(『おみくじ2018 小吉』の四日後、『おみくじ 2014』の二日後、第五部『誕生日会』の十一日前)

 カランと、グラスが鳴った。崩れた均衡を取り戻そうとする氷が白みがかったオレンジ色の液体をかき混ぜると、冷たいグラスを支えていた細い指が離れ、続いて薄く白んだ果汁の満ちるグラスが置かれると、搾り立ての柑橘の香りがスッと漂う。その香りのうちに頭を垂れたウェイトレスがロングスカートの裾をひるがえして去っていく。
 ハラキリ・ジジは、疑問に思っていた。
 我らが通う高等学校の最寄りのファミリーレストラン『ギルドランド』。
 小古典時代をモチーフにしたインテリアに古いデザインの制服ユニフォームがよく似合う店内の隅の一席。
 斜め前に座るのはそろそろ肌の日焼けも薄れ始めたクラスメート。
 放課後、帰ろうとするこちらを捕まえてこの店に連れてきたのは彼女だった。ニトロの友人である彼女とは普段から親しくしてはいる。しかし積極的に放課後ダベるほどには親しくはない。それなのに、しかもここには一度も言葉を交わしたことのない者が同席していた。
 明るい茶髪をボブカットにして、左耳にピンクのクリスタル・ガラスの嵌まる小さな花形のピアスをつけているその同級生は、ずっと神妙な顔をしてうつむき、運ばれてきたミックスジュースにも口をつけないで時折ちらちらとこちらに目を向けてきている。今回、この女子が何やら『話』があるという。
 その女子の対面――というより真正面に座らされたハラキリは、この状況は一体何かと考えていた。最も安易に(思春期らしく)考えるなら、これは世話焼きなクラスメートが恋の橋渡しをしようとしている、というところか。しかし面前の女子の様子からしてそうとは思えない。よもや妙な団体やビジネスへの勧誘だろうか? しかしニトロ・ポルカトと仲の良い級友らにその手の話は聞かないし、実際その『報告』もない。何だか早くも面倒臭さが極まってきた。さっさと離脱したいものだが、そうするとグレープフルーツジュースをちびちび飲みながら様子を窺っているクラスメートに非難されるだろう。それ自体は別に構わないのだが、さればそのいざこざは必ず友人の耳に入ってしまう。何しろこの席のことは既に彼の知るところであり、というか、そもそも『話』とやらに渋る自分を送り出してくれたのは彼なのだ。他の時ならいざ知らず、王女の『誕生日会』という極めて重要な事案が日々迫る今、例え余計な世話を焼いてくれたことには恨めしさを覚えども、あの苦労人につまらないストレスをかけてやりたくはない。
 とはいえそれで彼女らに愛想を良くする義理もないのでハラキリは黙ってコーヒーをすすっていた。
 するとこの沈黙に堪えられなくなったのか、ミーシャが口を開く。
「改めて紹介するよ。サムミラ・チャクス。中学が一緒なんだ」
 チャクスが小さく頭を下げる。その眼差しには不安が満ちていた。一方でその顔には一抹の希望が潜んでいた。
 ハラキリも小さく頭を下げ――さてどうしたものか。早く話を切り上げるには? 彼はもう一口コーヒーを飲み、その間も相手がこちらが何か言うのを待っていることを見て取って……胸中に嘆息をこぼした。結局、良策は一つだけ。カチャリとカップを置いて言う。
「それで、ご用件は?」
「話を聞いてほしいんだ」
 と答えたのはミーシャである。
「どのようなお話でしょう」
 と、ハラキリは正面に座るチャクスに訊ねた。
 あからさまに脇を素通りされたミーシャが一瞬目を尖らせるが、相手の方に理があると思い直したらしい、自分に視線を寄越してきていたチャクスにうなずいてみせる。
 チャクスは少しの間、躊躇っていた。不安と希望、信と不信が葛藤している様相が目まぐるしく表れる。淡い褐色の瞳があちらこちらに定まることなく動き続け、やがて覚悟を決めたらしい彼女は今一度友達と目を合わせた後、ハラキリを見つめた。
「相談に乗って欲しいの」
 彼女の視線が落ちる。ミックスジュースの中で溶けていく氷のさまに頼りなく視線を揺らめかせ、やがて彼女は肩をすくめるようにして息を吸い、
「その、最近彼とうまくいってなくて」
 言い出しにくいことを言い切ったチャクスは、それで何かが吹っ切れたように再びハラキリを見つめた。
 ハラキリは、ふむ、とうなずいた。
 彼女の先程の激しい葛藤と躊躇も、そういう理由なら納得できる。なにせ今日初めて言葉を交わす相手にいきなりプライベートの塊を投げ込もうというのだ。もちろん初対面の相手にもっとプライベートなことを投げ込んでくる人間は存在するし、酔いの深まる酒席となればありふれた光景にもなろうが、互いにアルコールの一滴も含まぬ上に、彼女はあけすけなタイプでもなさそうだから、それこそ決断には勇気のいったことであろう。
 なるほど。
 非常に面倒臭い。
 しかしその内面は一寸たりともおもてに出さず、ハラキリはミーシャを見た。
 眼差しで問う――「何故なにゆえ?」
 するとミーシャは心底困ったように眉根を寄せ、
「あたしじゃ話を聞くことくらいしかできなくてさ」
 ハラキリは一応うなずいてみせる。どうもその言葉の裏にはかなり端折はしょられた事情があるようだ。おそらく問題の『彼』がミーシャの知らぬ相手ではなく、むしろ部活仲間のようにそれなりの親しさのある者なのだろう。彼女はどこか居心地が悪そうに続ける。
「だからダレイに相談したんだ。ダレイも知ってるから。そしたらハラキリに相談してみろって」
 ハラキリは心の中で己の額を手で覆った。
 最近、彼と交わした会話が脳裡を駆け巡る。
 恩を仇で返すとはこのことだ。
 ああ、いや、別にダレイに恩を売ったつもりも、恩を着せるつもりもないからそれは言いがかりになろう。彼にしても悪意のないのは明らかで、むしろ信頼の証であろうから……いいや、だからこそ厄介だ。状況からしてこのチャクスという女子が一つも面識のない男子じぶんに相談をする気になったのは、つまりダレイへの信頼のゆえ。彼の推薦がなければ有り得なかったはずである。
「まあ、あたしもはじめはどうかと思ったんだけどさ」
 ハラキリの心中をよそに、ミーシャがちらりとチャクスを横目にしてから言う。
「でもこないだあたしも相談に乗ってもらっただろ? それでハラキリならって思ってさ――ってなんだよ、その顔」
「はあ」
 生返事をしたハラキリは、怪訝な目つきを改めずに訊ねた。
「相談なんかに乗りましたか?」
 するとミーシャはさも心外そうに肩を怒らせた。
「こないだ色々話しただろッ?」
 そう言われてハラキリが思い当たるのは、一昨昨日さきおとといのことしかない。恋人に最近流行りの手作り弁当を食べさせたいという彼女の買い出しに無理矢理付き合わされ、その後にはファストフード店でお喋りにも付き合わされたのだ。確かにその際に弁当作りが失敗しないようしなの選択を手伝ったり、問いに応えたりもした。こちらとしては単に買い出しが早く済むよう、そして“お礼”だという軽食が早く終るよう努めていただけなのだが、それらがどうやら彼女の中では『相談に乗った』という親切に置き換わっているらしい。
「ああ。この間のことで」
 ハラキリはミーシャの認識を訂正しようとするよりも、そのまま話を合わせることにした。己の打算装置は既に面倒まけを確定し、その損失額の削減を指針としている。ここで一悶着を起こす戦略的な理由も見当たらない。一方、表情の掴みかねるハラキリをミーシャは胡散臭そうに見つめていたが、彼女も目的を優先したらしい。
「この子、ずっと悩んでてさ。だからどうしたらいいか聞いてやってほしいんだよ」
 眼前に並んで座る女子二人を眺め、これではまるで辻占い師だな、とハラキリは内心苦笑した。実際に占って欲しいと言われないだけまだましとはいえ、最近巻き込まれるのがことごとく恋愛絡みだから堪らない。こうなったら本当に電脳街の一角に放言屋とでも号して一軒開いてみようか?
「だってほら」
 是非を考えているように黙すハラキリから何とか色好い返事をもらおうと、ミーシャが身を乗り出す。
「ハラキリは『恋の守護天使』だろ?」
 コーヒーを飲みかけていたハラキリは危うく吹き出すところだった。それを抑えられたのは、ひとえに経験の賜物である。ちょうど一昨日、とある若旦那に同じことを言われていなければ彼は間違いなくチャクスにコーヒーを噴射していたことだろう。強いてゆっくりと口に含んだコーヒーを飲み込み、彼はミーシャを見据えた。
「一部でそう言われているのは承知していますが、正直歓迎していないんです」
「あ、ごめん。そうなんだ」
 ばつが悪そうにミーシャがうなだれ、ちらりと謝るような目を隣のチャクスに向ける。チャクスはどこか絶望的で、同時に安心しているような顔をハラキリに向けていた。彼女のその顔はハラキリの注意を引いた。どうやら彼女に面識のない『ハラキリ・ジジ』へ相談してみようと思わせたのは、友人達の推薦ばかりでなく、その虚構の影響もあったらしい。
 少しの沈黙の後、ハラキリは息をついた。
「いいでしょう、話を聞きますよ」
 ミーシャの頬があからむ。その横でチャクスも喜びを目に表していたが、一瞬、その視線が底へ落ちた。しかしすぐにハラキリに戻された瞳には期待が浮かんでいた。それは何かを待っている眼であるように映った。
 チャクスをながら、ハラキリは礼を言おうとしている二人を手で制し、
「ただ、相談というからには、相談に乗らせていただきますので」
 二人がきょとんとする。ハラキリは小さく笑った。これくらいのことは言わせてもらおう。
「相談と言いながら自分の意見を認めてもらいたいだけ、という方も多いものですからね。こちらも意見を言いますよ、ということです」
 その口ぶりにミーシャが唖然とする。チャクスは唇を引き結んだ。その眼には嫌な奴、という思いが表れている。つい直前までの弱気な様子がそれによって消えていた。仲立ちのミーシャは、初めはハラキリへの怒りを――同時にその態度が彼らしいものだという理解と呆れを示していたが、ふいにチャクスの様子に気づいて困惑していた。どうやらミーシャはこれでこの場が解散になることを恐れている。彼女の性質からして、もしそうなれば友達の悩みの解決がまた遠退いてしまうと心配しているのだろう。
「ではどうぞ。話しやすいところからお話しください」
 そう言うハラキリは素晴らしい笑顔であった。実に胡散臭い笑顔である。ミーシャは軽く引いていた。チャクスも不信感を滲ませていたが、相手にどう思われても構わないと言わんばかりの彼の態度に、かえってやりやすさを感じたらしい。
「彼は大学生で、ミーシャの先輩なんだけど……」
 たどたどしく、その陸上部のOBと知り合った経緯からチャクスは話し始めた。出会いの際の印象や、そこでの会話など、本題に直接関わらぬものまで含む彼女の話は冗長であった。本人もそう思ったのだろうか、彼女はしばらくすると時折ハラキリを不思議そうに見るようになった。
 彼はあんなことを言っていたのに、退屈に決まっている話の最中もずっと聞き役に徹してくれている。余計な言葉は挟まない。タイミングよく打たれる相槌はとても話をしやすくしてくれる。
 次第にチャクスの舌は滑らかになっていった。
 優しい彼との思い出が語られる。
 彼の優しい言葉が。
 数々の約束が。
 彼を私がどんなに好きなのか。
 彼は本当に優しくて、ワガママを聞いてくれて――実例が挙げられる――本当に好きなの。いつでも大事にしてくれて、いつでも甘えさせてくれて、いつでも私が悪いのに許してくれて――実例が挙げられる――だけど、いつからか分からないけど何だか二人の間に空気でできた壁ができたみたいに感じられて、二人とも言葉には出さないけど変にぴったり来ない気がして――実例が挙げられる――なのに前みたいにうまくいかなくなっても彼はずっと優しいままで、
「好きなの」
 絞り出すように、チャクスは言った。
「でもこのままじゃきっとダメになる。彼もそう思ってる。このままじゃ嫌われちゃうよ。そうなったら私……だけど」
 唇を噛み締める少女の肩を、その友達が手で触れる。両目に溜まった涙が揺れる。
「だけど、」
「別れたいんですね?」
 ふいにハラキリが言うと、はっとしたようにチャクスは彼を凝視した。
 その横でミーシャはひどく訝しげに彼を見た、いや、睨みつけた。
 チャクスの言葉を補うように言われたものは、確かに悩める少女の希望を裏切るものであったろう。だけど――別れたくない――それが後に続けられるべき言葉で、実際にミーシャも相談を受ける中でこれまで何度もそう聞いてきたのだろう。
 ミーシャの鋭い眼差しが爆発するのを抑えるように、ハラキリは穏やかに言う。
「ここまでお話を伺って思ったのですが、チャクスさんも既に気づいているのでしょう? 彼ではなく、ご自分が、別れたいと思っているのだと」
 チャクスは何か言おうとした。カッと顔が赤くなり、それこそ彼女は爆発しそうになった。しかしハラキリは動揺せず、むしろ彼女の爆発を待っているかのようである。チャクスは目を見開いて彼を睨んでいたが、睨むだけで、後は続かなかった。
「これはこちらの勝手な想像です」
 弱々しく萎んでいきそうな少女を前に、ハラキリは続ける。
「あなたはとっくにそれに気づいていたのに、今も気がつかないふりをしている。そうやってこれまでのようにずっと自分を騙している。しかし自分を騙し続けていれば、そのうち自分自身を見失ってしまいますよ? 見失えば恋も愛もなくなるでしょう。騙し続けるのも疲れることです。疲れ果てれば、今より悪い」
 チャクスは沈黙している。死の宣告を待っていた人が、実際に死の宣告を受けた衝撃に耐え切れなかったように、彼女は凍りついている。
 ミーシャは急転した事態の中でおどおどと、まるで友達に起きたことが我が身にも起きたかのように、体を小さくして推移を見守っている。
 ハラキリは――ある程度の確信があったとはいえ――己の言葉が急所を突いたことに内心苦笑し、もう一つ付け加えた。
「それに、彼がどんなにいい人で、どんなに優しいのだとしても」
 彼は一つ間を置いて、チャクスの注意が最大限上がったところに刺し込む。
「その人と別れたいと思うのは、けして悪いことではありません。そのように思う自分を認めて、許してあげてもいいはずですよ」
 少女は、それでも否定したいようだった。頬は未だに紅潮し、瞳はきょろきょろと言葉を探して落ち着かない。しかし、それがふと止まった。彼の付け加えたものが時間をおいて効果を得たのか、彼女の瞳は一点に縫いつけられ、頬は赤らんだまま、その上を、透明な雫がツとこぼれていった。
 一粒の跡にまた、一筋流れる。
 そしてどっと溢れた。
「サミィ!?」
 驚いてミーシャが友達の肩を抱く。それがきっかけとなってサムミラ・チャクスは力を失ってうつむき、両手で顔を覆うと肩を震わせて泣き出した。ミーシャが抱き寄せる。チャクスは友達の胸で泣く。
 ハラキリは、静かに立ち上がった。
 嗚咽を漏らすチャクスの背を撫でるミーシャが、ハラキリを見上げる。少女の眼には感謝と不安がある。
 その不安を前に、ハラキリは何事もないようにへらりと笑ってみせると、テーブルの注文オーダー端末を取り、ミーシャが何も言えない内に皆の支払いを済ませてさっさと席を離れた。
 店内にいる他の客がこちらをちらちらと窺っている。中には去っていく少年と、席に取り残されて泣く少女を見比べて、あからさまに誤解を視線に込める者もある。
(そういえば)
 あのミックスジュースは結局口がつけられぬままだった――と、そんなことを思いながら、ハラキリ・ジジはファミリーレストランから出ていった。

 翌週の月曜日、一時間目の授業の開始直前になって登校してきたハラキリを教室のドアの前で出迎えたのは、ミーシャだった。
「おはよ」
「おはようございます」
 彼女はハラキリを教室の隅に引っ張っていった。
 窓側後方に、ニトロ達が席を取っている。
 皆、既に事情を知っているようだ。
 ハラキリと視線の合ったニトロがちょっと意外なものを見るような、しかし同時に何か誇るような目をしている。クオリアは好奇心を、フルニエは野次馬根性を全開にして、クレイグとダレイは――彼女の中学時代からの仲間達は真面目な顔をしている。
 最後方の二席が空いていて、ミーシャはその窓側にハラキリを押し込んだ。そして自分はその隣に座り、他のクラスメートが投げかける視線を背負うと――ギルドランドでのことは学校SNSエスエスでも話題になっていたのだ――声を潜めて言った。
「別れたよ」
「そうですか」
 素っ気ないハラキリに、若干苦笑してミーシャは続ける。
「今朝会ったら、すごくすっきりした顔してた」
「そうですか」
「相談に乗ってくれてありがとうって言ってた」
「そうですか」
「今度おごるよ」
「お構いなく」
「こないだの分くらい返させろ」
「ご馳走になります」
 ミーシャは満足そうに目を細める。ハラキリの視界の端で、ニトロがにやにや笑っている。
「それでさ」
「はあ」
「相談といえばさ」
「はあ」
「また相談したいってのがいるんだけど……」
 遠慮がちなミーシャは、そのくせ期待に満ちている。クオリアは好奇心一杯で、フルニエは野次馬根性を隠さない。クレイグとダレイはこちらへ不思議と打ち解けた様子を見せていて、ニトロは妙に嬉しそうで、しかもその目はミーシャ以上の期待に満ちている。
 ハラキリは、にっっッこりと笑った。
「命に代えても、お断りです」

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