大凶pre

(2018『大凶』の前日(かつ元凶))

 へとへとだった。
 ニトロは疲弊していた。
 痺れたように感覚の鈍い足を進める彼の目の前には、ほのかに汗ばんで、白く輝く肌がある。むき出しの右肩の曲線と、アップスタイルの髪からこぼれたおくれ毛、すらりとした首筋を流れて肩甲骨へと落ちていく陰影が、古葉の深緑を思わせるハイヒールがリズムよく床を打つたびに匂い立つような色香を漂わせている。
 思春期の胸には刺激的過ぎて、どうか触れさせてほしいと願わずにはいられない女の肉。
 ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ――このくにの王女の、骨と血を秘す柔らかな皮膚。
 だがそんなことよりも、ニトロはやっと大仕事が終ったことへの安堵で胸が一杯であった。
 事の始まりはまさに本日、何もなかったはずの放課後。
 授業が終るや校長先生に呼び出され、嫌な予感を抱いて校長室に向かうとそのまま駐車場の飛行車発着場スカイカー・ポートに連れ出され、そこにリムジンタイプのスカイカーがやってきた。
 運転手はヴィタである。
 嫌な予感は的中した。
 校長先生が恭しくドアを開いた後部座席にはティディアの立体投影ホロがあった。スーツ姿の彼女の体に背後のミニバーが透けている。足を組んで板晶画面ボードスクリーンを見ていた彼女はふと気づいたようにこちらへ振り向くと、極上の笑みを浮かべた。校長先生がため息をついた。
「これから『映画』の仕事よ」
 ニトロの頬は引きつった。
「聞いてないな」
「今言ったもの」
 ぶん殴ってやろうかと思ったが、彼女の実体はここにない。しかも『映画』の仕事となれば簡単には拒絶できない。なにしろ「あのハラキリ君が銀河へPRに行っているのに」と引き合いに出されるのは目に見えているし、しかも、この『映画』には、映画制作以外ではダメ人間な監督を公私にわたって支える恋人さんの将来もかかっている。0号試写の打ち上げで号泣していたあの人を前に「僕は『映画』の大失敗おおコケを願っています」などとは到底言えなかったものだ。柿渋を1リットル飲み干したようなニトロへ、ティディアは言った。
「さあ、舞台挨拶に行きましょう」
 そうして連れてこられたのは、王立プリンスポート劇場。
 ニトロは唖然とした。
 挨拶は、てっきりどこかの映画館でやるのだと思っていた。ところが舞台は自分も知るほどメジャーな中央大陸セントラコン映画祭の会場ときた。確か本年度のノミネート条件には満たないはずだが、聞けば“特別上映”を打診されたという。嘘つけお前が無理矢理ねじ込んだんだろうとツッコんだものの、劇場内に急遽用意させた控え室で合流した王女様はにんまりと明言を避けるのみ。さらなる追求はできなかった。出番はすぐだという。一気に緊張した。緊張のあまり吐き気が何度もこみ上げた。服はそのままで良いという。学生にとって制服は正装でもあるから、それならそれでいい。本来は十人ほどが共同で使う楽屋なのだろう、二人で使うには広すぎる部屋の中央に古典的宮廷趣味の豪華なソファとテーブルが置かれていて、隅にはカーテンタイプの衝立があり、わざわざこちらの到着を待っていたらしいティディアがその向こうでいそいそと着替え始める。後ろに光源を置いてシルエットをこちらに見せつけながら「覗き、盗撮大歓迎!」なんて言われたところで緊張に耐えるためのエネルギー消費が激しすぎてツッコむ気力もない。
 あれよあれよという間に時間である。
 震える足でティディアに続いて舞台に立った時、ニトロは何が己の耳をろうしているのか解らなかった。
 そしてそれが2千余人の生み出す万雷の拍手と歓声であると気づいた時、彼は狼狽した。
 さらに舞台の近くの席に有名な映画監督や俳優達が座っていることにも気がついた時、彼の横隔膜は仕事を放棄した。
 ああ、本当に、自分はあの中央大陸セントラコン映画祭の舞台に立っている!
 陰になってそれより後ろの人々の顔はよく判らなかったが、そこにはきっと評論家や審査員が並び、さらに後方では熱狂的な映画マニア達も厳しい目を光らせているだろう。ならば、ここで一体俺がどんな挨拶をすればいいというのか? わざわざ映画館に行くのは年に一度あるかどうか、テレビ放映にしてもネット視聴にしても話題作にしか興味を持たず、芸術的とか革新的とか言われる作品には全く理解の及ばないただの高校生が? そもそもこの『映画』だって俺は“演技”していたわけではないのだし!?
 拍手と歓声が鎮まってくる。
 ニトロは息を止めたままティディアの隣で硬直し、観客に手を振り投げキッスをする彼女に促されたことでようやく我に返り、どうにか頭を垂れて非礼を避けることができた。
 やがて機を見計らってティディアが口を開く。
 彼女はまばゆいライトの中、バラをモチーフにした真紅のドレスよりもなお映える紅顔びぼうをほころばせ、中央大陸セントラコン映画祭最大の汚点と言われる『全審査員買収事件』をネタに話を切り出した。
 瞬間、2千余人の静寂。
 水を打ったよう、というのはああいうのを言うのだろう。
 実に恐ろしいものであった。
 ニトロは反射的に――思い返せばバカ姫の思惑通りに動かされたのだろうが!――ティディアにツッコミを入れた。それをブラックジョークに落とし込めるように。ぽつぽつと笑いが起こった。だがまだ空気は冷めている。直前までの熱気はどこに行った? しかし我関せずとばかりにティディアは饒舌に話を続ける。すぐにその話術は威力を発揮した。映画への深い造詣を示して映画人の舌を巻き、それをユーモアで包んで映画を愛する人々を和ませて、その中でそつなく自身の『映画』をアピールしながら『恋人』をも持ち上げて、しかも時折思い出したように“ブラックジョーク”をぶち込んでいく。
 ニトロは、映画の話題にはついていけなくとも、ティディアのスピーチに散りばめられる毒は察知できた。それが単なる毒舌ならまだしも、時に会場に集う関係者のゴシップまで持ち出されることがあり、だからニトロはとにかくそういうネタを最優先で潰していった。本音を言うなら『恋人』を持ち上げるための『捏造』を潰すことだけに注力したかったが、先週発覚したばかりの真偽も曖昧な醜聞に折角日の目を見そうな若手女優が骨までしゃぶられるのを見過ごすわけにもいかない。性悪な王女は些細な火種を大きく延焼させる力を持っている。白も灰色も真っ黒としてしまう影響力がある。最前列の席で、自分が標的にされたと悟った女優と目が合った時には実際頭を抱えた。そうしてニトロが危険な話題を必死に遮り、ツッコむ中でティディアは生き生きとして、いつしか会場には笑い声が絶えず、既に持ち時間は激しくオーバーし、汗びっしょりになったニトロがどうにかこの舞台挨拶トークショーを終らせようと機会を探っていると、その直前にはどんな話をしていただろう? ふいにティディアが『映画』のクライマックス――『決闘』のことを語り出した。
 その導入があまりに自然だったから、ニトロはその『捏造』を止めることができなかった。
 それ故、ティディアの誇張した『ニトロ・ポルカトの演技力』への賞賛が会場に沸き起こった。
 ティディアに煽られて勢いを増す拍手の中、ニトロはいたたまれずに目をそらした。そこに「照れちゃって」とティディアが言うと、温かな笑い声が客席に起こった。ニトロは慌ててそれを否定しにかかったが、その瞬間、ティディアはまるでくるりと踵を返すように舞台挨拶トークショーをまとめに入った。
 それは、急といえば急だが、ちょうどいいタイミングといえばそうである、絶妙な間であった。
 やっとこの状況から解放されるとなればニトロも彼女を止めるわけにはいかない。それどころか彼は喜びを抑えられず、思わず否定の言を忘れてティディアと仲良く言葉を合わせて客席へ感謝を述べた。
 再び沸き起こった大きな大きな拍手喝采は、二人が舞台を降りた今もまだ鳴り止まぬらしい。
 ニトロは、本ッ当に、へとへとだった。
 その胸はやっと大仕事が終ったことへの安堵に一杯だった。
 疲労と安堵に彼の頭はどこかぼんやりとしていて、その注意力も後ろ髪に触れる歓声に引かれてどこか散漫となっていた。
 ――だからだろう。その時、彼の心に一種の空白が生じたのは。
「?」
 それはいつからあったのだろう?
 彼は、それをじっと見つめた。
 やっと軽くなってきた足を進める彼の目の前には、ほのかに汗ばんで、白く輝く肌がある。むき出しの右肩の曲線と、アップスタイルの髪からこぼれたおくれ毛、すらりとした首筋を流れて肩甲骨へと落ちていく陰影が、古葉の深緑を思わせるハイヒールのリズムよく床を打つたびにまるで夢の跡をたどるかのように色香を帯びている。思春期の胸には刺激的過ぎて、どうか触れさせてほしいと乞いたくなるのだろう女の肉。ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ――この星の王女の、骨と血を秘す柔らかな皮膚。
 だが、彼が気になるのは、そちらとは逆、ワンショルダーのドレスが覆う左肩であった。
 その肩口からはバラの花びらを編みこんだような袖が肘にかけて流れて、薄い生地の奥に得意気に振られる二の腕が透けている。ニトロの耳にティディアの声が遅れて意識された。どうやら映画祭のスタッフに言葉をかけたらしい。王女に親しげに労われて、その女性は奇声を返してくる。キキョッシュッデゥ?……恐縮です、と言いたかったのか。すぐに彼の意識は“それ”に戻る。最高級の絹は目も醒める真紅に染められて、王女が体を動かすたびに玄妙な光沢を表面に滑らせていた。明確にバラの形を取っていないのにそれがバラであると明瞭に解るフリルの配置はデザイナーの才能の賜物だろう。素晴らしいドレスだ。この手のものに疎いニトロも心からそう思う。しかしそう思うからこそ、彼は今、ドレスの左肩にあるそれ……その小さな白い糸クズに、意識を完全に奪われていた。
 このドレスが素晴らしいからか? それとも恐ろしいほどに紅いからだろうか。ほんの5mmほどの白い糸クズはまるで聖域を侵す許されざる異物に思える。
 ニトロは、だから、異物それを取ってやろうと手を伸ばした。
 前を向いて歩くティディアはこちらの動きに気づいた様子はなく、緩まぬ速度で常に遠ざかる彼女に追いつくように少しだけ歩みを速めて、彼はその肩に指を触れた。
 小さな白い糸クズを摘み取る。
 そこでハッとしたようにティディアが振り返ろうとした、刹那――
 パン!
 と、小気味良い音がした。
 と同時に真紅のドレスが弾け飛んだ。
 それを、ニトロはスローモーションを見るように見ていた。
 一瞬前まで素晴らしいドレスであったはずの布切れが、まるで巨大なバラが花びらを散らすようにして落ちていく。そして花が散った後に現れたのは、深紅に白い刺繍の入ったビスチェと、エレガントに両脇の透けた紅いパンティ。
「キャ!」
 と、妙にかわいらしい悲鳴を上げたのは誰だ?
 ああ、そうだ、ティディアだ。
 床に落ちたドレスの残骸を見ていたニトロは目を上げた。
 そこには恥ずかしそうに頬を染めた下着姿のティディアがいる。
「もう」
 伏目がちに、しかしこちらを上目遣いに見るように、彼女は言う。
「部屋まで待てなかったの?」
 瞬時に、ニトロは顔を紅くした。それはもちろん羞恥のためではない。女のなまめかしい下着姿を目撃したためでも、その態度に性的な興奮を掻き立てられたからでもない。罠にかかった――それを理解したがためである。しかし顔が紅くなるほど頭に血が昇ってきた一方で、彼は極めて冷静に状況を把握していた。
 周囲がざわめいている……そりゃお姫様のドレスが弾け飛んだら誰でも驚くだろう。そこにこの奇妙な事態を目撃した人々へ聞かせたティディアのセリフ。それがどういう作用を及ぼすか、、わざわざ確認するまでもない。
 ニトロはティディアを睨んだ。怒りと、その中には迂闊に罠にかかってしまった己への憤りも込めて。
 ティディアはニトロを見つめた。挑発と、その中に獲物が罠にかかったことへの歓喜と興奮を込めて。
 二人の熱意は、形は違えど熱意には違いなく。
 そのまま二人は視線をぶつけ合う。
 互いにいつ相手に躍りかかっても不思議のないほどに激しくぶつけ合う。
 やがて、それが周囲に“見つめ合っている”と受け止められる、と気づいたニトロはわずかに目を逸らした。するとこの不利な戦況から獲物が逃れようとしていると察したティディアがそっと身を寄せ、囁いた。
「3m離れたら、第二弾」
 その黒紫の瞳がわずかに下に振れる。
 それだけでニトロは悟った。いつ、どこで己が身に手品の種を仕掛けられたかまでは知らぬが、それがハッタリではないと確信した。歯を噛み締める。硬直した頬がさらに赤みを増す。
 ティディアは微笑み、さらに扇情的に少年を見つめた。ほんの少しだけ唇を開き、紅の隙間からぬらめく舌先をちらつかせる。
 その挑発に、ニトロは動いた。
「キャァン!」
 またもかわいらしい悲鳴を上げてみせたティディアを抱きかかえ――周囲に驚愕とも歓声ともつかぬ声が上がる――彼は一目散に控え室に向かった。そこはもうすぐ近くにあって、ずっとこちらをそのとおり良きマリンブルーの瞳で伺っていたに違いない、にまにまとした女執事がドアの脇にいる。ニトロは彼女を睨んだ。女執事が優雅にドアを開く。そこにニトロはティディアを右肩に担ぐようにして飛び込んでいった。
「――――!!!」
 控え室に入るなり、ニトロは芍薬の声を聞いた気がした。
 未だに舞台上で浴びた拍手喝采が反響し、加えてティディアへの怒りに塞がった耳ではその言葉を聞き取ることはできなかったが、とかく芍薬はバカ姫を罵倒したのだろう。しかし、
「やー、ニトロって親切よねー」
 全く悪びれた様子もなくティディアは体を揺らす。笑っているらしい。
「コノ……ッ!」
 控え室の全ての壁面を震わせるように、芍薬が怒鳴る。
悪畜生ワルチクショウ!!」
「うっわ酷い言われよう」
「的確じゃねぇか」
「え〜?」
 のんきな調子のティディアはニトロに担がれたまま、抵抗する素振りの一つもなくなすがまま、
「でももうちょっと早く気づいてくれたら恥を晒さずに済んだのに……」
 後頭部にかかるため息にニトロは犬歯をむいた。
「てことは何だ?」
 キョロキョロとこの重荷を捌ける場を探す。このまま床に叩きつけてもいいが、以前の舞台挨拶でこいつにパイルドライバーをかました事もある、今回もその類例として吹聴されたら堪らない……それが時すでに遅くとも。
「お前は舞台で下着姿を晒すより糸クズがドレスについてる方が恥ずかしいとッ?」
「一緒にランジェリーファッションショー行く?」
「行かぬッ!」
「だって舞台で下着」
「今日は、『映画』の、舞台で! そっちはそっちで別問題!」
「濡れ場もあればよかったわね、しまった」
「はあ?」
「ニトロが虜になった衣装で登場! なら別にね?」
「そもそもあの展開で俺が親の仇の虜になるかぁ!!」
 ニトロは怒声を上げて――こいつを封じられる場所がないのが悔やまれる――王女のために運び込まれた豪華なソファにティディアを投げつけた。と、
「主様!」
 芍薬が声を上げるや否や、ニトロの喉元に突然力がかかった。
「んぐッ!?」
 不意の力に引かれてニトロはつんのめる。そして彼は生理的な反射でこぼれた己のうめき声が何を意味するのかを知った。
 ティディアが、あれほどなすがままにされていたように思えたのに、いつの間にかネクタイを掴んでいたのだ。
「いらっしゃい」
 股を開いて彼女が甘く囁くと同時、ニトロの体は拒絶を示す暇もなく女の腹の上に引きこまれた。慌てて彼はソファの背もたれに手を突いて完全に倒れこむのを防ぐ。が、その腰を肌もあらわな太腿が両側から挟みこむ。
「この展開ならどう?」
 ティディアの両手がニトロのうなじを包んだ。
 怖気に襲われ、即座に彼は顔を横向けた。
 頬にすべらかに柔らかく、熱いものが押し当てられる。そして、吐息。
「もう、キスくらいさせてよ」
 女の潤んだ瞳は肉欲を乞う。
 その瞳を凝視して、ニトロは、声音の脆さに反して恐るべき力を発揮するティディアの手からどうしてもこうべを解放することができず、戦慄していた。
 その腕力が男に勝るわけではない。
 とはいえこの細腕から想像できない筋力ではある。
 しかしそれよりも、逃れよう逃れようとするこちらの動きを、しかもソファに身を置きながら巧みに殺してくる技術力が凄まじい。
 渾身の力で上半身を立てようとするが、理解できないテクニックで妨げられる。腰に巻きつく脚から逃れようとしても同様だ。無闇に力を浪費させられるばかりで何にもならない。全身に汗が噴き出す。積み重なる疲労が敵に味方して抵抗力が削られる。これまでティディアを罵倒し続けていた芍薬が焦ったように声援を送ってきた。ニトロは、己を奮い立たせるようにうめいた。
「キスくらいたあ、なんつう言い草だぁぁ」
 ティディアは心地良さそうに笑う。
「かわいい。ニトロはキスにこだわるのね」
「そういうこっちゃねえんだこの展開で“くらい”ってのがおかしいっつってんだ」
「価値観の違いは認めるべきよ?」
「既に議論はその範疇を逸脱している!」
「むはは! よいではないか、よいではないかあ!」
「なるほどそれはこの範疇に類する事例ではあるがこのタイミングで町娘を手篭めにしようとする悪人の常套句たぁフザケヤガッテ!!」
「でもみんな失敗する」
「お前も失敗する!」
「なら逆に私を手篭めにして!」
「断る!」
「なら抱いて!」
「同義語ぉ!」
「同義語?」
「だから議論は既に逸脱ッ!」
 その時、ニトロは閃いた。
 ティディアに引き寄せられないようソファに突っ張っていた腕の力を抜き、彼女のなすがままに胸元に抱かれてその体温を頬に感じながら、ビスチェ越しに無防備な脇腹へそっと指を這わせる。
「っあ」
 と、常からは逸脱した行為に不意を突かれて、甘い声が頭上に漏れる。
 その瞬間、ニトロは今一度渾身の力で上半身を起こした。わずかな力の緩みの隙を突き、ようやく戒めを脱して彼はティディアの上で身を仰け反らせた。
「あッ」
 と、ニトロの下でティディアの失態が声になる。
 凄まじい速度で振り下ろされた彼の額が、彼女の額にめりこんだ。
 ビクン! と獲物を挟んで離さなかった両脚が跳ね上がり、ふいに力が抜ける。重力に引かれるまま両の踵が床に落ちるとやけに硬い音がして、追って何か転がる軽い音がした。おそらく衝撃でハイヒールが脱げたのだろう。
 無様な姿でソファに沈む女から身を起こし、少年はゆっくりと立ち上がる。
「次ハ、絶対ニアンドロイドヲ持チ込モウ。デキル限リノ対策ヨリモ、モットシッカリ対策シヨウ」
 ここには諸々の手続きの関係上、アンドロイドの手配が叶わなかった。それどころか急遽控え室のシステムを部外者しゃくやくがコントロールすることを映画祭主催に了承せられ得たのも、実はティディアの強権に頼るところであった。だとしても、いや、だからこそマスターの危機を目の前に喚くことしかできなかった無力を滲ませる芍薬に、ニトロは言う。
「それよりコレと完全に縁を切る方法を考えない?」
「……」
「……」
「……」
「……」
「……ゴメンヨ?」
「いや、こっちこそゴメン」
 ちょっとこぼれた涙を拭って、ニトロは踵を返した。
 へとへとだった。
 もう家に帰ろう。
 そういえば頬っぺたに口紅をつけられていたっけ? これも部屋を出る前に拭っておかないと誰に見られることか分からない。ああ、乱れた服も直さないと――そう考えながら嘆息を漏らしつつ、ニトロはとぼとぼと歩を進めた。
 一歩、二歩――
 ――五歩、六歩。
「主様!」
 芍薬が警告を発した。
 プチンと、かすかな音がニトロの耳に触れる。
 彼は振り返った。
 ソファに、ティディアが立ち上がっていた。目を回したまま、呆けたように口を開け、だらりと両腕を脇に垂らして彼女はそこに佇んでいた。その乳房からヘソまでを覆うビスチェと、恥部を隠すパンティが支えを失って下にズレ落ちつつある。
 と、勢いその場に下着を残して、王女が跳んだ。
 ニトロは見た。
 ああ! 真っ裸な痴女が天井に影を落としてダイブしてくる!
 どうするべきか。
 避ける? 迎撃する?
 避けてもすぐに追われて避けきれまい。迎撃しようにもそのまま押し倒されてしまうだろう。
 わずかな逡巡の間にも両者の距離は縮まる。
 迫る。
 その双眸が間近に見える。
 焦点の合っていなかった瞳に光が戻りつつあった。
 その原動力は、意志だ。ニトロは理解した。その意志は、つまり仕掛けた悪戯の成功をほくそ笑む、邪悪にして強固な意志である。
 既に眼前にしてそれは笑う。
 未だ意識の朦朧としたままに、いやらしく笑う魔女はよだれを垂らす!
「うわああああ!」
 ニトロは叫んだ。
 その瞬間、彼の視界は暗転した。
 それは懲りぬバカ姫への怒りが限界を超えたためであったろうか? それともほとんど意識を喪失しながらネタの遂行に執着する『クレイジー・プリンセス』への恐怖のためであったろうか。
 ニトロの視界が開けた時、痴女は、床に伏していた。
 土下座をするように身を屈し、こちらのつま先にキスをするような格好で、王女はその活動を停止していた。
 背中のくぼみに汗が流れ込んでいる。
 とても……
 とても静かだった。
「死ンジャイナイヨ」
 肩で息をするニトロへ芍薬が言う。
「タダ気持チヨク眠ッタノサ」
「……」
 ニトロはどこかにあるはずのカメラを探すように、顔を上向ける。
「“ベアハッグ”カラノ“フロントネックロック”」
 やや間を置いて、芍薬が続けた。
「オ見事デシタッ」
 ニトロは部屋を出た。
 息も整わぬまま、服を直しながら、ドアのすぐ横に控えていたヴィタに一言告げる。怒号を無理矢理小さくした声に女執事はたじろいだようだが、ドアの隙間から中を一瞥するやほっこりと笑みを浮かべてうなずいた。ニトロは呆れ、それ以上何も言わずにその場を後にした。
 視線を感じて頬についた口紅を落とし忘れていたことに気づいたが、それを思わず手の甲で擦ってしまって頬と甲の両方に紅を引き伸ばしてしまった。
 顔をしかめるが洗面所に立ち寄る余裕はない。
 血痕のようにも思えるその跡をハンカチでできるだけ拭い落として歩く。
 そして芍薬の手配した無人タクシーに乗り込んだ彼は、よもや映画祭のゲストがこんなタクシーに乗ってくるとは思わぬマスメディアの脇を素通りしながら、それでも顔をうつむかせ、きっと今は栄誉と賞賛と涙の溢れる劇場がベイエリアの商業的な光に埋もれていくのを背景に、あの強大にして驚異的なクソ女から身を守り続けられる力を早急に得ねばならぬ――と、改めて決意したのであった。

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