2−4−3 へ

 芍薬の操るアンドロイドは、タクシーの後部ドアの正面から一歩横に外れたところで足を止めた。
 その傍らにドアマンの青年が早足でやってきて、後部座席に座る少年を迎えようとドアに手を伸ばそうとし――そこでふいに戸惑ったように動きを止め、そして、慌てた様子で運転席へと回りこむ。
 どうやら『変装』のせいで、タクシードライバーの女性こそあの王女様だと理解が遅れたらしい。
 失態だと言わんばかりに顔を強張らせ、カーシステムの汎用A.I.にホテルのナビゲーションシステムに従い駐車場へ向かうよう命じ終えた運転手がドアを開けようとする直前に辛うじて間に合い、恭しくドアを開ける。
「ようこそ」
 気の張り詰めた声がニトロの鼓膜を震わせた。そこにはティディア姫への、王族への、第一王位継承者への畏敬の念がひしと込められていた。
「ご苦労様」
 華やかな――声質は同じなのに自分やハラキリに対するものとは違う声をドアマンにかけるティディアを横目にして、ニトロはバッグを手にすると、ドアマンに代わって芍薬が開けたドアから外へと出た。
「オ疲レ様。道中何モナカッタカイ?」
 聞き慣れた、最も安堵をもたらしてくれるその声に、ニトロの頬はほころんだ。
「うん、びっくりだけどね」
 芍薬もマスターの笑顔を見て安堵したように穏やかな笑みを浮かべ、そして潤みすらある人工眼球をちらりとドアマンにエスコートされる女性に向けると、眉根にかすかな怪訝の影を落とした。
「何ヲ企ンデルンダロウネ」
「相変わらず、予測不能だよ」
 小さくため息をつくマスターを慰めるようにまた穏やかな笑みを浮かべた芍薬は、一流のホテルマンもかくやといった物腰でニトロの手からバッグを受け取った。それから彼が目線で示したのに従ってトランクへ向かい、そこにしまわれていた『敵』のバッグも手に提げる。
 駆動音や機械的な動きの一つもなく滑らかな挙動でトランクを閉めるそのアンドロイドは、アデムメデスのロボットメーカーでトップシェアを誇る『アローヘッド』のものだった。その身は購入時に付属される深緑色のコスチュームに包まれ、首筋にはやじりを意匠化したマークがタトゥーのように刻まれている。
 最高ランクのアンドロイドであることは、一目で知れた。
 練達の造型師が創り上げた気品漂う顔。すっと鼻筋の通った中性的な容貌にマッチしたスタイル。僅かな違和感は残るものの、本物と見紛う皮膚、髪、瞳。遠目に見ればそれは人間に限りなく近く、人工筋肉が作る表情も素晴らしい。ニトロの知る『まさに人間そのもののアンドロイド』を除けば、彼の知る限り最高の機械人形であり、また一般向けアンドロイドの中で最も高級な一体だった。
 ――表向きは。
 実際のところ、これの内部にはアローヘッド社の部品は一つとて残されておらず、ただ外見だけが社の最高級品であるだけの違法改造体だ。
 化けの皮を被った正体は、およそ有力な貴族や政治家であろうと容易には手に入れることのできない武器を備える戦闘用アンドロイド。
 急用が入ってしまったからとはいえ約束を反故にしてしまった親友が、罪滅ぼしの意味合いも込めて、自信を持って護身用に貸し出してくれたとっておきだ。
 ここまでの道中でティディアが「安心」と言っていたのは、確かに誤りではない。
 今もアンドロイドの中に格納されていた無数の小型自動警戒機がこの周辺に展開し、不審な人物はいないかとパトロールをしていることだろう。
 まあ……ニトロに取っての最大最悪の不審人物は、現在、すぐ傍にいるわけだが。
「どうぞこちらへ」
 オートドライブに設定されたタクシーが駐車場に向かうのを背後にして、肩肘を張ったドアマンが王女の先に立ち、ニトロに声をかける。その声からはティディアに対するものに比べて幾分のゆとりが感じられた。彼の人好きのする柔和な顔には、幾ばくかの安堵すらある。
 ティディア姫という常であれば声をかけることすら畏れ多い貴婦人を、声をかけるどころか触れられるほど近くにしたドアマンの青年にとって、『ニトロ・ポルカト』は緊張ストレスを逃がせる絶好の緩衝帯なのだろう。
 黒いラインの入った白い制服の肩当てを尖らせ、膝が震えているのか頼りない足取りで先導するドアマンに続きながら、
(……そういや、珍しいな)
 さっと周囲に目を配り、ふとニトロは思った。
警備用もいない)
 ホテルのドアマンと受付フロント係は出入りする人間をチェックできる位置にあるため、セキュリティの観点からアンドロイドであることが常識だ。
 高級ホテルなどでは非常に訓練された――それこそ一度の対面で客の名と顔と身体的特徴を記憶できるような――人間を受付フロントに配することがあり、それは一つの『高級』のステータスとされている面もあるが、しかしそのようなホテルでも、ドアマンには当然警備面からアンドロイドを最低でも一体は配する。
 だが……どうやらホテル・ウォゼットでは、この喧嘩もしたことのなさそうな青年しか表にいない。
「どうしたの?」
 声を潜めたティディアが問われ、自分の顔に疑念が浮かんでいることに気づいたニトロは慌ててそれを消した。
「いや……」
 小さく口の中でつぶやくようにしてニトロが誤魔化しのうめきを返すと、この建物に良く似合う大きな扉――合成木材か、それとも本物の木製か、年代を感じさせる色合いの両開きダブルドア、その金色のノブに手をかけようとしていたドアマンがばっと振り返った。
「あの……何か、失礼でも」
 青年の声は冗談みたいに震え、顔は蒼白だった。
 ニトロはドアマンの反応に驚きつつも、口元には自然と微笑を浮かべていた。
「いえ、いいドアだなと思っていただけです」
 ティディアと『仕事』をしている際、彼女に対して必要以上に心を砕く初顔のスタッフへ助け舟を入れる機会がよくあるニトロのフォローは、慣れも手伝い口元の笑みと同様に至極自然なものだった。
 その含みのない言葉にドアマンの顔に血色が戻り、
「このドアは、およそ百五十年前、合成/成型加工のされた木材を避け、セツゲンエボニーの純木を用いて職人の手により作られました、当ホテル自慢の逸品でございます」
 彼は強張っていた身を緩ませると、従業員用に配られた資料を暗唱するように言った。
「そう」
 相槌を打ったのはティディアだった。どさくさ紛れに恋人然とニトロの右腕に自分の左腕を絡ませる。
(っ)
 ニトロの胸に、絡んできたティディアの腕を弾こうという反応が反射的に芽生えた。
 が、ティディアに関心を示されたことで頬を紅潮させている――これまでの様子からして下手を打てばショック死させてしまいそうな――ドアマンに余計な心労を与えては悪いと、ニトロはそれを懸命に抑えた。
 一歩後ろに控え静々とついてきていたアンドロイドの足が僅かに強く踏み込まれた音を聞き、左手を後ろに回して「いいよ」とサインを送る。
 どうしても頬が引きつるのだけは堪えることができなかったが、まあそれは構わないか。どうせドアマンには世間の認識通りに『照れているからそういう顔をする』とでも思われているだろう。
 最近では諦めを超えて悟りの境地に達し出した心境でドアの前に立つ青年を見ると、彼は頬を紅潮させたまま、思いもよらずぼうっとしていた。
(? ……ああ、そうか)
 青年の瞳の先にあるものを悟り、ニトロは納得した。どうやら彼は、花々さえもその尊顔の前では色褪せると誰かが言った、美しい王女の笑みに見惚れているらしい。
 仕方なくニトロが半歩進むと、はっと我に返ったようにドアマンは姿勢を正した。
「ようこそ、ホテル・ウォゼットへ」
 そして白い手袋に包まれた手で金色のドアノブを今度こそ掴み、
「良い一夜をお過ごし下さい」
 決まり文句と共に音もなく大きな扉の片側が開かれる。
 ニトロの目に、ワインレッドとまばゆいきらめきが飛び込んできた。
 ――ホテル・ウォゼットのロビー。
 クラスメートの頼みを了承した日の夜、ホテル・ウォゼットのWebサイトで概要を確認したニトロは、ロビーのデザインと建物の外観との調和が取れてないな……と、そう感想を抱いた。
 しかし、実際にこの目で見ると、その感想は正し過ぎた
 外と内とで、あまりに世界観が違い過ぎる。
 外観は、ライトアップの演出で多少『味』を削がれてしまっているとはいえ、質素でこぢんまりとしながらも品の良さを漂わせ、派手ではなくともきっと温かくゆるりとした時間を過ごさせてくれると安心させてくれるものだ。
 対して内側は、一言で言えば――豪華。どこかの超高級ホテルかと見紛う上質なワインレッドの絨毯。天井できらめきを振りまくのは金と水晶が織り成す豪奢なシャンデリア。壁は一面人工大理石で覆われ、ここでは優雅かつ豪勢に時を過ごせるだろうと期待させてくれる。
 年代物の扉を境界に世界を一変させることで客の心理を日常から切り離す演出……と言えば好意的な反応だろうか。だが、正直、ここまで内外に過剰な差があると、むしろ客を『戸惑わせること』を目的としているとしか思えてならない。もし前もってホテルの景観を確認していなければ、ニトロはきっと口に出していたことだろう――
 ――『違くね?』
 と。
「さあ」
 ふいにニトロの耳を促しの声が撫でた。はっとしてニトロが声の主を見ると、彼女は極上の笑みを浮かべて彼の腕を引いていた。
 再び、腕を組まれた時と同じく拒否感がニトロの胸に反射的に芽生えたが、
(待て、俺、今日は、せめて今だけは、我慢だ)
 彼は自分に強く言い聞かせて再度その衝動を抑えると、彼女に促されるまま並び歩いてロビーへ足を踏み入れた。
「ようこそ。ホテル・ウォゼットへ」
 彼らを迎えたのは、歓迎の合唱だった。
 ドアをくぐり抜けてすぐ左右に一列、五人ずつ。左は女性、右は男性、ホテルマンというよりは高級レストランのウェイターにイメージの近い糊の効いた白いシャツに黒いベスト、ベストと同色のシルエットもすらりと流れるパンツに身を包んだ若い従業員達が等間隔に並び、いずれも同じ角度に腰を曲げ、皆々今朝ヘアサロンに行ってきたかのように整えられた頭を下げている。
 正面には、従業員達より十は年齢の高い男女がいた。
 女性はこの中でただ一人タイトスカートのスーツで、その襟にはワインレッドの地にホテル・ウォゼットのマークが描かれた金縁のバッジが付けられている。育ちの良さを窺わせる上品な笑みを浮かべ、いかにもお嬢様といった雰囲気と立ち姿。美しく艶のある黒髪はこざっぱりとした髪型にまとめられ、彼女の持つ空気を一つ引き締めるアクセントとして見事に機能している。
 彼女の顔は、Webサイトに載っていた。
 ロセリア・ウォゼット。
 このホテルの所有者オーナーであり、創業者の一人娘として、実質、支配人マネージャーでもある。
 彼女から半歩後ろに控え、仕立ての良いブレザーの襟にオーナーと同じバッジを輝かせている男性は、サイトでは支配人として紹介されていた。
 垂れ気味の眉が人の良さそうな印象と共に頼りなげな印象を与えるが、とはいえそれは明るい栗色の髪のお陰で悪い印象とまではなっていない。深い茶色の瞳は落ち着きを感じさせ、恰幅の良い体型と総じて見れば、若い身ながらも責任ある役職を担うだけの説得力に辛うじて手が届いている。
 彼の名はセド・ウォゼット。
 ロセリア・ウォゼットの夫であり、クレイグ・スーミアの歳離れた従兄だ。
「ご機嫌麗しゅうございます、ティディア様。当ホテルのオーナー、ロセリア・ウォゼットでございます。お目にかかれて光栄ですわ」
 よもや王女が変装しタクシードライバーの姿で現れるとは思っていなかったらしく、一瞬面食らった様子を見せたものの、すぐに進み出てきて言ったロセリアの声にはあからさまな緊張とそれを上回る興奮があった。
「ティディア様におかれましては、当ホテルをご利用頂き、我ら一同身に余る誉れでございます」
 ロセリアが優雅に頭を垂れると、背後のセドと、頭を上げていた従業員達も追って頭を下げた。よく訓練されている。もしや全員アンドロイドではと思えるほどの一糸乱れぬ動きだった。
 ニトロは顔を上げるや真っ直ぐティディアを見つめてつらつらと歓迎の口上を再開したロセリアから視線を外し、思えば王女の存在にオーナーだけでなく左右の男女の全ても高貴なる女性へ熱い眼差しを送り緊張に張り詰めている中、一人だけ悠然と構えているセドに眼をやった。
 ニトロと目が合ったセドは小さく目礼した。
 その眼差しには、幾つもの感情が込められていた。
 クレイグから詳しく話を聞いていなければ、ニトロはけしてその全てを汲み取ることはできなかっただろう。
(……あなたも大変ですね)
 何となく共感と親近感を覚えながら、ニトロは目礼を返した。
「つかぬことを伺いますが……まことに、お部屋はご一緒でなくてよろしいのでしょうか」
 挨拶を終わらせたロセリアがふいに伺いを口にし、ニトロははっと意識を目前のオーナーへ移した。視界の中に入ってはいたが、焦点の外でぼやけていた彼女の顔がはっきりと目に映る。そこには、はっきりと、恋人達への『余計なお世話』があった。
 ニトロは慌てて口を開こうとした。
 オーナーの挨拶にやけに大人しくうなずきだけを返していたティディアが『やっぱ一緒で』と言い出す前に、予約の通りに『別でいいです』と強く主張しようと。
「ええ、別でいいわ」
 しかし、先んじたのはティディアだった。
 ニトロは何という致命的な遅れを取ったのかと歯噛んだ。何とか取り繕おうとティディアの言葉を打ち消す手立てを必死に思案し――そして、気づいた。
「は?」
 ニトロは思わず間抜けな声を出しながら、今も腕を組んだままのティディアに振り向いた。
 このバカ、今、何と言った? 二部屋でいい? ってことは、別々の部屋で泊まるということか? 自ら? 絶好のチャンスを自ら潰して……!?
「あの……?」
 王女の年下の恋人の反応に疑念を覚えたらしいロセリアが、二人に声をかけた。それにニトロは我を取り戻し、
「あ――ああ、えっと。
 ええ、別でいいんです」
「……はあ」
 ニトロの取り繕いをロセリアは生返事にも似たうなずきで受け止めたが、その表情には釈然としない有様がようようと溢れていた。
「本当は、二人で……がいいのだけれど」
 そこに嘴を挟んだのは、ティディアだった。ニトロと会話を重ねたタクシーの中とは違う、親しみやすく、気軽な口調ながらも上品さを失わない『ティディア姫』の言葉を紡ぐ。
「仕事があるの。まだこの人は王族ではないから、色々と不都合もあってね。だから」
 ティディアはニトロの腕に絡めた腕にぐっと力を込め、控えめに肩を寄せた。
 その行為はどこか忍耐を感じさせるもので、ロセリアにはそれが恋人と夜を別にする王女の強がりと映ったらしい。彼女は感銘を受けたように瞳を輝かせ、頭を下げた。
「これは差し出がましい申し出を致しました」
「いいわ。……もう、部屋へ行っても?」
「はい!」
 王女に案内を促されたロセリアが目を左右の従業員に配ると、男女それぞれの列から一人ずつ、ベルボーイとベルガールが進み出てきた。
 王女の前に進み出たベルガールは、哀れなほど緊張していた。プロ根性で爽やかな笑顔を浮かべているが、残念、その下の表情筋は氷のように硬直して、今にもそこから冷たい汗が流れ出てきそうだ。
 一方、ニトロを担当するベルボーイは幾分気が楽なようで、十は年齢が下の『賓客』に歓迎の笑顔を極自然に向けている。
 二人はそれぞれ客に一礼すると、少年の背後に控えるアンドロイドから荷を受け取り、
「ご案内いたします」
 緊張のあまり口がうまく動かないのか、声をかけるタイミングを逸したベルガールに代わってベルボーイが言った。
 同僚のフォローに合わせてベルガールは少し青褪めた顔でティディアに促しの一礼をする。
 それは今にも過呼吸を起こしそうな様子で――ティディアは彼女の張り詰めた心をほぐしてやるつもりだったのだろう――王女が背を反らして自分を見つめるベルガールに極上の微笑みを送った、その時。
 一瞬にして、空気が変わった。
 ニトロと芍薬の周囲の他を除いて、ホテル・ウォゼットのロビーにあった世界の質が変容していた。
 希代の女王となることを約束されているティディア姫の、妖艶で、慈愛に満ちた……言うなれば淫魔と慈母の両面を兼ね備えたその微笑みに、
 偽りの色を重ねてもなお、見る者の魂を捕らえて離さぬ魔力を秘めた二つの真円に、
 この場にいるホテル・ウォゼットの誰もが心を奪われ、息を止めていた。
 先までは悠然と構えていた支配人、セドまでも。
 客をもてなす意志は今ここに無く、ただ、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナに掌握された世界がワインレッドの地に花開いていた。
(……毎度のことながら)
 その光景を摩訶不思議な景色だと、常と変わらぬ心持ちで眺めるニトロは感嘆とも呆れともつかぬ思いを抱いていた。
 ティディアが類稀な魅力を持っていることは認めるが、やはり、どうしてもこの雰囲気には慣れない。これはもしや何かの魔法だろうか、なんてつまらないことも考えてしまう。
「……」
 ティディアに見惚れる皆とは対照的に異様に冷めた気持ちで、ニトロは自身の腕に絡む手をくっと引いた。
 それに気づいてティディアが首をわずかに傾げると、その『促し』に、今まで体を繋ぎとめていた鎖から放たれたようにベルガールが一歩足を踏み出した。
 つられてベルボーイも後に続き、他の皆もはたと我に返る。
 それらはまるで、ティディアの意のままにあるようだった。
 ニトロはティディアと連れ立って案内の後に続きながら、胸中で苦笑していた。
(本当に、これは何かの魔法じゃないだろうな)
 ワインレッドの深い絨毯を踏みしめながら今は無人のフロントの横を通り過ぎてエレベーターホールに向かう途中、ニトロは深々と頭を下げているホテル・ウォゼットの面々を一瞥し――少し、息苦しさを感じながら――部屋へと案内されていった。

 三階、ホテル・ウォゼット最上の上等客室スーペリアルームに通されたニトロは、
「……どう思う?」
 一人で使うには大き過ぎるベッドに腰掛け、化粧台が据え置かれた壁の奥を見るように目をやりながら、傍に控えるアンドロイドに早速問いかけた。
「何カ企ンデイル――ト、思ウケド」
「それが何か解らない?」
「アノバカハ予測ニ必要ナ数値ヲ平気デ無視シテクルカラネ」
 言って芍薬は滑らかな動きで肩をすくめ、そして、すまなそうに眉を垂れた。
「恥ズカシイケド、今アノバカガドノ程度『良カラヌ』事ヲ考エテイルノカモ見当ツカナイ。トニカク……驚イチャッテ……」
「うん」
 ニトロはうなずいた。芍薬の驚きはもっともだ。自分にも、未だ、驚きが胸に残っている。
「まさか、自分からチャンスを潰してくるとはね」
「御意」
 化粧台が据え置かれた壁の奥――隣室で、ティディアは一体何をしているのだろうか。着替えているのか、一休みしているのか、ヴィタに連絡を入れているのか、それとも……自らチャンスを一つ犠牲にしてまで果たそうとしている『企み』のために準備でもしているのだろうか。
「……」
 思えば、今日のティディアはどこかおかしい。
 ホテルまでの道中のこともそうだ。タクシーを大人しく運転し、いつもならば当然仕掛けてきているであろう悪巧みも悪ふざけも無かった。
 児童養護施設での周囲を利用した『恋人ごっこ』に興じたり、どさくさ紛れに腕を組んできたりする厚かましさはいつもの通りだが、これも思えばそれ以上には足を踏み入れてこようとはしていない。
 いつも通りなら、それこそ人の心地に土足で踏み入り「私と夫婦になれー!」と喚き散らすことを辞さない――というか傍若無人に暴れに暴れて迫ってくる奴なのに、今日は、そのプレッシャーが薄い。言葉の端々に誘い文句――というか間違った誘惑を混ぜ込んできてはいるものの、それだけだ。
 腕を組んだなら、いくらパッドが間にあるとはいえ、これでもかとばかりに胸を押し付けてくるのが『普通』だろう。
 『けっこんゆびわ』の時とて、その気になればあれを「歴史的瞬間」だと仰々しく演出することもできたはず、いや、あの指輪をくれた赤毛の女の子という格好の『人質』がいたのだ。そうすることこそが迷惑極まるバカ姫のバカ姫たる由縁ではないか。
 ……タクシーを降りる直前には『ちょっとした驚き』であったものが、今やティディアの不可解な行動のせいで『完璧なる困惑』となっている。
 空恐ろしささえ、感じる。
「警戒網は?」
「異常ナシ」
「……別邸の今の状況って、解るかな」
「御意。フリーアクセスコードガ生キテルヨ」
「どんな感じ?」
「大宴会中。――チョウドヴィタガ挑戦者ヲ返リ討チニシタトコロダネ」
「挑戦者?」
「酒ノ飲ミ競イノネ。軍ニ伝ワル『伝統ノ勝負』ッテヤツカナ」
 ということは、彼女が相手にしたのは警備の直属兵か。
 思い描いていた空想は外れたものの、やはり涼しい顔で勝負を決めたのであろう麗人を想像してニトロは小さく笑った。
「話に、偽りなし、か」
「何ダイ?」
「ヴィタさんは来ないらしい。警備も」
「――本当カイ?」
「本当かな? って思ったんだけど、どうやら本当らしいね」
 器用に目を丸くしたアンドロイドに、ニトロは道中でのティディアとの会話を掻い摘んで語った。
「ソレハマタ大胆ナコトヲスルネ」
 そうため息混じりに言うアンドロイドは、感情を表すシステムの源――芍薬の『心』を精緻に写し取っていた。
 そこにはティディアのぬけぬけとした予測に対する苦々しさと、しかしそれを否定できず、そうなった時はマスターの命に従って彼女を助けるであろう自身を認めている一種独特の潔さがある。
 どちらにもつかず、またどちらもが表れた複雑な顔は、現在の感情表現技術エモーショナル・テクノロジーが作り出せる限界のものだろう。
 ニトロは芍薬に同質の笑みを返し、
「まあ、考えてもしょうがないか。どうせおいおい判るだろうし、ここまで来て考えすぎて疲れるのも馬鹿らしいし……」
 背骨を撫でる不安を吐き出すように言い、疲れた体を伸ばしてベッドに背中から倒れこんだ。
 上質の羽毛が体重を受け止め、柔らかで心地良い香りが首筋と鼻腔をくすぐる。
 照明は壁面の数箇所にあり、シェードを被ったそれは柔らかなオレンジ色で部屋をぼんやり明るくしていて、光の乏しい天井は暗い。ニトロはその薄暗さに、ティディアと初めて邂逅したホテル・ベラドンナの一室を思い出していた。
 ――あの時は、独りだった。
 『クレイジー・プリンセス』と対するにはこの身一つしかなく、出会ってもいないハラキリ・ジジはおろか、その時は裏切られたことを知らずにいたメルトンもなく、畏れ多き姫君に対するにはこの心も一つしかなかった。
 ニトロは大きく息を吸い、吐いた。
「それに、あいつが何を企んでようが、今は芍薬もいるから大丈夫」
「エ?」
 潤みある人工の深緑の瞳が、マスターを見つめた。
「移動の車が一番『危険地帯』だったろ? そこを乗り越えたから、もう、今日は安心だよ」
「主様駄目ダヨ、チャント警戒シテオカナイト。アノバカニ隙ヲ見セタラ何ヲサレルコトカ」
 たしなめの言葉をかけられたニトロは顔を芍薬に向け、笑った。
「うん。芍薬がそう言ってくれるから、俺は安心していられる」
 アンドロイドは男女のどちらともとれる中性的な外見だが、手を前に組んだ立ち姿は凛として芯の強い女性を思わせる。ニトロはそこにどことなく芍薬の『母』の姿を重ね見ながら、続けた。
「俺がどんなに油断してても、芍薬が傍にいる限りティディアも滅多な手は出せない。それはあいつも十分理解しているからさ。だから……甘えちゃってもいいかな。ここでの一泊を楽しまないと、クレイグの頼みをちゃんと聞いてやることができないから」
 ニトロは上体を起こし、芍薬を見た。
 深緑の瞳がわずかに光を帯びて、より潤んでいるように見えた。
「モチロンダヨ、主様」
 マスターの全幅の信頼を受けた芍薬は大きく力強くうなずいた。
 ニトロは頼もしいA.I.の自信に満ちた返答に安堵感が増すのを感じながら、またベッドに倒れた。
「デモ、今日ハ、アル程度ハ見逃シタ方ガイインダヨネ。サッキミタイニ」
 と、そこに少々やりにくそうな調子で訊ねられ、ニトロは天井を見上げたままうなずいた。
 そして、今更確認することでもないことを芍薬が改めて口にしたことに、
「何か気になることが?」
「御意。オーナーハバカ姫ノコトデ頭ガ一杯デ言イ忘レテタミタイダケド、今日、内風呂ハ給湯設備ノ故障デ温泉使エナイッテ」
 ニトロは眉をひそめた。
「急に?」
「御意」
「内風呂、ってことは部屋のバスルームも?」
「使用不可」
「……洗面台の湯は?」
「使用可能」
「……。露天は?」
「使用可能」
 ニトロは苦笑した。
「随分と都合のいい故障だ。それで、是非、当ホテル自慢の露天風呂を使ってくださいって?」
「言ッテイタヨ。仕切リモ取ッテ混浴ニシテアルッテ」
「そりゃまた、随分と余計な気遣いだ」
 頭の後ろで手を組み、それを枕にしてため息をつく。
 本人は気の利いたことをしているつもりなのだろうが、得てして相手を慮る気持ちが欠けている――クレイグの義理の従妹に対する評価は、厳しいものだった。
 言い換えれば『独り善がり』の傾向が強いらしい。
 それはホテルの経営にも反映されていて、若いオーナーは自分の理想を叶える気持ちばかりが強すぎて、客のことを考えるよりもまず自分の想いを優先させてしまっているそうだ。
 その最たる例は、ニトロ・ポルカトとティディア姫がホテル・ウォゼットに泊まると決めた際、先にこの土日に泊まろうとしていた予約客に対し、一般人がいてはティディア様に失礼に当たるからと適当な理由を付けて全ての予約を断った、ということだろうか。
 ――『一般人がいてはティディア様に失礼に当たる』
 ロセリア本人にとってみれば、それは賓客たる王女のことを慮っての判断だったのかもしれない。
 だが、彼女のその眼には、シゼモの数多ある宿泊施設の中からホテル・ウォゼットを選んでくれた先客の姿はもとより、ましてや一般人と同じホテルに泊まることに不満を抱くようなたまではないティディア様の姿も、全く見えていない。
 それはきっと、経営者として致命的なことだ。
 創業者の娘夫婦がホテルを継いで三年、先の代にはなかったライトアップの演出や豪華な内装を取り入れ様々なことを刷新したホテル・ウォゼットの経営状況は、それら新たな経営努力も虚しく緩やかな下降線を描き続けている。
 しかし、それでもまだ緩やかな下降線を描く程度で済んでいるのは、妻のサポートにフォローにと奮闘する夫の尽力の賜物だろう。
 今回の件にしても、一般客の予約を断ると決めて以降は『王女様をお迎えする』ことに頭が一杯で、その客らへ気の回らぬロセリアの代わりにフォローの全てを取り計らい、頭を下げて回ったのもセドだというのだから。
 なるほど、直にこのホテルに触れてみて、クレイグが彼の主義に反して『ニトロ・ポルカト』を利用せざるを得なかった理由を実感と共に改めて理解する。
 ……同時に、仲の良い従兄に何度も頭を下げられたという級友の、自分にすまなそうに頭を下げてきた友達の、信条を支えにした天秤が揺れる胸の内も。
「ドウスルンダイ?」
「……クレイグも露天風呂を勧めてたっけ」
「絶対ニ一緒ニ入ロウトスルヨ」
「だろうね」
「イクラ何デモ混浴ハ勧メラレナイケド……」
「うん」
 ニトロは目をつむり、道中でのティディアとのやり取りを思い返した。
 ティディアはハラキリがいれば、と残念がっていた。そうすれば混浴を楽しめたのにと。
 ……胸には、彼女に対する小さな棘がある。
 もしかしたら彼女に対して初めて感じる、棘が肌に埋もれたままの疼痛がある。
 彼女が今日を『チャンス』と口にし、不可解な言動があるからには油断はできず隙を作るわけにはいかない。いかに芍薬が傍にいても、そう、ティディアと全裸で湯船を共にするという愚行を犯すわけにはいかない。
 よしんばそこで何もなかったとしても、あのバカ姫は一を十にも百にもして『のろけ話』を吹聴する奴なのだから。
 だが……しかし――
「…………そのことは、後で決めるよ」
「御意」
 迷う心そのものを声にしたマスターを見つめ、芍薬はうなずきだけを返した。
「時間まであと何分?」
「十五分」
「少し休むよ。十分経ったら起こして」
「承諾」
 芍薬は部屋のシステムに干渉して灯りを消した。
 よほど疲れていたのだろう、ニトロの心身がすっと浅い眠りに落ちていく。
「……安心シテ休ンデネ、主様」
 主の眠りを妨げぬよう人には聞こえぬ音量で囁いた芍薬は、空調の設定を確認し、クローゼットから取ってきた薄いケットを掛布団キルトの上に横たわるマスターにそっとかけ――
 そして暗視に映る彼の姿を見守りながら、抜かりなくティディア側に不審な動きはないかと警戒網・別邸・その他関連施設から得られる情報の分析を開始した。

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