ティディア姫御一行を乗せた
王女とその恋人がお忍びで街に出ると踏んでいた数人の報道関係者が、施設の裏口から走り出た怪しげな運送業者の車に食いつきそれを追ったのを、そこから程近い駐車スペースに停まる一台のタクシーがじっと見つめていた。
予定通りスカイカーが飛び去ったその時には、すでに、王女の移動に合わせて強化された警備の網を利用し衆人環視の隙をつき、施設から脱出を果たしていたニトロは、
「……何してるんだ?」
近くの地下駐車場に用意されていたシゼモ観光タクシーの比較的ゆったりと作られた車内――その後部座席の下に身を潜めたまま、訊いた。
運転席と助手席の隙間から見える金髪の女性ドライバーは、地下駐車場を出ると、目的地ではなく真っ直ぐここに戻ってきて、それからというもの
「チェック」
返ってきた彼女の声は、楽しげな様子をニトロに伝えた。まるで悪戯小僧が何やら事を企てている風だ。
「チェックって、何のだよ」
「広報から『ティディア姫とニトロ・ポルカトの近況報告』を受け取れなくなるかもしれない会社のチェックよ」
ニトロはなるほどと納得した。
以前ハラキリが、ティディアが『ニトロ・ポルカト』に関してマスメディアに対してかけている圧力の中で最も効果的なものは、王権に物を言わせた規制よりも何よりも、王家広報から提供される『王女と恋人の日々』に関する情報提供をストップすることだと、そう言っていた。
――「知人が言うには、ニトロ君を追いかけたところでつまらないそうです。普段の君は品行方正な一高校生で、マスメディアが張り付いていたところで彼らが望むようなネタを提供することはありませんからね。
むしろ君の毎日を忠実に書き立てたところで、例えば本日ポルカト氏は80kgのベンチプレスに成功しました、なんてものはニュースの重要度としては下の下です。ネットニュースやサブチャンネルのコンテンツにはできるでしょうが、そんなものをさも大層にメインで取り扱っていれば報道姿勢の信用に関わる。
あるいは、クレイジー・プリンセスに比べて常識人な恋人という好印象ばかりを受け手に与えて君を持ち上げ続けることになってしまうでしょう。ゴシップからすればそれは最高に面白くない。それなのに、その上“面白い”
中にはエフォラン紙のようなところもあるが、それとて犯罪的な取材はせずにティディアの引くラインの限界を守ろうとはしているし、加えてそれをするのが一社程度だから逆に益を見込めるのだ、と。
「いつも、こんなことやってるのか?」
ティディアは
「私がってこと?」
「ああ」
「いつもは担当官がやっているわ。今回はいい機会だから、たまには私が直接見てやろうと思ってね。ふふふ、もし言い逃れでもしようものならどうしてくれようかしら……ぅふふふふ」
意地の悪い含み笑いをこぼしながらカーシステムを起動させ、ティディアは素早く周囲を確認してから車を発進させると、
「さて――お客さん、行き先は?」
ふいに妙な洒落っ気を出して、ニトロにそう訊ねた。ニトロは彼女の芝居に付き合う気はないと鼻を鳴らしたが、しかしその胸にちょっとした気兼ねが芽生え、彼はすぐに思いを改めると答えを返した。
「ホテル・ウォゼットまで」
「ホテル・ウォゼットっ」
「……何だよ、そんな驚いた風に」
「あそこは落ち目ですよー。いやここの地の物を使った食事は美味しいそうですけどね、最近の評判と言えば満足度が低下したことばかりでねぇ。今からでも変えられたらどうです? お客さんならもっといい所に泊まれるでしょう。例えば、別邸のティディア様のお部屋とか」
「そんな観光案内するタクシードライバーがいるかい。しかも半分は俺の受け売りじゃねぇか」
「受け売りも取り入れられなきゃ観光案内なんてできませんや」
「一理あるが、いいから黙って連れてけ、ティディア様」
いつもは呼び捨ての名に口を強めて尊称をつけたニトロの皮肉を、ティディアは小さく笑って受け止めた。そして、ナビもつけずまるでここが地元だと言わんばかりに車を走らせる。
彼女は鼻歌をこぼすほど上機嫌だった。
そもそも今日は初めから機嫌が良かったが、しかしその機嫌の良さは『あの時』からさらに際立ち、目に見えて心が浮かれている。
(――ああ、そうだった)
ややもすれば鼻からだけでなく口からも溢れ出してきそうな『ご機嫌』を耳にして、ニトロは『その件』に関して言っておかねばならないことがあったと思い出し、
「……ところで」
ティディアとはまるで対照的な不機嫌さで、彼女の鼻歌を止めた。
「さっきの指輪」
「結婚式でも使いましょうね」
「使うか! てか式なんぞ上げるか!」
「あら、もっとちゃんとしたのがいいの? それとも自分で選んでくれるのかしら」
「いやそうじゃなくて……って、お前、俺が何を言いたいのか解った上でそれを言ってるだろ」
「うふふ、もっちろん解ってるわよぅ」
「うっわ腹立つ。むしろとぼけられた方がまだいいわ。
……で、解ってるなら、釘を刺さなくてもいいよな?」
「それを釘を刺してるって言わない?」
ニトロからティディアの表情を窺うことはできないが、シゼモ観光タクシー株式会社の制服にかかる金色の人工毛髪が楽しげに揺れているのを見れば、相手が笑っていることは判る。それも声には出さず、噛み締めるように。
これは『聞き分けさせる』のは骨が折れそうだとニトロが苦々しく思っていると、
「けど、そうね。解ってる。あれはあの時だけの『けっこんゆびわ』だわ」
次いでティディアが口にしたセリフに意表をつかれて、ニトロは驚いた。
「……随分、聞き分けがいいな」
勘繰りを隠そうともせずニトロが言うと、ティディアはまた肩を揺らした。
「期待しているから」
「期待?」
「そ。ニトロが悩みに悩みぬいて選んでくれた『結婚指輪』を私にくれるその時を、私は期待して待っているのよ」
「そんな時は物理的に来ないぞ」
「物理的にっ?」
「おう」
ニトロが軽く即答するのにティディアは小さなため息をつくように肩を落とし、ハンドルを切り――
「上がって」
ティディアが口にしたのは、合図だった。
長らく後部座席の下に身を潜めていたニトロは、そこでぱっと体を起こした。シートに座るのに並行して今まで体の下に置いていたバッグを引き上げ、同時にその中から眼鏡ケースを取り出し開くと『変装道具』を身につけ、ケースを再びバッグに押し込み、全てを流れる一連の動作で行った最後に、さっと服の皺を直す。
伊達眼鏡の機能が働いたと、そのシステムがレンズの端にアイコンを数秒点滅させてニトロに報せた。これでレンズ越しに自分の瞳を見た者は、そこに元の黒ではなく、金色の虹彩を目にすることになる。極簡単な変装ではあるが無いよりはマシだし、それに『視線避け』は運転席にいるからこれで十分だろう。
ニトロが『金色の』瞳を窓の外に向ければ、車一台が通れるだけの路地が目に入った。両脇にある建物はどうやら店舗であるらしい。進む先には路地の終わりに交通量の多い通りが見える。
とすれば、ここは比較的大きな通り同士を結ぶ道といったところか。
タクシーはやけに丁寧な運転で、狭い路地を一定の速度で走っていく。
「でも、あの指輪は宝物ね」
「そうかい。それはあの子も喜ぶよ」
無駄な動きもなく素早く『普通の客』の
しかし、自分のその喜びをニトロに語ったところで嫌がられるのがオチだ。ティディアは心にある感情は秘めたまま、彼に問うた。
「ニトロには宝物じゃないの?」
「宝物だよ」
脇に置いたバッグにぽんと手を添えて、ニトロは息をついた。
「だから、これがお前との『けっこんゆびわ』扱いでなければなあって心底思ってる」
「あら、そんなツンケンしないでよ。せっかく温泉に来てるんだからのんびり穏やかに。一緒に身も心も癒されましょうよぅ」
路地を抜けた先、シゼモ中心街を貫く大通りとの合流地点に信号はなく、ティディアは本線を走る車の切れ間を逃さず交通流の中へスムースに入っていった。
窓ガラスの向こうに、ニトロは夜に染まり始めた温泉街の姿を見た。
街の所々から立ち昇る湯煙のためだろう空気中に散る小さな水の粒が残照の光をぼやかして、それは黄昏の街を照らす街自身の灯りと溶け合い、大気と光と灯りが混じり合うそこに悠然と陰影を刻む街並みは、すっと穏やかに心の奥へと染み入ってくる。
優しい景色。
和らいだ世界は、だけど、どこか妖しげで。
なるほど歴史あるこの温泉街が、悠久の時を越えた未だに人の心を引きつける理由が、ニトロにはよく解る気がした。
そしてティディアが『仕事』にかこつけてここに一緒に来るのを心待ちにしていた理由も、改めてよくよく理解する。
「……それはもちろん温泉につかって、っていう意味だけで言ってるんだろうな」
一応確認したニトロにティディアは嬉々として、
「もちろんセ」
「はいそこまで!」
「そこまでなんて言わないで、しましょうよ。ほら、ここはこんなにしっぽりいくのにいい雰囲気よ?」
「だからどうした。しないぞ、するもんか、絶対にしっぽりいくなんてことにはならない。それも、解ってるだろ?」
「でも私たち世間的にはもうヤりまくりヤられまくりって思われてるんだし」
「それを言うな……そう思われてるのは本っ当に嫌で嫌でたまらないんだぞ、お前にゃ分からないだろうけど……っ」
「私は大歓迎だからねー。だから、ここらでいっちょそれを本当のことにしておくと後々都合も良いかと思わない?」
「お・も・う・わ・け・あるか! 大体都合が良いってそりゃ全部お前の思い込みだろう!?」
声を張り上げたニトロは一度二度肩を大きく上下させて呼吸を整え、声にドスを効かせて続けた。
「やっぱお前、公表してる通り別邸に泊まれ」
「嫌よ。ニトロと『一つ屋根の下』は出張漫才の夜の、一番の楽しみなんだから」
「ああ、そうだな。俺に取っちゃ毎度それが一番の苦しみだよ。でも耐えてるんだ。だから今回は遠慮しろ」
「やー、今回こそ、嫌よー。ハラキリ君もいないし、ニトロが『準備不足』なチャンスなんて滅多にないんだから。毎度毎度、芍薬ちゃんとガッチリ守り固められちゃってキーってなってるのよ? 私」
「お前……」
ニトロは思わず『ウォゼットに着いたら芍薬に言って強制的に別邸に送り返してやる』と怒鳴りそうになったが……はた、とあることを思い出し、唇まで出かかったその言葉を懸命に噛み殺した。
何を言って何をしたところで、ティディアがセキュリティも万全で静かに一夜を過ごせる――同時に、こちらに取っても芍薬と念入りに『どう守りを固めるか』と案を練り合い、またセキュリティ等各種システムに芍薬がフリーパスで干渉できることをティディアに約束させていた王家別邸ではなく、『友達に美味しい食事を出すと薦められたからホテル・ウォゼットに泊まる』と変更した自分についてくることをやめるわけがないことは解りきっているし、何よりクレイグの頼みを思えば、今回ばかりは、リスクが高くともティディアを傍に置いておいた方がいいのだ。さすがに同室とまではいかないが、同じホテルの隣室くらいには。
それなのに……つい警戒心が先立っていつも通りの対応を続けてしまっていたが、あまりにいつも通りに険を立て続けるのは……やはり気が引ける。
「……まさか、ハラキリの急用、そのためにお前が手を回したんじゃないだろうな」
とはいえ急に態度を変えることもできず、ニトロは噛み殺したセリフの代わりに、苦し紛れだとは理解しながらもティディアへ猜疑を向けた。
「まさか。そんなことするわけないわ」
ティディアはため息混じりに言った。
「ハラキリ君が来ないのは私も残念だもの。ニトロと混浴……楽しみだったのに」
「待て待て。何でハラキリから混浴に話が飛ぶんだ」
「だってニトロ、ハラキリ君がいれば混浴でも逃げないでしょ?」
「思いっきり遠ざかるけどな」
「ほら、逃げない」
ティディアは笑いながら前を行く車が減速し始めたのに合わせてブレーキを踏んだ。直前の信号が赤となり、その停止線に鼻を揃えて停まった前の車から適度な間隔を置いて停車する。
『王女とその恋人』がこの町にやってきている影響だろう、数m先の横断歩道を、いかに土曜とはいえシーズンオフの温泉地にしては多い人数が歩いていく。
道路を横切る人の中にはティディア姫とニトロ・ポルカトのサインがプリントされたシャツを着ている青年もいて、その彼と手をつなぐ恋人らしい女性は、すれ違う人々を振り返らせ多くの好奇の眼を引いていた。
ニトロにも、彼女が人目を引く理由が一目で解った。
地毛か、それとも染めているのか、肩に流れる美しい黒紫の髪。髪色だけでなく髪型も王女と同じなら、その服装も先刻まで王女が着ていたものと全く同じだ。おそらくティディアの本日の服装が判明したと同時に、『王女様のコーディネート』を用意するネットショップで買い揃えたのだろう。
彼女は、いわゆる『ティディア・マニア』と呼ばれるファンだった。
顔を整形するまではしていないようだが――行き過ぎると、以前ティディア自身が演じていたような全身を整形して同じ姿になる者もいる――化粧はちゃんと王女のものを意識していて、それは遠目にもあまり似合っていないと思えるのに、しかし、今このシゼモの道を王女と同じ服を着て王女と同じように恋人と一緒に歩いていることがそんなにも嬉しいのか、彼女の心底悦に入ったその表情には似合う似合わぬの議論が入り込む余地はない。
恋人と語らいながら完全に自分達の世界に浸っているティディアのファンを追って目を動かしていたニトロは――ふと、気づいた。
「けど、ハラキリ君がいないなら駄目ねー。一緒に洗いっこしようと思ってたのに……本当に残念だわ」
右隣の車線、並び停まる乗用車の助手席にいる中年男性の眼が、ちらちらとティディアに向けられている。
――正確には、彼女のやたら大きな胸に。金髪の女性ドライバーが身にまとう制服をはち切らんとばかりに膨らませている、その乳房に。
「……それはハラキリがいてもしない」
「いけずー」
「いけず違うわ阿呆」
信号が変わり、ティディアがアクセルを静かに踏み込む。こちらが先に動き出し、女性タクシードライバーの姿が死角に隠れた瞬間の――男性の妙に満足そうな顔を去り際に目にしたニトロは、堪え切れず苦笑した。
青い瞳と、金髪のカツラ。
確かに印象はがらりと変わるが、それだけで正体を隠せるものかと言った自分に、ティディアは作り物の巨乳を自信満々と示して言ったものだ。時刻的に外から車中の人相を見るのは難しくなる。それに外から運転手の顔をマジマジ見る者はそうあるものじゃないし、あったとしてもそのすぐ下にあまりにインパクトのあるものがあればそちらに気が取られてしまうものよ。特に、大抵の男は――
ティディアの目論見は、痛快なほどに成功していた。
「それに、お前、もし洗いっこなんてしたら絶対やらしいことするだろ」
「んー、どっちかって言うとニトロにやらしいことして欲しいんだけどなー。
ねえニトロ、いい加減私のこと襲いなさいよ。私は身も心もいつだって準備オッケーなのに、焦らされっぱなしで参っちゃうわ」
「何が『いい加減』だ、バカ痴女。勝手に焦れてろ」
「あら、男を誘う女を痴女って言うのは乱暴じゃないかしら」
「襲え、なんて誘い文句も随分乱暴じゃないかな」
「乱暴な誘い文句にキュンって胸打たれちゃう男はいると思うわ」
「ああ、いるかもな。けどお前が言うと何か洒落にならんし、それに、誘う女がどうのってことじゃなくて」
そこでニトロは区切りをつけて一度大きく息を吸い、続けた。
「単に、お前が、俺にとっちゃ可愛げもへったくれもない恥知らずな真正痴女ってだけだよ。他意はない」
「うっわむしろひっど。……でも、まあ、別に痴女でもなんでもいいけどね。結果的にニトロがその気になってくれれば。そのためなら私、どれだけ罵倒されても耐えてみせるからっ」
「変な決意表明をするな。っつーかならん。決して。絶対にいくら迫られてもその気になんかなりゃしない」
「……ちぇ」
「可愛くないぞ、ンな舌打ちしても」
「ちぇー。『間接キス』って言われたくらいで焦るくせにぃ」
「っそれはお前にじゃないからだ!」
思わぬ反撃にニトロは怒鳴り返したが、次の瞬間、後ろから見てもティディアがこちらの反応に満足していると――
「ニトロのそういうところ、可愛くってお姉さん大好き」
「やかましい!」
満足、していやがったのを確信し、ニトロはトーンを一つ上げて再度怒鳴った。
ティディアの肩が大きく上下し、本来は黒紫の髪を隠した金色がまた愉快気に跳ねる。
ニトロは眉間に皺を寄せ、ぐっと口をつぐんだ。
何をどうツッコマれ罵倒されようが少しもへこたれることのないティディアには、何をどうツッコミ罵倒しどんな態度を返そうとも、結果、喜ばれてしまう。
ならば、取り得る反撃の手は一つ。沈黙しかない。
(あ、黙っちゃった)
硬く口を結ぶ渋面のニトロをバックミラーに見て、ティディアは『ニトロいじり』を止めることにした。
いくらニトロが貝のように口を閉じたところで、突付きまくっていればその内またツッコミを返してくれることは間違いない――が、しかしその『楽しみ方』は時と場所を選ぶ。ついでに言えばそれはスキンシップができる状況になければ楽しさ半減だし、この後のことも考えれば、下手に彼を突付くよりも話を変えておいた方が得策だろう。
「ニトロ」
やおら、右折帯に車を進めたティディアは、タイミング良くすぐ灯った右折用の信号に従ってハンドルを切り、大通りから目的地へ続く街道に入りながらニトロへ声をかけた。
「新作のことだけどさ」
「……。
ん?」
少しの間を置いて、ニトロは沈黙を破った。
ティディアは、ヘソを曲げていても――そして『仕事』を持ち出したこちらの意図は理解しているだろうに――しかし無視することなく応じてきたニトロに心をくすぐられて仕方がなかった。
「『承』の最後の三連ボケ、そこの最後のツッコミだけ他よりテンポ遅らせるってことでどうかしら。ウントンウントンウン・・トンみたいに」
「ん〜……」
信号に掴まり、車を停めたところで何がそんなに楽しいのか肩越しに満面の笑みを見せたティディアの提案を受け、ニトロはうなった。
作成中の漫才の新作。ティディアが考えてきた原案を二人で磨き合い、その過程で現れた『懸案』への解決策。
ニトロは相方の提案を加えた形でネタを脳裡にざっと走らせ、また眉間に皺を寄せた。
「……ぅ〜ん……」
「反対?」
「新作はスピード感が肝だろ? それだと変なブレーキがかかって『実験』の本線からずれないか?」
「でもここで一つ変化みせておかないと起承転結一本調子よ?」
信号が変わった。アクセルを踏み、ティディアは言う。
「いくらスピード感が肝でも山なし谷なしはどうかしら。このままじゃ軽量化し過ぎて完走前に大破だわ」
「それはそうだけど、だからって無理に変化つけるとお客さんが戸惑うだけだろ。『戸惑わせること』を計算に入れるってんなら分かるけど、そういう形式のネタじゃないし。それに……このネタでそのリズムは、気持ち悪い」
「ん、分かった」
そこで、ティディアはあっさりと引き下がった。相方の『ツッコミ勘』に逆らう手は彼女にはない。
「ニトロが気持ち悪いならどうせうまくいかないものね。代替案考えておく」
「ああ、俺も考えておく」
タクシーはリゴウ川を挟んである低地に賑わうシゼモの中心地からどんどん離れ、それを見下ろす丘を登っていた。長い坂道の両脇、斜面に段を作るようにしてある街並みには繁華街と比して幾分地味な店舗が並び、密度の薄くなったホテルやペンションの間にはアパートや倉庫がちらほらと見える。
ちょうど繁華の辺縁といった風情だ。
同時に、何年後かにはここも勢力を増した賑わいに取り込まれて栄えているか、あるいは流通の向きが変わり逆に寂れているか――の辺縁でもあろう。
ニトロはホテル・ウォゼットのWebサイトに記されていた地図を脳裡に浮かべた。この街道に入るために曲がった交差点、そこからホテルへは十分足らずで着くはずだ。
ニトロはポケットから携帯電話を取り出し、もうすぐ着くと芍薬へメールを入れた。
すぐに返信が来る。
(……さすがに下手は打たないか)
芍薬からのメールには『御意』の一言だけがあった。
芍薬には児童養護施設を訪ねている間にホテル・ウォゼットへ先行してもらい、部屋やホテル周辺にティディアの『仕掛け』がないかどうかを調べてもらっていたのだが、その件に関しての報告は今になっても無い。
どうやら、今回ティディアは今のところ何も企んで――いや、企んではいるのかもしれないが、『仕込み』が必要なほどの企ては用意していないらしい。それに関しては安心できそうだとニトロは胸に一つ息をつき、警戒心のメモリをわずかに減らした。
「ところで」
そして携帯電話をポケットに押し込んだ彼は、芍薬に任せてばかりでなく自分でも調べておかねばならないことがあったと思い至り、不自然な様子がないよう何気なくティディアに訊ねた。
「ヴィタさんはいつ来るんだ?」
それは、所用があると児童養護施設から王家別邸に向かった囮の
「来ないわよ」
「あれ……来ないんだ」
「ニトロはヴィタに来て欲しいの?」
「そういうわけじゃない。ただ……珍しいと思ったんだよ。こんな時に『共犯者』がいないのは。チャンス、なんだろ?」
「んー、そりゃヴィタがいた方が犯行もしやすいけど、ヴィタには大事な仕事を頼んでるから」
こちらの言葉を受けてのものとはいえティディアが平然と『犯行』と口にしたのを軽い引きつり笑いで受けつつ、ニトロは問うた。
「大事な仕事?」
「そ。別邸は今頃大宴会よ。私がいない方が皆も気が楽だしねー、だからヴィタに
言ってティディアはその光景を思い浮かべたらしくクスクスと笑ったが、彼女の『私がいない方が』というセリフに――言った本人に寂しさや痛痒といったものが全く無かったにしても――ニトロは、複雑な思いを感じていた。
ティディアの言葉は、きっと正しい。
いくら彼女の優秀な部下達が『クレイジー・プリンセス』の嗜好を十二分に理解していたとしても、また、いくら王女に無礼講を命じられたとしても完全に壁を消すことなどできはしまい。
それができる人間は先刻彼女と『プロレスごっこ』をしていたような幼子か、それともハラキリ・ジジ。それに……
(そういう意味じゃ、俺も、か)
多分、それくらいなものだろう。
ニトロは妙な方向に進んでいた思考を切り替えようと息をつき、言った。
「ヴィタさんがそっちにいくのを承諾したってことは、楽しいんだろうな」
「ええ、きっと楽しんでいるわ。なにせメンバーには酒癖面白いのが揃っていてね? キス魔、脱ぎ魔、笑い上戸に泣き上戸、芸をしだすのもいるし調子っぱずれの童謡を歌い出したら止まらないのもいる。最後には会場は凄いことになるでしょうね。絶対大笑いよ」
「そりゃまた……。でも酒癖もそれだけバラエティに富んでるんなら、下手したら喧嘩し出すのもいるんじゃないか?」
「いたとしてもヴィタがいるから大丈夫」
「ああ、それもそうか」
確かに、酔っ払って暴れ出したのが例え鍛え抜かれた大男であろうが素手ではヴィタには敵うまい。彼女は酒にも強かったから、よもや酔いで不覚を取ることもないだろう。
酔っ払った大男をグラス片手に涼しい顔でひょいと放り投げるヴィタ、その周りで酔っ払った王家の使用人達が喝采を上げている、投げられた大男は天上仰いで酔いも醒めた目をぱちくりさせて――なんて光景を想像すると、妙に笑いが込み上げて。
ニトロは思わず喉を鳴らした。
「何? どうしたの? 何を笑ってるの?」
ティディアの声はニトロが何に笑ったのかに興味津々で、そこには彼と笑いの種を共有したいという願望がありありと表れていた。
しかしニトロには『共有したい』という願望はなく、咳払いをして笑いを消すと、
「何でもない」
「え!? 何で、一人だけズルイ、教えてくれてもいいじゃない!」
面白大好きな姫君に盛大に不満をぶつけられてもニトロは答えず、これ以上追求されるのも厄介なので話題を変えようと思考を巡らせ――ふいに、思い至った。
「警備にも非番を与えたって?」
ニトロに何に笑ったのかを教えてくれる気がさらさらないと悟ってティディアは気落ちしかけていたが、急に声を張り上げた彼の様子をバックミラーに映し、そこにお手本のような仰天顔で目をむく少年を見て、何だか晴れ晴れとした心地で問い返した。
「それがどうかした?」
「どうかしたってお前、セキュリティはどうしてるんだよ。てっきりホテルの周りに警備を回してると思ってたのに……」
ティディアは軽く肩をすくめた。
「別に何も問題ないわよ、外したのはウチの担当の『身辺警護』だけだから。『外』は警察がしっかりやってくれているしね」
「何言ってんだ問題大有りだろ。どこにどんな阿呆がいるか解らないのにヴィタさんも連れず――」
「芍薬ちゃんがいるじゃない」
ニトロは、眉をひそめた。
「何だって?」
「だから、例え何かあったとしても、例えばホテルの従業員が急にテロリストになったとしても、芍薬ちゃんに守ってもらえるじゃない。ハラキリ君からごっついアンドロイドを借りているんでしょ? それならヴィタも警備もいなくても安心だわ」
ティディアは心底不安なしと言いのける。ニトロは半ば呆れ、
「芍薬に守ってもらえるって、どの口で言ってるんだよ。そんなわ―」
「そんなわけない? 私が事故に遭ったとしても、本当に暴漢に襲われたとしても」
ニトロの言葉を遮ってティディアは口早く言い、言い終わりとほぼ同時に左のウィンカーを出し、ブレーキを踏んで減速すると街道に接する小道へと入っていった。
シゼモ中心地を見下ろす丘も
周囲は郊外の閑とした趣に沈み、道に並ぶホテルや商店の間隔も広々として、とはいえ閑散としているわけではなく、ちょうど『隠れ処的』志向を持った宿場といった風情が満ちている場所。
植樹されたものであるらしい木々に挟まれた、対向車があれば何とかすれ違える程度の細い道に、ティディアはニトロへ投げかけた問いを最後に黙々と車を走らせていく。
やがて街道から少し奥まった所――『目隠し』の林が切れた先の広場に、無数のライトに照らし出されたホテルが、日の沈んだ直後の暗みと木々の陰を背景にして、三階建てのこぢんまりとしたその姿を煌々と浮かび上がらせた。
それは、奇妙な印象を与えるホテルだった。
とはいっても、それは見た目に特別奇妙なところがあるというわけではない。
かといって、建築物をライトアップする演出が珍しいわけでもない。
ただ、
否定的に捉えれば、この演出は『そうすることが効果的』だからではなく『どうしてもそうしたい!』という演出家の意志が優先されているようでもある。
今夜のベッドへの道の途中、ちょうど林と広場の境には重厚な――ホテルと調和していないと断じ切るまでにはいかないが、ライトアップ同様噛み合っていない――鉄の門があり、どういうわけか、それは閉まっていた。
照らし上げられたホテル。門の先にも続く道を照らす照明。ロータリー状になった玄関前には客を待つ人影が二つ。部屋の明かりは全て消えているが、フロントのある一階ロビーからは光が漏れている。営業中であることは間違いなさそうなのに、門扉に刻まれた天に祈りを捧げる乙女だけは行き先を硬く閉じ、来客を拒んでいる。
ティディアは車を門の前で止め、やや待ってホテル側から問いかけのないことを悟ると、カーシステムに搭載されている汎用A.I.にこちらのデータを送るよう命じた。すると応答があり、静かにゆっくりと、重厚な門扉が横にスライドを始めた。
……その間、ニトロはティディアの問いに未だ答えられずにいた。
そして、その沈黙は――つまり彼女への『肯定』そのものだった。
「お前に……」
しかし、ニトロは『助ける』という返答をティディアに与えるだけというのはどうにも癪で、憎まれ口を叩いた。
「助けなんか要らないだろう。自分勝手に生き残るさ」
「一応「断じてかよわくないからな」
反論しようとしたところへすかさず否定を被され――それも見事なまでに口にしようとしていた形容をピンポイントで潰され、ティディアは口を閉じた。
ニトロの強い語気にぶう垂れたくもなるが、反面、彼がこちらの思考を理解してくれているのだと思うと嬉しくもなる。ティディアは一呼吸を置き、彼の言葉を受け入れた上で言った。
「ま、これでもいつか、男の人に守って欲しいなー、なんて思ってるんだけど。どう?」
ニトロは変装用の眼鏡を外し、それをしまいながら気もなく答えた。
「男性の警備で身辺固めれば、それでお望み通り」
「……つれない」
「心にもない言葉に付き合う義理もないな」
「――いけずー」
ニトロの、片手間かつ明らかにわざと言葉を誤解して返してきたセリフに今度こそティディアはぶう垂れていたが、反面、やっぱり彼が自分のことを理解してくれているのだと思うと嬉しくてならなかった。
ニトロは解っているのだろうか。
本人は皮肉を返したつもりなのだろう。だが、違う。彼は正しい。『男の人に守って欲しい』というのは、そう、心にもない言葉だ。
(ふふ……)
顔はぶう垂れたまま、その裏では微笑みを浮かべ、門が開き切ったところでティディアは車を発進させた。揺り籠を揺らす手のようなアクセルワーク。背後で門が閉まりゆくのをサイドミラーに見て、彼女は不機嫌を演じていた顔を消すとニトロに言った。
「さてお客さん、着きましたよ。お支払いはキャッシュで? それともクレジットで?」
ニトロは、苦笑した。
「ちょっと驚いてるよ」
「――何が?」
タクシーはゆっくりとホテルの玄関に向かい、綺麗な芝を割る緩やかな坂道を進んでいく。このまま直進し、先のロータリーに入ればこのドライブも終了だ。
ニトロは玄関の前に立つ二つの人影を目にしながら、言った。
「こんなに真っ直ぐ連れてきてくれるとは少しも思ってなかった」
このタクシーのカーシステムは、いつでもドライバーの許可なく芍薬が支配できるように設定されている。事前に、これに乗り込む直前にも芍薬が確認を取っていたから、間違いなく。
それを踏まえた上でもティディアは『寄り道』などと称して何か仕掛けて――例えば予定外のホテルに連れ込もうとしてくるのではないか? とニトロは腹の底で疑っていたのだが……
彼のセリフにその意図を察して、ティディアも苦笑した。
「それはまた信用ないわねー」
「日頃の行いのせいだろ。胸に手を当ててみろ」
「パッドが邪魔で何も聞こえないわ」
「……お前ね」
道が平坦となり、浅い角度でUの字を描くカーブに合わせティディアの手がハンドルを切る。ホテル・ウォゼットの壁に反射したライトの光が射し込んで、車内はふっと明るくなっていた。
「ま、たまにはいいじゃない?」
ちょうど玄関の真正面に停まるよう制動をかけながら、ティディアは楽しそうに言った。
「こうやって、何事もなくのんびりドライブするのも」
パーキングシステムが作動し駆動系とタイヤにロックがかけられ、次いでドアのロックが外される。
笑顔のアンドロイドが近寄って来るのを目の端に、ニトロは金色のカツラを助手席に投げ捨て得意気な笑みを向けるティディアへ微笑みを返した。
「普通は『いつも』がこうあるべきなんじゃないかな、バカ姫」