6−f へ

「――さすがは『悪魔』よ。人心に取り入るはかねてよりの得意か」
 駅舎出入り口の庇の上に立つ三人の信徒、その中央に立つ者が一歩踏み出す。教団の黒いローブのフードの下は影に落ち、顔は見えない。しかしそれが『ミリュウ』の顔をしていることは明白であった。
「惑わされるな、我らが志を共にする者らよ」
 大きく両腕を広げ、ミリュウの声で信徒は言った。その声は万民に向けられながら、その眼はニトロを中心にして徐々に広がっていく『舞台』の前線の一画、『親衛隊』の指示に従い退きながらも酷評を受けた人形ひとがたを未練がましく掲げ続ける者らに向けられている。
「汝らが無念は我らが全て引き受ける
 それは、先にニトロが宣言してみせた言葉と同じ意図。その意図がじわりと浸透し、やがて『マニア』の群から歓声が上がった。そうだ、いかにニトロ・ポルカトが傲岸にも挑発してきたところで乗る必要はない。我らが女神を奪った憎き男は教団の神官・信徒らが神に代わって罰してくれる。我らはそれを応援するだけでいい!――と。
 他方、ここに明確に完成した『プカマペ教団VSニトロ・ポルカト』の構図に興奮した観客の歓声もそこかしこに上がっていた。『マニア』の歓声に張り合うように、『ニトロ・ポルカト』への応援の声も張り上げられている。
 またそれらの歓声の裏では、先ほどニトロが明かした“ミリュウの事情”からこの件がこのように囃し立てられるものではないと考え、どのような顔を作れば良いのかわからず傍観している者もいる。目立たぬが、ミリュウ姫のファンだろうか、歓声を止めるよう抗議している者もわずかにいるらしい。周囲の様々な空気のどれに賛同したものかどうかまごついている姿も、ローブを着た者らの中にある。
 しかし、それぞれの歓声の中に渦巻くそれぞれの思いは、一つの大渦としてまとめられた大歓声の中ではそれぞれの意味を何一つ保てない。この光景はカメラという強制的な視点を通じて、ただ盛り上がる現場としてアデムメデス全土に(同時に銀河に)伝えられているだろう。あるいは、多数のチャンネルの視点カメラを分析して“現場の正確な状況を探ろうという楽しみ方”への新たな燃料となっているか……
(何にしても)
 ニトロは、上空にたむろし、時に視界の上部をかすめるくらいにまで入り込んでくるマスメディアの姿を思いながら、
「引き受けて、どうするつもりかな」
 挑発的に、言った。
 といってもその声は軽々しい嘲笑を含むものではなく、低い声で、先までの彼とは違って戦意を前面に押し出したものであった。
 歓声が萎むように消えていく。
 軽く身構えたニトロの姿は、黒い戦闘服に漂う雰囲気とも相俟って、祭の最中にあっても触れれば切れる真剣の凄みを周囲に伝える。
「それを問うほどに愚かか、悪魔よ」
 信徒は言う。教徒らに向けるものとは違い、敵意をむき出しにして。
「決まっていよう。女神様のもたらす至福の世のために、貴様は存在してはならぬのだ!」
 そして信徒が懐に手を差し入れた――と、その瞬間!
「!!」
 信徒の顔面が爆発し、爆発に押し倒されるように凄まじい勢いで後ろ向きに転倒した。
 同時に観衆が揃って一音を発し、揃って息を飲む。
 倒れた信徒を、その両脇を固めていた仲間が頭だけを動かして見下ろす。二人の間からは細い煙が昇り、ゆらゆらとたなびいている。
 戦慄に、空間が凍りついていた。
 凍りつく空間の中心にいるのは、一体のアンドロイド。
 ここまでずっとマスターの影のように控えていた戦乙女――芍薬の差し上げられた右手に、数多の視線が集まっていた。
 引き金に象牙のように美しい指のかかる、光線銃レーザーガンがそこにあった。
 思い出したように戦慄が声となって噴き上がる。
 ニトロと芍薬の立つ『舞台』がさらに急速に面積を増していった。
 皆、理解し納得しながらも、それでもニトロの警告を実感してはいなかったのだ。
 ――『手加減はできない』――
 それは真実、どこからどこまでも言葉通りに受け止めねばならない警句であったのだ。
 皆、事ここに至ってニトロ・ポルカトの本気の度合レベルを真に悟った。
 これから彼の周囲で起こる事がどれほどのことであるのかも身を以て悟った。
 無意識的にもアデムメデスの民に残っていた『劣り姫』への侮り――それが払拭されていく。ニトロ・ポルカトは彼女を指して『小さなクレイジー・プリンセス』と評した。あの『クレイジー・プリンセス』と唯一対抗できる彼がそう認定したのだ。その重大性が深く認知され、“クレイジー・プリンセスには関わるな”――アデムメデスの常識が舞台に近づきすぎた観客達を安全圏に引きずり戻していく。
 ニトロは周囲の様子を受け、安堵していた。
 ようやく、騒動に『首輪』をつけられた。
 これで場外乱闘勃発への憂いも、不確定要素の飛び込み参加も、それを巻き添えにする恐れもなくなった。警察の規制もうまく機能している。まさに理想的だ。今の一撃でロータリー全域が新たな舞台と成ったのも助かる。流れ弾の危険はあるものの、それを除けば暴れ回るに十分な広さがある。これなら、これからは、
「ふ、ふ、ふふふ」
 これだけに集中できる
「ふふふふふ」
 笑い声を上げながら――観客がざわめいた――光線レーザーで撃たれた信徒が上体を起こした。
「うろたえるな、我らと志を共にする教徒らよ! プカマペ様のご加護、女神ティディア様の奇跡を以てすれば何のこれしき笑止千万! 全くもって痛痒もない!」
 信徒が立ち上がる、と、焼け焦げたフードが外れ、その下から、爛れ、黒ずんだ皮膚をめくれ上がらせる『ミリュウ』の顔が現れた。しかし被害の程度はそれだけである。信徒がアンドロイドということを差し引いても、光線の熱エネルギーをまともに受けたにしては軽症に過ぎた。が、いかに怪我の程度が“その程度”で抑えられているにしても、その外傷面が与えるショックは非常に強く、周囲からは悲鳴が上がった。
 その悲鳴を待っていたかのように『ミリュウ』は嬉々として叫んだ。
「見よ!」
 信徒が袖で顔を拭う。するとまるで顔パックが外れるように皮膚が剥げ、その下から輝かしい玉肌が現れた。周囲の悲鳴が何と反応していいものか動揺に変わる。
 信徒は笑顔でさらに叫ぶ。
「悪魔の眷属の火矢に射られたとて命奪われることはなく! たちまちお肌もつるりと復活! これぞ神の技! これこそ奇跡!」
「アンドロイドならそんな手品は簡単だろう、神に頼らなくても」
 険立ててニトロが言う。と、信徒が猛烈な眼差しでニトロを睨んだ。その人工眼球の中に、ニトロは機械からは感じないはずの熾烈な感情を見た。『巨人』からもこの身に浴びせかけられたもの。ティディアの部屋で見たあの王女の瞳――それが、やはりそこにある。
 信徒が口を開く。口の形は明らかに何かを言おうとする前触れであったのに、しかし、それがふいに相手を小馬鹿にする笑みへと変わり、目もニトロから離れる。
 ――そこに、違和を感じた者は誰もいなかっただろう。
 反論しようとして、言葉にすることも馬鹿らしいと気を変えて嘲笑した……信徒の態度はそういうものであり、あえて『敵』を無視するようにそらされた視線をおかしいと感じる人間もやはりいない。――そう、ニトロ以外には。
(?)
 ニトロは、信徒のその一瞬の変化を極めて異様なものと感じていた。
 何だろうか……今のは。
 ほんの数秒前には熾烈な感情を覗かせていた信徒の瞳が、瞬間的に冷却していた。あれはティディアの部屋で見た『敵』の瞳そのものであったのに、それなのに、もうそこには“彼女”はいない。信徒は今までそこにいた人間が、ふと人形になってしまったかのようにも思える調子で、こちらから目をそらしてしまった……
 もちろん、信徒の態度は、確かに反論が言葉から嘲笑に変換されたという受け方のできる反応ではあった。が、違う。あれはそういったものではなく、信徒が言葉を吐こうとした行動自体が他所から意図的になくされていたのだ。あの嘲笑は、嘲笑ではない。あれは場を取り繕うためのただの演出にすぎない。
「しかし奇跡はこれだけに止まらない!」
 信徒は叫ぶ。
 信徒はこれまでと変わりなく熱く叫んで“進行”している。
「プカマペ様は我らに力をお与えになった! 悪魔を屠るために!」
 この場において信徒がこれまでとは違うことに気づいた者は、ニトロの他に誰もいない。
 いや――あの和やかな笑顔で知られた少女が人の変わったように激しく憎悪を表す姿を直接目の当たりにしたニトロ以外に……またその底深い憎悪を直接ぶつけられた彼以外に、それを知れる人間がいるはずもない。
(……)
 ニトロの直感を、根拠あるものとして支える“要素”も、存在した。
「女神様は我らに力をお与えになった! 悪魔と対決する勇気を!」
 ニトロの隣に芍薬が並んでくる。
 片や、演説する信徒の両脇では、これまで微動だにしていなかった二人が前に出てきていた。演説する信徒が、怨敵の隣に並ぶ大敵を挑発するようにパチンと指を鳴らす。すると信徒らの前に青白い膜が現れ、消えた。レーザーはもう無力であるという宣言だろう。今度は芍薬も――『示威行為』は先ので十分だ――手を出さない。
「信徒クロア、信徒アロク」
 名を呼ばれた二人が呼ばれた順にフードを下ろす。クロアは顔の右半分が切り傷だらけの、アロクは顔の左半分が擦り傷だらけの『ミリュウ』だった。
「皆の者、目に焼きつけよ!」
 中央の信徒が高らかに言う。
(芍薬)
 それを見ながら、ニトロは戦闘服の脳内信号シグナル転送装置を介して呼びかけた。
(多分、『繰り手』が変わった)
――<<ミリュウ姫ジャナイ?>>
「悪魔よ! その身に刻むが良い! 神の怒りを!」
 クロアが右手を、アロクが左手を掲げる。その手には薄赤い液体に満たされた筒がある。
「「憤怒のあまりに流されしプカマペ様の血涙、百日祈祷を終えた神官アリルの血を介し顕現せり! 我らこれを神水ネクタールと呼ぶ!」」
 信徒二人、叫び、筒をあおる。
 そして筒を手の中で割り、二人、共に庇から跳んだ。
 もはや遠巻きに場を見つめる群集が声を上げた。
 その跳躍力は人ならざる。二人の信徒は、空を跳んでいる。
 いや、人?――否、もちろんアンドロイドであることは皆解っている。ニトロが指摘した直後ということもある。しかし、それでも信徒らが生身の人間にしか見えず、その上『ミリュウ』の姿をしているとなれば、理解よりも先に先入観と条件反射から来る驚きが人心を動かす。
 何しろほぼ“立ち幅跳び”でおよそ20mを超え、
「「サーーーイ!」」
 信徒二人が同時に叫び、クロアの右腕が、アロクの左腕が急激に肥大し――群集がまたも声を上げる!――巨大にして異形の腕となる!
「わお」
 思わずつぶやきながら、ニトロはこの時にはもう不思議と確信していた。
王子だ!)
――<<! 承諾!>>
 ニトロは芍薬と合わせ、後方に跳んだ。直前まで二人がいた場所へ信徒らの巨大な拳が振り下ろされ、獲物を捕らえられなかった剛拳は何とタイルで補強された地をやすやす砕く! 爆発にも似た破壊音。もし避けなければニトロの頭は卵のように潰されていたことだろう――その様が容易に想像でき、観客らの肝が一気に冷える。
「「チッ!」」
 地に拳をめり込ませたクロアとアロクは片腕で逆立ちしたまま舌打ちし、何の変化もない細身のままの手で互いを繋ぐと、
「「ハイ!」
 まさに合体!
「「ハイソイエイヤーーーイ!!」」
 肥大した右腕を右足に、左腕を左足と代え、クロアとアロクがニトロと芍薬を追う。曲技といえば曲技。されど奇怪な光景に今度は度肝を抜かれた観客がおかしな声を上げる。
 突撃してきたクロアとアロクを、ニトロは左に、芍薬は右に跳んでかわした。――と、
「「ヲーーーーーイ!?」」
 不意に、クロアとアロクがつんのめる。
 ニトロの手には芍薬の袖口から伸びる細いワイヤーがあった。
 クロアとアロクはそのまま顔面から地に突っ込み、ギャッと悲鳴を上げる。
 そこにニトロと芍薬が接近していた。ニトロは片手でクロアの足を、芍薬も片手でアロクの足を掴み、
「フッ!」
 ニトロが鋭い息を吐くのを合図にし、二人同時に信徒を引っこ抜くように振り上げ……力任せにそのまま地面に叩きつける!
 観客らはこれにも度肝を抜かれた。
 ニトロが芍薬アンドロイドと同じように――いや、まさに全く同じく片手で信徒アンドロイド(それも腕を異常に肥大させた)一体を振り回して見せたのだ。その腕力はおよそ人間のものではない。少なくともニトロ・ポルカトの体型からはありえない。すぐに戦闘服に細工があるのだろうと勘の良い者が察したとしても、その驚愕の一瞬は『観客と役者の差』を改めて明らかにする。
 そして、
「―ッ!」
 複数の声がニトロに危険を知らせるよりも早く、彼は身を縮めていた。そこに芍薬が身を詰め、盾として立ちはだかり、マスターに襲いかからんとしていた逆巻く炎を袖の中から取り出した扇――大風を起こす神技の民ドワーフ謹製――を振るって吹き散らす。
「イッ-」
 息をつく間もなく、一つ所に固まったニトロと芍薬へ向けて攻撃があった。今にも蹴りを放たんと持ち上げられたクロアの右足が、腕と同じく肥大する!
「-エィア!」
 巨大な右足はおよそ丸太であった。いかにアンドロイドといえど打ちつけられればひとたまりもあるまい。人間ならばなおのことだ。なのに、ニトロは避けるどころか向かっていた。それは刹那! 蹴りの威力が最大となる点に達する寸前!――悲鳴が上がる――しかしそれは観客がニトロの悲惨な結末を見てのものではない。悲鳴は、強い踏み込みと共に突き出されたニトロの肘が――芍薬の修正を受け、さらに戦闘服の硬化機能が働き――的確にクロアの脛を迎撃し、骨をへし折り、そのために沸き起こったものであった。
「ギャアア!」
 クロアがのた打ち回る。聞く者の脛が痛み出す絶叫が響き渡る。
 だが、それも長くは続かない。
 ニトロの振るった毀刃きじんのナイフが、クロアの――ミリュウの――観衆から何重もの甲声かんごえが上がる――傷だらけの少女の顔をした信徒の首を躊躇なくやすやすと刎ね飛ばしたのだ。
 一方では彼に、おそらくはクロアを犠牲おとりにして背後から襲いかかったアロクが、そうはいかないと割り込んできた芍薬の拳に顔面を潰され、返す動作で振り抜かれた“高熱の手刀”により胴を真っ二つにされて地に転がっていた。
――<<確カニ色々ト無駄ガナイネ。妙ナ“ノリ”トイイ、コッチノ方ガティディアニ近イヨ>>
『巨人』の時とは違い……と、過去に得られた情報から作った予測パターンに修正を加えつつ、芍薬はニトロへ言う。それと共に、ニトロには敵の機能停止の合図が送られていた。相手はアンドロイドだ、これで死ぬこともあるまいと倒れた敵への注意こころを残していた彼は少しばかり拍子抜けしたが、まあ、相手が信徒をある程度人間らしく演出するつもりであるならこのダメージでの『死』は妥当だろう。
 ニトロは脳内信号シグナル転送装置を介して芍薬へ同意を返し、それから、口から炎を吹き出した後、その場で佇んだままの信徒に向き直った。
 そこで彼は気づいた。
 どうやらその信徒は彼の気づかぬところで芍薬に攻撃されていたらしい。信徒の手には一本の刃物――クナイと言ったか――が握られている。クナイの柄からは千切られた鋼線が垂れていた。それを見れば、ただ避けるだけでは芍薬の攻撃から逃れられなかったことが容易に判る。
 その場に足止めされ、その一瞬の足止めの結果、目の前で仲間を失った信徒の手からクナイがこぼれ落ちた。
 クナイは石畳の上で一度甲高い音を立てカラカラと寂しい響きを残して横たわる。
 残響の後には、静寂があった。
 皆、息を飲んでいた。
 凄惨。
 そうとも言える光景が、再びこのケルゲ公園駅前に蘇っていた。
 殉教した信徒の体が青白い炎に包まれ、あの『巨人』と『信徒ルリル』と同じように静かに燃えて消えて逝く。アンドロイドと解っていても切断面のあまりのリアルさに、本当は――本当に人間が消えているのでは、と思えてしまう。
「……言っただろう? 手加減はしないって」
 頬に浴びた返り血をそのままにして、ニトロが残った信徒へ、ごく静かに、ごく穏やかに言う。
 しかしその言葉は、信徒ではなく、聴衆の心に鋭く突き刺さった。
 そこにいる少年は、本当にさっきまで巻き添えを気にして『ショー』への注意事項を語っていた少年と同じ人物だろうか。……そう疑わずにはいられない落差が、『ニトロ・ポルカト』へ底の知れない威を与える。
 その反面で、疑いようのない事実が一つ、以前からあった『ニトロ・ポルカト』へのイメージを鮮やかに彩色し、過去にも増してはっきりと観衆の目に見せつける。
 もはやそこにいるのは、温和で、平和主義者で、真面目なツッコミ役ではない。武勇として語られる狂戦士。あるいは異常能力者ミュータントとやりあったスライレンドの救世主――ティディアの恋人のもう一面――クレイジー・プリンセスをも恐れさせる『怖いニトロ』がまさに今、ここに顕現していた。
 民衆の心に細波が立つ。
 青白い炎に下から照らされるニトロ・ポルカトとその戦乙女。勇ましい黒衣と異国の艶やかな紅衣が妖しく色を放ち、やがて観衆の心の波が昂ぶり、その口々から音が溢れ出す。
 もう何度目かの大歓声がケルゲ公園駅前に轟いた。
 だが、それは今までのものとは毛色が違う。それは“役者”に向けられるものではなく“戦士”に向けられるものであった。今やこの場は劇場ではなく、闘技場へと変化していた。
「クロアよ、アロクよ、安らかにあれ。汝らに祝福のあらんことを」
 腹の前で手を組み涙を流す信徒の小さな声は歓声にかき消され、きっとこの場でそれを聞いたのは芍薬の中継を受けるニトロだけであっただろう。
 戦いの気にあてられ昂揚する人々の中、ニトロは問うた。
「一応、名前を聞いておくよ」
「貴様に問われて名乗る名はない」
 教科書通りの台詞回しに少々の工夫。ニトロは苦笑する。
「そうか。俺は悪魔だったな」
「そうだ。悪魔よ。汚らわしきケダモノよ。プカマペ様のご加護、女神ティディア様の奇跡を以て……クロアとアロクの仇! 見事討ってみせよう!」
 名乗らずの信徒が掌を上向け、そこに息を吹く。すると息は炎となって空を走り、どういう仕掛けか途中で三叉に分かれると、分かれた先で三頭の戯画化された炎の獅子となった。炎の獅子らは、ニトロに襲いかかろうと猛烈な勢いで地を駆ける。
 ニトロは大きく後退した。
 入れ代わって芍薬が獅子の前に立つ。手には扇を携え、それで一頭を吹き飛ばす。もう一頭の牙が芍薬をかすめ、纏う衣に耐火性がなければ燃えていたであろうことを芍薬はデータで知り、
――<<獅子ハ立体映像ホログラム、中ニ電熱ガ混ジル>>
 ニトロは戦闘服の機能を作動させた。襟の生地がアメーバのように伸び、彼の頭部を包んで覆面となる。
 二頭の獅子が芍薬を止める間に、壁を突破してきた最後の一頭が牙を向いて駆けてくる。その双眸に怒りを携え、その形相に……悲しみを携え?
――<<“核”ヲ>>
 ニトロの覆面の目出し部を覆う透明な防護膜に芍薬から送られてきたデータが反映され、獅子の体内、光学迷彩で姿を隠したクワガタようマシンが表示された。電熱はそれを司令塔にして飛ぶ、さらに小型の機械によるものだという。
 ナイフよりも手足の方が捕らえやすいだろうと判断したニトロは、脳内信号シグナルでプログラムを走らせた。戦闘服の自動制御に任せて素早くナイフを後ろ腰の鞘に収めて身構える。身を翻して飛びかってきた獅子の牙(電熱を発する小型機械)をかわし――そして視界の隅で彼は見た。獅子の片方を屠る芍薬の先で、名乗らずの神徒が両手に神水ネクタールを持ち、それを飲み干している様を。
 名乗らずの信徒の体が肥大した。横幅も縦幅も増し増しローブを引き裂きその肉体が!
――<<主様!>>
 ニトロは芍薬の操作に体を任せ、獅子に突っ込んだ。一点に集中して取りついてきた小型機械の発する電熱が、流石に戦闘服の耐熱能力を超えて肌に届いてくる。しかし、それが肌を焼く前に“芍薬の操作するニトロ”は速やかに核を潰した。炎の獅子が霧散し、同時に小型機械も地に落ちる。
 そして彼は信徒へ向き直り、
「フン!」
 すると信徒はサイドチェストにポーズを決めて、それはまさかのスタンディングスタートの代用姿勢!? 観衆の目が信徒に奪われる。その目は丸くなっているのか点になっているのか。注目を浴び、これ見よがしに大胸筋を膨張させた名乗らずの信徒が鋭くハッと息を吐く。尋常ならざる速筋が爆発する!
「ッダーーーーーイ!」
 石畳を踏み割り轟然と迫り来る敵の肉体を目に、ニトロは――芍薬の許可の裏で――思い出していた。
 彼女の筋肉は、見事である。
 実に黒光り、実にぴっくぴくと躍動するマッスルである。
 そう、それはようするに、まるで『天使』を使った自分だった。
 ちょっと違うのは顔がまるきり『少女ミリュウ』のままなものだから発達し過ぎた筋肉とのアンバランス極まることも甚だしいことか。
 変身中に引き裂かれたローブは当然用をなさない。ボロ切れとなって地に散らばる。下に伸縮性のタイツを着込んでいたらしく大事には至っていないが、ただしピッチピチである。ピッチピチではあるがゴッツゴツである。その肉体、まーさーしーく・ダイナマイッ! 筋肉の繋ぎ目がキレてます。肉の起伏が作る陰影の素晴らしさ! ナイスバルク! 先の二人は不完全版であったために単なるドーピング程度に思っていたが、そうか、神水は『天使』の模倣だったのか。納得である。
「主様!」
 最後の炎の獅子を消し去った芍薬が、物憂げに突っ立っているマスターに叫ぶ。
 この場において芍薬が初めて声を表に出した――その内容が、ひどくニトロの危機を知らせるものであったため、場が慄きと緊張によって硬直した。
 信徒が迫る。
 ニトロは構えた。
「ン・ダーーーーーーーイ!!」
 信徒の駆け込み様のアッパーカットが、成人男性の頭部を上回る大きさにまで膨れ上がった拳が、地を削り、そこからニトロの喉元をめがけて振り上げられる。
 鈍い音がした。
 ニトロの体が吹き飛ぶ。
 大きく弧を描いて高く宙に舞う。
 悲鳴が轟き、それに応えるように、やおら緩慢に体勢を整え彼は辛うじて着地した。
 着地は綺麗にはいかなかったが、彼はすぐに立ち上がった。
 それから覆面機能を解除して顔を表す。
 安堵の吐息が周囲に漏れた。彼はしっかりと防御していたのだ。刹那に信徒の巨大な拳の間に両腕を挟みこみ、自ら後方に跳んでいたのだ。ここでは芍薬の修正は一切受けていない。自らの力だ。ただそのために思った以上に跳んでしまって体勢も崩れて格好悪く着地してしまい、また、戦闘服の衝撃吸収力を以ても威力を殺しきれず、間違いなく内出血を起こしているであろう(同時に体内に仕込んでおいた止血用の投薬用素子生命メディシン・クローラーが働いているであろう)腕が痺れ、少し――世界も揺れている。
 とはいえ揺れは直に消える程度だ。それに重要なのは『外面』だけである。
 ニトロは無傷である証を、敵に見せつけるように示していた。
 そしてそれを見せつけられる敵は――無傷の彼とは逆に、肩に飛び乗ってきた芍薬に細い長剣を鎖骨の隙間から胴体内へと深々と突き刺され、目を見開き、唇を震わせ、愕然として敵を見つめていた。
 芍薬が剣を引き抜きながら、信徒の背を蹴り地に降りる。
 信徒はよろめき膝を突いた。
 ――周囲は止めの刻を前にして、ざわめいていた。
「……真似るなら、いっそ『本望』を曝け出すところまで真似てほしかったな」
 小さくつぶやいたニトロの言葉を聞いたのか――聞いたところで理解はできまいが、少女しんとの顔が恐ろしいまでに歪んだ。突き刺さった剣は心臓を貫く位置にあった。機械的にも重要な機構を壊されただろう。それでも『人間らしく』死することは未だ選ばず、しかし膂力を失い、オイルを吐き出しながらも歯を食いしばってなんとかニトロへ這いずっていく。
 既視感があった。
 そうだ、『巨人』の時にもこんな光景があった。
 だが、違うのは、異形の信徒ミリュウには異形の巨人にはなかった読み取れる人間の表情があり、それは鬼のようであり、それなのに、どこか悲哀を感じさせるということ。
「ニトロ……ポルカト……!」
 搾り出すように、信徒が叫ぶ。
 その声は悲愴だった。
 ニトロは、ここに確かに『ミリュウ』がいることを感じていた。
 しかし、反面、例え信徒に積まれた思考ルーチンが『ミリュウそのもの』であるとしても、この“複雑な声”を作り上げたのは『パトネト』であろうことも感じ取っていた。
 怒りに満ちているのに、ひどく哀れをもよおす声
 敵意に満ちているのに、救いを求めているかのようにも聞こえる声
 観客の中には同情を引かれている者もいるらしい、そういう囁きが聞こえる。
 アンドロイド等操作の主幹が交代したことに関しては、攻撃を激化するためにより最適な人材が前に出てきた――として理解できるが、
(……どういうつもりなのかな、あの子は)
 ティディアの部屋で見た弟と眼前の『ミリュウ』を重ね、ニトロはすぐ前まで迫る信徒を見下ろしたまま、
「芍薬」
「クノゥイチニンポー」
 ニトロの呼びかけに応え、指で何やら形を作って芍薬が言う。
「ザクロ」
 ボン、と、重鈍い音が鳴り、信徒の体がわずかに膨らみ跳ね上がった。本来のすべの威力からは“見栄え”を考慮し相応に加減されているが、それでも観客にショックを与えるには十分だった。信徒が動きを止め、力なく四肢を伸ばしていく。口と鼻からは大量のオイルが溢れ出している。その顔を、鬼の形にしたままに。
 ニトロは脱力とも嘆きともつかぬ息を吐いた。ポケットからハンカチを取り出し(芍薬から危険を知らせる合図はない)信徒の――ミリュウの――死に顔を覆い隠す。
 敵とはいえ、アンドロイドとはいえ……王女の顔を持つ者の死を悼む行為。死すればひたすら痛ましくなるその表情に慈悲を傾ける紳士的な所作。騎士道にも通じる、彼の姿が衆人の心を打つ。
 静かだった。
 信徒の体を青白い炎が包んでいく。
 信徒の体の消えていく音が聞こえるようだった。
 ニトロは青白い陽炎の向こうに、どことなく呆然とした観客の姿を見た。
 無理もない。隊長を初めとした『親衛隊』のみならず、純粋な観客も、プカマペ教徒も、さらには『マニア』達もどうすればいいのか判らないでいるのだ。これは『ショー』だ、それなのに『ニトロ・ポルカト』から与えられた感情と、眼前の光景、揺らめく炎に魂を引きずられてしまいそうな『ミリュウ姫』への感情とには軋轢がある。その両者を――感動と感傷を……皆、同時にどう消化すればよいのか戸惑っているのだ。
 やおら、ニトロは腹の前で手を組んだ。
 皆の視線が集まる。
 彼は目を伏せ、言った。滞っている観客の心を落としどころへ誘う真摯な声で、
この人にティディア様の御加護をクゥ・ヴィンガ・ウ・ウォルバル・ティディア
 この人らはティディア様を讃えますゥグ・ヴォンガ・ウ・ウォルバト・ティディア
 元ネタであろう古語を引いて作り変えた、祈りの言葉。芍薬の手により宙映画面エア・モニターに字幕が現れ、ニトロの祈りの意味を皆に伝える。ともすれば、辛辣な当てこすりとも取れるこのセリフは、しかしそうは受け止められなかった。彼は観客らの無言の要求に従い、もう一度唱えた。彼の後を追い、青白い炎を中心にして手向けの文言がしめやかに唱えられる。
 それは、荘厳な景色だった。
 そして、やがて信徒が消え去った後、舞台に残されたのは……物悲しくも得も言われぬ充足だった。
 一時幕引きの喝采の中、ニトロは芍薬と共にケルゲ公園駅前を後にする。
 幕間に残された熱は冷めることなく温度を増して、アデムメデスを燃え上がらせていた。

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