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 嘘から出たまこと、とはよく言ったもので、その一報が入ったのはちょうど『ニトロ・ポルカト』の帰りを今か今かと待ちかねていた『オ,ディンム』の面々が、とうとう戻ってきた彼を歓迎しようと声を上げた、その直前だった。
 連絡してきたのは芍薬である。
 が、用件の主はヴィタであると示されていた。
 それを携帯モバイルの画面に見た時、ニトロは反射的に顔をしかめた。するとそれが周囲には急を告げる事態に緊迫しているのだ、と映った。故にフルニエの予想通り“お近づき”を求めようとしていた『オ,ディンム』の店主とその孫娘は有名人きっとかねもちを強引に引き止めることもできず、その背後で面倒事が自然に片付いたことでフルニエがニヤニヤと笑っていることにも気づかぬままニトロ・ポルカトを送り出すことになった。――いや、正確には、店主と孫娘がフルニエの顔に気づく余裕はなかった。せめて迎えが来るまでの間、という希望に応じたニトロに対し、どうやら『隠れティディア・マニア』であったらしいもう一人の厨房担当の男が急に絡み出したのである。しかもこれがしつこい。『オ,ディンム』の仲間達が初めて知った男のその一面に驚きと困惑と愉快の混じった顔をする中、腹の脂肪を押し付けんばかりに質問(という形をした嫌味)を繰り出してくる相手を、しかしニトロはうまくかわし続けた。苦笑いしつつも、質問(という形をした嫉み)に応じる、応じる、応じる。そう、答える、ではなく、応じるである。質問(という形をした恨み)に応じて最適な形で言葉を返すのは、相手の味わいたい甘味こたえを除去しながらもその舌鋒を抑え、場合によっては機知で斬り返すものである、あるいはツッコミによって無力化するものである。オヤジさんもネェさんも、もう一人の配達員も堂々と渡り合う『ニトロ・ポルカト』に感心していた。半ばは仲間を都合のいい生贄にしてショーを楽しんでいたとも言えよう。今やその手の相手に対する場数もそれなりに踏んできたニトロにとっては、それが胃にくるストレスの源ではあることは確かだが、といって全く未知の状況に叩き込まれたわけではない。加えて相手は友人の仕事仲間だ。あまり邪険にするのも悪いと応じ続けていたら、やがて相手がヒートアップしてきた。ニトロはフルニエに何度となく助け舟を寄越せと目で訴えたが、彼はニヤニヤしたままだ。というか、その成り行きから何か果実を得ようとしているらしかった。反対に焦り出したのはオヤジさんとネェさんともう一人の配達員だ。まず堪え切れないように配達員が制止に出た。それがよくなかった。その厨房担当に『自分より下』と思われていたらしい配達員の制止は、かえって火に油を注いだ。ついに男はニトロに質問、というよりは罵倒の文句を並べ出した。そこでついにオヤジさんとネェさんがブチ切れ、流石にフルニエも見かねて口と手を出しかけた、その瞬間、またもニトロの携帯が鳴ったのである。
 その着信音はサイレンだった。
 それはパトカーの音にも似ていた。
 思わぬ音の鳴り響いたのに厨房担当はびくりと震えて止まった。
 拳骨を飛ばしかねない勢いで従業員の肩に手をかけていたオヤジさんと、すでにビンタの準備段階に入っていたネェさんもビクリと止まった。配達員は救いの福音を聞くような顔をした。フルニエは初め完全に虚を突かれて目を点にしていたが、すぐに取り繕うように笑った。
 実は内心最も驚愕していたニトロが平静を装ってモバイルを確認すると、画面には古式ゆかしい手回し式のサイレンを携える芍薬がいた。デフォルメ肖像シェイプに“ハッピ”を着て、どうやら黙って状況の推移を見守っていたらしい芍薬は、時機を見計らってこの状況に最も相応しいくさびを入れてくれたのだった。その頭には「怒りマーク」がある。着信音サイレンが普段自分のモバイルから鳴るものではなかったからこそニトロも仰天していたのだが、腕を組んでフンと首を振る芍薬の素振りには思わず笑ってしまいそうになる。ただ、状況から、彼はその笑みがこぼれることは堪え切った。
 実際、芍薬は迎えの到着を報せてくれていた。
 表に出ると無人タクシーが止まっていた。
『オ,ディンム』のオヤジさん達は――どんな高級車が来るのかと思っていたらしい――少なからず失望した顔をしていたが、すぐに『ニトロ・ポルカト』のキャラクターを思い出したのか小さくうなずき合った。その中でフルニエだけは初めから納得していた。
 一方で少なからず疑問を得ていたのはニトロである。
 何故、芍薬は自家用車を回してこなかったのだろう? そもそも迎えが来るまでに時間のかかっていたことも少しばかり疑問だった。まあ、何らかの事情があるのだろうが……
「じゃあ、また学校でな」
 誰が何を言い出すよりも早く、フルニエが言った。それが友人の挨拶であるのと同時に一種の“政治的発言”であることをニトロは感じ取っていた。そう、フルニエがここで初めに言葉を発したことで、フルニエ達の中で力関係が改変される瞬間をニトロは目にしたのである。それは、一目は置かれていたにしても年齢的にも入門時期的にも若いために“下”であった彼が、そのくびきから抜け出し、仲間内で確固たる存在として台頭した……そのような感触であった。おそらくこれは今回の友人の“企み”には元々含まれておらず、厨房担当の豹変など状況が変化する中で偶然生じた産物であろうが、しかしそれを逃さずモノにしたのだから彼もしたたかである。この変化が彼の立場を難しくするような気もするが、まあ、その結果に応じるのは彼の責任であるし、彼ならうまくやると信じよう。
 ニトロは次いでオヤジさんと、ネェさんと握手した。どちらも痛いくらいに力を込めてきたが、ネェさんの方が熱を込めていたように思う。そしてそれ以上に熱を込めてきたのが配達員だった。ひょろりとした彼は最後に恐る恐る握手を求めてきて、応じると途端に目を潤ませ「頑張ってください!」と言った。その声に込められた力に、またも意外なものを見たようにオヤジさん達が――遠巻きにこちらを見ていた厨房担当すらもが目を丸くしていた。ニトロは驚いたが、すぐに笑顔を返し、無人タクシーに乗り込んだ。後で聞くと彼は熱心な『ティディア&ニトロ』のファンだったらしい。隠しているつもりはなく、フルニエ達もそういえばと思い当たる節があったらしいが、仲間内で最も無口であるため深く知る者がなかったという。
「何だか短い時間に色んな人達を見た気がするよ」
『オ,ディンム』の見送りを受けて走り出したタクシーの中、大通りへの角を曲がったところでニトロはしみじみと言った。それはもちろん芍薬に向けての言葉であった。と、
「どのような?」
「!ッひょぉおおおオッ?!」
 ニトロは悲鳴を上げた。そして突然問いを投げかけてきた背後へ臨戦態勢を取らんとばかりに思わず立ち上がりかけたところでシートベルトに引き止められ、その反動でシートにどすんと尻をつくや後頭部をヘッドレストにぶつけて「うぬ!」と唸る。
「……どうしたんです?」
 と、再び問いかけてきたのは、先ほどまでは確かに人影のなかった後部座席に座るハラキリである。眉根をひそめ、ひじょーに怪訝な様子である。ニトロはぼんのくぼから鼻に抜けた衝撃を堪えるように眉間に皺を寄せ、
「居たのかよ!」
「気がつかなかったので?」
「気がついてたらこんなに驚かないよな!?」
「いけませんねぇ、油断ですよ? いつも気をつけていなくては」
「したらそのうち胃に大穴が開いて血を吐いて死ぬんだろうな!」
「それは芍薬が防いでくれますよ」
「御意」
「いや芍薬も御意じゃなくて、つか芍薬が何も言ってなかったからこんなに驚いたんだけども!」
「あたしモハラキリ殿ガ隠レルトハ思ワナカッタンダヨ――何デダイ?」
 ダッシュボードのモニターに先ほどと同じハッピを着たデフォルメ肖像シェイプを表した芍薬の問いかけは、後部座席でへらへらと笑っているハラキリに対してのものである。ニトロもそちらに注意を向けると、不思議な笑みをへらりと浮かべ、
「フルニエ君に見られるとまずい気がしましたので」
「ん?」
 ハラキリは特にフルニエを苦手としてはいない。とはいえフルニエに一種の“敵視”を向けられていることに気づかぬほど鈍感でもない。ニトロは少し考え、
「何で?」
 一応、否、好奇心から訊いてみた。
「フルニエ君は君に手助けを求めたんでしょう? その話を君が拙者にすることまでは彼も嫌がるとは思いませんが、その現場を目撃されることは面白くないだろうと思いまして」
 ニトロは思わず笑った。
 その予測はきっと当たっている。
 ならば我が親友にして『師匠』はフルニエを気遣ったと同時、もしそうなれば、きっと両挟みになって困惑したであろうこちらにも心配りを向けてくれていたのだ。その代償として正直死ぬほど驚かされたのは、まあ多目に見るべきだろう。
「ところで、『どのような』?」
 落ち着いたところで初めの質問を繰り返されて、居ずまいを正したニトロはまた少し考えた。それに答えるより先に何故ハラキリがいるのかを訊きたい。しかし彼はおそらく芍薬に召喚されたようなので、とするとそれはヴィタの緊急要請に関係しているのだろう。そしてその要請を芍薬が自分に取り次いだということは、通常跳ね除けるべき『バカ案件』ながらも芍薬が受け入れざるを得ないというわけで、つまり、それはそれなりに大事である可能性が高く、しかもハラキリを呼ぶということはまずボディガードとしてであり、要するに、自分としてはそんな異常事態には心底関わりたくない。だけど関わらずにはいられないのは解っているので、その件でうんざりする前に、気持ちを入れ替えるためにも時間を置いておきたい。そして実は芍薬も『この話』を聞きたくてうずうずしていることは問いかけるまでもなく知っている。
 そこでニトロは、フルニエとの仕事の内容を話すことにした。
『オ,ディンム』の事務所に入ってからのこと。製作所のこと、あの女主人のパーティーのこと。それらの要所を掻い摘んでニトロは語った。ただ、フルニエの企みについては語らず、ただ正体がばれたことにした。ハラキリは何か勘づいているようにも見えたが、しかし何も問わなかった。車中の雑談はともかく、帰り際の公園でのあまりにフルニエの内面に関わることは省いて――芍薬には自分の考えを整理することも兼ねてその辺りの詳細も後で話すつもりではあるが――最後にニトロは改めて『オ,ディンム』と女主人のパーティーとで見聞きした人間模様の詳細と、それに対する感想を語った。語りながら、彼は親友がどのような意見を言うかずっと興味を差し向け続けていた。
 しかし、ハラキリは特に意見を述べはしなかった。
 彼は話の途中で助手席に移ってきて、ただ相槌を打ち、ニトロの言葉を否定することもなく、ただただ絶妙な促しによって気持ち良く話させてくれるだけだった。
 これではニトロは面白くない。
 そこで彼は親友から何か大きな反応を引き出そうとあれこれ聞き流された話題を振り返ってみると、
「ああ、そういえば」
 ハラキリが思い出したように言った。ニトロはわずかに身を乗り出し、
「なんだ?」
「ヤヴィズムですけどね」
「……。うん」
 するとハラキリは何か思わし気な顔を造り、
「ヤヴィズムと、そのCMのキャラクターは、その後に開発された『酔い止め薬』の製薬会社の広告戦略で揶揄の対象となったでしょう? そうすることが定石にもなるくらいに」
「――うん、そうみたいだけど」
「ちなみに、その当時からヤヴィズムの販売権を持つ会社と、当時から人気の三大『酔い止め薬』の各製薬会社、さらに後発の『酔い覚ましアウェイカー』』の会社にも共通の大株主がいるんですよ」
「うん?」
「歴史的な話になるのでおひいさんの意図するところではないのですが」
「ちょ、ちょっと待った」
「はい」
「てことは何か? つまり真っ黒ってことか?」
「いえいえ、市場的には真っ白ですよ」
「心情的には?」
「それはその人の問題ですね」
「ハラキリ的には?」
「よくある話です」
「納得しちゃってるのかー」
「ニトロ君は?」
「…………保留しとく」
 ハラキリは愉快気に肩を揺らす。一面では、それこそ正解と言っているように。
「まあでも、何によって利益を得るのかというのも個人の問題ですからね」
「――ん?」
「酒によって利益を得る者がいれば、それによって幸福を得る者もいて、逆に損をする者、不幸を招く者もいるでしょう。ですがそれはA.I.の献身的なサポートに依存し堕落する者がいれば、向上する者がいるのと同じです。火が素晴らしい料理を作り出してきたのと、数え切れないほどの命を奪ってきたのもまあ同じです」
「つっても自分は刃物を振り回してんのを棚に上げて“それは使う人次第”なんて言う奴もいるぞ」
 ハラキリはまた肩を揺らして笑い、
「そこも含めて、結局は個人の裁量に拠るものです。もちろん君の言うように社会規範や倫理に拠る裁量もありますが、それは絶対なものではありませんし、絶対的なものであればかえって問題も生じるでしょう。ただ一方で個人の裁量自体もまた絶対的なものではありませんから、それぞれの裁量の源となる個々人と社会は本来相互補完的なものである方が良いのでしょう」
「なんだ?」
 たまらずニトロは苦笑する。
「いきなり何の授業だい?」
 ハラキリは高速道路への案内標識を眺めながら、口元には掴み所のない影を刻み、
「フルニエ君は『彼女の問題』と切り捨てますが、君がいまいち捨て切れないように、彼女の社会コミュニティにもそれを捨て切れない個人がいるんじゃないですかね。君がそこに“異端”を見た気がしたらしい人達の中に、それこそメロロマンスの騎士道精神に則る者がいるかもしれない。それを信じてみるのもいいかもしれませんよ?」
 突然の、しかしずっと期待していた親友の意見をニトロは諦聴ていちょうする。ハラキリはそこで話を終えたつもりだったようだ。が、思わぬほど真摯な聞き手の、その真摯さにこそ圧され、
「確かに、フルニエ君の指摘は当たっていると思います」
 ハラキリは多少面倒そうに友を一瞥し、そこにようやく聞きたいものを聞けるとばかりに瞳が輝いているのを見て、半ば嘆息混じりに、
「そして拙者は彼に同意します。君が無闇に彼女を助けるのは――助けられればの話ですが、彼女を彼女たらしめた方々と同じだと。と同時に、拙者はそれをすることは、彼女が造り上げた、彼女を中心とした王国を単に通りがかりに破壊するだけになるのかもしれないとも思うのです」
 思わぬ言葉に、半分は予想通りなのに全く予想を外れた意見に、ニトロは困惑した。
「……彼女が、造り上げた?」
「拙者は君のツッコミ感覚を信じていますから、君の見た彼女の社会は歪で正すべき性質のものなのでしょう。特に感性の違うフルニエ君とも一致しているのですから、お嬢さんが搾取されていることも間違いないと思っています。ただ一方で、それに彼女が気づいていないにしろ、実は彼女は無自覚にそれを求めてその社会を築き上げている可能性を拙者は捨て切れません。彼女はそうやって金を使うことに――あるいは搾り取られることに、自分のアイデンティティを感じているかもしれない。まあ程度問題ではあるんですけどね、わりと珍しくないんですよ、そうすることによって自分が『必要とされている』と感じる人が、それともそうすることでしか感じられない人が。その幸不幸の是非もまた個々人の裁量次第ですが、もし彼女がそれを幸福に感じる人間であった場合、君は彼女の大事なその社会を君のツッコミによって壊すことを是としますか? 非としますか?」
「……」
「今君が拙者の疑念に答えられないのだとすれば、それすら分らないままにそれをどうにかしようとするのは危険だと思うのです。しかもそれが相互補完にあるものではなく、同一化しているほど個人と社会コミュニティが密接な場合には。もちろん、君の言葉によって彼女は目が覚めるかもしれません。それによって彼女の王国は消えたとしても、お陰で彼女は“本当の彼女の世界”を見出していけるかもしれません。そうして良い方向に進む可能性は当然あります。しかし彼女は次に健全な友人関係を築いていけるでしょうか。実態はどうあれ自分の価値観を丸きり保護してくれていた社会しゃかいを失って、裸の価値観を別の個人の価値観と擦り合わせて。それとも独りに耐えられず、また同じようなせかいを作り出してしまうでしょうか。今度はそれが己を騙し続けるものだと自覚しながらも。
 異常な場に触れてそれに対する指摘をしたら必ずその後のアフターケアをしなければならない、なんてことはありませんが――君はそのこともきっと切り捨てられないでしょう? 自分が原因だというのであればなおさらに」
「……」
「とはいえ拙者の言ったことは、何かしらの問題を目撃した人がそれに関与しないことを擁護するための『傍観の正当性』にすぎません。その理屈をもっともらしく述べ立てているだけでもありましょう。むしろニトロ君の感情こそ立派だと拙者は思っています。ですが、だからこそこうも思うのですよ、ニトロ君、確かに正すべき社会がそこにあった。君は確かにツッコめもする。それで君にはお人好しの善意の他に、もしや、自分はそれを正せるのだと――自分ならそれを正せると、そう思うところもあったのでしょうか」
 その時、ニトロはショックを受けた。そのショックは初めはおぼろげで、しかしすぐに明確になり、彼の目の裏を痺れさせた。彼は思わずうつむき、
「……それは、傲慢だな」
「おや、そう思うのですか?」
「――うん」
「まあ若いうちは何でもできると思いがちなものですけどね」
 ニトロは苦笑いを抑えられない。ハラキリに目を向け、
「いやいや『師匠』。お前は俺と同い年だろ?」
「君に師匠と呼ばれていると段々年上に思えてきましてねー」
 心にもない棒読みに、ニトロは、笑う。
「いや、やっぱり、それもまた傲慢だよ。若さを理由に言い換えても、それは思い上がりになるだけだ」
「しかし傲慢さや思い上がりはある程度必要でもありましてね。何でもかんでも引っ込んでばかりじゃ王国を建設することはできやしない」
「いっそ広大な地下王国を築くのも有りかもしれないぞ?」
 ハラキリは笑う。彼を笑わせたことで、ニトロは少し救われた気になる。――救われた?
(……ああ)
 ニトロは深く自省している己に気づいた。そうだ、俺は『傲慢』になっていた。そうでなくても、確かになりかけていたのだ。そして今さらもう一つ気づく。
「そうか、俺は、単に俺が不快だったんだな。あの場所が」
「それはそれでいいんじゃないですか?」
「――そうか?」
「何をどう感じるかは自由です。それをどう考えるかも自由です。責任が伴うのは行為だけです。ただそんな理屈はどうあれ、その件は一般的に不快と感じて不思議ないものだと思います」
「ハラキリは?」
「よく聞く話です」
「また納得しちゃってやがるのかー」
 ニトロは、そして口を閉じた。
「思い悩むことはないと思いますよ?」
 そこにハラキリが言ってくる。ニトロは口角を引き上げた。
「悩みはしないよ。ただ、考えたいんだ」
「そうですか」
 ニトロは黙した。
 すると沈黙は思わぬほど重く、ニトロはその重みに引きずられるように思索を深めようとしていたが、
ですので
 と、ハラキリが言った。その声は奇妙なほど柔らかく、だからニトロは気を引かれた。見ると『師匠』は口元にまた掴み所のない影を浮かべ、
「拙者はフルニエ君の意見に賛同するんですよ。もし彼女が君をいつか招待することがあれば、その時はそれとなく忠告する――その時は君も彼女の社会につま先くらいは踏み込んで、見える景色も解像度を増しているでしょうから、それくらいがちょうど良いと。
 ……それに、その時の君の行為はあれで良かったのだと思いますよ? 結局君は分相応を踏まえていたわけですし、その中で『レンフィーナ』を持ち出したのは機転が利いていたと思います。それもちょうど良かった。だから、君は傲慢ではありませんでしたよ」
 そう言われると、ニトロは嬉しい。途端に気分が軽くなった己を現金なものだと思いつつ、彼は自然と口元に浮かんでしまう笑みを抑えずに親友を見る。
「そう思うんだ?」
「ええ、そう思います」
 ハラキリは事もなげに肯定する。ニトロは、静かに目を細める。
「ところで、これから君は一つの社会を正さなければいけないわけですが」
「ん?」
「まだ聞いていないでしょう? おひいさんの問題を」
「ああ」
 半ばぼんやりとフロントガラスの向こうの赤信号を眺め、ニトロはふいに正気に返ったようにうなずいた。
「そうだ。何があったんだ?」
 ハラキリは笑い、
「しばらく前に君の作った弁当を食べる暇のなかったお姫さんが、それを冷凍させていたそうですが」
「……あの時のサンドイッチかな?」
「御意」
 ずっと黙って二人の会話を聞いていた芍薬がモニターの中でうなずいて、マスターの思い当たる節を肯定する。
「で、今夜、それを食べようと仕事場に持ってきたそうでしてね。それでちょうどその場にいた番組スタッフに解凍しておくように言ったそうです」
「スタッフに? ヴィタさんは?」
「ちょうど別件で離れていたそうで」
「……それで?」
「解凍はどうします?」
「自然解凍。時間次第だけど、待てないんならレンジで適切な解凍を」
「お姫さんは自然解凍していました。それでスタッフには、だからそのままそこに置いておくように指示したんです。そのスタッフは指示を誤解なく了解しました。ですがそのスタッフがそこを離れなければならなくなった時、同僚に言いました。このまま温めておいて」
「何となく何が起こったか判ったよ?」
「ええ、その同僚はレンジでやっちゃったんです。単純に温めちゃったんですよ。となると?」
「ポテサラのだからなぁ、多分解凍失敗で酷いことになってる。パンなんかべっちゃりじゃないか?……でもなんで『温めておいて』なんて言っちゃったかな」
「ローカルルールですねえ、ヴィタさんの聞き取りによると、そのスタッフの家だと解凍することを温めると言うそうで」
「なるほど、解らないでもない」
 おそらく急いでいたか何かで、うっかり言葉選びを間違えたのだろう。
「しかもそれを勝手に捨てちゃったそうで」
「え?」
「こんなものをティディア様のお口に、とでも思ったのか、単にパニックに陥ったのか、まあ、それで激怒のお姫さんです。世が世なら即処刑だと息巻いているそうで」
「息巻くって言うのかそれ」
 ニトロは苦笑し、しかしすぐに真顔となると少しの間考え込み、静かに深く息を吐いた。
「だけど……実際に死にかねないのかな? そのスタッフさん達」
「御意」
 と、芍薬が話を引き継ぐと、肩をすくめて言う。
「ソノ二人ハ“死ンデオ詫ビヲ”ッテ実際ニ言ッタソウダヨ」
「……。ティディアは?」
「サラニ激怒。シカモソレジャア主様ノサンドイッチデ人死ニガ出ルッテコトジャナイカッテ、ソレコソガ致命的ダッタヨウダネ。――正直、ソコニハあたしモ同意ダ。ソレデソノ二人ハ自殺スルマデモナク、自分達ノ失態ト崇拝スル王女様ニ心底唾棄サレタ精神的ショックトデ死ンデシマイソウダッテサ。ツイデニ収録モ止マッテ困ッテルソウダヨ」
「うーん……」
「今回はお姫さんの言い分ももっともで」
「世が世なら処刑でも?」
 ちょっと意地悪なツッコミを、ハラキリは軽く跳ね返す。
「それは赦すための行為ではないでしょう?」
「……また難しいことを……」
 そして、ニトロはため息をついた。
「確かに俺の作ったサンドイッチで死なれてもね。夢見が悪すぎる」
 それで芍薬もヴィタの要請を受け、あいつの問題にこちらが介入することを承諾したのだ。その判断を支持するためにニトロは芍薬に眼を向けた。芍薬は小さく頭を垂れた。
「じゃあ、途中で一度下りて材料を買っていこうか」
 先刻から車は高速道路を走っている。どうやら湾岸エリアに向かっているらしい。
「それは既に芍薬の指示で」
「あ、そう?」
 ハラキリ指で示した後部座席の隅、ニトロの死角に袋があった。部分的に角張っている膨らみはきっと食パンだろう。
「それならいいや」
 とうなずいて、ニトロはふと思う。
「……あれ? ハラキリはもしかして買い物要員?」
「いやまさか」
 苦笑して、ハラキリは言う。
「ボディガードですよ」
 やはり、と思いつつ、ニトロは訝しげに問うた。
「でも、問題がそういうことならハラキリの護衛はいるのかな」
「いらないなら帰りますが、場所は『ラブガーデン』ですよ?」
 ぶ、と、ニトロは吹き出した。
「何で!?」
「何でと言われましても、そこが撮影現場だからとしか」
「いやだってそりゃあテレビ討論の収録だろ? それも色々真面目な討論番組だろ? いつもそのためのセットが組まれてる!」
「その通りですが、いつもそのためのセットで討論しているだけのそれはもはや討論のための討論ではないか。我々は常に現場を意識する必要がある――と王太子殿下はのたまわれたそうで」
「それで何でラブガーデン!」
「お題が『カーマディグ』でして」
「あー」
 カーマディグ――それは“現実と仮想の境界”で行う性行為だ。意心没入式マインドスライドを用いた電脳性行為エレクセクスはもはや流布して久しいが、最近では完全に没入するのではなく、意識の半ばを電脳世界に置き、一方で肉体への知覚を現実に置くことで、肉体的な性行為の快感を電脳世界に送り込み、同時に電脳世界で増幅されたその刺激を肉体にフィードバックすることでより強力な恍惚を得る技術が確立していた。肉体はベッドで交わりながら、精神はどんなにぶっ飛んだ世界でどれほど過激な性行為を楽しむこともでき、つまり現実には不可能な快楽を現実に味わえる。夢精と射精を同時に、神経と血のオーガズムを同時に。一の穴に百の棒を、一の棒を百の穴に。全ては並行する。互いの快楽を共有し、あるいは取り替え、百人の快楽を一人に集め、それとも一人の快楽を百人で味わおうか。行為なくしても快適な夢うつつの境界でまるで意識と肉体を溶け合わせて、千の舌に万の指、触れ合う肌と無限に拡張される温もりを。
 しかも近年ではそれを劇的に強める麻薬が出回っていた。神経を活性させるものと、仮想世界への没入度をより強めるもののハイブリッド。それにシナプスとシステムのコネクトを強化する電子麻薬も併用すれば――そもそも電脳性行為だけですら没入の深さによっては危険性があるのだ、そこまですれば快楽のオーバードースが容易に起こるのも当然であろう。それによって心臓や脳をやられて死ぬ者が後を絶たない。が、その生と死の境界にイキたがる者も後を絶たない。これはアデムメデスだけでなく、銀河中で規制とその対策について議論がされている問題である。
 それについて電脳性行為エレクセクスのためのシステムと肉体的性行為フレッシュセックスのための道具の揃った簡易休憩所兼遊技場――いわゆる『ラブガーデン』で討論しようとはふざけてるような、露悪的過ぎるような、確かに正しいような……複雑な心地でニトロは息をつく。
「それだと『そこで問題を正確に把握するために実践!』とか言ってきそうだな」
「何でもバラエティに富んだところで食事ならファストフードから高級ディナーまでより取り見取り、まるで晴天下の空き地のような部屋もあれば、玩具とはいえ本物と遜色のない監禁道具もたっぷりとあるそうです」
「どういう趣味だよ」
「そういう趣味でしょう? まあ、別にだからといって心配なわけではないのですが」
「いや心配してくれよ」
「最近君にはお姫さんの他からもおかしな絡みもあったことですし、お姫さんにここで羽目を外されるのも面白くなさそうですので、ここは芍薬の心配を重んじて拙者もボディガードを引き受けたというわけです」
 バカ姫の他からの絡みなど“最近”に限らずこれまで何度もあったわけだが、ハラキリが念頭に置いているのは王子様のことだろう。確かにそれは最近の中で特筆すべき事件ではあった。それを彼が理由に挙げるのも不思議はない。が、
「何だろう、もうちょっと友達甲斐のある理由は立てられない?」
「嘘でもよければ」
「嘘でもいいなあ」
「君が心配なんです」
「嘘つけぇ!」
 ニトロは思わずツッコんでしまった。ハラキリの嘘があんまり白々過ぎるから、脳髄反射でツッコんでしまっていた。ハラキリが一瞬目を丸くして、次の瞬間には大笑いする。それに引きつられてニトロも笑ってしまった。芍薬も笑っている。
 ひとしきり笑った後、ニトロは奇妙なほどすっきりした頭に新鮮な空気を送り込んだ。そしてフッと短く息をつき、ふいに乾いた笑みを浮かべる。
「てことはそのスタッフさん達、バラエティに富んだラブガーデンで食い物が原因で死にそうになってるってことか」
「御意」
「で、多分そこの一室で王女様は怒りが収まらず。しかも各界の偉い論客もばっちり決めた姿でそれぞれエッチのお部屋で絶賛放置プレイ中」
「そうなりますね」
 ニトロは、なんとも言えぬ味を舌に感じた。
「あいつの作る“社会”は、理屈は通ったとしても何かやっぱりおかしいな」
 ハラキリも芍薬も同意しかない。
 客を乗せた無人タクシーは、ひたすら高速道路を光り輝く愛の園へ向けて突っ走っていった。

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