1−12 へ

 ニトロが目を覚ましたのはそれから半日後のこと。
 彼が目覚めて一番に見たのは、ベッドの傍らでこちらを覗き込むアンドロイドの安堵の顔だった。
 されど、『異常』を嫌というほど味わった直後、加えて起き抜けのニトロの脳は情報を整理できずに混濁していた。
 なぜ自分がベッドの上にいるのか。
 アンドロイドは一体なぜそんなに労りを向けてそこにいるのか。
 そもそもここはどこなのか。
 まずアンドロイドを操作しているのは芍薬だと理解しても、他のことまでは一度では理解できず、ニトロは体を起こして周囲を見渡し、そうして目覚めた場所は簡素だがホテルのスイートルームだと察した。
「ホテル!?」
 我知らずニトロは絶望に叫んでいた。
 己が口にしたその単語に体を震わせ、そして不安げになぜこんな所にいるのかと問うマスターに、芍薬は看護用のメディカルアンドロイドの顔を目いっぱい微笑ませ、全ては無事に終わったのだと、そう言った。
 ホテルのスイートルームだとニトロが見間違えた部屋は、違う。王都の中でも有名な総合病院のVIP用の個室だと、芍薬は言った。
 ……しばらくして、芍薬が穏やかにかけてくれる声に落ち着きを取り戻したニトロは、そこで次第に状況を把握していった。
 何がどうしてこうなったのか、芍薬と話しながら思考を整える。
 『天使』を使ってからの記憶は、寝ている時に見た夢を切れ切れにぼんやり思い浮かべることはできるけどその詳細をはっきりと思い出すことはできない……といったくらい曖昧だったが、しかしその状態でも、ニトロはティディアに泣きを入れさせたことだけは何となく記憶の彼方から呼び戻すことができ――
 そして、それを思い出したニトロは、そこでようやく取り戻した平穏を胸いっぱいに享受することができた。
 それから彼は、スライレンドでの『事件』がどういう顛末に向かっているかを芍薬から聞いた。
 今回の件、ニトロはてっきり『クレイジー・プリンセスの仕業』として大騒動になっているだろうと考えていたが――

 スライレンドにはその日、異常能力者ミュータントの女――赤と青の髪を持つ『魔女』が現れたのだと語られていた。
 その魔女はその場に居合わせた『ニトロ・ポルカト』に求愛し、それを拒まれたことで怒り狂い、少年を殺そうとしたのだと。
 だが、ニトロは逃げ延びた。
 懸命に逃げ、連絡したティディアからの助けを待ち、そして王女が派遣した『特殊部隊の兵士』がニトロを救出し、その際の戦闘で傷ついた『魔女』は王立公園の森の中で流星を引き寄せ、自殺し消滅したのだと。

 ――ニトロは、芍薬の語る無理も極まる『ストーリー』に困惑した。
 聞けばティディアは自分と違い、タフなもので決着から一時間あまりで目を覚ましたという。
 ではその出来の悪いストーリーはティディアがでっち上げた『誤魔化し』なのか。それにしては出来が悪過ぎはしないか。もしやあの大バカ女今回の件で抜き差しならないほど色々悪い方向にレベルダウンしたのかとニトロが首を傾げていると、芍薬はその『ストーリー』はスライレンドの住民達が作り出していると言った。
 それはニトロには到底信じられないことだった。
 だが、芍薬はそうなのだと断言した。
 そしてハラキリの推測だけれどと、そうなった理由を教えてくれた。
 たった一つの単純明快な理由。
 あの『天使』でぶっトんだティディアが、そうなるように仕組んでいたのだと。
 確かに思えば、『婚姻届』を無理矢理書かされそうになった直前、自分とティディアを見た目撃者達は誰も「ティディア」と口にしていなかった。
 『赤と青の魔女』と呼ばれだしたその異常能力者ミュータントは『得てして掴み所のない顔』をしていたと、今まさに流れているニュースでインタビュアーに答える目撃者、またインターネットへアップされている情報はそう証言し続けているという。
 それは、ニトロにも覚えのあることだった。
 ティディアがあのカフェに現れた時、あいつはそんな顔をしていた。
 さらに証言を裏付ける『映像』も残っているという。『婚姻届』の時に操られていた車達。人もA.I.も立ち去らされた後でも動き続けていたその車載カメラには全て、目撃者達の証言通りの姿で異常な力を行使する女が映っているのだと。
 ニトロは呆れとともに理解した。
 いや、納得するしかなかった。
 何をどう考えてあのぶっトんだバカ姫がそうしたのかは知らないが、ハラキリの推論は正しいのだろうと、そう思った。
 そして芍薬は最後に、ハラキリからの伝言だとこう告げた。
そういうことにしておいてください。それが一番良い』
 と。
 それを伝える芍薬は苦々しげだった。それはそうだろう。ティディアのしたことはよほどの理由がない限り、情状酌量の余地もない。しっかりと罰を受けるべきだとニトロは思ったが……
 思ったが。
 自分が真実を語ったところで、それでも事件が結局ただの『クレイジー・プリンセスの仕業』――否、蛮行に落とされるだけなのは明白だった。そう、始め、自分がそうなっているだろうと考えていた通りに。
 何しろそれを皆に納得させるだけの『クレイジー・プリンセスの実績』がある。困ったことにこの星の皆は彼女が暴れることを半ば諦めてもいる。それどころか、むしろ楽しんでいる『ファン』までもたくさんいる。
 もちろん大問題にはなるだろう。大問題になり、短期間にティディア姫への支持が急落することはあっても、類稀な美貌とカリスマを持ち為政者としては善政をしく彼女のことだ。すぐに人気を取り戻すということも明確に予想がついた。
 そうなっては真実を語ったところで何の変化もない。
 それに真実を語れば、最悪、ハラキリがただでは済まないだろうことに思い当たってニトロはうなった。
 もしクレイジー・プリンセスの蛮行に、『天使』という神技の民の品ドワーフ・グッズまで関わっていたと公になったら。そしてそれにおいて『被害』があったとなれば。
 当然、宇宙規模の事件になる。神技の民ドワーフ関連となれば詳しい調査も入ろう。自然、それに関係したハラキリにも累は及ぶはずだ。
 ――ハラキリは、助けてくれた。
 『天使』を使用して以降、切れ切れの夢の中でもはっきり覚えていることが一つだけあった。
 それはハラキリが負けた後も再び助けに来てくれようとしたこと。
 その直後に記憶は再び深い霧の中へ消えてしまっているが、ただ彼が命を賭けていてくれたことだけは、はっきりと覚えていた。
 そこに思い至ってしまっては、ニトロにはもう真実を語れる口はなくなっていた。
 ハラキリの言う通り……そういうことにするしかなかった。
 異常能力者ミュータントの関わる事件は『決着がついた』という事実の他、詳細は曖昧のままに終わることは銀河的にも少なくない。
 確かに、事はうまく落ち着くだろう。
 それでもスライレンドに被害を及ぼしたあのバカの所業を思えばどうにも忸怩じくじたる思いが消えなかったが、その時、芍薬がニトロと同じような複雑な顔で現時点で判明している良い事実を語った。
 ――曰く、不可思議極まることにスライレンドで確認された物的被害は街路樹が一本燃えてしまったことと、王立公園の一部に被害が出たことだけ。
 そんな馬鹿な、ハラキリとの戦いは爆音が轟くほど激しかったはずだし、少なくともカフェは色々と壊れてしまっていたとニトロが言うと、芍薬は首を傾げて「直ッテルンダッテ」と言った。撫子オカシラも不思議がっていたが、戦闘で壊されたはずのアンドロイドまで完全に直されていたのだと。
 ――また、曰く、スライレンドで止まっていた約二時間の間。特に大きな事件も被害もなく、それどころかとある病院で緊急手術中に危篤状態に陥っていた患者が、その失われた二時間の内に奇跡的に回復していたそうだ。他にも小さな幸運に出会った人々が何人も何十人もインターネットのコミュニティに書き込みをしている、と。
 ――そして最後に、曰く、ニトロに命を救われたと証言する中年男性がいる。
 それを聞いたニトロは、すぐに誰がそう証言しているのかを悟った。
 ティディアにスカイモービルから落とされた際、ビルの屋上で出会った男性だ。
 彼はニュースに出ずっぱりで、ニトロ・ポルカトが語った事件のあらすじをマスメディアを通じて世界発信し、それと併せて、涙ながらに我が身こそ危機に晒されているというのにそんな時ですら自殺をしようとしていた自分を励ましてくれた、彼は素晴らしい人物だと語り続けているという。
 そして芍薬は「コレハ悪イコトカモシレナイケド」と……それを聞いたニトロもありがた迷惑だと苦笑いするしかなかったけれど、男性は『ニトロ・ポルカトは王に相応しい』とまで言っているそうだ。
 加えて、男性の証言を補強するかのように、空から落ちた直後にティディアの腕の中で見た女性二人――逃がそうとして間に合わなかった彼女らが『ニトロ・ポルカトは魔女に掴まっているのにも関わらず、自分たちを逃がそうとしてくれた』と証言している。
 『魔女』の話に説得力を持たせているのはこの三人の証言が特に大きく、それから芍薬は今度こそ「コレハ悪イコトダケド」と、そのせいで『ニトロ・ポルカト次期王への流れ』がいい感じで加速してしまっていると言った。
 ただの一般人でまだ高校生の、それも世間一般的に特に秀でているわけでもない一介の少年が、『ティディア姫』の夫――史上最凶にして最高の次期女王の伴侶となることに抵抗を見せる人々も少なからずいたのに、それを転向させてしまいかねない風向きだと。
 ニトロは打ちひしがれた。
 彼にとっては、それこそがこの事件最大の被害だった。
 だからニトロは「まさか?」と疑った。
 まさか、あの自殺をしようとしていた男性は、それこそが『ティディアの仕込み』だったのではないかと。
 ティディアがスライレンドの件を『魔女』のせいにしたのは、同時に『ニトロ・ポルカト』に英雄の要素を加えるためではなかったのかと。そしてそれを補強するために、あの自殺を考えていた男性をあの場所に用意していたのでは? と。
 ――後日、手紙が彼の手元に届くまで。

 ハラキリ・ジジが『精神的なショックのため入院中』のニトロを訪ねて来たのは、実に四日後のことだった。
 いかに助けてくれたとはいえ、少なくとも事件の当事者で原因の一つのくせして被害者を何日も放っておくなんてどういうつもりだよとニトロに文句を言われたハラキリは、いつものように飄々とした調子で「三日三晩七転八倒してました」と答えた。
 それは本当に飄々として冗談交じりにも聞こえたから、ニトロは、その言葉はきっと事後処理に忙しかったことの比喩だろうと解釈した。
 しかし実際には、ハラキリは『天使』連続使用の副作用で麻酔も効かぬ激痛のため言葉通り三日三晩七転八倒していたのだが……それを言ってはニトロが気に病むと、ハラキリは誤解をあえて引き受けることにした。
 そしてそれよりもと、ハラキリはまず話をする前に、ニトロの病室へ来る前に『聞き取り調査』のため会っていたティディアから預かってきたものを友人に渡した。
 ニトロが受け取ったものは、紙製の封書だった。
 それは――滅多に紙面に文字を書くことのなくなった昨今でも残る風習。
 心からの感謝、心の底からの謝意を伝えるための方法。
 それはいつになっても電子メールに代わることはない。人生において一通か二通、送ることがあるかどうかとも言われる『手紙』だった。
 一体誰からか、もしやティディアが詫び状でも送りつけてきたのかと思いながら封を開け、便箋に綴られた文字を見たニトロは……息がつまった。
 綴られた言葉一つ一つの重みに、胸が締め付けられた。
 所々涙で滲んだインク。
 そこには切々と切々と夫の命を救ってくれた恩人へ感謝を伝える言葉が並べられていた。手紙は、よもやティディアの『仕込み』の一つではなかったのかと疑った、屋上で出会った男性の妻からの感謝状だった。
 それを読んでは彼もティディアの仕込みだったのでは? などと疑うことは出来なかった。いや、それよりも疑っていたことを恥ずかしくも感じた。
 本当にあの日は何という一日だったのかと、ニトロは思う。
 数日が過ぎ、結局事態は『ティディア』の思惑通りに進んでいた。
 ……いや、どこまで鉄面皮の裏で考えていたのかは判らないが、現実は『ティディア』の狙い以上にうまく進んでいるのではないだろうか。
 ニュースを見ていたらストレスが堪るだけなので、芍薬に状況をまとめてもらっているが――
 時が経つにつれ話は妙な方向に発展し始め、何だか知らないが『ニトロ・ポルカト』は異常能力者ミュータントをも魅了する何かを実は持っていて、それはクレイジー・プリンセスにも対抗できる才覚、あるいは暴君と化した初代王を粛清した王子に比肩する英雄の資質なのではないかと、そう語られ出しているという。
 あの日を境に、ただでさえ『身代わりヤギさん』だの『クレイジー・プリンセス・ホールダー』だのとバカ姫対策扱いをされていたのに、それが輪をかけて酷くなってしまった。
 愚痴をこぼすニトロが「英雄なんてそれは絶対にないのに!」と断言してもハラキリは笑うしかなく、内心では少なくとも『クレイジー・プリンセス・ホールダー』であるのは紛れもない事実だと思っていたが、それを言うとニトロが泣くか怒るかしそうだったので黙っておいた。
 ニトロは不満をもらしながらも四日振りの友人の来訪に機嫌良く色々話していたが、ふいにハラキリが切り出した話題に気分を害し、それ以降は仏頂面を貫き通した。
 ハラキリが口にした内容は『天使』のこと。その効能、その詳細。
 そして――ティディアの、弁護。
 あれは本当に事故だったのだと。
 ティディアにあんなことをする意志は皆目なかったのだと。
「ニトロ君も、おかしいと思いませんでしたか? いつものおひいさんに比べて、違和感がありませんでしたか?」
 それはニトロにも……あの日のはっきりとした記憶の最後、王立公園の噴水池でティディアと対峙した際に感じた違和として覚えのあることだった。
 しかし、いくらハラキリの指摘に記憶があっても、いかに弁護を重ねられても、今回ばかりは怒りの矛を収められようもなかった。
 何しろこちらにはあのバカに迷惑かけられっぱなしの経験値がある。その経験から言える言葉もある。
「あいつはいちいち確信犯だ」
 断じて、今回の件も絶対こうなることを解ってやっていたはずだと。
 芍薬は二人の話を――助言はしてもマスターに自分の望む形に判断してもらうよう促しはしないと――何も言わずに聞いていたが、ニトロに話を振られた時には迷うことなく主と同意だと示した。
「いいえ」
 それをハラキリは頑として否定した。
「普段はそうでしょう。ですが、今回ばかりは違う」
 ティディアの弁護をしたのはハラキリだけではない。ティディアの代理で毎日様子を窺いにやってくるヴィタにも、諦め悪く同じようなことを聞かされていた。
 言い訳を重ねる執事を怒り任せに追い返すことは容易かった。
 しかしニトロはヴィタに約束した通り、それを聞くだけは聞いた。聞くだけは聞き続けた。
 だが、ニトロは、考えを変えるつもりはさらさらなかった。
 それなのに、あまりに熱心に、珍しく熱意を露骨にしてまでハラキリが――彼だって酷い目にあったはずなのに――バカ姫を弁護するものだから、とうとうニトロは根負けして思わず「証拠はあるのか」と彼に問うてしまった。
 その時、ハラキリは……流れを変える千載一遇の好機であっただろうに、そこで言葉に詰まった。
 それは初めて見るハラキリの姿だった。ティディアとはまた違うが奇妙なペースで人を丸め込む彼が、絶好の機会にそのような隙を見せる姿など。
 ややあって、ハラキリは飄々とした調子を取り戻すと、何かを割り切ったように「証拠はありません」と言った。だけど「おひいさんを信じなくてもいい、拙者の言うことを信じてはいただけませんか」と、そう訊き返してきた。
 ニトロは表では仏頂面を晒しながら、裏では苦笑していた。
 珍しく真摯な顔で無二の親友にそこまで言われては……少しだけ、考えざるを得なかった。





 スライレンドに現れた『赤と青の魔女』の事件から一週間が過ぎ、ティディアは、マスメディアからも国民からも要望強く、また騒ぎの収束を見るには避けては通れぬ会見を開くことにした。
 ――主役はティディア姫ではなく、ニトロ・ポルカト。
 事件の一番の当事者で、一番の被害者。
 彼のコメントを誰もが欲するのは当然だった。特に異常能力者ミュータントを間近に見、直に接したのは彼だけなのだから。
 これまではニトロの『精神的なショック』を理由に会見を引き延ばしてきたが、そろそろ限界だ。こちらから餌をやらねば、飢えに飢えたマスメディアがニトロにどんな迷惑をかけるかもわからない。
 ニトロは会見に応じることをヴィタの懸命の説得の末、了承してくれた。
 そして彼は今、会見場のある王城にいる。
 セキュリティのことからも今回ばかりは会場は城以外に考えられない。ニトロには断固として拒否されることを覚悟していたが、彼はそれについてはすんなり納得してくれた。
 ――但し。
 戦闘用アンドロイドに乗り込んだ芍薬とハラキリの同行を絶対条件として。
 無論、断る理由などなかった。


 王城の、ニトロが控えている部屋へつながる廊下を歩くティディアの胸は高鳴っていた。
 不安と、それ以上の喜びを抑えきれず、彼女の鼓動は奇妙な熱を帯びていた。
 ティディアはもう一週間もニトロの顔を見ていない。
 彼が入院している最中、見舞いには二度行った。
 だが、一度目――彼が目覚めた日に行った時は、芍薬に手酷く追い返された。
 二度目はハラキリが訪れる前日。芍薬の隙を見計らって部屋に入ろうとしたが、その途端に得も言われぬ恐ろしい予感を感じ、持参してきたフルーツを代わりに渡すようヴィタに頼んで自分は逃げ帰ってしまった。
 ……そう。
 逃げ帰ったのだ。自分が、このクレイジー・プリンセスが。
 その時の悪い予感は、これまでの人生で感じてきたものの中で最も強いものだった。
 どうしてそんな予感を得たのか、理由は判らない。
 しかし部屋のノブに手をかけた時、無造作に部屋に入っては取り返しのつかない怒りを買うと、心の底から得体の知れぬ震えが来たのだ。
 もしかしたら、それは――『天使』のせいで暴走していた時の記憶が魂の内側にでも刻まれていて、それが何かしらの理由でひび割れたからなのかもしれない。
(でもそんなの、全部『天使』のせいじゃない)
 ニトロが待つ部屋に向かいながら、ティディアは胸中でつぶやいていた。不機嫌に、あるいは自分に言い聞かせるように。
(私は、あんなことになるなんて思っていなかった)
 ティディアには『天使』を使った直後からの記憶がほとんどなかった。
 ヴィタに彼女が知る範囲でどういうことをしてしまっていたのかは聞いている。正直、頭を抱えた。自分の行動は限度を超えていた。手も荒い。普段なら絶対にやらない、ギリギリのラインを軽く踏み越えたことを『私』は行ってしまっていた。
 ニトロと共通の話題? そんな場合ではない。
 彼と同じ経験? そんな甘っちょろい夢想では済まない。
 そして何より恐ろしいのは、致命的な行動の数々は、ヴィタの知る範囲だけでもそれだけ行われていた――ということだ。
 執事の知らぬ部分で、自分がニトロにどんなことをし、どんなことを言ったのかは判らない。ニトロから詳しい聞き取りをしたハラキリは、どんなに頼んでもニトロが言うなと言っていたと教えてくれなかった。
 ――必死に、必死に思い出した。
 他にどんなにまずいことをしていたのか。
 霧の中の底なし沼に沈んだ記憶を必死に探した。
 しかし辛うじて思い出せたことも断片的で、結局、全体的には抽象的な記憶しか現れてくれなかった。
 寝ている時に見た夢を切れ切れにぼんやり思い浮かべることはできるけどその詳細をはっきりと思い出すことはできない……といった感じで、嬉しかったり驚いたり、何だか驚喜したり何だか悲しかったり、そして全体的には腹立たしかったり物凄く忙しかったり――その程度の感覚的な記憶しかなかった。
 それでも覚えている断片は明瞭に思い出すことができた。前後が不確かだからどうしてそうなっていたのかは判らないが……
 ある時は、ニトロとの甘い夢を彼に力任せに壊され悔しかった。
 ある時は、芍薬のことがたまらなく羨ましかった。
 ある時は、ニトロの『馬鹿力』の封じ方を知ってとてつもなく驚き凄まじく喜んだ。そう! ニトロの『馬鹿力』の封じ方! 今回の件で得た唯一にして最大の成果! これであの力は怖くない! ……きっと。そう、きっと。何でか、素晴らしい対抗手段を手に入れたというのにどうしようもなく自信がないけれど……。
 また、ある時は、身震いするくらい嬉しかった。その時の歓喜は最大で、初めて喜びで涙がこぼれそうになることがあるんだと、そう実感した。
 そしてまたある時は、死を覚悟するほど苦しかった。
 そして、その苦痛の後になると、断片的にすら覚えていることはない。
 ただ、自分を失っていた時間の最後は、甚大な恐怖と絶望で黒く黒く塗り潰されていた。
 ……あの日から、よく眠れない夜が続いている。
 その絶望と恐怖が影響しているのだろうか。
 常日頃から寝つきも寝覚めもばっちり三時間も眠れば十二分だったのに、あの日からずっと寝つきが悪く、眠りも浅いのか寝覚めもだるい。一昨日、人生で初めて目の下にクマが浮かんだ。それはいつまで経っても消えてくれず、今日もばっちり残っている。
 幸いクマはヴィタがメイクで綺麗に隠してくれているから、誰にも顔色の悪さを悟られていない。ニトロにも……綺麗な顔を見せられる。
(大丈夫、ニトロは許してくれている)
 ティディアの足はニトロのいる部屋に近づくにつれ、我知らず速度を緩めつつあった。
(あれは『天使』のせいだから)
 繰り返し胸中に言うティディアの声は、己を叱咤するかのように強められていた。
(ハラキリ君も、そう認めてくれた)
 ハラキリは、何を思ったのか、経緯はどうあれ実質『契約』を破った自分を強く咎めることはなかった。
 事件の解決のためにかかった必要経費を多少水増し請求してきて、それから聞き取り調査だと『天使』使用中の感想を正直に話させられ、あとはそこから彼が得た情報の共有を『契約不履行』を盾に断固として拒否してきたくらいで、ハラキリは「次はないですよ」と大甘な対応で手を打ってくれた。
 しかも、
(大丈夫、ニトロは優しいもの。それに話も分かるから、私がああなっちゃったことをちゃんと納得してくれている)
 ハラキリがニトロと会った後、自慢の元側仕えが作ったケーキを持っていかせたヴィタの報告によれば彼の態度が変化していたという。
 ハラキリも自分のことを弁護してくれたらしい。
 いつものように主に対する怒りを解こうとした執事を先んじて制し、「もう分かった」と、ニトロはそう言ったという。
 さすがに『許す』とまでは言わなかったが、それでも希望が見えたと報告するヴィタはほころんでいた。
(だから、平気)
 ティディアはニトロの控え室の前で足を止めた。
 何度も深呼吸をする。
(きっと大丈夫)
 彼に会えなかった一週間、ニトロと話したい話題はいくらでもあった。
 頭痛とともにスライレンドで目覚めたあの日、王城の自室で異常があったとA.I.が知らせてきた。何故かベッドが壁に激突して壊れた、と。そしてその破片が『リンゴの絵』を傷つけたと。
 その日は事態の収拾に忙殺され帰ることはできなかったが、帰って一番に見た『リンゴの絵』は、壁に投げつけられたように壊れたベッドの破片にちょうどリンゴの部分を突き破られて無残な姿を晒していた。
 ……悲しかった。
 自分でも驚くほど大きなショックを受けた。
 今はジスカルラ王立美術館の腕のいい学芸員に教えを受け、暇を見つけては少しずつ修復を行っている。だが、傷は完全には消えないだろう。
 そのことを、ニトロに話したい。
 それに昨日会ったパトネトと話をしていた時のことも話したい。
 ひょんなことからニトロが彼の父の影響で料理が得意だという話題になり、そこで意外なことにパトネトがニトロの手料理に関心を示したのだ。弟は人見知りが激しく積極的に他人と関わろうとはしないから、それは本当に意外なことだった。
 しかし、これはチャンスだった。
 パトネトの人見知りはどうにかしたいと思っていたし、未来のお義兄さんとの初顔合わせにもちょうどいい、ニトロに頼んで弁当でも作ってもらってピクニックに行こうと思う。そりゃあ直接『未来の義弟と』なんて言ったら確実に拒否されるだろう。だが、弟の人見知り克服に協力してと言ったら、彼は何だかんだで承知してくれるだろう。
 他にもニトロと話したい話題はたくさんある。
 一年前までオール3を十二連続で取り続けていた彼が、昨年度に入って成績を向上させている。去年一年間の総括では学年でも中の上、あるいは上にまで食い込みそうな勢いだ。
 特に成績が上昇したのは保健体育だった。彼の高校から取り寄せた成績表を見るととにかく運動能力が上がっていて、体を使うには体の仕組みを熟知していなければならないとでもハラキリが吹き込んだのだろう、それに伴い保健の筆記試験では学年トップにいる。
 ついで上昇しているのは語学。必須科目の全星系連星ユニオリスタ共通語。
 どうせ外星に逃げ出すことを考えているのだ。
 さりとてこちらとしても、第一王位継承者の夫として語学は習得して欲しいと思っていた。
 もちろん携帯翻訳機を使えば語学の習得は必ずしも必要ない。必須科目になっているのだって単純に常識、それとも基礎知識という意味合いが強いくらいだ。それに、自分がいれば主要な言語圏内であればどこでだって専属の通訳になってやれる。
 とはいうものの、それでも『国の代表クラスの公人』が他の全星系連星ユニオリスタ加盟国で翻訳機や通訳を使うのは恥だ。
 別に全ての加盟国の母語を覚えなければいけないわけではない。全星系連星ユニオリスタ共通語を覚えればいいだけの話だ。それなのにそれすらもできない、となると、馬鹿にされる。
 ニトロが馬鹿にされる。
 面と向かっては言われなくとも、侮蔑とともに陰口を叩かれる。
 それは許せない。だから、彼には共通語だけは習得して欲しいと思っていたから、彼の努力は大歓迎だ。
 だが、一方で数学や世界史がいつまでも平均点を抜け出していない。
 どうせ身を守るにそう必要ではないと後回しにしているのだ。
 しかしここまできたら、そこらの成績も上げて文武ともに磨き上げた男性になって欲しいと『欲』も出てくる。
 ニトロは、頑張り屋だ。それとなく『必要』を感じさせれば、きっと期待に応えてくれるだろう。
 なんだったら自分が付きっ切りで家庭教師をするのもいい。それでついでに成績優秀な保健で得た知識を女の体で実際に確かめてもらうのもいい。
 ニトロと話したい。話題は尽きることなくある。
「……よし」
 意を決し、ティディアはノブに手をかけ――ひやりと首筋を撫でた悪寒を目をつぶって振り切り、部屋に入った。

 ニトロ! ――と、声をかけようとしたティディアは、言葉を飲みこんで棒立ちとなった。
 部屋に入ってきたのは誰かと一瞥をくれた少年の眼差しが、瞬時に透明な眼差しとなり、無言で背けられる。
 ソファに座る彼は誰も入ってこなかったと完全にこちらのことを無視して、向かいのソファに座るハラキリと会話を再開した。
 ハラキリがあからさまな友人の態度に困ったように眉を垂れている。
 ニトロの傍らにいる人と全く見分けのつかぬアンドロイドは、明らかな敵意の眼差しでこちらを睨みつけている。
(…………)
 ティディアは、初めて芍薬の敵意が心地良いと思った。
 ニトロに完全に無視された衝撃に比べれば、なんと暖かい眼差しなのか。
(……)
 今は会場でスタッフの取り纏めを行っているヴィタは、ニトロが事件を『赤と青の魔女』の仕業としてコメントをすることを受け入れたと報告していた。そして、嘘をつかねばならないこと以外に関しては、機嫌が良かったと。
(ヴィタ、そんなの――とんでもない大嘘よ)
 ティディアは何だか泣きたい思いだった。
 こんなに弱い自分を知るのも初めてだ。
 『天使』に突き動かされていた時間の記憶の最後を真っ黒に塗り潰す恐怖感が、今になってまたざわざわと蠢いている。一体何があったのか。失われた記憶の中で起きたことは、この私がこんなになるほど心を打ちのめしたのか。
「ああ、そうだ」
 ふいにハラキリが、言った。
「『天使』ですが、製造中止になりましたよ」
「え、なんで?」
 ニトロが普通にハラキリへ問いを返す。ティディアの存在など、これっぽっちも気にかけていない証拠だと宣言するように。
「えーっと、ああ、ニトロ君にはまだ話してませんでしたね。
 あの『天使』を作った神技の民ドワーフは、『魔法少女』に憧れてあれを作ったそうなんです」
「脳味噌すえてんだろその神技の民ドワーフ
 ニトロの痛烈なツッコミに、ハラキリは笑った。
「手厳しいですね」
「厳しいもんか。大体、あんな変態天使がどうして『魔法少女』とつながるんだよ」
「いやほら、魔法少女って大抵パートナーを連れてるじゃないですか。『変身』することで魔法を使えるようになる、不思議な力を与えてくれる妖精みたいなものとか」
「ん〜、ああ、うん。まあ、そうかな。で、それがあの『天使』だと?」
「ええ」
「それで何で天使なのさ。そうきたら普通作るのは『妖精』だろ?」
「天使の方が格が上で強そうでしょう?」
「……それは、推測? それとも本当に?」
「本当に。直に聞きました」
 どこに住んでいるかも分からぬ神技の民ドワーフから『直に聞いた』などととんでもないことをさらりと言うハラキリだが、いや、彼ならそれは不思議でもなんでもない。
「まあ、作った本人はもっと可愛げのあるキャラクターにしたかったようですけどね。どうやってもああなってしまうから、それについては諦めたそうです」
「そんな思い通りにいかないものを売り出すなと言っとけ」
「キャラクターだけですよ。品質には……ご存知の通り効果にムラがあるとはいえ、絶対の自信を持っていましたから」
「ムラがありすぎだろう。結局、面倒なことになったじゃないか」
「ええ、それが製造中止の理由の一つ」
「あ、そうなの?」
「そうなんですよ。『魔法少女』に憧れて作った以上、『天使』には『無害かつ有益』というのが大きなファクターとしてあったそうなんです。弱き者でも悪者に対抗できる不思議な力を与える、というのが根本的なコンセプトでしたから」
 ニトロはハラキリの言葉にいくらか釈然としないようだったが、先を促した。
「しかし今回それが完璧に覆された。
 それも作成者が待ち焦がれた……まあ、少女とはちょっと違いますけどね、それでもようやく現れた『魔法少女』に相当する存在が、本来であれば倒すべき『魔女』だったというおまけ付きで」
 おかしそうに笑いながら言うハラキリが眼で扉の前に佇む女性を示したのを、ティディアは自分でも察した。友達の心遣いは嬉しかった。だが、それでもニトロはこちらを見ようともしてくれない。
「それが最大の理由ですかねぇ」
 その神技の民ドワーフの理由に対してか、それともニトロの厳しい対応にか、ため息をついてハラキリは言った。
「今回の件で何より作成者がショックを受けちゃいまして。もう作る気がしないと」
「ん?」
 ニトロは眉をひそめた。
「作る気がしない? なんか、手作りみたいな言い方だな」
「手作りですよ」
「マジで!?」
「マジで。
 専用の装置を使って、一本一本自分の目で確認しながら自分の手で愛情込めて。
 本人、いつか魔法少女が現れますようにってブツブツ言いながら作っていたそうで、知り合いの神技の民ドワーフは不気味だったって言ってました」
 『知り合いの神技の民』などとまたとんでもないことをさらりと言うハラキリは、あんぐりと口を開けたニトロの顔を見て、
「そんなわけですから。もうニトロ君が『天使』を使うことはないでしょう。ご安心を」
 それは、もうティディアが『天使』を使うこともない、そう裏側で示しているようだった。
「……本当に?」
 しかしニトロはティディアのことは無視したまま、ただ懐疑的な眼差しをハラキリに向けていた。
「ええ」
 ハラキリはうなずき、少し考えてから続けた。
「こう言えば安心されるでしょうか。『天使』の効果の不安定さに加え、その『強さの最大値』が神技の民ドワーフの予測を大幅に超えることも今回の件で判明しまして。神技の民全体としても自主的に封印。今後は『呪物ナイトメア』扱いにすることにしたそうです」
「……あのさ」
「なんでしょう。まだ不安ですか?」
「いや、もう作られないし世に出ないことは分かった。でも、な?」
「はあ」
「前から気になってたんだけど、神技の民って物凄い頭がいいんだろ?」
「ええ」
「それなのに何で『呪物ナイトメア』になるようなもの作るんだ? 自分達の作るものでそうなることくらい分かるだろ」
 ハラキリは腕を組んで、軽く肩をすくめた。
「基本的に神技の民は自分の知的好奇心や『こういうものを作りたい』という欲求に忠実です。とても忠実で、そして忠実すぎちゃってそれが呪物ナイトメアになるかどうかなんて考えてもいませんよ。中には完全な人格破綻者もいますしねぇ。そうでなきゃ、極稀にだって呪物がそこらに捨ててある、なんてこと起こるわけないでしょう?」
 やっぱりとんでもないことをさらさらと言うハラキリの『証言』に圧倒されて、ニトロは生返事に片笑みを添えるしかなかった。
「それにほら、『なんとかとカントカは紙一重』ってよく言うじゃないですか。身近にその体現者がいるわけですし」
 三度、ハラキリがドアの前で所在なげに立つティディアへニトロの意識を向けようというセリフを口にした。
 しかし、ニトロの意識は真っ直ぐハラキリに向いたまま微動だにしない。
「――!」
 ティディアの顔がかっと紅潮した。
 胸から喉へと駆け上がる激情があった。
 かつてこの身が、これほどないがしろにされ続けたことがあっただろうか!
 誰もが恐れるクレイジー・プリンセス。
 親愛の情を向けられるティディア姫。
 飴と鞭を使い分ける無敵の王女様。
 それが好意にしろ敵意にしろ、類稀なる才覚と美貌を持ち誰もがその目を素通りさせることのできないこのティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナが、かつて……
 かつてこれほどの寂寞を味わわされたことがあったか!!
 ティディアは拳を握った。
 肩を張り、体を強張らせ、頑なな友人に苦笑を向けるハラキリに視線を送り続けるニトロを睨みつけた。
 唇が震える。
 喉を引き裂いて絶叫が漏れ出しそうになる。
「っ」
 嗚咽にも似た息をこぼし、ティディアは言った。
「ごめんなさい」
 ほとんど泣き声の、その言葉に、ハラキリが目を丸くして王女を凝視した。
 ニトロの傍らのアンドロイド、芍薬まで目を見開いている。
 しかしニトロだけは振り向きもせず――
「ごめんなさい」
 今度は頭も垂れてティディアは言った。
「……ミリュウ姫には謝ったのか?」
 深々と、初めてニトロに謝ったティディアに、不機嫌な声がかかった。
 ティディアは頭を振り上げた。
 そこにはやっと、やっとこちらを見てくれている最愛の男性がいた。
「ヴィタさんから聞いた。約束破ったんだろ」
「あ……」
 ニトロのきつい口調に心揺らして、ティディアは萎縮して答えた。
「まだ、謝ってない」
「ちゃんと謝っておけよ。お前と食事するのを楽しみにしてたそうじゃないか」
「ええ」
 ティディアはうなずいた。
「ええ、ちゃんと謝っておく」
 ティディアの返答を聞いてからニトロはしばし沈黙し、やおら、ため息をついた。
「俺は……お前が、嫌いだ」
 そしてため息とともに吐き出されたニトロの感情を浴びて、ティディアは固唾を飲んだ。
「分かってるな?」
「…………ええ」
 本音ではそれは絶対に認めたくないということを明白に顔に出しながら、それでもティディアはニトロの言葉を認めた。
「ヴィタさんと、ハラキリに感謝しろよ」
 ニトロの言葉にティディアがすぐには反応できず、沈黙が降りていた部屋に小さな吐息が流れた。ハラキリが、これで自分の仕事は全部終わったとばかりに、頭の後ろで手を組んでいた。
 芍薬はため息でもつきそうな顔でティディアを見ている。マスターがそう言うのなら仕方がないといった様子で、敵意を薄めている。
「今回の件は『赤と青の魔女』のしたこと。それで許してやるよ」
 ティディアは――
 ティディアは、ニトロに駆け寄った。
 瞳を輝かせ喜びを全身で表し歓喜に叫んだ。
「仲直りね! それじゃあ仲直りのちゅーをしましょう!」
 ニトロの頬が引きつった。
「ね、ニトロ!」
「ね、じゃねえわ早速調子に乗るなこのド阿呆!!」
 今にも飛びついてきそうなティディアの額を、ソファから立ち上がり様に繰り出したニトロのチョップが華麗に打ち据える。
 その光景をハラキリと芍薬は呆れた様子で眺め――
「ああ、痛くって何か嬉しいわー!」
「何を口走ってやがんだ変態王女!」
 痛む額を押さえるティディアはその目を潤ませて、以前と変わらぬ姿で怒鳴ってくれる少年を愛しく見つめていた。



 厄介な障害は――三つある。
 一つ目は、芍薬。
 ニトロのオリジナルA.I.であり、『A.I.の鑑』というに相応しいほど忠実かつ献身的。場合によっては『犯罪行為』の独断専行も辞さぬ覚悟を持っている。
 さらに、聞けばその上、マスターのためにマスターに害なす覚悟までをも秘めているという。
 『必要とされる』……それが生きがいでありそれが存在理由であるオリジナルA.I.が、いかにどれだけ多大な信頼と愛着を寄せる主のためだとしても、主を傷つけるという最大の禁忌を振り払えるものは極めて稀だ。
 それはつまり、そのA.I.がマスターと並ならぬ絆を結んでいる証左に他ならない。
 芍薬。
 ニトロ・ポルカトの戦乙女。
 厄介極まりない第一の壁。

 二つ目の障害は、ハラキリ・ジジ。
 ニトロが親友と思う人物で、ニトロに様々なサポートを与える心強い助っ人。
 撫子、そのサポートA.I.チーム『三人官女』、車両操作に特化した韋駄天という強力なA.I.チームを持ち、加えて神技の民の品ドワーフ・グッズを幾つも保有している。自身も若い身ながら優秀。総合的に見れば軍の特殊部隊、彼個人でも非常に訓練された部隊員と同等の力を有する。
 敵に回せば行動に制限のある芍薬よりも厄介だが、しかし彼は『完全なるニトロの味方』というわけではない。基本はニトロの味方に軸を置きながらも、それは彼が彼なりの線引きでニトロの味方をしているだけで、本質的には中立の存在だ。
 そのためハラキリ・ジジは、条件さえ合えば味方にもなってくれる。
 そう、心強い味方に。
 今でも――
 彼がニトロに怒りを鎮めるよう掛け合ってくれた本当の理由は判らない。聞いても、彼は教えてくれない。
 ヴィタに聞けば彼は私のせいで酷い目にあったという。
 それでもハラキリは、自分に対して「拙者は天使についてよく知っていますから」と怒りを見せることなく、ニトロとの仲を元に戻るよう尽力してくれた。
 ハラキリ・ジジは、芍薬ほど勤勉で熱心なニトロの守護者ではない。
 しかし決して完全な『敵』としてはならないから、やはり、厄介極まりない第二の壁。

 そして、最後にして最大の障害。
 ニトロ・ポルカト。
 彼の『馬鹿力』への対策は、その根拠に不安はあれど得ることができた。得ることができたが、だからといって何の進展があるわけでもない。むしろ本当は分かりきっていたことが明確に、より前面に、激しい自己主張を持って現れただけだった。
 三つ目の障害。
 最大にして最強の障害。
 それは、ニトロ――彼自身。
 つくづく失敗したなー、と思う。
 あの『映画』のネタバラシ。そこで混乱していたニトロを勢い任せに押し切っておけば良かったと。
 そうすれば、彼が脅威の成長を遂げ、こんなにも手強い相手になることはなかった。
 ――だが、それでもいいと思う。
 いや、それでいいのだ。
 今、私は楽しい。
 ニトロ・ポルカト。
 ティディア姫の誘惑に揺らぐことなく、クレイジー・プリンセスを恐れることなく制し、『魔女』をすら退けた少年。
 障害はあればあるほど、その壁が高ければ高いほど、この胸の炎は熱く燃え上がる。相手にするに不足はない。
 私は楽しい!
 今は「嫌いだ」と言うニトロに、いつか「愛している」と言わせてみせる。
 今回ばかりは、本当にニトロの度量が広くて助かったけれど……しかし今後は今回のような失敗はしない。
 策を練り、面白おかしくニトロに愛させるよう努力する。
 いつか、絶対に、彼の口からその一言を引き出してみせる。
「……ふふ」
 一週間ぶりの安眠をむさぼるティディアの唇から、取り戻した自信に満ち溢れた吐息が漏れた。吐息を漏らした唇は笑みを刻み、幸せそうな寝息は彼女の胸を安らかに上下させている。
 ティディアは……夢を見ていた。
 広々としたダンスホール。
 祝賀に彩られたその場で、芍薬とハラキリの祝福を受けて、ニトロと手をつなぎ踊る夢を。
 ウェディングドレスにも似たドレスを翻し。
 燕尾服を着たニトロは、ぎこちなくステップを踏んで。
 幸せなダンスをする夢を。
 そして――

 目覚めたティディアは、火照りが残る胸に手を当て自嘲混じりに微笑んだ。
「随分……乙女な夢を見ちゃったわね」
 朝の光がカーテンを透いて射し込む中、照れ臭げにそうつぶやいて。

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