3−b へ

 ミッドサファー・ストリートは戦慄に包まれていた。
 皆、制御を奪われたモニターと、何事かを唱え続ける集団に目を奪われていた。
 跪く女が苦悶の声を上げ出した――その時だった、画面に白い巨人が現れたのは。
 異形の巨躯は線路の上、プラットホームに取り残された帽子キャップを被る男の隣に並び立ち、不気味に体を揺らしている。
「あれこそは神徒しんとが御姿」
 アリンが言う。
「かの神徒は御身を以て神敵のまことを写す」
 アリンが声を震わせる。
「刮目せよ、見定めよ。あれこそが、我が女神を貶める悪魔の真の姿なり!」

 ニトロは隣に立つ『巨人』を素早く観察した。
 身長は、やや背を丸めているところを補正すれば……およそ5m強。容貌としては身長170cm体重70kgほどの、筋骨逞しいアデムメデス人をそのまま拡大コピーしたかのようだ。カテゴリに分ければ『ゴリアテ』か『コーラング』クラスだろう。『ギガス』や『ディダラ』の幼児という可能性もあるが、いや、そこにまでは届くまい。
 ――が、問題は、そんなところにはなかった。
 ニトロは背筋を走る怖気に震えた。
 猿孫人ヒューマンの中で『巨人』と分類される人種を肉眼で直接見たことはない。映像を通して知識として知っているだけだ。
 それでも、判る。
 この『巨人』が、ただの巨人ではないことが
 まず肌は蝋でできているかのように白い。白いだけなら何もおかしくはないが、それは一切の生気を感じられない漂白された白だ。ろう石から削り出された彫像がそのまま動いているようにも思える。頭髪はわずかに黄みがかる乳白色をしているが、やはり生物の一部という様子はなく、むしろひどく乱れて幽鬼の気配を漂わせている。その中で、手の先、ナイフのように尖っている爪だけが嫌に健康的に艶を放っていた。上着は貫頭衣、下はハーフパンツのようではあるが、共にボロボロで、特にパンツは元々ロングであったものが太腿辺りで千切れたためにハーフとなっているらしい。それも、巨人の不気味さに拍車をかけていた。
 そして。
 何よりも、異様かつ異常であるのが、その顔面だった。
「……」
 白い巨人は、じっと前方を見つめていた。ニトロのすぐ隣に並んだまま一歩も動かず、じいっと地下に開けられた空洞の奥を見つめていた。
 幾数の眼で。
 そう、幾数の眼だ。
 この巨人の顔には、目が、瞳が、無数にあった。鼻梁や眼窩といった顔面にあるはずの凹凸はなく、粘土を撫でつけて造ったようなのっぺりとした白い顔――その上半分に、何十もの眼が大小乱雑に散らばっている。まばらなタイミングでまばたきをする眼の中では、瞳孔が開いているのか光のない瞳が不揃いにぎょろついている。
 一方、下半分には、顎のラインギリギリから目が散りだす境界線にかけて、大人の猿孫人ヒューマンでも一飲みにできそうな大きな口が一つぽっかりと開いている。薄い唇を引き切れそうなほどに伸ばして、笑っているかのようにぽっかりと。
 その様はまるで、地獄から這い出してきた怪物のようだ。
「…………」
 ニトロは、じり、と一歩踏み出した。
 多眼の白い巨人も、ニトロを見ぬまま一歩踏み出す。
 窮屈そうに。
 しかし、躊躇いなく。
(やっぱり標的は俺か)
 解っていたが、ニトロは内心嘆息した。
(さて――)
 と、やけに冷え切る頭に議題を放り込む。
(にしても、コレは何かな)
 まず、もう一度、どう思い返してもこのような『巨人』の存在を聞いたことはない。単眼、あるいは五・六くらいまでの複数眼を持つ巨人属ジーナス・ジャイアントは知っているが、このように奇抜なデザインの巨人は聞いたことがない。
 ニトロは一歩踏み出した。
 巨人も踏み出す。
(アンドロイド……)
 広い宇宙のことだ。様々な人種・種族がいる。自分が知らないだけ、という存在も無数にある。だからこのような巨人属がいてもおかしくない。おかしくはないが、だからといって、それが地下鉄の線路に現れるというのはあまりに不可解だ。
(それとも『生物兵器』か?)
 ニトロは歩き出しながら、ふと思った。
 ちょうど今朝方、ホテル・ベラドンナの超VIPルームを再体験したばかりの彼が、それを連想するのも当然だった。
(それならこれは、順当にティディアの企画……なのか)
 巨人は並んで歩いて追ってくる。
 巨人が一歩踏み出す度にやけに重い音がする。
(だけどそれなら、何で今だ?)
 ニトロは首を傾げたかった。
 ティディアは、現在、アデムメデスにいない。
 なのに、あの面白好きが――こういう風に人を慌てふためかせたり驚かせたりするのが大好きなあのバカが、自分のいないところで何故『相方』にちょっかいをかけてくる?
 それは、よくよく知るあの欲張りなクレイジー・プリンセスらしくないことだ。
(……)
 何となく、ティディアの仕業ではない気がする。
 現在、と言うなら、加えてクロノウォレス建国記念に参加しに行っているという事情もある。非常に重要な公務だ。その当事者が片手間にこんなことをするはずがない。あいつはバカだけど馬鹿ではないのだ。ふいにより一層乱心したとなれば話は別だが、国賓として招かれている時に、自国内とはいえ、己を主犯とした騒動を起こしてわざわざ『隙』を作るような真似はしない。もしそんな隙を作るような阿呆ならこっちは色々どんだけ楽だったことか――
 ――と、ふいに、巨人が足を止めた。
「?」
 ニトロは振り返り、そして頬を引きつらせた。
 ホームゲートの開閉部の前に立ち、巨人が、その巨大な手を握り込み、
 ドガン!
 轟音を立て、ゲートが、巨大な拳のたった一撃で吹き飛んだ。
 凄まじい腕力!
 巨人が身を縮め、開かれた穴を無理矢理くぐり抜けてくる。ほとんどのたくるようにしてプラットホームに這い上がってくる。
 ぎょろぎょろと動く無数の瞳が、ニトロを捕らえた。
 ニトロは再び身を震わせた。
「ッ!」
 ニトロは踵を返すと全力で駆け出した。
 網膜に焼きついた巨人の無数の瞳。
 彼の掌に嫌な汗が滲む。
(まずい)
 先ほどの混乱のためだろう、停止しているエスカレーターを駆け上る。
 心胆寒からしめる叫びを上げ、巨人が追ってくる。四つん這いのままに駆け、獣のように追ってくる!
(まずい!)
 ニトロは考えを改めていた。
 この一年と数ヶ月、常に鍛えられてきた危機感知能力が全力でアラームを鳴らしている。
 直感が『いつも』と違うと戦慄わななく。
 ツッコミ回路が『ボケの余地』は皆無と反応しない。
 脳裡から『ティディアの企画』という可能性の大半が――それでも幾らかは残して――剥がれ落ちる。
 すると思考回路が『ではこれが誰の仕業なのか』と自動的に働き出す。ティディアの仕業でないとしたならば、それでは暴走した『ティディア・マニア』か?――いや! 今は『マニア』の仕業だろうが、ポッと出の『愉快犯』だろうが万が一『著名人を誘拐しては関係各所から身代金を強請り取る国際自称正義執行団テロリスト』だろうが、あるいはクレイジー・プリンセスの真似事かましてきたコピーキャットの仕業だろうが――そんなことはどうでもいい。
 ただ、どうでもよくないことは、あの巨人が『危険』だということだ。
 本物の巨人、アンドロイド、生物兵器、そのいずれだとしても。
 あれが、自分に危害を加えようとしている。
 その事実は変わらない!
 連絡通路まで駆け上がり、さらに地上に建つ駅舎構内へのエスカレーターを駆け登ったニトロの眼前に、ふいに二体の警備アンドロイドが現れた。
「うわっ!」
 あまりに来るのが遅い。その上、まるでニトロの進路を妨害するかのような立ち位置。ニトロは声を上げてブレーキをかけ――
「――ッ」
 腹の底から駆け上ってきた恐怖に従い、ブレーキをかけた足にかかる反発力を利用して横に飛んだ。姿勢も横に倒し、転がるようにして“恐怖”から逃れる!
 ――金属の棒が、ひしゃげるような音が聞こえた。
 硬く重いものが、硬く重いものにぶつかる音が聞こえた。
 広々とした駅舎構内に無数の悲鳴が轟いた。
 ニトロは転がる勢いのままに立ち上がった。それと同時に、視界の隅で、巨人の手に叩かれて壁まで撥ね飛び、そこでスクラップとなって転がる二体のアンドロイドを見る。
 構内に残響する悲鳴を掻き消し、巨人の咆哮が耳をつんざいた。
「非常ベルを!」
 ニトロは茫然としている職員に、ゲートを飛び越えながら叫んだ。
 構内には、ニトロが思うよりも多くの人間が残っていた。先にホームから逃げ出た人が異常を伝えていると思ったが……いや、ここにいる半分は野次馬根性を発揮してしまった人々なのかもしれない。
 非常ベルは――いつまでたっても鳴らない。鳴り出さない。
 構内の人々は巨人を見て蜘蛛の子を散らすように逃げる――ように見えて、それでもある一定の距離に留まりこちらを遠巻きにする。
「ッ逃げろ!」
 ニトロは怒声を上げ、そして視界を良くするために帽子キャップを取り捨てた。

 ケルゲ公園駅で巻き起こる怪異を見つめるミッドサファー・ストリートで誰かが叫んだ。
「ニトロ・ポルカトだ!」
 その叫びを聞いた者が『ティディアの恋人』の姿に気づき、また他の者々が怪物と対峙する『スライレンドの救世主』の名を口に出す。
「そう」
 それに、アリンが、応えるように言った。
「ニトロ・ポルカト」
 アリンの後ろで声を上げる女の苦悶は激しくなっていた。今にも暴れ出しそうなその女を仲間が懸命に押さえ込んでいた。
「その名こそ」
 区切り、区切り、厳かに言うアリンに注目が集まる。
「神託が知らせし」
 不気味な黒いローブの集団――プカマペ教団の神官を、彼女の言葉を、誰もが無視できなくなっていた。
「女神を食い殺す悪魔の名」

 ケルゲ駅構内に残る誰かが『ニトロ・ポルカト』だと叫んだ。
 一瞬、周囲の気が緩むのを感じ、ニトロは反射的に叫んだ。
「ティディアは関係ないぞ!」
 だが、こう言えば効果があるだろうと思惑したセリフに効力は全くなかった。誰も下がらないどころか、むしろ取り囲む円が狭まったようにも思える。
 非常に好ましくない状況だった。
 師匠直伝の護身術の真髄は『一に逃げる、二に逃げる、三四も逃げて、五に逃げろ』だ。助けを求められるなら求めるべし――なのに、逃げ道が塞がれている。助けを求められるだけの相手セキュリティが見当たらない。
(くそ!)
 ニトロは胸中で毒づき、ふと、振り返った。
「……」
 爪を見せびらかすように開いた手を振り上げる巨人が、背後にいた。
 ニトロの膝から力が抜ける。
 巨人が手を振り下ろす。
 ニトロは自力を抜いて膝を自然と折った。倒れ込む体をそのままに顔を腕で庇い、重力を用い姿勢を低く落とし切って尻餅をつく直前、踵で地を蹴り後方に跳んだ。
 顔を庇った左腕を爪がかすめる。
 ニトロは巨人との距離を取るためフロアを一度後転し、その勢いで立ち上がった。
 痛みの走る左前腕を見、傷の状態を改める。浅い。が、血は流れている。ぽたりと数滴が落ち、フロアを汚す。
 それでも――
 構内に響いた悲鳴は、やがて数も音量も減らしていた。次第に歓声じみたざわめきが勝り出している。テレパシストでもないのに周囲の思考が手に取るように解る。
 すなわち、
>『ニトロ・ポルカト』+襲撃(に見せかけた『仕掛け』)=クレイジー・プリンセスがまた恋人相手に悪ふざけをしている。
 その公式が、これほど浸透しているのか。堪らずニトロは絶望にかられた。
 このままでは、最悪、巻き添えを生むかもしれない。
 しかし、この様子ではいくらティディア関係ではないと言っても聞く耳はどこにもないだろう。
 逃げ足と持久力に並んでハラキリに特に鍛えられた技術の一つ、素早いバックステップで巨人との距離を取り……攻撃を二度もかわされたことで慎重になったのか、深く追撃してこない巨人を睨みつけながら、ニトロはならばと叫んだ。
「ティディアだったら! 余裕で巻き込むぞ!」
 彼の叫びは、今度こそ聴衆の耳を貫いた。
 恐ろしい『クレイジー・プリンセス』は、確かに巻き込んだ人間を悪ふざけでさらに巻き込み続ける。その代償は――きっととてつもなく大きい。
 ニトロと巨人を取り囲む輪が広がる。
 その反応にひとまずの安堵を得つつ、ニトロは改めて重大な問題にぶち当たった。
(さて?)
 これがティディアの仕業と思われているならば、警察に連絡を求めても無駄かもしれない。いや、そもそも警察はどう動くだろう。警察もティディアの仕業と判断するか? ここまで騒ぎになっているのに動いたのは先の二体の警備アンドロイドのみだ。しかも、それらが壊されたというのにどういうわけか援軍もない。
(色々期待しないほうがいいな)
 ニトロは巨人を中心に、円を描くようにステップを踏み続けていた。距離を詰めようとしてきたら、弧を描きつつ全力で下がる。巨人は……不慣れだとでもいうのだろうか。妙にやりにくそうにこちらを無数の眼で睨みつけ、怖気づかせようとでもいうのか、時折咆哮を上げてくる。
 だが、ニトロの心は不気味な咆哮程度で折れることはない。
 このままじわじわ逃げ道を確保しようと、冷静に、次第に、次第に曲線を描きながら外へ向かう。
 彼自身不思議に感じていたが、眼前の巨大な敵に対する恐怖心は既に薄らいでいた。
 度胸がついたと言えばそれまでだろうが、巨人から感じるプレッシャーは、練習に飽きがこないようたまに本気を見せてくれる師匠のそれに比べれば断然軽い。あの『魔女』に比べれば綿毛のように軽い。ティディアと比べても……温い。
 そう思えば心の余裕も割合を増す。
 余裕が増せば思考の及ぶ範囲も増す。と、
(――芍薬は)
 そこでニトロは、未だ芍薬からの連絡がないことに思い至った。
 電車が止まったのだ。芍薬はその情報を絶対に得ているはず。ならば少なくとも様子を窺うくらいはしてくるのが常だ。
 ニトロはポケットから素早く携帯電話を取り出し、油断なく巨人と目を合わせ続けながら、キーを見ぬまま探り押して音声入力をオンにした。
「自宅へ」
 コールをかけるよう命じた声に、了解の音が鳴る。
 しかし、次にスピーカーから流れてくるはずのコール音がいつまでもやってこない。
 代わりに無感情な女性の声が流れ出した。
「当機体は、現在全ての通信会社に登録されていません」
 その『案内アナウンス』に、ニトロは我が耳を疑った。

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