「今は休憩中? そっちは何かと余裕綽々なのかな」
険をたっぷりこめた声を、クロノウォレスに向かう――通話ができるということは
銀河間通信のタイムラグを挟み、
「…−お気遣い感謝いたします、ニトロ様」―彼女は微笑んでいるようだ―「そして、アクション活劇を堪能させていただきましたことにも御礼申し上げます。てっきりソープオペラを楽しめると思っていましたので、それはそれは嬉しい裏切りでした」
ニトロは、頭を掻いた。
「てことは、やっぱり知っていたんだね。こうなることを」
「…−はい。ミリュウ様がニトロ様に何かをしようということは知っていました」
「ドロシーズサークルのことがあったから?」
「…−それも含めまして」
堂々とヴィタは答えてくる。言外には自分達が故意犯だということまで含ませて。
ニトロは腹底に燃える怒りの火がチラッと喉にかかるのを自覚しながら、
「何で、あれがミリュウ姫の仕業だってことを黙ってたのかな。しかもあいつは自分のせいにまでしてさ。もしかして、妹を庇った? あの時点ではっきりさせてたら、今回のこともなかったんじゃないか?」
ニトロはそこで口を固く結んだ。まだまだ言いたいことも聞きたいこともたくさんあるが、しかし今口を開けばそれが際限なく溢れ出してしまうだろう。そしてそのまま言葉を吐き続ければ、きっと最後にはヴィタに憤りをぶちまけるだけになってしまう。それは賢明なことではない。
タイムラグを挟み――その隙間が煩わしい――ヴィタが、答える。
「…−いいえ、当時、はっきりさせていたからといって、それで今回のことが『無かった』とは思いません」
それは存外に力強い断言だった。思わぬ応答にニトロは少し目を丸くし、
「やけに自信満々だね」
「…−ええ。なぜなら、ミリュウ様はニトロ様が姉に相応しくないとお思いですから」
「おっと」
ニトロはうめくように声を発した。それは先にハラキリが可能性の一つとして触れていたことではあるし、小姑のいびりを鑑みる以上避けられない可能性でもある。が、明確な証言としてそれを聞けば驚かずにはいられない。しかし驚きの一方で納得もある。相反する感情と、『観察眼が鍛えられている』――なんて自惚れだったなと、苦い思いを噛み締めながら、
「いつも祝福されて困ってたんだけどな」
つい今朝方に確認した妹姫の言動へも苦笑を投げるように言う。
「…−いつ頃までかは真に祝福されていたと思います。ニトロ様をも」
すると返ってきた応えに、ニトロは眉をひそめた。
「俺をも?」
「…−ミリュウ様の、ティディア様に対する祝福には偽りはない。そう思います」
さらにニトロは眉根に影を落とした。ややこしいヴィタの指摘をいったん噛み砕き、怪訝に言う。
「……つまり、相応しくないと思う『恋人』を得た姉に対しては真に祝福を贈っていたって? でもそれって、むしろ『ざまあみろ』とかそういう皮肉な祝福にならない?」
「…−いいえ、純粋な祝福です。ティディア様の“お喜びに対してのみ”祝福を贈る。そうであれば納得のいかないことではないでしょう?」
ニトロは反論しようとして口を開いたが、しかし反論どころか討論の言葉すらも見つけられず、空気を噛むように喘いだ後、不本意の形とばかりに唇を結んだ。確かに納得のいかないことではないが……かといって……
「あり得ない心理ではありませんね」
と、反応に窮するニトロの代理を買って出るように、横からハラキリが言った。
「相当に複雑で不協和音に満ちてはいますが、そういう矛盾を平気で抱え込めるくらいには、人間は、まあ、複雑怪奇ですし」
こういうことを口にする時のハラキリは、ニトロが本当に同年代なのだろうかと疑うだけの説得力をみせる。今は上等なブランドスーツを着ているから、なおさらに。
思わずニトロは口の端を緩めた。ハラキリの意見は、ニトロも得心を置くに適当なところでもある。事実、つい直前にも自分自身が『相反する感情』をこの心に同居させていたのだ。
もしかしたら、ただでさえ当惑の中にいる自分がさらなる困惑に陥らないように、親友は嘴を挟んできたのだろうか――そんなことを思いながら、
「ティディアに対しては解った」
ニトロは淀みなく言い、続けて問うた。
「それじゃあ俺に対しては、『いつ頃までかは』ってことは、段々変わってきたってことかな? 心の中では反対派へ」
「…−おそらく。ですからそのお思いがある以上、いつか、形はどうあれ、ニトロ様との間に何事かが起きていたことでしょう」
ニトロは芍薬を見た。芍薬は間を置いた後、うなずいた。ニトロもヴィタの言葉が正しいだろうと思う。
「…−先ほどの話に戻りますが、ドロシーズサークルの件」
黙していると、ヴィタが話題を戻してきた。ニトロの相槌を受け、彼女は続けた。
「…−まず、ミリュウ様の仕業とお伝えしなかったことには、あの件はティディア様の仕業としておく方が何かと都合が良かった、という事情があります」
「都合?」
「…−結果を見れば『クレイジー・プリンセス』の力がどれほどニトロ様の益となるよう事態を回したか、ニトロ様はご存知のはずです」
「む」
事実、ヴィタの言う通りだった。報道一社がその失策によって壊滅的なダメージを受けたあの一件は、『ニトロ・ポルカト』に対する取材のあり方を改めて考えさせるに十分な力を生んだ。
彼を下手に追い回せば、捏造記事で滅びた一紙を引き合いにこの国に最も影響を与える女性から何を言われたものか分かったものじゃない。もしスキャンダルを撮れれば大儲けできるとしても、元よりゴシップ・メーカーでない少年を相手にするには賭け金が高すぎる。
それが、ニトロの生活圏に平穏をもたらす一因になっていないとは……彼にはとても言えない。
「いやまあ結果的にはそうだけどさ。でも」
それを理解しているからこそニトロは口ごもり、そこにヴィタが言葉を重ねてきた。
「…−さらに申し上げれば、庇うほどのことをミリュウ様はされていません」
さすがにそのセリフは看過できず、ニトロは言った。
「危うく性犯罪者にされかけたんだけど?」
棘のある彼の声に、しかしヴィタは涼やかに返す。
「…−あれはイレギュラーです。ミリュウ様の意図にありません」
「じゃあ、どういう意図があったっていうのさ」
「…−変装したパトネト様をニトロ様が見破れなかった。それをネガティブキャンペーンの材料にしたかった――その程度でしょう」
「へ?」
ニトロは、面食らった。
「え? ええっと、本気で?」
「…−はい」
「えーっと? はあ、そりゃまた……あー、随分可愛らしい企てだね」
それは当時、ほとんど一笑に付した
――が、
「それでも。あの時点でミリュウ姫の仕業だと解っていれば、こっちの対応は変わったんだ」
気を取り直すように語気に力を込め、ニトロは続けた。
「もちろん今回の件が『無かった』とは言わないけど、あんなに無防備に“攻撃”を受けることは絶対に無かった。もし王女クラスの力を持つ『敵』が他にいるって解っていれば、少なくとも芍薬を“王家のA.I.の襲撃を受ける”なんて危険な目には合わせずにすんだはずなんだ」
静かな、されど渾身の力が込められた語気――そこには彼の強い強い怒気が塗り込まれている。
「あたしダッテ」
ニトロの怒気を追って、彼のそれよりも小さな怒気が流れた。
「主様ヲ、モット守レタ」
芍薬の声は、堅い。ニトロのそれには劣るまでも、確かにそこには灼熱の憤怒が底光りしている。
ただ、どうやら芍薬の怒りが削がれているのは、爆発させるべき激情を、先んじてマスターに吐き出されてしまったためであるらしい。そしてマスターの怒りがこれ以上ないものであったからこそ、それを追って口に出すのが躊躇われ、しかしそれでも言わずにいられなかったのだろう。また、彼の思いが嬉しくもあるようだ。
図らずも、怒りと歓喜という二つの感情を――ミリュウ姫の姉への祝福と『恋人』への反感の共存にも似せて――A.I.の身でも表すこととなった芍薬は、僅かに頬を――怒りと歓喜の両方で薄紅に染め、苦しそうに胸の前で袖を合わせている。
「守レタンダ」
いや……それだけではない。悲しみと悔しさもが、芍薬にはあった。
その幽かに揺れる声の先、芍薬の視線の先にはニトロの左手がある。
ニトロはその視線に気がつき、努めて視界から外していた己の体内に異物を入れられた証拠を見、それから芍薬に微笑を送った。
ハラキリは黙している。いや、彼には黙す他に何もできようもなかった。
電気信号には変換できぬはずのこの空気は、きっと宇宙を隔てた執事にも届いているだろう。
少々長い沈黙が両者の間に横たわり、やがて、ヴィタは言った。
「…−これは私の判る範囲――いえ、想定できる範囲での話なのですが」
「――うん?」
「…−ティディア様は、夫と妹との未来に諍いがないように、不安要素を一切残したくないと思われています。ドロシーズサークルの件は、いくらあの程度の仕掛けだったとはいえ、むしろあの程度であるからこそ余計なしこりが残りましょう? そういったものは一気にどかーんと。じくじくやりあうより全力でやり合って爽快に和解した方が良い。乱暴な手ではありますし……ニトロ様が泥沼にしかならないと仰るからにはその実現の可能性は低いのかもしれませんが、それでも可能性があるのならば、そちらの方が都合が良い。
ですから、あの時点でニトロ様にミリュウ様が『敵』となっていると知らせるわけにはいかなかったのです。ニトロ様が『敵』を見誤ったままでいてくれなければ、ミリュウ様は、きっと『ニトロ・ポルカト』に全力でぶつかる前に……あなたに潰されてしまいますから」
「……最後のは買い被りだよ」
盗み聞きしていた箇所を正直に告白しながらの言葉、その上に本当に大きな買い被りを受けてニトロは苦笑した。しかしその笑みもすぐに消し、
「それに、それはいくらなんでも本当に乱暴な手だし、しかもとんでもなく身勝手だ。そっちがどういう都合を考えていたとしても、俺はさっき、ひょっとしたら殺されていたかもしれないんだよ?」
「…−ニトロ様があの程度で殺されることはありません」
「そんな軽々しく断言されてもね。ていうか、何を根拠にそう言い切るのさ」
「…−根拠は、あなたが『ニトロ・ポルカト』だからです」
「いや……」
ニトロは思わず再び苦笑した。そして同時に、それはヴィタらしくない下手な理屈だとおかしく思った。
「それは根拠にはならないって」
「…−いいえ、立派な根拠です、ニトロ様。私だけではありません、皆そう思っていることでしょう。おそらく……ミリュウ様ご自身も」
「? ミリュウ姫自身も?」
「…−はい」
ニトロは困惑した。そのヴィタの言葉は理解しづらい。彼女がそう言うからにはそれだけの理由が……それとも直感があるのだろうが……『ひょっとしたら殺しにかかってきた相手』が『相手が殺されることはない』と思っていると言うのは一体どういう了見だ?
答えを求めて芍薬を見るが、芍薬は左右に首を振る。ハラキリを見れば物憂げに肩をすくめられる。判断材料がヴィタの言葉しかないのだから、それも当然か。
「……」
ニトロはため息をついた。
「まあ、それならそれとして」
とにかく話を続けてもっと情報を引き出そうと、彼女がミリュウの仕掛けに対して二度も口にした『あの程度』という言葉を利用し、さらにハラキリの推測も絡めて投げかけてみる。
「それじゃあ、もしかしたら今回の件もネガティブキャンペーンの一環なのかな。例えば俺がティディアに“どうにかしろ”って泣きついたら、『我らが王となられる方があの程度の問題を処理できないのは大問題だ。しかも国民のためのショーを台無しにした。こんな男は無敵のクレイジー・プリンセスの夫としても相応しくない』――とか」
そこまで言って、ニトロは『神官』の発言をふと思い出し、
「奪われた女神の心を取り戻すために、そうやって俺への失望を姉の心に差し込もうとしている……とかさ」
付け足された彼の推測に、間を置いてからヴィタが言う。
「…−私も、そのようなところだろうと考えていました」
ヴィタの声には僅かに深刻の影がある。
「考えていた? じゃあ、今はそうじゃない?」
ニトロの問いにヴィタは答えを返さなかった。銀河間通信のタイムラグをはるかに超えた間が沈黙を誘い、ふいにそれに耐えられなくなり、ニトロが言った。
「その他に何がある? というか、言ってみてこれしかないんじゃないかな――なんて思いもあるんだけど」
「…―判りません」
「判らない?」
ヴィタの――いつもは常にトラブルの要因・実情を丸々把握しているクレイジー・プリンセスの女執事の意外すぎる答えに、ニトロは思わず身を乗り出していた。
「いえ、判らなくなったという方が、この場合は正しいのでしょうか」
どうやらヴィタは、事情は理解しているが、実情は理解できていない――そう言っている。
ニトロは腕を組んで身を引き、急いて先を促したい気持ちを抑えて次の句を待った。
「…−ニトロ様と巨人の攻防を見るにつれ、理解したことがあります。私は、ミリュウ様のことを理解していなかった、と」―彼女はそう明言し、さらに―「私もミリュウ様のことを見誤っていたのです。ただ和やかでお優しいだけの方とお見受けしていたのですが、あのような……凶暴な一面も持ってらっしゃったのですね」
「凶暴か……」
「…−はい。今回の件に限らず、ミリュウ様の手本は間違いなくティディア様です。ですが、だとしても、だとすればこそ、あれは凶暴です。巨人などは特にそうでした」
「まあ、ティディアに色々食らわされてる立場から言わしてもらっても、うん……そうだね」
例えば、初めてティディアに食らったトラブル――『映画』でも、ティディアの攻撃は最後の決闘を除けばどこかふざけていた。無論こちらを挑発する目的もあっただろうが、いずれにしてもどこかに“余裕”があった。
しかし、今回はそのような余裕は感じられない。あの巨人の無数の目が思い出される。あの神官の眼が思い出される。そうだ。本当に、恐ろしい瞳だった。
それを凶暴と言えば、確かにそうだろう。
「…−もちろん、これは私がミリュウ様の一面に気がつけなかっただけ――ということでもあります。たかだか一年と少し。直接の面識と交流はあるとはいえ、職場も違えば人となりへの理解を深めるにも限度はありますから」
そう自嘲的な――どうやら彼女は“自分達と同じ自嘲”を覚えているらしいとニトロは察した――声を前に置き、後にヴィタは確固とした口調で続けた。
「…−しかし、ミリュウ様と直に接するようになって日の浅い私でも、ミリュウ様の性質というものを日の浅い中で知るに十分でした。あの方は、お優しい。本来、およそ人を傷つけることなど決してできない人間であり――ニトロ様? 私の印象では、ミリュウ様は、あなたに似ています」
「俺に?」
突然の指摘に、ニトロは目を丸くした。
「…−はい。より正確に言えば、同類、でしょうか。例えば性格的にも、性質的にも、ニトロ様と最も気の合う王子女は誰か……と問われれば、私は真っ先にミリュウ様の御名を挙げるでしょう。ティディア様でもなく、パトネト様でもなく。基本的に自分のことよりも他人や他者との関わりを
ただ大きく違うのは、ニトロ様にはツッコミという特筆すべき一芸があり、ミリュウ様には王女という特別な立場と目立たぬまでも醇美の容姿がある、というくらいでしょう。しかしそれを除けば、本質的に、お二人共に非常に『普通』な方です」
「ふむ」
と、ハラキリがうなずいた。その顔には納得がある。
微妙に失礼なことも言われている気もするが……ニトロは『師匠』の肯定を得たヴィタの印象論に不平を返さず押し黙ることを選択した。他者の評価は他者のものだ。そう思われるだけの理由があるなら、それを肯定はしないまでも、受け止める――
(って、これがヴィタさんの言う通りなのかな)
そう思い至った彼は、苦笑を禁じえなかった。思えば芍薬が沈黙しているのも、きっと、ヴィタの言葉に否定を返すだけの材料が無いからだろう。
「…−ですから、私は、今回よほどの大事にはなると――場合によってはティディア様がニトロ様かミリュウ様、どちらかを失う可能性すらあると考えてはいましたが、それにしてもこのような形は考慮していませんでした」
少しの間があり、ニトロはヴィタが自分の反応を待っていることに気づき、
「うん」
と、ヴィタの発言を顧み、うなずきを返した。
すると、彼女はそれを待っていたかのように言った。
「…−凶暴な、あの巨人、その行為。それを生んだのは、ニトロ様をティディア様の隣から排除しようというお心にあることは間違いないでしょう。しかし、そのお心の正体は何なのでしょうか。嫉妬でしょうか、しかし、ミリュウ様が己の嫉妬心のみを源にニトロ様を害しようとすることには違和感がどうしても残ります。では、姉を思うが故の義憤でしょうか。ティディア様――いいえ、神官に言わせた通りに信奉する『女神』のためと言うなら、ミリュウ様はニトロ様を害することに躊躇いを持たないでしょう。しかし、あの凶暴さに私憤や私怨がないとは私には思えません。ならばそのどちらも、なのでしょうか。しかしこの二つは相反するものでもあります。私怨を持てば『女神』への純粋な思いにはならない。かといって純粋に『女神』のためかと思えばその意味において不純な動機を見逃すことはできません。そこにある矛盾を飲み込んで、それともお気づきにならず……ということも、もちろん考えられます。ですが、これは私の直感に過ぎないのだと思うのですが――」
一度ヴィタは言葉を区切り、それから「何よりも私には、ミリュウ様は、ティディア様の隣からニトロ様を排除しようというのではなく、ことによるとニトロ様をご自身の手でこの世から排除することこそが目的とされているのでは? と思えてしまったのです。あるいはティディア様への感情よりも、強く。あれは『逸脱』です」
「ソノ象徴ガ、アノ巨人カイ?」
芍薬が、問う。通話口から、ヴィタの息を吸う音が聞こえた。
「…−−そう、あの巨人。あの悪夢を元に造型したかのような巨人と、ニトロ様の死を祈る『ミリュウ様達』の姿を見るにつれ、私は次第に判らなくなってしまいました。ティディア様を絶対視し、ティディア様の言葉通りに従うミリュウ様が、ティディア様を手本としながら手本にはないものを生み出し、さらには絶対なるティディア様から逸脱するほど一体何に駆り立てられているのか……お恥ずかしいことではありますが、私には判断がつきません」
ニトロは芍薬を見た。
芍薬はニトロの視線に気づいて、マスターに困惑の眉を見せた。
ヴィタの言い分は理解できても本題は余計に解らなくなった――と、芍薬の表情は雄弁に語っている。
ニトロは同意の目を返し、それから遠い場所にいるヴィタへ向き直った。
「そう言われちゃうとさ、直接会ったこともない相手の真意を探らなきゃいけない俺はとんでもない難題にぶち当たってることになるんだけど……」
その口には自然とため息が混じる。
「…−難題というよりも、無理ですよね」
ヴィタは苦笑しているようだった。
ニトロも苦笑いを浮かべるしかない。間違いなく、無理な難題だ。内心に、一つの『決断』の兆しが浮かび上がってくる。しかしその『決断』は現状で採択するには無謀極まりないものだ。彼はひとまずそれは脇に置いておき、またため息混じりに執事に尋ねた。
「ところでティディアは何て言ってる?」
「…−何も」
「???????????????????????????????」
一瞬にして、ニトロの脳裡がはちきれんばかりの『?』に占領される。
もしかしたら、いや、間違いなく本日一番の衝撃が、彼のあらゆる何もかもをも軋ませる。
あのティディアが……この大事に対して何も言っていない? まさかこの世の終わりの前触れかッ!
思わずきょろきょろと周囲を見渡せば、芍薬も、ハラキリもびっくり眼でヴィタにつながる携帯電話を凝視している。
「…−騒動の初報をお耳に入れた際、ティディア様は、ただ微笑むばかりでした」
さらにヴィタは、ニトロの存在を消滅させんばかりの
あの物見高いティディアが……聞いただけでお仕舞い? ああ、この世の死が今確定したッ!
「……――ソレデ?」
ぽかんと口を開けてフリーズしているマスターに変わって、芍薬が代弁する。するとヴィタはニトロの様子を察したらしい。
「…−それだけです」―どこか同情を込めた声がスピーカーを震わせる―「教団襲撃の詳報にも、特に反応はありませんでした」
ニトロは……戻ってこない。茫然自失で固まり続ける。
ややあって、ヴィタは笑って言った。
「…−ニトロ様には、やはりティディア様が良くも悪くも最も大きな『影響』を与えるのですね」
その言葉に、はっと我に返ったニトロは慌てて声を上げた。
「そんなことないよ! ちょっとばかり積み立てストレスが倒壊して愕然としていただけさ! ていうか! それだけ!? あのバカ、本当に何も言わなかったの!? てかヴィタさんは、何か訊かなかったの? おかしいじゃないか、おかしいと思ったでしょ!?」
激しく動揺するニトロの反応に理解を示すように、ヴィタは適度な間を置き、そして静かに言った。
「…−何を訊ねても明確なお答えはいただけませんでした。ただ『彼に任せておけば大丈夫』と。ここにきて、私は少々疎外されている模様で寂しいです」
その声を聞く限り、ヴィタは本当に寂しそうだ。
ニトロは、もしかしたら彼女から初めて見せられた感情を受けて、ようやく落ち着きを取り戻した。
「ティディアに、代われる?」
これ以上、ヴィタに何を聞いても判ることはないだろう。不可解な言動も気になるし、こうなったら――『問題』を放置していた怒りもある――いつにも増して口を利きたくない思いもあるが、しかし直接問い質す他に手はない。
そう考えてのニトロの要求に、ヴィタははっきりとした口調で応えた。
「…−ティディア様は、現在、随行の皆様と懇談中です」
「そっか。それじゃあそれが終わったら」
「…−いいえ、代われません。また、代わるおつもりもないでしょう」
「?」
ニトロはきょとんと呆けた。
あのティディアが――今朝は鬱陶しいくらいに会話を求めてきたあのバカ姫が、今度はその機会を自ら放棄する?
「…−この件に関して、ティディア様は大きく関わらないおつもりのようです」
ヴィタの発言に、ニトロはまたしても脳裏を『?』で目一杯にした。色んな意味で頭が痛い。
「え? あの面白大好きのティディアが?」
辛うじて、ニトロは言う。
「…−はい」
あっさりと、ヴィタは応じる。
「騒動には首を突っ込みたがるあのバカが?」
「…−はい」
「しかも可愛がってる妹が関わってるのに? そうじゃなくても例えばほら、俺に恩を売る絶好の機会なのに?」
「…−はい」
「本当に……どういうつもりなんだ?」
「…−ですから、ミリュウ様をニトロ様に任せたいのでしょう」
「いや任せるったって、大体何で、何を任せるってのさ。いつも何考えてるか分からない奴だけど、今度ばかりは本当に分からないよ?」
ニトロは強烈な戸惑いを胸にしていたが、次第に……段々と、苛立ちを覚え始めた。
任せる任せると、無責任にあのバカは何を言っている。偽りを前提にした形式的なこととはいえ、これは『小姑』と『婿』のトラブルだ。ならばお前も立派に当事者だろう。
それに加えて、そもそもだ。
ミリュウ姫も不満があるなら――こちらに不満を被る謂れはないとはいえ――直接面と向かってぶつけてくればいいのに何であんなことをする。芍薬にも手を出し、危険な目に合わせて。
思えばさらに腹が立つ。
頭の痛みと胸の戸惑いが腹に落ち、ぐらぐらと煮え滾る。
ええいチクショウ! 何故に俺は、王女姉妹にこんなに馬鹿げた苦労をさせられなければいけないのだ!?
ティディアはともかくミリュウ姫には好感を寄せていたから、だからこそ発火した苛立ちと怒りに勢いが加わる。
「……やっぱり……ティディアと代わってくれないかな」
「…−できません」
「いいから引きずってでも連れて来て」
ニトロの声は憤激に震え出していた。
しかし、ヴィタは毅然と言う。
「…−絶対にできません」
「できるできないじゃ「主様、ソレハ駄目」
とうとうニトロが怒鳴りかけた時、慌てて芍薬が口を挟んだ。
ニトロが芍薬を見ると、芍薬は毅然として言った。
「気持チハ解ルケド、ソレヲシチャッタラ、主様ハ『無理ニデモティディア姫ヲ動カセル』ッテ証明スルコトニナッチャウ。ソレハ絶対ニ、駄目ダヨ」
つまりそれは、『ニトロ・ポルカト』のティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナへの影響力――ひいては『次期王』の、希代の女王への影響力を示す実例となってしまうということ。既にニトロに求められている『クレイジー・プリンセスへの抑止力』という役割を、自ら補強してしまうことにもなる。
現状ティディアに様々な印象操作を受けているところへ、そんな自爆を重ねるのは愚かなことだ。
(……芍薬の言う通りだ)
ニトロは頭を冷やすよう、一つ息をついた。
「ティディアがそういうつもりなのは分かった。だけど、こっちはあいつの思い通りに動くとは限らないよ。というか、むしろ動きたくない」
苛立ちや怒りは消えないが、表には出さずにニトロは言う。
芍薬はその様子に役目を果たせたと安堵し、
「…−もちろん、強要は致しません」
ヴィタも、どこか安心したように言う。
「…−ですが、結果的にでも、ニトロ様がティディア様のご期待にお応え下さることを願っています」
「できれば結果的にでもご期待に応えたくないな。そうすれば少しはティディアも俺に失望するだろう?」
あるいは自らミリュウの希望を叶えようというニトロのセリフに、ヴィタは笑い声を返した。
「…−では、私の期待にお応えくださるよう願います」
「ヴィタさんの?」
「…−正直に申し上げれば、私は面白ければ何でもいいのです」
「おおっと」
ニトロは思わずうなった。
「そりゃまた随分ぶっちゃけたね」
ニトロの言葉に、ヴィタはふふと笑い、
「…−あのミリュウ様のお考えとは思えぬ行為には、予想や印象を裏切られて混乱させられた反面、それ故に実に愉快でもありました。思わぬ緊張感に、ニトロ様の素晴らしいアクション……大変面白く拝見いたしました。ですから、ニトロ様、どうかこのまま邪神崇めるカルト教団と戦って下さい。古来より、例え命を狙われようとも真っ向から教団を壊滅させ、邪神に取り憑かれた者達を救うのはヒーローの役目です。『スライレンドの救世主』にとっても実に相応しい」
後半に関してはただの思いつきを口にしているといったヴィタの調子に、ニトロは苦笑を深め、
「ふぅん、そりゃまた立派な『王道』だね」
彼は皮肉を言ったつもりだった。
だが、ヴィタは心底愉快気に言った。
「…−まさに。王の道です」
「……」
投げつけた皮肉が却って自分への皮肉になっていたことに気づき、ニトロは顔をしかめた。
「拙者を」
と、長く沈黙していたハラキリが、ふいに言った。
「ニトロ君から『味方』を引き離しておいたのは、お姉様からの贈り物ですか?」
言われてみれば、そうだ。ニトロははっと気がついた。もしティディアにその意図があったとしたら――
「…−いいえ。この度のハラキリ様への依頼、元々ティディア様は避けようとしていました」
しかし、ヴィタの答えは否定だった。
「…−ニトロ様が羽を伸ばせる機会です。ハラキリ様との旅行等も、可能にしておきたかったのでしょう」
それは、ニトロにとっては驚くべき内容だった。
「……そうなんだ」
ニトロは、複雑な思いを噛み締め言った。何度も驚かされ、困惑させられ通しでティディアの思いが……測れない。あいつは本当に、何を考えているのだろう。
「…−また」―続けてヴィタは言う―「この案件に対し、ハラキリ様が最も適任であるが故に、いいえ、ハラキリ様の他にはあり得ないが故に、ティディア様は貴方への依頼を避けようとしていました」
そのセリフは明らかにハラキリに向けられたものだった。
ニトロはハラキリを見た。親友は微かに眉をひそめて渋い顔をしている。納得と、納得するが故の困惑だろうか。そしてそこには、先に彼がマードール姫に関連して隠し事をした時に見せた『複雑さ』にも通じるものまでもが感じ取れる。
「……では、何故、結局拙者に依頼を?」
顔をしかめたまま、ハラキリが問いを重ねる。
「…−話を聞きつけたミリュウ様が強く進言されたのです。そもそも先方がハラキリ様を指名してきたこともありますし、ちょうどこの時期ミリュウ様に責任を預けることもあります。その上でその『王権の代行者』に進言されたのですから、結果、ティディア様はハラキリ様に依頼することを了とされました。それを妹君への贈り物と取ることも、もちろん可能ではあります。が同時に、もしかしたら、この現状のようにニトロ様への助力がなされることも、ティディア様は期待していたのかもしれません。これは私の憶測ではありますが、もしそうでしたら、この了とした結論にはニトロ様への贈り物をも兼ねた打算があったのでしょう。今後どうなされるおつもりかは存じませんが、その気になれば、今アデムメデスで、ハラキリ様の、そしてハラキリ様がお連れになっている方々の傍はどこよりも安全なのですから」
「ふむ」
ハラキリはうなずいた。まあ、筋は通っている。進言の裏にどんな意図を抱えているにせよ妹の面子を立てるのは、最近のティディアの――『劣り姫』をけして劣っていないとでも言うかのように表舞台へ押し出し始めている姉の態度からも無理はない。
そして反面、実際に、ニトロがハラキリの……ハラキリの依頼人の手によって助け出された現状があるからには、ヴィタの推測をおいそれと退けることもできない。『安全』というのも、まあ、事実だ。
「――では、その事情はこちらも了としましょう」
ハラキリの結論に、ニトロは異論を挟まなかった。釈然としない部分は残れども、一方でティディアの立場上の考えに理解もできる。それに、あのバカ姫を嫌い、ことあるごとに撥ね退けている自分が、ここにきて都合良く『お前は俺への配慮を優先しろ』と主張するのはあまりにおこがましい。
「しかし、ヴィタさん。今日は珍しく随分饒舌に話してくれたものですね」
と、ハラキリは疑惑に満ちた声を発した。
確かに――ニトロは思った――言われてみれば彼女はいつもよりはるかに口数が多かった。
「なかなか本心を見せない貴女がこれほど心情を吐露するのは非常に怪しい。情報の暴露具合も実に派手だ。一体、何を企んでいるんです?」
「直球だなあ」
思わずニトロは言って、喉の奥で笑ってしまった。ヴィタも笑っているらしい。
しかし、ハラキリの抱く疑惑はもっともだ。
「…−何も企んでいません。強いて言えば、可能ならばニトロ様に有益な情報を与えることを企てています」−小さな笑い声を挟んでヴィタは続けた―「これはきっと、背信行為ですね」
「何故ダイ?」
芍薬が、間、髪入れずに問う。
何故――いくら洒落めかせているとはいえ背信行為と捉えられることを、何故。
「…−そうですね」
芍薬の気強い問いにヴィタは真剣みを取り戻し、少しの間を置いて、
「…−あまりにフェアでないからです。言葉を選ばねば、ミリュウ様は卑劣な闇討ちをされているに等しい。背信行為とは申しましたが、しかし、ニトロ様がこのまま一方的に攻撃を受けるだけでは我が主君にとって望ましい決着は得られないでしょう。それを避ける意味では、むしろ忠義となりましょうか。私の言葉に解決への糸口があれば――ですけどね」
「もし『背信』って言われるとしたら、今の卑劣な闇討ちってセリフがそうじゃないかな」
ニトロは笑って言った。本当にこの執事は、涼しげに危ない言葉の選択をしてくれる。
「…−常識的に言えばそうですね。それはそれとして、ニトロ様が一方的に攻撃を受けるパターンでも個人的には楽しめますので、実は褒め言葉でもあるのですが」
「おっと、今度はまた被害者に対して随分なことを言ってくれる」
「…−ふふ」―ヴィタの吐息が漏れる―「しかし、さらに個人的な趣味を言えば、ニトロ様が存分に抵抗なさる展開の方がより好みに合います。その意味でも、情報を提供することは実に望ましいのです」
「おっと、今度はまた随分我儘な『
再びヴィタの笑い声が響く中、芍薬はもう何も言わなかった。ハラキリも口を結んでいる。そして、彼女の言い分には屈折しているとはいえ一本の筋が通っていることを、二人と同じくニトロも既に認めていた。
三人から追求の言葉がこれ以上ないことを悟ったように、姉姫の執事は言った。
「…−ニトロ様。ミリュウ様は、本気です。ご本意が何にせよ全身全霊をかけています。それだけではありません。私が知る限り、つい先日までのミリュウ様にはあのパーティー会場の演説をあれほどに場の空気を支配して語り切るだけの力はありませんでした。しかし、あの演説は実に素晴らしかった。現時点では、例え違和感を覚えたとしても、あれが『クレイジー・プリンセスの悪ふざけ』のパスティーシュではない、と、疑える者はないでしょう。
……ニトロ様」
気を窺うように、ヴィタが言ってくる「今のミリュウ様はこれまでのミリュウ様とは別人です。それを重々ご留意下さい」
「どうやら、そのようだね」
ニトロはうなずいた。うなずくしかなかった。
「それじゃあ実は本当に『マニア』らしく憧れの人の真似をしてみただけ、ドッキリでした! なんてこともなさそうだ」
力なく、最後に苦し紛れに返したニトロのセリフは、ただ虚しさを奏でて消えた。
とうとう室内が静まり返る。
――ややあって、
「…−そろそろ戻らねばなりません。ハラキリ様、お預けしたクレジットカードを一枚も無くさぬようお願いいたしますね」
「了解しました」
そのやり取りが何を意図したことなのか一瞬解らず、危うくスルーしそうになっていたニトロはハッと気づき、
「俺も財布を取り違えないよう気をつけるよ」
言外に感謝を――感謝すべきことには素直に感謝を――忍ばせるニトロのセリフに、ヴィタは小さな吐息を返し、
「…−サンドイッチ、とても美味しかったです。ティディア様からもそうお伝えするようにと」
「はいはい、お粗末様でした」
ティディアからもと聞いてぞんざいに応えた後、ふとニトロは眉をひそめた。
「ん? ティディアも?」
独り言のようなその問いにヴィタが返したのは、小さな笑い声だった。まるで、彼女は思い出し笑いでもしているかのようだ。
「…−あまりの美味しさに、召し上がった後は泣き叫んでいらっしゃいました」
「え? 召し上がった? その口振りだと……まさかあいつ食べきったの?」
驚くニトロの横で、芍薬も目を丸くしている。ティディアは辛いものが苦手ではないが、さりとて大の辛党というわけでもない。
「…−ティディア様は、ニトロ様の手料理ならばどのようなものでも残しません。ですが、仕返しの効果はちゃんとあったと思いますよ」
ヴィタは明らかに笑いを噛み殺しながら言葉を紡いでいる。どうやら『コルッペ』入りのサンドイッチを食べた主人の様子がよほど面白かったらしい。彼女の顔は今、最高にツヤッツヤと輝いていることだろう。
一方、ニトロは顔を曇らせていた。ふと芍薬と目が合って、ティディアの異様な根性について痙攣にも似た空笑みを浮かべあう。
ヴィタの報告をどう受け止めたものか――またも――判断しかねるが、ひとまずニトロは、
「そりゃどうも」
と、おざなりに返し、しかし次にははっきりとした語勢でヴィタに言った。
「とりあえず、ティディアに伝えておいてよ。帰ってきたらもっと覚えとけって」
「…−承りました。それでは、御武運を」
「武運なんぞ祈らないでいいよ。それじゃ、仕事しっかりね」