大凶

(「現在」は『友達』のちょっと後)

 タンスの角に小指をぶつけた人を見たい。
 ティディアは思った。
 タンスの角に小指をぶつけた人を見たい――
 シチュエーションは無限にあるが、それはひとまず何でもいい。
 何はともあれ重要なのはタンスの角に小指をぶつけて痛がることである。
 悲鳴は素っ頓狂なものがいい。端的に痛みを伝えるものであればなおよろしい。ギャッとかイタッとかオーソドックスなものも魅力だが、やはりそこにはオリジナリティが欲しい。未だこの世に現れたことのない悲鳴であれば最高だ。そこまで求めるのは厳しいにしても、ならば独特の発声が伴えば妥協できる。
 そして、全ては滑稽でなければならない。
 であればそれは骨折するほどであってはならない。
 あくまで、適度に、ある程度の痛みは持続したとしても、それは短い時間で治まるものでなくてはならない。でなければ間抜けではなく負傷者を観ることになる。それはタンスの角に小指をぶつけて痛がる人を観るのとは別物である。滑稽と悲惨は紙一重。度が過ぎれば即座に笑えぬものとなってしまう。
 そしてまた、それは身近な痛みでなければならない。
 身近であるからこそ共感を呼び、この世で最も平等な同情を以って認められ、タンスの角に小指をぶつけた人が時に痛みを誤魔化すために笑い出すのごとく、観る者もまた笑うことによってその痛みへの共感と同情とを希薄化させられる。そうして希薄化された物事には真空に空気の流れ込むがごとく滑稽のエキスが流れ込み、その量が多ければ多いほど、それはより笑えるものとなるのである。
 マジオ・ベクサー・ロドジャイン伯爵は、ハーラ・オドジェン・クリスエイ侯爵夫人の催したパーティーに招待された一人で、そこに『秘密のゲスト』として現れたティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナの手を取ることを許された幸運な一人であった。
 成人を目前にした王女は誰よりも美しく、白い肌は自ら光を放っているようであり、大きくあらわとなった両肩から胸の谷間にかけては貞潔な処女神ですら誘惑されるであろう香りが漂う。その吐息は天上に吹く風、一息浴びる度に寿命が一年延びるに違いない。
 ダンスを終えた時、ベクサー・ロドジャイン伯爵はその場に膝を突いた。たった一曲踊っただけであったのにその額には大粒の汗が浮き、息も荒れていた。疲労のあまり? それとも光栄の極致に興奮して? 彼は白い手袋に包まれた少女の手を離すことは死を意味すると感じているように、青い顔で、衆目の中、微笑を浮かべる姫君に向かって言った。
「ティディア様の命とあらば、先祖伝来の名誉とこの心臓に燃える忠義に誓い、例えそれがどのような難題だとしても必ず成し遂げてご覧にいれましょう。もしこの誓言を破ることがあれば、どうかお気の召すままに罰をお与えの上、この両耳も削ぎ落とされて下さいませ」
 というわけで、ティディアは早速ベクサー・ロドジャイン伯爵に命令した。
「タンスの角に小指をぶつけなさい」
「――は?」
 至極当然な疑問符だった。
 オドジェン・クリスエイ侯爵夫人の応接室サロンに、王女に名指しで呼ばれたとあって文字通りすっ飛んで来た伯爵は、齢37になって初めて聞く語の並びを全く解読できずに立ち竦んでいた。
 いや、伯爵だけではない。応接室にいる全ての者が――侯爵夫人が、その娘二人が、その長女の婚約者である子爵が、その次女が思いを寄せる実業家が、その実業家が狙いを定める公爵夫人の姪が、その姪が憧れる公爵夫人の次女の幼馴染が、その次女の幼馴染が今にもエプロンの紐が解けそうだと心配している使用人が、その使用人が密かに恋慕する男爵が――そこにいる全ての人間がひどく呆気に取られていた。
「二度言わせるの?」
 そこにいるのは、もはや優雅にダンスに興じていたティディア姫ではなかった。一体何が彼女の気分を変えたのだ? そこにいるのは、ああ! クレイジー・プリンセス!
 その瞬間、一同の脳は命令の意味を解し、行動に出た。
 夫人の号令によって大きなタンスが――侯爵家に代々伝わる古くて重くて豪華な木製のタンスが運び込まれる。運んできたのは応接室にいた、伯爵を除く男達である。ダンスホールや書斎、喫煙室シガールームにいた人々は風よりも早く広まった噂を聞き、危険に巻き込まれるのを恐れて息を潜める。
 応接室の中央に、金とクリスタルの煌くシャンデリアの光を受けて、大きなタンスが高貴な伝統を受け継ぐ世界の中心とばかりに鎮座し、その傍らに、タキシード姿の伯爵はポツンと佇んでいた。
 彼は随分老け込んだように見えた。
 王女は優雅な一人がけのソファに座り、大胆に足を組み、肘掛に片肘を乗せて頬杖を突き、光を受ければ黒紫に透く黒曜石のような双眸でそれをひたと見据えている。
 やがて伯爵は、ほとんど意思喪失した人間がそれでもドアを開けるような緩慢さで、右足の靴を脱いだ。
 彼はもう自分のすべきことを理解していた。
 だが彼は何故そのようなことをしなくてはならないのか、そしてどのように行わなければならないのかは理解できず、混乱していた。
 タンスを小指にぶつけるにしても、ただぶつければ良いのか? それをこの偉大なロディアーナ朝の輝かしい未来を担う王太子殿下がご所望なさるのか? それでクレイジー・プリンセスにご満悦頂けるというのか!?
 汗が滴り落ちていた。
 ダンスを終えた時よりもなお大粒の汗を額に浮かべ、彼は息を荒げていた。
 タンスの角を見る。
 その木目の美しさは何ということか。年代物のマホガニーのタンス、焦げる直前で火から上げられたカラメル色に艶めくタンス、おお、それは固いだろう、とても重いだろう。それに今から足の小指――いや? 姫君は小指としか言わなかった。それは手の小指のことを示しているのではないか? もしそうであるのに足の小指をぶつければ私は大きな誤りを犯してしまうのではないか? 伯爵は混乱していた。
 はー、はー、と伯爵の息の音だけが応接室に繰り返される。その肩だけが上下して、他の者は微動だにせず彼を見つめている。
 やがて、ティディアが、かすかに瞳を動かした。
 退屈そうに。
「!」
 その瞬間、マジオ・ベクサー・ロドジャイン伯爵はカッと目を見開いた。
「エイ! エーイ! エエエエイ!」
 三段階に気合いを入れて、彼は右足を引き、その小指を思い切りタンスの角に打ちつける!
 ゴ!
 鈍く大きな音! うっすら骨の悲鳴も聞こえたのではないか!?
 それを見ていた者達は思わず肩をすくめた。
 すると伯爵は拳を天にかざし、雄叫びを上げた。
「ッオォォォオーーーーーーーーーーーーッ!!」
 それは激痛を散らし、己が使命の達成を天に誇る咆哮であった。
 そして沈黙が訪れる。
 そして、拍手が巻き起こる。
 スタンディングオベーションである。
 それは伯爵の勇気と行為を賞賛する声なき歓声であった。
 その中で、万雷の拍手もかくやというその音の中で、
「はぁ」
 と、とても小さくて、しかし小さいというにはあまりに大きすぎる嘆きが応接室にこぼれた。
 ぴたりと拍手が停止する。
 一同は、一人座す王女を凝視した。
 そのタンスの傍らで伯爵は立ち竦んでいた。真っ白な顔で、全身の痛覚を失ったように呆然として、一度二度と首を振る王女をじっと見つめていた。
「ダメな男」
 この世の終わりを目前にしたとしても聞けるとは思えぬ失望を耳にして、伯爵は、泡を吹いて気絶した。

「それ以来、嗚呼、もう三年が経ったのですね」
 ハーラ・オドジェン・クリスエイ侯爵夫人の応接室で、マジオ・ベクサー・ロドジャイン伯爵は感慨深げに目を上向かせた。
「あの時は――正直に申し上げることをお許し下さい――生きた心地が致しませんでした。偉大なる姫君、ティディア様たってのご期待に応え得ず、私は王国を裏切った不忠者として処罰されることを覚悟したのです。しかしティディア様は寛大にも私をお赦しになり、手厚い治療まで受けさせてくださいました、はい、幸いに骨は大して折れておらず。私に頑丈な骨を授けてくれた神と母に幾度感謝したことでしょう。我が家の祖、だいベクサー・ロドジャイは大岩の下敷きになっても生還したと伝えられております。お恥ずかしながら私はそのことをただの伝説と軽んじておりました。しかしその時、ああ、ティディア様のご用命はそれが事実であったことを子孫の身を以って証明してくださったのです」
 その言葉を聞くのは、無論、ティディアである。
 彼女は確かにあの時座っていた一人がけのソファに座り、応接室の中央で跪くベクサー・ロドジャイ伯爵を共に囲むのは、やはりあの時とほぼ同じ顔触れである。違うのはその中の二人が不在であることと、新たに二人、あの場にいなかった者が加わっていること。
 ここにいない一人はオドジェン・クリスエイ侯爵夫人の長女であり、それに代わったのはその娘である。今年三歳になる子どもはとても大人しく祖母の膝の上に座っていた。長女ははおやは出産を間近に控えているため、寝室にいる。
 もう一人は事業の失敗の明るみに出る直前に逐電した実業家。それに代わるのは、壁の花。氏素性と伝統が一面に根を張った花園に連れこまれたその野の花は、当初こそ温室に密生する生育条件の違う植物に揉まれていたが、落ち着きを取り戻した今は自然体ながらも葉を巻き閉じるように腕を組み、応接室の隅で、この和やかな空間を飾っている。
 そう、和やかである。
 ちょっと和やか過ぎやしないかとティディアは思う。
 伯爵の思い出話を、あの時は気絶した伯爵を前に戦慄していた皆が、今は朗らかに笑いながら聞いている。それはまるでどんな大嵐に遭ったとしても時が過ぎればその時の苦難を笑い合えるものだと確認しあっているかのように――同時にあの時、泡を吹いて崩れ落ちた伯爵を見た王女が一転して微笑を浮かべているのを確認するや皆々追従するように彼に嘲笑を抱いたことを思い出さぬように。
 その中で、もちろんティディアも笑っていた。否、笑わざるをえなかった。
「あの日以来、私は考えたのです。かの哲学者フェリオントレスもかくやとばかりに壷の中にこもって多くの時間を思惟に費やしたのです。
 そして、とうとう答えを得ました。
 そう、あの時、現代の賢者たるティディア様は乱れた倫理を憂う我々の白熱した脳を休ませ、また新たに活動させるための時間を、とお考えだったのだと。あの懐かしい古きよき時代に宮廷に道化が置かれていたように、あるいは貴族われわれ自ら演じた寸劇を行うように。勿体無くも我々をお気遣いくださっていたのです。
 あれは滑稽でなければなりませんでした。
 笑えねばならなりませんでした。
 有言実行を期す私の雄々しさなどは出過ぎた真似でございました。姫様に大言を弄して忠誠を誓いながらそのようなことにも気づかぬこの愚かな私にそれを気づかせてくださいましたのは、恐れながらその名を上げさせていただきます、ロディアーナ朝始まって以来並ぶことなき美の化身、美徳の顕現、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ王太子殿下の真心を一身にお受けになる、神がこの世界をお創りになった黎明以来の果報者、もしその場所をお譲りいただけるのならば千の死と万の地獄巡りも辞さぬ覚悟でございますが――そう、勇敢なるニトロ・ポルカト様なのです!」
 感に堪えぬといったように伯爵は頬を赤く染め、涙の浮かんだ熱い視線をそちらに投げかける。壁の花は困惑したのかあるいは何か言葉を飲みこんだのか、ひどく調子っぱずれに揺れた。しかしすぐに体勢を立て直して丁寧にその花軸を垂れると、伯爵は「嗚呼」とため息をついて大粒の涙を床に落とす。もらい泣きするのは一同である。侯爵夫人の涙を不思議そうに孫娘が見つめている。その顔が歪みそうになり、祖母は慌ててそのかわいらしい耳に唇を寄せた。悲しいのではないと言い聞かせているのだろう。幼児はおしゃまに大人びてうなずくと、ふと気になったらしい祖母の首にかかる国教会のしるしをもてあそび始めた。微笑ましい光景だ。ティディアはその愛らしい子どもを見て何とか心を和ませる。
 応接室の中心で跪く伯爵の傍らには、あのタンスがあった。
 人々の間には三年の月日を感じさせる変化があるのに――見た目のみならず、例えば今日まで侯爵夫人は伯爵との政治的協力関係を“失念”していたり、ついでに伯爵はいくつもの地位ポストを失っていたり、夫人の次女は資産家の老人と結婚していたり、やけに綺麗になった使用人が次女の幼馴染の弱みを握っていたり、侯爵夫人の姪と男爵が駆け落ちに失敗した挙句に本来なら(あの時を再現するためでなければ決して)この屋敷に出入りできない状態になっていた等様々に変化があるのに、そのタンスだけは精神的にも存在としても完璧にあの時のまま、そこに鎮座していた。
「さあ、昔話はこれまでに致します。少々話しすぎましたこと、伏してお詫び申し上げます。ティディア様、私は貴女様の神のごとく広い御心に、この面にはこうして笑顔を浮かべさせておりますが、胸の裏では滂沱ぼうだの涙を流しております」
 伯爵は立ち上がり、右の靴を脱いだ。
「先祖伝来の家名を捨てても手に入れたかったこの機会――汚名返上の機会を賜りましたことは必ず我が家の末にもお伝えいたします。さあ、ご覧下さい。幾人ものコメディアンに教えを乞い、必ずや姫様にご満足頂けると確信する芸を得て参りました」
 それをティディアが拒否することなどできただろうか?
 王女の頷きを見た伯爵はそのまま気絶するのではないかというほど狂喜し、それを鎮めるように息をすると、パッと身構えた。
 腕を組み、ため息一つ。額に手を当て、ため息一つ。古典的にして典型的な恋に悩む男のジェスチャーから入り、己の未来を占うようにたなごころを眺めるとそのままタンスに向けて歩き出す。歩幅を調整することもなく、ついにその右足は踏み出された。見事、小指がタンスの角に熱烈なキスをする。
「オホッ!?」
 くぐもった悲鳴を上げて伯爵はのけぞった。左足一本でよろめき、右手を痛めた右足に向けてさまよわせる。苦渋に満ちてギュッと皺の寄る顎、わずかに白目を向いて鼻の穴は広げられ、左手は助けを求めて虚しく宙を掻く。全身が小刻みに震えている。
 伯爵がタンスの角に足の小指をぶつけた時、応接室の一同はあの時と同じように思わず肩をすくめた。
 しかし次の瞬間湧き起こったのは拍手ではなく、笑い声であった。
 最大の見せ場をやり抜いて、伯爵は痛みを戯画化して苦しんで魅せている。
 最も笑っているのは女児である。慈悲も無慈悲も知らぬその無邪気な笑顔に皆がまた引き寄せられて笑い声を上げる。
 ティディアも笑った。
 笑うしかなかった。
 笑い声の中、壁の花がただ一人、雪辱を果たした伯爵に祝福の笑顔を贈りながら、一方そのひたすら冷やかな瞳で――色々ツッコミ所も満載だったはずの時間を共にする間ずっと沈黙を守り――ただ見つめている。冷たく私を見下ろしている!
 ティディアは笑うしかない。
 この後、彼にどんなに怒られるだろう?
 伯爵は泣いている、喜びのあまりに。その喜びが大きいほどに、私はきっと酷く怒られる。
(……やー)
 しかしティディアは、木っ端船に乗って荒れる海を眺める心地を味わいながら、それでも乳房の裏側に奇妙なむず痒さを覚えるという不可解な感覚を味わっていた。現代の賢者たる思考回路で熟慮してみるに、これはしかるに、
(でもちょっと楽しみ?)
 まさかその心がどこかから漏れたとでもいうのだろうか? 急に、冷たくもずっとこちらを見つめてくれていた壁の花が無感情にそっぽを向いた。
「……」
 足をぶつけたタンスに向けて怒り出すというアレンジ――されど古典的な一人芝居を加える道化師はくしゃくが爆笑をさらっている。
 やけくそである。
 ティディアは、笑うしかなかった。

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