一年を通して季節の花に囲まれるホテル・フィメック。
サービスを提供するスタッフを断れば完全にプライベートな貸し別荘としても使える邸宅である。
食材など必要なものだけを頼んでいたニトロは無人の邸宅に辿り着くと、まずは怪我の治療をした。それからシャワーを浴び、芍薬がルーから作ってくれた大きなジャガイモがごろりと入った美味しいクリームシチューを食べて体を内側から温め……その短い安息の以降は、いつ何があっても対応できるよう戦闘服に身を包み、服をリラックスモードに緩めながらも心は引き締め、そして今――彼は『霊廟』の情報を頭に叩き込んでいた。
テレビも、ラジオも、インターネットも、あらゆるその他の情報はシャットアウトしている。そちらは芍薬がチェックしてくれているし、それに、今夜のメディアにどのような言葉が溢れているかは想像がついている。正直、その重さや激しさを受け止められる自信は、今は無い。これを日常としていることには“王女様達”を心底尊敬してしまう。
外は雨も上がり、雨後の澄んだ涼気の中で庭に出て自慢の花壇を眺めながら少しだけでものんびり過ごしてみたいが、空にマスメディアの影があるからにはそれも叶わない。別に人の目が特別気になるわけではないが――全く気にならないわけでもないが――それらを正面に据えれば、現在、自分がどのように言われているか、どうしてもそれを想像してしまうために決して『のんびり』などとはいくはずもない。
……分かっている。
全て、判っている。
皆がそうなることは見るまでもなく解っている。
だけど、解ってくれるか判らないけれど、こっちも正直困っているんだ。
決闘は――ミリュウ姫の仕掛けは全て叩き潰す――受けることに決めたけど。
けど……
「……止めてほしい、のかな」
公開されているだけの『霊廟』の情報。その中から重要であるものを芍薬がまとめた資料に目を通し、それを覚えたところで――ここでも、皮肉にもティディアとのイベントで鍛えられた短期記憶力が役に立っている――ニトロは、自分の言葉ながら不審気につぶやいた。
「暴走スル自分ヲ、カイ?」
王女との決闘のための訓練プログラムに様々なシミュレートを組み込んでいた芍薬が、マスターの声を聞き、“現実”に復帰して応える。
ニトロが芍薬とミリュウの目的について話すのは、このホテルに来てからこれが初めてのことだった。芍薬はニトロの、例えば『霊廟』の情報をまとめる等の要望には応えつつも、あえて敵の思惑に関する話題には触れてこなかったのだ。そのお陰でニトロの頭は十分に休まり、芍薬の美味しい食事で腹も満たされた。気力も十分に取り戻され、問題の根本解決へ諦めず挑もうとする心に動かされて彼は言う。
「『破滅神徒』、そしてあの言動。命懸けで戦うって――そりゃ俺もそんなに自分が強い! とは言わないけどさ、師匠の手前もあるし、あのバカを脇に置いておきながらミリュウ姫に負けてなんかいられない。ミリュウ姫だって自分の実力をちゃんと客観的に見ているはず。……負け戦だよ。それなのに、多分、俺は懇願されていた。敵が、あのミリュウ姫が、俺に戦ってくれって、そう願いこんできていた」
芍薬はうなずく。その時マスターの心にあった衝撃は、ちゃんと知っている。
「けど、それが何で『ニトロ・ポルカトを排除する』に繋がるのかが解らない。でも、逆にどうしても排除したいからこそ……やっぱり彼女は優等生なんだろうと思う、それが悪いことだってちゃんと解ってもいるんだとも思う」
ニトロには、期待を寄せている“観客”に関して抱いた自己嫌悪の記憶がある。もしミリュウが本当に自分と『同じ人』であるならば、彼女は、きっと自分がしていることの罪深さを理解している。
「もし『ニトロ・ポルカトを排除する』――本当にそれを実行したら、ミリュウ姫はティディアにとってどうしようもない汚点になるだろう? それは彼女にとって何よりの恐怖だと思うし、そうなったらきっと生きていられない」
「ダカラ、ソウナラナイヨウニ止メテ欲シイ?」
ニトロはうなずく。瞼の裏には、ミリュウの『懇願』と『恐怖』の瞳がある。死の臭いのする微笑がある。
「あくまでどうしたって『お姉様のため』」
ニトロは言った。
「『ニトロ・ポルカトを消し去る』には直接繋がらないけど、そう筋立てれば、一応そこにも関係を持たせながら彼女の一番の軸には話を繋げることはできる」
「デモ、ソレナラ初メカラソンナコトヲシナケレバイイトハ思ワナイカイ?」
「自分でもどうにもならない感情って、あると思うよ。それを振り払うためには……多分、何らかの形で決着をつけるしかないんじゃないかな」
「ソノタメニ主様ニ止メラレタイ? 叩キ潰サレルコトニナッタトシテモ?」
「一手段としてね。もちろん今回、何らかの形で俺に勝てたらそれはそれで一つの決着になったんだろうけど……どちらにしろ、エンドマークが打てなきゃ、気持ちが記述をミスったプログラムが無限ループするように堂々巡りしちゃうんだ」
「――ソリャ、ゾットシナイネェ」
ニトロの表現に芍薬は引きつり笑いを浮かべるようにして言い、それから何かしら思うものがあったのか感慨深げに、
「決着ヲ付ケタイ……カ」
「まさに決闘だしね」
言ってニトロは腕を組み、
「半信半疑だけど」
と、付け加えた。それは、むしろそうとでも思わないとこっちも気持ちに決着が付かないと言う様子であった。
すると、芍薬が口元に妙な笑みを浮かべた。
「ソレジャア有力ナ“情報源”ニ当タッテミルカイ?」
「有力な情報源?」
「サッキ、ハラキリ殿カラ連絡ガキテタンダ。客ヲ連レテ行ッテモイイカ?――トネ」
「客?」
芍薬が答えたその名を聞いた時、ニトロは驚愕した。
そして、芍薬との慎重な相談の後、彼は信じられない思いを抱きながらもハラキリに了解を返した。するとすぐに、ホテルのセキュリティを一瞬切ったタイミングで、ピピンが
ニトロはピピンが客以外の者を……ハラキリとマードールを連れてこなかったことにも驚いたが、それ以上に、連れてこられた顔色の悪い女性の姿を実際に目で確認した後も、彼女が本当にやってきたことが信じられなかった。
セイラ・ルッド・ヒューラン。
ミリュウ姫最大の側近――今は解雇された、元執事。
ブランド『ラクティフローラ』のスーツを着た彼女は、どんな顔を向ければ良いのか判らないように、こちらに何度も目を向けながら、何度も目を向ける度に顔を苦渋と謝意で歪め、そして言葉を搾り出せずに立ちすくんでいた。
その内に、ピピンが動いた。
ニトロは、『一度帰ります』『話が終わったら迎えに呼んで下さい』とピピンが考えていることを理解する。それはまた思わぬ申し出だった。ニトロが戸惑っていると、ピピンは伝言を伝えてきた。
理解させられるに、マードール曰く『折角のクライマックスだ。舞台裏は観劇の後に知る方が良い』――続けて曰く『お兄ちゃんの解説は、実に饒舌だったぞ』――最後に『どうあろうと君の思うがままに。お兄ちゃんも、そう言いたいようだ』
ニトロは笑った。了解と感謝の意を脳裏に描くと、ピピンがうなずき、頭を垂れるや瞬く間に姿を消した。
そして――
ホテル・フィメックの最も奥まった小部屋には、ニトロと芍薬、二人に対峙するセイラが残された。
(――さて)
ニトロは、眼前に頼りなく佇むセイラを見つめた。彼女も、弱々しく、しかし瞳には異様な力を備えて、意を決したようにこちらを見返してくる。
彼女がハラキリを経由してきた理由は聞かずとも判る。確かにここに来るためには、『王女の執事』の知る限りでは彼が最適な仲介者だ。問題は……いくら“元”とはいえ、敵方の女性を仲介することに対し、あのハラキリが了解を返したことである。疑えば、彼女は、本当は“元”などではなく、今も王女の側近であるのかもしれない。それなのにハラキリがこうして送ってきたということは、それだけの価値があるという判断があったのだろう。それこそ『情報源』と言い切れるだけの確信とともに。
「……」
ニトロは、黙していた。そうして、瞳だけには力がありながら、怯えているように頼りない姿のセイラが口を開くのを待っていた。正直、彼女の元主人について聞きたいことは山ほどある。だが、それをこちらから求めることはしない。彼女が自分に会いに来た――それだけで重要な事案だ。そこに彼女がどんな思惑を抱えてきたのか、まず、それを相手が開陳するまでこちらは動かない。
ニトロは歓迎の意志も拒絶の意図も表さず、ひたすらそこにいた。
一方、セイラは、ただそこに立っているだけの少年から強烈なプレッシャーを受けていた。
ニトロ・ポルカト。背後に控えるオリジナルA.I.と共に、大切なあの人を追いつめた男。
やがて彼女は、ニトロへ向けていた頼りない眼差しを伏せた。これから自分が行う事がどのような結末を生むか解らない。が、やらねばならない。それしかない。
セイラは突如として膝を突き、両の掌を上向けニトロへ――敵意も隠す心もないと――差し出し、深々と頭を垂れた。そして声を出そうとして一度失敗し、そこであまりの緊張に喉を動かせないでいる自分を情けなく思うと同時に叱咤し、今度こそ声を絞り出す。
「この度の主人の狼藉、心よりお詫び申し上げます」
アデムメデスにおいて最上級の……いや、最低級の礼と言うべきか。強い屈辱を伴う『屈服の伏礼』をする貴族の女性は、突然の、それも初めて受ける伏礼に動揺するニトロへ向けて、ようやく声に出せた思いを爆発させ、さらにほとんど金切り声で続けた。
「その上で、失礼ながら……浅ましく卑怯ながら――! ニトロ・ポルカト様にお聞き届け願いたい儀があり、こうして恥知らずにも御前に参上仕りました!」
金切り声は涙に濡れている。またその声は恐怖に慄いてもいる。そこにはニトロに対する数々の無礼――また突如『屈服の伏礼』をする非礼への謝意も含まれているであろう。しかし何より、それでも頭を下げずにはいられないのであろう必死さに彼女は震えている。
「どうか! どうかお聞き届けを!」
曲がりなりにも一国の王女の元執事が、恥も外聞もなく懇願している。
ニトロは芍薬を一瞥した。芍薬は何の反応も見せない。全てをこちらへ一任している。
「……」
ニトロは惑った。
女性が――立派な大人がこうして頭を下げる姿に対する不快感を感じる。頭を下げればいいもんじゃない――そういう憤りも浮かぶ。とはいえ、彼女は自身の行為に対して既に『浅ましく卑怯』と告白している。それを理解しながらも彼女はそうしている。――『それでも頭を下げずにはいられないのであろう必死さ』――彼女の願いに、ニトロは関心を持った。
そして関心を持つと同時に、彼の胸はさんざめいてもいた。
悪い予感があった。
彼女は第二王位継承者の懇願の真意を携えてきているという予感。聞けば必ず頭を抱えるだろうという悪い予感。
されど第二王位継承者の懇願の真意を、今、聞かねばならない。そして聞かなければあの怪物の真意に遅れを取るだろう――悪い予感の裏ではそうも思えた。
きっと、ハラキリも同じことを感じたのではないだろうか。
「……」
ニトロは、その場に座った。セイラにそんな恥ずかしい真似をやめさせようという思いがあり、やめさせねばならないという価値観も動いているが、彼女は聞くまい。それならおおよそ同じ高さに頭を下ろし、
「聞き届けるかどうかは、話を聞いた後で決めます。それでも構いませんか?」
「はい」
セイラは頭を下げたまま、返事をする。
ニトロはうなずき、
「話を」
「はい」
セイラは息を飲むように少しの間を空け、意を決したように叫んだ。
「どうか、どうかミリュウ様をお止めください。あの方は死を覚悟しているのです!」
ニトロは困惑した。
「……彼女が命を懸けてきているのは知っています」
困惑したまま、ニトロは問うた。するとセイラは激しく否定した。
「いいえ、いいえ、違うのですニトロ様! ミリュウ様は……命を懸けているのではありません! 命を捨てているのです! ただ、死ぬおつもりなのです!」
ニトロは息を飲んだ。
セイラの証言は、あらゆる意味で彼の予想を裏切るものであった。
「死ぬ、つもり?」
思わずつぶやく。
「はい、そうです、その通りです!」
セイラは激しく肯定する。
ニトロは口を閉ざした。頭の中がぐらぐらと揺れている。これまで自分は――彼女はどういうつもりなのか、どんな動機のためにこんなことを仕出かしたのか――それを、全て彼女の将来に繋がる形で考えていた。彼女は、つまり、彼女の未来をどういう形にしたいがためにこんなことをしているのかと。
例えばついさっきの『止めてほしい』という説もそうだ。
考え続けてきた過去の説に遡ってみても、ティディアと俺が結婚する未来が嫌だから、あるいは女神が悪魔に侵食され弱ることを見過ごせないから、さらには小姑の嫉妬も、姉が大好きな妹の単なる嫌がらせも、『伝説のティディア・マニア』の反抗も……それらは全て、彼女が認めたくない未来を否定し、彼女の認める未来を構築するための手段として考えていた。それがどんなに危険で、どんなに卑劣で、どんなに醜い手段だとしても、その先には彼女が一定の『未来を求めている』前提があった。
実際、ミリュウと直接対決した時にも、彼女は言った。
――『お前を絶対に認めない』『お前をお姉様から引き離す』『とても憎んでいる。いっそ殺してしまいたいんじゃない。どうしても消し去りたいくらいに』……それらを成し遂げるためには、彼女は生きていなければならないではないか。もちろん『認めたくない未来』から逃げる――というのなら自殺も一つの手段となろう。だが、それで姉からどうして俺を引き離せる? どうしても消し去りたいと言いながら、自分が消えてどうするのだ? あるいは自分が消えることで逆説的に彼女の意識の中から『ニトロ・ポルカト』を消し去れるとでも言うのだろうか。馬鹿な! それこそティディアなんか関係ない。それこそ全くもって究極的な自己満足に過ぎないではないか。
だが、ニトロは、理性と理屈ではセイラの証言を飲み込めずとも、感情と直感では飲み込めるところもあった。
瞼に浮かぶのは、あの王女の笑顔。
死臭のする微笑み。
あの死の臭いはこちらへの死を呼ぶものではなく、己へ死を呼び込むものであった――そう思えてならず、また彼女が瞳の奥に抱えていた恐怖! それが、覚悟している死への感情だと思えば、彼女の矛盾していたものの幾つかが歪ながらも正常な動きとして理解できる。
しかし……しかし! 一方で、あの恐怖は彼女の『彼女を死に追い立てるもの』への感情だと考えれば、彼女は絶対に生きたいはずだ、生きたいからこそ恐怖しているはずだ!……そうであるならば、やはり理解できない。
解らない、解るようで解らない――彼女は一体、
「何故?」
もう何度繰り返したか解らない疑念が、ニトロの口を突く。
「解りません。私にも、解りません」
セイラが応える。
ニトロは失望した。セイラが……十年来の付き合いのある人間がわからないものが、一体どうして俺に解るものか?
「ですがミリュウ様は仰っていました。『これでわたしはあのニトロ・ポルカトに勝てる』と」
それを聞き、ニトロは思わず嘲笑を浮かべた。それは自分でもミリュウを嘲っているのか、それともセイラを嘲っているのか、そうではなく無理解な自分こそを嘲っているのか解らない……言うなれば、諦観がこの件の全てを嘲り出したかのような笑みであった。
「俺に勝てる? 死ぬことで? ルッド・ヒューラン様、今からでも遅くないから主人にカウンセラーを紹介するといいよ」
ため息混じりにニトロは言った。皮肉、誹謗、忠告――そのどのつもりで言ったのか自分でも解らない。だが、もはや妄言としか思えないことを言う理解不能な人間に付き合いたくない……そういう思いが彼を支配し始めていた。
そして、その感情は彼の声を聞くセイラにも伝わった。彼女は最後の希望が遠く離れようとしていることに気づき、慌てて顔を上げ、驚いた。ニトロの顔は予想よりもずっと下にあった。どうして彼がそうしているのか、その意図がすぐに解る。彼は、こんなにも不誠実な私を相手に、誠実にも頭の高さを合わせようとしてくれていたのだ。対等の位置で話せるように。それを理解するや、セイラの胸は恥ずかしさで一杯になった。主人と同い年の、私より八年も後に生まれた少年の、ふいに目の前に現れたその誠実さが彼女の心を縮こまらせる。
(……そうなのですね)
この体験は、セイラにミリュウへの共感を生んだ。そして生まれた共感が、少しだけ、彼女に主人の苦悩を知らせる。
ニトロ・ポルカトについての資料はセイラも穴の開くほどに読み込んでいた。そして彼女は、『ニトロ・ポルカト』はミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナと“同類”だと思っていた。善人、努力家で、真面目。一般的に評価されるような特別秀でた才能はなく、おおよそ凡人と呼ばれる範囲に属し、されど研鑽によって自らを底上げし、あるいはティディアのような才人にも追いつこうとする優等生――尊敬できる人種であり、事実、尊敬する人間。
だが、もし? と思う。もし、彼がミリュウ様とは全く相容れない存在だったなら。例えば、もし、初めからティディア様にも並ぶ才人であったなら。
もしそうであったのならば、ミリュウ様はきっと苦しむことはなかっただろう。
嫉妬、羨望――それにより“自分と同じ”人間を疎ましく思うこともなく、またそう思ってしまう己を嫌悪することもなく、彼女が本来善人であるが故に、己の悪感情の全てに苦しむこともなかっただろう。『勝てる』などと自分の優位を欲することもなく……ひょっとしたら彼を誇らしい義兄として慕っていたかもしれない。
「……もう……遅いのです」
ニトロが座しているからには立つことはできず、立て膝のまま、ふとつぶやくようにセイラは言った。
先までの懇願の気配が消え、どこか晴れ晴れとしたところさえあるセイラの声に、ニトロは怪訝に眉を寄せた。
「『もう間に合わない。とっくの昔に、もう、間に合わなくなっていた』――ミリュウ様は、そうも仰っていました」
「……とっくの昔に?」
「きっと、大きなきっかけがあるはずですが……しかし、それ以前に、貴方様が『ニトロ・ポルカト』であり、あの方が『ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ』であった――その時点でもう間に合わなくなっていたのかもしれません」
「つまり……初めから衝突不可避だったと?」
「あるいは」
セイラは哀しくうなずく。一つ、長い吐息を挟み、
「ミリュウ様は、ニトロ様に対し、大変好意的でした」
「……ええ、聞きました。本人からも。本当に『祝福していた』って」
「ですが、いつしか変わってきていました。はっきりと私がそれを知ったのは、ドロシーズサークルの一件です。もう、あの件がミリュウ様の手によるものであったと、ご存知でしょうか?」
「知っています。ヴィタさんから聞きました」
ヴィタ――その名が出た時、セイラの目に小さな“弱気”が見えた。劣等感……だろうか。
「どうかしましたか?」
「いえ……」
セイラは目を伏せ、それから彼に対しては何もかも曝け出していこうと――そうしなければ彼の信頼は決して得られないと、思い直して顔を上げた。
「私が、ヴィタ様のようであれば、主人をお救いできたのでは――と」
後悔と自責と、無念。セイラは涙ぐんでおらず、またその声も懇願の時とは違い震えてはいない。存外に力強さも感じ、それだけに、ニトロは彼女の思いの強さを知った気がした。
この女執事は、十年来の付き合いのある主人に対し、きっと誰が思うよりもひどい責任を感じているのだろう。だが、その責任の果たし方が解らず、また解ったところで果たすことのできない力不足も理解し――希代の王女と息の合った
セイラは一つ息をつく。嘆息ではないが、限りなく嘆きに近い吐息を。
「この地、スライレンドでの出来事も、ミリュウ様はお気になさっていました。ニトロ様が巻き込まれた事件の後にティディア様が見せたご様子を、ミリュウ様は不思議と特に気になされていました。今思えば、ニトロ様とティディア様が並び開かれた事件に関する会見を見ていた際のミリュウ様のお顔は……あれは怯えたお顔だったのかもしれません」
彼女は、過去を語る。
「ティディア様が生涯初のお風邪をお召しあそばされた時にも、ミリュウ様はひどく驚かれていました。それを私は、ただ、生涯初のお風邪をお召しあそばれたお姉様をひどく心配されているだけだと思っていました」
セイラの声の裏に、激しい悔恨が滲む。
「ミリュウ様は本当にティディア様を愛しておられます。その愛するお方が体調を崩されたのですから、心配しないはずがありません。実際、心配されていました。ですが、今思えば、ミリュウ様はティディア様にお風邪をお召しあそばせた存在に驚かれていたのかもしれません」
ニトロは、セイラの証言が、心に重くのしかかってくるのを知っていた。彼女は『確かなきっかけ』を語ってくれている。それは、間違いなく――ミリュウの痛烈な罵倒が耳に蘇る――ティディアが俺を愛してきた道程に違いない。
あのバカが、俺を……本当に……遡る時間が質量となって心に沈む。心に沈んだ錘はミリュウが――神を奪われた者が『神』を奪われていく過程をも目撃していたのだということを知覚させる。
「私は……私は、薄々気づいてはいたのです。ミリュウ様の変化を。しかしミリュウ様はそれでもずっとニトロ様とティディア様を祝福し続けていた。――私は! ミリュウ様の葛藤の深さを知ることもなく、その間ずっと……ただ、それは、単なる姉を慕う妹の嫉妬心だとばかりに思い込み、無礼ながら可愛らしいことだと、軽々しくも微笑ましく受け止めていたのです」
ニトロは思う。
もしかしたら、ミリュウも、初めはセイラと同じように思っていたのではないか? 姉の変化には薄々気づいていた。しかしそれをただの嫉妬だと思った。大好きなお姉様が男に奪われてしまったことへの嫉妬だと。
……ティディアが恋人の存在を示したことは『ニトロ・ポルカト』が初めてではない。
最長でも一週間で破局確定、と、長続きした者がないために全ては謎に包まれているが――ハラキリが言うには「これまでの浮名の全ては、ああやって人の気を引いて、邪魔を消すための煙幕だったと踏んでますがねぇ。まず九割は実態無しですし」――実際ティディアとのキスシーンをパパラッチされた大貴族の息子はその後にティディアに手酷く振られ、その過程で過去のゴシップをほじくり返されて父親ごと息の根を止められた――とはいえ、『恋人自体』は初めてではないのだ。幾度目かの話を受けて、あの優等生のことだ、また嫉妬だ……と、そう考えてしまう可能性は非常に高い。そして一度そう思えば、そのような自己を“悪い子だ”と抑え込んでしまうだろう。そうして真実に気づいた時にはもう遅い。明確にティディアが変化したのは――ミリュウは言っていた『そうね、お前の言う通り、お前のことを当初は道具として愛していたでしょう』――“当初”は!――だから初めは絶対に違ったはずだ。初めはティディアは俺を道具としてアイシテイタに違いない。『だけど、違う』ミリュウはやがて気づいた。風邪の時か? スライレンドか? 明確な時期は解らない。けれど『今はもう違う』――“彼女”がそう確信した時には、もう遅かった。ミリュウは言っていた『あなたはわたしと同じ』だと。それは、きっと二人共に同じくティディアに道具としてアイサレテイタということも意味しているのだろう。だけど同じであったはずのもう一人はいつの間にか違ってしまった。それと同時に、彼女の世界の
となれば、全ての発端がここに明確となる。
ニトロは苦々しく頬を固めた。
(結局、やっぱり、当たり前のように――お前が全ての元凶じゃないか)
ティディア!
ミリュウの実姉にして、教師であり、親でもあり、女神でもあり……そして、あいつ自身の言葉を借り、ヴィタとハラキリの言い回しも借りるなら『俺達』に『呪い』をかけた張本人。
だとしたら、現在アデムメデスという器の中で行われているのは、蠱惑の美女の呪いを浴びた二匹が互いの生存を賭けて争っているようなものだ。
――あいつのことだ。張本人のことだ。ミリュウ姫を道具として育て上げてきた女神様のことだ。この騒動の本質は絶対に解っていたはずだ。きっと『呪い』の解き方も知っていることだろう。だが、あいつは、ふざけたことに何もかもに関わることを放棄し、俺に全てを丸投げして文字通り成層圏越えの高みの見物ときている。呪われたもう一方が――
(ああ、そうか)
ニトロは気づいた。
その、意味。
死することで、勝てるという意味……。
ミリュウの狙いがここにあるのかどうか……いいや、それが狙いの全てではなくとも大部分は占めているだろう。
ミリュウが『自殺』すれば、その死は、間違いなく『ニトロ・ポルカト』の心にこびりつく。きっと自分は彼女の――それがどんなに身勝手な死であろうと、彼女がその“遺書”に『ニトロ・ポルカトの存在のため』と書くことがどんなに理不尽なことであろうと、自分は彼女の死に重みを感じてしまう。何故なら、俺は、そうだ、それを止めることをミリュウにも許された唯一の人間であるために!
そうしてミリュウの自死が成し遂げられた暁には、俺一人に『ティディアの呪い』が集中し、さらには『ミリュウの怨念』が肩に圧しかかるだろう。さすれば、例え時間はかかっても、『ニトロ・ポルカトを消し去りたい』……ミリュウ姫の認識する『ニトロ・ポルカト』は、彼女の念願の通りに“ミリュウの認識する世界”から退場することを余儀なくされるだろう。元より“自分の置かれている世界”から退場することを念願としている『俺』が、望まぬ形で退場することを強いられるだろう。
……ああ、何ということか。
どうしても解らなかった彼女の本当の目的。
ティディアと別れたいニトロ・ポルカトに協力しないと言いながら、ニトロ・ポルカトを姉から引き離すと言っていたミリュウ姫。あの矛盾極まりないと思っていた彼女の『思考』が、彼女の究極的な自己満足の中でここに矛盾なく成立した!
――<<トンデモナイ手段ダネ>>
芍薬の声がニトロの鼓膜をか細く震わせる。ニトロの内心に戦闘服を通じて触れていた芍薬も、マスターと同じく戦慄していた。
ニトロは芍薬に内心のうなずきを返しつつ、それでもまだ解せない大きな疑問と、新たな大きな疑問を胸に抱いていた。
前者は、彼女の『お姉様のため』はどこにあるのかという疑問。元より存在しなかったのか? それとも、思わぬ形で入り込んでいるのだろうか。
そして後者は……しかし“この事実”は……事実としたらだが、その半面に思わぬことを示している。やはり、ハラキリが正解だったのだろうか? 歪な姉妹喧嘩――ミリュウが、ティディアの呪いに対して少しでも“耐えられない”と思っていなければ、それをこちらに押しつけようなどという“反抗”は起こらないはずだ――ということ。
「……ミリュウ様は、きっと、『事故死』を装うのだと思います。あのチョーカーの爆発によって」
やおらセイラが、嘆息と共に言う。
「ニトロ様が例え『試練』をクリアする条件を満たしたとしても、あの『聖痕』を消したとしても、それだけは必ず実行されるでしょう」
「爆発は、止められない?」
「はい。そしてその事故の原因はパトネト様の設計にミリュウ様が勝手に手を加えたこと――“調査”はそう締めくくられるはずです。あるいは貴方様との戦いで殺されるつもりなのかもしれません。その場合にも、おそらく、ミリュウ様の過失が認められることでしょう」
ニトロは訝しんだ。
「何でそこまで……『事故死』にすると解るんです?」
「『自殺』ではティディア様の恥となってしまうからです。それはありえません。それを避けるために――」
そこまで言って、そこまで言ったことでセイラは何か悟ったことがあったようだ。そして少し愕然とした様子で宙を見つめ、視線を泳がせるように目を伏せ、言う。
「……ミリュウ様は、もうこれ以上、王女であることに耐えられなかったのかもしれません」
ニトロは思わず身を乗り出した。
「どういうことです?」
セイラはニトロの視線から逃れるようにうつむいた。そこには逡巡がある。おそらく彼女は、それがミリュウへの悪口になりかねないことを知っている。――が、
「ミリュウ様は『王女』に向いていません」
目をきつく閉じ、懸命にセイラは吐き出した。
「本来の性格は、王女という重責に耐えられないほど繊細で、また、お人好しです。ニトロ様、ミリュウ様ご自身が仰っていた通りです。人徳は、一方で時に為政者に最も相応しくないものとなる、それはミリュウ様にこそ言えることなのです。ミリュウ様はティディア様には似ていない、ご両親に似ています。争いを好まず、争いにあっては腰が引けてしまう。人を傷つけることを好まず、できうることなら皆で幸せになりたい。素晴らしい優しさを持つ方です」
「でも、西大陸ではとても立派だった」
セイラがニトロを見、その瞳が輝く。主人を褒められたことがそんなにも嬉しいのか。だが、それもすぐに沈み、
「はい、その通りです、ご立派でした、しかし、あれは、ティディア様の妹だからこそ成し遂げられたのです。お姉様のため。お姉様の妹として相応しい王女でなければならない。それがミリュウ様の第一のお心です。そう思い、そのために努力し、そうしてあの立派なお姿を見せてくださいました。
全てはお姉様のためなのです。……そうでなければ、ミリュウ様はとっくの昔に王女の地位から逃げ出したがっていたかもしれません」
「でも、それは許されない」
ニトロはその刹那、次の言葉を吐こうとしながら、これを言うことは果たして“正義”なのだろうかと疑問に思った。今の自分がこれを言うのは、ある意味でとても身勝手で、またある意味で自分の首を絞めることなのでは? と。しかし止められない。これは、何故なら、事実であり現実なのだから。
「彼女は、王女です」
「そうです!」
セイラは叫んだ。
「ミリュウ様は王女です。けしてそのお立場から逃れることはできません。逃れることが許されるとしても、自ら志願してやめることはなりません。よほどの事情があるなら認められましょう。ですが、向いていないから、やりたくないからでは通じません。何故ならそのような前例はなく、また先駆けとなるにも多くの者と争わなければならない。争いを好まぬミリュウ様が、自己の満足を押し通すためにその争いに勝てることはなかったでしょう。そして、いずれ、ミリュウ様のお心は壊れていったことでしょう」
そうしてその先には、彼女の破滅的な未来がある。例えば酒や男や薬物に溺れる? いや、真面目な彼女はそれをし得ない。ならば『希望』として残るのは――
「…………自殺することは、家族の恥になるのかな。まして、罪に?」
ニトロの言葉を、セイラは微笑んで受け止めた。
少年の言葉を、貴方の優しい疑問は正しいと肯定しながら、彼女はそれでも否定する。首を左右に振り、哀しげに言う。
「そう見る向きは、世間には顕然として存在します」
「でも」
「例えば、ニトロ様。トレーニングの過程で生徒に死者が出た時、その時、果たしてトレーナーに責任を問う声がないと思われますか?」
ニトロは口をつぐんだ。
ミリュウの師は、ティディアだ。
過去に薫陶を受け、現在も進行形で寵愛を受けるティディアの一番の生徒だ。
「子の自殺の予兆に気がつけなかった親を、責めない者は果たして皆無でしょうか」
ミリュウの実の両親は現王と王妃だ。
けれど、実質的な“両親”は、ティディアだ。
「ミリュウ様の抱くティディア様のイメージは、女神です。神です。そこに傷をつけてはならない、特に自らが傷をつけることは決してならない……そう思われるのは当然のことです。そしてそれが『事故死』ならば、むしろティディア様に悲劇性を与えることのできる最善の手でもあるでしょう」
ニトロは背筋に寒いものを感じた。
それは、死ぬ対象が違うとはいえ、こちらが考えた筋書きとも合致する。
ニトロの中の疑問が、一つ消える。『お姉様のため』――あくまで、お姉様のため。自分の命、自分の死の意味すらも。
「……二つ、聞いてもいいですか?」
「なんなりと」
ニトロの問いに、セイラは居住まいを正した。
「ミリュウは……ミリュウ姫は、そのお姉様を疎ましく思っている――そんなことはありませんか?」
「あり得ません」
セイラは即答し、答え切ったところで口を引き結んだ。
「……いいえ」
と、彼女は重々しく、うめく。
「もしかしたら、ミリュウ様が――もう王女であることに耐えられないと、そう思われたとしたならば」
「ティディアの期待が重荷になった?」
「…………いいえ、重荷と思う間もなく、それに潰されてしまったのかもしれません」
セイラの言葉には含みがある。ニトロはそれを敏感に感じ取っていた。彼女がこちらに向ける瞳の中に――彼女はそれを言うのは非礼だと思ったのだろう――しかし隠し切れない『考え』がある。
――ニトロ・ポルカトの存在が、それまで彼女を支えていたものを折ってしまった。
むしろそう思わないほうが無理というものだろう!
何しろ、ニトロも、きっとそうなのだろうと思うのだから。それも今だけではない。彼女の最後の演説を聞いていた時にも、それは、もしやそうだからなのか? と、思ったことなのだ。そしてその時、自分は、そうであれば納得はできずとも恨む筋は理解できると……彼女に同情していたのだ。
(そういえばマードール殿下も、あの姉の下でよくやっていたって言ってたっけ)
それは裏を返せば、マードールはミリュウがやっていけると評価していなかったということだ。何から何までティディアの言いなりで、そうしてようやく『よくやっていけていた』王女を。
だとしたら、巨人の眼にあった『恐怖』――ミリュウの目にもあったあの恐怖は、ひょっとしたら心折れながらもまだ王女である己に対するものであったのかもしれない。心折れながらも、そして王女であることに恐怖しながらも立派に王女の務めを果たしていたのに――ニトロは思い出す。思い出そうとせずとも思い出される。ミリュウが最も感情を露とし、最も心を乱した場面を。『ニトロ・ポルカトは姉を愛していない』――その事実を突きつけられた彼女の怒りを。今となっては彼女の怒りの激しさも当たり前だと思う。愛する姉を侮辱された、だけではない。姉が人を愛したことで様々なものを奪われたと思っている人間に、その愛を受ける当事者が逆に「嫌いだ、愛していない」と平然と言い放てば激昂もするだろう。「なんてこと……なんてこと……」そうだ、本当に、何てことだ。
人の心は多くの矛盾を抱えながらもそれらを両立させることができる。
しかし、多くの矛盾が生み出す軋轢は、苦しみを生む。矛盾を両立させるために必要な捩れは、痛みを生む。
自分も含め、ヴィタやマードール、ハラキリや
そして彼女の中にあった苦痛と苦悩は、苦痛と苦悩に耐えてきた彼女に対して“現実”が裏切りを見せたことで、彼女の心ではついに抑えきれないものに深化した。
そうして産み出されたのが……破滅神徒。
そういうことなのだろう。
――だが!
「もう一つ」
ニトロは、セイラに訊ねた。
女神像を倒した後に見たミリュウは、幽鬼のようであった。
けれど王城の別れ際に――この流れで言えば“トドメ”を刺された瞬間であるはずの彼女の顔には、まだ生気があった。『お姉様のため』――その妄執が彼女をあの時も、今でさえも支えているのは間違いないだろう。しかし、それだけではないはずだ。
ルッドランティー。
ティディアに占められたミリュウの中にあった、たった一つの異物。
「あなたは、何をしていたのですか? 何をしているのですか?」
ニトロの声には滲む怒りがある。
セイラは彼の怒りはもっともな感情だと目を落とした。
「そこまでミリュウ姫のことを理解し、想いながら、何を」
「いいえ、理解していませんでした。私は全てが手遅れになってからようやく理解できたのです。ここで貴方様に気づかされたことすらあるほどに、私は理解していなかった」
恥を忍びながら、さらに恥を上塗りするように――それが罰だとでも言うように――セイラは言った。
「私はミリュウ様を愛しています。主人としてではなく、家族として。この想いはティディア様にも負けません。しかし、私は――優秀ではない。妹を諌めることもできぬ駄目な姉で、主人が間違った道に進んでいることにも気づかぬ愚かな従者です。ですが、きっと……だから私はティディア様に選ばれた」
過去、何故私を選ばれたのかという問いに対し、美しい姉姫は言った――『ミリュウには、貴女くらいの人間が良いのよ』――貴女くらいの。今ならその言葉に含まれていた真の意味が解る、今になってようやく判る――そしてそれは、図らずもティディアの言葉が正しかったことをとてもとても強く証明する!
「私はヴィタ様のような執事でありたかった。けれど、もしそうであったなら、私もミリュウ様を追いつめていたのでしょう」
セイラの顔は泣き顔であった。涙を流さぬまま、彼女は泣いていた。
「ミリュウ様は今回の件にあたり私に命じました。『傍にいるように』と。それしか命じてくださいませんでした。――ニトロ様! 告白します。私は、貴方様を私の手で殺すことも提案しました。私なら、貴方様を油断させ、刃にかけられると!」
ニトロは黙ってセイラを見つめていた。責めず、怒りもなく、呆れもなく、ただ純粋に彼女の言葉を受け止めていた。それが彼女の涙を誘った。血を吐くような思いを『敵』に赦され、彼女の双眸から涙がぽろぽろとこぼれた。
「ミリュウ様は、それでも私に傍にいることだけを命じたのです」
「そして、それがあなたにしかできないことだった」
セイラは手で顔を覆い、何度もうなずいた。
ニトロは黙し、しばらく考え……心を鬼とし、責めた。
「それなのに、どうしてここに? あなたが、あなただけが、ミリュウ姫の最後の支えだったはずなのに」
「わたしわミリュウ様に生ぐてぃで欲しいのです!」
セイラは叫んだ。一瞬、そこには彼女の故郷のものであろう訛りが現れていた。それは彼女の嘘偽りない悲鳴であった。彼女は一度息を飲み、震えながら言う。
「ミリュウ様からすれば余計なことでありましょう。あれほど嬉々として『死』に臨んでいるのです。それを邪魔されたくはないでしょう。解っています、私の自己満足です。しかし私はミリュウ様に死なれたくない。あの方はまだ17です。貴方様と同じ、まだそれだけしか生きていない。まだまだ多くのことができるのです、多くのことを知れるのです、多くの喜びも味わえるのです! それなのに、あの方の世界の全てはあまりに狭く終わろうとしている! 世界はあの方を包んで余りあるほど広いのに! 本当の空の広さも知らずに死なれるのはあまりに哀れでなりません! もしかしたら私は、ミリュウ様に死ぬよりつらい余生を与えようとしているのかもしれません。もしかしたらミリュウ様は本当に壊れてしまうかもしれません。だとしても、私はミリュウ様のお世話をしたい。療養のためならばせめて王位継承権保持者の座からは退けましょう。そうして私の故郷の山で、静かに暮らさせて差し上げたい……我が儘にも、そう思うのです」
セイラは泣きながら、涙と鼻水で顔を汚しながら、ニトロに笑いかけた。
「あの方はお笑いになると、本当にかわいらしいのですよ?」
ニトロは何も言わず……何も言えず、セイラの震える声を聞いていた。
「ですが、私にはミリュウ様を救えません。今はパトネト様がミリュウ様を支えてくださっていますが、パトネト様でも無理でしょう。ティディア様も……今となってはミリュウ様にとって雷を下すだけの鬼神となりましょう。
ニトロ様。
貴方様だけなのです。『悪魔』しかあの方を救えない。人の心を惑わす悪魔しか……人の心を惑わし、価値観を変えられる悪魔しか……心を変えさせられる悪魔しか――ニトロ・ポルカトしかいないのです」
「難題ですね」
ニトロの脳裏にハラキリの示した道が蘇る。『神を奪われ怒れる者を、その神から解き放て』――それをティディアが望んでいる。形は微妙に違ったが、どうやら難易度としては変わらぬ道。
本当に、なんという『試練』だ。
「正直、そこまで言われても、どうすればミリュウ姫を助けられるのか……俺には見当がつきません」
セイラの顔に一瞬失望がよぎり、それがすぐに諦めと変わる。その諦めはニトロに託そうという希望に対するものではなく、ニトロの答えを否定し彼を説得することへの諦めだった。彼女自身『どうすれば?』――それを解らないでいるのだ。それなのに、それ以上の要求を突きつけることは非道である。彼女の顔色の変化は、そう語っていた。
ニトロは深く息をついた。
「芍薬、シチューは残ってる?」
「残ッテルヨ」
立ち上がるニトロを、セイラが化粧も完全に崩れた顔で見上げる。
芍薬がやってきて、彼女にハンカチを渡す。
受け取ったハンカチをぼんやりと眺めた後、セイラはニトロに目を戻した。
「芍薬のシチューは美味しいんです」
微笑むニトロへ、セイラはぼんやりとうなずく。
「その様子だと晩の食事はとっていないでしょう? でしたらそれを食べて、少しでも心を落ち着けて、そうしたらお帰りください。あなたの頼みを聞き届けるとは言えません。ですが、想いは十分に分かりました」
芍薬に手を取られ、セイラも立ち上がる。膝に力が入らないのであろうか、その様子はよろよろとしていた。
「ひとまずここで言えることは、あなたのお陰で少しの迷いも残さず晴れた――俺は、ミリュウ姫を徹底的に叩き潰します。それを今、心に決めました。その結果、彼女を救えるのかどうかは分かりませんが、少なくとも真正面から全力で相手をします」
セイラはニトロの意志を理解した。
彼は、身勝手な自分の――そして身勝手な主人の想いを軽んじないと言ってくれている。
期待しても良いのなら――主人の死への意志も、叩き潰せるなら叩き潰してみようと。
「申し訳ありませんが、それでよろしいですか?」
セイラは、背筋を伸ばし、真摯な瞳を向ける『悪魔』へ深々と頭を垂れた。
「よろしくお願いいたします。全力で、徹底的に叩き潰して差し上げてください」
ハラキリへ連絡を入れ、セイラをピピンに連れて行ってもらった後――
ニトロは戦闘服を脱いでベッドに腰掛け、ぼんやりと天井を見上げていた。
傍らにはピピンが運んできてくれたケースがある。芍薬のキモノの替えと、これから地下のトレーニングルームで使う必要なデータ等。
――ニトロの目には、セイラの眼差しが残っていた。
ミリュウ姫の元執事は別れ際、互いに交わす言葉ももはやなく、ただ、彼女は謝意の深さをそのまま表すかのように深く頭を下げ、その姿勢のままピピンと共に姿を消した。
ニトロの目に焼きついたのは、セイラが頭を下げる直前に垣間見えた瞳だった。
何か胸に迫るものがあったらしく芍薬のクリームシチューを食べている最中にぽろぽろと涙を落とし、泣きながら食べ、そして先の涙もあって完全に泣き腫れた彼女の眼には、まず迷惑をかけ続けている少年への謝罪の気持ちがあり、感謝があり、その下に、どうしようもないほどの希望があった。
彼女はそれを言葉にするつもりは微塵もなかったはずだし、もしかしたらその気持ちがあることにも気づいていないのかもしれない。
ニトロ・ポルカトなら、きっと大切な『妹』を救ってくれる――いいや、救える。
(希望……か)
ニトロは思う。
それにしても、国の未来に人の未来、挙句の果てには『敵』の未来まで……いつの間にか自分の肩には色々なものが圧し掛かり、またしがみついてくるようになっていたものだ。
(そんなに大きな肩じゃないと思うんだけどな)
今、その肩には芍薬の手が触れている。
骨や筋肉に異常はないか、『決闘』に向けて万全を期すために精密に調べてくれている。
ニトロは思う。今の自分に、この大切な家族と親友がいてくれなかったら――そう考えるだけでとても恐ろしくなる。もし今に至るまで二人と、特に四六時中支えてくれている芍薬と厚い絆を結べていなかったらと思うと……
「もしかしたらミリュウ姫は、ありえたかもしれない未来、なのかもな……」
「主様ノ?」
肩から腕に検査を移しながら、芍薬が促す。ニトロはうなずき、
「ほら、覚えてる? 芍薬が俺のA.I.としてやってきてくれた日、俺は精神的に追いつめられてノイローゼ寸前だった」
少しおどけるように洒落めかせるニトロの声を聞き、しかし、芍薬は調子を合わせず平静に返した。
「ソノ原因トハ、話ガチョット違ウンジャナイカイ?」
「ん、まあね。だけど、ノイローゼになってたら俺は絶対にティディアに『コントロール』されて、うまいこと夫にされてたと思うんだ。気が完全に弱っているから抵抗力もないしね。もしかしたら、身も心もティディアに溺れさせられて、いずれはあいつに愛されることこそ喜びとして感じるようになるように操られてたんじゃないかな。例えばノイローゼになったのは“ティディアのせい”じゃなく“ティディアの愛を受け入れないせい”だからだって思わされてさ……そうして俺は思うんだ『なんだ、悪いのは自分じゃないか、それなら悪い自分を悔い改めよう』。そして実際に改めてみたら――俺の認識はその時大転倒するから、結果的に精神的な苦悩から“本当に”解放されたと思うようになる。自らティディアの『愛』を受け入れるからには、当然、あいつが愛してくれることを幸せに感じる。そうなれば間違いなく苦悩から解放してくださったティディア様に感謝もしていたはずだよ。感謝して……恩義に応えるためにも愛する彼女の期待に応えることを決意するんだ。女神にも匹敵する王女の愛を独占的に授かる光栄に心を奮わせ、張り切ってツッコミもしまくっただろうね」
「ソリャホトンド洗脳ダネェ。ソレトモ『愛』ッテイウ名前ノ薬漬ケニシテ、ッテヤツカナ」
愛、故の幸福は麻酔、愛、故の慰みは麻薬――文化史に必ず出てくる大昔の詩人の言葉を意識した芍薬のセリフに、ニトロは笑った。その言葉が含められた一編のタイトルこそ、
「うん。まさに『悪魔』だよ」
「違イナイ」
ニトロの肘を調べながら、芍薬はマスターが自分の期待した通りの応えをくれたことに喉を鳴らして笑う。ニトロも笑み、すぐに笑みを消し、
「そしてその後、悪魔に唆された俺は……ティディアは折角手に入れた『ツッコミ役』っていう道具がパフォーマンスを落とさないようにメンテナンスをしたはずだから、“王”になってからもうまいこと『王の責任』から意識をそらされ続けていたかもしれないけどさ……だけど、ふと俺がそのことに気がついちゃったら――」
「主様ハ、キット気ヅイタロウネ」
ニトロの手を調べながら、芍薬は確信的に言う。ニトロは少し苦笑し、“その時”の自分の心には二本の強力な支柱が絶対に無いことを想像し、
「うん。で、きっと重責に耐えられなくて潰れたと思う。そして潰れた道具は使い物にならなくなって、傍若無人なティディア姫に無慈悲にゴミ箱に捨てられたよ。その後はどうなるものか、解ったもんじゃないや」
今のティディアがどうかはともかく『自分の知るティディア』は間違いなくそうしていたはずだ。ある程度の“失業保険”はあっても、以降、使えない道具には見向きもしない。身も心も王女様に奪われきった男は、叶わぬ想いに身を焦がし、さて?
と、確信的に言うマスターの言葉を聞いていた芍薬は、ふいにため息をつくように笑った。
「ヤッパリ、主様ハ“オ人好シ”ダネ」
「?――……」
ニトロは芍薬が何を思ってそう言ったのかに気づき、空笑みを刻んだ。
「そうかもね」
「
「……うん、そうだね」
両腕を調べ終えた芍薬の手が背に触れる。背部と腰部を調べ、じんわりと温かな手は数時間前には肋骨にヒビが入り酷い内出血もあった脇腹へと滑っていく。
「聞ク耳スラ持タナクテ良イノニ」
ぽつりとこぼすように、芍薬は言った。
「……その方がやっぱり普通かな」
「カモネ」
「…………その方が良かったかな」
脇腹の傷は完治している。ニトロの体内に打ち込まれている薬剤と、芍薬の体にある治療装置の賜物であった。
芍薬は、いつの間にか広くなったマスターの背中を見つめ、もしかしたらこの人は――王とならずとも――ここに今よりももっと色々な物を負うことになるのかもしれないと思いながら、言った。
「“ソノ方”ジャナイノガ主様ラシクテあたしハ良イト思ウナ」
「――ありがとう」
ニトロが笑っているのが背後からでも分かる。芍薬も笑顔となり、そしてふと笑みを消し、
「……デモ、複雑ダネ」
「うん。こうなるとさすがに複雑だよ」
「違ウヨ?」
「ん?」
「ミリュウ姫ニ対シテジャナク――主様ノコトダヨ」
ニトロは身をよじり、肩越しに振り返った。
芍薬は、驚くほど真剣な眼をしていた。
「アノバカノコトサ」
「――ああ」
と、ニトロはうなずき、苦笑しながら前に向き直った。
「元凶はあいつだって、絶対確実なんだけどねー」
ニトロはため息をつくように言う。
「けどねぇ」
諸問題の根源は、間違いなく、誰がどう言おうとティディアのせいだ。そこは譲れない。
しかし――ティディアが元凶となるに定まったのは、ミリュウの言葉が真実だとして、それは
ティディアに愛されている実感など微塵もないしそれが事実だとは未だに認めたくないが、それでも人が人を愛することを『悪』だとはしたくない。なるほど、ティディアが俺を愛さなければミリュウ姫はきっと気楽でいられた。同じ道具として、ティディアの操る人形同士として仲良くやっていけた――それはそうかもしれないが、だからといって妹に配慮して「お前は人間を愛すな」とは言えない。
その点においては――例えあいつが事の全てを把握しているのだとしても――不慮だ。それはとても、責められない。
ニトロは渋面を刻んだまま、んーと唸る。
芍薬は笑った。
「ヤッパリ主様ハオ人好シダ」
ニトロも、笑った。
「駄目かな?」
「ウウン、ソウイウ主様ダカラあたしモ命ヲ張レルッテモンサ。イツデモイクラデモ“オ助ケ”シテミセルヨ」
少しおどけるように洒落めかせる芍薬の声を聞き、ニトロは、ふと宙を見つめた。
背に触れる芍薬の手をはっきりと感じながら――ここに勝る機会はない――いつか言おう、いつ言おうと思っていたことを思い切って口にする。
「俺はまだ死ぬ気はないし、ミリュウ姫に殺されるつもりももちろんないんだけどさ」
「ン?」
「俺が死んだら、芍薬も来てね」
ニトロの体に触れる芍薬の手が、小さく、震えた。
マスターの言葉は――その『命令』は、オリジナルA.I.にとっての最大の幸福。
人間にすればまさに神の祝福と等しいであろう『幸せな死』の約束。
一時……人間よりずっとずっと思考速度の早いA.I.にしてはおそろしく長い間、芍薬は一つの言葉も発せなかった。言葉にならない――という人間の感情表現を、本当に、本物の痛覚が生まれたのではないかと錯覚するほどに痛感する。掌のセンサーから伝わってくるマスターの鼓動が、嗚呼、あたしの
――やがて芍薬は、小さくうなずいた。
「承諾」
その声は手と同様に震えていた。
その震えは、涙を流せる肉体を持たないオリジナルA.I.の、歓喜の涙であった。
背中から伝わってくるその温かな涙に、ニトロは、暖かな微笑みを浮かべていた。