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「これは参った」
 スライレンドへく駆ける韋駄天の中、スカイモービルとの通信を切る直前にヴィタから送られてきた『報告』に素早く目を通したハラキリは、腕を組んでうめいた。
「悪イ報セダッタカ」
 スピーカーを揺らすA.I.に、そのマスターは眉を曇らせてうなずき、心底面倒そうに言った。
「おひいさんはこれまで『天使』が使用されてきた中で、間違いなく、最強だ」
 新たにヴィタが提供してきた『報告』は、施設で人間が幻覚などにやられている間にも正常に動いていたA.I.達が収集したティディアの『力』の情報を分析した結果だった。
 それは対超能力アンチ・サイオニクスシステムの効果がなかった原因は不明にしながらも、一方で嫌味なほど自信たっぷりに、現在の彼女は『変身したニトロ』と同等かそれ以上であることを示唆していた。
「正直、本当に不思議だ。ニトロ君てば何で未だに手篭めにされてないんだろう」
 ともすれば他人事のような調子で首を傾げるハラキリに、
「ソノセリフ、外デハソノヨウニ口ニ出サレテハナリマセンヨ」
 背後からたしなめの声がかかった。後部座席にうずたかく折り重ねて積まれている子どもサイズのアンドロイドの一体が、ひょいと軽やかに助手席にやってくる。
「モシ芍薬ニ聞カレタラ、絶交サレマス。ニトロ様ニハ痛ク殴ラレマス」
「ん?
 ああ、そうだね。気をつける」
 撫子が操作するアンドロイドにハラキリは決まり悪そうに言った。
 アンドロイドは助手席に腰を下ろした。通信が来る前よりも緊張を――絶望的に友人を案じる気負いを――解いたマスターを横目に見、それから少しの間を置いて、言う。
「デスガ、確カニ不思議デス」
「ああ」
 ハラキリは神妙な顔でうなずいた。
 ニトロが未だに手篭めにされていないことを疑問に思うのは、紛れもない本音だ。『天使』は使用者の理性が薄れた場合、『目的』を達成することを最優先に動く――それが紛れもない事実であるために。
 ……しかし、ニトロは無事だ。
 『変身したニトロ』並、あるいはそれ以上の力を有したティディアに狙われながら彼は無事なのだ。
 先ほどティディアは言っていた。ニトロに憎まれるぞと忠告されても『それでも止められない』と。そして『それでも止められない』と彼女が言うのであれば、なおさらニトロが無事であることが不可思議でならない。
 いかに『馬鹿力』という奇怪な怪力を発揮するニトロ相手でも、今のティディアならその身に備わる『力』を用いあらゆる手段を講じれば彼を強姦することくらい何も難しいことではないだろう。
 ――いや、簡単なことだ。人を操る力があるのなら、それを使いニトロを脅迫すればいい。この人間がどうなってもいいのか、と。お人好しの彼を封じるにはそれで十分だ。
 普段の彼女にもそれをする力はあるが、それをしないのは普段の彼女に理性があるからのこと。例えばそれをしてはニトロの憎悪を買ってしまう、それが分かっているからのこと。
 だが、今は『目的』達成が彼女の行動原理の全てだ。
 理性など関係ない。
 それなのに……
 ティディア自身『それでも止められない、この気持ち』と言っているのに、彼は――
「――もしや、おひいさんが彼女自身を止めている?」
 思わず、その『思いつき』がハラキリの口をついて出た。
「ドウイウコトダ?」
 問うてきたのは韋駄天だった。
 ハラキリは口にしたそれをただの思いつきで終わらせてはならない気がした。あるいは何か『糸口』が掴めるかもしれない。そう考え、思索を深めながら答えた。
「…………お姫さんは、実に理性的だ」
 ハラキリの脳裡には、ニトロだけではなく、自分と芍薬とも会話をするティディアの姿があった。
「完全に理性的、ではないけど、少なくともあれだけの力を『天使』から与えられた者としては破格だ」
 ハラキリはこれまで最強だと思っていた『ニトロ』の姿を思い浮かべた。変幻自在に肉体を変化させる彼の力は相当なものだったが、しかし理性的というにはほど遠い。普段の彼からすれば考えられないノリと言動で、ひたすら『目的』達成を目指していた。
 それに比べれば、ティディアは素晴らしく冷静だ。
 一部だけ切り取れば普段と変わらぬノリで会話ができる。受け答えもしっかりしている。その上、『目的』には直接関係のない話題で自分とやり取りをし、わざわざ芍薬を安心させてまでいた。どちらも彼女の『目的』とは関係ないだろうに。
「だから、ひょっとしたら、おひいさんには『目的』が二つ、理性がトんだ彼女のものと理性的な彼女のものとが同時に存在している可能性も……うん、考えられる」
「二ツノ『目的』――ソレモ相反スルモノガ、デスカ?」
 興味深げに撫子が言う。
「そう。一つは『ニトロに愛される』こと、これは間違いない。
 そして、その目的を達するためにニトロ君を強引に求めている。それをすれば憎まれると理解しながら、『それでも止められない』と」
 ハラキリの語気が強まる。そこには、初めはただの思いつきであったものが仮説へ昇華していく熱があった。
「おひいさんは拙者にニトロ君に憎まれるぞと言われて、それでもと返してきたんだ。『目的』が内包する自己矛盾を『解って』いながら『それでも』と。
 そう言うからには、それと相反する気持ちが確かにあるんだろう。なら、それは止めたいという気持ちになるはずだ。ニトロ君に強引に、というより限度を超えて襲いかかろうとする自分を止めたい……止めたい、じゃ弱いか」
 そこでハラキリは一つ区切った。
「そうだな、ニトロ君に憎まれたくないことも含めて、強大な力を得た自分から『ニトロを守らねばならない』ってところか。それが、もう一つ。あの状態で自己矛盾――相反する目的を同時に持つなんて、普通なら考えられないことだけど……」
「アノ状態デ『実に理性的』デアル時点デ、普通、ジャアネェナ」
 韋駄天に肯定の目を返し、ハラキリは一つ息を挟んだ。
「まあ、多少おひいさんを好意的に解釈し過ぎている気もするけどね。だけど、これだと不思議だと思うことにつじつまが合うだろう? ニトロ君が性的に迫られても未だ無事なのは、一番強い『目的』に向けて突っ走るお姫さんをそれよりちょっと弱いお姫さん自身が手綱を必死に引いて『手加減』させているからだ……としたら、筋に無理もない」
「無理ハアリマセンガ……ティディア様ノ精神力ガトンデモナク強イコトガ前提ニナリマス」
 そう指摘した撫子にハラキリはうなずきを返した。
「確かに。
 でも、どう思う?」
「可能性トシテ、アリ得ル、ト」
 撫子の答えにマスターへの『気遣い』はない。
 ハラキリは再びうなずき、そして、ふいに息を止めた。
「……」
 A.I.達と言葉を交わしながらまとめていた『仮説』。その最後に現れたものに自ずと戦慄し、我知らず頬が笑みを刻む。
 苦笑いにもならない、笑うしかないという空虚な笑み。
 考察の最後に現れたものはまた厄介な、かつ、まったくもって目を背けることのできない最悪の可能性だった。
 撫子と韋駄天が顔色を変えたマスターの言葉を待っているのを自覚しながら、ハラキリは大きく息を吸った。
「それで、実際、もしこの『仮説』が当たっているとしたら……もし『理性のおひいさん』が手綱を引いているのだとしたら、その体力が限界を迎えたらどうなるだろう」
 現在の状態で『手加減されている』としたら、『手加減なし』の状態は?
 人間より遥かに高速な思考回路を持つ撫子と韋駄天は、しかし解答を出すことなくハラキリに沈黙を返した。何より、答えずともマスター自身が誰よりも先にそれを理解している。
 フロントガラスの向こうでは、郊外の暗がり広がる中に初め小さく現れたスライレンドの町明かりが、見る間に視界を埋める面積を増やしていた。
「勝チ目ハアルノカ?」
 韋駄天が率直に問うた。
「『仮説』が正しいにしろ正しくないにしろ、『力』に胡坐あぐらをかいて侮ってくれるならありがたいね」
「威勢ヨク啖呵切ッチマッタナァ」
「失敗だった。謙虚に『お相手させていただきます』くらいにしておくんだった」
 苦笑するハラキリに、助手席のアンドロイドがそっと口を挟んだ。
「説得ヲサレタライカガデスカ? 『仮説』ガ正シケレバ、ティディア様ノ助力ヲ得ラレル可能性モアリマショウ」
「それはさっき通用しなかっただろ? それに拙者の説得がニトロ君の言葉に勝るとも思えない。『仮説』が正しいなら……本来ニトロ君の拒絶が一番『理性のおひいさん』を強めるはずだ、と考えられる。それで駄目なんだから」
「ニトロ様ノオ言葉ダカラコソ、ティディア様ニ届カナイトモ考エラレマス」
「――理性側まで『嫌よ嫌よ』が楽しくて?」
「ハイ」
「それじゃあまりにガキだ」
「ティディア様ハニトロ様ニ対シテ、甘エ放題ノ子ドモデス」
 ハラキリは笑った。撫子の評を聞いたらあの姫様はどんな顔をするだろう。むすっと頬を膨らませるか、それとも感心するだろうか。
「まあ……そうだな。また試してみよう。説得で済むならそれが最高だ」
 そうすれば尻拭いも楽になると柔和に笑い、それから唇を引き結ぶ。ハラキリはスライレンドに入ったことを報せるアラームを耳にして、面持ちに鋭さを加えた。
「撫子」
「ハイ」
「さっきの会話、おひいさんの言葉を内容、推察される心理、各種項目ごとに細かく『オ百合ユリ』に分類させておいて。後でニトロ君とヴィタさん、本人からも詳しく話を聞いて深く分析し直す」
「カシコマリマシタ」
「それと、聞いた通りお姫さんは心が読める」
「ハイ」
作戦プランは白紙。臨機応変に行動・連係を。状況によっては拙者を巻き込んでもいい
「カシコマリマシタ」
 躊躇なく了解を返してきたA.I.は終始落ち着いている。ハラキリは一つうなずいてから、
「韋駄天、芍薬は?」
「――スカイモービルガ制御不能ニ陥ッテイル。墜落ヲ避ケルノニ手一杯ダ」
「拙者らを降ろしたら、代わってやってくれ」
「了解」
 韋駄天は速度を落とし、高度を下げ始めている。
 ハラキリは助手席の下に置いていたアタッシュケースを撫子から受け取り、その中から一本のアンプルを取り出した。
「……さて」
 アンプルの中で揺れる蛍光緑ネオングリーンの輝きに瞳を照らし、気を引き締めて一つ息をつく。
「頑張りますか」

「ぅぅぅぅいぃぃぃ……」
 あっと思う間もなく宙に放り投げられ、あっという間に恐ろしい距離を落下したニトロは、空中で仰向けに横たわる己の体を抱いて震えていた。
 永遠とも思える――実際は5秒にも満たなかっただろうが――長い時間を過ごした後、急に落下速度を緩めた体を、本当はすでに『終点』まで落下し自分は死んでしまっているのではないかと思いながら。
「っ、ぃひよおおぉぉぉぉ」
 だが、どうやら生きている。
 自由落下が終わったとはいえこの身は緩慢に、宙を這うカタツムリほどの速度で下降している。嘘か真か死後魂は空へ昇るというから、てことはきっと死んでいない。
 それに何より、体を抱く腕に伝わる己の熱が命の火が消えていないことを教えてくれた。
 硬い地面の代わりにこの身を受け止めた……どうせティディアの力なのだろうが、透明な真綿に包まれているような感触の中で、恐怖に凍結した筋肉がゆっくりと弛緩していき、それに従って脈打つ心臓が再び頭皮の頂点から足の指先まで血を巡らせていく熱が『生』を実感させてくれている。
「おおおおおおお」
 ニトロは、震え続けていた。涙を浮かべてうめき続けていた。
 超高所からの自由落下を経験したのはこれが初めてではないが、過去のそれは『命綱』があってのこと。心構えもあったし、こんな、不意打ちで、しかも――
「うぎゃあ!」
「おうわ!?」
 突如として鼓膜を殴りつけてきた悲鳴にニトロの体が伸び上がる。何事かと声のした下方へ振り向くと、ニトロの双眸にスーツ姿の中年男性が飛び込んできた。
 その男性はニトロから数m離れた位置にあるビルの縁に立っていた。心底たまげた様子で空中に浮かぶ少年を見上げ、驚いた拍子にぶつかったのか背後のフェンスに体を押し付けおののいている。
(ん?)
 ちょうど父と同じくらいの年齢だろうか。ニトロは中年男性が不自然な場所に立っていることに気がつき、眉根を寄せた。
「…………ニ、ニト……ニト……?」
 ゆっくり、非常にゆっくり地上へ落ちている少年をまじまじと見つめ、どうやらその正体を察したらしい。苦しく喘ぐように少年の名前を呼ぼうとしている彼は、ここらの中では最も高いビル、その屋上に作られた緑地を囲む安全フェンスの外にいた。
(んん?)
 やけに身なりを綺麗に整えて、それは一日仕事をしてきたという風でなく。光乏しくよく見えないので断定はできないが、男の顔は疲労ではなく心労に染まっているようだ。
 ――投身自殺。
 ふと、その単語がニトロの脳裡に去来して――
「だだだだ駄目だ!」
 思わず、ニトロは叫んでいた。
 慌てて姿勢を変えようとして、何とか宙に立つ体勢にはなれたけど男性に駆け寄ることはできないと悟るやつんのめるように体を乗り出し、
「身投げなんて良くない! 人生色々あるだろうけどやっぱり命あっての物種だし、ほら、怖いよ!? 落下するって本っっ当に怖いよ!?」
 ああ、今日は何という日だ。『天使』を使っておかしくなったティディアに襲われるだけでなく、こんな場面に出くわすとは!
「もうモンンの凄い怖いんだから落ちてる時! それに痛い! 絶対痛い! ほら下を見てみなよアスファルトじゃない! 硬いじゃない? あれにまたスンゴい速度で容赦なく激突するんだよ!? 想像してご覧よ、ほうら痛くないわけがない! ってああああ何かまた恐怖が蘇ってきたーーーーー!!」
 目茶苦茶な手振りをまじえて何やらわめき散らしていたかと思うと、自分のセリフで自ら恐ろしくなったと悲鳴を上げる。
 少年のその様子に、彼が慌てふためいているものだから逆に落ち着きを取り戻した中年男性はふと投げかけられた言葉を反芻し……するとカッとなって叫んだ。
「放っておいてくれ!」
 有名な少年――この国の第一王位継承者の恋人として夢も希望も地位も名誉も何もかも輝かしい未来を約束された幸せな若者に、自殺を思い留まるよう説得されている。それを理解した彼はほとんど反射的に叫んでいた。
「お前に何が分かる!」
「何も分かるかボケぇ!」
 落下の恐怖が蘇り恐慌状態に陥っていたニトロも反射的に叫び返した。
「それならお前には何が分かる!」
 男性は面食らってぽかんと口を開けた。まさかの罵倒じみた反論を受け、瞠目してニトロを凝視する。
 宙を怠惰に落ちていく少年は力一杯眉目を釣り上げ、戦慄わなないていた。
「友達と遊んでたんだ、楽しかったんだ、カフェでのんびりしてたんだ、楽しかったんだ、そしたらいきなり『エッチして』だの『愛して』だの抜かすぶっトんだ女が現れて!
 カフェを丸ごと一つ眠らせた!
 空に逃げても追いかけてきて!
 『エッチして』だの『愛して』だの抜かしやがるクソ女に『面白くない』って放り捨てられた! 当然自由落下だ、当たり前だ、空で放り捨てられたらフリーフォールだよ、スライレンドの空から町へと一直線だ!
 そして今あんたとこうして初めまして!
 〜〜〜っ! どうしてだ!? 一体何がどうしてこうなった!?」
 悲壮だった。
 今やこのアデムメデスで最も名が知れ渡る高校生、ニトロ・ポルカトの口から溢れ出す激流は、何というかもう悲惨だった。
 それを、彼の父ほどの年齢の男性は、ただ聞いていることしかできなかった。ただただ圧倒され、背にするフェンスを擦ってへたり込み、何も返せず息を飲んでいた。
「分かるならどうか教えてくれ!!」
 叫び、荒げた息に肩を上下させながら、ニトロははたと気がついた。
 何を自分は口走っているのだ?
 自殺をしようという人間にこう強い言葉をかけていいものか。
 いや、きっと良くない。
(――しまった)
 ニトロは己が犯した失態に内心舌を打ち、感情をぶつけてしまったことはもう仕方がない、何とかフォローをかけようとまとまりを欠く頭で必死に考えた。
 さて、どうする。こういう場面に出くわしたことはないし、本格的にカウンセリングを勉強したわけでもない。むしろカウンセリングを受けた方がいいような生活を送ってはいるが、幸い優しいA.I.と多少いい加減だが頼りになる親友が話し相手になってくれているからその世話になったことはない。
 そうなると参考になりそうなのはドラマやら雑誌の人生相談コーナーやらニュースのドキュメンタリーやらで見た聞きかじりの情報しかないが……
「……えーっと……」
 ニトロは間を持たせようとうなった。男性はフェンスにもたれて座り込んだまま動こうとしない。
(……っ、駄目だ)
 いい言葉が思いつかない。そもそもこんな状況で的確な言葉を選べという注文が無茶だ畜生。
「言い過ぎました」
 とにかく、ニトロは言った。もうビルにいる男性の位置と高低差はない。それでも男性が座り込んでいるため見下ろす格好になってしまうから、見下みくだしている風にはならぬようにと正面から眼差しを向ける。
「俺、あなたがどうしてここにいるのか分かりません」
 先ほどとは違う、静かな声。歳不相応に落ち着いた空気を纏い、少年が真っ直ぐ向けてくる真摯な瞳を、男性は魅入られたように見つめていた。
「あなたのことは全く知らないし、どういう言葉をかければいいのかも分かりません」
 彼の口調は誠実さに満ちている。普段は王女とドツキ漫才をしているニトロ・ポルカト。私生活は王女をツッコミ倒している激しい姿とはほど遠く、真面目で温厚だという話が真実だと理解できる。
「でも、」
 ニトロは懸命に言葉を探すうち、男性の背後に、スライレンドの皆が作り上げている風景の最も綺麗な一面を見た。胸に、言葉が浮かんだ。それが意味のあるセリフになるのか判らなかったが、ニトロは口を継いだ。
「あなたの後ろに花が咲いていることは分かります」
 男性はニトロに促されるように背後を振り返り、はっと、今初めてその花壇に気がついたというような素振りを見せた。
 花壇には、彩り豊かな春の花が咲き乱れている。花々は夜の闇に美を削られようともそれに負けじと美しさを誇っている。
「とりあえず花でも見ながら、ウイスキートディでも飲んでみたらいかがですか? 父が好きなんですが、美味しいそうですし」
 そう言いながらも、ニトロは本当にこれでいいのかと自問していた。
 男性は花壇を見つめている。自分からは影になり、その表情はよく見えない。やがて男性がゆっくりこちらへ向き直る。
「…………」
 振り向いた男性の顔を見た途端、なぜか、ニトロはもう彼は大丈夫だと思った。少なくとも今日はここから身を投げることはない。根拠はないが、確かにそう確信できた。
 そして、
「あ――」
 男性が何かを言いかけた時――
「あ!?」
 ニトロはまた、体が落下を始めたことを知った。
 風景が急変し、男性の姿が消えた。ビルの壁面が視界を埋める、階ごとの窓の境界が凄まじい勢いで下から現れ上へと消えていく。
 ニトロは悲鳴を上げながら、いつぞ来る地面との激突に備えて……無駄だと判っていながらも身を固めた。
 直後!
「偉いわ」
 ふぅわりと羽根布団の中に落ちたような感触と共に、聞き慣れた華やかな声がニトロの頭を撫でた。
「また、惚れ直した」
「……お前に」
 ニトロは、状況を理解しようとするまでもなく、理解した。
「惚れ直されても嬉かねえよ」
 ようやく地上に辿り着いた。
 ちょうど『お姫様抱っこ』の形で、ティディアの腕の中に納まって。

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