「驚いたな」
『ピコポットXYX』での治療も歩行ができるまでに回復したところで切り上げたハラキリは、王立公園内、戦闘地域から離れた空に停まる
車内のモニターには、車上で二体のアンドロイドが構える超高性能カメラから送られてくる人外の戦いが流れている。
一つのモニターには全体像が、一つのモニターにはクローズアップが映し出され、両者の動きが遠近ともに。
月明かりだけでもカメラはその機能をフルに稼動させて鮮明にその場を撮り込み、コンピューターに映像データを補正されたその画には、二人の一挙手一投足から髪の先の動きに至るまではっきりと映っていた。
「驚き通しです」
ピコポットに腰掛けてモニターを見つめるハラキリの横で、ヴィタの目は猫のそれのごとく丸くなっている。
モニターの中でニトロは変身を繰り返し、ティディアとおよそ互角に戦い続けていた。
「初めからこうでしたか?」
戦闘服を着直しながらハラキリがピコポットでの治療の間、見ていなかった時間のことを聞くとヴィタは首を縦に振った。
「概ね、そうです」
垂直に飛び上がったティディアが、地上へ向けて炎を吐き出した。クローズアップのモニターが一瞬にして埋め尽くされ、全体を映すモニターには火の海と化した広場が映る。
そこには、彼女が作り出した猛牛を叩きのめしているニトロがいた。
あの火を受けてはいくら彼とて堪るまい、ハラキリはそう思ったが、しかし火勢の薄れたクローズアップ・モニターには信じられない光景が浮かび上がった。
炎に包まれながらも筋肉鬼ダルマの大男は平然として、むしろ快適な様子で丸焼けた猛牛に喰らいついている。ちょうどいい焼き具合らしい。肉汁で汚らしく口の周りを汚しながら見る間に牛一頭を骨ごと食べ尽くしていき、それに比例して体の形を変えていく。
彼の頭蓋骨の一部が突起を作り出し、角となる。
彼の両手両足の先が丸みを帯び、やがて蹄へと変じていく。
彼は叫んだ。
微かに音を拾った指向性マイクが彼の叫びを伝える。「モーーーー!」と。
そして空にいるティディアに角を差し向けてニトロはコマのように回転し始めた。そのまま跳んで角で彼女を引き裂こうとするのかと思いきや、ニトロは足の蹄の硬さと丸みを利用してさらに回転速度を増していく。
やおら……彼の角の周りにまだ立ち込めている炎が巻かれ出した。
彼を中心に風が逆巻き、角が作る渦に巻き込まれるかのように周囲の炎が吸い込まれ始めた。
全体像のモニターに、見る間に炎の竜巻が現れた。
竜巻は――それは『鬼ごっこ』で逃げ回る子どものように楽しげに――空を飛び回るティディアを追い続け、ふいに、急速に勢いを失い霧散するように掻き消えた。
どうしたのかと思えば、クローズアップされるニトロは目を回して膝を突いていた。
回りすぎて気持ち悪くなったらしい。えらい勢いで吐いている。彼の口から吐き出すのは大量の水だった。水は凄まじい勢いで周囲に残る炎を消しながら蒸発していく。そして大量の水を吐き出したニトロは……
「主様……」
芍薬が乗り込んでいるアンドロイドが悲鳴のような、それともどうリアクションを取ればいいのか分からないでいるような声を上げた。
ニトロは、からっからに干からびていた。
前回見たミイラとはまた違う。細々として、何と言うか、やる気も材料もないまま作った出来損ないの藁人形という様子だ。
それがまた軽いらしい。
ニトロの吐き出した水は広場を囲む樹木を燃やす炎までは消しきれておらず、その炎が生み出す上昇気流に乗って、出来損ないの藁ニトロ人形はかさかさと空へ舞い上がっていった。
クローズアップ・モニターにティディアが入り込んでくる。
彼女はニトロがどこかに飛んでいくのは困ると思ったようで、そっとそれに手を伸ばした――その時!
干からびたニトロがティディアの腕に巻きついた。一体その体のどこにそんな力があるのか、ティディアの腕を伝い首に巻きつき、途端、彼女の顔色が真紫となる。
失神させる……というよりその絞め方、完全に殺しにかかっている。
空中でじたばたと暴れていたティディアは、やがて白目をむいて地上へ落下していった。
干からびたニトロの体の端っこが彼女の首でひらひらとスカーフのようにたなびいている。気のせいか、Vサインをしているようにも見えるが……
だが、それで敗れるようなティディアではなかった。彼女が落ちたのは度重なる炎の熱で完全に干からびた噴水池だった。
結構危険な角度で頭から落ちたが、ティディアは池に落ちるや拳を握り、それをむき出しになった池の底に叩きつけた。
びしりと池が割れ、間欠泉のように水柱が噴き上がった。
水道管が破れたにしても豪快な水柱。ティディアの助力があるのか、その凄まじい水流はティディアを飲み込み彼女の体を空へと押し上げていった。
水柱の中に大きな影が走り、それを追ってカメラが上に動く。
柱頭の崩れる中から飛び出してきたのは、大男だった。水分を適度に吸収し筋肉鬼ダルマに戻ったニトロ。それを追ってティディアが――違う、彼を狙って真珠色の鱗をまとう大蛇、否、ちっちゃな
龍は勢い凄まじくニトロの腕に食いついた。
彼の岩のごとき筋肉をがっちりと牙に捕らえ、地上へ落下しながらそれを振りほどこうと彼がぶんぶん腕を振り回しても離れず、さらに尾をニトロの丸太のような太腿に絡みつけた。
そして、その尾の形が変わり出す。先端が足となり、根元にかけて脚となり、次第にきわどいビキニをはいた女性の下半身が現れる。
なまめかしい太腿が、ニトロの丸太のような太腿に絡みついていた。
さらに龍は姿をどんどん変えていき、ついには鱗と同色のビキニをつけるティディアとなった。
両脚で太腿を挟み、両腕を腰に回して抱きつくティディアをニトロは鬱陶しそうに引き剥がそうとするが、強力な接着剤で貼り付けたかのように彼女は離れない。
いよいよ地上が迫り、ニトロはひとまず着地を決めた。
するとティディアは着地の直後ニトロの足を刈り取り押し倒し、彼に馬乗りになって上の水着を脱ごうとする。
しかしニトロは……何度も何十回も何百回も繰り返しハラキリに教えられたマウントポジションからの脱出法を繰り出し、巧みにティディアの毒牙から逃れると、立ち上がり様にティディアに蹴りを放った。
だが、ティディアはそれを
ニトロはティディアの出現場所を知っているとばかりに走った。走って、何やら透明な壁にでもぶち当たったらしく間抜けな格好で背中から倒れた。
そこにティディアが身を投げ出し覆いかぶさろうとする!
それをニトロの両足が突き上げる剣山のごとく迎撃する!
無防備な腹を強大な力で蹴り上げられたティディアは空中で制止し、苦しげに咳をした後、地上で自分を見上げているニトロに対してお叱りのポーズを取った。
「本当に、驚いた」
再びドレスを纏ったティディアが手の一振りで水勢弱まっていた水柱を消し、ついでに周囲の炎と広場を濡らした水をも消し、鼻歌を歌っているかの表情で地上に降り立つ。
肩で息をしながらティディアに対峙し、互いに歩み寄り、そして彼女と凄絶な殴り合いを開始したニトロを見つめながら、ハラキリは吐息を漏らした。
「前よりもずっと強い」
ニトロがここまでやれるとは思っていなかった。
確かに『天使』の効果は使用者の実力と無関係ではない。しかしだからといってあの『映画』からの一年、いや彼が体を鍛え始めてからはまだ一年も経っていない。その短い間でどれだけニトロが成長していたとしても、正直、ここまで明白なレベルの違いを見せられるとは思えはしなかった。
あの『映画』で見せたニトロに比べ、彼の動きは断然に速い。切れもまるで違う。
今の彼と以前の彼を比べれば、肉の付ききっていない若く未熟な虎と過酷な世界を生き抜いてきた大虎ほどの差を感じる。
「芍薬、お前のマスターは、拙者が思っていたよりも強くなっていたようだ」
突然、やけに晴れ晴れとした口調で話しかけられたアンドロイドは不思議な面持ちで振り返った。
「トレーニングの時は、まだまだだと思うことばかりだけれど……実戦向きなのかな。だとしたら、それを見抜けなかった拙者こそまだまだだった」
ハラキリはピコポットから腰を上げた。ふらついた彼を撫子の操作するメディカルアンドロイドが支える。
「ハラキリ殿?」
芍薬が、疑問の声を上げた。
撫子の操るもう一体がハラキリに二本のアンプル――『天使』を、沈黙したまま、神妙に差し出した。
ハラキリがアンプルの頭に指をかけた時、ヴィタが彼に近づこうとした。彼女は『天使』について詳しい説明を受けている。止める腹づもりなのか、それとも自分が使うと言いだすのか。それを撫子が、ヴィタの前にアンドロイドを割り入らせて止めた。
「もうもたない」
ハラキリの言葉にはっとして、芍薬とヴィタはモニターに振り返った。
――大男が、膝をついていた。
全体の映像では、ニトロがティディアに
クローズアップでは彼の頭を撫でているティディアの瞳が、欲望に潤んでいた。
ニトロはティディアの手を振り払い、一度ポージングを取って萎みかけたマッスルを再び蘇らせると一気呵成に攻撃を仕掛けた。
だが、それも先ほどまでのものからすれば弱体化著しい。
『タイムアウト』にはまだ時間があるが、『ノックアウト』には近いようだった。
「芍薬、準備は?」
ハラキリに問われ、芍薬は不安を隠さぬ声で応えた。
「完了シテイル。モウ近クニ待機サセテアルヨ」
それはヴィタが連れてきたティディア直属の兵が携行してきた戦闘用アンドロイドを、芍薬が使えるようにしているということだった。
本来なら、ニトロが負けたら、ニトロを人質にしてティディアと『対決』するようにとマスターに厳命されたための準備。「浅知恵だとは思うけど」とニトロは言っていたが、撫子が操るアンドロイドを用いても倒せない相手には、確かにそれしか考えられない最後の手段。
けしてうまくいくとは考えられないが、せめて『時間稼ぎ』にはなるであろう手段だった。
「もし拙者が加わっても駄目だったら、ニトロ君を撃て」
「!?」
芍薬は、ハラキリの言葉に眉目を釣り上げた。
「拒否!」
元々ニトロの策ですら不承不承受け入れたのだ。その上そんな……いかに以前のマスターの言うことであっても、それは受け入れられない命だった。
「撃つんだ。そして重症を負わせて『彼の策』が本気だと思い知らせろ」
「……」
しかし、口早く、されど力強くそれが正しいと意思を込めてハラキリに言われ、芍薬は反論の余地を潰されてしまった。
彼の言うことには一理ある。いや、正しい。
確かにニトロの策は、敵に『A.I.たる自分にはニトロを傷つけられない』と思われたら、そこで終わりだ。
「それでも通用するとは思えない手段なんだ。躊躇うな。躊躇わず、後は……一秒でもいい、あらゆる手段で時間を稼げ」
「……」
「できないなら、撫子に任せろ」
「……ヤルヨ」
苦渋を滲ませて芍薬は言った。
「あたしガ、ヤル。ソレハあたしノ役目ダ」
ハラキリはうなずいた。自分を支える撫子に目配せをして、それからヴィタに言う。
「ヴィタさんも、手伝ってやってください」
「……全力で」
ヴィタは大きくうなずいた。ハラキリの覚悟を悟って、彼女はそれ以上何も言えなかった。
「さて」
ハラキリは撫子の支えから離れ、
「もう一度頑張りましょうか」
彼の手の中で、小気味のいい音を立ててアンプルが折られた。
劣勢であるにも関わらず懸命に抗う大男をご機嫌に見つめながら、ティディアは彼の拳を掌で受け止め――
「ん」
ぴくんと眉を跳ね上げ、
「ん〜ん、んー?」
ティディアは、ニトロの攻撃を捌き続けながらあさっての方向に顔を向けた。
「おのれぃ!」
強敵の態度に怒声を上げ、ニトロが渾身の膝蹴りを放つ。
彼女はそれをさらりとかわすと蹴りの軸足を刈り、彼に尻餅をつかせた。
そして、追撃を入れることもなくため息をつく。
「んもう、ハラキリンたら」
「何を言っているのだ愚か者め、我がマッスルなフレンドがどこにいる!」
立ち上がり、息を整えもせずニトロが拳を繰り出す。
ティディアは指を唇に当て、静かにと言うようにふっと息を吹きかけた。
「うぬぅ!?」
その瞬間、ニトロの足が棒のごとく硬直した。最強の金縛り。体力の落ちた今では振り払うことのできない戒めだった。
「ちょっと休んでて、愛しのダーリン」
膝の屈伸がかなわず転んだニトロに、ティディアは優しく言った。
「すぐに戻ってくるから」
「どこへ行く! 貴様の相手は我が筋肉ぞ!」
「うん。ちゃんと相手してあげる。
でもね? 邪魔が入ると楽しくないじゃない? この後は一緒にシャワーを浴びて洗いっこして、それからまた気持ちよく汗を流すんだから」
ティディアはウィンクをした。疲れも見せず、何の衰えも見せず。それどころか彼女の言う、
「お楽しみは、じっくり」
その時間へ向けて艶を増しながら。
「だから今は待って。あなたの筋肉は絶対満足させてあげるから」
「ならば良し! すぐに戻って来い! お仕置きしてやるから!」
「ふふ、『お仕置き』もちょっと楽しみ。それじゃ、ちゃちゃっとハラキリン殺してくるね」
そう言うと、ティディアはえへへと笑って姿を消した。
「…………ん?」
ニトロは、首を傾げた。
ティディアを殴れ・ティディアにお仕置き・を殴れ・にお仕置き・マッスル・オ仕置キ・殴レ・殴れ殴れマッスル殴れ――
それだけで一杯だった頭に、冷水が差し込んでいた。
その分だけ、鮮明に、理性的な思考が戻ってくる。
ハラキリン殺してくるね?
それは何だ? つまり我が友、我が唯一の『戦友』、マッスルタフガイなフレンドを殺すということか。
「…………マテ」
か細く、野太い声の裏に、少年の声が混じり、彼の喉から漏れ出した。
「…………まて」
筋肉鬼ダルマの体が、震え出した。
「……待て」
殺す?
誰を?
ハラキリン ハラキリを? ハラキリ・ジジを? 彼を、大切な、親友を!?
「待て」
ティディアは言っていた。『次はないと言っておいた』と。
「――待て!」
ニトロは絶叫した。
ティディアが消えた空へ向けて、叫んだ。
「待て!」
ティディアは察知したのだ。
再び、ハラキリがやってくると。
ハラキリが、また、助けてくれようと。
ハラキリが、
自分のために!
「――――!」
ニトロの体を震わせる恐怖と怒りが、極点を突き抜けた。
突き抜けた恐怖と怒りは渦を巻いて彼の体を駆け巡り、それは彼を半ば支配している『天使』をも巻き込み、心の奥底のより深淵でしんしんと降り積もり炎を上げずに燃え続けていたモノを解放する。
「マテ、マテ、マテ!」
彼は棒になった足を引きずり、痙攣し、転げ回った。
「ママママテテテテ!」
『天使』が悲鳴を上げているのか肉体を無茶苦茶に変化させながら、奇声を発してのた打ち回った。
「マテマテテテママテマテテま!!」
そして、肉体と精神のいけないどこかでいけない何かが――
「ま゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!!!」
繋がった。
戦慄と共に、全員の視線は彼女に注がれていた。
「いい度胸じゃなぁい?」
突如モニターから消え、突如車内に現れた王女。
ティディアは、エメラルドグリーンに輝くハラキリの双眸を見つめ、それから彼がもう一つ飲もうと手にしているアンプルを目にした。
「二本も一気に? お茶目なことしようとするのね、ハラキリンってば」
ハラキリはティディアの……その身に潜む一層エネルギーを増した『力』を見つめながら、言った。
「茶目っ気でこんなことできるほど恐れ知らずではありませんよ」
「そうね、お茶目なわりに可愛くもなんともない。面白くもない」
ティディアは笑い、しかしすぐにハラキリを睨みつけた。
「ハラキリンってそんなに馬鹿だったかしら。ああ、お姉ちん失望」
「そりゃ申し訳ない」
ハラキリはアンプルを口の中に放り込んだ。開けて飲む暇はない。このまま噛み砕き――
「だぁめ」
がちんと、ハラキリの歯が空虚に鳴った。彼の口腔からアンプルが消えてしまっていた。
「させないもん」
『天使』は、ティディアの手の中にあった。彼女はそれを背後に放り捨て、絶望的な状況にもかかわらず冷静に現状打破の手を探る眼差しを消さぬハラキリから、アンドロイド――その様子を見るに芍薬と撫子が動かしているらしい二体を見、最後に側近を見やる。
アンドロイド達にも、ヴィタにも、彼女の意に反する態度が現れていた。
だが、ティディアはハラキリ以外に敵はないと言うように三人へは牽制の視線を送っただけで、すぐにハラキリへ視線を戻すと彼に向けて手を差し出し――
「……主様」
ふいに、芍薬がつぶやいた。
それは祈りの言葉だったのだろうか。マスターへ、救いを求める。
そう思ってティディアはどこか呆けた顔をしているアンドロイドを見て、眉をひそめた。
「?」
アンドロイドは一点を見つめていた。
ティディアは芍薬の視線が向かう先へ顔を向け……
息を飲んだ。
「ニト――」
いつの間に現れたのか。いや、一体どうやってここに来たのか。そこには、少年の姿に戻ったニトロ・ポルカトがいた。
ぼろぼろになった戦闘服を纏って、腕を組んで、目を細めて柔和に微笑んでいた。
がたん! と音が鳴り、何かと思うと後退したハラキリがピコポットに足を取られてよろめいていた。彼はエメラルドグリーンの双眸を丸々とさせ、口元には凄まじい引きつり笑いを浮かべている。
「主様?」
芍薬が、ティディアとハラキリの様子に釈然としないながら――それ以上にマスターがそこにいる事実にエラーを起こしそうになりながらも、彼に声をかけた。
ニトロは何も言わず芍薬にいつもの優しい笑顔を向け、再びティディアににこやかな顔を向けた。
「ひ」
ティディアが、小さな悲鳴を漏らした。
芍薬と撫子は、一体何が起こっているのかよく理解できなかった。
ニトロが……笑顔ではあるが、怒っているのは辛うじて解る。笑顔で怒る人物が怖いということも理解している。
しかし、どうして恐れているのはティディアだけではないのか。
ハラキリは引きつり笑顔のまま硬直し、ヴィタに至ってはそれこそ獣のように毛を逆立てて車内の隅に避難している。三人の視線は一人微笑む少年に固定され、三人共が、ニトロに絶大なる恐怖を感じている。
『この三人』が揃いも揃ってここまで恐れるとは……
「ニトロ」
ティディアの声は、親に叱られる子どものそれのように震えていた。
彼女に『タイムリミット』はまだ訪れていない。それなのに、暴君そのものの『力』を得ているはずの王女は、膝を震わせていた。
「あの、ニトロ?」
ニトロは何も言わず、やはりにこにこと微笑んだまま、ティディアに一歩近づいた。
「ひっ!」
ティディアが後退する。
「待って! ニトロ! お願い来ないで!」
にこにことにこにこと、ニトロはティディアに詰め寄っていった。
何も言わず、ただ微笑を浮かべたまま、細めた目の奥から瞳を真っ直ぐ彼女に向けたまま。
ティディアの背が壁に当たった。
ずいっとニトロが彼女に迫り――
「ひいいいいい!」
悲鳴を上げて、ティディアの姿が掻き消えた。それを追ってニトロもふっと消える。
車内は長く沈黙に包まれ、やおら……
「ソンナニ恐ロシイノデスカ?」
撫子が、ため息をついてピコポットに腰掛けるマスターに問いかけた。
「恐ろしいってもんじゃない」
この『眼』に見た彼の力。無色で、無形で、見えないのに見えるその『力』は底が知れなかった。ティディアの底知れなさとはまた違う、ティディアの底知れなさをすら飲み込んでしまう深奥。もしかしたら、幼い頃に何に対してかも解らないのに意味もなく感じた得体の知れぬ恐怖感が具現化したら、あのようになるのかもしれない。
ハラキリは乾いた笑みを浮かべ、安堵の息をついているヴィタを見て互いに労わるようにうなずきあい、半ば呆れも込めて言った。
「あれに追われるくらいなら、いっそ殺してもらいたい」
「ソレホド、デスカ」
性格的にも経験的にも『恐怖』というものに耐性があり、ある意味でそれに鈍感なマスターがそこまで言うのは初めてだ。撫子は『人間』だけが感じた根源的な恐怖感に興味を覚え、この場で得た情報を入念に分析しようと早速データの整理を始めた。
もう、しばらく仕事はないだろう。ひとまず命を拾ったマスターは程よく緊張を緩めている。
「ソレジャア、主様ハ?」
一方、我を取り戻したように、芍薬が慌ててハラキリに問うた。
「モウ大丈夫ナノカイ?」
それを確認できなければ決して安心などできないという芍薬の勢いに、ハラキリは乾いた笑みの上に苦味を添えた。
「ああ、大丈夫」
一つ深く息を吸い、一つ深くため息をつく。
「今はただ、お
そのセリフに、ヴィタが同意の声を上げた。
ティディアが逃げ込んだのは、王城の自室だった。
月明かりがフランス窓から差し込んで、幻想的な薄闇が部屋を染めている。
静かで、自分以外に誰もいない部屋。
あまり飾り気はなく、最も目立つ装飾品といえば壁にかかる一枚の絵だ。それは風邪をひいた時ニトロが持ってきてくれたリンゴを写真に収めておくだけでは味気なくて――そしていつかまた彼がこの部屋にやってきた時、もしかしたら感心してくれるかもと夢見て――自ら描き残しておいた油絵。
「こここここ怖かったよう……」
彼の暖かさの象徴とも言えるその赤い果実を目にし、脳天からつま先まで全身を強張らせていたティディアはほっと安息を得た。
ここなら大丈夫だ。
スライレンドからも離れているし、どこを見てもニトロはいない。きっと彼は今頃ハラキリ達とお話でもしているだろう。
「マ――――――イ」
ティディアの背筋がビン! と伸びた。
かすかに聞こえてきた声。
愛しさを超え怖ろしくて堪らない彼の声。
ティディアはきょろきょろと部屋を見渡した。部屋には、自分以外の影はない。『力』を発揮し周囲の気配を探るが、王城で働く者達以外に何も不審な者はない。
「マァァァぁぁぁあああい」
だが、聞こえる。
大きさを増して、ニトロの声が――ベッド!
「ま゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーい」
天蓋付きのベッドが水平に持ち上がり、その下からニトロが現れた!
重量挙げのごとく軽々とベッドを掲げてにこにこと微笑んで!
「ニニニニニ!?」
ティディアは驚愕した。
おかしい。解らなかった。ニトロがそこにいるなど、この『力』をもってしても!
「ま゛ーーーーーーーーーーーーーーーーーい!」
ニトロがベッドを投げつけてくる。
ティディアは、再びテレポーテーションをしてその場から逃れた。
ティディアは砂漠に降り立った。
風が作る丘の上。
粒子細かく柔らかな砂に素足が甲まで沈み込む。
広大な砂漠は見渡す限り果てしなく砂に覆われ、延々と波打ち連なる砂丘が遠近感を狂わせ、地平から天頂へ向けて昇りゆく太陽が早くも鮮烈に照らし上げる砂の色が、カラカラに乾いた青空と強烈なコントラストを生み出している。
近くにも遠くにも生物の気配はない。
耳が痛くなるほどの静寂に砂の零れる音がざらついて、それは大気を揺らめかせる熱射そのものの音にも思えた。
ニトロは、いない。
ティディアは鋭敏に感覚を研ぎ澄ませたまま立ち尽くし、百を数えた。
ニトロはいない。追って、きていない。
「ま゛ーーーい」
安心したのと同時だった。
「うきゃああ!?」
足元の砂を割って男の腕が現れ、ティディアの足首を掴んだ。
「痛ぁっ!」
一瞬で両足首を握り潰され、彼女は絶叫した。宙へ飛び上がり必死に足を掴むニトロの手を振り払い、三度空間を飛び越えた。
「うぅ……」
涙目でティディアは地表の氷を砕き、それを足首に当て患部を冷やしていた。
異常な砕け方をした骨、すり潰されたかのように破壊された細胞。くるぶしがグレープフルーツ大に腫れ上がっている。
「痛いよう」
どんな傷だろうが一息で治せるはずなのに、まだ足首に残るニトロの手の熱が邪魔しているのか『力』を集中してもなかなか治癒は進まない。
北極大陸、それを覆う大陸氷河の上。猛烈な寒気と起伏する氷原の中に独りきり、ティディアは鼻をすすり懸命に傷を癒していた。
ニトロは、まだ来ない。
きっと彼は追ってくるから、それまでに治さないといけない。
ティディアはもう彼がどこにいるかと探るのをやめていた。どうせ判らないと、理解したから。
そしてその事実は、ティディアに絶え間ない恐怖を与えていた。
どこに逃げても追いかけてくるニトロ。
どこからどう現れてくるかも判らない愛しい――そして最も怖ろしい少年。
あれは一体何なのだ。
『天使』を使っているのは分かる。だが、彼の『効果』はあの変幻自在の肉体を持つ筋肉ダルマへの『変身』ではなかったか。どんなに変化しようが結局は肉弾戦の、筋肉馬鹿。
そうだ、そのはずだ。
あんな……
あんなに怖いニトロ・ポルカトじゃない。にこにこ笑い続けていながら、実はその下に鬼すら逃げ出す形相を秘めたニトロじゃない。
一体……少し目を離した隙に一体何が起こったのだ。
彼の中で渦巻いているのは『地獄』だ。
そこから噴き上がる煉獄の炎は彼の魂を際限なく熱して、魂はその怒りに触れる者を一触れで粉砕し朽ち果たそうと煮え滾っている。
「――――」
「!?」
ふと、ティディアは、誰かに呼ばれた気がしてそちらへ勢いよく振り向いた。
ニトロがやってきたのかと思ったが、そこには誰もいない。
恐怖に空耳でも聞こえたのだろうかと足首の治癒に意識を戻すと、
「――――ィ」
「!!?」
やはり聞こえる。
振り向くと、丘のように盛り上がる氷床の向こうに白煙が立ち昇っていた。
それは……そのキラキラと舞う銀幕は――駆けるニトロに踏み砕かれ蹴り上げられる冷たき土煙!
「ま゛ぁぁぁぁぁぁい!」
「ひぃ!」
見ただけでも相当な距離を瞬く間に駆け抜け現れたニトロの怒声を浴び、ティディアの喉笛が引きつり甲高い音を立てた。
まだ足首は痛むが骨は整った。筋は腫れているが細胞は形を取り戻した。ティディアは震える肩を抱き締め中空へと体を運んだ。
そして、はっと思いついた。
どこに逃げてもニトロは追ってくる。
しかし、空なら? 足場のない空中なら。
ティディアは考えるまでもなく高度を上げた。
「ま゛ーーーーーーーーーーーい!」
氷の大地を踏み割って、ニトロが跳びかかってくる!
「わわわわわ!」
真っ直ぐにこにこと柔和な笑顔で迫り来るニトロの勢いにティディアは悲鳴を上げた。すでに50mは飛び上がっている。なのに彼は勢い失くすことなく掴みかかろうと迫ってくる!
ティディアは息をするのも忘れてさらに高度を上げた。
ニトロの手が腰に触れる寸前で止まり、さらに上空へ飛び上がっていくティディアとは逆に地上へと落下していく。
ティディアは安堵の息をついた。
思った通りだ。
ニトロは飛べない。
これならこのまま飛び続けていれば……
「ま゛ーーーーーーーーーーーぃ!」
ニトロは、飛べない。
だが、空を走ってきていた。
「ま゛ーーーーーーーーーーーい!」
左足が沈み込む前に右足を上げて、右足が落ちる前に左足を差し上げる。
そんな物理法則完全無視も極まる方法で猛然と駆け上がってきていた!
「っま゛あああああああああああああああああ!」
「っき゛ゃああああああああああああああああ!」
ティディアの悲鳴はもはや断末魔だった。
全力で高度を上げ、音速を超えてなお速度を上げて逃げる。
それでも、ニトロを振り切れない。
音の壁など何するものぞとニトロは追ってくる。
風を切り雲を突き抜けにこにこ笑って奇声を上げ腕を振り空を蹴って追ってくる。
追ってくる。
追ってくる。
追ってくる!
「きゃあ! ぎゃあ! きやあああああ!」
ティディアはしっちゃかめっちゃかに乱れる頭で考えた。
どうすればいい。このままではニトロにえらい目に会わされる。そりゃもう絶対確実に悪夢を見せられる。嫌だ。本当ならニトロと甘い夢を見るはずだったのに。きっと泣いてしまうくらい幸せな時を彼と過ごすはずだったのに。なのに、それなのに、それが悪夢に変わるなんて――
いやだ!
(そうだ!)
ティディアは混乱きたし始めた脳裡に閃いたその考えに希望を見出した。考察する間もなくそれしかないと確信し、即座にそれを実行するべく彼女はスライレンドへと瞬間移動した。
スライレンドの……ハラキリと戦った場所に。
そこではヴィタが手配したのだろう直属の兵士達が何やら作業をしていたが、ティディアは彼らがこちらに気づく前に『力』を行使し催眠にかけた。ここに居られると邪魔だからとさっさと移動させ、邪魔がなくなったところでもう一度『力』を全開にする。
ハラキリとの戦いで壊れた車、車道、アンドロイド、燃えてしまった街路樹。それら全てを渾身の『力』で修復していく。
時間を逆戻ししているように、見る間に全てが元通りになっていく。
ハラキリが鎖や槍に変えた車体もそれらを元に何もかも完璧に直す。
アスファルトを平らに均し、壊れたアンドロイドも全て綺麗に整える。
燃えてしまい炭化した街路樹を元に戻すのは骨が折れそうだが、頑張れば何とかなるだろう。
「……!」
いざ街路樹の復活に『力』を込めようとした時、ひやりとティディアの首筋に悪寒が走った。
「…………」
視界の隅で、彼が腕を組みにっこにっこ笑っている。
「あ……」
ティディアは、躊躇いがちに、そちらへ顔を向けた。
「あのね? 見て? ほら、全部直したの。そうだ、後でカフェも直しにいかなきゃ。分かってる、私ちゃんと全部直す。ちゃんと元通り。だから、ね? あの……」
ニトロは笑顔のまま何も言わない。細められた双眸は目尻に笑い皺を作り、柔和で人の良い温かな顔がそこにある。
「そうだ! 私、大サービスしちゃう! この町の皆にちょっとずつ幸運がもたらされるようにしておく! 本当よ? 本当! 皆、絶対喜ぶよ!」
いつもなら、もしそんな笑顔を見せてくれるなら、嬉しくてたまらない。だけど今は怖くてたまらない笑顔は、彼の顔に張り付いたままじっとこちらを見つめるばかり。
「だからね、あのね! だから、ニトロ。お願い。許して……あの……お願いだから……」
ニトロは何も言わない。
ティディアは浮かべた誤魔化し笑いを凍らせて、姿を消した。それから数分後、ティディアはまたこの場に戻ってきた。
ニトロは同じ場所に同じ姿勢で同じ顔のまま、佇んでいた。
「直してきた!」
ティディアは親に誉めてもらいたいと全身で訴える子どもみたいに言った。
「あのカフェも直してきたよ! あとはこの木だけ!」
ニトロが、初めて動きを見せた。
彼は、ゆっくりとうなずいた。
ティディアの目が輝いた。
「それじゃあ、これが終わったら!?」
「許す、わけないだろ」
重低音が、ニトロの笑顔の裏側から流れた。
ティディアの顔からざっと血の気が失せた。ようやくニトロが口を利いてくれたのに、その声は、彼女の肺腑を直接抉る凶器だった。
「…………ぅぅ」
膝が震える、肩が震える、お腹が痛い、寒い! ティディアはへたり込みそうになるのを懸命に堪えながら、訊いた。
「だめ?」
ニトロはうなずいた。細められた目の奥で魔獣をも食い殺す猛禽の瞳が、ぎらりと閃いた。
「お・シ・お・キ・ダ」
「っ」
ティディアは、逃げた。
「やだああああああ!」
ニトロの眼差しに鷲掴みにされ真っ白となった頭ではもう何も考えられず、彼女にできることはひたすら逃げて逃げて逃げ続けること――ただ、それだけだった。
気がつくと、ティディアは眼下にアデムメデスを見ていた。
どうやら恐怖のあまり大気圏を越え、衛星軌道上にまで飛んできていたらしい。
無意識の内にも生命維持の『力』は発揮されていた。体の周りには庇護膜が張られていて、空気も十分にある。
ふと頬を濡らす感触があって手で触れてみると、それは涙だった。
ここまで来る途中、泣き叫んでいたのか……
ティディアは両拳でぐしぐしと目を拭った。鼻水まで垂れていた。ドレスの裾を千切って
「ほら、ゴミをよこせ」
「ん……」
傍らから聞こえた優しい声に丸めた布を渡す。
鼻の奥が痛くてすんと息をし、はたと、ティディアは気づいた。
「……ニト……ロ」
太陽の光を青く照り返す美しい母星、アデムメデス。
その光を下から浴びる少年の笑顔が、すぐ横にあった。
心臓が止まったかのように硬直するティディアの肩に、ニトロの腕が回った。
「ほら、ごらん?」
恋人同士の語らいのように、ニトロが頬を寄せて言う。
「……」
ティディアは涙目でニトロの示す青い星を見つめた。
逃げられない。
肩に食い込む彼の指の力が、それをティディアに確信させていた。
「美しいだろう?」
「……うん」
「あれが、お前を殴る拳骨だ」
「……え?」
ニトロのセリフにティディアが疑問を返した時、アデムメデスは彼女の頭の上にあった。
「え?」
ティディアが自覚する間もなく、彼女の体勢はひっくり返っていた。
もちろんニトロがひっくり返したのだ。彼の手はティディアの腹の前で組まれている。その両腿は彼女の頭を挟み込み、逃げられぬようしっかりと固定している。
「……」
ごくりと、ティディアはつばを飲んだ。
知っている、この体勢。
喰らったことがある、『映画』の舞台挨拶の時に。
脳天杭打ち――パイルドライバー。
「――!」
ティディアは暴れた。
死に物狂いに脱出を試みた。
テレポーテーションで空間を渡ろうとする。だが、1mmたりとて移動することはできない。
頭を挟んで離してくれない太腿とベルトラインで組まれたニトロの手に触れハラキリを倒した術で攻撃する。だが、彼は平然として全く素晴らしく何事もない。
力ずくで、最後には原始的な腕力で拘束から逃れようとする!
だがニトロは微動だにしない!
何をどうしてもどうすることもできない!
「――馬鹿力」
そうだ。
これは、『天使』にニトロの『馬鹿力』が合わさってしまった『力』なのかも――
「馬鹿力! 馬鹿力っ! 馬鹿力馬鹿力馬鹿力馬鹿力馬鹿力馬鹿力馬鹿力!!」
そう思うや、ティディアは呪文のように唱えていた。
一心不乱に息つく間もなく唱えていた。
『馬鹿力』ならば、ニトロがそれを自覚すれば霧散するはずだ――と。
「馬鹿力!!!」
「何の戯言だ」
しかしティディアの希望は、ニトロに実に冷静に噛み砕かれた。
ティディアの瞼から玉のような涙の粒が次々と溢れ出て、母なる星の光を受け無重力の空に青い宝珠と輝いた。
「し――」
ティディアに残されたのは、もう、彼の慈悲にすがる道しかなかった。
「死んじゃう! いくらなんでもニトロ私死んじゃう! お願いやめてやめて!」
無情なるかな、彼女の懇願も虚しく二人の体はゆっくり母星へ向けて動き出していた。
ぴょんとニトロが跳ね、足を投げ出しその姿勢きっかり90度のL字型となる。
ティディアの脳天はアデムメデスを
「ひぃぃぃ!」
加速していく。
「ぃぃぃぃぃぃぃ!」
引力に引かれ、二人の体は母星へと落下し加速していく。
「ぅを゛んぱサーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!」
やがて二人は大気を貫き……
「いぃぃいぃやあああああああああああああああああああ!!」
そしてティディアの悲鳴は散る涙、あるいは星屑と――儚く、消えていった。
――その日。
スライレンドへと流れ落ちる一筋の流れ星。
アデムメデスの地上から空を見上げていた人々が美しいと眺めた流れ星。
よもや知るまいその正体。
大気圏突入式パイルドライバー。
緑を帯びて白き尾を引く瞬き光芒。
同日その日。
スライレンドの住人は一つの共通した記憶を持つこととなった。
王立公園に落ちた一つの流星。
それが落ちた時、空を貫いた光の柱。
何者かによって操られていた人々は目覚めの時、皆々揃ってその光を見上げた。
光の柱には苦しみ悶える巨大な人影。
赤と青の髪を持つ、魔女の影。
魔女に操られて眠り、あるいは不可思議な夢を見ていた全ての者達は、その光が消える時、自分達を操っていた存在の――『死』を知った。
流れ星が落ちたスライレンド王立公園に、エメラルドグリーンの瞳の少年が立った。
「これはまた……」
ハラキリはうめくしかなかった。
噴水地のある広場から少し森に入った所。
数本の木を薙ぎ倒し、そこに窪みができていた。
そしてそれを作り出した『星』は、奇妙な格好で小さなクレーターの真ん中にある。
片方は、足を伸ばして座り込むように、トランクス一丁で。
もう片方は、座り込む少年に抱かれながら逆立ちをしているように、ブラとショーツだけで。
多分、パイルドライバー後……なのだろう、この状況は。ということはあんな上空から二人はパイルドライバー状態で地表に激突したということか。
「どうか死んで、いませんよう……」
ハラキリは『眼』に力を込め、二人の様子を探った。
「――ふむ」
彼は安堵した。
正直、驚くばかりだが……通常の生命エネルギーがそこに二つ存在している。重症を負っている気配も、危篤である不安定さもない。ぴくりとも動かないのは、どうやら失神しているそれだけのためであるらしい。
思えば……人二人分の『隕石』が落ちてきたにしては、周囲の被害も少なかった。
薙ぎ倒されているのは周辺近接の数本の木々。幹が折れ、あるいは根がめくれ上がっているが、しかしその程度。
抉られた地の深さに比べれば窪んでいる範囲は半径2・3m程度と狭い。
森の中、いくら柔らかい土だからといってそれが『隕石』を受け止めるクッションになどなり切れるはずもないのに……
とはいえこの不自然、ここまできたら何も不思議な話ではないとハラキリは頭を振った。
「お
それともニトロ君が手加減したのか」
真実は定かではないが、どちらかだろう。正解がどちらなのか興味はあるが、これではきっと二人は記憶を保ってはいまい。確かめる術がないのであれば、まあ、ここは二人が生きているという結果だけで満足しておこう。
「ん?」
ふと、彼はクレーターの縁で折り重なり倒れている二つの白いものを見つけた。
近づき見るとそれは『天使』の成れの果てだった。
ティディアと、ニトロの『天使』。
それらはぴくぴくと痙攣して、力を使い果たしたと真っ白になり白目をむいて、やがて灰燼と化し風に吹かれて消えていった。
「……本当に、どういう存在なのやら」
ハラキリは軽く肩をすくめ、クレーターに足を踏み入れた。
まずはティディアのヘソの上で組まれたニトロの手を解き、ぴんと空に向かって突き立つ足を掴み引っこ抜く。
そして思わずハラキリは吹き出した。
ティディアの顔は酷い有様だった。『天使』と同じように白目をむいて泡を吹き、完全に意識がトんでいる。ハラキリは彼女をそっと横たえ、色を取り戻した黒紫の髪を汚す土を軽く払い、笑いを噛み殺して瞼を下してやった。
次にニトロを横にすると、彼もティディアと同じで白目をむいて、泡を吹く代わりに微笑み浮かべて気絶していた。ハラキリは思わず再び吹き出して、笑いを噛み潰しながら友人の瞼も下ろしてやる。
「……お
それからハラキリはティディアのブラジャーに挟まっている、小さく畳まれた紙を見つけた。
一見したところ二人は服が燃えきった他、何か大きな傷があるわけではない。天空から流星となって落下してきたというのに、髪すら焦げていない。二人の下着は所々が焦げていて、おそらく服やら何やらはともかく体だけはとにかく無事にと守ったのだろうが……それに加えて彼女が懐に守った『婚姻届』も、全くの無傷だった。
ニトロはこんなもの燃え尽きて大喝采だ。
としたら、これを守ったのはティディア。
だとしたら、二人の命を守ったのも、彼女かもしれない。
「でも、駄目ですよ」
ハラキリは――悪夢にうなされているのか顔を強張らせて眠るティディアに囁いた。そして「失礼」と断り『婚姻届』を回収する。
これは、彼女の手元にあってはいけないものだ。
「主様ハ!?」
ふいに襟元で芍薬の声が張り上げられた。こちらからの連絡の遅さに耐えかねて通信を入れてきたのだ。
ハラキリは苛立たしさを隠さぬA.I.に飄々と、書類をポケットにしまいつつ応えた。
「二人とも生きてるよ。迎え、よろしく」
「承諾!」
応答を受け、芍薬は歓喜と共に通信を切った。
念のためまずは自分が確認してくると、近場で待機させておいた
芍薬は着陸を待つ時間も惜しいと飛び降りてきた。撫子から借りたメディカルアンドロイドでクレーターに飛び込んできて、大切なマスターの傍らで両膝をつくと表情も豊かに破顔した。
「ハラキリ様」
芍薬がすぐさまニトロの検査を始めたのを横目に、ハラキリは撫子からの通信に応えた。
「どうした?」
「ネットワーク上ノ、今回ノ件ニツイテデスガ……」
撫子がインターネット上で今回の事件がどう騒がれているかを知らせてきたのに、ハラキリは促しを返した。
「『ティディア』ノ一言モアリマセン」
思わぬ報告にハラキリの眉がひそまる。
「それは……変だな。本当に?」
「牡丹ニモ調ベサセテイマスガ、ドウヤラ『
「お祭り騒ぎとは、随分緊張感がないな」
「ハイ。ナニシロ『“赤と青の魔女”が死んだ』ト、スライレンドカラ発信サレタ情報ノ全テハソウ断定シテイマスノデ」
それは俄かには信じられぬことだったが……まあ、そうなっている原因に心当たりはある。彼女が理性をまだ残していた頃に『仕込んで』いたとしたら、それは何も『変』ではない。
その上、事件後の『お祭り騒ぎ』までも始まっていることを考えれば、事件の詳細など一つも分かっていないはずの人々がそれだけ安心しきっていることが推察できる。
……よほど凄烈なインパクトとして、スライレンドの皆の意識に情報が――『魔女の死』が刻まれたのだろう。
「ふむ……」
木々の合間に着陸できるスペースを見つけて
それから、アンドロイドが『ピコポットXYX』を運んできた。それを芍薬が奪い取ってニトロの治療を始め、器具を先に使用されることにヴィタが文句を言える筋もなく、彼女がただ芍薬に頭を下げてティディアの検査もと頼んでいるのを、ハラキリは聞いてやりなと後押しした。ニトロも、きっと同じことを言うと、そう言って。
苦々しげに芍薬がティディアの状態を確かめ始める。
ハラキリは、撫子へ言った。
「それじゃあ、そういうことで動いた方が良さそうか」
「ハイ」
「分かった。
それで韋駄天は、まだ暴れ馬をなだめてるかな」
「今シガタ、スカイモービルノ異常ガ消エタト『韋駄天号』ニ戻ッテ参リマシタ。スカイモービルモコチラデ保管シテアリマス」
「それの後処理は芍薬に任せよう。とりあえず、韋駄天をこちらへ。『タイムアウト』までにはここから立ち去る」
「ハイ」
「副作用への対応もよろしく」
「御覚悟ヲ」
撫子がカシコマリマシタの代わりに返してきた言葉に、ハラキリは笑えないなと笑った。逆に撫子へ了解を返して通信を切る。
ハラキリは、そこで『一区切り』を強く実感した。
まだやることはある。
まだやらねばならぬこともある。
だが、自分の役目は、ここで一休みだ。
「まったく……大変な二時間だった」
疲れを吐息とともに吐き出して、迎えが来るまで何やら言い合っているヴィタと芍薬の仲裁でもしておこうかと、ハラキリはのん気な調子で二人の間に割り込んでいった。