1−7 へ

 ニトロの視界には、白袖に抱えられている己の膝の向こうで騒ぎ立てている二人の女性があった。
 会社帰りだろうか、それともこれから夜の街へ遊びに出ようとしているのか。一目に友達関係と分かる彼女らは、目にした当初は肝を潰した様子で言葉を失っていた。それはそうだ。人一人が空から落ちてきて、それをたった一人の女が抱きとめたとなれば誰だって驚く。
 そして彼女らは、時を追うにつれて『悲鳴』を上げ出した。
「ニトロ・ポルカト?」
「ニトロ・ポルカト!」
 同じ名を確かめ合うように言い合う二人には、有名人を前にした興奮がある。
 ニトロは、疑念を覚えた。
 女性らは自分の名を呼ぶばかりで、こいつの名を呼んでいない。
 いくら空から落ちてくるという驚きの登場をしたとしても、注目は『ニトロ・ポルカト』ではなく自然『ティディア姫』にいくはずだ。何しろ彼女は落下してきた少年を受け止めるという離れ業も見せている。それなのに、ただでさえ稀有な存在感を誇る『ティディア姫』の名が口にされないわけがない。そもそもティディアは自分より先にここにいたであろうに、まずそれについて騒ぎが起きていないことがおかしい。
 ニトロは女性らだけでなく、一度……例によって体は金縛りを受けて動かせなくなっていたが、それに抗い動こうとするよりも先に、やはり唯一自由に動いた首をぐるりと回して周囲を確かめた。
(――誰も……)
 ティディア、と、呼ぶ者はなかった。
 騒ぎは膝向こうの女性二人を震源にして波紋が広がるように急速に大きくなりつつある。それでも誰も『ティディア』と声にせず、『クレイジー・プリンセス』を恐れる気配もない。
 おかしいおかしいとニトロが思ううち、ふと、初めに騒ぎ出した女性らが近づいてきた。
 ニトロは慌てて声を張り上げた。
「駄目だ! 近づくと――」
 彼の警告は、途切れた。関係のない人間を巻き込まぬよう制止しようとする途中でもう手遅れだったことを知り、彼は声を噛み殺すように唇を噛んだ。
 好奇に満ちていた女性らの顔が、一瞬凍りつき、その後やけに既視感のある微笑を浮かべて固まってしまっていた。こちらへ踏み込まれていた足を止め、わざとらしいほどの微笑みを浮かべたまま優雅な立ち姿を作っていた。
「――皆!」
 死ぬわけではない。命の危険があるわけではない。彼女らを諦めることに後ろ髪を引かれる気持ちを断ち切り、ニトロは周囲へ叫ぼうとした。
「逃げ――」
 しかし、また。
 それ以上ニトロの口は意味を成す音を作り上げなかった。言葉尻をうなり声に変じた彼は、やおら歯をむき目の上の相貌を睨みつけた。
巻き込むな
「祝福は、多い方がいい」
「何?」
 ニトロが眉をひそめた時、男性のわめき声が聞こえてきた。首をひねってそちらを見ると、さっき『屋上』で出会った男性がビルから出てきてこちらへ駆け寄ってきていた。
 どうやら、落ちていった自分のことを心配して来てくれたらしい。
 だが彼もすぐに他の皆と同じく動きを止め、初対面の時点では考えられない微笑みを浮かべてその場で畏まった。
 ニトロは思い出した
 その微笑み、既視感があるはずだ。祝福――あの『幻覚』の中で見た祝賀の微笑が、騒いでいた女性らにも屋上にいた男性にも周囲の皆々にも張り付いている。
 ティディアが歩き出した。
 どこに行こうとしているのかと先を見ると、そこは車道だった。
「っ!」
 そして突如として鳴り響いたタイヤとアスファルトの摩擦音に、ニトロは顔をしかめた。
 車道には、通常の交通形態はすでになくなっていた。左方にも右方にも車は流れていない。代わりにそこがサーキットになったかのように、何十台もの車が急ブレーキを踏み、エンジンを吹かし、鋭くハンドルを切っている。A.I.が動かしているとしては不自然で荒っぽすぎる、しかし人間が運転しているとしたらドライバーは凄腕か、形も性能も違う車らはやがて互いのボディをかすり合わせることもなく車線に沿って整列した。
 ティディアがニトロを抱きかかえたまま車道に入る。
 そこには、『舞台』が作り出されていた。
 片側三車線、双方合わせて六車線。全ての車線を車が埋めているが、ティディアが歩を進めた場所には測られたように正方形のスペースが切り出されている。全ての車が車線の進行方向も関係なくそのスペースへフロントを向けて、煌々と輝くヘッドライトがその場を白々と照らし上げている。
 ティディアのタイトな白服は白光を上げて白銀に輝き、まるで宝石よりも美しい光の粒子を吹き付けたドレスのようだった。
 街灯、ビル明かり、ヘッドライトの光を受ける二人の影は八方へ散らばり、さながら影絵の花弁のようにアスファルトに模様を刻む。
 広場に現れた王女を囲みひざまずく鋼鉄の従者達……とでも言えば適当かもしれない車の上には、血肉を持った従者達が集まりつつあった。
 一体どれだけの範囲へ『力』を及ぼしたのか。
 ぞろぞろと現れ膨れ上がっていく人の群が、車間を埋め、車上にも立ち、車道だけでなく歩道をも埋め尽くし、ビルの中にいる者は窓に張り付いて、『舞台』の中心で影絵の花の上に在る男女へ祝福の笑顔を向けている。
 作り物だとはいえ、ここには祝福だけ、それだけがあった。
 ……あるいは、これもティディアの本心からの願望なのだろうか。『幻覚』で見せた光景を、まるきり再現してくるなど――
「さあ。持ってきて」
「はい!」
 『舞台』の中央で足を止めたティディアが呼びかけると、意志を失った群衆を掻き分けて若い女性が現れた。女性はパンツスーツの胸にバッジを付けていて、手には何やら紙製の書類のような……
「―ィッ!」
 それが何かを悟ったニトロの喉が甲高い音を立てた。
 この時世、アデムメデスではティッシュやクッキングペーパーのような日用品以外に『紙』を使う機会はそうそうない。昔は『紙媒体』と言われたメディアも今ではデータでやり取りされ、新聞や本はモニター上で見るものだ。メモ用紙とて、モニターに直に文字を書き保存できるようになってからは、さらにA.I.に伝言を頼めるようになってからは急速に廃れていった。今では文字を書くための紙は高級品で、従ってペンも値が張る。
 だから、当然『書類』というものもほとんどがデータ上のものだ。
 しかし、その中でも特別な意味を持つ書類には、未だに紙製のものがある。例えば出入国の際に身をあかし立てるパスポート、例えば出生時に身分証明情報アイデンティティを登録するための書類、例えば――結婚する時に役所に提出する書類。
 婚姻届!
「うわわわわわわ!?」
 駆け寄ってきた女性が持っていたものは、明らかに婚姻届だった。胸に輝くバッジは紋が刻まれていて、おそらくはスライレンドの役所関係者か。書類が完成したらその場で即座に提出するつもりか。ティディアは恭しく差し出されたペンを不可視の手を持って取り、女性が下敷きの上に乗せて構える書類に必要事項をさらさらと書いていく。
(ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ!!)
 ニトロの汗腺という汗腺から嫌な汗が噴き出した。
 婚姻届の完成に必要なのは、二つ。
 一つは婚姻を結ぶ両者の肉筆のサイン。
 もう一つは、両者の、大々々々昔より個人を特定するために使用されてきた――指紋。その拇印。
 その二つさえ揃えれば、後は必要事項は二人のうちどちらが書いてもいい。そしてどちらが書いてもいいその必要事項は、見る間に埋まっていく。
(――いや、いや、いや!)
 違う! まだ必要なものがあるではないか。自分はまだ十七だ。婚姻には保護者の承認がいる。そのサインが無ければ書類は完成しない!
「そんなもの、ひとっ走り行ってすぐにもらってくるわ」
 ニトロの思考を読んで、ティディアが言った。
「もらえるもんか!」
「もらえないと思う?」
「…ぅ…」
 彼は、反論することができなかった。
 ただでさえティディアに好意的な上、『映画』の経緯を聞いても怒るどころか『お姫様のプロポーズ』を喜んでいたあの両親のことだ。将来の家族が息子のサインと拇印が成された婚姻届を持ってくれば喜んでサインをしよう。例え奇跡的に拒否してくれたとしても、現在のティディアなら無理矢理書かせるに決まっている。
 承認をもらえないわけがない。
 もし自分が書類作成に『加担』してしまえば、そこで、終わりだ。
 ……畜生、このバカ女。さっきまで『愛して』と誘惑してやがったくせになぜ急にこんな法的手段を!
「『夫婦めおと』になること、思い出した」
 ティディアが、ニトロの疑念に答えた。
「……何?」
「ハラキリ君が言っていた。それで思い出した」
「聞いて、いたのか?」
 ハラキリとの会話が鮮明に蘇る。ティディアはその時――いなかった。ティディアが現れたのはその会話の後だ。
 ざっと、ニトロの顔から血の気が引いた。
「まさか……お前、ずっと俺の背後に……」
「それに、ニトロが産まれるきっかけの町で届け出るのも、運命的」
「――それも読んでいたのか!?」
 ティディアの言葉が『両親との思い出』に関わっていることに、ニトロの心胆がこの上なく寒からしめられる。それを、その思い出を思い浮かべていたのも、ティディアが現れる……前。
「いつからいやがった!」
「芍薬ちゃんと電話していた時から」
 ニトロはもう顔だけでなく、首まで青褪めていた。どれだけこいつに心を読まれたのかと思うと悔しくてならず、歯痒さと羞恥と怒りと――それ以上の怖気が身を震わせる。
「ついでに、親子二代で同じホテルで仕込むのも面白いかなって、見つけた」
「何?」
 一瞬思考が停止していて、ティディアが何のことを言っているのか解らないでいたニトロに、彼女はほらと言った。
「ぶ」
 ニトロは吹いた。ことさらビックリして、思わず唾を吹き出した。
 ティディアの目がランと光り、宙に映像を映し出していた。変態だ。解っちゃいたが堂々たる変態がここにいる!
 そして変態が映写するのは膨大なデータで……どうやらティディアは、その『力』を使いハッキングまでやってのけたらしい。それはどこかのホテルの宿泊客名簿だった。
 その中に、ニトロに見やすいようご丁寧にもハイライトされた文字列がある。
 それは確かに、ちょうど母が自分を受胎した時期として適切であろう年月日に、両親がそのホテルに泊まっていたことを示していた。
「データ管理、しっかりしてて良かった」
「良くねえ! チクショウ老舗ホテルの馬鹿!」
「もう予約も済ませた」
「それより不正アクセス自首して留置場を予約しろ!」
 懇願じみた叫びを返すニトロの心中は嵐の真っ只中にあった。恐怖と動揺が渦巻いて、吐き気まで込み上げてくる。
 ずっとこいつが傍にいたこと、それに気づかなかった、いや、気づけなかった事実が彼を潰そうとしていた。
 姿を見せず、気配すら感じさせずに追いかけてくる。こんな化物を相手にして逃げ切れるのか。いくら芍薬がいても、ハラキリが間に合ってもこんな馬鹿げた怪物をどうにかできるのか。今日こそ、とうとうこの身は、ティディアの毒牙にかかってしまうのではないか――
「……ニトロ・フォン・アデムメデス・ロディアーナ」
 狼狽するニトロをよそに淡々と事を進めていたティディアが、ふとつぶやいた。
 腕の中の愛しい人を見つめ、無表情とは齟齬を生む、はにかむような声で。
「ティディア・ポルカト?」
「どっちも御免だ!」
 ニトロは必死に体を動かそうとしていた。
 彼は絶望に侵されそうになった思考を即座に切り替えていた。
 何を弱気になっているのだ。確かにバカは化物になっている。それがどうした。逃げ切れるのかではない、逃げ切るのだ。諦めてはならない。それだけは、自分から諦めてはならない。少なくともティディアは永遠にこうではないのだ。この阿呆が正気を取り戻すまで逃げ続ければいいだけのこと。そう、それだけのことだ! そうすれば後は何とでもなる。ただ一つ、それまでに『エッチ』だろうが『婚姻届受理』だろうが『既成事実』さえ作らせなければ!
 前よりも強い金縛りが、ニトロを締め付けていた。それでも体を縛る鋼線を引き千切ろうと力を込める彼の顔は、赤く紅く染まっていった。
「そんな、赤くなるほど照れないで」
「照れてねぇ! 分かってるだろ!?」
 歯を食いしばり力を込めるが、今回はびくともしない。
「ふんぬうぅぅぅ……ぉぉお!」
 渾身に渾身の力を込めて脱出を試みるが、どうしても動かない。
(――そうだ!)
 焦燥が募る中、ニトロは閃いた。
(あの力!)
 ティディア、ヴィタ、ハラキリ。自分よりもずっと強い三人が揃って恐れる己の『力』の存在が、ニトロの脳裡に燦然と輝いた。
(あの『馬鹿力』!)
 これまで幾度もティディアの魔の手からこの身を守ってきた力。あの三人が我慢ならない『ボケ』をかました時、何度もしばき倒してきた不可思議な怪力。
 自身、それを出した時は大抵頭の中が真っ白か、そうでない時もどうもいまいち記憶がはっきりしないため、どれだけ三人に凄い・怖い・驚異的だと言われてもほとんど自覚していない。だが、とにかくそれさえ出ればどんな苦境も乗り越えられてきたという事実だけははっきり胸に刻まれている、切り札。
(それを出すんだ!)
 ニトロは魂に向けて叫んだ。
(さあ! 馬鹿力を!)
 必死に力みながら、必死に魂の奥底に――きっとそれは『幻覚』で助けてくれたあの声、あの時救ってくれた自分に向けて、ニトロは懸命に呼びかけた。
(っっっ今こそ!!)
 しかし……何も、ニトロに変化は現れなかった。
 金縛りにあったまま身じろぎ一つできず。頭は真っ白になってきたがそれは単に力みすぎて頭に血が上り、息を止めていたための酸欠も手伝ってのこと。『馬鹿力』が出る前に鼻血を噴き出しそうな血圧が眩暈を誘発し、限界に達したニトロはぶはあと息を吐き出して力尽きた。
(……なんで?)
 朦朧とする意識の中、脱力して後ろに倒れた首は顔を空に晒して、必然的に小憎らしい女の顔が視界に入ってくる。
 ぼんやりとしたニトロの脳裡に『?』が重なった。
 ティディアの無表情が、初めて大きく崩れていた。
 目を見開き、愕然としているようで、ニトロのぐらつく視界の隅では婚姻届を作成するペンの動きまで止まっている。
「……あんらよ」
 呂律も不確かに問いかけると、ティディアがうめいた。
「まさか、そんな、簡単なこと?」
 ニトロには彼女の言葉の意味がよく分からなかった。何を言っているのかニトロが問い返そうとした、その時――
「うわあ!!」
 ニトロは悲鳴を上げた。
 突然、全身に千の指に愛撫される感触が襲い掛かってきた。愛撫は無遠慮に所を構わない。体中を隙間無く、それこそ性器にも触れて快感を与えようとしてくる。
「――っ――この!」
 ニトロは激怒の眼をティディアに向けた。ティディアは愕然としていたはずの顔を無表情に戻し、目を潤ませ、唇をすぼめていた。
 パチン……
 ふいに、この場を囲む観衆の一人――屋上にいたあの中年男性が手を叩いた。
 パチ、パチ……
 それに続けて、逃がすことのできなかったあの女性二人が手を叩いた。
 パチ、パチ、パチパチパチパチ――
 次第に拍手が広がっていく。
 やがてそれは観衆全てに広がり、鳴り響く、乱れ打たれる爆音となって大気を震わせる。
 煽り立てるようにクラクションが高らかに鳴り響く。
 轟く祝音に後押しされてティディアの唇がニトロに迫っていく。
 そしてニトロの、心には――
「わあうわあああ!?」
 『幻覚』で味わった感覚が一挙に去来していた。
 柔肌を吸い付かせてくるティディア。石鹸の匂いに混じる、彼女自身の色気。ほんのりと桃色に染まる皮膚。性欲を刺激し、寂寞が興奮を高め、生殖器を痺れさせる快感、彼女と一つになれば極楽へ昇天しても味わえない快楽をと誘惑する魔女の瞳、瞳に吸い込まれようとする雄の生理。唇を受け入れれば理性が爆発するという確信――
 それら全てが奔流一斉に
 押し寄せて 一度に受け取れる許容値を遥かに超えた情報量神経細胞が悲鳴を上げている、ひび割れてしまう!
だがティディアは与えてくる
  ティディアが与えてくる
 ティディアは与えてくる 精神を壊しても構わないとばかりに
 それこそが目的だとばかりに
 ああ!         あア!
ティディア!
 眼 差しが!!
(――――)
 やがてニトロは、霞んでいく視界の中で、鼻先に迫るティディアの唇を――
「フざ……けるな」
 食いしばったニトロの歯の隙間から、憤怒が漏れ出した。
「調子に乗るな、」
 彼の体の奥底から、心を冒そうとする欲望の奔流を押し返し、灼熱の力が激流となって沸き上がる!
「このクソ痴(『馬鹿力』)―――




 ?」
 いかほどの時を、そのままでいただろうか……
 ニトロは、ぽかんと口を開けていた。
 呆けて……いた。
 魂の奥底から吹き上げてきた絶叫をそのまま放とうとした瞬間、突然頭蓋の内にティディアの声が響いた。短く、その単語が、テレパシーで直接差し込まれた。
 『馬鹿力』
 それを意識してしまった直後、体躯を突き動かそうとしていた力が霧散してしまった。
 それは自分では、ただ普通に自分の力だと思っていたのに……。
 『馬鹿力』と――自分に特別な力があると――それを自覚させられた途端その普通の力だと思っていた力が、初めからそこに無かったかのように掻き消えてしまった。
 自分の、自分自身のただの力が。
 それこそ、水を飲むためにコップを持ち上げる……それくらいの感覚が、当たり前の感覚が――刹那の間に、ゼロとなってしまった。
 これまでに体験したことのない、得体の知れない気持ち悪さだけを残して……
 ふと額に触れるものがあって、ニトロははっと我を取り戻した。
「こんなに簡単なことだったなんて」
 唇にではなく額に口づけをしてきたティディアが、微笑んでいた。
 無表情ばかり見ていたから、悔しいことにそれがとても美しく見える。
 だが、ニトロは、その美しさにかつてない恐怖を感じていた。
 致命的な情報をティディアに与えてしまった
 それを理解し打ち震えていた。
「さあ」
 ティディアは無表情に戻り、もはや機械のそれにも思える瞳を婚姻届に戻した。
「婚姻届、完成させましょう」
 冷たさを増しながらひたすら燃え上がる情熱が彼女の中にたぎっていた。表情も瞳も感情を削げ落としているというのに声音だけは感情一杯のまま、とても上機嫌に素晴らしく恍惚としてティディアは言う。
「完成させて、提出したら、エッチしましょう」
 ニトロは、総毛立った。
「いっぱい愛してね」
「……待て」
「いっぱい、大好きだから」
「待て」
「ああ、やっと、やっと、ニトロが手に入る」
「待て!」
 彼の声を掻き消すように、観衆から拍手が沸き起こった。歓声が轟く。おめでとうと、幸せにと、皆が口々に叫んでいる。結婚パレードの予行演習だとでもいうのか。ティディアが操るこの喝采全ては、無意味で空虚な騒音でしかないというのに。
「ティディア! 待て!」
「嫌」
 容赦のない否定だった。
 ティディアはニトロの膝を抱える右腕を抜いた。ニトロの膝裏には不可視の腕が代わりに差し込まれ、ティディアに片手で『お姫様抱っこ』をされている奇妙なポーズとなる。
 同時に、観衆の声がぴたりと止んだ。これから行われる神聖な儀式を邪魔しないと、そう言うように。
「これは愛の力の勝利」
 すっと立てられたティディアの人差し指の腹に一筋の傷が生まれた。流れ出した血を親指に擦りつけ、彼女はそれを婚姻届の自分の名をサインした横に押し付けた。
「譲れない」
「何が愛だ『天使の力』の間違いだろうが!」
 怒声を上げるニトロの右腕が持ち上がった。いや、持ち上げられた。ティディアの不可視の手は懸命に抵抗する彼の拳をあっさりと開かせ、その親指に彼女が己の血を擦りつける。
「やめ――!」
 ニトロの拇印が、婚姻届に成された。
 書類の空欄は残すところ二つ。
 保護者の署名欄と、今しがた拇印の押された横……『ニトロ・ポルカト』と署名する欄。
 その一枚の紙の、その小さな空欄に名を記せば、人生が決まる。
 記してしまえば、後はもうこの名が変わる瞬間を待つことしかできない。
 公に名乗る姓は、フォン・アデムメデス・ロディアーナと記されている。
 ニトロの目に涙が滲んだ。
「さあ、ニトロ。サインを」
 ティディアが歓喜の声を上げる。スライレンドの役所のバッジを付けた女性が、ペンを差し出してくる。
 ニトロの右手はそれを素直に受け取った
「 ティディア!!!」
 ニトロは叫んだ。力と激情のあらん限りを込めて、叫んだ。
 そして――
「これが本当にあなたの望むことですか?」
 その叫びを受け継ぐように、どこか捉え所のない語調が場に現れた。
 ニトロが、ティディアが振り向く。
 相容れることのない希望の眼差しと失望の視線が一点で交わる。
 そこには、『幻覚』と同じように自分達を取り囲む人の間を割り歩み寄ってくる黒衣の男、
「ねえ? おひいさん」
 ハラキリ・ジジがいた。

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