後吉

(第二部『第 [3] 編』のちょっと前、『2018 大凶』の翌日)

 ニトロがトレーニングを始めて一ヶ月が過ぎた。
 その効果のほどに、明確な実感はまだない。
 ただ体は以前より動くようになってきたと思う。
 初めの頃のようにトレーニングをするたびに歩くのも億劫なほど疲労困憊となることも、吐き気に襲われることもなくなってきた。それは単に慣れてきたというだけでなく、例えるならしばらく使わずにいたマシンの錆が落ち、オイルの交換も終わったというところだろう。しかもそのメンテナンスをしてくれたのは謎の戦闘能力を有す戦友と、高級スポーツジムの経験豊富なトレーナー達であるのだから、その体躯の初期化中に問題が発生することもない。戦友は“仕事”で銀河そとへ行ってしまったため近頃はもっぱらトレーナーばかりに世話になっているが、それでなんの不足のあるものか。
 今日も今日とてジムにやって来たニトロ・ポルカトは、我が身に降りかかる災難を打ち払い、恐ろしい恥女から貞操を守るべく己を鍛えようと張り切っていた。
 さあ、これからだ!
 これからが肝心なのだ。
 運動しやすい体になってきた、慣れてきた、と油断することはできない。
 なにしろ、足りない。
 まだまだまったく足りていない。
 敵は強大である。
 しかもすぐそこにいる。
 というか頻繁に密着している。
 急がねばならない。
 敵は邪悪であり、クレイジーである。
 必死に、いや死んでも鍛え抜かねばならない。
 せめて立派に戦ったと誇れるように。
 鍛え抜くのだ!
 筋肉への虐待も、心肺への過重労働も、脂肪への殲滅せんめつ作戦でも何でもござれ。実際にやってみて判った、戦友の作ってくれたメニューは無理のないようにすこぶる厳しいものだと。しかしこれまでトレーニングの厳しさに音を上げたことはあっても、それを投げ出したことはない。トレーナーの皆さんも誉めてくれている。
 ニトロは張り切っていた!
 さあさあ、本日の内容は何だ?
 ――ストレッチ。
 ……。
 なにぃ?
 まるまるストレッチだけの個人レッスン!?
 ぬるい!!
 よもやハラキリがここに来て中休みのごとき項目を立ててくるとは……いや、このテンションを緩めることなどできない。鉄は熱いうちに打てと言うではないか。
 ニトロは決意した。
 ここはストレッチトレーナーのパウムさんに申し入れよう。
 パウムさんは古式健康法の『ビヨン』と『ニャリ』の達人だ。『ビヨン』は中央大陸最大の密林に栄えた古代文明の宗教の修行法から発展し、『ニャリ』は覇王の統一戦争時に南大陸で数々の伝説を残した武闘集団の訓練法から再発見されたもの。どちらにも秘技・秘法があると聞く。
 そうだ、今日はそれを教えてもらおう。
 ジムに来る前にそう言ったら毎日の体調管理をしてくれている芍薬は渋い顔をして疑義も呈してくれたけども、なあに構わないさ。俺は燃えているんだ。昨日もあのバカに弄ばれたんだ、なんだあのドレス! なんで糸クズ取ったらどうしてあんな……あんな、ああ、ああチクショウ!!
「おはようございます!」
 と、ニトロが怒り勇んでスタジオにやって来ると、そこには既にストレッチトレーナーのパウムと、格闘トレーナーのマドネルがいた。
 ?
 ニトロは首を傾げた。
 改めて本日のスケジュールを思い返す。
 間違いなく、用意されていたのは『ストレッチの個人レッスン』であったはず。普段は他の練習生と一緒に指導を受けているパウムさんに、一対一でじっくり細かく見てもらう――そのはずだった。一応格闘においても柔軟性は非常に重要ではあるが……
 疑念に囚われたニトロが棒立ちになっていると、パウムが進み出てきて手を打った。
「おはようございます、ミスター・ポルカト。さぁさボーピンってないでハリアッ、ハリアッ」
 短く刈り込んだ両サイドの髪をピンクに、ソフトモヒカンにしたトップをゴールドに染めたパウムは、目を丸くしているニトロに合わせるように目を大きく開き、
「ミスター・ポルカト、ビックにご挨拶したくせにスレケヴォていて? ほらほらハリアッ!」
 パウムのこの口調には未だ慣れない。アデムメデスの古語や方言、スラング、さらに銀河共通語やどこかのくにの単語を自由奔放に織り混ぜる彼女の言葉は、なめらか過ぎるイントネーションも手伝って特有の言語を形成している。だから所々で何の意味だか解らない。しかし不思議と何を言っているのかは判る。
 ニトロは“寝ぼけスレケヴォていない”ことを示すようにうなずくと、肩に提げていたバッグを壁際に置き、片脇に抱えていたトレーニングマットを……どこに敷こうかとパウムを見た。
 パウムは初めの位置に戻っていた。筋骨隆々で背の高く、黒々と焼けた肌に白いタンクトップと濃いベージュのハーフパンツ姿の――腿が太過ぎてそれがスパッツみたいになっている――格闘トレーナーの横に。すらりとして背の高く、活力の溢れる肌にサーモンピンクのタイトなタンクトップとカラフルなレギンス姿のストレッチトレーナーは、凛々しい眉目をいつもながらにまた凛々しく、口元には微笑みを浮かべている。
 ひとまず、ニトロは二人のもとへ行き、足元にマットを敷いた。その間も彼はちらちらと大きな筋肉男に目をやっていた。
「マドネル氏はサポよ」
 ニトロの疑念を汲んで、パウムが言った。逆に疑念は増した。
「マドネルさんがサポート、ですか?」
 彼はこのジムの人気トレーナーの一人だ。パウムと同じく、個人レッスンの予約を取るのも難しい。それが二人同時に、しかも一人をサポート扱いとはどんな贅沢だ。このジムでこうしてトレーニングを受けていられるのはひとえに我が友のお陰だが、彼は一体どんな手を使ってこれほどのVIP待遇を用意してくれたのだろう?
 ニトロがまごついていると、パウムは妙に愉快そうに目を細め、
「本日は、スペシャルなプログラムを行います」
 スペシャル――。ニトロの気が引き締まる。パウムはますます愉快そうに目尻を絞る。
「良いフェイス、ミスター・ポルカト、あなたはとても熱心。そのパッショにはいつも嬉しくなっています。だからワタクシ、プリンチポを曲げて本日のプログラムをオーケーしました」
 ニトロはまた疑念に囚われた。パウムは微笑ましく少年を見つめる。
「本来、ワタクシ、柔軟性は徐々にじっくり育むものと考えてます。優しく慈しんで、それでこそ本物が生まれ、しなやかに美しくなる」
 すっと動かされたパウムの腕はまさにしなやかで、見るだに快い。ニトロは彼女のその哲学を既に知っていた。それはレッスン中に彼女が折りに触れて口にするものである。
「けれどミスター・ポルカト、あなたは焦りすぎ。もっとフレンドリーに、もっとドゥに、あなたはあなたの体を愛しむべき……と、ワタクシは言うべきなのだけれど、ミスター・ポルカト? あなたは急いでいるのね? それだけの理由があるのね?」
 パウムの眼差しは熱い。ニトロは胸に期待の湧き上がるのを感じた。これはもしや、本当に秘技秘法でも教えてもらえるのでは?
「ええ、分かるわ、ミスター・ポルカト。あのお美しいお方と並ぶのですもの、焦るのも無理もナッシン」
 ニトロの胸の熱い期待が、一瞬にして凪いだ。が、思えばパウムの誤解は決して意外なものではなく、むしろ一般的で、そして確定的に思い込まれているものである。それを考えればニトロの胸には再び闘志が燃え上がる。そう、自分は焦っているのだろう。しかし、それは、その世間に確定してしまった常識を打破するためでもあるのだ。
「ミスター・ポルカト」
 パウムは言う。
「本日は『ビヨン』も『ニャリ』も致しません」
 ニトロは虚を突かれて若干呆けた。パウムは続ける。
「『ストレッチ』をします。なんの変哲もないストレッチ、そこらの運動教室でもできるただの柔軟体操――ですが」
 明らかに失望を見せているニトロへ、パウムはウィンクをした。
「とってもキツイ。なにしろ一気に柔らかくなろうってするのですから。でもワタクシ、一気に体を柔らかくできるなんて思ってません。効果がないとは言いません。けれどそれは怪我と隣り合わせ、しかも、本物のしなやかさ、美しさには程遠い、例えどんなに柔らかくなれたとしてもそれは魂とまでは一体でないカリソメ。ワタクシからすればリアル無駄。だからこのプログラムにオーケーを出すつもりはなかった。でもミスター・ポルカト? あなたは急いでいる。あなたのベスレはあなたの希望を叶えようとしている。あなたのパッショはとってもマーベラ。その熱意と友情、ワタクシ、嫌いじゃない」
 感激を隠さず語るパウムの横で、マドネルもうなずいている。ニトロはストレッチトレーナーの感情の乗った言葉に心を揺さぶられていた。やる気が増す。自分と、自分の親友を誉められてモチベーションも上がる。
「ミスター・ポルカト」
 パウムは言う。
「もう一度警告するわね、とってもキツイ――ハルサロスタ?」
 その『ハルサロスタ』とは南大陸のある地域の古語で、おはよう、さようなら、ありがとう、よろしく、など広範な意味を持つ。『ニャリ』のレッスン中にはこれが挨拶となり、開始の合図となり、解散の言葉ともなるもので、ここでは「よろしいか?」の意だ。
 ニトロは躊躇わずにうなずいた。
 どんなにキツかろうが“何でもござれ”――例えそれが地獄の苦しみであろうとも、さらなる地獄を退けるためなら喜んで受け入れよう。
 そして最後には、きっと乗り越えてみせるのだ!

 実際、地獄だった。

「んのぉおぉおぉおおお?」
 苦悶が、全身を震わせていた。
「ぉん? ほおおぉぉぉ……!」
 ニトロは己が苦悶そのものになった気がしていた。
 確か、このトレーニングの前には、自分の体が以前より動くようになってきたと思っていたはずだ。
 否。
 そんなことは全然なかった。
 というより自分の体がそこまで“動かせる”ものだとは知らなかった。
 だって肩がそんなに回るとは?
 背中のそんなところに指が届くとは?
 知らなかった――いや、正確には、動かせることは知っていた。しかしそれは人体構造における理論上のもので、体験によるものではない。そしていざ体験してみると、そこには驚きの苦痛しかない。
「息吸って!」
 パウムが言う。ニトロは吸う。
「吐いてーッ」
「んのっおぉぉぉあ あ ああ」
 ニトロはトレーニングマットに両足をまっすぐ伸ばして座し、揃えた足先に向かって上体を倒されながら、どうにかつま先を掴もうと手を伸ばした。が、指は足の爪に触れても握りこむことはできない。握りこめれば……終われるのにッ!
「膝を曲げてはなりませんミスター・ポルカト、呼吸を守って、はい、吸ってッ」
 膝を曲げてはならない、と言われても、そもそも曲げられるはずもない。なにせ我が両膝は共にマドネルに押さえつけられている。さらに彼に――ビッグ・マッスル・ガイの格闘トレーナーに思いっ切り背中にしかかられて、上体をぐいぐい押されている。
「吐いてーッ」
「うおおおおおとあっおぅぅぅ……!」
 マドネルにされるだけではない、ニトロは両手首をパウムに掴まれて、じわじわと引っ張られていた。しかも彼女はこちらの手首を掴むだけでなく、その両足の裏をこちらの両足の裏に当て、そうすることで踵の位置を固定してくるだけでなく、つま先が直角に天を向くように固めてきている。そしてこの合わさる両足は支点ともなり、それを利用してストレッチトレーナーはボートのオールを引くようにこちらの体を引っ張ってくるのだ。じわじわと、テコの原理でじわじわと――せめてつま先を寝かせてくれたならッ!
 畳まれる胴体から圧搾された血が頭に昇る。
 汗に脂が混じる。
 膝の裏で、腿の裏で、張りつめた筋繊維の数が判るようだ。おお、キれるッ……ああ、チギれる……ッ! 鈍い痛みと鋭い痛みがい交ぜになって何が何だか分からない! 脚の筋が脳と直接つながってでもいるのか思考さえも引き伸ばされる。苦しい。痛い。痛苦しい! 体を起こせれば楽になれるのに、それもできずに衝動だけが口を突く。
「はンっ? ホんッ……!」
 脚の裏を震源とした痛みにやがて体表の全てが緊張していく。すると連動して体の内側も緊張し、さすれば横隔膜も動きを減じ、そのうえ体が折り畳まれる圧力に呼吸が止まる。呼吸が止まれば筋肉の硬直もまた強まる悪循環。されど一方でその硬直は曲げられたバネが元に戻ろうと反発するように己を苦しめる二つの力への抵抗を試み、だけど抵抗し切れなくて、そこに押すことも退くこともできない絶望的な軋轢が生じる。
「ぬんッ!?」
 この拷問から逃れるにはこの状態を打破するしかない。押すことも退くこともできなくとも、結局選べるのは、押すか、退くか。では押すか? できない、さすれば壊れる。なら退こう!
「リラーックス、リラーックス」
 しかし退こうとするこちらの手をいて、ストレッチトレーナーは笑顔である。
「ぬぅぅんッ……!!」
 ニトロはうめく。涙が滲んじゃう。だって退くにしたってそもそもマドネル氏のマッスルに抗えるものか。あまりの苦しみに何だか未知の力に目覚めそうだ。もしやこの未知の力を求めて人間は苦しみに満ちたせいを生きるのだろうか? いやいや、そんなことはどうでもいい。目覚めそうだ、と言える間はまだ余裕があるのだ。パウムにマドネル、流石は二人共に一流のトレーナーである――「ここが限界だね。でももうちょっとイけるよね? ほぉらイけたイけた」と絶妙な点を的確に見極めてくる。無論、本当の限界は超えない。これまで本当にニトロが断末魔を迎えそうになった瞬間は幾度もあったが、その瞬間、何を合図したわけでもないのにマドネルの圧はふっと消え、パウムの牽引力が緩やかに殺されるのだ。そして生かされたニトロは束の間の休息の後、先延ばしされた限界点に向けて再びプッシュ&プル。
「ふぬぅぅぅん!」
 地獄である。
 地獄の慈悲は悪魔の哄笑である。
 ほらまたマドネルの圧が消え、パウムが力を緩めた。ニトロは生き返った、息も絶え絶えに。
「呼吸を守ってミスター・ポルカト、ハルサロスタ? さあポッシヴ、ポッシヴ!」
「ぅふぅぅ……」
「はい、吸ってー、リピートアフタミィ、ミスター・ポルカト。ポッシヴ、ポッシヴ!」
「ポ、ポッシヴ!」
「ポッシヴ!」
「ポッポポッ……ポォォォーウ!」
 叫び、そうして息を吐き切った時、ニトロの手は己のつま先を掴んだ。その際に足裏を合わせあっていたパウムのつま先も力一杯掴んでしまったが、ストレッチトレーナーはそれをむしろ喜んだ。彼女はニトロの手首を放し、手を叩く。
素晴らしいハルサロスタ!」
 背中にかかる圧力も消え、その瞬間、跳ねるように上半身を起こしたニトロは忘我の域にあった。頭に昇っていた血が瞬間的に降下したのか目の前が真っ暗になる。直後に光が戻った。眩しい。汗と脂にまみれた顔面が熱い。称賛の笑みを湛えるパウムをぼんやり眺めると、解放感と、安堵にも似た達成感が湧き上がってきて身を震わせた。
 と、その間に、彼の足は開かれていた。
 その角度、およそ100度。
「あれ?」
 これ以上開けないよ? という開脚状態に気づいたニトロは疑念の声を上げ――さっと青褪めた。
 両膝は例によってマドネルに押さえつけられ、背中にはぶ厚い大胸筋の質量が。両手首はやっぱりパウムに握られていて、彼女は悠々と脚を開き、その足の裏は左右それぞれ吸いつくようにこちらの踝に添えられている。内側から、外側へと押し開くように。
 匠の技だね? この、長座前屈から開脚前屈への流れるような展開。
「息吸ってー」
 反射的に、ニトロは息を吸った。
「吐いてー」
「ッぬはゃあ!」
 変な声が出た。
 痛い!
 膝裏から裏腿、裏腿から鼠径部にかけて爆竹でも仕掛けられているかのような恐怖が走る。靭帯的な危機、肉離れの悪寒、股関節につながる全てに針を刺し通されたのか、有り体に言って物ッ凄く痛い!
「ふぉああああア!?」
 先の前屈とは違う苦悶。
「ミスター・ポルカト、ポッシヴ!」
 先の前屈と変わらぬ激励。
「力を抜いて、さあ、ポッシヴポッシヴ!」
「ポッポポポッ?――ッノーーー!」
 ニトロは思う。
 どんなにキツかろうが何でもござれ――例えそれが地獄の苦しみであろうとも、さらなる地獄を退けるためなら喜んで受け入れよう。そして最後には、きっと乗り越えてみせるのだ!
 でも、限度って、やっぱりあるよね?
「ムリムリムリムリギブあッ! ノー!!」
 しかしパウムは首を振る。
「ノー? ノー! ポッシヴ!」
 ニトロは激しく首を振る。
「ノー! ノッ――ポォォウ! ポォォォォーウ!!」
「よいしょぉ」
 今日初めて口を開いたと思ったら、マドネルさんたらぐいっと押してくれちゃってッ! ニトロの目が見開かれ、充血した眼は明日を見失う。再び苦悶の塊と化した彼の口から絶望がほとばしる!
「よぉぉぉぉォッ!? ぅをんぱサーーーーーッァ!!!」

 ――ニトロ・ポルカトは、後日、無事にいつでも自分の頭より高いものを蹴り飛ばせるようになった。

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