ニトロは混乱していた。
ケルゲ公園駅前のビル群、その間を飛ぶ無人タクシーに乗っていたはずなのに――今、彼は広い部屋の中にいた。一変した光景は明暗の落差も激しく、視野は黒いヴェールに覆われてしまっているが、それでも弱い室内灯の力でそれだけは判った。
しかし、だからこそ何故? と混乱に拍車がかかる。
「ご苦労様」
女の、声がした。
柔らかな床に膝をつくニトロの傍には、いつの間にか車内に現れ、そしていきなり抱きついてきた黒いレインコートの女がいる。
だが、声はそれとは別のところから聞こえた。
「……」
ニトロは混乱に加えて酷い眩暈と吐き気にも襲われながら、歯を噛み締めそれらを堪え、懸命に状況を探った。
レインコートの女が立ち上がる。ニトロは身構えた。女の目深に被ったフードがめくり上げられ、内から金と黒のグラデーションがかかった髪が零れ落ちる。次いで顔を覆っていた布、どうやらタオルであったらしい覆面が外され――
(
ニトロは女の耳が特徴的であることを確かに見止めた。
間違いないだろう。
その尖耳人の女は、まだ薄明かりに慣れぬ眼ではよく容姿を掴めぬ二人の……男女の下に歩いていく。
「―シ様!? 主様!」
ふいに芍薬の声が聞こえた――いや、ようやく気づけた。ずっと呼びかけてくれていたのだろう、それを捉えるまでに意識が回らなかったのだ。ニトロはポケットから素早く携帯電話を取り出し、
「無事だよ」
短くニトロが言うと、芍薬は呼びかけを止めた。そして、沈黙する。ニトロは芍薬の意図を理解していた。携帯電話のカメラの位置を思い出し、レンズが周囲の様子を捉えられるように持ち手の位置を変える。
「ほら、早く安心するよう言ってやってよ」
レインコートの女を、まるで従者のように傍に控えさせる女が言った。ニトロからは顔が陰になってよく見えない――どうやらこちらも尖耳人であるらしいその女は、スーツを着た男を何やらせっついている。
男は尖耳人ではないらしいが……気が乗らないのだろうか、ため息をつくように軽く肩を落とす。と、その時、男の顔を隠す陰が薄れ、
「あ!!」
ニトロは驚愕を声にした。
「ア!!」
芍薬も声を上げる。マスターと並び仰天した声だった。
そのスーツの男。
壁に灯る淡光に慣れ出したばかりの眼でも見間違えようがない。
「ちょっと、聞いてる?」
「解っています。そう急かないで下さい」
尖耳人の女にさらにせっつかれ、それに変に複雑そうに応える声も……聞き間違えようがない!
「ハラキリ!?」「ハラキリ殿!?」
素晴らしいハーモニーで名を呼ばれた彼は、むず痒そうに頭を掻いた。
「やあ、ニトロ君。相変わらず愉快なことなってますね」
「紛うことなく愉快じゃねぇ」
あまりの驚きとツッコミどころに混乱も眩暈も吐き気も、何もかもが吹っ飛んだ。
ニトロは立ち上がり、口を尖らせ眼差しにも文句を込めてハラキリを睨み、
「まったく、相変わらず他人事みたいに……仕事はどうしたんだよ」
ふて腐れて言いながら――しかし、芍薬がいて、ハラキリがいる――ニトロは堅牢な安堵が胸に沸き起こるのを感じていた。
胡散臭くも頼もしい親友は、口元にいつもながらの苦笑いを浮かべている。
「まさに今、仕事中ですよ」
「あれ? そうなの?」
「ええ。図らずもと言いますか、心ならずもと言いますか」
ハラキリの奇妙なセリフにニトロが小首を傾げる。
「話せば微妙に長くなるわけですが、」
「ちょっと」
ハラキリの隣に立つ女性が、ふいに彼を不満で遮った。
「それより私を紹介するのが先でしょ、お兄ちゃん」
その時、ハラキリの眉目がぴくりと歪んだ。
「え? お兄ちゃん?」
驚きニトロが目を丸くして問うと、再びハラキリの眉目がびきりと歪んだ。
珍しい光景だった。明らかにハラキリには強烈な嫌気がある。しかし彼は、いつものように嫌なことを嫌と言うまでもなく飄々とスルーすることも、あるいは明確に拒絶することもできずに困っている。
その原因は、どうも『お兄ちゃん』という言葉にあるようだが……
「芍薬?」
「妹ナンテ記憶ニモ記録ニモナイヨ。妹分モネ」
証言を受けたニトロはなおさら眉をひそめた。嘆息をついているハラキリの横、助っ人の登場が嬉しくて、一時すっかり気の外にやっていた尖耳人を改めて注視する。
思えばどこか偉そうな立ち居振る舞いを持つ彼女を、乏しい光量に馴染んできた眼でしっかり捉えて……
「!?」
ニトロには、その女性の顔に見覚えがあった。誰だったろうか――などと思うまでもなく思い出す。訪問は来週のはずだが、間違いない。彼は硬直した。
そうか、なるほどこれは相当な重要人物だ。それではあのレインコートの女性は、二人の間にある態度の通りに彼女の従者か。セスカニアン人は
だが、それならばこそ――
「え? お兄ちゃん?」
再び、今度はたどたどしく、ニトロはそうハラキリへ確認を取った。
ハラキリは「そこをツッコミますか」とでも言いたげに顔を引きつらせ、再び嘆息を深く吐き出すと、
「正直、苦痛なんです。許されるなら君みたいにドツいてボケとして処理したい」
「いやいや、そういうことじゃなくて――何でそんなことに?」
「あの子のアドバイス」
話に加わってきた女性が自分を見つめていることに気づき、ニトロは思わず姿勢を正した。
女性はその様子に目を細め、
「ハラキリ・ジジのペースを乱したくば先手必勝、前置きなくこう言ってみろとな」
突如先ほどとは違う口調で――それはニトロが知る“彼女の口調”で――言った。それと共に、直前までは感じられなかった一種独特の気質がその貴婦人を飾り立てる。
人は時に、それを王威と言う。
その横でハラキリは、凛々しい尖耳人とは対照的に、心底嫌そうに、心底情けなさそうに、これまで見たこともないほどしょんぼり萎んだ風体を晒している。はぁと吐かれたため息までもが弱々しい。
「よもや三倍も上のお方にそう呼ばれるとは思いもしませんでねえ。出会い頭の初手でやられてしまって、ええ、よもやの一撃に吹き出したが最後、以降交渉も許されずペースを握られっぱなしでしてねえ……拙者はまだまだ、未熟です」
そして彼は再び弱々しく、よれよれとため息をつく。
その様子にニトロは吹き出した。いや、ニトロだけでなく芍薬も吹き出した。
しかしニトロは懸命にそれ以上の笑いを噛み殺した。マスターの様子を察して芍薬も沈黙する。
そう、何より先にしなければならないことがある。
(本当に……)
どうしてこうも次から次へと実に大事が続くものだろうか。そんなことを思いながら、ニトロは今一度『セスカニアンの貴婦人』に向かって姿勢を正し、片膝を突いた。立てた片膝に両手を重ねて添え置き、丁寧に頭を下げる。
「突然のことに混乱していたとはいえ、ご無礼を致しました。ご容赦下さい」
「ご尊顔を拝しまして恐悦至極に存じます、マードール殿下」
「面を上げ立たれよ。ニトロ・ポルカト殿」
ニトロが立ち上がると、セスカニアンの王女であるマードールは彼を見つめて微笑んだ。長寿で知られる
「まずはこの度の苦難に対しお見舞い申し上げる」
「勿体無いお言葉です。さらには――」
ニトロはレインコートの女性に目をやり、すぐにマードールに目を戻して言った。
「恐れ多くも格別なるご助力を賜りましたこと、心より深く感謝を申し上げます」
「何、こちらにとっても好都合であったからな。礼には及ばぬ」
「?」
マードールの思わせぶりな言葉にニトロは眉をひそめた。その様子に王女は目尻をそばめると、一つの吐息を挟み、どこか懐かしげに言った。
「前に会った時は、すれ違っただけだったな」
「……あの時は」
確かにニトロは、『映画』の折、ホテル・ベラドンナのロビーで王女とすれ違った。
「何が何やら分からなかったところで……その時も、ご無礼を」
「良い。それにしても随分立派になられた。実際、この眼で見ても見違えた。辞儀の仕方はティディア王太子殿下に?」
「いいえ」
「では?」
「挨拶は世界共通の礼儀と、両親に」
「良いご両親に恵まれたな」
「光栄でございます」
「ふむ……」
丁寧に丁寧を重ねて頭を垂れるニトロを見、マードールは物憂げに鼻を鳴らした。
「これでは息苦しい。ポルカト殿、これからは『普段着』で話せ」
「いや――それは」
「いいのだ。許す……というよりも、そうでなければ
と、マードールはハラキリに振り返り、
「ね? お兄ちゃん?」
また口調を変えて、年下の子が年長者に甘えるような声質で――そういえばこの王女は五人兄妹の末っ子だ――話を振られ、
「はぁ、まあ、そうですね」
腐った苦虫を噛み潰したような顔でハラキリはうなずく。
ニトロはまたも堪らず吹き出した。やっぱり芍薬も吹き出した。
「……そっちこそ他人事だと思って」
ハラキリが、珍しくふて腐れてニトロを睨む。
もう――限界だった。
「あっはっはっはっは!」「アッハッハッハッハ!」
主従揃って声を上げて笑い出す。
ハラキリはそっぽを向いた。
それとこちらを交互に見て、王女マードールも肩を揺らして笑い出す。
ニトロは笑い続けた。
完全に気が抜けてしまった心では、もはやこの笑いを抑えきれない。
仕舞いにはハラキリも苦笑を浮かべ、それを笑みに変え――レインコートの女性も、声には出さぬまでも口元に笑みを。そして、
「あーっはっはっはぅげほごほがはッほぅ!」
笑いすぎて咳き込んだニトロの悶えっぷりに、芍薬はうろたえ、皆はまた笑った。