6−h へ

 シェルリントン・タワーで毎月一度開かれる王家の定例会見。
 今月の会見は様々な意味で特別であった。
 普段はティディアという型破りな姫君が毎度愉快な会見を開いている。だが、今月は久しぶりに代理が立つ。代理自体は初めてのことではなく、以前、ティディアは火急の事案のために広報官に会見を任せたこともあるし、それどころか会場への道すがら拾った酔っ払いを演壇に立たせたこともある。それに比べて今回の代理は前から決まっていた緊迫感のある交代劇でもなく、人材も穏当に彼女の妹だ。ただし特別な意味合いとして、初めてこの定例会見にミリュウ姫が登場するというものがあった。
 とはいえ……その『特別』に大した価値は無い。
 笑い話にしかならないし、実際関係者の中には乾いた笑い話にする者もいたのだが、この会見への入場許可申請数は一週間前には定員の三分の一が空となる勢いであったものだ。
 しかし、現金なものでここ数日において許可申請数は定数を軽く上回り、蓋を開けてみれば超満員である。
 一週間での許可申請数の増加率は過去最高であり、申請総数は普段のティディアの会見へのものも上回るほど。
 そして何より……『劣り姫の変』の真っ只中であるというタイミング。
 結果、今月の会見は様々な意味で『特別』に値するものとなっていた。
 会見場は暴走寸前の熱気に包まれている。
 特別に定員の緩和を許されたために席の間は無いに等しく、一人の熱が四方の人間を温め、また四方の人間が一人を熱し、皆、空調の効いた部屋にありながら汗を流している。それでも、一人たりとて涼気を求めて場を離れようとする者はいない。皆々、飢えに飢えた目つきで獲物は今かまだかと待ち構えている。何しろ彼ら彼女らは非常に運良く申請が通った者達なのだ。その運に見合うものを欲し、欲するものの対岸にある『戦い』を各々手元の画面で観ながら、じっと待ち続けていた。
 ――会見は、予定通り8時に始まった。
 王女が現れるはずのドアが開き、一斉にカメラが構えられる。全国放送のための生中継も始まり、およそ視聴者のほとんどが画面を“二分割”したことであろう。
 会見場に報告者が現れる。
 と、会場はフラッシュに包まれるより先に、どよめきに包まれた。
 ドアの向こうから現れたのは、プカマペ教団のローブを着る一人の教徒であった。
 体型から女性であることには間違いあるまい。
 が、フードをとても深く被っているため、彼女が本当に皆の待ち人であるのかを確認できなかったのである。
 しかも会場に入ってきた教徒は、視線が己に集中した瞬間、びくりと足を止めたのだ。
 それはまるで初めて大勢の人間の前に立つ子どもが見せる怯えにも似て、そのため彼女が『本物』であるのかどうか――皆、戸惑ったのだ。
 まばらにフラッシュが焚かれる中、教徒は少し背を丸めて演壇の前に進んだ。携えていた板晶画面ボードスクリーンを置き、
「それでは、まず報告を」
 その瞬間、今度こそ大量のフラッシュが焚かれ、演壇に立つ教徒が――ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナが白い光に包まれた。
 肩を震わせ、彼女は一瞬たじろぐ。
 が、気を取り直したように肩を張り、フラッシュが鎮まるのを待つ。
 やがてカメラが音を立てるのを止め、会場が静粛となる頃合を見計らい、ミリュウはうつむきがちに手元に目を落とすと、
「行政に関わる問題について。まず西大陸の――」
 ぼつぼつとつぶやくように、報告書を読み上げ始めた。
 会場がまたどよめく。
 その声はマイクを通して誰の耳にもきちんと届くが、あまりにも自信が欠如し、あまりに力も無い。そこには、彼女が語るまさにその西大陸で、報告書を読み上げ続ける彼女自身が魅せたはずの堂々たる様が欠片もない。
 もしや、そこにいるのは彼女と同じ体と声を持つ『信徒』ではないのか?
 そんな憶測が囁きとなり、やがてざわめきとなる。
「私語はお慎みください」
 ぼそりと、ミリュウが言った。
 会場が静まる。
 しかし、それは叱責されたためではなく、呆気に取られたためであった。
 フードが作る影の中、ライトの光がぼんやりと浮かび上がらせる色褪せた唇が、小さく動いている。小さく動いて、ぼそぼそと、ただ報告書を読み上げていく――ミリュウがすることはそれだけだった。これなら報告書のデータを配布されるだけで構わない。そういった会見が続いていた。
 質疑応答の時間までは誰も彼女に声をかけることはできない。その『ルール』が、やがて会場に集まった人間を苛立たせ始めた。
 ミリュウ姫は自分が用意した教団の服装を着ながら、まるでそれが何の意味も持たないもののように振る舞い、あまつさえあまりにつまらない会見を開いている。
 苛立ちが募った。
 とはいえ、先のようにはざわめきはしない。ただし声を上げないだけである。退屈な報告書の朗読に飽き、気もそぞろとなり、身を揺らす人間の衣擦れの音がざわめきの代わりに不平を表明していた。
 ミリュウはひたすら朗読を続けていく。
 早く質疑応答の時間にならないか――その焦燥が会場の空気を澱ませていく。
 それでもミリュウはひたすら読み上げ続けていく。参照くださいと示すだけでいい、グラフの数字をも細かく読み上げて。優秀ではない教師が何から何まで説明してしまうことがかえって生徒の理解を妨げていることに気づかないように。
 この頃には、会場に集まった人間達は、運悪く抽選に通らず『外』でたむろしている同業者達を羨ましく感じ始めていた。同業者だけではない、スライレンドの光景を観ることのできている全ての人間を羨み始めていた。
 退屈な会見の対岸で開かれている刺激的な戦い。
 しばらくすると、会見場のそこかしこで、非礼にも王女を無視してその『映像』を盗み見る者が現れ始めた。それに気づいた者は無論いる。しかし誰も注意をしない。それどころか隣の手の中を覗き見ている始末である。
 ミリュウが少しだけ顔を上げた。
 ところどころでびくりと体を揺らす者があった。
 が、ミリュウは何も言わず、顔を一方向へ向けた。視線を追うと、そこにはスーツを着た警備アンドロイドがいる。思えばいつも側にいる執事の姿が見えなかった。主人同様特に目立つこともないことで(逆に)知られた女執事の代わりとばかりにアンドロイドがミリュウに近づき、耳打ちを受け、うなずき定位置に戻る。
 ……と、
「おお」
 会場にため息が漏れた。
 ミリュウの背後、彼女を越して見上げる位置に大きな宙映画面エア・モニターが現れ、そこにニトロ・ポルカトの駆ける姿が映し出された。動く女神の像に向かう彼に、石像の大きな踵が振り下ろされる。が、ニトロ・ポルカトは止まらない。むしろ速度を増し、踵が振り下ろされるより先に身を屈めて女神像の股下をすり抜ける。
 獲物を捕らえそこなった石像の踵が雨に濡れた地面をえぐる。勢い余り体勢を崩し――そこに、紅の衣を翻し、芍薬が飛び込んできた。女神像の美しく豊かに盛り上げられた乳房の間、人で言う壇中という急所に掌打を打ち込む。芍薬の掌は超高速で振動しているらしい、石像の胸部全体に蜘蛛の巣のようなヒビが入る。……が、砕くことまではできなかった。己を捕まえようとしてきた女神像の手を振り払い、芍薬が後退する。
「おおお」
 会場に感嘆の息が漏れた。直後、芍薬に向けて女神像の指先から榴弾が放たれ、それと同時に芍薬が力場バリアであろう光の幕を展開し、榴弾の爆発は光の幕を破ることができずに雨の幕に飲まれて消える。さすがに音声まではなかったが、それでもその迫力に会場が再度揺れる。
「続けます」
 ニトロ・ポルカトとその戦乙女がプカマペ教団のおそらく最大戦力と戦い続ける光景を背にして、ミリュウが報告を再開した。
 相変わらずぼそぼそとした喋りであったが、“粋な計らい”をしてくれた『主催者』に苛立つ者はもういない。耳ではミリュウの声を聞きながら、会場の目の全ては彼女の背後に釘付けとなっている。
 だから――その時、誰も気づけなかった。演壇に立つ王女が、ローブの下で、色褪せた唇でかすかに笑みを刻んでいたことに。
 誰も聞かぬ報告を続けながら、ミリュウは思う。
 皆の反応は自然なことだ。
 それが当たり前で、むしろそうでなければおかしいことだ。
 何故なら、スライレンドのその光景……その戦いは、観る者の心を痛くなるほど掴んで離さぬ激闘であり、また、あるいはその戦いは、この『ショー』を語るのであれば絶対にリアルタイムで見届けなければならない――そういう死闘であったのだから。

 神徒・生ける女神の像。
 プカマペ教団のサイトの動画ページに常に映っていた、謎の心音の主。
 おそらくはこれこそ『破滅神徒』ではないか? そう噂されていた存在は、噂通りに“破滅”の名を戴く者ではなかった。
 ――が、
「!」
 ニトロは、眼前に迫る女神像の拳を避けられないことを悟った。足元には女神像が飛ばしてきた羽が二枚ある。それは非常に細いワイヤーで繋がっており、ワイヤーは二枚の羽に挟まれた彼の足首に噛みついている。ちょうどかすがいで足を固定された形だ。力ずくで抜け出すことは可能だろう。しかし、女神像の拳を避けるまでには間に合わない。
――<<受ケ止メテ!>>
 耳の内に叫びが届いたのとほぼ同時、その声の主がニトロと女神像の拳の間に入り込んできた。
 そして、
「――ッ!」
 ニトロは渾身の力を込めた。自分の盾となり女神の拳を受けた芍薬が、流石に質量も馬力も違いすぎる。堪えきれずに押し込まれてニトロに激突する。それを受け止めた衝撃は戦闘服を透してニトロの腹にも突き抜け、彼の息が詰まる。もし前もって芍薬に「受け止める」ことを頼まれていなかったら悶絶していたかもしれない。その威力に足を固定していた羽とワイヤーも外れ、ニトロはたたらを踏んで――それでも辛うじて芍薬を受け止めきった。
――<<次!>>
 芍薬の警告に、ニトロは体の締めるべきところは締め、脱力すべきところは脱力した。
 次の瞬間、芍薬の体が勢い凄まじく弾かれ、その背を抱き止めるニトロも同様に空へ跳ね上げられた。
 女神像に蹴り上げられたのだ。
「シーーーーーーーーン!」
 女神像が両腕を挙げ、唸り声を上げる。
 その顔の無い顔が光り輝く。
 恐るべき女神像の様子を、芍薬と共に空中を舞い、姿勢制御を戦闘服のプログラムに任せながら目の端に捉えていたニトロは、
(わお)
 嫌な予感がして頬を引きつらせた。
――<<抱キ締メテ!>>
 声を強張らせ、芍薬が叫ぶ。
 ニトロは強く芍薬を抱き、その背に張りつくように身を縮めた。
 女神像の顔が輝き最大、そして、
「ヴァーーーーーーーーーチュ!」
(噛みおった!)
 口もないくせに大事なところで間の抜けたことをするのはわざとか! あの馬鹿の真似か!? そう内心で絶叫するニトロを光が包む。
 凄まじい熱が――!
 戦闘服に、また芍薬が展開した力場バリアに守られていてもなお伝わってくる熱がニトロを責める。肉を焼かれぬまでも体力が激しく奪われていく! 覆面の目出し部を覆う防護膜に初めて“警告”の文字が表れた。全身から汗が噴き出し、それを戦闘服が吸収、蒸発させることで焼け石に水滴という程度であろうと体を冷やす。
 やがてニトロと芍薬を包んでいた光が消え、
「クノゥイチニンポー!」
 それはニトロの注意を引きつけるための大声だった。
 二人はまだ、宙にいた。
 芍薬が超小型反重力飛行装置アンチグラヴ・フライヤーを働かせているのだ。
「カトン・マヨイヒトダマ――」
 緩慢に落下してくるこちらを討とうと待ち構える女神像の周りに、無数の火の玉が現れた。迷うように宙を舞うそれらは、破壊されたはずの二体の戦雛と雀蜂達の体を中核としていた。
「タタリ!」
 芍薬の“合図”と共に火の玉達が女神像に襲いかかり、一つが女神像に触れて爆発する。だが、ちょっとやそっとの攻撃ではびくともしない女神像の体にはその程度の爆発は効果がない。女神像を操るA.I.もそう考えたのだろう、爆発をものともせずニトロと芍薬へ飛びかかろうとし――その時、一度火の玉が弾けたところで、もう一度爆発があった。
 今度は、威力も高い。
 女神像の体にヒビが入る。
 タネを明かせば火の玉が湧いたところで芍薬が太帯ベルトのポーチから“ステルス機能付き小型遊撃ロボット”を数体放っていたのだ。女神像もその存在にすぐに感づき、駆除にかかるだろう。しかし、ニトロと芍薬が安全に着地し態勢を立て直すだけには十分な時間が稼がれていた。
 地に降りた二人は女神像から距離を取り、
「大丈夫カイ?」
 マスターへ心配げに問う芍薬の髪の一部は焦げてひどい臭いを発し、艶やかな衣は薄汚れて、所々引き裂かれている。
「少し疲れたくらいだよ」
 覆面の下で笑ってみせるニトロの戦闘服に傷はないが、それは自己修復が利いているだけであり、これまでに少々危険な爪撃を一太刀受けていた(芍薬の頑丈な衣が間になければ体にも刃が届いていたであろう)。
「ヤッテクレルモンダネ、王子様ハ」
「甘く見てたつもりはないんだけどね」
 次第に雨量の増してきた中、高熱の余韻留まる二人の体からは湯気が立っている。
 女神像の顔熱線フェイスビームに与えられた熱が、天からの恵みによって冷やされていく。
 芍薬は言った。
「終ワラセヨウ。トッテオキヲ使ウヨ」
「分かった」
 ニトロはうなずいた。
 その光景を――二人と女神像の戦いを遠巻きに観つめる群集は、戦場をただ凝視しながら息を飲んでいた。
 歓声はない。
 拍手もない。
 ただ、戦慄と驚嘆だけがそこにある。
 皆、熾烈な緊張感に縛られ、ろくに動くこともなくじっと戦況を追っている。
 神徒・生ける女神の像。
 ――おそらくはこれこそ『破滅神徒』ではないか? そう噂されていた存在は、噂通りに“破滅”の名を戴く者ではなかった。
 だが――『その戦乙女を相手にしても、二人を苦しめられるくらいには強力であるのだろう!』――その期待には異常に応えすぎていた!
 これに比べれば、これまでの信徒や神徒きょじんなど生温い。あんなものは児戯にすぎない。
 体のいたる所にヒビを走らせ、ニトロ・ポルカトに右肘の下を断たれ、左の翼を芍薬にもがれながらも、二人の攻撃と戦略を何度も跳ね返し、強大な反撃を幾度も二人に与える女神の像。
 初めてニトロ・ポルカトとその戦乙女に拮抗する神徒。
 つい直前のニトロ・ポルカトと戦乙女を包み込んだ熱の波は、離れた場所にいる観客らにもかすかに届いていた。かすかに……しかし、雨の中を、離れた場所にまで。よくも二人共に無事であったと思う。先の熱線に二人が包まれている際には誰もが次期王の死を本気で覚悟していた。
 そしてそう皆に思わせたのは、先の熱線だけではない。
 女神像は、他にも数度、教団の勝利かと思われる瞬間を作り出してきた。
 その度にアデムメデスの心臓は凍りついてきた。
 初めてニトロ・ポルカトとその戦乙女に拮抗する神徒――あるいは、勝てるかもしれない神徒。教団が、登場までにもったいぶっていた理由がよく分かる。この神徒は、確かに、畏れ多くも女神ティディアを模すに相応しい『兵器』であった!
 と、女神像が髪の先から放った数本の光線レーザーが、何もないはずの空で爆発した。
 雨の中では威力の弱まるレーザーではあるが、芍薬の仕掛けを壊すには十分な威力があった。
 連れてヒトダマも落ちる。
 すると自由を取り戻した女神像は、身構えるニトロと芍薬へ顔のない顔を向けた。
 女神像を讃える歌を歌い続ける信徒は、この場では、今は一人となっていた。他の四人は文字通り燃え尽きて消え去った。雨音に掻き消されそうなか細い歌声が生々しく響く中、今、それを別の地でやはり同じように燃えながら歌う信徒達の声がいずこかのスピーカーを揺らして支えている。
 教団はニトロ・ポルカトとその戦乙女に休憩を許さない。
 歌声に後押しされるように女神像が突進する。髪を振り乱し、恐ろしい女神の像が、今また、背中の真ん中、翼の付け根からノズルを突き出したかと思えばジェット噴射を開始し急加速! 突然の変化に驚いたか、ニトロ・ポルカトが濡れた芝に足を取られたかのようにバランスを崩し、そこに繰り出された強烈なフットボールキックによって彼は大きく蹴り飛ばされた。いや、それはもはや蹴りなどではない。大事故だ。およそ50mは飛んだだろうか。力なく猛然と宙を飛ぶ彼を見守る観客達は、ケルゲ公園駅前で同じように飛ばされた彼の見せた技を思い出していた。きっと、今回もまた、彼は着地をしてみせるだろう。
 ――しかし、その期待は儚く消えた。
 ニトロは勢い凄まじく一度地に背中から落ち、バウンドを繰り返すように何度か転がり、そして……うつぶせに止まった。
 ニトロ・ポルカトは、動かない。
 どこかで引きつった声が短く上がった。
 それにつられて――
「神罰!!」
 勝利を確信したか、短く叫んで女神像が『悪魔』の死を確実にしようと走る――容赦のない追撃に、群集が慟哭にも似た悲鳴を上げる。
 その時だった。
「バツゥ!?」
 女神像の体がいきなり前倒しに倒れた。
 見れば女神像の右足が甲まで地に埋まっている。勢い良く駆け込んでいた最中のこと、走力の反動か右足首のアキレス腱が完全に切れ、かつ骨が粉砕したかのように甲と脛が合わさる角度にまで曲がっている。
「お返しだよ」
 代わって、そう言いながらニトロが勢いよく立ち上がった。戦闘服に新しく追加されていた機能、鍛冶神ゴヴニュという手袋――特製の専用素子生命ナノマシンを内蔵し、そこらにある素材を用い脳裡に描いた形状を作り出せるこれを用いて土をスカスカにし、そうして彼は女神像の足を捕らえたのだ。
 彼の無事を確認した周囲から安堵の息が漏れた。と、それもすぐに女神像の顔が輝き出す様を見て喚声に変わる。あの熱線――今度は芍薬がいない。直撃を受けては――!
 だが、ニトロは逃げる素振りすら見せない。それどころかあさっての方向へ顔を向け、余所見をしている。
 観客達の警告を聞きながら、それを無視してニトロはその場に佇み続けていた。
 もう、避ける必要はないのだ。
 それより彼には芍薬から任されたことを成し遂げる方が重要だった。
 焦ったように、女神像の顔の輝きが一気に最大値へ向かう。
 ニトロは逃げないが、悲鳴はない
 誰もが固唾を呑みながら、ニトロ・ポルカトの意図を悟り、決着の時が来たことを知っていた。
 ――芍薬が、女神像の傍らにいた。
 マスターが撥ねられた際、呑気にも諸肌を脱いでいたアンドロイドが、キモノから抜き出した両腕を奇怪な形に変形させ、女神像を見下ろしていた。
 女神像が芍薬に顔を向け――芍薬がシステムを発動させる。
 悲鳴が上がった
 破壊的な威力を伴う爆音、それともその場に滞る衝撃波の檻――空間そのものが破裂しているかのような無茶苦茶な震動。周囲にも届く空気の揺れと、何よりその破滅的な音は凄まじく、周囲の誰もが耳を抑えながら……女神像が、凄まじい強度を誇っていた女神像がもろくも崩壊していく様を見た。
 過去、ハラキリが『赤と青の魔女』に対しても用いた、現代技術最高峰の制圧装置。
 女神の伏す周囲だけ、雨粒が侵入できずに空中で蒸発している。
 その出力を限界まで上げ、制圧ではなく、粉砕装置と変えた芍薬の一撃。
 瞬く間に女神像の翼が折れ、羽毛は宙に舞う前に粉々に千切れ、滑らかな背中が見るも無残に割れていく。その中から様々な機器が露出しては瞬時に壊れ、潰れ――それでも!
 周囲に声にならないどよめきがあった。
 崩壊しながらも、女神像が立ち上がろうとしたのだ。
 肘から先のない右腕を地に突き立て、しかし右上腕が折れて顔から倒れる。
 その顔は未だ輝いているが狙いを定められずに輝きを保つだけ保ち、やがて顔にヒビが入り、刹那、溜め込んだエネルギーを留めることができなくなったのだろう女神像の頭部が爆発した。爆発したが、その爆発すら一定の空間に閉じ込められて叩き伏せられる。叩き伏せられたエネルギーが翻って女神の両肩を爆砕する。
 肩が消えたことで支えをなくした両腕は、振動の嵐の中、激しく痙攣するように震えながら粉々になっていった。両足はひしゃげて使い物にならない。使い物にならなくなったところは脆く、すぐに塵芥と化していく。胴体は辛うじて形を残しているが、もう、ほとんど石くれの山だ。
 やおら、芍薬が両腕をだらりと垂らした。
 それと同時に爆音も止み……
 広場に、雨音が戻ってきた。
 そして、誰かがいち早くそれに気づき、驚愕の声を上げた。
 女神像の砕かれた胴体の中にフットボール大の卵状のものがあった。卵は見るからに頑丈な殻で包まれていたが、それもさすがに割れ、内に収められた赤い肉塊を覗かせている。
 その肉塊は一定のリズムで収縮と拡張を繰り返していた。
 ドクン、ドクンと……それを見るうちに、プカマペ教団の動画ページに流れていた心音が皆の脳裏に蘇る。
 ドクン、ドクンと――収縮と拡張を繰り返しながら……それは、血管だろうか? 赤い肉塊、その女神像の心臓が周囲に管を伸ばし始め、触手のように蠢く管は礫と化した女神像を再び元に戻そうとしているように――いや、戻そうとしている!
 芍薬はそれを黙って見つめていた。
 無理もない。アンドロイドの身一つでここまで戦い続け、様々な『術』を駆使し、バリアを展開し、最後には壮絶な武器を発動させたのだ。バッテリー不足であろうことは容易に知れる。
 女神像は、流石に完全に元通りとまではいかないだろう。心臓は石だけを集めている。これまでのような攻撃もできまい。が、石の拳を振るうくらいはできる程度には戻れるのかもしれない。果たして、石の拳は、アンドロイドを壊せるくらいの力を持つのであろうか。――おそらく持っているであろう。
 その時、歌声が音を増した。
 大広場に最後まで残った唯一の信徒が、もはや燃えカスのようになりながら青白い炎の中で声を張り上げていた。
 何という執念――
 何という……怨念じみた鬼気。
 戦慄と衝撃に、誰もが息を詰め、言葉を失う。
 美しい歌声は美しいが故に恐ろしく、最後に残った信徒を応援する他所の信徒の合唱は力強いが故に怖ろしい。
「そこまでいくと、どうにもそっちの方が『悪魔』みたいだ」
 と、雨音と信徒の合唱を裂いて、ニトロの苦笑混じりの声がスピーカーを通して広場に響いた。
 彼は芍薬の隣に立ち、心臓と血管をむき出しにした石像、といった風体を表し出した『それ』を見ながら、
「さっさとあっちに戻って信徒を労ってやりなよ」
 芍薬を“お姫様抱っこ”に抱え上げ、震えながら立ち上がろうとする新たな像へ背を向ける。
「おやすみ」
 ニトロは足を踏み出した。
 像がニトロへ顔らしき塊を向ける。
 ニトロは進む、一歩、二歩目――そして、三歩目を踏み込んだ時、空から飛行車スカイカーが拳を振り挙げる像に向けて落ちてきた。
 芍薬が“とっておき”を使うと決めた時、彼が託されたのは上空に停車させておいたスカイカーの遠隔操作だった。基本的な操作は車のプログラムに任せ、戦闘服を通じて、目線を元に落下地点を正確に伝える。簡単ではあるが重要な仕事。常に修正を与えて、念のためのトドメは、確実に。
 ――狙いは正確だった。
 上空300mから一直線に落ちてきた合金と機械の塊は、あ、と言う間もなく像を潰した。凄まじい激突音に一度悲鳴が上がり、それから、再び沈黙。
 信徒の歌声は、消えていた。
 静けさの中の雨音が人の心を叩き、やがて……歓声が爆発する。
 これまでにない強敵を、苛烈なミリュウ姫の試練を、まさにまさに真実命懸けで克服したニトロ・ポルカトと戦乙女へ猛烈な喝采が送られていた。
 と、ニトロに抱えられた芍薬が(主電源に再度切り替えれば平常に戻れるが、それは用心のためにまだ行わない)緩慢に腕を動かした。その手には小さな銃があり、銃口はマスターの背後に向けられている。
 勘の良い者は耳を塞いだ。
 熱線が放たれ、ひしゃげ潰れた車から漏れ出していた燃料を発火させる。
 爆発が起こり、これまでの神徒・信徒達とは違い燃えて消えることなくそこにあった女神像の屍を、赤い炎と黒煙が包み込む。
 雨にけぶり、炎が巻き上がる広場に、一瞬の沈黙の後、炎にてられたかのように激しい歓声が轟き渡った。
 地を揺らす歓声に包まれて、覆面機能を解除しながらニトロは思う。
(さて――)
 Webサイトにあった隠し玉、女神像は秘匿されてきただけの価値を示した。客観的に見ても、『ショー』の役者として見ても、ここが『組織戦』のピークだ。もし、これ以上『教団VSニトロ・ポルカト』の構図を続けるというならばそのシナリオは飽きを呼ぶ。劣勢に加えて隠し玉まで潰された『教団』は今や完全に死に体である。教団を率いる者には決断が迫られている。
 潮目だった。
 ここで大きな手を打たねば、ミリュウは、『妹姫の試練』の主催者としてだけでなく、エンターテイナーとしての『クレイジー・プリンセス』の薫陶を受ける者としても敗北を晒すことになるだろう。
(どう出てくるかな)
 ニトロは火勢を背に思う。
 願わくは、彼女には、ここで嘘偽りない本音を伴う手を打ってきてほしい。
 そうでなければ徹底的に潰しにかかった甲斐もない。
 何も卑怯な“闇討ち”を仕掛けてきたことへの怒りだけでここまで彼女を『潰そう』としてきたわけではないのだ。
 何故なら、追いつめられた者は、逃避するにしても、反撃に出るにしても、その時に最も強い感情を働かさねば何も実行できない。その時に最も強い感情――生への渇望だろうが、恐怖の発露だろうが、経験談で語れば自分がティディアにしていたように怒りと拒絶の爆発だろうが――何でもいい! 姉の『愛』を愚弄する男に憤激を見舞ったように、憎い男を殺すための本物の情動つるぎを振りかざしてきてほしい。そこにこそ、謎だらけのあなたの『真』はあるはずだろう?
 ……そう、全ては問題解決のため。
 全ては、突然何も語らずに襲いかかってきた敵が、今後二度と襲いかかってこないようにその原因を根本からなくすため。
「――」
 ニトロは大型宙映画面ヒュージ・エア・モニターの映像が切り替わったことに気づき、足を止め、振り返った。
 そこには定例会見の演壇に立つ『信徒』がいた。
<先月懸案として浮上した――>
 彼女はぼそぼそと覇気なくつぶやいている。
 それはまさに敗残の将の様子であった。
 ニトロは彼女を、じっと見つめた。
 気の無い主催者を見る限りでは『ショー』も終わりとなりそうに感じる。
 自然、周囲に『ショー』の終わりを予感する言葉が漏れ出す。観客の一人が勝者となるであろうニトロに近寄りながら気の早い賞賛をかける。が、彼が緊張を少しも解いていないことに気づき、気後れして去っていく。
<一部報道では決裂との憶測もありましたが、セスカニアン王国との協議の結果、本日、共に解決に向け協力し合うことで意見の一致を得ました>
 ニトロはじっと、ぼそぼそと報告を続ける彼女を見つめ続けていた。
 雨が強くなり出している。
 その中でニトロの沈黙が周囲にも伝播していき、やがて、スライレンド王立公園大広場は、固唾を呑んで定例会見の様子を注視していった。

 シェルリントン・タワーの定例会見場では、多くの者が顔を強張らせていた。
 演壇の後ろで決着をみた激闘への賞賛が口を突きそうになるのを堪える者。あるいは激闘に中てられ興奮している者。それから、あまりに危険な戦闘をニトロ・ポルカトへ仕掛けた――それが例え過酷な試練であったとしても――王女の非情への憤りのある者。
 だが、まだ皆、懸命に口を閉ざしていた。
 ミリュウ姫の退屈な報告はまだ続いている。
 手元の資料と照会すればもう少しで終わるはずだ。
 それまでは口を閉ざす。
 質疑応答に入れば、質問攻めにする。
 正直に言えば『試練』はもう十分だろう。これ以上彼の何を試すのか。今の戦いですら、王に、あの希代の王女に真に相応しいかどうかを試すという目的を鑑みてもやり過ぎている。あんなものを撃退できる、というのは異常能力者ミュータント神技の民ドワーフ呪物ナイトメアに対応する特殊部隊員に求められるものだ。もちろんそれほどの能力を有する王――というのはそれなりに魅力的ではあるが、だとしても十二分に彼は資質と能力を示した。もう試練は終わりでいいだろう。貴女の興した祭はアデムメデスを満足させるものであった。ありがとう、感謝します。貴女のお陰で『王・ニトロ』への後顧の憂いもなくなった! しかし貴女は何故そんなにも淡々と暗い様子であるのだろう。敗北を宣言したくないのか。それとも……まさか、まだ終わらないつもりか? 終わらないとしたら、本当に、これ以上何を求めるというのか? あるいは予想もつかないサプライズを用意しているのか!?
 熱気と困惑を混ぜ合わせて凝縮させた沈黙の中、ミリュウは王家の近況について話している。
「ティディア王太子は予定通りクロノウォレスを発ち、明日のアデムメデス時間21:13にハンデンヴァス―イムン航路中継点にて国王、王妃と――」
 ふと、ミリュウは口を止めた。
 これまでぼそぼそとして力は無いが、一度も滞ることなく語っていたミリュウの様子に幾人かが眉根を寄せる。
 ミリュウは、ふいに、痛烈な感傷を覚えていた。
(その頃には、わたしはどうなっているのかな?)
 そしてお姉様は、この結末にどういうお顔をなさるのだろう。
「……」
 ミリュウは壇上にありながら物思いに沈んでしまった心の弱さを振り払うように一度咳払いし、
「予定通りランデブーし、会食するでしょう。国王、王妃、王太子、皆健康に問題はなく、『我らが子ら』のため、誇らしく勤めを果たしています」
 最後の言葉はほぼ定型文であった。そこに、
「本当に、誇らしく」
 ぽつりと付け足し、ミリュウは一度言葉を止めた。
 ここにきて初めてのアドリブにまた何人かが怪訝な顔をする。
「さて、私事ではありますが、執事のセイラ・ルッド・ヒューランを昨日付けで解雇いたしました」
 会場が揺れた。
 それは手元の資料にはない情報であった。
 しかし、それは一体どうしたことであろうか。仲の良さで知られ、第二王位継承者を十年前から支え続けてきた女執事をここにきて、それもニトロ・ポルカトとの『ショー』の最中に解雇するとは……
「後任については未定です。速やかな選定の後、然るべき時期に発表いたします」
 そしてミリュウは手元に目を落とし、また報告書を読み出す。
 会見場はにわかにボルテージを上げつつあった。
 残り五項目を読み終えれば、質疑応答の時間だ。
 突如もたらされた新たな疑念はちょうど良い呼び水となり、獲物ミリュウを前にするマスメディア関係者らの胃を刺激している。
 後、四項目。
 初めに何を訊くべきか。初めに質問を許される者になるためにはどのようにアピールすればよいか。
 三項目。
 二項目。
 そして、最後の項目に差しかかった時、ミリュウの背後のエア・モニターに変化があった。
 これまでは音声が切られていたそこから、歌声が流れ出す。
 ざわめく会場に流れる歌は賛美歌のようであった。明らかに現代語ではない言葉で、そう、あの女神像を讃える歌に似ている。
<女神様の像を打ち壊され、口惜しや、口惜しや>
 賛美歌を背に『ミリュウ』の声が重なった。
 皆の目が宙映画面から演壇に落ちる。演壇に立つミリュウ本人は事ここに至ってなお、報告書最後の項目を朗読していた。
<神徒様と多くの信徒の命が奪われた。プカマペ様は憤慨なさり、女神ティディア様は悲しみ涙を流された>
 画面に映っていたスライレンドの王立公園の大広場、ニトロ・ポルカトと彼を讃える群集の景色が消え、代わってそこに現れたのは『ミリュウ』だった。その首にはペオニア・ラクティフローラを模した象徴イコンが提げられている。神官アリン……しばらく姿を見せなかった信徒達の頭領が、そこにいた。彼女の背後にはこちらに背を向け跪き歌い祈る三人の信徒がいる。歌声は三人の信徒によるものらしい。
 アリンはどこか焦点の合わぬ目で言う。
<されど口惜しむことばかりなく、我らと志を共にする者らよ、讃えよ! 勇猛果敢であった神徒様は天上回帰のその間際に、奇跡を一つ、我らに遺されたもう>
 会場では幾人かが外部と連絡を取っていた。そして知る。数分前、あらゆるテレビ局に『信じる者は指定のチャンネルから愛波動を受信し、伝え広めよ』と連絡があり、地上波・衛星・インターネットのほぼ全ての局が同じ映像を流していることを。
<女神様の像はその御命の最後の火を以てこの世とかの世を結びたもう。プカマペ様の憤激、女神様の憐憫が、神徒様の命が繋いだ奇跡の門を潜り抜け、我らのこの世に大いに満ちた。ついに時は来たれり。『破滅神徒』が目覚めけり>
 跪き歌い祈り続ける三人の信徒を背に、アリンがイコンを両手で包み込む。
 するとふいに祈りが止み、背を向けていた三人もカメラに向き直って頭を垂れる。
プカマペ様よプルカマルペラ
 我らが導神よプルカマルペロ
 我にティディア様の御加護をア・ヴィンガ・ウ・ウォルバル・ティディア
 我らはティディア様を讃えますアー・ヴォンガ・ウ・ウォルバト・ティディア――>
 神官と信徒の声は、憎しみに満ちていた。明確な悪感情が聞く者の心をひっかき、この教団のこの祈りが内包していた真の意図――その危険性を、彼と戦乙女と女神像の戦いの直後、今更ながらに実感する。
<プルカマルペラ
 プルカマルペロ
 ア・ヴィンガ・ウ・ウォルバル・ティディア
 アー・ヴォンガ・ウ・ウォルバト・ティディア――>
 二巡目が終わった時、定例会見場に驚愕の声があった。
 祈りの捧げられる宙映画面の下、教団のローブのフードに隠された王女の顔に、青白く光るものが現れていた。
<プルカマルペラ
 プルカマルペロ
 ア・ヴィンガ・ウ・ウォルバル・ティディア
 アー・ヴォンガ・ウ・ウォルバト・ティディア――>
 三度目の祈りの言葉が終わる、そして、王女ミリュウの顔から胸元にかけて現れた紋様もその姿をくっきりと現す。
<神と女神の祝福は『聖痕』として証を立てる>
 会見場の様子は今も中継されている。
 考えてみれば彼女が『神徒』となるのは不思議な話ではない――しかし、アデムメデスはそれでも驚きに包まれていた。
<最小にして最強の眷族を従え、『悪魔』を打ち倒すためこの世に目覚める>
 ミリュウがフードを下ろす。
 また驚きが声となる。
 彼女は髪を短く切りそろえていた。背にまで届く自慢の……彼女の誇るあの姉姫に褒められるほどに美しい黒紫の髪をうなじで切り落とし、そうして首に巻きつく青いチョーカーが強調されるようにしていた。
<聖痕の聖者はその命を賭して、嗚呼、我らが栄光の世のために! 女神ティディア様の御心に再び神気を取り戻さんがために! 悪魔の穢れを祓うために! その命を賭して悪魔を地獄へ誘わん!>
 ミリュウの『聖痕』は、首に巻きつく――違う、首と一体化したチョーカーを中心として上は額にまで、下は胸の谷間にまで表れていた。
 それはニトロ・ポルカトの『烙印』とまるきり同じ色をしている。色は同じではあるが、悪魔の烙印が美しい花であったのに対し、聖者の聖痕は恐ろしい虎の模様にも似て……そう、古代の戦士が戦いの際に体に描いたと言われる化粧はきっとこのような形をしていたのだろう。そこに少しの繊細な絵心を加えたのが、この『聖痕』であるのだろう。
<ニトロ・ポルカトよ、悪魔よ、覚悟せよ! 『烙印』がお前を逃さない。お前の命は、聖者の清らかなる魂に触れ消え去るだろう。破滅するのだ! 悪魔よ! お前は、神徒様の尊き犠牲により、破滅するのだ!>
 一瞬、定例会見場が完全に静まり返った。
 神官の言葉には、看過できぬところがなかったか? 数人の聡き者が気づき、唖然として王女を見つめる。
<震えて待つが良い。死の時を。後悔し、悶え苦しむがよい、お前の女神様への汚らわしき侮辱を>
 再び、歌声が流れ出す。
 すると、ミリュウの『聖痕』が淡く輝く。
<プルカマルペラ
 プルカマルペロ
 ア・ヴィンガ・ウ・ウォルバル・ティディア
 アー・ヴォンガ・ウ・ウォルバト・ティディア――>
 最後に、アリンは唱えた。
 そして、
<悪魔よ、どんなに足掻こうとも、最期の時だ>
 ぶつりと映像が消え――代わってスライレンドの様子が戻ってくる。
 スライレンドも、会見場と同じく、当惑・驚愕・困惑・疑念・焦燥――様々な感情が複雑に絡まりあっているのだろう、皆が皆大型宙映画面ヒュージ・エア・モニターを凝視し、芍薬を抱えるニトロ・ポルカトさえも口を結んで……ひどく、静まり返っていた。
「…………ミリュウ様」
 誰かが、演壇に佇む『破滅神徒』へ声をかけた。
 皆が皆、彼女を凝視した。
 聖痕を淡く輝かせ、ミリュウが大きく息を吸い、
「わたしは、『ニトロ・ポルカト』を認めません」

<わたしは、『ニトロ・ポルカト』を認めません>
 初めて、公の場で、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナがそう告白する姿を、ニトロは大広場を埋める喧騒の中で見つめていた。
 雨の中でも鮮明に画像を映す大型宙映画面ヒュージ・エア・モニターは、演壇に立つ奇怪ながら美麗でもある紋様を肌に刻む王女の顔色も鮮明に伝えている。
<何故ですか!>
 記者だろうか、思わずといったように、会見場にいる誰かが怒鳴るように問うている。
 画面に映る少女の目はそちらを見ない。青い『聖痕』を浮かべる不健康な蒼白い顔を動かしもせず、
<何故……?>
 その問い返しは無表情に行われ、無表情であるが故に異様な迫力を有し、問いかけた者も再度声を上げることはできない。ニトロの周りでは囁きが重なり合い、明らかに“異常”である王女の様子に戸惑っていた。
<きっと……お解りにならないのでしょうね>
 カメラを見つめたまま、ミリュウは言う。
(いや……)
 ニトロは悟った。彼女は、『俺』を見つめているんだ。
<『ニトロ・ポルカト』は、お姉様を苦しませます。涙を流させます。『ニトロ・ポルカト』は必ず――必ず!>
 一瞬、ミリュウの声が爆発する。突然の激昂に多くの者が肩をすくめる。
 ミリュウは息をついた。そしてまた平静に、
<あの『悪魔』は、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの心を砕くでしょう。そして砕かれたお姉様のお心は、きっと、元には決して戻れない。その時、あなた方は、恐ろしい後悔と共に『悪魔』を信じた自己を責めるでしょう>
<……根拠は、あるのですか?>
 おずおずと、質問の声が飛ぶ。
<根拠?>
 ミリュウは微笑んだ。
 ニトロの周囲でざわめきが起こる。おそらく、音声は拾われていないが、定例会見場も動揺していることだろう。
 ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナの浮かべた微笑み――その恐ろしく不気味な微笑。
<根拠など、それが一体何なのです>
 胸の裏側を鋭い爪で撫でられたような怖気が、人の間に伝わっていた。
 その微笑は……その『死臭のする微笑』は、ある種、王家の誰のカリスマとも比肩するものであった。
 慈愛溢れる王・王妃、媚貌びぼう優れた長男、錆鉄を黄金に練り変える次男、冷たいほど美しい長女、天才・希代の王女・覇王の再来・明晰なる賢君――あらゆる礼賛と畏れを浴びる蠱惑のクレイジー・プリンセス、美少女よりも美少女らしい容貌に才気を秘める三男。
 その誰よりもずっと劣り、特に次女に比して語られる『劣り姫』……それが、今、その誰にも劣らぬ存在感を表している。先に彼女が西大陸で見せた威厳もこれに比べては“劣る”。演壇に立ち、『聖痕』を淡く輝かせる王女は――幽鬼――それを思わせる姿でそこにいる。
<これは――『破滅神徒』の予言。神より託されし宣告>
 ミリュウは言った。
 それは、もちろん、彼女が否定したように根拠などと言えるものではない。だが、それなのに、彼女に反論できる者は一人とてなかった。不気味な笑みの下、確固たる意志を覗かせる暗い瞳で一点を凝視する彼女はもはや別の世界を見る住人のようであり……『伝説のティディア・マニア』――死の世界から姉の手によって蘇った彼女の言葉は、まさに予言、拒み難い霊的な響きを伴って聞こえたのである。
 ニトロの傍で、唾を飲む音が聞こえた。
――<<呑ンデイルネ>>
 芍薬が言う。ニトロは抱きかかえているアンドロイドを見下ろすことなく、小さくうなずいた。『女神像VSニトロ&芍薬』の戦いが作った熱気はもはや完全に冷え切っている。今、“空気”を支配しているのは、彼女だ。
 彼女は大きく息を吸っている。
 吸い切ったところで、一度、どこか怯えたように肩を揺らし、それから眉をひそめるように眉頭を突き上げ、
<ニトロ・ポルカト>
 三白眼でカメラをめ上げ彼女は呼びかける。
 ニトロに視線が集まる。
 彼は顔を引き締め、画面を見つめていた。
<お前は素晴らしい>
 周囲が戸惑いに包まれる。
 ニトロ・ポルカトを認めないと言いながら、誉れを与える王女に皆が動揺している。
 だが、ニトロは動揺しない。彼女が、分裂した、しかし分裂していない感情――そういう複雑怪奇な心を抱えていることは既に理解している。
<お前の戦いぶりは、見事。もしお前が王となれば、平民出の王の中では最も勇敢な男となるでしょう。いいえ、初代様まで遡っても有数の武勇ある王として讃えられることでしょう。本当に……死ななかったのが、不思議でならない>
 その言葉が、直近の女神像との戦いを皆の記憶に呼び起こし、殺意を隠さぬ彼女への非難と、殺意を認めるほど本気である彼女への畏れが同時に沸き起こる。
<けれど、それでもそれは所詮機械を相手にしてのこと>
 カメラを睨め上げたまま、ミリュウは微笑む。
<最後の試練だ。お前は、人間を相手にしても同様に戦えるか? テロリストは身一つで襲いかかってくることもある。女子どもの姿をしている時もある。お前はそれからも妻を守る騎士としてあれるか?>
 幽かに震え、心胆寒からしめる声で彼女は言う。
<話は暴徒に限らない。
 王ともなれば人を切り捨てねばならない時がある。
 心優しいお前はそれに堪えられるか? 巻き添えを恐れ、少しの場外乱闘すら危惧していた心優しいお前が、自ら犠牲を作ることができるか? 犠牲を犠牲と思わず、突き進むことができるか? ああ、何度でも言おう。お前は素晴らしい。機転も利き、人を思い遣れ、信頼を勝ち取ることができ、人ならぬ者とも厚い絆を結べる――歴代でも人徳ある王となれよう。ニトロ・ポルカト、お前は優しい。お前の人徳もその優しさが支えている。だが! ニトロ・ポルカト、お前のその資質は、残念ながら王にとっては必ずしも必要とされない。それどころか時として善なるが故に政において厄介極まる障害となり、また、それ“だけ”を有する王は、時として君主として最も相応しくないとされるものだ>
 ミリュウの言葉は、アデムメデスに浸透する。
<八方美人の王が、優しいだけの女王が、結果として多数を不幸にしたことは歴史が証明している。他人の心を慮り、己を侮辱する者すら気遣うお前が、決してそうならないと言えるか? それとも、厳しい判断は、全て、『無敵の女王』に頼るか? そうしてお前だけは寛大な王として振舞うか? なるほど、傍に有能極まる人がいるならば、優しいだけの王が、八方美人の女王が、結果として賢君として讃えられることもあると歴史は証明している>
 その言葉は、周囲に与える影響とは別に、ニトロにだけ痛烈に響く意図を隠していた。
 ミリュウは言った。ティディアは、無敵ではなくなったのだと。それなのに、それでもティディアに――無敵の女王に頼るということがあれば、ミリュウの言葉の通りに王たるニトロはティディアを苦しめる存在となるだろう。
 それを彼女は、そもそもこちらが否定したはずの『恋人達の未来』を、否定されたことを解っていながらわざわざ強調までして語っている。
 それと同時に――ニトロは気づいていた――敵は、さすがにあのティディアの妹であった。
(『主導権』も取り返された)
――<<御意>>
 そう、ここにきて、『ショー』の性質にも変化が加えられていた。
 ミリュウは、もはや自身の『シナリオ』を半ば無視している。そうして無視した半ばを『妹姫の試練』というこちらの用意したシナリオで埋めながら、神官アリンの先の言葉を補強する以上のことを語っている。
 冷静にセリフのつながりを鑑みれば、アリンの立つ瀬はないだろう。
 だが、逆に、それだけに、ミリュウの言葉には力が備わっていた。何しろ彼女は――第二王位継承者は、つい先日、口先だけではなく、実際に民の苦しみを背負っていたのだ。優しく和やかで、争いごとを好まぬことで知られた少女が、王女として実際に背負って見せていたのだ! だからこそ、その言葉には悲愴なまでの説得力があった。
 本当に、見事だ。
 最後の試練の前振りには、彼女がただ妹としてではなく、『王』に属する者として確かめておかねばならないと主張するものが据えられている。そうすることで、これまでは“ミリュウという一個人、『伝説のティディア・マニア』が『姉を愛する妹として』課する試練”の意味合いが強かったものが、今や第一王位継承者を支える第二王位継承者が――さらに言えば、ティディアとニトロ、第一第二と序列はあるが、共同君主となる二人の子が生まれるまでは第一王位継承権を担うことになる王女が、ことさらに自らも背負うものの“重み”を説き、生来の一般市民である未来の王に対し純粋に『王』足りえるのかを問う試練ともなっている。
 ニトロの脳裏には、ふと、マードールに自覚させられた重圧が揺り戻しのように蘇っていた。――『実を言えばな、君がアデムメデスの王になろうがなるまいが……ここまでくれば正直それは関係ないのだよ』――そこにミリュウの影が圧しかかってくる。――『お前はそれに堪えられるか?』――場所も悪かった。今、周囲にいる観客達、期待を寄せてくるアデムメデスの国民達。その全員の体重までもが乗りかかってくるようで――と、ニトロの感じる吐き気が戦闘服の脳内信号シグナル転送装置を通じて芍薬に伝わったらしい。くっ、と、芍薬の手が腕を握り、ニトロの精神を重圧から守る。胃を突く悪寒が散らされる。
 芍薬に、またニトロは救われた。
 そして救われたニトロは考えずにはいられなかった。
 そこに独り立つ王女は……王家のA.I.に『普通の女の子』と評され、姉の執事には『自分ニトロと同類』と指摘され、また彼女自身も『貴方はわたしと同じ』と語っていたミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナは、このような重圧からどうやって心を守っているのだろう。慣れ、などとは言うまい。やはりティディアを支えにしているのだろうか。いや、大きな支えにしているはずだ。それを、もしや、俺に奪われたと思っているのだろうか。いいや、実際に、不本意ながらも『ニトロ・ポルカトが奪った』形には違いないのだろう。だから彼女は俺を恨んでいるのか? だとすれば恨まれることに納得はできずとも、恨む筋には理解もできるが。
「……」
 ミリュウは微笑み、真っ直ぐにこちらを見つめて、語りかけてくる。
<だが……わたしは知っているよ。ニトロ・ポルカト。確かにお前は優しい“だけ”ではない。もちろんそれを知っている。皆も知っている>
 誰も何も言えない中、『破滅神徒』は次第に熱を増して言う。
<勇敢なお前のことだ。人を思い遣れるお前のことだ。であればお前は、むしろ人の苦しみを進んで背負っていくのかもしれない。だが、かもしれない――では済まない時がお前にもやってくる。
 いや、もうやってきている。
 今だ
 ミリュウの顔がふいに脱力し、眉の険と三白眼が消え、下半分は不気味な笑みのままに上半分が“和やかな笑顔”に変わる。異様な陰影を刻む『聖痕』の青い紋様が飾り立て、それはまさに怪物の笑顔だった。
 ニトロは、未だこれほど恐ろしい顔を見たことはない――そう思った。
<戦いましょう。ニトロ・ポルカト>
 まるで人が変わったかのように柔らかに、ミリュウは言う。
<最後の試練。わたしと、剣を交えて戦いましょう>
 スライレンドの大広場が狼狽する。ミリュウの背後からも声が聞こえてくる。
 ニトロには動揺はなかった。話の流れからしてそれは自然であるし、それに、女神像を倒された今、教団側に残る“戦う価値のある戦力”は彼女の他にない。
 ミリュウの瞳には確認の意図が伺える。それはこれから言うことを、『敵』よ、よく聞けと呼びかける眼差しであった。
<お前の体には、毒がある>
 さらにスライレンドの大広場が騒ぎを増し、ミリュウの背後からも大声が聞こえてくる。
<わたしとお前は繋がっている。この『聖痕』と『烙印』が>
 愛しげにチョーカーに指を這わせながら、彼女はさらに得意気に言う。
<明日と明後日の狭間――それがタイムリミット。真夜中の鐘が鳴る時、わたしの『聖痕』は燃え上がる。神より賜った聖痕が女神の世に『刻』を告げる爆発を起こし、わたしはわたしの命を最小にして最強の眷族に与え、そうしてお前の体を朽ちらせる>
 その発言にニトロは、さすがに総毛立った。周囲も戸惑いながら凍りついている。きっと会見場も困惑の中で息を止めている。彼女の言葉はそれだけ重大な意味を孕んでいた。それなのに、彼女は、笑顔を浮かべ続けている。
<解除方法は三つ>
「『悪魔の血によって贖うか、聖痕の血で浄化するか、あるいは神の赦しを得ねばならない』」
 ニトロが小さくつぶやくのに合わせて、ミリュウも同じことを言った。
<――解ったでしょう?>
 つまり、ニトロが死ぬか、ミリュウを殺すか、それともティディアに泣きつくか。……ここにきて、最後の一つは意味があるまい。可能性はゼロではないにしても、当事者として、それが問題を根本から解決できるとはどうしても思えない。
<でも、わたしを殺せ、とまでは言わない>
 と、ミリュウがまた前言をひっくり返した。良いように弄ばれる人心が泣きたい気持ちを表すようにさんざめく。
<未来の王を、未来の夫を、人殺しにしてはお姉様にも申し訳が立たないもの。
 だから、わたしの血を手に入れてみせなさい。わたし達は血で贖い、血で清める。そう、『聖痕』を傷つけ、そうしてわたしの生き血でお前の穢れた口と腹をそそげば、わたしを殺さずとも『烙印』は消える。烙印が消えれば、烙印と繋がるわたしの聖痕も――消える>
 難度を下げたとはいえミリュウの要求はそれでも強烈なものであった。彼女を殺したくなければ、女性の体を、それも胸元から顔にかけての何処かを傷つけ、そしてその血を飲め……
「どういうプレイだ」
 思わず、ニトロが苦々しくつぶやく。間近にいた数人が、ニトロの心情察して余りあり、彼につられて渋面を作っていた。
<だけど、お前はもちろん気づいているな? お前が助かる道は一つではない。そうだ、わたしの挑戦を受けなければいい。烙印がどのようなものか判ったとなれば対処もできよう? いや、お前のことだ、きっともう手を講じているだろう。万全を期するならば協力を惜しまぬ味方も大勢いよう。助けを借りればお前に危険はない。そしてお前は助けを借りることのできる人間だろう。ならばやはりお前は、大事に至らず事を乗り切れる>
 ――大事に至らず? ニトロは歯噛んだ。
(嘘をつくな)
 その挑戦を受けないということは、すなわち『破滅神徒』を見殺しにするということではないか。もちろん聖痕が燃えるだの爆発するだのはハッタリかもしれない。しかし、ハッタリのはずがない。そっちはいつだって本気だ。解っている。そしてあなたはこちらがそれを理解していることを理解した上で言っているのだろう?
 ニトロが問いかけていることを判っているように、ミリュウは大きくうなずいた。
<お前が“わたしの挑戦から逃れる選択”を採ることを、わたしは卑怯だとは思わない>
 彼女は堂々と言う。
<わたしと戦うことは、それだけでリスクのあることだ。お前にとってわたしなど雑魚以外の何者でもなかろうが、それでもリスクはある。“失敗”した時のことまで考えれば――わたしが敗北から逃げることもありうるのだからな――より安全な手立てを確保することは、リスク管理として当然のことだ。
 為政者は時として、リスクを避けるために犠牲を強いることもある。
 だから、お前がリスクを避けることを、わたしは決して責めはしない。それどころか、お前はお前の身を守るために犠牲を看過することができるのだ、と、わたしに証立ててみせたのだと“かの世”から褒め称えよう>
――<<伊達ニ“政治”ヲ学ンデキタワケジャナイネ>>
 芍薬が素直にミリュウへ賛辞を送る。
 ニトロも同意見だった。
 彼女は……第二王位継承者は、相手が採れる道を説明し、それを支持しながらも『わたしを犠牲にしてお前は(それを理解しながら)保身に走るのだ』という意味をきつく刻み込んでいる。そしてその意味はこれまでニトロが“勇敢な姿”を示していただけに威力を増す。もし、こちらが『戦わず』の選択を取れば……彼女が今構築してみせた価値観を覆すのは容易ではない。『ニトロ・ポルカト』に対して勇敢なイメージを抱く観客達はその主役の“裏切り”に――さて、どういう反応を見せるだろうか?
 戦わなかった自分達の選択は、ミリュウが保証した以上、それを根拠として正当であると広く認められはするだろう。
 しかし、だからこそ、それをミリュウの刻み込んだ価値観で評価されるからこそ、認定の裏ではより“卑怯な人間”として定着してしまうだろう。
 周囲には、“ニトロが取り合わない”道をミリュウが認めたことで、彼女の『聖痕』のもたらす悲劇的な結末はハッタリ、もしくはそういう演出だろうという空気も流れて出している。一方、これまでの彼女の行為からそれも本気だろうと信じている様子もある。ハッタリだ演出だと考えている者達は、その安堵を彼女の血飛沫に塗り潰された後、凄まじい反動を見せるだろう。一方、彼女の本気を信じている者達はある程度の覚悟を持ってその時を迎えられるだろうが、それだけに“そんなことにも気づかない”次期王を責めるだろう。
 なるほど、さらにその上で『栄光の女神様』とどうにかして別れてみようか? その後、ニトロ・ポルカトという卑怯者が、穏やかにこのくにで暮らすことは決してできまい。
(いい手だね)
――<<実ニ“政治的”サ>>
 芍薬は苦々しい感嘆でミリュウを評価する。そして、
――<<ダケドオカシイコトニ、コレジャアマルデ主様ヲバカ姉ト別レサセタクナイミタイダ>>
(うん、それは、俺もおかしいと思う)
 こちらの疑惑の目の先で、ミリュウはどこか晴れやかな姿をしている。
 と、ニトロは、疑惑とは別の疑念をふいに抱いた。晴れやかな姿?
<ニトロ・ポルカト>
 こちらへ呼びかけるその姿は……そうだ、ニトロはようやくそのことに気づいた。彼の心に電撃にも似た衝撃が走る。彼女は、事ここに及んで――何故、そんなにも?――実に希望に満ちている
<優しいあなたは、きっとわたしと戦いたくなんかないでしょう。しかしその『安全』を放棄してでもわたしの挑戦を受けるというのなら、わたしは嬉しい>
 熱を帯びていた口調を急に和らげ、彼女は告げる。その口元には不気味極まりないあの死臭のする微笑があった。それも死臭が増している。ニトロの傍で誰かが息を飲む音が聞こえる。が、ニトロは、少女の死体が笑っているような恐ろしいその顔よりも、再びその微笑の下に現れた彼女の感情に目を奪われていた。
<嬉しくて、嬉しさの余り、お前を返り討ちにしたくてたまらなくなるでしょう>
 笑みを浮かべるミリュウの瞳は、笑みを浮かべる者が表す色を持っていない。ニトロは先の衝撃を上回る困惑を味わっていた。彼女の瞳はあの時と全く同じであったのだ。それは、そう、王城で見た彼女の瞳、『巨人』にも滲んでいた感情――そこにはまた、あの『恐怖』があった。体は実に希望に満ちているのに、それでも彼女は未だに強烈な恐怖を湛え続けているのだ。理解できない彼女の心情が、またしてもそこにある。
だから戦いましょう? ニトロ・ポルカト>
 彼女の恐怖は訴えている。それは彼女の戦いを恐れる内向きの心ではない。その恐怖は、あくまで攻撃的なまでに心をこちらに向けている。そうして彼女の意志を伝えようとしてくる。気づいて、と。受け入れて、と。そしてその意志とは……覚悟?――違う。ニトロは彼女の瞳の中で恐怖と混在する別の感情に気づいた。その感情の色はこれまでに何度も見たことがある。それどころか、それは現実に今も周囲にある。それこそは『期待』という。だが、彼女の訴えは『期待』というレベルでは追いつかない。これは、願望――いや、懇願だ。それもただの懇願ではない。気づいて! と、受け入れて! と、恐怖にせっつかれるように願いながら、どうしても「そうしろ!」と恫喝するように縋りついてくるこの上なく脅迫的な意志だ。
 ニトロは困惑するしかなかった。
(懇願?)
 敵が、敵に? 死臭と希望を漂わせながら、恐怖と脅迫に濁りながら!?
<もちろん、わたしはお前に敵わないでしょう>
 微笑で面を塗り固める怪物は、晴れやかな希望の下に激烈な情動を振りかざし、嬉々として言い続ける。
<だけど、わたしはお前を認めないから、抵抗します。お前を認めているからこそ、全力で剣を振るいます。
 戦いましょう、ニトロ・ポルカト。
 黄金時代を手の届くところに置いたこの栄光あるアデムメデスの王ともなるならば、戦って、わたしに打ち克ちお前の未来を勝ち取ってみせなさい。わたしは命は惜しくない。わたしは、お姉様のためにならないのなら、王に連なる一員としてお前を『粛清』する覚悟も決めている。
 ニトロ・ポルカト、わたしの優しいお義兄様?
 わたしは……『霊廟』で待っています>
 そしてミリュウは身を翻し、定例会見場から颯爽と去っていった。
 慌てて記者らが王女に事の真意をもっと深くただそうと追いかけるが、それも警備アンドロイドの壁によって妨げられる。
 大型宙映画面ヒュージ・エア・モニターの映像が切り替わった。
 画面には、アンドロイドを腕に抱き、画面を見上げて佇むニトロ・ポルカトがいる。
 ニトロは……雨の中で佇む自分自身を、少し茫然として見つめていた。
 画面に映る自身を見る彼の瞳には、希望に満ちたミリュウの笑顔があり、周囲の囁きを聞く彼の耳には、願望を伝える彼女の声がこだましている。
(つまり――戦いたかっただけなのか? 俺と?)
 既に戦ってはいる。だが、彼女の示した正道は“直接”刃を交える戦いだ。王城でも殺意を隠さず『消し去りたい』とまで言っていたのだから、彼女に怨敵を自らの手で『粛清』したいという心があるのはむしろ自然だろう。
 だが、そのためにこんなことを?
 いや、だからこそこんなことを?
 もし『直接戦いたい』――今回の件の全てがそれを実現するためだったとしたならば、なるほど、ほぼその挑戦をこちらが受けざるを得ない現状を作り出したミリュウの深謀遠慮は素晴らしいと言わざるを得ない。例えば、突然『お前が気に入らないから決闘を申し込む』と言われても、もちろんこちらは取り合わなかっただろう。しかし今ならば取り合わないわけにはいかない。受け止めざるを得ない。追いつめていたつもりが、逆に追いつめられていたのかもしれない。
 ……が、よしんばそうだとしても、それなら何故、王城で会談した時に彼女は襲いかかってこなかったのか。二人きりだった、あの時。例え刃物は用意していなくても直接戦うことはできたはずなのに、彼女は色仕掛けこそすれど、その他の仕掛けは何一つ出してはこなかった。それとも追いつめられたからこその手段なのか? いいや、『烙印』と『聖痕』の関係性を考えればミリュウはどこまでも用意周到だ。追いつめられる前からこの選択は存在していたと考えなければならない。では、あの時戦いを挑んでこなかったのは……もしや、素手では駄目だったというのか? 素手では、拳では、彼女の非力さでは命のやり取りはできないから? だから我慢していたのか? だが……確かに、剣を用いるならば彼女の力でも男を殺せよう。殺せようが、それで相手にも剣を与えてしまえば――しかもこちらは『天才剣士』でもある痴女対策に実戦的な剣術も叩き込まれてきた人間だ。彼女が仮想世界ヴァーチャルトレーニングで一時名人級の動きを体得できようとも、それはこちらも同じ行為で対応可能であり、となれば筋力差・体格差がものを言う。また、そもそもあちらは名人級の動きを得ようとしたならば体が追いつかないだろうが、こちらにはとても優秀なトレーナーに理想的な環境で鍛えられた体力と様々な武闘術の基礎もある。こちらに死のリスクのあることは認めても、それでもまともにやり合えば彼女に勝機はない。
 それとも……もしかしたら、彼女はあの『映画』をなぞろうとしているのだろうか。仮にそうだとすると、それなら今度はあの時実力で劣る“ニトロ・ポルカト”が勝てたのはティディアの加減があったためということが無視できなくなる。そう、例え気迫で負けたとしても今回の『悪魔』は敗北を選ばない。殺されることを選ばない。それも彼女は解っているはずだ。なのに……それでも勝つつもりなのか? 勝てるつもりなのか? 平和主義者で人と争うことを好まぬ王女であったあなたが、あなたこそ生身の人間を前にして命を奪えるつもりなのか? それとも勝敗はどうでもいいのだろうか。ただ、純粋に
せめてお姉様のために命懸けで悪魔と戦いたい?)
 陶酔にも似た願望。あるいは、そうして分身アンドロイドではなく生身でも殉教の真似事をしたい?
(それが真の目的?)
 ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナは、ニトロ・ポルカトと命を取り合う戦いを間違いなく望んでいる。
 そうだ。希望、恐怖、彼女が本当はどちらに傾いていようが、あの懇願だけは間違いなく彼女の本心からの呼びかけであった。
 彼女はようやくこちらの知りたがっていた本音を見せてくれていたのだ
 これだけは確かだ。
 彼女は強い意志を以て、心から戦いたがっている。相手の命を人質にしてまで。自分の命を人質にしてまで
 そして彼女は、直接戦うことでのみ得られる何かを強く強く望んでいる。
 そして……それは、本当に彼女が命を懸けるに値することなのだろうか。
「主様……」
 芍薬の声に、ニトロは我を思い出した。粘りつく『何故』の沼から足を引き上げるようにぎこちない笑みを浮かべ、
「大丈夫だよ」
 ふと気づけば、周囲には自分の『決断』を求める眼がある。その視線の――形も重さもないのに星と同等の重さを感じる眼差しを浴びながら、ニトロは息をついた。
 決断も何も、選択肢は二つに一つ……とはいえ、ミリュウが敷設した『レール』は、先にこちらが敷設したレールの上に溶接されたものだ。実質、選べる選択肢は一つしかない。その上、自分はミリュウの挑戦は全て受け、また全て叩き潰す覚悟を以てここまで進んできた。
 進むべき道は決まっている。
 明確な姿は未だ見せずとも、やっとその影をこちらの視界に現してきた彼女の本望を掴むためにも、虎穴だろうがどこにだろうが進むしかないことも解っている。
 だが。
 とはいえ。
 ああ、情けなくも、ここにきて全ての重圧が、一瞬乱れた心の隙間から体に食い込んできている。先ほどミリュウによって喚起され、芍薬によって散らされたはずの悪寒が未だしつこく内臓にしがみついている。
 自分は……今、多くの人に求められている理想像ほどに人間ができているわけではない。
 その思い。
 本当はこの地の救世主でないように、未来の王でもなく、強烈な搦め手を使ってきた相手の懐にひょいと飛び込む蛮勇えいゆうの気質を持つわけでもない。
 その想い。
 そも、多くの人が求めてきている理想像は、自分の求める理想の自分とは遠くかけ離れた虚像だ。いくら腹を括っても、どんなに覚悟を決めても、その事実が事実であるが故に持つ圧迫感は、自分にとって何よりも重い。
「……俺に割り振られたバカ姫は、一人だけだったはずなんだけどねぇ」
 雨がニトロの頬を伝う。
 色々思い返せばちょっとだけ泣きたい気分にもなるが、既に天が泣いているのなら、涙はそちらに任せてニトロはただただ苦笑する。
「ドウスル? 、ッテ考エルノガ定石ダヨ」
「そうだね……ひとまず一晩、考えてみようか」
 それを聞いた周囲の人間がため息のような息を漏らし、まごつく。人づてに彼の発言が伝わっていき、どうにも落としどころのない感情が溢れていく。
 やがて煮え切らないざわめきが生まれ――中には即断を下さないニトロへの失望のため息もある――騒ぐ人々の中、ニトロはとにかく休息を得るために歩き出した。
 ニトロが進む先、人海が割れていく。
 周囲はまごついているし、ところどころでため息も漏れ続けているが、それでも即座に期待に応えない彼を責める明確な言葉はどこにもない。いや、責められないのだ。芍薬のあえて示した『罠』という考えが、ニトロ・ポルカトは臆病風に吹かれているのではなく『急転した事態にあっても思慮深さを失わない』という形を作り出し、またそれを強調しつつ補強している。敵の罠を見抜くのも王の資質として求められるものではあろう。さらに他所にいる者ならばいざ知らず、この場にいる者達は女神像の脅威を実際に目の当たりにしている。あの『兵器』の恐ろしさに外野とはいえ肌で触れた者が、彼の判断を(それでも即断即決の英雄的な態度を期待してしまうのだろうが)間違いだと言えるわけもない。考慮する時間はあるのだ。急ぐ必要はない。一晩――ミリュウ姫の定めた期限を鑑みればちょうどいい時間でもある。となれば、彼の態度を責めることこそ単に考えなしの愚か者であろう。……そして、この空気を生んだのも、芍薬がマスターのための猶予を得るために講じた一つの“政治”だった。
「……」
 ニトロは割れた人海の底を歩き続ける。
 周囲には、戸惑いも溢れていた。
 ニトロ・ポルカトの顔は、いつになく険しい。これまでになく険しい。
 その険しさが喚起するものは、無論ニトロの苦悩への理解ではなく、ミリュウ姫の言葉はやはり本気であるのかという不安であった
 皆、ニトロを信頼していた。皮肉なことに、それが事の重大さを皆に知らしめていたのである。
 皆も理解はしているのだ。王女の提案した最後の挑戦は、第一に『本当に彼女の命が懸かっている』ということを前提にしなければ成り立たないことを。
 その上で、それが本気だと思う者がいて、それはハッタリ・演出だという者がいた。
 それが今、彼女は本気だと、ニトロの表情によって誰もがそう思い知らされ始めていた。
 しかし反面、人の感情は確実であることにも疑惑を抱くものだ。あるいは、確実であればあるほど反射的に疑惑を抱く。ここでも自然とそれが起こっていた。ニトロを信頼するが故に、そしてまたミリュウ姫という優等生への信頼もあるがために疑惑が沸き起こり、そうして皆の心は乱れ出していた。そんな、まさか? それは本当なのか? そこまで姫君はやろうとしているのか? しかし何故? まさかそんな――だが、真実を確定する材料は姫君の言動と未来の王の反応しかない。いや、まさか……だがまさか
 当惑の渦巻く人海をニトロは芍薬を抱えて歩く。
(――)
 そして、内心で、ため息をつく。
 道を開ける皆々の中から聞こえてくる本当に様々な声。目の前で小学校高学年くらいの男の子が応援してくれていた。その親も拳を握って励ましてくれている。
(――なかなか、なかなか……)
 教団のローブを着た女性がそっと肩に触れて慰めのような笑顔を贈ってくれる。
 どこかから、姫君がどういうつもりでも彼に任せておけば大丈夫だという雑談が届いてくる。
「…………」
 ニトロは……彼ら彼女らの示す敵意のない心を、重く感じていた。
 そして重く感じるだけでは済まず、いつしか疎ましく思う心さえある自己を、彼ら彼女らに敵意がないからこそ嫌悪してもいた。
 周囲を支配する戸惑いの裏には常に『ニトロ・ポルカト』に対する“期待”がある。しかしこの状況を作り出した責任は自分にもある。自分には、この状況に至ることを避ける手立てがあった。『劣り姫の変』を徹底的に無視するという選択肢が。そうすれば失望こそ買えど、こんな大きな期待は勝ち得なかった。ドーブや他の誰かが暴走する『ティディア・マニア』と乱闘騒ぎを起こしたり、各地で教団派・次期王派の衝突が起きたりする可能性を黙認し、マードールの庇護の下に留まっていればきっと今も安穏としていられた。
 ミリュウの言ったことは正しい。
『烙印』という“枷”だって、その気になればどうとでもできたのだ。例えば毒が仕込まれていたならば仮死状態になって解毒・除毒を待てば良い。既にそのための薬を体内に打ち込んであるし、毒で破壊された部位の再生医療の手配もハラキリに頼んである。爆発物であれば体ごと凍結して除去に臨めばいい。これも既にハラキリに用意を依頼してあるし、凍結のための手段は芍薬が持っている。究極的にはティディアに責任を取れと迫り、『女神様』という絶対安全圏に逃げ込むことだってできただろう。だが、それを自分は選ばなかった。いや、選べなかった、と言えば格好もつくだろうか? ドーブや『親衛隊』――あの活力を取り戻した中年男性とその妻や、名も知らぬ誰かがこんな騒動で傷つくことを黙認する……そういう犠牲を厭わなければ……そんなこと、できるものか! そうだ、これもミリュウの言うことは正しいのだろう。だからこそ期待を寄せている皆々に対して悪感情を抱く自分が嫌で、だからこそ――だからこそ……だけど、自分のこの胸中を悪だと言える者はどこにいるだろう。今、このような自己嫌悪を抱いている自分こそ、正直に語れば優等生的な態度も極まるむしろ悪しき善徳というものではないか? 周囲の期待はいつでも勝手なものだ。しかしその期待が生まれることもいつでも自然なことだ。どちらにも罪はない。罪と言えるものではない。だが! そうやって理解してしまうからこそ、その理解こそが無邪気に己を苦しめてくる。
 ミリュウに思い出させられた『重圧』が、時を追うに連れて重みを増していた。
 雨の中、喉が渇く。
 雨の流れる先に暗い深淵が見え、生き地獄にびっしりと生え並ぶ失望と絶望が手招きをしている。
 ニトロは、歩く。
 雨は暑気をいずこかへ押し流し、夏であることが嘘のような涼気をもたらしている。もはや大雨だった。その中で、いつしか、まるで彼ら彼女らが自分達の戸惑いを振り払うように湧き上らせていた声援が、雨の落ちる音を凌駕していた。
 皆、王女に大いなる難問を課された少年を励まそうとしてくれている。
 しかし、その声は全てを地へ叩き込む巨大な滝の音に聞こえる。
 あまりに激しい音に耳鳴りがする中、ニトロは、ただ二つの声を欲していた。
 一つは、今は傍にない。
 が、
――<<晩御飯ハあたしガ作ルネ。コノ体ナラ何ダッテ作レルカラ、ドンナリクエストニモ応エルヨ>>
 今も傍にある心強く、また優しい声がニトロの心に響く。
 喉の渇きが、和らぐ。和らぎ消える。耳鳴りも治まり、周囲の轟音がちゃんと声援として聞こえてくる。
(クリームシチューがいいな。大きなジャガイモがごろりと入ったやつ)
――<<承諾>>
 ニトロは割れる人海の底を歩き続ける。
 周囲の感情の波に飲まれず、力強く。
 そして群集の真っ只中を、自分の目的地に向けて真っ直ぐ進んでいった。

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