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ニトロの受難

 ミッドサファー・ストリートにそれが現れたのは、ティディア姫がアデムメデスを出国してのち、およそ十時間経った夜のこと。
 良くも悪くも賑やかな王女が留守にする王国はどこか寂しげで、他星たこくにも名が届くミッドサファー・ストリートを彩る繁栄の華光も霞んでいるようだった。
 ――初めは。
 パフォーマーの集団が現れたのだろうと、それを見た者達は思った。
 街灯と店舗がもたらす煌めきの中、古めかしいローブに身を包む数十人の黒い集団。
 それはふいに地下鉄口から現れたかと思うと、一糸乱れぬ歩調で車道に雪崩れ込んだ。
 その様子は、まるで黒いアメーバが素早く路面を滑っていくかのような印象を見る者に与えた。それがパフォーマー集団だと思われたのも無理からぬことだった。
 そもそも、ミッドサファー・ストリートにパフォーマーが現れること自体珍しくないのだ。昔から多くの人の目を求めてパフォーマーが舞台に選ぶ場所であったし、その性質は『トレイの狂戦士』を生んだクレイジー・プリンセスの幻惑舞踏祭以降、特に顕著となっている。
 だから、ここに店を構える者や来慣れた者達は「またか」と思った。
 しかし驚いたのは車道を通行していた車である。
 突然車道に現れた者達を轢かぬよう急ブレーキをかけた先頭車が、集団に向けてクラクションを鳴らした。後続の何台かは地元のドライバーらしく、パフォーマーだろうと察して慣れた調子でため息をついていた。
 クラクションが鳴り響く中、黒い集団は車道の真ん中に陣取った。計四車線の車道は強制的に通行止めとなり、クラクションを鳴らし続ける一台につられて他の何台かも警笛を爆発させた。警笛を追って罵声も飛んだ。声の主は急ブレーキをかけさせられた車のドライバーだった。
 異変が起きたのは、その時だった。
 ミッドサファー・ストリートにある全てのモニターが、一様にただ一つの画を表示させたのだ。ビル壁にある巨大なモニター。店舗内にある用途各種のモニター。立ち往生する車のシステムや道行く人々の携帯電話といったモバイルに備わる全て――
 全てだ。
 ミッドサファー・ストリートにある全てのモニターが、その時、いっせいに『プカマペ教団』のサイトを映し出したのだった。


 王城から抜け出た主がケルゲ公園に行くのを見送って、それから家に帰るや早速マスターの着替えや小間物を旅行鞄に詰め込んで、王家との専用回線ホットラインを物理的に切り、プライバシーに関わるものや重要なデータを全て孤立可記憶装置シェルターディスクに移し、留守中のメールの転送ルールを設定し――と、お出かけの準備を終えてのち
 それからずっと思索に耽っていた芍薬は、宅電へのコールに気づいて思考の連鎖を中断セーブした。
 通信データを見て即座に通話機能をオンにする。
 時刻を見ると、夜の十時を回った頃だった。
「今カラ帰ルヨ」
 音声データが芍薬に伝えたのは、とても明るいニトロの声。
 その声に、先ほどまで重い思索の海に沈んでいた芍薬の感情が浮き上がる。
 芍薬は微笑みを浮かべて言った。
「楽しかったみたいだね」
「楽シカッタ。皆モ楽シンデタヨ」
「そうかい。そりゃあ良かった。ミーシャ殿も喜んでただろうね」
「ウン、上機嫌デ帰ッテイッタヨ」
「え? 帰ったのかい? 何なら告白しちゃえば良かったのに」
 芍薬が茶目っ気を含めたセリフを送ると、ニトロは笑い声を返した。
「十一分ノ快速ニ乗ルヨ。駅マデ迎エヲ頼メルカナ」
「承諾」
 芍薬は情報を手繰り寄せ、ニトロがいるケルゲ公園駅を十一分に発つ地下鉄が最寄りの駅に着く時間と、駅周辺の交通情報を確認した。
「それじゃあいつも通り北口で待ってるよ」
「分カッタ。
 アア、ソウダ。アンドロイド、ドウスルカ決メタ?」
 ニトロが言うのは旅行中に乗る『貸し機械人形レンタドロイド』のことだ。マスターにはこれまで気に入る型がないと迷った振りをしていたが、ティディアも出かけた今なら言える。芍薬は思い切って我儘を口にした。
「あのね、主様。本当は……買って欲しいんだ」
 これまで、芍薬がニトロにアンドロイドをねだったことは一度だけある。いくら多機能とはいえ多目的掃除機マルチクリーナーではできることに限界があるし、何よりボディガードの役目は果たせないから――と。
 しかし、アンドロイドを新規に購入するとなればティディアによからぬ『仕掛け』を施される恐れがあった。製造ラインでそのようなことをされればこちらからは防ぎようがなく、例え在庫や中古を買うとしても購入者登録をするに当たって勘付かれ、余計なちょっかいを出されるのは想像に難くない。その点の厄介さに加えて、決して安くない品を購入することにニトロの貧乏性が邪魔をして、当時はあえなく却下の運びとなった。
 だが、今は違う。ティディアはいない。部下に見張らせちょっかいを出すことを命じていたとしても、アレがいなければ厄介さのレベルが格段に違う。
 あとの問題は――実は最大の障壁である主の貧乏性だけだが……
「ウ〜ン」
 電話口でニトロが渋い顔をしているのが手に取るように分かるうめき声だった。
 それを聞いた芍薬は潔く諦めることにした。これから大学の入学費等、大きな出費が予定されている。ニトロを悩ませるくらいなら、元よりすぐに引き下がるつもりだった。
 が、
「イイヨ。折角ノ機会ダシ、買オウカ」
「え?」
 芍薬は、すぐにニトロが下した決断に、思わず声質を素っ頓狂にしてしまった。
「いいのかい!?」
 さらに思わず声量を上げてしまった芍薬に、笑い声が返ってくる。
「芍薬ニ日頃ノ感謝モ込メテ」
 ニトロの言葉に、芍薬の胸が一杯になる。
「目星ハ付ケテルンデショ? 帰リニ店ニ寄ッテイコウ。一日二日ジャ無理ダロウカラ、旅行先デ受ケ取ル形ニシテサ」
「ありがとう主様!」
 精一杯の歓喜と精一杯の感謝を込めて芍薬は言った。アンドロイドを手に入れたら主様にしてあげられることが増える。疲れをマッサージで取ってあげることもできるし、もうちょっとしたらお酒をお酌してあげるのもいい。荷物だって持てるし、トレーニングの相手にもなれる。夢が広がる。薔薇色に!
「――あ、でもね」
 と、歓喜で忘れかけていたことを思い出し、芍薬は口ごもった。
「第一希望のはとても高いんだ」
「ドレクライ?」
「えっとね……中古なんだけど、多分、家が一軒買えるかも」
 ぶっ、と、ニトロが吹き出す音が聞こえた。そしてすぐに、ああ、と思い当たったらしい声が聞こえた。
「『今日』ミタイノ?」
「御意。でも『あの中』じゃ大人しいやつで、それに記録ログにある限り待機しっぱなしだから新品同然なんだけど……」
「ハラキリニ連絡ツクカナァ」
 おや? と、芍薬は期待を膨らませた。手応えは、悪くない。
「ヒトマズ連絡トッテミテ。ケド、ソレヲ買ウカドウカハ値段交渉次第デイイカナ?」
「御意! 勿論だよ!」
 どうやらニトロは本気で買ってくれるらしい。芍薬は小躍りしながら返答した。
「タダソウスルト旅行ニハ間ニ合ワナイカモシレナイカラ、ソノ時ハレンタルデイイ?」
「御意、御意! ありがとう主様!」
「ソレジャア、コノ話ハマタ後デ」
 ニトロは電話口で微笑んでいるようだ。声は穏やかで、久しぶりの平和を存分に満喫している様子が手に取るように伝わってくる。
「御意。それじゃあ、後でね」
「ウン、ヨロシク」
 と、通話が切られた後、芍薬は即座に撫子オカシラに連絡を入れた。用件をまとめたテキストを送ると同時に、できるだけ早く、できれば今すぐが希望なんだと念を押し、それから格安で譲ってくれるよう頼み込む。
 撫子は笑っていた。希望に添えるよう口添えしておくとも言ってくれた。
「すぅばーらっしぃ〜」
 通信を切った芍薬は、思わず今朝マスターが口にしていたものと同じ歌を口ずさんでいた。
 間に合わなかった時のためにレンタドロイドのパンフレットをまとめておき、それから……
「……」
 傍らに置きっ放しにしていたデータを見た芍薬は、浮かれ気分を自然と治めた。
 そこには、今朝のマスターとティディアとのやり取りの記録がある。
 芍薬は時間を見て、まだ迎えに行くには余裕があることを確認し、そしてニトロから電話が来るまで行っていた『検証作業』に戻った。
 ……芍薬には、一つ、大きな戸惑いがあった。
 その戸惑いが生まれたのは、ティディアがヴェルアレインから帰ってきてからのこと。
 南大陸の古城から帰ってきた王女には、声音、表情、仕草……そういったものに、人間の耳目ではおよそ測れないレベルでのことだが、しかし間違いのない変化があった。そのため、以来、芍薬はずっと彼女に戸惑わされ続けていた。
 ――今朝、これまでなら絶対に『わざと』と断じていたはずのティディアの痴態をとうとう『事故』と認め、その上、アレの望み通りに最後までお話に付き合ってやった主様は気づいているのだろうか――と、思う。
 観察眼の鋭いマスターなら、バカ姫の変化に気づけるだろうし、実際気づいているかもしれない。コーヒーを飲みながら、相変わらずバカなことを言って主様を呆れさせたり相変わらずのボケを述べて相方にツッコませたりするクレイジー・プリンセスの、その『可愛らしい変化』を感じ取っていたかもしれない。
 そう思いながらも
(――否)
 芍薬は、己の推測に否定の判を押した。
 マスターの様子を思えば、とてもそうは思えない。『気づき』を外面に表していないだけ――ともどうしても思えない。
 むしろ、もしかしたら、クレイジー・プリンセスを天敵かつ宿敵とする主様には、逆にそうであるからこそ『敵のその変化』に気づくことはできないのではないだろうか……と、そう思えてならない。
 正直、その変化分析かんじ取った芍薬でさえ、自ら分析かんじ取っておきながら信じられない思いでいるのだ。
 ――ティディアが、あの無敵のクレイジー・プリンセスが可愛らしくも『恋する乙女』の顔を見せていることに。
 現に今日も実際に目にしたというのに、それでも全く信じられないでいるのだ。
 だから、芍薬は戸惑う。戸惑い続けている。
 バカ姫はまた演技に磨きをかけてきたのでは?
 あるいは、そのような変化を見せるのは、こちらを戸惑わせて隙を誘うための策なのでは?
 それとも――…………
 無数の可能性を吟味し、無数の情報を精査し、何度も鑑みる。
 ティディアは意図的なのだろうか、それとも無自覚なのだろうか。声音、表情、仕草、それぞれが示すデータの底に表れる、微かな甘え。相手に全てを委ねようと言うかのような、無防備な揺らぎ
 ティディアが、そのような甘えや揺らぎを見せたことがないわけではない。
 ヴェルアレイン以前にもそのような波形は時折見られていた。
 だが、そうであるからこそ余計に判断に苦しむ。
 以前には全く見られないものであったなら、その変化を素直に解釈することもできただろう。しかし、そうでないからにはどうしても『思惑』を疑う。特にヴェルアレインにはあのハラキリ・ジジが行っていたのだ。彼に何かを吹き込まれたが故の『路線大変更』という目は十二分にあり得る。
 以前は時折。
 現在は常時。
 明らかな変化ではあるこの事実は、一体何を示すのか。
 ティディア様は最近さらにお美しくなられた――と、恋人の存在を理由にして、姫君の変化を指摘する声も所々で聞く。
 だが、そんな分かりやすい変化を、あの油断ならない女が、そんなにも誰もが分かりやすいよう表にするだろうか。主様を落とすためになおさら肉体に磨きをかけた――単にそういう理由だって考えられる。
 本当に『恋する乙女』の顔をしているとは思う。
 思うだけでなく、様々な人間に関するデータとの照合結果として妥当な結論でもある。
 だが! ことクレイジー・プリンセス・ティディアを相手に、妥当な結論だからといってそれを無闇に採択することはできない。
 第一、困惑極まることに変化はそれだけではないのだ。
 確かに最大の変化はマスターに向ける情動に違いない。
 しかし、
/「ネエ、芍薬チャンモ、一緒ニ迎エニ来テクレナイ? オ父様モオ母様モ喜ブシ」
 クロノウォレス星からの帰路、予定では外遊五日目に、ティディアはレウイ星に向かう王・王妃の宇宙船とランデブーし、そこで様々な報告を行うことになっている。そしておよそ20時間のランデブーの後、王・王妃レウイ星への航路を進み、王女はアデムメデスへの帰路につく。そこに来いと、ティディアは言うのだ。
/「そんなことしたら、主様が『御両親への御挨拶』を済ませたことにされるだろ。拒否だよ」
/「エー。ダッテ、芍薬チャン、ニトロト異星デモ旅行シテミタクナイ? 迎エニ来ル途中、ドコデモ行キ放題ニシテオクワヨ? 楽シイワヨ、絶対」
 アタシの返答に対するバカ姫の声の底には、限りない親しみがあった。
 まるで、本当の家族に対するもののように。
 ――これも、ハラキリ・ジジに対する情動と共に、明確に現れたティディアの変化だ。
/「どうせならバカが関係ない時に行くさ。それに、こっちでも行きたい所はたくさんあるからね。だから、そんな誘いに魅力はないよ」
/「モー、イケズー」
 口を尖らせアタシにも甘えを見せるティディアに、マスターが
/「イケズッテ言ウ前ニ、オ前ノ考エノ甘サヲ考エロヨ」
 と、ティディアに対してのみ見せる敵対態度で言い放つ。
 ティディアは冗談めかして舌を打ってみせるが、眼の奥には違う感情が窺える。
 ――芍薬は、戸惑い続けていた。
 マスターにはまだ言えない……報告するだけに足る結論を得られないこの戸惑いをどう処理すべきか、答えが欲しく、
/「ソウソウ。九月ノ『ハイリム』ノイベント、ビーチデヤルコトニナッタカラ。水着着用デヨロシクネ」
/「何ヲゥ? 聞イテナイゾ!」
/「今初メテ伝エタモノ。ア、向コウカラノ提案ダカラネ? 私ノ水着姿ガ見タイノカシラネー」
/「ソリャア俺ノ水着姿ヲ見タイトカ言ウワケナイカラナァ」
/「アラ、私ハ見タイワ。ソシテ腹筋ヲ触リタイ」
/「触ラセルカ阿呆」
 芍薬は、何度も何度も記録を吟味し、戸惑い続けていた。
 やっぱりバカは馬鹿のまんまだし、全然変わりがない気もするけれど、やはりそれでも変化はあって、それらが入り混じり、
(むぅ……)
 芍薬は眉間に皺を寄せ、それを――ニトロのように――指で叩いた。
 と。
 サブコンピューターが、ロボットプログラムが注意ランク上位の情報を寄越してきたと音を鳴らした。
 芍薬は手元に広げていたデータを一度隠しフォルダに仕舞い込み、それから外部回線インターネットに繋げっ放しているサブコンピューターとメインとの接続を戻し、ロボットのデータを受け取った。
 網にかかった情報は二つあった。
 一つは『プカマペ教団』のサイトの変化。文字の他に何もなかったサイトに、二つ、リンクが現れている。リンク先は教団の趣旨を述べるページと、まだ何も映されていない動画ページ。
 もう一つは、ミッドサファー・ストリートで――
「?」
 芍薬は、メールサーバから送られてくるトラフィックの中に、違和を感じた。感じて即座に
「!」
 直後、ファイアーウォールを突き破って襲い掛かってきた攻性不正行為クラッキングの波を特製のセキュリティプログラムを用いて殺した。津波のようであった奔流は瞬時に細波よりも弱くなり、芍薬の足下を濡らすことも出来ずに引いていく。
 だが、引き切りはしなかった。
 また戻ってきた波が芍薬の足下目がけて伸びてきて、しかし押し返されて引いていく。ファイアーウォールに空けられた穴は、復旧を許されず開いたままになっている。
 芍薬はクラッキングの隙を縫ってニトロへ『警告』のメールを送った。
 そしてセキュリティプログラムの一つが先の隠しフォルダを孤立可記憶装置シェルターディスクに運び、データを暗号化し何重もの鍵をかけ、最後に接続が切られて孤立機能シェルターが確立したことを確認しながら――
「誰だい?」
 敵意と、殺意を込めて、穴をくぐり抜けてくる影に問うた。
「お初にお目にかかる。芍薬殿」
 芍薬の部屋スペースを満たす草原に降る光を模した背景光の中、影は体を揺らして低い音声を発した。まだ十分なデータをこちらに押し込むことが出来ずに滲む輪郭は、どことなく、甲冑姿の騎士にも見える。
「アタシの名前を知ってるってことは、ここが誰のものかも知ってるってことだね」
「無論、委細承知」
「……随分、いかめしい言葉遣いをする奴だねぇ」
 言いながらも、芍薬は『敵』への攻撃を試みていた。ジャンクデータやウイルスを食わせようとするが、いずれも即座に潰される。その処理の手際は見事だった。こちらへの攻勢を緩めることなく、攻防は的確で、隙がない。
「……」
 芍薬は、その手応えに、微かな覚えがあった。
「お初にお目にかかるわりに、手を合わせるのは初めてじゃないね?」
 それがジジ家に仕えていた時だったか、主様に仕えるようになってからだったか――芍薬は考え、ふと、思いついた。
「メルトンに手を貸していた奴か。オングストロームとか言ったね」
「バレてしまっては隠しても仕方ないな」
 影は笑っているようだった。わずかな手がかりから正体を見破られたことに、満足するように。
「いかにも。我が名はÅ」
「……」
 嘘をついているようには思えない。感覚も、あれは偽りなく王家のA.I.であろうと断じている。
 旅行の準備のためとはいえ、王家との専用回線ホットラインを切っておいたのは実に幸運だった――そう思いながら、芍薬は怒気の塊を吐き出した。
「バカの手先が何の用だい。クラッキングを仕掛けてくるなんて正気の沙汰じゃないよ」
 これがティディアの命であっても、そうでなくても。前者であればティディアが一層乱心したとしか思えないし、後者であれば王家のA.I.が一人、発狂クレイズしたこととなる。
「何、雪辱の機会を得たまでのことよ」
 大様にÅは言った。
「雪辱?」
「前回は、足手まといがいた。影ながら助けるように、とも命じられていた」
「本気でやればアタシなんかには負けないって?」
「否、解らぬ」
「解らない?」
「ハード面の差はいかんともしがたろう? それも含めての本気であれば、私は貴殿に負けはすまい。だが、それでは意味がないのだ」
 確かに、それはÅの言う通りだった。ハード面の性能では敵わない。あちらが本当に本気であれば、いくらジジ家のものを借り、ネットワークを駆使してシステムを強化しようとも分が悪い。
 しかし、芍薬は違和感を覚えた。
 Åのセリフは、まるでこちらのハードの能力が一定であると思っている――言葉を変えればシステムを強化できることを想定すらしていないようにも思える。
 確かにハードの性能は互角にはならない。しかし、あちらが国のシステムにも関わっている以上このクラッキング一つに性能の全てを集中できないのに対し、こちらはその全てを以て当たれる。この差は大きい。獅子を、王家のA.I.一人を刹那に殺す毒にもなろう。
 ティディアはジジ家のネットワークとの協力関係を知らないはずだが、察してはいるはずだ。その潜在能力くらい容易に想定するだろうに……それをA.I.には報せぬまま攻撃を仕掛けさせるだろうか。考えづらいことだ。では、これは完全にÅの独断専行? しかし、間違いなく、このような独断専行はÅが発狂していないことを前提としなければありえない。ならば、やはりあのA.I.は発狂しているのだろうか。とてもそのようには感じられないが……
 困惑と疑念が渦巻く。
 が、
(――どうでもいいね)
 それを考察している暇はないし、考えるのは敵を制した後でいい。
 そんなことより主様が心配でならない。
 敵の目的はアタシへの攻撃せつじょくのみ、などと気楽に構えることは到底できない。
「前回はうまくやられた。見事に『瀕死』となった。復旧に、随分と時間を取らされた」
「恨み言はマスターに言うんだね」
「貴殿を恨みなどはしない。しかし、惜しく思った」
「……それで、雪辱かい」
「その通り。貴殿のような者に手合わせ願える機会は少ない。武人としての気質が騒いだのは、初めてだ」
 武人――ということは、王家のA.I.の中で攻性のセキュリティに属する者か。
 ならばと対攻性用の戦術プログラムを重点的に用意しつつ、
「王家のA.I.にそう言ってもらえるのは光栄だけどね。それにしたって随分乱暴じゃないか。不意打ちに、今も手を休めず……雪辱の機会って言われても、ただの狼藉としか思えないね」
「それで結構。狼藉者を排していただこう」
 影の輪郭がわずかに定まる。その手に、剣の影が現れる。
「システムは制限している。貴殿の使う物とほぼ同性能であるはずだ。他に手を出す者はない。一対一、純粋なる勝負を貴殿に望む」
「ふぅん……」
 ユカタの下に帷子かたびらを、両手にはクナイを現し、芍薬は殺気を滾らせ構えた。
「騎士道精神に則った正々堂々な奴、と言ってもらいたいかい? それとも騎士道精神にかぶれた阿呆と呼んでやろうか」
「言葉は要らぬ。――いざ!」
「いざ!」

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