「ところでニトロ様は怖い話はお好きですか?」
次の
彼は聞いた。
「いきなり何で?」
「昨晩から今朝にかけてのことです。私はとても怖い思いをしました」
「うん?」
――この
「うん、どんな?」
「たまたまネット
ニトロは苦笑いを抑えられない。
「いやそりゃ単に一晩どっぷりネットロアにはまっただけじゃないか。てか、てことは徹夜してたんだ?」
「はい」
「駄目よー、ちゃんと寝ないと。仕事に悪影響が出ちゃうじゃない」
と、言ったのは彼女の主人だ。それに女執事はどこか悪戯っぽい笑みを返している。ニトロが彼女の今日の仕事振りを省みれば、そこに
「ヴィタさんは怖い話も好きなんだね」
「面白い話なら何でも好きです」
「あ。
そっかそっか……」
「それで、ニトロ様はいかがでしょう」
「――ああ。好きかどうかってことなら、人並みじゃないかな?」
「では覚えているお話はおありでしょうか」
「あるけど……そう聞くってことは、もしかして知ってるものを話せってこと?」
「是非に」
大きくうなずいたヴィタの藍銀色の髪が一房、頬にこぼれる。ニトロは軽く顎を上げ、
「でもぱっと思いつくのはネットのやつだから、ヴィタさんも絶対に読んだばかり――」
そこまで言って、ニトロはふと口を閉じた。目を動かすとやはり黒紫の髪を肩に流す女が、じぃっと、その黒曜石のように底光りする瞳をこちらへ向けてきていた。
ニトロはこぼれた髪の一房を耳に――自身の能力で作り出した偽物の耳にかけるヴィタへ薄い笑みを向け、
「だから、話すだけ時間の無駄だ」
黒曜石の瞳に影が差した。執事に言いながらも実際にはその主人に向けられた舌鋒に胸を突かれたように体を揺らし、ティディアがよよとして言う。
「私はそんなニトロのいけずが怖い」
「嘘つけ」
「嘘じゃないわよぅ、ニトロは知らないのよ、貴方のその態度が私の心をどんなに冷たいナイフで切り刻むかってことを」
「そう言いながらお前は随分楽しげに見えるぞ?」
「だって、そうして冷たく切り刻まれるのも気持ち良いんだもの。つい期待しちゃって」
「ド変態が」
「やん、気持ちいッ」
「……」
ニトロは一つ息をついた。そしてこちらを見つめ続けているヴィタに目をやり、
「コイツが、俺にとっての『怖い話』そのものだとは思わない?」
「体験談もよいのですが、今回は“ネットのやつ”をお聞かせ願えませんでしょうか」
「……否定はしないんだね。でも何で?」
「ニトロ様が“怖いと思った話”に興味があります」
「悪趣味じゃない?」
「そうでしょうか」
女執事は微笑み、双眸を細める。その誘惑するような催促に、ニトロは息をつく。
「ぱっと思いついたのは、『青いリボンの女』と『セイレーン』だよ」
「それってどんな話?」
その時、ニトロは目を
「別に私は全知全能ってわけじゃないのよ? 知らないことだってあるわ」
するとニトロがひどく胡散臭そうにティディアを見た。彼女はかすかに首を傾げ、
「それとも、全知全能であってほしい?」
「……いや、それは、それこそ『怖い話』だな」
「でしょう? だから、お話ししてよ。私も興味があるの」
「……」
「なあに? その目は、まだ疑っているの?」
「全知全能でないとしても、やっぱり絶対お前は知ってると思う」
「やー、ホントに知らないわよぅ」
笑う彼女は屈託のない。しかしニトロは猜疑を消さない。周囲が見守る中、彼はしばしの沈黙の後、
「『怖い話』で検索しろよ。一発で載ってるサイトが出てくるから、それで読むなり読み上げさせるなりすればいい」
「やっぱり怖い話って人に語り聞かせてもらうのが一番だと思うの」
「だから読み上げさせればいいだろ?」
「私は
「だからこっちは断るって言ってんだ」
「ヴィタだって聞きたいでしょう?」
「はい」
「いやヴィタさんはもうどの話か分かったはずだよね?」
「はい。ですが、それを私も読みはしましたが、聞いてはいません」
「読むも聞くも、内容は一緒じゃないか」
「読みものと語りものが、例え内容が同じにしても同じものだとは思いません」
「それに聞きたいのは私達だけじゃないしねー」
と、ティディアが視線を横に流し、次いで部屋の内の誰もいない場所をチラと見る。
ニトロは閉口した。あくどい女への非難を目一杯に込めるが、彼女は白い歯を見せて笑ってみせる。
部屋は沈黙している。
彼は、ため息一つ。
「『青いリボンの女』は、こんな話だよ」
腕を組み、この場に姿はないが確かに存在する透明な誰かに語るように、彼は続けた。
「その少年がその女を初めて見たのは、いつも遊んでいる
女に二度目に出会ったのは、イベントの最中だった。
ちょっと大きなレイド中に、フィールドの端に青いリボンの女を少年は見たんだ。驚いた。それでミスをした。仲間に迷惑がかかって、そのミスを取り返すためにバトルに集中して、からくも勝利を得た後に女のいた場所を見ると、そこには誰もいなかった。仲間に聞いても誰も他に見たものはいない。A.I.にログを確認させたけど、フィールドにそういう存在が現れた形跡もない。
じゃあ、きっと見間違いだったんだろう。
そのボスが妖精系だったから、あの女のことを頭のどこかで思い出して、それで見た気になったんだ。
だけど女はまた現れた。次に遭遇したのは酒場でだった。混雑する店内で、一番離れた席に背中を向けて座っていた。そして少し目を離した隙に消えてしまっていた。
次には教会で遭った。死んだ仲間の復活を待っている時、柱の影に女の姿を見た。思わず駆け寄ったけれど、やっぱり見失った。
次は別の町に飛ぶゲート。自分の目の前で青いリボンの女がゲートの中に消えた。
少年は気づいた。
段々、近づいてきている。
少年は運営に問い合わせもしたけれど、そんなノンプレイヤーキャラクターはいないし、もし他のプレイヤーが嫌がらせをしているのだとしてもログに残らないはずはないと断じる。あなたの直前にゲートをくぐったプレイヤーは確かに存在しますが、お問い合わせにあったような姿をしていないことだけはお伝えします。
訳が分からなかった。
その頃には少年は女に怒りを覚えていた。もちろん女に不気味さを感じはするけど、不気味に思う自分にさえ腹が立った。A.I.も仲間も運営もそんな女はいないと言う、だけど僕は確かに見たんだ。絶対に捕まえてやる。不思議なことに、それからしばらくはその女を見かけることもなかった。けれど毎日ログインして仮想世界をさまよって、仲間の誘いも断って探し続けて、でも見つからない。ひょっとすると、ここにきて相手はヤバイと思って嫌がらせを止めてしまったのか?
そうして少年が諦めかけた時、ふいにあの女が現れた。
しかもそれは例のゲームの中じゃなかった。気分転換に別のゲームに入って、久しぶりに会おうと昔の仲間を誘って、目的地に向けて町を歩いていると、行く先の角をすいっと曲がるあの姿が見えた。白い服を着て、腰まである長い髪の先を青いリボンでまとめている女。それは全くあの姿のままだった。
別のゲームにまで女がやってきたことには驚きと不気味さと恐怖があり、明らかにストーキングされていることにも恐怖と嫌悪があり、だけど何よりも、少年は怒った。全力で追った。仲間が何か言った気がしたけれど聞こえなかったし、確認する気もなかった。少年が道を曲がると、そこに女はいた。そしてその姿を見た時、少年はぞっとした。これまで常に背中を向けていた女が、すぐそこで、こちらを向いて立っていた。
女は、にたにたと笑っていた。
その笑い顔を見た時、少年はこれが
ヤバイ。
この女はヤバイ。
これはゲームのはずなのに、現実ではないはずなのに、どうしてかそう思えてならない。
少年は気づいた。
これまでずっと後ろ姿しか見ていなかったから、その長い髪に隠された女の首を少年は見たことがなかった。
女の首は、細かった。
棒のように細かった。
巨大な手に信じられない力で絞められたかのようにひしゃげて、細く細く潰れて、そこにも青いリボンがぐるぐるに巻かれていた。
その上で女の顔は天秤がバランスを取るようにゆらゆら揺れながら、にたにたと笑っている。
少年は叫んだ。
女が近づいてくる。細い首の上で笑顔が揺れている。手が伸びてくる。その手にも青いリボンがあるのを見た時、少年の心臓は凍った。慌ててログアウトした。本能的にログアウトしたんだと思う。そうでなければ――信じられないことだけど――自分は絞め殺されていた、と、意識を
気持ち悪かった。
まずは顔を洗おうと少年はヘッドセットを外した。
目と鼻の先に、にたにた笑う女の顔があった」
……ニトロは、そこで息をついた。
「これを、俺は父さんに聞いたんだ。王都立博物館のマインドスライドを使った特別展に行く途中、車の中でね。
父さんに悪気はなかったよ。話題を探して単に“マインドスライド”→“マインドスライドに関する話”って連想しただけなんだろう。だけど、冗談じゃない、子どもの俺はその話を聞いたからにはもうずっと楽しみにしていた『特別展』を断固拒否した。古生物の闊歩する世界から帰ってきて、ヘッドセットを取ったら目の前に肉食動物が――いや、にたにた笑う女の人がいたら僕死んじゃう……おい、何をげらげら笑ってんだティディア」
「やー、これが笑わずにいられるわけがないじゃない。ていうか、笑わせたくないなら何でその話をしたの? 別にオチをつけなくてもいいのに」
「別にオチをつけた覚えはないし、何よりお前に話したんじゃないんだが?」
「あら、じゃあ私は盗み聞きをしちゃったのかしら」
「だとしたら随分堂々とした盗人だな」
その言葉に、ティディアはどこか満足気にうなずく。その隣ではヴィタも満足気であった。彼女が言う。
「“おまじない”については?」
ニトロは苦笑いした。やっぱり知っていたじゃないか――そう目で訴えながら、
「父さんはその時忘れていたよ。その後いつ知ったか覚えてないけど、『アランチョネ』って香水の名前を唱えればいいって安心したことは覚えてる。女の正体については、
ヴィタはまた満足気な顔をして、
「『セイレーン』はどのような話でしたでしょうか」
ニトロはまた苦笑した。
「しれっと
「寝不足のためか少々ボケてしまったようです。思い出させてくださいますか?」
ニトロは苦笑を嘆息に変え、一つ大きく息を吸い、
「その人は、歌が好きだった。
暇があればネットで新しい歌を探して、自分でもギターを弾いて街角で歌うこともあった。
ある日、その人はネットで素晴らしい歌声を聴いた。感動のあまりに、気がつけば泣いていた。保存しておこうと思った時にはもうファイルをダウンロードしていた。
その日から、その人はただ一曲しか聴かなくなった。ギターを弾くこともなくなり、歌うこともなくなった。その歌は完璧で、完全な美だった。その人は友達に『神の歌』を知ったと自慢し、思うままに他の歌を、歌手を貶した。あの歌の歌手以外はただ声に高低をつけてブツブツ言っているだけに過ぎず、あの歌以外は支離滅裂な文章を歌詞と名づけてはしゃいでいるだけに過ぎない。歌を通じて交友の広かったその人は、ひとり、またひとりと友達を失っていった。でも、それで良かった。それが問題だとも思わなかった。その人は繰り返し『神の歌』に聴き入った。
ただ不思議なことに、その人は、その歌を歌っている人の名を知らなかった。ファイル名には歌とは関係ない、ただの数字の羅列しかなかった。そもそもどのサイトのどのページで聴いたのだったろう? それとも
それなのに、ある日、その歌のデータが消えた。ファイルは跡形もなく
その人は取り乱した。
コンピューターを管理していたA.I.を責め、デリートした。
誰か嫉妬した奴が盗んだのだと思ったその人は手当たりしだいに昔の友達を訪れ、詰め寄り、罵倒し、返してくれと泣いて懇願した。もちろん誰もそんなことはしていない。誰に対してもその人は最後まで疑いながら帰っていった。その話が広がって、その人と会おうとしない人も多くいた。そういう人には、それこそ犯人だと待ち伏せして襲いかかって警察沙汰にもなった。
結局、歌声は戻らなかった。
いつしかその人は家に篭りきりになっていた。
心配した兄が尋ねた。その人と兄は今は遠く離れた場所に住んでいたけれど、とても仲が良くて、その人が歌を好きになったのも兄の影響だった。それを知っていたその人の友達が、見捨て切れずに連絡してくれたんだ。
玄関に鍵はかかっていなかった。
中に入ると一心不乱にモニターに向かっているその人がいた。何日も風呂に入っていないのか、異臭がした。何日もろくに食べていないのか、痩せこけていた。ヘッドフォンをして、音楽機材を忙しく操作し、目は血走っている。驚いた兄の呼びかけにもその人は応じない。業を煮やした兄がヘッドフォンをむしりとると、その人ははっとして、どこか呆けたような目を向けた。そこに兄が問いかけると、その人は今にも泣き出しそうな声で言った。『――どうしても再現できないんだ』『何を?』『あの歌を。覚えているのに作れない。メロディは今も頭に響いているのに、どうしても奏でられない。また聴きたい。あの歌声は作れなくても、せめてあの響きだけでもこの耳で聴きたいのに』
大体の経緯を聞いていた兄は、落ち着いて、その人に言い聞かせた。その歌は初めからなかったんだ。――昔から影響を受けていた兄の言葉だったからか、もし他人にそう言われたなら血を吐くように反論していたその人も、ようやく説得されるようだった。
けど、その時だった。
その人は急にベランダを見た。
そして駆け出し、窓を開けた。
何が起きたのか兄が理解する間はなかった。
『あの歌だ!』
その人は叫んだ。
『あの歌が聞こえる! ああ、消えないで!』
と、ベランダに出て、柵を乗り越えて、まるで目の前で消えていく何かを掴み取ろうとするかのように飛び出していった。
ドン、と、兄はその人が落下した音を聞いた。
数日後、その人の友達の手を借りて遺品を整理していた兄は、その人のメディアプレイヤーにふと目を止めた。見てみると、いくつもフォルダがあるのにどれもが空っぽだった。その人はやっぱり気が触れてしまっていたんだと皆が思った。兄が『セイレーン』と名づけられたフォルダを開くと、そこに、ファイルが一つだけあった。それにはタイトルはなく、数字の羅列だけがあった。
誰もが興味を持った。
どうやらこれだけ消されずに残されていたらしい。その人が、あんなになってまで残していた音楽は何なのだろう? もしかすると――これがその『神の歌』? あんなになってしまったから、本当は消えていないのに消えてしまったと思い込んでいたのでは?
兄は気が進まなかったけれど、友達の一人が再生した。
スピーカーから、音は流れなかった。
再生時間は9分41秒。データは読み込まれている。なのに音は出ない。ボリュームが小さいのかと大きくしてみるけど関係はなさそうだ。しばらく待っても何もない。
皆はがっかりして、遺品の整理を再開した。プレイヤーは再生したままだった。そして9分が経過した時、急にスピーカーから何かが聞こえた。
誰かの声だろうか? 風の唸りのようにも聞こえる。
皆は驚いた。音は不鮮明で何の音なのか……皆が聞き耳を立てていると、スピーカーから急に声が流れ出た。
『あぁアじにだくない!!』
ボリューム最大の音量で、金切り声で、言葉は濁っていたけれど、確かにそれは死んだその人の声だった。ほとんど同時に肉と骨が潰れて血が破裂する音がした。再生は終わった。
誰もが声を失っていた。あまりのショックに倒れる者もいた。
兄は思い出していた。その再生分数は、多分、自分がその人を救うためにこの部屋に入ってきてからの時間だ。
誰かが、震える声で言った。
『そうだ、あのファイル名は……』
その後は言えなくて、それきり言葉は続けられなかったけれど、皆気づいた。そう、それはちょうどその人が死んだ日付、時刻だった」
――ややあって、ティディアが言った。
「で、オチは?」
ニトロは頬を震わせた。
「お前さっきなん
「やー、こういうのは重ねてこそじゃない?」
「一応俺は怖い話をしたんであって笑える話をしてるわけじゃねぇんだぞ?」
「ないの?」
ほんの刹那、ニトロの瞳は止まった。が、彼は言う。
「ない「ないのね?」
間、髪入れず畳みかけられたティディアの問いに今度こそニトロの瞳は止まった。
ティディアは、やがて勝ち誇ったように微笑んだ。
ニトロは歯噛んだ。
しかしティディアの瞳は言う。聞きたい者に、聞かせないのか?
ニトロは、顎の力を緩めた。
「この話を読んだのは、小学生の頃、オカルト好きな友達にネットロアのことを聞いて、たまたまタイトルが目に入ったから。読んだ時は怖いなと思ったし、けれど前に聞いたことのある怪談と同じようなパターンだったから、そういう系統の話なんだな――なんて余裕もあった。けど、その夜、メルトンが言ったんだ『ニトロ、十日前買った漫画はもう読まないのか?』――何のことか俺には分からない。十日前に漫画を買ったことなんてない。そう言う俺に、メルトンは若干バカにしながらも真剣に言うんだ『あんなにのめり込んでたじゃねぇか。何度も繰り返し読んでたし、何度も何度も俺に熱く語りやがったろう。なんならログを出してやろうか? ニトロ、まさか本当に忘れちまってるのか?』……その頃はまだA.I.が正しくないことを言うとは信じていなかったし――思えばこの頃から今のメルトンになってきたんだけど――それに何より『セイレーン』を読んだばかりだったから、俺は急に不安になった。あの話ではファイルが消えたけど、自分の場合は記憶が消えてしまったのか? そういえばそんなような怪談もあった気がする。メルトンが言うにはその漫画は神と悪魔の深淵に迫るものだったっていう。小学生のニトロ・ポルカトにさえ大きな宗教的体験、というか、神秘体験っていうか、とにかく法悦すら感じさせていたんだったって。俺は、そんな凄いものを忘れたって?
翌日、酷い寝不足になったよ。それでそんな俺を見てゲラゲラ笑うメルトンと大喧嘩して、学校に遅刻して、先生にしこたま怒られたんだ」
「ソレヲ聞イテ、メルトンハ何テ言ッタンダイ?」
ふいに、いずこから部屋に響いた問いかけは、ごく自然な流れで何気なく聞いたという風を装っていた。
ティディアがニトロを見る。彼女の眼差しはその問いかけをした者と同じく自分も答えを知りたいと示していたが、一方で歪んだ女の唇の裏側には“その問いかけ”そのものへの愉悦があることをニトロは知っていた。ヴィタは自然体でありながら、いや自然体であるからこそ、“その問いかけ”をひどく愛でていることが察せられた。何の音が聞こえたわけではないが、ニトロがちらと振り向くと、親友がわずかに口角を持ち上げていた。
三人のこの様子を、もちろん芍薬は見逃していまい。そしてこの三人にこのように反応されることも予見していただろうに。だが、それでも芍薬は“その問いかけ”をせずにはいられなかった――ニトロはその内心を慮って、それと同時に湧き起こってきた感慨に、しみじみと笑った。
「それを聞いて、メルトンはバツの悪い顔で『ごめぇん』って言ったよ」
ティディアがきょとんとした。ヴィタもハラキリも意表を突かれたようである。きっと芍薬も驚いているだろう。ニトロは小さく喉を鳴らして笑うと、
「あいつは、今もそうだけど、調子に乗りすぎてついやり過ぎる。だけどやりすぎた時、昔はまだ素直に反省していたな」
「それでつい許しちゃって、結果、今はああなっちゃったのね」
ニトロはティディアを軽く睨んだ。
「“やり過ぎる”のはお前も同じだからな」
「そして何だかんだで許してくれるのも同じね」
「え? 許されてると思ってんの?」
「え? 許してると思ってないの?」
「え?」
「え?」
沈黙が二人を隔てる。互いに相手の言葉が
「いやいやいや」
と、笑いながら嘴を挟んできたのはハラキリだった。二人が同時に彼を見る。彼は組んでいた腕をほどいて、
「そういうすれ違いが起こる時は、大抵どちらも正しいか、どちらも間違っているものです」
「そうすると矛盾しか残らないだろう」
「人間が矛盾の塊だから、残るものが矛盾であればそれは正解ということなんじゃないですかね」
「……すぐそうやって哲学的に煙に巻く」
「哲学というより詭弁でしょうか。こういう大勢を騙す手管を古代のエリート達が競って磨いていた、というのも“怖い話”ですよねぇ」
「いやまあそりゃそうかもしれないけど」
ニトロは笑った。完全に煙に巻かれたことを自覚しながら、相手を責めるよりも、やっと話題に入ってきた相手へ興味を移す。
「その怖い話だけど、ハラキリは何か知ってるか?」
ニトロの問いを追うようにヴィタがハラキリを見る。ハラキリは言う。
「有名どころは概ね。ネットロアに限らず、巷説・風聞が主流であった頃の都市伝説から民話、怪談、童話など」
「お好きなのですか?」
ハラキリはヴィタへ目を移し、
「『怖い話』は一定の需要がありますからね、話の
ニトロは苦笑し、
「なんつーか、そりゃ味気ない意見だなあ」
「そうですか? この手の話へ時代背景も含めた社会構造からアプローチする研究など、手法としてはメジャーなものだと思いますが」
「うん、それはそれで立派な研究だと思うし、メジャーなんだと思うよ? だけど単に『怖い話』を楽しむって構造から見ればマイナーだし、味気ない」
「なるほど」
ハラキリは腕を組み直し、うなずいた。
「それは一理」
「なら理をもって教えてくれないか? ハラキリが、一番怖いと思ったのは何か」
「それとも、
横から差し込まれたティディアの提案にニトロは一瞬
――ハラキリは、面倒臭いな、と思った。
「
と、そこに、彼の心中を察したかのようにニトロが催促を突っ込んできた。
はぐらかしの言葉を吐こうと息を吸いかけていたハラキリは絶妙なタイミングで息を止められ、そのままペースを失った。
いよいよ三人の好奇心が高まる。
わくわくという擬音が形となって現実にこぼれ出てきそうだ。
完全に逃亡の機を失ったことを悟ったハラキリは、今一度息を吸い、吐いた。
「『キッシェルリンクのブルーボトル・ゴースト』はご存知ですか?」
「あー、確かメイドが伯爵家の宝物の、王から下賜された青いガラス瓶を紛失したって濡れ衣着せられた話だっけ」
だが、実際にそれを失った真犯人は、伯爵夫人だった。誤って割ってしまったのを隠していたのが明るみに出て、彼女は非常に焦ったものの、疑いの目がメイドに向いたのを幸い、そこで自ら追及に出た。伯爵は伯爵で、実はその瓶を偽物とすり替え本物は売り払ってしまっていたため、紛失したのはこちらも幸い、メイドを言葉巧みに追及した。元来物事を信じ込みやすく、生真面目だったメイドはやがて自分が紛失したとのだと思い込まされ、とうとう無実の罪を認めてしまった。「正直に認めた」ことから伯爵に許されはしたものの、翌日、責任感に苛まされたメイドは川に身を投げた……しかし死んでもその『ブルーボトル』が気がかりで、失くしてしまった宝物を探しにあの世から迷い出た。メイドの幽霊は夜な夜な屋敷をさまよい、幽霊と遭遇した伯爵夫人はやがて発狂、伯爵自身もその騒動から悪事がばれて投獄された。けれど既にこの世のものではないメイドはこの世の真実を知ることができず、今もまだ――今は観光名所となった――あの屋敷をさまよっている。
「それに似た怪談が
「バンチョー、ってのは地名か? 皿屋敷ってのも面白い名前だけど、それは皿みたいな屋敷なのか、それとも象徴的な皿でも飾ってあるのか?」
「皿屋敷、については例の屋敷が現在『ブルーボトル・マンション』と呼ばれているのと同じ理由です」
「じゃあ皿がキーアイテムなのか?」
ハラキリは笑った。
「ニトロ君が一番興味のあるようですね」
ニトロは、む、と息を止め、若干乗り出していた身を引いた。ティディアが目を細めているのに気を害したように腕を組み、しかし耳はハラキリに向け続けている。
「バンチョーについては」
と、ハラキリは期待に応えて話を続けた。
「ある集団の中での一種の称号、それとも尊称でしょうか。少々本題から外れますが、まずはこちらからお話しておきましょう。
さて、バンチョーは強い。
腕っ節が強くなければバンチョーという称号を勝ち取ることができないからです。
またバンチョーは強いだけではいけません。
もちろんバンチョーの座を懸けた決闘に勝てれば、ただ強いだけでもバンチョーにはなれます。しかし優しくなければ本当の意味で敬意を得られない。その優しさも、あくまで強さの影に隠れていなければなりません。誰に対しても優しいのはいけない。常にはむしろ優しくてはいけない。そしてそれを背中で語れる
「テラコヤ?」
「こちらで言えば修道院付属の学校でしょうか。あちらには『ブツ』という宗教がありまして、そのテラという宗教施設に併設されているものです。ただこのテラコヤ、実に物騒なところでもあり、『ブツ』を悟りたいという真面目な学徒のほかにアクソーという武装した僧侶も通っている」
「いや待て今宗教って言ったよな。武装?」
「
「できればもっと良い面で親近感を見出したいもんだが。……で?」
「で、このアクソーどもは日々、ライバルテラコヤと抗争を繰り広げているのです。ハラマキを巻いてナギナタや
「待った、コッジキ? ゲドー?」
「コッジキは地域住民に心安く生きられるための保証金を喜んで上納させることで、ゲドーは異教徒、もしくは異端者という意味です。場合によっては魔物や、それに順ずるような悪人などもそう呼ぶようですね」
「……」
「ええ、アデムメデス国教会にも教区から重い税を徴収していた時代がありましたね。もしくは寄付を募りつつ、その実それを納めないと地獄行きという脅しのような。覇王の統一前には宗教戦争も事欠かなかったものです。現在でも悪徳霊能者は山ほど」
「うん、そこらへんはいいや。てか、その国教会の親玉みたいな奴が面倒なこと言い出すと面倒だから先に行こう」
「やー、
「ほら面倒なこと言い出した。ハラキリ、次、次」
「で、まあ、そういう環境のテラコヤです。抗争に継ぐ抗争で荒れていない方が珍しい。一般学徒はいつもアクソーに怯えながら通学している。そうまでして通うのは
さあ、この『バンチョー皿屋敷』に出てくるバンチョーは、ムサシボーやベンケーという
思わずニトロが言う。
「顔がないのに顔面パンチとは?」
ハラキリはさらっと続ける。
「テングという妖怪の長い鼻をむんずと掴み背負い投げ100連発で地獄直送」
「えぐいのか相手がタフなのか」
「極悪非道な、かつ極悪非道だからこそオニと呼ばれる怪人を『お前はオニなんかじゃねぇ! こんなにも温かいハートがあるじゃねえか!』と熱い説教で存在を根本から破壊」
「おぅ逆に無慈悲」
「山一つをぐるりと囲めるほど大きなムカデを唾を吐きかけただけで蒸発させる」
「スケールが急におかしなことに。てかバンチョーって本当にそれでいいのか?」
「それでいい!――と思わせるのがバンチョーでして。さてこのバンチョー、子分のシャテーからとある幽霊騒動を聞きました」
「あ、本題?」
「本題です。腕っ節は冴えないけれど機転の利くシャテーが語るには、
『五枚』数える女の声、
『六枚』パリンと皿の割れる音、
『七枚、八枚』パリン、パリン
『九枚』パリン……
最後の一枚が割れた後、シン、と静まり返った古井戸に、やがて聞こえてくるのは女の泣き声。しくしくと、しくしくと泣きながら、濡れた袖では涙も拭いきれず、はらはらと涙をこぼして女はようやく聞こえる声で『1枚足りない、1まい足りない……いちまいたりなあい』」
聞こえるのはハラキリの声なのに、なぜか語られるのは女の声に聞こえる。耳元にぞぞと寒気が立つ気がした。ニトロがちらとティディアとヴィタを見ると、ヴィタは目を細くして聞いている。視線に気づいたか、ティディアがちらとこちらを一瞥してくる。が、ただそれだけですぐに語り手に戻る。ニトロもまた物語に引き戻される。
「女の涙に血が混じり、乱れた髪が風もないのにぞわぞわと蠢く。ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしる袖の下から覗くのはカッと見開かれた二つの
幽霊を初めに目撃したのは屋敷の雑用を勤める下男だった。古井戸の傍で気絶しているところをオニワバンに発見され、おい、おい、と声をかけられて、男はハッと目覚めるやいきなり喚き出した。けたたましく悲鳴を上げて目と耳を塞ぎ、近づこうとすると誰も寄るなとばかりに腕を振り回す。どうにかして落ち着かせ、何があったかと聞くと下男は言った――キク――と。『おキクだ、おキクが化けて出た』と。それは屋敷で働いていて、ダイミョー様の家宝の皿を割ってしまったジョチューの名前。キクは先日、まさにその古井戸に身を投げて死んでいた。そうして家宝の皿を割ってしまった責任を取ったのだろう、女の身ながら潔しとの声もあったのに。夜更けの出来事を語り終えた下男の体はびっしょりと汗にまみれて、まるで着の身着のまま水の中に飛び込んだようである。下男はぜぇぜぇ喉を鳴らし、と思えば突然どぅと倒れた。アッとオニワバンが駆け寄ると、下男は既に死んでいた。ああ、これは祟り殺されたに違いない――
屋敷は大騒ぎになった。確かにそれから夜になると声が聞こえる。初めはそれが幽霊の仕業だとはどうしても信じぬ者もあり、どれ正体を暴いてやろうと古井戸に向かう者達もあった。そして翌朝、古井戸の傍で揃って気絶しているところを発見された。すると幽霊となって騒ぎを起こす不届きなジョチューなど切り捨ててくれると屋敷のサムライの一人が古井戸に向かった。そして翌朝、今度はどうしたことか、散々に自分の体を切り刻んで死んでいるのを発見された。その後、“おキク”を見た者の中に高熱を出してころりと死ぬ者が現れた。騒ぎは広まる一方だ。そこでダイミョー様はこれ以上の犠牲が出ぬよう古井戸に近づいてはならないと厳命し、古井戸に近い部屋にも人を入れぬよう見張りを立てた。しかし、そうしても、夜な夜な古井戸から“おキク”の声だけは聞こえてくる。屋敷のどこにいても聞こえてしまう。皆、眠ることなどできやしない。特にダイミョー
困り果てたダイミョー様は屋敷を引き払い、別所に移った。今では『皿屋敷』と呼ばれる屋敷は売り払うと言う、が、幽霊屋敷を買おうなんて者はない。ダイミョー様はおキクをジョーブツさせられた者には褒美を出すと言う。そこで何人ものシュ・ゲンジャやオン・ミョージ、悪霊退治に覚えのあるホーシや戦場では敵無しのムサ、果ては金に目の眩んだボーズまでもが挑戦したが、ことごとく失敗し、ただ恥を晒しただけだった。祟りを受けたのだろう、キツネツキになったものも少なくない。
――その夜、『皿屋敷』の門前にはバンチョーがいた。シャテーもいた。別に呼び出されたわけではないが、バンチョーが行くところにはシャテーも行くのだ。門は硬く閉ざされている。もはや番をするものもない。シャテーが門を開けようとしてみたがびくともしない。シャテーが息を切らして『管理を任されている
古井戸は、恐ろしいほど静かであった。おかしなことに庭を荒らしていた雑草も周囲には一本もなく、虫の気配も、蚊の羽音の一つすらもない。月の光でさえ近づきたがらないのか、不自然に暗い。ここだけ空気が澱んでいるのか、ジメッとしていて重苦しい。どこからかヒュゥと隙間を抜ける風の声がした。やがて古井戸の底からドロドロと地獄からマグマの噴き出すような音。恐ろしや、シャテーが目を見張っていると、話の通り、すーっと、古井戸の底から女が一人浮かび上がってきた。しかし話とは違い、ただ上がってくるのではない、すーっと、苦しみ悶えてのたうつように身をよじらせて空中を這い登ってくる、それはまるで
『一枚、二枚』皿を数えてパリンと落とす。
『三枚、四枚』数えては落とす、落ちては割れて、割れては『五枚、六枚』と数え続ける。
『バンチョー、バンチョー!』シャテーが腕を振る『どうしたんでげす、退治しないんでげすか』バンチョーは動かない。ただ皿を数えては割る女を見つめている。『まさか怖くなったわけじゃないでげすね?』幽霊よりもその方が恐ろしいとばかりにシャテーが顔を強張らせていると、幽霊は皿を数え終わってしまった。
『一枚足りない』女の嘆く声は哀れを催させる。『いちまいたりなあい』しくしくと鳴き声の尾を引いて、“おキク”はふっと消えてしまった。
『……バンチョー?』とうとう何もしなかったバンチョーに、シャテーが問いかける。まさかバンチョーは立ったまま気絶しているのではあるまいな?――もちろんバンチョーが気を失うわけもない。その眼力は鋭く、固く結ばれた唇には漲る意志がある。そして踵を返したバンチョーを慌ててシャテーが追いかけて『ど、どこへ行くんでげす?』と問えばバンチョーはただ一言『幽霊退治だ』
これにシャテーは驚かずにはいられない『幽霊は今そこにいたでげしょう!? 消えちゃったけど!』しかしバンチョーはもう応えない、ひたすらに足を進める。何が何だか分からないが、シャテーはこの恐ろしい皿屋敷に一人置かれないよう懸命についていく。
皿屋敷を後にした二人の進む
屋敷へと躊躇いもなく進んでくる漢に門番どもがズイと進み出で『何者だ』と槍を構えるが、されど漢は歩みを止めず、無言のままに屋敷へ差し迫る。
『おのれ、狼藉者!』二人の門番は今にも槍を突かんと漢の前に立ち塞がる。とそこに漢の影に隠れていた小男が拳を振り上げ『やいやいこちとら“おキク”のことで用があるんでぃ、邪魔すんじゃねえでげす!』今やバンチョーの考えをすっかり悟ったシャテーが言ってのけると門番達はぎょっとして『おキクだと?』『今さっき会ってきたところでげすよ』あわれ門番達は怖気づく。逆に勢いづいたシャテーは腕まくり、前に出て言うには『うちのバンチョー様が“おキク”を退治してやろうってわざわざやってきてやったんでぃ。さあ、さっさと門を開けるでげすよ』と、しても、どんなに怯えていたところで“はいそうですか”と開ける門番のあるはずもない。
『だが今はあまりに早すぎる。改めて参られよ』とぶるぶる震える槍の先を向ける門番に、シャテーがさらに何か言おうとしたところ、それを制してバンチョーがずいと進み出た。無造作に槍を払いのけ、門番達が
『出会え出会え!』
槍に刀に矢に鉄砲、揃いも揃えてダイミョー配下のサムライどもが侵入者を討つべく現れる。多勢に無勢、いかにバンチョーとても、と思わせる情勢なれども彼は颯爽と進み、バンと放たれた鉄砲、その弾を避け、ひょうと放たれた矢、その
『キクは何故死んだ』
ダイミョー様の目はまん丸に見開かれた。『あれは、あれは自ら身を投げたのだ』そう応えたことで気を取り直したか、ダイミョー様は襟を整え『愚かな女であった。力の足りない女であった。しかしあれは命をもって我が家の家宝を損じた責任を取ったのだ、それは見事の一言である』されどバンチョーは断じる『嘘だな』それにダイミョー様は怒り心頭『無礼な! テンチシンメーに誓って嘘などではあるものか!』『
「真実を吐かせるパンチ?」
「ぶっちゃけボディブロー」
「物理でゲロる!」
「そうしてダイミョー様に
『それで供養を出して善人面とは。まさしくゲドーでげすな』シャテーの侮蔑する一方、バンチョーはまだ何か気になることがあるらしい。気絶したダイミョーを捨て置いて、振り返ることもなく寝所を出て行く。
『バンチョー、どこへ?』シャテーが追いかけると、バンチョーがやってきたのは
――このことは、その日のうちに世に広まった。シャテーが言いふらし、アクソーどもが騒ぎ立て、コーギオンミツの耳にも入ったという。ダイミョー様の屋敷には石が投げ込まれる。しかしこの騒動に背を向けて、バンチョーは再び皿屋敷の古井戸の前にいた。そこにシャテーがやってきた。『いずれダイミョーはハリツケゴクモン、夫人はルザイでげしょう』バンチョーは何も言わず、ただ静かに待つ。
その時がきた。
ヒュゥと風が鳴り、ドロドロと音を引き連れておキクが古井戸に現れる。悲しげに、恨めしげに。そこにシャテーが『真実が明かされた』『濡れ衣は晴れた』と呼びかけるが幽霊は聞く耳を持たない。
『一枚、二枚』今宵もまたおキクは皿を数え出す。その度に指からすり抜け皿は割れてしまう。きっと油が塗ってあった皿がそうして割れてしまったように『三枚、四枚、五枚』おキクは数える。シャテーが懸命に説得するが聞こえない。シャテーはバンチョーを見る。
『六枚、七枚』
と、その時、急にバンチョーが言った『今
最後は、皿の割れる音はしなかった。
見れば、これはどうしたことか、割れてしまったはずの皿が全ておキクの胸に抱えた包みの中に揃っている。
確かに、十枚。
『あら嬉しい、あら嬉しい』さめざめと泣いて幽霊が言った。その顔は晴れ晴れと、色も生気を取り戻して桃色に、さすがダイミョー様も惚れこんだというその美しさ。
『さあ、ユけ』とバンチョーが言った。幽霊の目が動く。月影のもと、
『ああ。嬉しや』
おキクは消えた。
後日、二度と現れることもなかった。
哀れな女、せめてゴゼの弔いにと、古井戸の前でバンチョー配下のアクソーどもが声を合わせて
バンチョーは答えない。シャテーはバンチョーをじっと見上げる。やがてバンチョー、口に草をくわえたまま、にやりと歯を見せ『あのダイミョーは前からいけ好かなかった』
シャテーは笑いを堪え、バンチョーはくわえていた草を吐き捨てた。アクソーどもの読経が終わり、二人も手を合わせる。
『ナンマミダブツ』」
はぁ……と、吐息をついたのは誰だったろうか。
この場の話題の大元を持ち出したヴィタは満足気である。
ニトロは語り手を見た。――はぁ、と、吐息をついたのは彼だったろうか? ひどくうんざりした顔で、彼は自分に向けられた視線を受け止める。
「いやはや、やはり面倒でした」
長い話を終えた疲れというよりも、長い話をしなければならなかったことを嘆息するかのようだった。思わずニトロは苦笑する。労いを混ぜた感想をかけてやろうと言葉を探していると、先にティディアが口を開いた。
「途中から怪談というより、ほとんど武勇伝だったわね」
「おそらく複数の説話が融合しているのでしょう。この手のものでは珍しいことではありませんよ」
「んー、まあそうね。本で読んだの?」
「動画です。『カミシバイ』というもので、ただこの“おキクの話”には別のジャンルに古態があるようでしてね、それも見るなり聴くなりしてみたいのですが――」
「出回ってくれない限りは叶わない?」
ティディアは意地悪そうに言う。ハラキリは肩を軽くすくめる。そういえば――とニトロは思い出した。普段からあんまり普通に話題に出るものだから気にしていなかったが、この地球の話は実際には禁制のシロモノなのかもしれない。
「さて、次はお
「私?」
「何を意外そうに。拙者もニトロ君も話しました。となれば次はお姫さんです」
「うん」
ニトロが相槌を打つと、ティディアは怪訝に眉をひそめ、
「やー、ここらで言い出しっぺのヴィタじゃなあい?」
「私は最初に、既に」
「体験談をカウントしなかったのはヴィタさんだよ」
「では、私は最後に」
「だそうです」
とハラキリに促され、どうにも不満気に眉をひそめたティディアはちらりと誰もいない空間を見やり、そして、小さく息を吐いた。納得とも諦めともつかぬ顔で、流し目にも似た視線をニトロへ送る。
「……なんだよ」
思わぬティディアのその表情に、ニトロは体を強張らせた。警戒心が彼の
「ニトロ、あなたの精子はもう作ってあるから」
一瞬、ニトロは相手が何を言っているのか解らなかった。
だが直後、彼は相手が何を言っているのか理解した。
「おいッ!?」
思わず立ち上がったニトロの喉から恐怖が溢れ出る。ゾゾと体の芯に冷気が走り、勢い体温が急低下したように感じられた。立ち上がった際に押し倒してしまった椅子が大きな音を立て、鳥肌も立つ。するとティディアは微笑みをにんまりと卑しい笑みに変え、
「う・そ」
「――は?」
「だから嘘よ。だってそれで既成事実を作るのは簡単だけど、そうやってニトロを追い込むことはまだ考えてないもの」
ティディアの笑顔には快感があった。それは悪人の獲物を嬲る快楽に等しかった。そこにあるのは純粋な楽しみである。だからこそニトロは彼女の“嘘”が――やろうと思えば本当にそれを行えるクレイジー・プリンセスではあるが――事実『嘘』であるのだと確信した。そして確信したと同時、この女はまたもにんまりと、同じような顔でありながら全く色合いを変えて笑った。ニトロは歯噛む。怒鳴りつけてやりたいが、しかし一方で彼は不安であった。自分の精子はバイオテクノロジーの温床で育てられてはいないし、凍結保存されてもいない、その確信に揺らぎはない。が、その上でこの悪女が口にした言葉はどうだ? そこにある可能性は? 『まだ考えていない』――
「ヴィタさんッ、やっぱり俺にとってはコイツこそが『怖い話』だ!」
ほとんど怒鳴るように言ったニトロにヴィタはにこりと笑ってうなずくと、
「それです、ニトロ様」
その唐突なセリフに、ニトロは面食らった。何やら「『私、
「様々な話を読み、聴き、今もお話しして頂きましたが、こうして顧みると最も私の印象に残る『怖い話』は、やはりニトロ様の仰るそれのようです」
――ということは、最後に『怖い話』を語るべきであったヴィタは、最早それを話すに及ばない……
「ずるいなあ!」
思わずニトロが言うと、ティディアもハラキリも同意する。しかしヴィタはにこにこと笑顔で、本心から嘘偽りのないことを言っているのだから悪びれることもない。こうなっては彼女に『怖い話』を提供してしまった
「そうやってトンチを利かせたように話を終えるならさ、ヴィタさんには言わなきゃいけない決まり文句があるんじゃないかな?」
言われてヴィタは、すぐに悟った。ティディアを、ハラキリを、最後にニトロを見、そして姿勢を正すと彼女は心底楽しげに頭を下げた。
「それでは皆様、お後がよろしいようで」
終