコップにある水を見る内、喉が焼けつくように乾いてくるのを感じていた。それは自分と『同じ人』……ミリュウも同様であるようだ。こぼれないように、こぼれないようにと少しずつ歩を進める彼女は、魅入られているように手の中の水を見つめている。よく見ればその双眸も潤いをなくし、涙も作れないほどに彼女は乾いているらしい。
 もしその冷たい水を一気に飲み干したらどんなに至福を味わえることだろう!
 ニトロは思わず生唾を飲み込む。
 ミリュウも喉を鳴らす。と、その音が手に伝わったかのようにコップから水が一滴、こぼれた。
「あっ……」
 ミリュウが小さく声を上げた。
 それだけでニトロは胸が張り裂けそうな絶望を感じた。
 ミリュウは青い顔で玉座を見ている。
 玉座のティディアは失敗したミリュウを無表情で見下ろしている。
 ミリュウは、速やかに池に戻った。水を汲み直し――たった一滴こぼれただけであるのに!――再び慎重に歩き出す。
 つまずいてこぼした。ミリュウは池に戻る。
 風が吹いてこぼれた。ミリュウは池に戻る。
 うまく水を汲めない。ミリュウは何度も冷たい池に手を入れる。
 玉座の段を上る際にこぼれた。後一歩。ティディアは懸命な妹を冷ややかに見つめている。ミリュウは池に戻る。
 ニトロは食い入るようにその光景を見つめていた。
 冷たさのあまりに真っ赤になった手でコップを握り締め、何十何回目かの挑戦でようやくミリュウはティディアに満杯の水を運ぶことができた。
 満面に笑顔を浮かべるミリュウに対し、ティディアは無感動にコップを受け取り、その水を喉の渇く妹の目の前でこともなげに一瞬で飲み干した。
 と、これまでずっと無表情であったティディアの頬がほころんだ。
「偉いわ、ミリュウ」
 ティディアが言う。
 ミリュウの笑顔が輝く。
 しかし、ニトロは見逃さなかった。
 ミリュウは心から喜びを表しながら、一方で、その瞳には絶望を湛えていた。
 何故か? それはすぐに分かった。
 ティディアはミリュウにコップを返した。
 ミリュウは池に戻る。
 池に戻り、再び困難な運搬作業を開始する。
 運搬の成功は姉の褒めの言葉をもらえる喜びと共に、ミリュウに次の『試練』の開始を告げるものでもあったのだ。
 湧水の池から漂う冷気が増している。
 温度が下がっているらしい。
 ミリュウは震えながら水を運ぶ。震えているから水をこぼす。その度に彼女は無感動な姉の眼差しを見る。そして池に戻り、成功する度に冷たさを増す水に手を入れる。アカギレができて血が滲んでいた。その血が彼女の成功を妨げ、彼女はまた池に戻る。諦めず、歯を食いしばり、ようやく成功した時には姉のほんのわずかな温かみを受けて絶望に心を引かれながら傷を癒し、しかしすぐに先より凍える池に手を入れる。
 ミリュウは、けして解放されない。
 無限に水を運び続ける。
 それでも、ここは外より解放されている。
「…………」
 ニトロは脳裏にある言葉を口にしていいのか分からず、ひとまず、気づけば傍らにあった扉を開いてみた。
 やはり部屋の様子が変わった。
 いや、変わりすぎた。
 今度の部屋はニトロにもなじみのある風景に似ていた。
「ファミレス?」
 そう、そこにあるのはファミリーレストランそのものだった。
 目の前のテーブルに、やはり他の誰よりも強烈な存在感を放つティディアが座っている。その向かいにはミリュウがいる。
「――そんな記憶があったな」
 確か、ルッド・ヒューランも連れていたはずだが……今はいないようだ。二人きりのテーブルに話の華は咲いていない。
 だから、姉妹の隣のテーブルに咲く会話はなはとても賑やかで、楽しく感じられた。そのテーブルにいるのは女子高生のグループだった。顔はぼんやりとかすんで判らないが、それでも彼女らが心底楽しそうにしていることは分かる。
 ミリュウはそれを羨ましそうに見つめている。彼女の深い憧れが伝わってくる。
 が、彼女は姉がそれをどのように見つめているのかにふと気づき、下を見た。
 しばらくして、ミリュウがまた隣の女子高生達に羨望を向ける。羨望を向けて、恥じ入るようにまたうつむく。
 いつの間にか、女子高生らのテーブルの先にもう一つテーブルが現れていた。
 そしてそこには、
「俺だ」
 高校の制服を着た自分が、ハラキリと、ヴィタと、もう一人現れたティディアと歓談している。そちらのティディアは笑い転げていた。女子高生らを非人情に観察するミリュウのテーブルの姉とは違い、表情も豊かに、実に楽しそうに笑っていた。
 ミリュウはそれを羨ましそうに見る。
 が、ミリュウの視線は楽しそうな姉を見ていない。
「……俺を?」
 そう、ミリュウはカプチーノを飲むニトロ・ポルカトを見つめていた。
 彼女が自分に対して羨望を向けてきていたことは知っている。しかし……なんだろうか、その眼差しは羨ましがるだけではなく、恨みのようなものも込められている。
 ティディアをそんなに笑わせられることが悔しいのか?
 見ていると、ふいにあちらのニトロ・ポルカトがテーブルを離れた。ハラキリもついていく。テーブルにはティディアとヴィタが残って歓談していた。そして、とうとうあちらのニトロとハラキリは戻ってこなかった。
 ――ミリュウは、それをずっと唇を噛んで見つめていた。
 ニトロは理解した。
「そうか」
 ミリュウはテーブルから離れない。いや、離れられない。
 彼女があくまで王女であるために。
「けど、俺はあくまで一般市民だ」
 そして彼女は、彼女が強く自覚していたようにティディアの肉親である。
「けど、俺は違う。例え結婚しても、違う」
 今や『ニトロ・ポルカト』にかかる期待は一個人の裁量でどうにかなるものではなくなっていたのだとしても、それでも、ニトロ・ポルカトはこの場から去ることができる。手段を問わねば究極的にはどこへだって逃げられるのだ。
 だが、ミリュウはそうはいかない。
 王女という立場を既に背負う者と、王という立場を背負うかもしれない者にはどうしても大きな差があるのだ。また、例えニトロ・ポルカトが王という立場を背負ったとしても、場合によってはそこから一般市民に戻る道はある。そして、もしそうしたら? 自分には大きな過去を持ちながらも、いっそ名も顔も変え、住まう国も変えれば安穏とした生活を送れるかも――という希望がか細くも確かに存在している。
 だが、ミリュウはそうはいかない。
 例え王女という立場から何とか離れられたとしても、顔と名を変えたとしても、彼女にはどうしても彼女自身の血肉が残ってしまうのだ。王の一族という血と肉が。ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナに最も近い血と肉が! 彼女は逃れられない。彼女の存在そのものが彼女を縛る鎖でもあるのだ。彼女は存在する限り『わたし』に苦しめられるのだ。
 同じ人間――反面、全く違う立場
 同じだからこそ、その差異は残酷なまでに色濃く浮かび上がる。
 ふいに、消えたニトロ・ポルカトを睨んでいたミリュウが、彼を羨み恨む己を恥じ入るようにしょげ返った。
 ニトロは居たたまれなくなり、扉を見つけて、開いた。

 次の部屋には何もなかった。
 ただ、その部屋は明るく、暖かな空気に満ちていた。折々吹く穏やかな風は心地よく、石造りの部屋の中であるのに、気持ちのいい草原にいるかのようであった。
 ニトロはここにずっといたいと思った。それだけ居心地のよく、全能感すら湧く安息のある場所だった。
 しかし、ニトロはやがて気がついた。
 この温かな空気の中に、毒があることを。
 その毒は心に作用する。
 ニトロは耳を澄ませた時、聞いたのだ。穏やかな風の中にまぎれるティディアの囁きを。どんな苦痛に苛まされていようと、それを全て忘れさせてくれる魔法の囁きを。
 ニトロは、彼だからこそ、その囁きの本質に気がつけたのかもしれない。
 彼は既に『ありえたかもしれない未来』においてティディアに骨抜きにされた自分を想像していた。その未来では、彼は、ティディアの『愛』に癒され“麻痺”していた。
 穏やかな風が懐に女神の魔法の言葉を忍ばせて運んでくる。
 魔法の――呪いの言葉を。麻酔であり、麻薬である言葉を。
 そう自覚した時、ニトロは見た。彼の傍にずっとミリュウがいたことを。
 ミリュウの体は透き通っていた。
 それは自己というものを失くし、ふわふわとその場に“存在意義”という抽象観念だけで存在しているようであった。
 ふいに崖の下を覗き込んだ時のような恐ろしさを感じて、ニトロは扉を開けた。

 暗闇がニトロを包み込んだ。
 前の部屋とは対象的に、新たな部屋は寒々しく重苦しい空気で満ちていた。風も吹かない。体を動かすと水の中にいるように闇が揺らめいた。
 そして、息ができない。
「!?」
 ニトロは慌てた。
 現在、自分はこの世界に限りなく『生きている』。
 仮想であるはずの息のできない苦しさは限りなく現実的に彼を苦しめる。
 この状態でこのまま窒息することは現実世界での生存も脅かしかねない。
 ニトロは周囲に目を凝らし、耳を澄ませた。
 ミリュウを探そう。彼女のいるところにはきっと酸素があるはずだ!
 しかしミリュウはどこにも見つからなかった。暗すぎて周りが全く見えないこともあるが、どんなに動いても何にも当たらない。壁もない。部屋は無限に広がってしまったかのようだ。
「――?」
 そのうちに、ニトロは息ができないまでも窒息死はしないようだ、ということを悟った。
 もう何分も息ができず、窒息の苦しみは続いているが、気を失うことはない。耐え難いほどに苦しいが、それでも死なない。
「どこでも地獄か!」
 叫ぶための息はどこから手に入ったものか。ニトロは遂にそう叫んだ自分の声に驚き、その声が微妙に反響していることを知り、もう一度大きく叫んだ。
 彼の声が遠くに届き、遠くから何か音が返ってくる。
「……鼓動?」
 ニトロはもう一度叫んだ。
 すると彼の声を聞いたことで何かが目覚めたかのように、そちらから一定のリズムで温かい音が送られてきた。
「鼓動だ」
 もう間違いがなかった。
 それは確かに心臓の音であった。
 トクン、トクンと心地良い音が聞こえてくる。
 トクン、トクンと聞こえてくる心音がはっきりしてくる度に、ニトロの周囲が明るくなっていく。
「息が……」
 できるようになっていた。
 トクン、トクン、トクンと優しい音がニトロを包む。
 ニトロは音と光に包まれて、ここには限りない愛情があることを感じていた。
 偽りも、隠し事もない慕情。
 トクン、トクン、トクン、トクン――
 ニトロは不思議と確信していた。
 自分は、この心音を打つ者に心から愛されている。
 傲慢でも自惚れでもなく、この体この心にこの安らかな心音は清らかな情愛を伝えてくるのだ。
「ニトロ」
 ふいに声が聞こえた。
 その声を聞いた時、ニトロは震えた。思わず口からその名がこぼれる。
「ティディア」
「ニトロ」
 心音に重ねて彼女が応える。彼に名を呼ばれて、喜んでいるかのように。
 温かな音と光に包まれて、ニトロは感じる。
「ニトロ」
 ティディアの愛を。
 彼女が、心から、一人の男に向けている感情を。
「……え?」
 ニトロは戸惑った。
 ここはミリュウの世界のはずだ。
 なのに、何故?
 ニトロはたじろぎ周囲を見回した。
 そうだ、こんな風にティディアに俺が愛されていたら……彼女は!?
「ニトロ」
 己が名を呼ばれる度に、ニトロは悔しいかな、強烈な安堵を感じていた。喉の渇きもなくなっている。彼女の声と音とこの光に包まれていれば、周囲に満ちる息のできない暗闇から自分は守られるのだ。そしてまた、あなたをそれから守ってみせるという強い意志を、ニトロは心臓の音から伝え聞いてもいた。
「くそ、一体何でだ?」
 ニトロは戸惑った!
 これでは、このままでは、ティディアに本当に愛されていると信じてしまいそうだ。あいつに事の真偽を確かめるまでもなく、一人の人間として深い愛情を向けられていると、そう思い込んでしまいそうだ。
 胸に迫る。
 目の前で告白されているかのように、胸に迫る。
 優しく抱かれながら愛を約束されているかのように、胸に迫ってくる。
「ニトロ」
「いやいや待て待て」
 ニトロは戸惑いながらも、やおら理解した。
 そうか、これは本当に直接自分の心に流れ込んできているから、こんなにもあいつの情が胸に迫ってくるのだ。
 共感はしてもいい、だが同調はしてはならない――ふいにそう思うが、いいや、無駄だった。これは同調の故ではないのだ。共感の故に、胸に思いが溢れているのだ。ティディアが生み出す温かな情に、共感してしまった己の情が揺れているのだ。
 そしてこの情をこんなにも素直に俺に伝えてくるのは……伝えられるのは、一人しかいない。
「――伝えられるのは?」
 ニトロは、ふと思い出した。
 この世界で目を覚ます前に見たミリュウの記憶。
 トクン、トクン、と音がする。
 ニトロはこの音を、ミリュウの記憶の中でも聞いた。
「ああ、そうか」
 ティディアがクロノウォレスに発つ前夜の記憶だ。
 ミリュウはティディアに抱かれながら、姉の心臓の音を聞いていた。ニトロ・ポルカトの話題を出し、その音を確かめるように聞いていた。
 この心臓の音は、脈打つ感情は――温かい。涙が出るくらいに慈しみに満ちている。それなのにどこか切なくて、触れればすぐに壊れそうなほどに脆そうで、だけど強い。強くて、無垢で、愛しくてたまらない。
 愛しさに打ちひしがれるように足元を見れば、ミリュウの宮殿と島を取り囲む外海とは比較にもならない美しい海があった。
 あまりの美しさに目をそらし、天を仰げば、宮殿の中にいるはずなのに、そこには抜けるような広い青空がある。
 彼女達は伝えてくる。
 その情の深さは、海の深さ。
 その愛の深さは、空の深さ。
「ああ、ちくしょう」
 ニトロはうめいた。
「ニトロ」
「――俺は」
 ティディアに、
 あのクレイジー・プリンセスに、
 大ッ嫌いなあのバカで傍若無人で無茶苦茶で痴女な上にふざけた希代の王女様に、
「俺は、こんなに愛されているのか……」
 ニトロは認めざるを得なかった。
 ミリュウの心と記憶を介して、しかし、あのミリュウの心と記憶を介しているからこそ、ニトロはそれを認めるしかなかった。
 すると、それを認めたニトロの目が、視界の隅にうずくまる少女を見つけた。
 彼女はニトロを包む光と、光の外にある暗闇の境界にいた。境界の、暗闇側に。
「……」
 ニトロは、彼女が今、どんな顔をしているのか――それを見るのを怖く感じた。
 だが、目を逸らすわけにはいかない。
 ニトロは彼女に近づいた。
 と、そうすると彼女がうずくまったまま自動的に離れていった。
「――?」
 戸惑い、もう一度近づくが、ミリュウに一向に接近することができない。というよりも、ミリュウは光側に入ってこられないようであった。
 彼女の顔は暗闇が隠している。
「ニトロ」
 うずくまる妹を無視して姉は男に愛の声を届ける。
 その度に光が増し、ニトロは温かな水の中で浮いているような幸福感に包まれる。
「ニトロ」
「――違うだろう」
 ニトロは、拳を握っていた。
「違うだろう、ティディア」
 すぐそこにお前の妹がうずくまっている。
 寒くて、息ができない暗闇の中でじっと耐えている。
「それなのに放っておくのか?」
 ニトロの言葉に反応したように、光に照らされる範囲が増えた。
 それでもミリュウはこちら側にこられない。
 しかし、変化はあった。
 ミリュウの顔が光によってぼんやりと照らし出されたのだ。
 ニトロは拳をさらに強く握った。
 そこにある表情は、一体どんなに恐ろしい形相を刻んでいるのだろうか……そう思っていたのに。
「……」
 ニトロはミリュウの顔を凝視し、困惑するしかなかった。
 そこにあったのは、寒くて息のできない暗闇の中にうずくまる彼女が浮かべていたのは――祝福の笑顔であった。
「どうして……」
 ミリュウはこちらを見つめて、微笑んでいる。
 ニトロのよく知る和やかな笑顔で心の底からの祝福をこちらへ贈ってきている。
 そこに羨望や妬みはない。敵意や殺意もなく、あの『破滅神徒』の鬼気迫る執念も何もない。むしろそこには……もし祝福の他に彼女の心を見出そうとするのなら、祝福の影には小さな諦めがあった。
 ――諦め?
「何を諦める?」
 人生を? 命を? それとも、自分が姉に愛されることを?
「ニトロ」
 微笑んでいるのであろうティディアの声にニトロは抱かれ、ミリュウは窒息しながらこちらを見つめている。
 ニトロはティディアの愛とミリュウの祝福に挟まれ、惑い、望んだ。一度ここから離れたい。これまでの自分の大前提――『ティディアは俺を愛していない』――その崩壊に心根も揺れている。このままでは俺はここから抜け出せなくなる。
 その思いが通ったのだろうか、うずくまるミリュウの背後に扉が見えた。
 ニトロは走り、ミリュウの傍を駆け抜け、扉を開けた。

 ニトロが訪れたのは、あの湧水の池の部屋であった。
 そこでは相変わらずミリュウが水をティディアに運んでいる。
 ニトロの喉は、再び渇いていた。
「……ああ」
 彼の目の奥に、暗闇に見たミリュウの祝福が浮かぶ。
 水をこぼしてしまったミリュウが池に戻っている。
 その顔に――泣き出しそうなのに、泣き出しそうになることすら許さない彼女の意志に、あの祝福が重なる。あの諦めが重なる。
 そこにいるミリュウは相変わらず池の水を汲み、何度も失敗し、成功するまで努力し続けるのだろう。
 先ほどはそれを見続けることができたニトロは、今はそれを見続けようとすることもできなかった。
 ――ティディアの愛を知ったことで。
 ニトロは、冷たいティディアに見つめられながら試練を乗り越え続けるミリュウの絶望を、本当の意味で知れた気がしたのだ。
 ニトロは扉を開けた。
 その先ではティディアの打つ拍子に合わせてステップを踏み、ダンスを練習するミリュウがいた。ティディアは無感動にミリュウを見つめる。無感動? いや、違う。ニトロは思い改めた。それはただ無感動なのではなく、真剣であるが故の無感動なのだ。
 ニトロは扉を開けた。
 そこではミリュウがティディアの監視の下にテーブルマナーを習得しようとしていた。
 ここでもティディアは表情も感情も消してミリュウを真剣に見つめている。真剣に鍛え上げている
 姉の目は、姉の目ではない。かといって教師の目でもない。妹を見る姉の目でも、生徒を見る教師の目でもない。まして子を見る親の目でもない。
 ニトロは理解した。
 ティディアの目は『素材ミリュウ』を『優等生な王女』に作り変える職人の目なのだ。そして鍛えるために、真剣に情を注いでいる姿なのだ。職人が弟子に与える愛情ではなく、作品に与える愛情。同じ“愛”でありながら、決定的に違う『愛』。
 ……この世界で目覚める前に見た、彼女の記憶と心。
 それだけではなく、王城で彼女が吐き出していた真情までもがニトロを打つ。
 あの玄関の前にいた人形――
 まさにあれこそミリュウだ。
 ミリュウはずっとティディアに『道具』として、『作品』として愛され続けてきた。目の前でスープを飲もうとしているミリュウは、今も、磨き上がっていく宝石ものへ送る姉の愛情をその身に受けている。
 ……それは、やっぱり違う。
 ティディアが俺に送っていたものとは全く違う。
 ニトロは扉を開けた。
 そこでもミリュウはティディアに鍛えられていた。
 ニトロは扉を開けた。
 そこではミリュウはティディアに慰められていた。だが、ただの慰めだったら良かった。ティディアの優しい言葉はミリュウの心に深い根を下す。ミリュウはそのために姉がなくては自己を支えられない心を育てていく。そうやって育っていく心に、ティディアは水と肥料を与え続ける。
 ニトロは扉を開けた。
 ニトロはまた温かな愛情を感じた。しかしそれはティディアが彼に与えるものではない。ミリュウがティディアに与えるものであった。
 そう、ミリュウは、ティディアを心から敬愛していた。本当に、心から。だからどんな形であれティディアから向けられる感情を喜んで受け入れていた。それがどれほど打算的なものであり、どれほど狡猾で姉妹の間に育まれるはずの親愛からは程遠いものであっても、それを喜んで抱き止めていた。
 ニトロは扉を開けた。
 大勢の人間――国民の前で、どこかの宮殿のテラスから王女姉妹が笑顔で手を振っている。その背後に伸びる姉妹の影はまるで影絵劇のように動き、姉の影は妹の影を操り、姉の影に操られる妹の影がミリュウ本人を操っている。本人の体から骨が折れたような音がしようと影は無理矢理本人を動かす。それと同時に影自身も耐えられないように薄くなっていく。しかし失った色を戻すための顔料を他から得られることも無く、ミリュウの影はしだいに消えていきながら、それでも何とか消えてなくならないように姉の影の陰に入ることで自分の色を取り戻した気になって安堵する。ただの誤魔化しで、目を塗り潰す。
 ニトロは扉を開けた。
 異様な形の姉妹の関係性が積み重なっていく。
 ミリュウは一方的にティディアに依存していく。
 しかしティディアは何にも依存しない。だが、依存を受け入れ、それをいいように操る。
 いつしか超一流の人形師によって、人形も一流になっていく。
 ニトロは扉を開けた。
 ニトロは扉を開けた。
 ニトロは扉を開けた。
 ニトロは、もう知っていた。
 人形は自己が磨き上げられ、それが人形師の利益になることを心から喜びながら――そうだ、まるでオリジナルA.I.達がマスターに尽くすことを幸福とするように、彼女もティディアの生きたオリジナルA.I.として尽くすことを喜びながら、一方で、常に絶望していた。
 彼女は確かにティディアに最も近い道具であっただろう。ニトロ・ポルカトが道具として愛されている時期にも、それは変えようのない事実であっただろう。
 だが、彼女は気づいていたのだ。
 彼女は道具であるからこそ、人間ティディアに同じ人間としては尽くすことは絶対にできない。
 もしかしたら、
「だからこその『契約ぜんてい』だったのか」
 扉を開けた先で、ミリュウはティディアを神として崇めていた。
 神と信徒の間には往々にして契約が取り交わされる。
 しかしここにある契約は、神から信徒に向けられるものではなく、信徒から神に向けられている。
 ミリュウは祈り、思う。
 神は特別に誰か一人を愛さない。
 神の愛は、等しく皆に注がれる。
 わたしも皆と同じように等しい愛の中にいる。
 それなら、どうぞお姉様、あなたはわたしの女神様でいてください。
 あなたが誰をも愛しながら誰をも愛さぬ神であるならば、わたしはあなたの『愛』で満足できる。いつも渇いている喉も、あなたの『愛』によって癒される。
「いつも渇いているのに癒される?」
 ニトロは扉を開けた。
 また湧水の池でミリュウがティディアに水を運んでいる。
「違うだろう」
 ニトロが扉を開けると、また暗闇の部屋に出た。
 ニトロだけに注がれる愛。
 こちらを見るミリュウの祝福と、諦め。
 ああ、お姉様はとうとう人を愛されたのですね。人として、愛しい殿方を愛されているのですね。
 でも、そうするとわたしの『前提けいやく』は失われてしまいました。お姉様、女神様、あなたがお造りになってくださったわたしの『世界』は、その大柱を失ってしまいました。
「……」
 ニトロは扉を開けた。
 ミリュウはティディアとダンスレッスンをしている。膨大な量の勉強をしている。スピーチの仕方を教わっている。国民と触れ合い、また国民に罵倒され、また国民を支配しながら、『王女』のあり方をミリュウは吐き気を覚えながらも懸命に飲み込んでいく。
 しかしティディアの求めるものには上限がない。
 何故なら基準は、ティディアなのだ。
 ティディアと同じ資質を持たないミリュウには決して克服できない無限の試練。しかし悲しいかな、乗り越え続ければ人より確実に優れられる道程。
「地獄だ」
 ニトロはつぶやいた。息のできない苦しみのあまりに叫んだ言葉――それを彼は繰り返した。
 地獄。
 いや? もしかしたらこれは『王女』にとって地獄でもなんでもなく、当然のことなのかもしれない。しきたりに縛られることを飲み込んでいたマードールのように、これは当然のことと認められるべきことなのかもしれない。――あるいは、認めることこそが外の人間のできる優しさであるのかもしれない。
 しかしそれでも、少なくともニトロには、目の前に繰り広げられる光景は過酷なものとしてしか映らなかった。思い出される『現実』の写真。仲良くティディアとミリュウが並ぶ写真が悲しく思える。ティディアが手本となって幼いミリュウに王女としての立ち姿を指導している有名な写真が思い出される。それが地獄の本格的な始まりだったのかと思うと、胸が苦しくなる。
 ニトロは扉を開け続け、次第に『あるもの』を探し始めていた。歪な姉妹の奇妙な親愛関係を見届けながら、彼女の動機が『全て』であったのならば、絶対になくてはならないものがまだ彼の目には現れていなかったのだ。
「……」
 ニトロはティディアに抱きしめられて慰められるミリュウを見ながら、思わずにいられなかった。
 本当は、ミリュウは、俺が『一人の男性として愛されたい』と考えていたように、根底では彼女も同じく『一人の妹として愛されたい』と考えていたのではないか?
 なのにミリュウはそれも諦めきっていた。
 何故なら、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナは、ある時期までは間違いなくティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの最大の理解者であったからだ。
 妹は知っていた。
 姉は、人を愛さない。いいえ、愛せない。姉には人間らしい愛情が、本当はないのだ。
 恐ろしくも親しみ深く、慈愛に溢れたティディア姫。その親しみも、慈愛も、ティディア本人から溢れているものではない。それらは全て“王女ティディア”から精製されている“人工物”にすぎない。天才が作る限りなく本物に近い贋作。贋作でありながら万人に本物であると認められるために『本物足りえる愛』。
 ミリュウはその最高純度の『本物足りえる愛』を受けられる人間だった。そしてそれは、本物の愛を欲するミリュウの喉の渇きを誤魔化すには十分な純度の『愛』でもあったのである。
 王・王妃――両親は公務で忙しい。
 長兄・次兄・長女はミリュウをその凡庸ゆえに王家の失敗作、“劣等遺伝子”の固まり、それとも実は母は不倫をしていてアレはその不義の子なのだろう――と、妹を、妹として認めない。ニトロはミリュウの記憶の中で聞いた。長女は次兄に言う「それでも『王女』ではありますから、良い商いになりましょう? 殿方も王女との一夜の夢とあれば、例え腐肉が相手でも大金をはたきましょう」次兄はうなずき、長男は笑って言った「だけど木偶は穴も硬すぎるんじゃないのか? 何だったら俺が少しくらい使える程度にはしてやるよ」――人でなしとミリュウが呼ぶ兄弟の、あまりに彼女を卑しめる言葉。連中はミリュウがそれを理解できないと思っていたのだろう。彼女の目の前で話していた(そしてニトロはその時そこで実際に目撃していたと記憶違いをしそうになっていることに気づいて慌てて頭を振った)なれどニトロは知っている。ミリュウは、それほど劣っているわけではない。むしろ歴代の中でも優秀な部類に入る王女だ。彼女はちゃんと理解していた。「しかしティディアに知れたらまずいだろう」「問題ありませんわ。少々脅しつければコレは何も言えませんもの」――理解した上で、心を震わせながら、解らないふりをしていた。
 さらにミリュウの周囲にいる人間は、当然、『王女』に従う者ばかりであった。ルッド・ヒューランは言っていた。ミリュウは繊細であると。実際、繊細な少女であった。彼女は周囲の心の機微を敏感に感じ取れる人間であった。それは現在でも、彼女が優しく、兄弟の中で両親に最も似た人徳を持つと呼ばれるに相応しい人間であることで証明されている。ただ、それが彼女の苦しみを生む要因でもあった。
 ……繊細な王女は、いつも一人であった。
 彼女は家族の愛を受けられない。ティディアは愛してくれるが、ミリュウは早いうちから心の底ではそれも偽物であることを悟っていた。
 だが、だからこそ、ミリュウはティディアの『本物足りえる愛』に縋った。何故ならティディアはその『愛』しか持っていないのだ。ならば、それしかないのであれば、それはむしろ本物といってもいいのではないか? それしかないのなら、それこそが本物で間違いないではないか。――言葉遊びにも似た価値の転倒。されど、姉の『特別な愛』を向けられる人間にとっては甘美な発見。
 ミリュウがティディアの『愛』に縋り切ったことを誰が責められるだろう。
 外から見れば……ニトロから見れば、確かにミリュウが姉の『愛』だけに救いを求めたのは失敗だったと思える。
 だが、ミリュウの世界にはそれしかなかったのだ。
 それしかないのに、それに縋るなと言うのは無理筋というものであろう。
 時が経ちセイラ・ルッド・ヒューランのような支えを得たとしても、いつまでも彼女の中心をティディアの『愛』が占拠し続けるのも自然な帰結というものであろう。
 例え姉の『愛』が彼女の求める“愛”の偽物だったとしても、事実彼女は姉に救われてきたのだ。人でなしの兄姉から守られ、周囲の目や口から心身を守るよすがを賜り、彼女が生まれながらに課せられた王女という試練への対抗力を与えられてきたのだ。
 ミリュウがティディアを盲信することになったのも誰が責められよう?
 ミリュウがティディアのために執念を燃やすことに、一体どんな不思議があるだろう。
 全ては『愛』のためなのだ。『愛』のためであったのだ。
 だが、『ニトロ・ポルカト』の登場により、その全てが否定された。
 あるいは『ニトロ・ポルカト』が世界の理を変えてしまった。
 ミリュウが本物だと信じ込んできたものは、やはりどうしたって偽物なのだと暴露されてしまった。
 彼女の過去はその瞬間、本物の黄金ではなく、黄金っぽくメッキ加工された張子はりこに成り果ててしまったのである。
「地獄だ」
 そして、女神の胸の奥にあった本物の黄金を手に入れた悪魔は、彼女の目の前で笑いながらその黄金を投げ捨てる。「なんてこと……なんてこと……」つぶやいていたミリュウ。ああ、彼女の絶望はどこまでも多面体だ。一面だけでは収まらない。魂を壊死させる毒のカクテル。言葉を選ばなければ、それまではまだ神が奪われただけですんでいたのだ。神が消え、過去がメッキとなったとしても、それでもまだメッキされているだけの価値はあった。しかし悪魔は女神の黄金をさも糞のごとく軽んじた。ニトロに自覚はなかったとしても、ミリュウにとっては間違いなくそう感じられることであった。黄金が糞であれば、糞を模したメッキは一体何になる? ニトロは――悪魔は、その時、ティディアの愛を軽んじることでミリュウの命を支えてきたものまで粉々に吹き飛ばしてしまったのだ。
 その時点までは、ミリュウは、ニトロの予想通り、『未来に繋がる希望』を抱いていた。
 ニトロ・ポルカトが姉の失望を買う人間だと証明できたら?
 ニトロ・ポルカトに対しわたしが少しでも優位を示せたら?
 だが、それらも一瞬でゴミとなった。そんなことはもうとっくの昔に消費期限の切れた希望ぜつぼうに過ぎなくなった。そして彼女には、終に、とっくの昔からずっとあった絶望きぼうだけが残った。
「地獄だ」
 湧水の池のミリュウの手はぼろぼろだった。だが、ティディアの手は妹に差し伸べられない。それが当たり前であればミリュウは耐えられる。だが、それをミリュウが当たり前だと感じられなくなったら……
「……どこだ?」
 ニトロは『あるもの』を探し続けていた。
 探し続けているのに未だ現れないそれが確実に“ここ”あることを彼は知っていた。この世界にはミリュウの心が満ちている。ここではミリュウの感覚が嘘偽りなく伝わってくる――ティディアが俺を愛していることを伝えてきたように、彼女の本心もこの胸に伝わってくるのだ。
 だから、ニトロは感じ取っていた。微弱だが確かにあるその心を。それなのにいつまでも形を成して現れてこないということは、もしかしたらミリュウ本人はその存在に気づいていないのかもしれない。しかし、ニトロは、彼だからこそその心に共感できる――“それ”があることを確信できる。ニトロは探し続けていた。
「どこだ?」
 ニトロは扉を開け――ふと、『あるもの』を探しに逸る気持ちを抑え、立ち止まった。
 そこは小さな小さな部屋だった。
 人一人しかいられない部屋。分厚い壁で囲まれた個室。
 そこにニトロはミリュウといた。
 彼と彼女は重なっているが、交わらず、ぶつからず、奇妙な存在となってそこに共存していた。
「……ルッドランティーの香り?」
 まだ本物の香りをかいだことはないが、ニトロは鼻をくすぐる独特の良い香りにそう思い至った。
 きっとそうなのだろう。
 耳には『春草』が聞こえている。
 ここまで無限回廊のように何十と見続けてきた無数の『ティディアとミリュウ』の部屋とは違い、ここにはミリュウとミリュウの好きなものしか存在していない。
 どうやらここは、ミリュウの最後の砦であるらしかった。
 ニトロは柔らかな部屋着に身を包むミリュウへ微笑みかけた。
「小さな部屋だね」
 しかし彼の声はミリュウには聞こえないようだ。彼女は穏やかに本を読んでいる。貴重な紙製の本。タイトルを覗き込めば『花園に来る』とあった。アデマ・リーケインの著作で、彼女が好きな本だ。
 ミリュウは穏やかに本を読んでいる。
 ニトロは彼女を見つめ、つぶやいた。
「一つ、気づいたよ」
 ニトロはここまで様々なミリュウの姿を見てきた。ティディアの下で王女として磨き上げられていく『劣り姫』。無限に同じことを繰り返されている光景。自分には地獄としか思えない日常。
「だけど、あなたは一度も逃げようとはしていなかった」
 ミリュウは、きっと一度もサボったことすらないのだろう。真面目な優等生。無論、お姉様に見捨てられたくないという脅迫感もあったか? とはいえ、何にせよ、彼女は、一度たりとて泣き言を口にせず、懸命に姉の期待に応えようとし続けていた。
 それにはもちろん姉に『愛』を注ぎ続けてもらうため、という動機もあるだろう。
 しかしその一方で、素晴らしい姉を持つ妹は、どうしても姉を愛さずにはいられなかった。才能に溢れ、美しく、銀河のどこに出しても誇れる希代の王女。普通の人間なら自慢せずにはいられない家族。素敵なわたしのお姉様!
「……尊敬するよ」
 ニトロは、言った。
「けれど、少しは逃げたって良かったんじゃないか?」
 そうすればここまで追いつめられることもなかったんじゃないか? 姉から逃げても、良かったんじゃないか?
「……怖すぎて、できないか。そんなこと。見捨てられたくないし、あなた自身が、それを許せないものね」
 ミリュウは本を読み続けている。
 と、突然、ニトロは何かが弾けたような音を聞いた。
「?」
 何の音かと見回すと、狭い部屋を守る壁に亀裂が入っていた。
 すると、その亀裂から、けたたましい赤子の泣き声が入り込んできた。
「うわ!」
 ニトロは耳を塞いだ。が、意味がない。そのあまりに恐ろしい赤子の鳴き声は骨を伝って脳の内部にまで響いてくる。
 赤子の声はどんどん高まっていく。
 外から壁を叩く音が伝わってくる。
 それにつれて壁が崩壊を始める。
 なのに、ミリュウは動かない。
 自分の大切な部屋が壊れていくことにもじっと耐えているように、本を読み続けている。
 ニトロはその時、ミリュウが同じ箇所を何度も繰り返し読んでいることに気がついた。

 ――うずたかく積まれた薪が燃えていく。
 ――独りの僧が焚かれゆく。――
 ――今、彼が叫ぶ。
 ――「神を愛することが罪でないように、神を憎むことも罪ではない。なぜなら、神は神を憎むものをも愛しておられるからだ!」
 ――彼の声は彼への憎しみの声に塗り潰される。彼と同じ神を信じる者達の憎悪の熱に身を焦がし、それでも彼は説く。
 ――「憎しみから生まれた愛が穢れていると誰が言う! 憎しみは! 愛を生んだ時にきよめられた!」
 ――罵倒の舌が彼を舐め、炎の勢いが増し、彼の足はもはや焼け爛れ、滴る血液は流れ出すそばから炎に巻かれて天を突く。
 ――僧衣を剥ぎ取られ、粗末な胴衣すら与えられず、屈辱にも裸体を晒し、殴り打たれてどす黒く変色した身を赤く染めながら、それでも彼は叫ぶ。愛する神のため、愛する神を貶める信徒への怒りを。
 ――「聞け、人よ! 神の祝福を受けし肉らよ! 愛が浄らかなものだけで出来ていると思うことこそが罪であり、傲慢であり、また人の真実の原罪なのだ!」

 ミリュウの手の中で本が燃え始めた。
 それでもミリュウは動かない。
 火が本からミリュウに移る。まるで書物に語られる僧のように燃えながら、それでもミリュウは動かない。これが運命で、わたしはその全てを受け入れるとでも言うように、彼女はずっと耐え続けている。
 恐ろしい赤子の泣き声の中、火に包まれながら……ふと、ミリュウがつぶやいた。
「愛は、それでも、浄らかなものだけでできているのだと思う」
 ニトロは歯噛んだ。
 違う。それは――『希望』だ。それはただのあなたの願望にすぎない。あなたはそれも知っているはずだ
 ニトロは言った。
「嘘だ。あなたはティディアを嫌ってもいる。もしかしたら俺以上に。いいや“もしかしたら”なんかじゃあない。あなたは……ティディアを、憎んでいる」
 はっと、ミリュウが、燃えながらニトロを見上げた。
「だけど、それなのにあなたはティディアを本当に愛している。あなたの愛は本物だ。だから、あなたは姉を憎む自分も許せない。だから……だからただ一つの『浄らかな愛』で自分の心を偽りたかったんだろう?」
 突然、ミリュウが笑った。
 壮絶な嘲笑であった。
 ニトロの脳裏に言葉が浮かぶ――『とっくに間に合わなくなっていた』――ニトロは小さく笑った。ため息混じりに。
「それでもあなたは逃げもせず、逃げもできず、逃げることを許さず、その上自分の心に自分の心で蓋をして――だけど覆い隠された心は本物で、それを覆い隠した心も間違いなく本物で……複雑だ、複雑すぎて、考えているこっちがどうにかなりそうだよ」
 ミリュウは声もなく哄笑していた。
 ニトロに向けてではなく、自分に向けて。嘲るように、誇るように。怒っているかのように。嘆いているかのように。
 やがて炎はミリュウを真っ黒に焦がし、焦げた彼女は炭化した皮膚の形をゆっくりと変え、やおら彼女は、真っ黒な蛹となった。
 殻の中でドロドロとなったミリュウは、複雑怪奇なその心と混ざり合っている。
 いつかこの部屋には壁を破壊して恐ろしい泣き声を上げる赤子が入り込んでくる。赤子は暴れながら、壁だけではなく蛹をも割るだろう。そしてその時、『破滅神徒』が産声を上げるのだ。
 ――ニトロは扉を開けた。
 その先では相変わらずミリュウがティディアにレッスンを受けていた。
 ニトロは扉を開けた。
 ティディアの叱責を受けるミリュウは次の努力のために気合を入れ直している。
 ニトロは扉を開けた。
 お姉様のため! ミリュウはひたすら我が身を削る。削り磨かれることで輝きを増す宝石のように。研磨されるたびに少しずつ痩せ細りながら、そんな自分を誇り、そんな自分を装身具として身を飾る姉を讃え、そのためにこそ、そこにこそ彼女は己のアイデンティティと存在理由を見出す。
 ニトロは扉を開けた。
 ティディアはミリュウを、変わらず無感動に見つめている。
 ニトロは扉を開けた。
 ミリュウはいつか自分が世間にどう呼ばれているかを知った。『劣り姫』――あの偉大な姉に比べて、あまりにも劣る妹姫。
 ミリュウは喜んでいた!
 ああ、わたしは人にお姉様の妹としてちゃんと認められている。お姉様と比べる価値はあるのだと、女神様と比べられるくらいには価値のある妹なのだと! 劣り姫!
「ああ、なんて素敵な名前」
 ニトロは、溜め込んでいた感情を爆発させた。
ド阿呆!
 彼は劣り姫という名に感涙を滲ませるミリュウを掴もうとした。
 だが、掴めない。
 彼の手は虚しく空を掻く。
 ならばとニトロは扉を開けた。
 次の間でもニトロはミリュウには触れられない。
 ニトロは扉を開けた。
 ダンスレッスンの風景。ニトロは……ミリュウを無視し、彼女にステップを踏ませるために手を叩くティディアの前に立った。
「そうだった。俺は悪魔だったね」
 つぶやき、ニトロはいきなりティディアを殴り倒した。
 ミリュウには触れることのできなかったニトロであるが、ティディアを殴り倒すことはできた
 その事実にニトロは笑い、突然の暴挙に悲鳴を上げているミリュウをすり抜け扉を開けた。
「やっぱり俺はティディアには触れられるのか
 扉を開けると音楽の授業風景があった。ティディアは、今ではとても貴重なクラシカルなピアノを弾いている。ミリュウは発声練習をしている。ニトロはピアノの蓋をいきなり閉めた。指を挟まれたティディアが悲鳴を上げ、それよりも大きな悲鳴をミリュウが上げる。
 ニトロは扉を開け、その先にいたティディアを薙ぎ倒し、扉を開けながら叫んだ。
「ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ!」
 ニトロの前に宮殿のテラスで手を振る姉妹が現れる。ニトロのドロップキックがティディアをテラスから追放する。
「聞こえるか! ミリュウ!」
 敬称を捨て、扉を開け、彼はティディアにダンスを教わるミリュウに再会する。
「これはティディアじゃない! いいや、確かにティディアなんだろう! だけど、これはティディアの全てじゃない!」
 ニトロは無感動に妹を見るティディアをバックドロップで床に叩きつける。即座に踵を返して扉を開け、妹に外国語で本を読み聞かせているティディアを張り倒し、扉を開けるや猛然とティディアに襲いかかる。
「聞け! ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ!」
 ミリュウの世界を悪鬼のごとく跋扈し、女神をことごとく蹂躙しながら彼は叫ぶ。
「あなたはもう知っているだろう! ティディアは、これまでのティディアとは変わった! それなのに何故、あなたはまだティディアを知った気でいられるんだ!?」
 ニトロはミリュウを叱責するティディアを突き倒し、倒れたティディアを指差し、
「このティディアを否定はしない! けれど、否定もする! ミリュウ、聞け! いいや聞いているだろう!? ミリュウ!」
 ニトロはどこかにいるはずの『ミリュウ』に向けて叫んだ。
「ティディアはあなたを愛している!」
 反応はない。
「道具としてでなく、一人の、たった一人の血の繋がった妹として、あなたを愛している!」
 反応はない。
 ニトロは扉を開けた。
 テーブルマナーを教えるティディアの頭を掴み、それをスープ皿に叩き込み、
「俺は知っているんだ! ミリュウ! ティディアはあなたを愛している! そうでなければ――」
 ニトロはテーブルの向こうで悲鳴を上げているミリュウを見つめ、最も認めたくない現実を前提とした言葉を、歯を食いしばり、
 叫ぶ!
「そうでなければ、あなたを俺に委ねるものか! 愛する俺を天秤にかけてまであなたを守ろうとするものか! 俺があなたの記憶を見たように、あなたも見ただろう! ティディアは、俺に、あなたを頼んできた! 俺は知っているんだ。あなたは知らないだろう、だけど俺は知っているんだ! ティディアは確かにあなたも一人の人間として愛している! いつからだと思う? 最近になって急に? それとも本当はあなたはずっと人間としても愛されていた? そこからあなたは目を背けたかった? いいや、そんなことはどうでもいい、あいつがあなたを愛しているという事実だけあれば十分だ、例え! あなたを愛するようになった『原因』が、それがあなたの言うようにあいつが弱くなったためだろうと……それこそがあいつの弱点になってしまうんだとしても、ティディアは――間違いなくあなたを愛せるようになっている!」
 ニトロは怒鳴った。
「ミリュウ! そしてあなたは馬鹿だ! 大馬鹿者だ! あなたは間違っている! 俺は確かにあなたと似ているのかもしれない、あなたに俺は同情できる、あなたも俺に同情できるだろう、それくらいには確かに似ているんだろう! だが、ミリュウ! 見誤るな! あなたはあなただけの人生を歩んでいる、あなただけしか歩めない人生を! それは俺には決して歩めない道だ! こんな地獄の日々は俺にはきっと耐えられなかっただろう、けれどあなたは耐えてきた! あなたは間違いなくこの国の立派な王女で、ティディアの妹で、パトネト王子の姉で、セイラ・ルッド・ヒューランが誇る主人で……そうして俺に喧嘩を売った、俺とは絶対に同じなんかじゃない、誰が代わることもできない『あなた自身』を全うしているたった一人の人間だ! 劣り姫? 他の誰がそう言おうとあなたがあなた自身を貶めるな! 誇れ! ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ!」
 次々とミリュウの世界のティディアを叩き潰しながら声を張り上げ続けたニトロは、再度湧水の池の部屋に戻ってきていた。
「……」
 そこではミリュウが、コップを握り締めた少し幼いミリュウが、初めて、怯えたように彼を見つめていた
「……もう意識せざるをえないのかな」
 皮肉気に笑いながら、ニトロはミリュウに歩み寄った。幼いミリュウが後ずさりをする。彼女の手には半ば水のこぼれたコップがある。彼女は池に戻る途中だった。
「もらうよ」
 ニトロはミリュウからコップを奪った。
「あ!」
 ミリュウが悲鳴を上げる。ニトロは、コップを奪い取ることができた
「悪いね。でも、喉が渇いているんだ」
 ニトロはそう言うとコップに口に運び、一気に水を飲んだ。冷たく透き通った水は素晴らしい甘露で、よくもミリュウはこれを手にしながら飲まずにいられたものだと思う。
 美味なる水にため息を吐いたニトロは、ミリュウが凄まじい形相で睨みつけてきていることに気がついた。
 ニトロは、しかしミリュウをそのままに捨て置いた。池に歩み寄り、コップを水に沈める。湧水は氷より冷たく、彼は指先から首にまで突き抜けてきた痛みに思わず震えた。
「……まったく」
 コップを冷水で満たし、ニトロはコップから水がこぼれるのも気にせず玉座に向かった。
 玉座では、ティディアが相変わらずの無感動で……いや、違う、少し微笑んでこちらを見ている。
 ニトロは段を軽やかに上がり、背にミリュウの殺意を浴びながら――正面にティディアの微笑みを受けながら、コップを見つめた。
 一握りのコップの中で揺らめいているこの水は、もしかしたらミリュウの涙なのだろうか。
 この冷たさは、そのまま彼女の凍える心なのだろうか。
「……」
 ニトロがティディアを見ると、ティディアはコップの水を請う眼差しを向けてきていた。飲ませて? と。明らかにミリュウとは違う対応であった。
 ニトロはコップを差し出し、それをティディアが受け取ろうとする瞬間、コップの水をティディアに浴びせかけた。
「ああ!」
 悲鳴とも怒号ともつかぬ声をミリュウが上げる。
 しかしティディアは怒らない。それどころか微笑んでいる。
 ニトロはため息をついた。
「違うな、ミリュウ。こういう時くらいティディアも俺に怒るさ。怒って、そうしてボケの一発でもかましてくるんだ」
 ニトロはコップを放り捨て、びしょ濡れとなったティディアの肩に手をかけた。
 背後から足音がする。
 きっと鬼となったミリュウが割れたコップを拾って、そのガラス片で刺そうとやってきている。
 しかしニトロは構わず、両手で肩をつかまれたことをキスの前兆とでも勘違いしたらしいティディアに言った。
あっちのお前も後で覚えとけ」
 そしてニトロは背を弓なりに逸らす。歯を食いしばり、首の筋が浮き、僧帽筋が首を固定し、体を折り曲げるための全ての筋力を爆縮させるための息が吸われ、
「やめて!」
 ミリュウの嘆願も無視し、ニトロは渾身の力を込めてティディアの頭蓋を砕かんばかりに頭突きを――

「ふざけるな!」
 ニトロの額は空を打ち、彼は怒声に打たれた。
「……」
 ニトロは振り下ろした頭を振り上げた。
 眼前にはミリュウがいた。喪服のような黒い服を着て、青いチョーカーで首を締め付ける彼女が、わなわなと体を震わせていた。
「よくも……」
 険しく顔を歪めるミリュウの肌に青い紋様はない。しかしそれ以上に恐ろしい陰影が彼女の顔を彩っている。
「よくもわたしの……お姉様を……」
 ミリュウは拳を握り、ニトロを睨み、骨が砕けそうなほどに噛み締めた歯を剥き出して唸る。
「よくも……よくも……」
 ニトロはミリュウの凄まじい怒気を浴びながら、嘆息した。
「よくもわたしの心の中でまで穢してくれたな?――なのに、そうやってうめいているだけかい?」
 直後、ニトロの左の頬をミリュウの拳が打った。
 ミリュウにしては渾身の力であっただろう。ニトロの頬の内側が切れて口内に血の味が広がる。しかし、ニトロはさらに言った。
「で?」
 再びニトロの左の頬を拳が打つ。ニトロは血の混じった唾をミリュウの足元に吐き出し、
「弱いな。結局、あなたのティディアに対する思いはその程度か」
「黙れ!」
 ニトロの左の頬を三度ミリュウの拳が打った。が、三度目の拳を、ニトロは頬で受け止めていた。ミリュウの拳で頬を押さえつけられながら彼女に迫り、目を細める。
こうやってティディアを殴れたらよかった
「違う!」
 ニトロの挑発にミリュウは顔を紅潮させて激昂し、左の拳でニトロの右の頬を打った。
「違う!」
 右の拳でニトロの頬を打つ。
「違う、違う、違う!」
 繰り返し、繰り返し、ミリュウは滅茶苦茶にニトロを殴り続ける。
「わたしはお姉様を嫌ってなんかいない! 憎むことなんてあるものか! わたしはお姉様を愛している! お姉様を心から! 心の全てで、心の底から、全て、全て、全てで! お前の言葉は妄想だ! わたしはお前と同じなんかじゃない! わたしはお前と同じにお姉様を嫌ってなんかいない! お姉様の愛を受け! お姉様の愛が真実だと知りながらも、今も! 愛されながらもお姉様を嫌い続けていられるお前なんかと同じにするな!」
 ミリュウの拳は、どす黒い血の色で染まっていた。
 だが、それはニトロの血ではない。
 人を殴ったことのない彼女の拳は彼を殴る度に傷つき、ついには折れ、骨を折りながらも殴り続けたことでとうとう砕け、その破片が彼女の肉を刺し、そして彼女の拳は内側から血に染まっていた。
「わたしは生まれた時からお姉様を愛しているんだ!」
 ミリュウは怒りに泣きながらニトロを殴る。
「わたしはお姉様のために身も心も捧げると誓ったんだ!」
 そのうちに、ミリュウの顔に変化があった。
「お姉様のためなら命も惜しくない! どんな屈辱にも耐えられる! だけど、お姉様がそれを喜んでいたのだとしても、お姉様が穢されることだけは許せない! お前なんかに! わたしと同じだったお前なんかに!」
 ミリュウがニトロを殴る。
 すると、傷を受けるのはミリュウであった。
 いつの頃からか、ニトロが殴られる度、ミリュウが殴る度、ニトロの殴打の傷が癒え、ミリュウの頬に殴打の傷が移っていた。
「既にお姉様のお心は傷ついている! お前のせいで!」
 ミリュウの拳がニトロの右目を打つ。――と、ミリュウの右の瞼が腫れ上がる。
「これからもお姉様の愛は傷つく! お前のために!」
 ミリュウの拳がニトロの鼻を打つ。――と、ミリュウの鼻骨が折れて血が溢れ出す。
「ふざけるな! ふざけるな! それなのにお前はお姉様を侮辱し傷つけ続けるんだ! お前を許せるものか! 他の誰が許しても、お姉様がお許しになったのだとしても、わたしだけはお前を許せるものか!」
 ミリュウの顔面は、今や見る影もなく赤黒く膨らんでいた。唇は切れ、頬は腫れ、歯も折れて言葉を紡ぐことも辛いはずだ。
 しかし彼女は血を吹きながらニトロを殴る。
「ニトロ・ポルカトを愛することで弱くなられた哀れなお姉様! お姉様を弱くしたお前は! お前がお姉様の弱点であるからこそお姉様に攻められないことをいいことに、だからお姉様が本気で攻撃できないのにそれに勝った気になって、調子に乗って、お姉様を責め続けて……許せない。許せるものか。お前のような悪魔を!」
「俺は、俺を人質にしているから、ティディアに負けない?」
「そうだ!」
 ミリュウに鼻を殴られ、その一瞬はニトロも痛みを感じる。しかしそれ以降の傷と痛みはミリュウに移り、折れた鼻をさらに潰して団子のように顔を変形させる彼女を見つめ、ニトロはうなずいた。
「そう、なのかしれない」
「仮定ではない、そうなんだ、でなければ無敵の王女がお前みたいな一介の男に拒絶されることを許し続けるものか!」
「あの恐怖のクレイジー・プリンセスが」
「そうだ!」
 ニトロは笑った。
「やっぱり、そっちも俺がティディアを拒絶していた歴史を見たんだね」
 ミリュウが拳を止めた。
「なら、俺があなたからティディアの思いを受け取ったように、あなたも俺から受け取れていたはずだ」
「違う、あんなのはお前の勘違いだ、優しいお前がわたしに同情して――」
「そう同情したよ。だけどそれとこれとは別の話だ。ティディアは、あなたも確かに愛している。その思いを、俺があなたから伝えられたように、あなたも確かに受け取ったんだろう?」
「ッ言うな!」
 ミリュウがもうぐちゃぐちゃになった拳でニトロを叩く。ニトロの頬をミリュウの拳から流れる血が濡らす。
「なぜ拒絶する?」
 ニトロは静かに、薄く笑みながら、問うた。
なぜあなたはティディアの親愛を拒絶したいんだ?」
 その瞬間、ミリュウの様子が一変した。
「――言うな!」
 弾かれたようにニトロの首を両手で掴む。
 砕けた手で、それでも彼の首を絞める。
「言うな!」
 だが、ニトロは叫んだ。
「言ってやる! ミリュウ! ティディアのあなたへの愛情を認めると、あなたがあなたの全てを支配する絶対的な姉を憎める理由がなくなるからだ!「言うなっ「本当に愛して欲しいのに愛してくれない姉に本当に愛されてしまっては、愛してくれない姉を憎むことができなくなるからだ!」
「言うなあ!!」
 ミリュウがニトロの首を強く強く絞める。だが、首を絞められているのはミリュウであった。
「お願いだから言わないで!!」
 ミリュウの懇願をニトロは拒絶した。『ニトロ・ザ・ツッコミ』――その性分はそんな懇願じゃあ抑え込めない!
「あなたは、だから俺を攻撃することができた! 姉が弱くなったと言いながら、弱くしたのは俺だと言いながら、俺こそが姉の弱点だと知りながら、それでも姉を愛するあなたは姉の愛する俺を攻撃することができた! 殺意をこめて! 俺は芍薬がいなければ死んでいただろう! ハラキリの助けがなければ俺も芍薬もまとめて殺されていただろう! 俺が死ねば姉がどれだけ悲しむかをあなたは理解しながら、だから、俺を攻撃した!」
「言わないで」
あなたは弱くなった無敵の王女の唯一の弱点を初めて攻撃したあいつの最初の敵だ!」
 ミリュウの指がニトロの喉に食い込む。ミリュウが咳き込む。血飛沫を吐きながら、それが己の首を絞めることであっても、それでもミリュウは手と指に力を込める。ニトロは叫ぶ。
「あなたはアイデンティティと存在理由を奪った悪魔を攻撃しながら、同時に女神も攻撃していたんだ! 姉に恨みをぶつけていたんだ! それを『お姉様のため』――その大義名分で覆い隠していた! 何故なら! そうしないとティディアを心の全てで愛しているあなたは指の一本すら動かせないために!」
 ニトロの首を絞めていたミリュウの手が、喉に食い込んでいた指が、ニトロの示した矛で貫かれ、盾で殴られ、激しい音を立ててへし折れる。その拍子に、あまりの痛みのせいか、絞められていた首が解放されたからか、ミリュウが甲高い呼吸音を立てた。
 ニトロは、言う。
「あなたはそれも知っていた。あなたはあなたの全てを知っていたから、だから、ひどく自分を嫌悪した。俺を攻撃する自分が悪いことをしていると知っていて、仮とはいえ『死』を自ら志願して体験するくらいに――それくらい自分を責めていないと己を保っていられないくらいに、あなたは同時に自分を殺したかった。本当は死にたくなんかないのに、あなた自身の意志であなたを殺さなければならないと思うくらいに思いつめた。
 ……破滅神徒とは、よく言ったものだね。あなたの自己嫌悪が産んだものを表すのに、実に相応しい名前だ」
 ミリュウがうなだれ、その手がニトロの首から離れて力なく垂れ下がる。
「もちろん、俺を攻撃したのは姉への仕返しのためだけじゃないだろう。考えてみれば、結局あなたが激情を理不尽にぶつけられるのは俺しかいない。国民や周囲の人間に当たるわけにはいかない、あなたは優等生な王女だから。執事に当たるわけにはいかない、彼女はあなたの大切な拠り所だから。パトネト王子には当然当たれない、守ってやらなきゃいけない可愛い弟だから。全ての創造主・女神ティディア様には? 直接ぶつかれば、あいつへの憎しみより強いあいつへの愛情で支えられているあなたは、そうしようとした時点で自動的に死んでしまう。それは姉の恥になる。
 唯一、俺だけだ。ニトロ・ポルカト――姉を奪った憎い男、女神を貶めた悪魔。あなたが唯一攻撃対象としてもっともらしい理由を作れる『希望』は俺だけだ。それが、逆恨みに過ぎないとしても」
 ニトロは吐息をついた。
「俺が……あなたに謝られていたことは、知っているね」
 この世界に来る時に、ニトロに流れ込んできた感情と記憶の中で。
 ミリュウはこくんとうなずいた。
「どんなに否定しても、もう、あなたは俺に、俺が言った全てを告白している」
 遡れば姉のことを想う彼女のところどころには、姉のためという言葉に隠された恨みも見え隠れしていた。
 ミリュウは……こくんとうなずいた。
「……逆恨みくらいしか感情の捌け口がないってのも、きついもんだね」
「それでも貴方にあんなことをしたわたしは許されるものじゃない」
 ミリュウは血を吐きながら、言った。
 ニトロは顔を上げるミリュウを見つめていた。
「ねえ、ニトロ・ポルカト、わたしだった人。わたしのなりたかった『私』――ほら、ご覧になって?」
 ミリュウは力の入らない指で懸命に服の裾を掴み、操り人形が滑稽にポーズをとるように膝を曲げる。無理に笑って彼女は言う。
「わたしは、醜いでしょう?」
 ニトロは腫れ上がった頬と瞼に挟まれて糸のようになった目の奥、彼女の姉と同じ色をした瞳を見返した。
「ああ、醜い」
 ニトロに肯定されて、ミリュウは続けた。
「わたしは愚かでしょう?」
「ああ、愚かだ」
「わたしは人でなしなの」
「うん」
「わたしはどうしようもないクズなのよ」
「そうだね」
「わたしは一体、どうしたらよかったのかな」
 逃げることもできず、誰を責めることもできず、重圧に耐えながら己を責めるのにも限界がきたら。
 ニトロはそれを問いかける『ありえたかもしれない未来』を見つめ、肩をすくめた。
「泣いてみたらどうだろう」
「泣く?」
「あなたのためだけに。他の全ての何もかもを忘れて、せめてあなたのためだけに泣いてみたらどうだろう」
 ミリュウは小首を傾げた。
「それがわたしにとってどれだけ難しいことか解って言っている?」
 他の全ての何もかも。ティディアのことも
 ニトロは言った。――嘆きのあるがために嘆く必要はない。だが、嘆きが訪れた時は、
「泣くことくらい、いいじゃないか」
 すると、ミリュウがニトロに体をぶつけてきた。そのままニトロへしがみつき、彼の胸に顔を埋めて、彼女は言った。
「ねえ、ニトロ・ポルカト、わたしだった人。わたしのなりたかった『私』――お願い。あなたがわたしに泣くことを許して。王女であることを泣いてはならないわたしに、王女であることを泣くことを許して。お姉様の妹であることを嘆いてはならないわたしに、お姉様の妹であることを嘆くことを許して。……あなたを羨んで泣くことを許さないわたしに、あなたを羨んで泣くことを許して」
「いくらでも許すよ、ミリュウ。いくらでも泣けばいいんだ」
「ごめんなさい、こんなことにまであなたを煩わせて」
「うん」
「……ありがとう」
「うん」
 ニトロの胸に、ミリュウの嘆きが伝わってくる。
「ぅええええ」
 ミリュウは、泣いた。
「うえええええええええん」
 自分のために、声を上げて、自分のためだけに、初めて泣いた。


……泣き続けた。








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