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 ニトロを部屋に送り、バーに戻ってきたハラキリは、一人カクテルを飲んでいるマードールに声をかけた。
「飲みすぎですよ」
 マードールが肩越しに振り返り、ハラキリを見る。
 ニトロ・ポルカトという重要人物が去り、気の抜けた彼女の目は、少々うろんとなって酔いの程度を彼に伝えた。
「そうそう強くもないのに、いい勢いで飲まれるから焦りました」
「お前が焦ることはないたろう?」
 軽くろれつにも影響が出始めている。尖った耳の先も、紅く火照っている。
 マードールはハラキリがいない間に頼んでいたミックスナッツを口に放り込み、バリバリと音を立てて食べると、新たに頼んでいたスクリュードライバーを口にした。既に危なくなり始めているのに、これまでに飲んだアルコールがさらに回り、そこにアルコールの追加が続けば彼女がどうなるかは目に見えている。
「……ピピンさん?」
 ハラキリが部屋の隅に視線を投げると、彼の頭の中に“好きにさせてやってください”という理解が浮かび上げられた
 声も言葉も介さず、ただ相手に直接理解をさせるピピンの精神感応能力。
 殿下は久しぶりに解放されている――と、続けて理解させられ、ハラキリは一つ息をついた。
「解放されてなんかないでしょうに」
 ハラキリが言うと、ピピンは少し……笑ったようだった。その王女の気に入りの従者の寂しげな笑みを見て、彼はもう一度息をついた。
「王女様方も、まあ、大変ですね」
「まあ、ままならぬことばかりだなぁ」
 ミックスナッツの中から好物のクルミを取り出して、それを見ながら機嫌良くも面白くないことをマードールは言う。
 ハラキリは、席に座り直した。
 マードールはクルミをぽりぽりと齧った。
 ハラキリは残っていたプッシー・キャットを飲み干し、バーテンダー・アンドロイドにフィッシュ&ポテトフライを頼んだ。
 と、
「ニトロ君は……ティディアに愛されていないと思っているのだな」
 タンブラーを揺らしながら、物憂げにマードールが言った。
「どうしてそう思われたのです?」
「『一人の男性ひととしてみてくれる相手を』――そう言う気持ちも解らないではないが……な?」
「なるほど」
 ハラキリはそのマードールの言葉に対してそれだけを返し、以降は口をつぐんだ。
 ティディアが、確かに、ニトロを一人の男性――つまりは『人』として愛していなかった時期があるのは事実だ。マードールのセリフを思えば、おそらくニトロのその言葉を通じて何か思い至るところがあったのだろう。そして彼の意見を認めながら、反面、彼女はそうではない可能性にも――つまりはアデムメデスの第一王位継承者が『夫婦漫才の相方』を『道具』としてではなく『人』として愛している可能性にも言及しようとしている。ニトロに対し「ティディアにはニトロ以外にはいないだろう」と言ってみせたように。
 ……これは“探り”だ。
 ティディア、そしてニトロの友人である自分がどういう反応をするか見定め、二人の関係の行く末からアデムメデスの行く末をも窺おうとする友好国の王女の
 ややあって、バーテンダー・アンドロイドが様々な酒瓶の並ぶ背面の棚に振り返って屈み込み、揚げたてのフィッシュ&ポテトフライの載る皿を手にして立ち上がった。どうやらそこに奥――壁の向こうに隠れたキッチンからの受け取り口があるらしい。
 ハラキリの目の前に皿が置かれ、香ばしい匂いが二人の鼻をくすぐった。バーテンダーがドリンクの注文を窺う様子を見せる。彼は今はいいと手を振り、そのまま振った手でポテトを摘んだ。
「食べます?」
「すまん」
 それは礼の『すまん』なのか。ここに及んで探りを入れてきた王女の業に対する『すまん』なのか。
 しかしハラキリは何も追及せず、軽く会釈するだけで事を済ませた。
「でも、いいなあ」
 フィッシュフライを齧るマードールが、ふいに『アシュリー』の口調となったことにハラキリは一瞬ぎょっとした。が、そこまでだった。もうぎょっとする以上のことはない。先に宣言した通り、ニトロのお陰で調子も取り戻している。ここまでの道中、このパターンでしてやられた『我儘妹に振り回されるお兄ちゃん』はもういない。
「何がです?」
 調子を崩さぬハラキリの問いに、マードールは酒のせいもあって不器用に舌を打ち、
「ほんとにもう効かないか」
「で、何がです?」
 平然と問いを繰り返され、マードールはちょっとむくれた後、
「『俺を一人の男としてみてくれる相手を選びたい』――なんて、ちょっといいぢゃないか。妾にもチャンスがあるなら狙ってみようかと、な?」
「そりゃ他国の男を婿にできればしきたりの一つを派手に破れましょうがね。それより貴国の王室の制度を大改革する方がよっぽど楽だと思いますよ」
 マードールは今度こそむくれた。
「皮肉屋め」
「ご存知の通り」
「そんなツッコミを期待してはなかったのだぞ」
「ハイセンスなボケにはついていくのがやっとです」
 マードールが睨みつけてもハラキリはまともに取り合わない。一口サイズのフィッシュフライにタルタルソースをつけて、まるで他人事の様子でむしゃむしゃと食べる。
「――アースクエイク!」
 スクリュードライバーを一気飲みしてグラスを叩きつけるように置き、マードールが語気強く注文する。
 空のグラスが下げられ、シェイカーの振られる小気味のいい音が響き、そして頬杖を突いてハラキリから顔を背ける彼女の前に、やや山吹に近い萌黄の満ちるカクテルグラスが滑りこむ。
 マードールは勢いそれを口にして、そして思いっ切りむせた。
「そうそう強くもないのに、そんな強いのを頼むからです」
 度数40を超えるアルコール。咳き込む彼女の前からアースクエイクを引き取り、ハラキリはバーテンダーにスプモーニを注文した。
 苦しみ疲れたようにカウンターに突っ伏していたマードールの前に、今度は鮮やかな朱の注がれたタンブラーが置かれる。
 だが、彼女は顔を上げない。
「あ、チェイサーも。二つ」
 意に介さず、ハラキリはバーテンダーに注文する。
「なあ」
 そこに突っ伏したまま、マードールが問いかける。
「はあ」
 生返事をするハラキリと、突っ伏すマードールの前にグラスが置かれる。
「お前は、ニトロ君をどうやってあそこまで鍛えたのだ?」
「何故そんなことを?」
「決まっている。頼りない少年の変貌ぶりにはほんとーに驚いているのさ。もし良いカリキュラムがあるなら取り入れたい。なんならお前をコーチとしてまねくのも、面白いかもしれない」
 個人的な興味と為政者としての興味が織り交ざるセリフにハラキリはふむと鼻を鳴らし、
「そう言われましてもね、別に拙者が鍛えたわけじゃありませんから」
「お前は『師匠』だろう」
「『護身術』に関してはそうですが、それもジムのトレーナーと共同ですし、それだけでなく他の様々な面を含めてニトロ君の成長には彼自身の日頃の鍛錬がものを言っています。芍薬という良いサポーターがいるのも大きいでしょう」
 ハラキリがグラスを手にすると、からんと氷が鳴った。適度に冷えたミネラルウォーターで唇を湿らせたハラキリは、
「それに、何より彼を本当に鍛えたのは――優秀な『敵』です」
「……ティディアか」
「結果論ですが。今の彼があるのは優れた『敵』によって常に磨かれ続けたためです。拙者はただそこに手を差し込んで、ちょっとだけ背中を押したり、時に足を引いたりしていただけですよ。まあ、彼は確かに拙者のことを『師匠』なんて呼んでくれたりもしますけどね。事実は、勝手に彼があのようになったんです」
「……そのわりに、何だか誇らしげじゃないか」
「……そうですね」
 ハラキリはそれだけを言って、グラスを傾けた。またからんと氷が鳴った。
 その音に引かれたように、突っ伏していたマードールが頭を動かして顔をハラキリに向けた。
「なあ」
「はあ」
「ニトロ君は、妾のこと、本当は嫌ってないか?」
「急に一体何の被害妄想ですか」
 水を口に含もうとしていたハラキリが、苦笑する。
「……妾は、本当にうまくやれたのか?」
「……」
 ハラキリは水を飲み、グラスを置いて腕を組んだ。
「『ニトロ・ポルカト』が、ああいうことをしてくる相手を嫌うことは知っているのだ。相手を思い遣って、その場を良好に取り繕うことができるとも知っつぇいるのだ
「なら、彼がああいうところで嘘をつかない人間ということも調べてあるでしょう?」
「助けられたという義理にこたへただけではないか? 忠告とはいえちょと押し込みすぎたか、なんて思っているんだ」
「そんなに不安ならピピンさんに覗かせておけば良かったでしょう」
「それは反則。不誠実極まる」
 断言され、ハラキリはまた苦笑した。そして相手の出方を窺うように黙していると、やおら、マードールが小さく言った。
「嫌われてないかな」
「つまり、嫌われたくないわけですね? 個人的に、ニトロ君に」
「うん」
 今のうなずきは、マードールか、それとも『アシュリー』か。
「妾は『ティディア&ニトロ』のファンたからな」
「おや、初耳ですね」
「妾があの漫才コンビを好きだ、などと公言できるわけがないたろぅ?」
「まあ、そうなんですかねえ」
「そうなんですよ。おかけて、サインをもろふための色紙を用意するにもくりょーした」
「おや、本気ですね。ていうか持参したんですか」
「もらっておいてくれないか?」
「ご自分で頼みなさい」
「……」
「それくらい貸し借りなしでやってくれますよ。そして、彼は貴女に対して敵意は持っていないし、嫌悪も向けていません。それは『師』である拙者が保証しておきましょう。ま、友達に値する好意もないでしょうけどね」
「……意地悪め」
 ご機嫌と不機嫌が程よく混ざった呟きと共にマードールは体を起こした。
 ハラキリが頼んでくれていた水を半分まで飲み干すと朱色のスプモーニを手に取り、それから、小憎らしい案内人の手元にあるカクテルグラスに目を向ける。その視線に、ハラキリが応えた。
「ニトロ君に付き合う時間は終わりました。約束通り、ここからは殿下にお付き合いいたします」
「これからべろんぺろんに酔っ払うつもりたぞ、わらわわ」
「ただの酔っ払いの相手なら御免被りますがね。仕事が上手くいったかどうか不安がる小心な妹の相手くらいなら、しても罰は当たらないでしょう?」
「そこはしないと罰が当たる、ではないか?」
 ハラキリはそれには応えず、カクテルグラスを持ち上げた。
「?」
 照明を受けて縁の光るカクテルグラスを見て、マードールが眉をひそめる。
「まずは乾杯しましょうか」
「なんのために?」
 問うてくる彼女に、ハラキリは呆れたように、
「セスカニアンの王女様がご立派に任務を遂行されたことにですよ。今後どのような人が彼に御機嫌伺いをしようとも、殿下以上に良く印象に残る者はいないでしょう。大丈夫、彼は人を思い遣れる上にお人好しです」
「……」
 マードールは目を丸くした。
 当然だろう。自分から確認を取ろう取ろうとしていたことではあるが――この件を面白く思っていないハラキリから……底意地の悪い曲者の方から、まるで念を押して安心させるような口調で肯定を繰り返されて彼女は酔いも醒めたとばかりに面食らったのだ。
 それを見て、ハラキリは微笑み言った。
「祝杯を。どうせ飲むなら、美味しい酒を飲みましょう」
「……」
「これはニトロ君のお父上に教わったことなんですが、喜びという美酒に勝るものはないそうですよ? まあ、拙者からすれば本当は祝えることではないのですが、ご相伴に預かるくらいなら彼も彼女も許してくれるでしょうしね」
 最後は言い訳のようなことをごにょごにょと言うハラキリを見つめていたマードールは、やおらため息をついた。
「ティディアは、ずるいなあ……」
 スプモーニのタンブラーを手にして、眉を垂れる。
「『相方』だけでなく、お前まで。いくらなんでも幸運に過ぎる。少し妬みが出てきたよ」
「それは良いことです。憧れだけ抱えていては、今後ともおひいさんとやり合い続けるには分が悪い」
 ふっ、と、マードールが軽く吹き出す。
「お前はアデムメデスの人間だろう?」
 咎めるような彼女に、ハラキリは片眉を跳ね上げるとカクテルグラスを下げ、
「それを言うなら殿下こそセスカニアンの王女でしょう。なのに、何をそんな弱音を見せているんです。側近ならまだしも他国の人間、それもその国の王族に近い人間に」
 思わぬほど真正面からの指摘にマードールが言葉を飲む間にも、彼は流暢に続ける。
「もちろん全ては殿下の、弱い所を晒して情を誘い、拙者を味方に取り入れようという打算的にして狡猾な言動――と受け止めてさらさら相手にしないのも有りですが。
 しかしまあ……」
 そこでハラキリは、ニコリと笑った。
「今は、仮初にもアシュリーの兄ということで」
 マードールはまた目を丸くし、ハラキリの言い回しとその一筋縄ではいかない人間性に口元が緩みそうなのを懸命に堪え、
「いいや」
 頭を振り、彼女は言った。
「兄はいらぬ。今は、仮初にも妾の友であれ」
「そりゃまた贅沢な上に面白い要望ですねぇ」
 そう言いながら、ハラキリは再びカクテルグラスを目の高さに持ち上げる。
 マードールも微笑み、タンブラーを一時の友に合わせて持ち上げる。
「乾杯」


 ハラキリに礼とお休みの挨拶を交わした後、部屋に入ったニトロは一直線にベッドに向かい、そして倒れ込むように突っ伏した。
「オ疲レ様」
 テーブルに置きっ放しだったハラキリの携帯電話の上に、肖像シェイプが映し出される。
 もそもそと靴を脱ぎ、ニトロは、ごろりと仰向けに転がった。
「何か、動きはあった?」
 天井を見るニトロに問われ、芍薬は、もう休むことを勧めようとして――やめた。マスターの横顔は真剣だ。
「ミリュウ姫ニ動キハナイ」
「『世間』は?」
 即座に継げられたその問いに、芍薬はニトロの知りたいことを悟った。そして彼が真剣な顔で、何を思っているのかも。
「……オ祭騒ギダヨ」
 芍薬は、言った。
「重大事件扱イハ、ホトンドナイ」
「ほとんど、か。その内容は?」
「ネットノ片隅ヤテレビノ討論会デ一言二言出テル程度ダケド……ヤッパリ、ソレデモアレガ『クレイジー・プリンセスの悪ふざけ』ノ“パスティーシュ”デハナイト疑ッテル者ハイナイ」
 ヴィタの言葉をトレースして芍薬は言った。続けて、
「ソシテ重大事件扱イノ内容ノホトンドハ『ヤッパリアノ兄弟ノ一人ダッタ』ッテトコロダ。珍シイトコロジャ、主様ヲ謀殺シテ自分ガ“成リ代ワル”ツモリダ、ナンテノモアルケドネ」
「全身整形して、性別も換えて?」
「御意」
「そうしてわたしはお姉様のお婿さん、か。ぞっとしちゃって笑えないなぁ」
 ニトロは枕を引き寄せ、頭の下に置いた。
「ミリュウ姫ハ『プカマペ教』ヲ国教トスル気ダ! ッテイウノモアルヨ」
 ニトロは吹き出した。
「そいつは凄い。でも、そうなったらハラキリも巻き込まれるかな?」
「既ニ天使扱イサレテル。翼ヲ生ヤシテ慈悲ノ顔デ空ニ浮カンデルヨ」
 再びニトロは吹き出した。その絵を想像して声を上げて笑ってしまう。
「ソノ主張ヲシテイル奴ハ、アノ『映画』ヲ“予言書”ニシテ、ソレデ多次元的エーテル意志ガドウノッテ言ッテル。『ティディア・マニア』デモアルラシクッテ勝手ニ国教化ヲ宣言シテ、ソコニ現国教ノ熱心過ギルノガ噛ミ付イタ。ブッ飛ンダ論争ガ異次元空間ヲ作リ上ゲタトコロヲ物見屋ウォッチャーガ発見シテ、チョットシタ話題ニナッテルヨ。他ニモ過激ナ『ティディア・マニア』ノコミュト『ティディア&ニトロ・マニア』ノコミュガ喧嘩シテタリ、コレマデ息ヲ潜メテイタ『ミリュウ・ファンサイト』ガ活気付イテタリシテルネ」
 ニトロが横目を向けると、芍薬はやれやれとばかりに肩をすくめた。彼は微笑み、
「みんな、楽しそうだね」
「ブックメーカーハ『ミリュウ姫ノ次ノ手ヲ当テヨウ!』ッテ大忙シダ。『巨人ヌイグルミ』トカ『教団変身セット』トカノ予約ヲ始メテルトコロモアル」
「おや。そこの権利関係は?」
「ノータッチ宣言。『女神ハソレヲ信奉スル者ノ発展ヲ願ウ』――ダソウダヨ」
「そりゃ豪儀だなあ。でも後でハラキリと制作委員会に絞られるぞ、きっと」
 ニトロは肩を揺らし、目を天井に向け直した。
 そして、
「……みんな……楽しそうだ」
 ため息をつきながら、再び言う。
 人が楽しむ姿を見るのは、聞くのは、知るのは、嫌いじゃない。むしろ好きだ。
 けれど……
「……芍薬」
「――言ッテイインダネ?」
「確かめたい」
 芍薬は沈黙を挟んだ。三秒ほどの間だったと思うが、ニトロにはとても長く感じられた。
「『ニトロ・ポルカト』ガイルカラ“大丈夫”――ダカラ皆、安心シテイル」
 その瞬間、ニトロは深く息を吐いた。
 ヴィタ、ハラキリ、マードール……三人が異口同音に語っていた言葉が芍薬の報告に混ぜ込まれ、今まさに事実としてここに固着する。
 また喉が渇きを覚えた。粘度の上がった唾を無理矢理飲み込んで渇きを誤魔化す。深い水の中にいるようにあらゆる方向から重さが感じられ、特に喉が締めつけられているようだ。もしかしたらこの喉の渇きの正体は、喉を圧迫されることを誤ってそう感じてしまっているからなのだろうか。
 ニトロは苦しげに息を吸い、そしてつぶやいた。
「そっか……」
 その一言はやけに部屋に響いた。残響を起こすだけの広さも装置もないのに、彼の声がこだまして彼の耳に返ってくるようであった。
 鈍い痛みが頭を締めつける。
 腹の底に疼痛が湧いて気持ち悪い。
 彼はひしひしと感じていた。
 マードールが言ったことは、半ば図星だった。
 ――『君は、解っていないな。それとも自覚しているのに、無自覚でいたいのかな?』
 まるきり無自覚でいたわけではないが、しかし本質的なところは無自覚だった。
 ……いや、本当のところは、きっと、マードールの言う通りに『無自覚でいたい』から自ら気づかぬようにしていたのだろう。半ば図星ではない。しかと図星だったのだ。
 だが、もう、無自覚ではいられない。そういう振りをすることもできない。
 もちろん、多くの人間の――語弊を恐れず言えば“国民の”その期待は……決して望むのではない。自分はそんな風に思われるような人間ではないし、そう思われるのに一種の恐ろしさも感じる。『ニトロ・ポルカト』は、なぜなら、あまりに虚飾で彩られてしまっているのだから。
『ティディアの恋人』として培ってしまった立場。
『映画』の主演を勤め上げ、ティディアとの漫才も成立させている“タレント性”。
『トレイの狂戦士』としての過大評価。
『スライレンドの救世主』として作り上げられてしまった虚像!
 何より――『クレイジー・プリンセス・ホールダー』としての存在感――希代の王女の戯れに付き合わされているだけのツッコミ役としては、分不相応も甚だしい評価の数々!
 それらの成立過程において自分の責任が一切ないとは言わない。
 例えばハラキリの事情を鑑みて嘘をつくことを選ばずにいたなら、間違いなく『ニトロ・ポルカトの手柄』の幾つかは消し飛んでいる。であるのに、それを知りながら手柄を与えられる結果を受け入れたのは、紛う方なく己の決断のためだ。己の決断である以上、その点までも誰かに責任を押し付けるつもりもない。
 しかし、思う。思わずにはいられない。
 ティディアの夫婦漫才という『夢』に都合の良い癖を持っていたことで、次第に構築されてきたこの状況は一体どうしたことだろう。高校の入学式で長い校長の挨拶に思わずツッコンだ、そしたら次期王候補になりました――なんて、その因果にどんな脈絡があるというのだ。改めて考えるといやもう本当になんだそれ。
(おかしなことになったもんだ……)
 左手の『烙印』を撫でながら思わず漏らしそうになったつぶやきを、ニトロは辛うじて喉の奥で止めた。
 その嘆きを芍薬に聞かせるのは悪い。
 おかしなこと――国民に期待されたからといって、どうしろというのだ――その戸惑いを露呈しては、芍薬に無用な気遣いをさせることになってしまう。
 なにしろ期待に応えるということは、例え今回の件をちゃんとまとめたところで『期待』に応えきったことにはならないのだから。
 ミリュウ姫との問題を収めることは単なる通過点に過ぎず、最終的にはクレイジー・プリンセスの夫となり、最凶の彼女を抑え込む『良心』となり、また希代の女王が統治する未来を約束する王となることで自分はその『期待』にようやく応じることが可能となるのだから!
 ……いやもうマジで、どうしろと?
(ティディアの恋人なんかじゃない俺に)
 考えれば考えるほど絶望しか出てこない。
 期待には応えられないし、そもそも期待を受ける前提条件から崩れているというのに、『期待』に応えねば多くの人間に大いなる失望を与え、そうして普通に暮らすには難しい苦境が訪れることが目に見えている。
 正直、八方塞だ。ティディアの求愛とやらを受け入れるのは望まぬ未来であり、それを跳ね除けたところで結果として望む平穏は手に入らない。人生……チェックメイト。
「デモネ」
 と、ふいに、芍薬がおずおずと言った。
 ニトロは顔をそちらに向けた。
 テーブルの上、離れた場所にいる芍薬は、肩をすぼめてニトロを見つめていた。
「怒ラセタラ御免ヨ。デモネ主様、コレハネ、主様ガソレダケ期待サレテイルコトハネ、あたしニハ――自慢ナンダ」
 言い切ったことで腹を括ったのか、芍薬は縮こまっていた肩をすとんと落とした。
「主様ノA.I.ニナッテカラ、あたしハ主様ヲズット見テキタ。最初ハヤッパリ頼リナイトコロハアッタシ、覚エテル? 主様ノA.I.トシテヤッテキタ日、主様ハ精神的ニ追イ詰メラレテテノイローゼ寸前ダッタ」
 芍薬は思い出し笑いを堪えるように口に手をあて、口に当てた手をすっと頭のカンザシに触れ、
「デモ、主様ハ、ソレカラドンドン見違エテイッタ。頑張ッテ、頑張ッテキテ、今モ頑張ッテイテ、ソウシテトウトウ無敵ダッタハズノ王女ノ相手トシテ多クノ人ニ認メラレルホドニナッタンダ。モチロン『バカ姫ノ相手トシテ』ッテノハあたしモ面白クナイケドネ、デモ、ソレハ主様ガ間違イナク自分ノ実力デ出シタ結果サ。恥ジルコトモ、悔イルコトモナイ。あたしノ大事ナ主様ノ栄誉ダ。ハラキリ殿モ言ッテタダロウ? 『それだけの人になった』――あたしモソウ思ウ。ダカラあたしハ……」
 そこで芍薬は首を振り、言い直す。
「ダカラ主様ハ、あたしノ誇リダ」
 ニトロは思い出していた。
 ハラキリの言葉。
 ――『どんな時も拙者は君の変わらぬ友達です』
 彼はきっと、マードールとの会話を経て後、自分がこの“自覚したが故の思い”を味わうことを知っていたのだろう。だから、あの時、照れ臭さから逃げるようにしながらも、それでもああ言ってくれたのだ。
「コレカラドンナコトガ主様ヲ取リ巻イテモ、大丈夫」
 そして今、すぐ傍にいる芍薬の言葉が心を温めてくれる。
 芍薬はしゃんと背を伸ばし、力強く言う。
「あたしハズット変ワラズ主様ノ『戦乙女』ダヨ。ソシテ主様ハイツダッテ『ニトロ・ポルカト』サ。王女ノ恋人デモ狂戦士デモ救世主デモナク、あたしノ優シイマスターダ」
 ニトロの耳に、芍薬の声が反響する。
 芍薬の力強さが伝える思いの形、また厚い信頼も伝わる温かい眼差し。何よりその強い意志が――大丈夫と確信させようとする芍薬の心が、彼に圧し掛かろうとする数え切れないほど多くの他者の『期待』、そしてそこに深く根をはる“大丈夫”を洗い流していく。
 先ほどまであった喉の渇きは嘘のように消えていた。
 深い水底にいるようにあらゆる方向から感じられた重さもない。
 喉を締めつけられていた感覚までも、芍薬の明るい声に吹き飛ばされている。
 ニトロは知った。
『……いやもうマジで、どうしろと?』
 少し前に感じた疑問、いや、嘆き。しかしその嘆きはもはやどうとしなくてもいいものなのだと、彼は知った。
 国民の期待を裏切れば、間違いなく責められるだろう。例え自分に責められるいわれがなくとも、人は生きているだけでも『生きている者の責任』を問う生き物だ。きっと無秩序にあらゆる言葉を投げつけられ、その猛威が生む暴風に吹き飛ばされ、その圧力が作る荒波に飲み込まれもしよう。
 だが、自分には、着地点がある。どれだけ大嵐の荒海の中で方角を見失おうとも、お前の戻る場所はここだと引っ張ってくれる存在がある。
 変わらぬ友でいてくれると約束してくれた親友。
 そして、自分のことを誇りにしてくれる、家族。
 それがあるなら――そうだ、マードールの宣告の衝撃に暗んだ目を元に戻してくれたように、この二人があるなら何がどうなろうとも『ニトロ・ポルカト』は己を見失わずに立っていける。例え望む平穏な暮らしは得られなくとも、望まぬ未来ばかりであろうとも、しかしこの幸運と幸福がある限り、ただ嘆きが人生に勝ることなどありえない。
 それなのに、嘆きのあるがために嘆く必要なんか、決してない。
 嘆くのは嘆きが訪れた時、その時に涙するので十分だ。それなのに遠方にある嘆きに向けて声を上げるのは、それは嘆きではなく、嘆きへの耽溺というものだろう。そしてその耽溺に陥れば、きっと嘆くことでしか自己を慰めることができなくなり、最後には慰めを求めるために嘆きを探すようになってしまう。そうなればいつしか絶望に目を奪われ何も見えなくなってしまうだろう。見えなくなって、落とし穴に気づかず死んでしまうのだ。
 それは何と危うく、何と愚かで、何と哀しいことだろうか。
(……)
 ニトロは左手の烙印を撫でた。
 この受難の象徴は、その花は――心を救う花。芍薬の花。
 嘆きのあるがために嘆く必要はない。
 そうと分かったら、ここは一つ開き直ってみようか。
 八方塞? 人生チェックメイト?――それがどうした。心が死ななければ命ある限り抗える。八方が塞がっているなら十六方を探せばいい。チェックメイトだというなら勝利条件を変えてやる。平穏な人生だけに幸せがあるわけではない。望んだ未来が幸福を携えて待っているとも限らない。
 しかし最大にして最小、最小にして最大の幸福は既にこの手にある。
 これからどれだけ望みが絶えようとも絶望の暗みに目を奪われることはない。
 これからいくらでも『ニトロ・ポルカト』は、『ニトロ・ポルカトの人生』を活きとして生きていけるのだ。
「芍薬」
「何ダイ?」
 ニトロは微笑んだ。
「ありがとう」
 芍薬も微笑み、嬉しそうにうなずく。
 ニトロは芍薬の笑顔を目に焼き付け、それから天井に顔を向けた。
 深く息を吸い、吸った時よりも長く息を吐く。
「さすがに疲れたよ」
 まるでティディアを相手にした日のように、いつも通りのやれやれ感を漂わせてニトロは言った。
「オ腹ヲ冷ヤサナイヨウニ掛布ケットヲチャントカケテネ?」
「うん」
 芍薬の注意を受けたニトロは体の下に敷いていた薄いケットをもそもそと引っ張り、体の上に掛けた。
 照明が次第に光量を落としていき、長い一日の終息を告げてくる。
「オヤスミ」
 いつも通りの芍薬の声がニトロを撫でる。
「おやすみ」
 ニトロは口元を和ませ、目を閉じた。すぐに仕事熱心な睡魔がやってくる。そして彼は、受難の日の最後に、穏やかに夢の世界へと誘われていった。

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