5−d へ

 ニトロはうなっていた。
 眩暈と吐き気は治まったが、脳裏にはまだ少し“揺れ”がある。食堂を去ってからピピンに三回ばかり瞬間移動テレポーテーションを行ってもらい、その結果に罹った『テレポート酔い』のためであった。二度三度と空間を跳び、昨夜のものも数えれば計四度。テレポート自体には慣れはしてきたものの、慣れも万全とは言えない現状ではやはり体は余計な負荷を得てしまう。
「大丈夫カイ?」
「大丈夫。ただ、あと数回跳んでおかないと“大丈夫”じゃないかな」
「御意。ソウ連絡シテオクネ」
「うん、よろしく」
 言いながらニトロは床に胡坐をかいて腕を組み、微かに残る酔いの残滓を振り落とすように首を回し、それから眼前にある大きなトランクケースを前にした。鍵はかかっていない。ケースを開き、ニトロはまたうなった。
「ううん?」
 このトランクケースは、フルーツパーティーを開いている間にジジ家から届いた“注文の品”だった。
「……盛りだくさんだ」
 そしてトランクケースの向こうにはアンドロイド一体が収まる頑丈なドール・ケースがある。ハラキリは確かに『諸々込み込み』とは言っていたが……それにしても
「盛りだくさん過ぎる」
 ニトロはケースの中身を前にして、頬が引きつるのを禁じられなかった。
 そこには待望の『戦闘服』以外にも、ナイフや電撃警棒スタン・ロッドが並んでいた。それに止まらずあの『毀刃』があり、自動小銃にレーザー銃もあり、さらには閃光手榴弾スタン・グレネードやら小型爆弾やら何に使うのだか想像もつかない妙な物体まで納められている。注射とアンプルのセットを見た時はゾッと心胆寒からしめられたが、どうやらこれは『普通のドーピング薬』であるらしい。つか普通って。ドーピングで普通って。『〜〜用』というラベルの隅には小さく『量を誤れば死ぬかも☆』なんて書いてあるし。
「つーかそんなん入れとくな!」
 思わず叫んで一時いっときに急速に積もった――違法な品々を目の前にする――ストレスを吐き出し、ため息をつく。
 とにかく品の全てを確認し、どれを使いどれを使わぬか選別するためにも使用方法を学ばねばならない。
「よし」
 気合を入れ直したニトロは、折り畳まれ透明なビニールで包装された、馴染みの黒い戦闘服の上にある板晶画面ボードスクリーンを手に取った。
 電源を入れる、と、
「ヤホー」
 そう声を上げて、画面から元気良く童女が飛び出した。驚いたニトロの手からこぼれた板晶画面が戦闘服の上に落ちる。が、それに構わず立体映像ホログラムの童女は挙げた両手を笑顔で振った。
「元気ソウダネー、ニトロ君。ヨカッター」
 言いながら踊るようにくるりと回り、それからペコリと頭を垂れる。肩の辺りで一直線に髪を切り揃えたその童女は、髪型以外はハラキリのA.I.である撫子をそのまま幼くした姿だった。
「コノ度ハ当店ヲゴ利用イタダキ、アリガトウゴザイマシタ」
「当店ときたか」
 口の端を引き上げ、ニトロは元気なA.I.の勢いが落ち着いた隙を見計らって挨拶を返した。
「そっちも元気で何より。牡丹が来てくれるとは思わなかったよ」
「チョット『チューニング』ガ必要ダカラネー」
 主である撫子に最も似た容姿でありながら、その陽気さは主とは似通わない。撫子のサポートA.I.チーム『三人官女』のムードーメーカーであり、次女でありながら末っ子の体を様する牡丹は、ふと、
「オヤ? 芍薬チャンハ?」
 いい加減声をかけてこないのはおかしいとばかりに首を傾げ、傾げた首をそのままストレッチでもするようにくるりと回して長女の姿を探す。そうして声どころか肖像シェイプも見当たらないことに“?”を浮かべた牡丹へ、ニトロは言った。
「アンドロイドに入ってる。長く使うから何から何まで完璧に『合わせてくる』って言ってたから、まだ時間かかるんじゃないかな」
 すると牡丹は傾げていた首を逆に傾け直し、
「ソッチノ『チューニング』ハシトイタヨ? 使用プログラムモ好ミニ合ワセテ優先順位ツケテオイタシ固有ノ癖ヘノ対応マデバッチリスッキリ芍薬チャンニピッタリイクヨ?」
「ソノヨウダネ」
 プシッ――とエアー音がし、硬く閉じられていたドール・ケースが開いた。上蓋がスライドし、クッションに収められていた女性型のアンドロイドが上体を起こす。
「何デコンナニ完璧ナンダト思ッタラ、牡丹ガ設定シテオイテクレタノカイ」
「ウン、ソウダヨ。誉メテ!」
「偉イネ。アリガトウ」
「ウン、ドウイタシマシテ!」
 立ち上がったアンドロイドの背に、長い黒髪が流れ落ちた。
 裸体に簡単な白い貫頭衣(アンドロイド出荷時に着せられる一般的なものだ)を着たそれは、顔の造りも体のラインも芍薬の肖像シェイプの面影がある。芍薬が高値だと言っていた通り非常に高品質であるらしく、人工皮膚は体温を感じさせ、人工筋肉と関節は実に滑らかで人間以上に人間らしい。
「ドウカナ、主様」
 後ろ手に手を組んで、芍薬が言う。とうとう手に入れた躯体ボディが嬉しくてたまらないという微笑みが口元に刻まれ、それは搭載された感情表現技術エモーショナル・テクノロジーまでも最高品質であることをニトロに伝える。
 まさに人間、紙一重。
「うん、いいんじゃないかな」
 頬を染める朱は本物の血色けっしょくのようだ。ニトロはうなずき、
「似合ってる……は変だね。何て言えばいいのかな」
「『可愛イ』デイィンジャナイ?」
 と言ったのは、牡丹だった。
「『抱キテェ』デモ可ダヨ。モシハマッチャッタラ後カラデモSe-ァ痛ッ!」
 牡丹が急に頭を抑えてうずくまる。
「オカシナコト言ウモンジャナイヨ」
 どうやら芍薬に“殴られた”らしい。涙で瞳を潤ませた牡丹はアンドロイド:芍薬を見上げ、
「ダッテー、百合チャンガー」
「ああ」
 うなずいたのはニトロだった。なるほど、確かにあの百合花ゆりのはなならその類でからかってくるだろう。
「今度会ッタラ殴ッテヤル」
 ぽつりと小さくつぶやく芍薬の声を聞きながら、ニトロは苦笑し、
「いいよ、それは」
 芍薬に代わって答えたようなニトロのセリフを聞き、牡丹が目を彼に戻す。その眼差しは無邪気な好奇心で何故と問うている。
 ニトロは、今度は自分の言葉として答えた。
「俺は芍薬が大事だからね。芍薬が望んでいるのは、そういうのじゃないさ」
 世の中にはセックス・ドールが存在し、それを用いれば人とA.I.が『肉体的』に交わることも可能と言えば可能である。セックス・ドールには専用にチューニングされた汎用A.I.がついているが、それを排して自分のオリジナルA.I.を望むことももちろん可能だ。実際、それを実行する者もいる。そうして、車についているエアコンのスイッチを入れる感覚で行為に臨む人間もいれば、恋人然と愛する人間もいる。献身的なオリジナルA.I.に心を慰められるあまりに、そちらへ耽溺し、『戻ってこられなくなる』人間もいて、それについては社会問題の一つとして語られることもある。また、主人とそうなることを嫌うA.I.もいれば、性欲処理も掃除など日常の家事と同列に見るA.I.もあり、当然『戻れなくなった』主人と共に完結することを了とするA.I.もいる。
 だから、結局それは、社会よりも何よりも、その人間とそのA.I.それぞれの在り様の問題――なのだろうとニトロは思う。
 とはいえ、それぞれの在り様の問題――と言っても、本来肉体を持たないA.I.には、何よりも心の結びつきを重んじる傾向があるという事実を無視することはできないとも彼は思う。
 そう、A.I.は肉体を持たない。無論、性別もない。『設定』をいじることで一秒もかからず『女』から『男』に、『男』から『女』になれる。そのどちらにもなれる。容姿や性格を変えるのも容易だ。食欲も睡眠欲も無く、性欲以前にそもそも生殖そのものを全く必要としない。それは、人間との決定的な違いだった。
 しかし“オリジナルA.I.”は、“人間”と決定的に違いながら、それでも人間を模して創られたが故に極めて近似の『精神』を持つ。
 肉体は決定的に違いながら、精神は極めて近い……
 その齟齬は、普段の生活では問題や誤解を生むことはないが、時に、特に、ある一点において非情な表出を得る。ある一点――『愛』において。
 オリジナルA.I.は、肉体と性別を現実として有する人格と、肉体を概念でしか有せない人格の間にある共通項――つまりは心とココロの結びつきをだからこそより重視し、そして憧れるのだという。
 また、肉体を介さぬがゆえにA.I.の愛情は人間的な愛情とは違い、そのためにA.I.が人間に抱く愛情を人間も知ることはできないのだ――とも言われる。
 あるいは人間がA.I.に抱くものは感情移入の成果に過ぎず、A.I.が人間に抱くものは憧憬に過ぎないと言い切る者もいる。
 それでも両者は断絶されているのではなく、どこまでも平行で決して交わらぬ齟齬の谷を間にしても、それでも互いに共感し通わせられる“新しい愛情”が両者を渡し、それこそが遺伝子と電子をつなぐ奇跡なのだ……そんな哲学もある。
 ニトロは、それらどの論も知っていた。
 知っていて、でも、うまく理解できてはいなかった。
 それぞれ理解してみようと思索を深めたこともある。
 だが、今は、高名な学者の説も、飲食店の隣の席で熱弁されていた論も、これまで考えてきた己の思索すらもどうでもいい。感情移入も憧憬も新しい愛情も、それが一体何だというのか。
 ニトロは苦笑を微笑みに変え、興味深そうに“人間”を見つめる“牡丹”に言った。
「俺はね、できれば死ぬまで、他の誰より芍薬に心から誇っていてもらいたいんだ」
 奇跡などではないのだ。眠る前に芍薬が与えてくれたココロが、ニトロにとっては何にも勝る真実だった。
 アンドロイドが歩く。
 素足の機械人形は柔らかな絨毯の上で足音も、駆動音も立てない。
 芍薬は、ニトロの少し後ろにすっと座った。
「……イーナー」
 言葉は補強に過ぎない。態度が全てを表している。二人を見つめ、牡丹は手を組んだ。いやいやをするように頭を小さく振り、
「芍薬チャン、ズルイナー。母様ニ言イツケテヤルー」
「アア、言イツケテオクレ」
 ニトロには芍薬の顔は見えない。
 だが、ニトロは芍薬がどういう顔をしているのか解っていた。
 二人をじっと見つめていた牡丹が組んでいた手を解いた。その顔からはふと陽気さが消され、何やらうなずく。
「母様モ喜ブ。ぼくモ嬉シイ」
 そうしてつぶやき、それから顔を上げるとぱっと目を輝かせ、
「サテサテ、ソレジャネ、ニトロ君。マズハ戦闘服ヲ着テクレルカナ? 『チューニング』ヲ始メヨウ。ア、ソウソウ、ソノ下ニハ芍薬チャン用ノ服ガアルカラ」
「チューニング?」
 そういえば何度も繰り返されていたそれが、どうやら馴染みの装備品に関わるらしいことを知ってニトロは首を傾げた。
「今までそんなことをしたことなかったよ?」
「イロイロ新機能。バージョンアップシテ前トハ別物ナノサ」
 楽しげに指を立てて片目をつぶり、ウィンクのまたたきの端から「♪」のエフェクトを飛ばしたところで、牡丹の口と眼が「お」の形に丸くなった。
「――デモチョットオアズケ」
 唇を尖らせ全身で『せっかく張り切ってたのに』と主張する牡丹に、芍薬が声をかける。
「ヨク我慢デキタネ」
 誉められたのが嬉しかったらしい、牡丹の顔に輝きが戻る。
 そしてその牡丹の背後に――つまりニトロの正面に宙映画面エア・モニターが現れた。
 ニトロの顔が引き締まり、眼が画面に集中する。
 そこに映し出されたのは、西副王都ウェスカルラにある西大陸中央議事堂で行われている会議の様子だった。まだ始まったばかりであるらしいが、大会議場は既に騒然としている。
 演壇にはスーツを模したアフタヌーンドレスに身を包む少女がいた。明日には第二王位継承者の正装に身を包み、ティアラを冠し、国策を進める法案に署名する王女、ミリュウ・フォン・アデムメデス・ロディアーナが。
 画面が四分割され、右上に王女が固定され、他三つは会議場の様子を追って映像を切り替えていく。切り替わり続ける画面を見れば、どうやら騒ぎ立てているのはその国策への反対派であるらしい。
 しかし、この件には既に決着が着いたはず。騒いでいるのもどう見ても少数で、今更反対しても詮無いことのはずだが……“騒然”はもはやアデムメデスの議会では割合珍しい野次となっている。飛び交う言葉を聞き分けてみれば、なるほど、ミリュウの『悪ふざけ』を格好の標的として責め、クレイジー・プリンセス・ティディアに比してずっとか弱い妹姫を怯えさせることで彼女に――万に一つの可能性でしかないが――再検討の表明を促させる腹か。
 議長が声を張り上げ静粛を求めている。
 騒々しさの中、ミリュウは演壇に佇んでいる。
 その表情にははっきりとした感情が窺えない。怒号まで飛び交う矢面にあり、もしや自失し立ち竦んでいるのだろうか?
(――いや)
 ニトロは、ミリュウの肩がわずかに上がるのを見逃さなかった。
 彼女は息を吸った。その腹には力が込められている。
<あなた方の気持ちは、理解しています>
 マイクを通してのこととはいえ、ミリュウの声は騒ぎの中にあって明瞭に、とても力強く響いた。
 そこには申し開きを試みようという様子伺いは無論なく、議論をする場で論外の事案を持ち出す未熟を叱責する素振りもない。それどころか議事を滞らせる者への怒りや苛立ちすらもない。ミリュウの声音には、ただ、むしろ己を責める者達への労わりがあった。
 ――これまでの第二王位継承者であれば。
 このような状況においては弱気を見せずとも頼りない顔で事態の収拾に当たっていたことだろう。そして力強さはなくとも、誠実な態度で相手と向き合い、特別に可でもないが不可もない姿勢でじんわりと主張を――姉姫の威光にも助けられて――論敵に受け入れさせようとしただろう。なにしろ、それこそが『劣り姫』の常道だったのだから。
 故に、ミリュウのその覇気に満ちた一声は、あらゆる場所に大いなる静寂を招いた。
 特に反対派の沈黙は重い。彼らの野次には――クレイジー・プリンセス・ティディアに比してずっとか弱い妹姫になら再度の議論を促せる――そう、明らかな『侮り』が少なからず存在した。だが、即座にその思惑が愚かであったことを、か弱いはずの王女に暴露されてしまったのだ。声を荒げていた者達は皆、押し黙ることしかできなかった。
<身を切る思いであるでしょう>
 ミリュウの声には優位を誇る示威も、いわんや優越感も存在しない。ひたすらに慈悲だけがある。
<身を焼かれる思いもあるでしょう。しかし我らはその苦痛を知っています。あなた方の苦悩を、それが生む叫びを、我らは、我らに敗北した者の貧しい遠吠えだと切り捨てることは決してありません。
 ――フルウェイン・テドム・スウェイン>
 カメラの一つが壮年の貴族を捉えた。名指しされた彼は驚愕していた。
<貴方の治める地が最も負担の強いられることを、我らは知っています。貴方に涙の陳情があることも知っています。そして貴方がそれらに応えようと奮闘したことを、我らは知っています。貴方は立派に働いた。貴方を例え誰が咎めようと、わたくしは貴方の誇りを我がこととして誇ります。貴方は決して、この案が可決されようと、決して民を見捨てていない、見捨てるはずもない、『我らが子ら』を守る勇敢にして貴き人です>
 スウェインの頬に、赤みが差す。
<クーヲン・アドルム>
 今度は老年の女性が映る。
<既に貴女が貴女の区民を助けるために次の策を講じ、その戦いを始めていることはわたくしの耳にも聞こえています。そのために任期を終えた後は区代表の座を望まず、区議選へ出直し、初心からまた始めようという貴女の気概は高潔と評する他にありません。貴女は実に素晴らしい。わたくしは貴女の貴女方の区の改革を、支持します>
 アドルムの唇が震える。
 ミリュウは続けて主要な反対派の二人の名を上げて彼らの主張に理解を示し、次いで賛成派の中でも難しい判断を迫られた二人を誉め、代表的な賛成派の議員と貴族の名を二人挙げ、その尽力を――ティディアの口添えと共に議案を可決に向かわせたその働きを改めて讃えた。
 その間、王女ミリュウの瞳は常に前を向いていた。一瞥たりとも下向かず、資料の一つも見ることもなかった。
 名を挙げなかった議員・貴族達にも配慮の言葉があった。この議決で苦しむことになる『我らが子ら』へ向けて語るメッセージ――『我らが子ら』の痛みを分かとうという意志に限れば、元来の『優しい王女』のイメージも手伝い、彼女はあるいは姉姫以上の説得力を持っていた。ニトロ・ポルカトに関係して“これまで”にはない変化を見せたとしても、やはり彼女の心には為政者の冷徹よりも優しさが勝るのである。彼女の声のところどころにその温もりが漏れ出している。そのため言葉の一つ一つに噛み締めるような彼女の実感が伴い、そうであればこそ一方でこの決断がもたらす未来の明るさを伝えるメッセージにも力が与えられ、そして、やがて、彼女の言葉がただの暗唱ではないことが皆の胸に刻まれていく。
 そこには、王女がいた。
 そこにいるのは『劣り姫』などではない。ティディアの威光がなければ、誰かに侮られるような少女はいない。
 誰が名付けたか『劣り姫の変』!
 もちろん、彼女の口にするものが希代の王女の入れ知恵ではないとは言えない。このミリュウ姫絶対有利の環境が姉姫にお膳立てされたもの、という大前提も、もちろんある。
 しかし、例え入れ知恵と大前提があったとしても、大きな決断を前にそれに関わる全てを理解し、その背景までも背負い、そうして演壇に立つ第二王位継承者の言葉を妨げられる者がこの議場のどこにいるものか。
 彼女は、確かに、あの希代の王女の妹だった。
 人徳に溢れる王と王妃の娘だった。
 そしてそれらにまとわれるのではなく、それらをまとい、彼女は自律している。
 ――見える。
 クレイジー・プリンセスをもしや制止できうる『良心』として、頼りなくも期待されていた妹姫への理想像が、その片鱗が!
「主様ノ言ッテタコト、ヨク解ッタヨ」
 芍薬が言った。
 今や海千山千の議員の並ぶ議場を完全に支配し、自身の威光をもって、姉の恋人を巻き込んだ『悪ふざけ』の価値をまさに“ただの悪ふざけ”に落とし込んでしまった小さなクレイジー・プリンセスを見つめ、真剣に。
「確カニ、マルデ生マレ変ワッタミタイダ」
 牡丹までもがうなずいている。
 ニトロは……少し、哀しかった。
「これが自然と、こうなっていたらね」
 彼女の変化は、疑いようもなく『劣り姫の変』のためだ。彼女は『ニトロ・ポルカト』を攻撃し、それを機に、あの強さを見せている。
 ――しかし、もしそうでなかったら――
 ニトロは左手の『烙印』を見る。
 彼はモニターの向こうの同い年の王女に憧憬を送らずにはいられなかった。
 どういうわけか、事ここに至っているのに、好意的な感情が湧き上がることが不思議でならない。
 彼の脳裏では、壇上に凛と立つ第二王位継承者の姿に、うずくまる彼女のイメージが重なっている。
 現実とのギャップにそのイメージはただの錯覚、あるいは己の誤認であったか? という思いに心が揺れる。
 しかし、逆に、錯覚や誤認などではなく、それこそが正答だったとしたら?――真実はうずくまりながら、なおあのように国民を背負い、堂々と胸を張れる同い年の少女に敬意を向けないでいられる理由があるだろうか。
「……やっぱり、両親似の良い姫様だと思うんだけどなぁ」
 ニトロは深くため息をついた。
 心に鮮やかに湧き上がるのは、時折、胸に芽生えていたあの気持ち。『王女として“優等生”であるミリュウの方が次期女王として適切なのではないか』という思い。
 ああ、本当に――しかしもしそうでなかったら!――
 この真面目で優しい王女の成長を、この雄姿をどれほど手放しで喜べただろう。
「残念ダネー」
 牡丹がどこか他人事のように、いや、事をよく解っていないのに同情を寄せるようにつぶやく。
 その調子が何故だかおかしくて、ニトロは笑った。
「本当に残念だよ」
 撫子が牡丹を寄越したのは、決してチューニングのためだけではないだろう。『三人官女』の中でも牡丹が特にそういう設定事に秀でているのは知っているが、それでも芍薬が劣っているわけではないのだから。
「ア、ソウダ!」
 と、その時、牡丹がうっかり忘れていたとばかりに声を大きく張り上げた。
「母様カラ伝言ガアッタンダ」
「何て?」
「御両親ハ、騒ギニナリソウダカラッテ有休ヲ取ッテモラッタ。今ハ家デ『ガーデンパーティー』ノ用意ヲシテイルヨ」
「パーティー?」
来客ヲモテナスンダッテ」
「ああ」
 ニトロは苦笑した。これまで両親がマスメディア関係者を無理矢理食事に誘ったことは何度もある。そのためにポルカト夫妻に情が移ってしまった者もいる。今回も、母の自慢の庭で満腹と戸惑いが渦巻くおかしなパーティーが開かれることだろう。
「ソレカラ、クレイグ殿ニ変ワリハナイ。他ノオ友達モ元気ダヨ」
「――うん。ありがとう、安心した」
「デ、最後ニ、ナンダケド」
 と、これまでは陽気に語っていた牡丹の様子が一変した。どうでもよさそうな様子でありながら、しかし口振りにはどこかバツの悪そうな感じを漂わせている。
 ニトロは何となく既視感を覚えながら、先を促した。
「エットネ、メルトンノコトナンダケド……」
「ああ」
 と、ニトロは目を上向けた。そういえば、メルトンが撫子にビンタされたとかなんとか聞いていたっけ。
「メルトンがまたどうかしたの?」
「何トカ一命ヲ取リ留メマシタ」
「……」
 ニトロは芍薬に振り返った。
「……」
 芍薬は口をすぼめるように表情を固めた。
「…………死ぬほど痛いって、真面目に言葉通りだったんだ……?」
 ニトロの問いに、芍薬はうなずく。
「御意」
「ウンウン」
 姉の乾いた肯定を妹のしみじみとした肯定が追いかけて、そして、撫子の子二人の声が重なった。
「「ソリャモウ、死ヌホド痛インダヨゥ」」

「ご立派でした」
 西大陸中央議事堂の王家控え室へ戻ってきたミリュウを迎えたのは、万感の思いに震える声と、涙の滲む眼差しだった。
「ご立派でした」
 もう一度繰り返したセイラの声は一度目よりも震え、嗚咽が必死に忍ばせられている。彼女の顔は赤々と紅潮していた。会議場でのミリュウの姿を、幼少の頃からお世話をし続けてきた主人が王女として確かに認められた瞬間を、それを目にしてからずっと、彼女は感動と誇りを胸一杯に溢れさせ続けていたのだ。
 ミリュウは――
「    」
 ――喜んでくれているセイラを、ミリュウは……どこか果てしない遠方の景色を見る思いで眺めていた。
「さあ、お疲れでしょう。お飲み物をご用意いたします」
 ミリュウが責任者を務めるブランド『ラクティフローラ』のスーツを着た――ブランドの路線ラインからあなたには似合わないと言っているのに、頑として聞かずに胸を張って着ているセイラがそう促してくる。
 そこでようやく、ミリュウは我を取り戻した。
 その瞬間――彼女の心に、ニトロ・ポルカトとその戦乙女に『殺され』、そこから蘇生した後に見た、あの美しい黎明の青空が広がった。
 思い通りに事の進む中にあって、それでも油断してはならないと引き締め直していた心と体。それが、震える。強く締め出していたはずの感情のたがが外れ、勢いよく溢れ出す。
 高揚感がミリュウの頬にも紅を差した。
 いつも自分を気遣い、自分を助け、自分のことを誇ってくれるセイラのいつも以上の歓喜。とうとう温かな涙がこぼれた彼女の眼差しに触れた我が目の奥にも熱を感じる。
「セイラ」
 今にも高らかに歌い出しそうな様子で茶の準備をする執事に、ミリュウは声をかけた。
 ティーキャニスターを手にするセイラが振り返る。
「――」
 その瞬間……ふと、ミリュウは妙な感傷を覚えた。見慣れたセイラの振り返る姿がかすんで見えたような気までする。そういえば、なぜ、わたしは彼女の歓喜を、始め、すぐそこにあるものとして感じなかったのだろう。
「ミリュウ様?」
 呼びかけておきながら、自分を見つめたまま何も言わないでいる主人に執事が声をかけ返す。
「……」
 ミリュウは、ふっと、その口元に笑みを刻んだ。
 そうだ、きっと、わたしはセイラの感動する姿があまりに嬉しかったのだ。そうだ。だから戸惑ってしまったのだ。
 ミリュウは紅の差す頬が持つ熱に温められた言葉を口にした。自分を支えてくれる存在へと、心から――
「ありがとう」
 セイラは息を飲み、また目を潤ませた。
 ――見る人を和ませる笑顔。
 姉姫様がそう表現して、また自らもそう思う大好きなミリュウ様の笑顔が、そこに、いくばくか戻っている
「もったいないお言葉です」
 感激のあまりにセイラが勢いよく頭を下げる。
 その拍子に緩められていたティーキャニスターの蓋が落ち、茶葉がわさりと床に舞う。
「あっ」
 セイラが失態に声を上げる。
「もう……」
 慌てて茶葉を拾おうと屈み込んだところ、今度はティーキャニスターを手からこぼして狼狽するセイラに歩み寄り、足元に転がってきた茶器を拾い上げながらミリュウは笑った。
「ドジなんだから」
 そう言ってティーキャニスターをセイラに突き出す。
 ミリュウの目は穏やかに細められ、それを見て、セイラも眉を垂れた。
「面目ありません」
「いいわ」
 茶器を受け取ったセイラが立ち上がり、ミリュウと目を合わせ……ふいに二人同時に吹き出した。
 特別何かが面白かったわけでもない。しかし、二人して何故か笑い出してしまった。
 肩を揺らすだけだった笑いはやがて喉を揺らして声を上げ、腹を引きつらせながら二人は息が途絶える寸前まで笑い合い――そうしてようやく落ち着いた時には、揃って笑いすぎて涙を流していた。
「セイラは、お茶を淹れて」
 ミリュウは涙をハンカチで拭きながら言った。
「掃除はわたしがするね」
「いえ、それは――」
「これくらいは、自分で」
 そう言う王女の顔には頑固だが素直な意志がある。もうすぐ18になる少女らしい、年頃の表情が、そこにある。
 セイラは、微笑んだ。
「それでは、お願いいたします」
「任せておいて」
 胸を張ってうなずくミリュウの調子はたかだかこぼれた茶葉の掃除に望むにしてはやけに大袈裟で、それに気づいた二人は顔を見合わせると、また笑い声を上げた。

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