中吉

(第四部のちょっと前、番外編『夏みかんとカーボン(本編)』と『70日後』の間)

 使命を受け、ある政界の有力者との密談を終えたヴィタは、さてティディアと合流するまで何をしようかと考えた。仕事は山ほどある。だが、王女からは自由に過ごしてよいと言われている。
 祝日の昼下がり。
 ケルゲ公園駅前は行き交う人、人、人で賑わっていた。
 駅の正面口を出て右へ、ロータリーに沿って歩いていくのはケルゲ公園へ向かう人々。ここを出てすぐのカルカリ川に架かる石橋を渡れば川岸に広がる公園はもう目の前である。一方、駅を出て左に行くのは繁華街を目指す人々。左右どちらの流れにも多くの人出があるが、この時間は右手に勢いがある。反対に駅へ向かってくる人々は左手に多い。ただその数は左右ともに逆流に圧されて心細い。
 ヴィタは駅舎の傍に佇む。
 新たに列車が到着したらしい、駅から大きな人波が溢れ出す。足の踏み出し踏み下ろされて波はどうどうと鳴る。そのみぎわに佇むヴィタを何気なく振り返った人がふと見つめ、しかしそのまま別れる。彼女は雑踏を眺めるともなく眺める。
 何か面白そうなことはないだろうか、なければどこかへ探しに行こうか。
 ロータリーの中央には大きな宙映画面エア・モニターが浮かんでいて、そこに流れる誘い文句は数十秒ごとに切り替わっては曰く
「癒しの機械動物アニマロイドとの出会いは『クルカルチャ』に。ケルゲ通り三番地――」
 曰く
「善なるスタイルは改善された生活から。改善カウンセリング『デ・ドルシア』はあなたをいつでも改善します――」
 曰く
「あのマリンブルーの瞳も今すぐあなたのもの! 地域一番の品揃え、カラーコンタクトレンズは『コッコラパム』で! 装身用ファッション端末型ウェアラブルも、どんなタイプも本日大感謝セール実施中――」
 曰く
「スイーツバイキング開催中! 新進気鋭のパティシエ三人があなたを、あなたを、あなたを! 極上のスイーツパラダイスへ招待します!――『グラン・ボナ』それは危険な魅惑の花園。あなたを狂わす背徳のカロリー」
 ヴィタは、歩き出した。

 ミサミニアナ・ジェードとクオリア・カルテジアは、ケルゲ公園から駅に向かって橋を渡っていた。つばの大きな麦わら帽子をかぶったクオリアは人ごみの中で転ばぬように気をつけながら、薄く小麦色に日焼けした友達に言う。
「ちょっと待って、ミーシャ」
 その声に、ミサミニアナ・ジェード――ミーシャは慌てて振り向いた。相手の歩調に合わせていたつもりだったが、前から来る人とすれ違ったり後ろから来る人に追い越されたりしているうちに、いつの間にか二人の距離は離れかけていた。
「ごめん」
 と、立ち止まろうとするが、人波の勢いは遮ることができない。昨年大ヒットした『映画』の舞台の一つとなり、つい先日その公開から一周年を迎えた今日こんにち、元より有名であったケルゲ公園にはさらに人が集まっている。公園に向かう人の流れから外れたカップルが、どうやら撮影場所へのARガイドを見ているらしい、二人が距離を縮めようとしていることに気づかず間に入り込んできた。ぶつかりそうになったクオリアが足を止める。それを背後にいた男がわずらわしそうに押しのける。
「危なっ」
 よろめいた友達へミーシャは手を伸ばし、その細い腕を取って支えた。次いで男に鋭い目を投げる。一瞥をくれただけで去っていく男を怒鳴りつけたいが、それよりも友達が気がかりだ。クオリアはびっくりして目を丸くしている。このまま止まっていれば、また誰かがぶつかってくるかもしれない。
「橋を渡りきるまで」
 ミーシャはクオリアの手をぐっと握った。クオリアがうなずく。
「頑張る」
 そしてミーシャは歩き出した。ハーフパンツから伸びる彼女の足はすらりと引き締まり、力強い。混雑の中の流れに上手く乗り、所々に生じる渦や波頭を避けて進んでいく。クオリアも淡い緑のワンピースの裾からか弱い足を懸命に踏み出して、友達の手を頼りについていく。
 歴史ある石橋の下、カルカリ川は水も豊かに滔々とうとうと海へ向かう。その水面は夏の日差しにぎらついていた。まるで一面に銀箔を貼り、そこに油の玉をはじいて火をつけたかのようだ。覗き込めば底まで透き通り、うおの行くのに目の和む清流も、この人ごみから見ると凶悪に思えてならない。
 二人は橋を渡り切り、だがたもとの小広場もごった返して休めそうにない、そのまま駅へ向かう。ロータリーに沿った歩道に入り、そこで駅舎の軒下へと逃れる。
 やっと一息がついた。
 クオリアは乱れた息を整える。ミーシャはそれを待つ。ようやくクオリアが息を整えた時、ふと二人は目を見合わせた。まだ手をつないだままでいた。それに気がついて、妙におかしくなって、手をつなぎ合ったまま笑ってしまう。
 二人がケルゲ公園にやってきたのは、近頃初めてニトロ・ポルカトの主演した『映画』を観たクオリアが、その撮影場所に行ってみたいと言うので、そこに何度か訪れたことのあるミーシャが案内を買って出たからだった。しかし目的地に行ってみれば人、人、人の山。彼が出てきたマンホールは警備員に守られていて、そこに立って記念撮影をする順番待ちの行列ができていた。最後尾からは一時間の目安。呆れるクオリアの横で、実際にそこで写真を撮ったことのあるミーシャはそれを黙っていた。
 結局ろくな見学はできなかったにしても、クオリアは自分の目でその場所を見られただけで満足だった。ただ折角だ、ついでにその混雑振りを描きとめておくことにした。ミーシャはクオリアの絵を描くところを見るのが楽しい。板晶画面ボードスクリーンに現れる景色と現実とを見比べて、時に画家に質問し、画家はちょっとだけテクニックを解説し、それが互いにまた楽しい。
 しかしそれも終わるとやることがない。人もどんどん増えてくる。そこで二人はひとまずケルゲ公園駅に戻ってきたのだが、
「これからどうしようか」
 ミーシャが言う。
「もう目的は果たしたし、なんでもいいわ」
 クオリアは小さめのトートバッグから取り出したハンカチで汗を拭いていた。ミーシャは五分丈のシャツの袖で汗を拭おうとしていたところにそれを見て、何食わぬ顔でヒップポケットからハンカチを取り出して頬を拭う。
 麦わら帽子をかぶり直すクオリアへ、ミーシャは言った。
画廊ギャラリーにでも行く? 近くにあるんだ」
「調べてきたんだ?」
 ミーシャはうなずく。
「無理しないで。ミーシャには退屈でしょう?」
「クオリアの感想を聞きながらなら楽しいと思う」
「どうかしら。うっかり辛辣なことを言ったらそこの人に睨まれちゃうもの」
「気を遣っちゃう?」
「気を遣った感想は楽しくないと思う」
「そっか……」
「それじゃあ退屈でしょ?」
「うん」
 正直なミーシャにクオリアは微笑む。それから“なんでもいい”だと相手が困ることに思い至り、
「ちょっと休みたいかな」
「どっかのカフェにでも入ろっか」
「そうね」
 と、クオリアがうなずいた時、ロータリーに浮かぶ大きな宙映画面エア・モニターの流す宣伝がふと耳に入ってきた。
『スイーツバイキング開催中!』
 なんとなく、二人はその広告を眺めた。
「あ、うまそ」
 ミーシャがつぶやく。オレンジピールの入ったレアチーズケーキが映っていた。
「行く?」
「どうしようか。でもクオリアは損じゃないか? ああいうの」
「ああいうところのは小振りでしょ? それにたくさん並んでいるのが綺麗だから、結構好き。それに損と言うなら」
「うん?」
「ああいうところは誰だって元を取ることはできないと思うな」
「まあそりゃそっか。それじゃあ……」
 ミーシャは広告を見て、眉をひそめた。
「でもちょっと高いなあ」
「ちょっと高級志向なのかもね。味は普通のところよりいいかも」
「うーん、でもなあ」
「あ、クーポンがある」
 その広告を管轄するケルゲ公園駅前インフォメーションから携帯電話モバイルで情報を拾い、クオリアが言う。
「女性二人から使えるみたい。500リェン引きだって」
「マジで?」
「うん、マジで」
 ミーシャは考えた。500リェン引きでもやっぱりちょっと高い。だけどいい機会だし、さっきのレアチーズケーキは食べてみたい。
「お小遣い、ちょっともらえたしなあ」
「どうして?」
「部活、頑張ったねって」
「良かったね」
「うん、よかった。……そろそろテスト勉強にも本腰を入れないといけないもんな」
「脳に栄養を蓄えないと」
「――よし。行こう」
「うん、行こう」

 ケルゲ公園駅前から徒歩三分、繁華街の目抜き通りから一本裏に入ったところ、地下にBAR、二階に雑貨店を構えるビルの一階にその店はあった。
 店の情報を読み込んでみれば、そこは三ヶ月ごとにパティシエを代えてスイーツバイキングを行っているという。招かれるパティシエのプロフィールは様々で、過去の履歴を見ると誰もが名を知るようなビッグネームがいれば、店舗開設を目指すルーキーもいた。今回のゲストは三人。いずれも将来を嘱望される若者達だ。ここまでの評判も上々のようで、ミーシャとクオリアが店にやってくると列ができていた。賑わう店内にいるのは女性が大半、恋人の連れ添いといった男性がちらほら見えて、単独でいる男は一人だけ。しかし彼が幸せそうであるのが何より味を保証しているように思えた。幸い待ち時間は短い。クオリアが最近読んだ本の感想を話し終わらぬうちに、順番が回ってきた。
「わ」
 店内に入ったミーシャは思わず歓声を上げた。
 実に上品な空間だった。
 少しばかり時代がかったインテリア。それに合わせた服装のウェイターが爽やかに出迎えてくれる。銀色に輝くビュッフェ台に並ぶスイーツは鮮やかな色彩でまず目を楽しませ、そして食欲に訴えかけてくる。台はウェイターがこまめに整えているようで、バイキングにありがちな食べ散らかされた様子はない。清潔で、甘やかな香りが満ちていた。そこにこちらも飲み放題のドリンクからコーヒーの香りがビターなアクセントを加えている。
 ミーシャとクオリアはクーポンを使用して、70分間のパラダイスに参加した。
 二人用のテーブルに案内されるなり、席の下の荷物カゴにバッグを置き、ビュッフェ台に向かう。ケーキは当然、プリンやミニパフェもあった。ジェラートもあり、マカロンのような焼き菓子もある。台の後方に浮かぶ宙映画面ポップにはその品々の名が書かれ、そこに添えられているマークはどのパティシエの手によるものかを示していた。二人はしばらく台の前であれもこれも美味しそうだと話した。ほとんどミーシャばかりが話したが、クオリアは楽しげに相槌を打つ。やがて二人は分かれて思い思いの品を取り、席に戻った。
「……それだけでいいのか?」
 木目調の席に着くや、ミーシャはクオリアの皿を見て眉をひそめた。そこには正方形のケーキが二つ――赤と白のバランスも綺麗なフレジェと、素朴なチーズケーキ。それにミルクティーが一杯。
「やっぱり損だろ」
「たくさん取っても食べ切れないから、様子を見るだけよ」
 笑うクオリアはミーシャの皿を見ていた。そこには五種類のケーキが雑に並んでいる。食べたいと思ったレアチーズケーキは二つ取ってきていた。それぞれ小振りながらも合計六つ。加えてピスタチオのジェラートもカップに取ってきている。ドリンクは忘れていた。
「そっちは食べ切れるの?」
「これぐらい、ぺろりだ」
 早速フォークを手にしてオレンジピールの入ったレアチーズケーキを口に運び、フォークを咥えたままにミーシャは目を細める。ん〜ッと鼻を抜ける歓声がクオリアの耳をくすぐった。クオリアはフレジェの角を削って舌に乗せ、微笑んだ。
「正解!」
 ミーシャが言うのに、クオリアもうなずく。
 それからミーシャはあれこれとケーキを味見し始めた。一つ食べては快感に身をすくめ、一つ食べては頬を緩ませる。ころころ変わる彼女の顔をじっと見つめながら、クオリアはフレジェを少しずつ減らしていく。
 味見が一巡したところでミーシャは一つ一つの感想を言い出した。目を輝かせて語る彼女には、友達とこの幸せを共有したい願望が満ちている。そこでクオリアはレアチーズケーキを少しもらった。ミーシャがじっとクオリアを窺う。目を細めてクオリアがうなずくと、ミーシャの頬はそれを味わったとき以上にほころぶ。そんな友達の顔がクオリアには新鮮だった。
 これまで陸上競技に打ち込んできた体育会系の食欲とでもいうのだろうか、ミーシャはあっという間に皿を空にした。クオリアはチーズケーキに取りかかったばかりである。その様子にいくらかバツの悪そうな面持ちを見せたものの、甘味かんみの誘惑に抗えぬミーシャは再びビュッフェ台に向かい、今度は三種、それとカフェオレを手に戻ってきた。
 そしてカフェオレに砂糖を入れながら、一段落ついたようにミーシャは言う。
「そういえばさ」
「ええ」
「聞いてもいいかな」
「聞きたいことがあるならどうぞ」
「言いたくなかったらいいんだけどさ」
「ええ」
「ダレイとは、どうなんだ?」
 問いかけてきたミーシャの態度には気後れがあり、反面、恋への関心がその瞳に輝いている。クオリアは大きな眼で彼女をじっと見つめ、かすかに首を傾げた。
「なんでもないわ」
「マジで? だってよく一緒にいるじゃないか」
「ええ、よく手伝ってもらってる」
 ミーシャが少し疑わしげにクオリアを見る。
「手伝わせてるだけか?」
「お話もするけれど、彼はあまり喋らないタイプだからね」
「クオリアとは話してるぞ、ダレイは」
「そうね。お話して、手伝ってもらって、そして彼のお陰で私はこうしてミーシャと話しているわね。感謝しているわ」
「好きじゃないのか?」
 突然、単刀直入に質問が来た。クオリアは笑ってしまった。
「好きか嫌いかで言えば、好きよ。でも、ミーシャはそういうことが聞きたいんじゃないでしょう?」
「……うん。でも言いたくないならいいんだ」
「言いたくないわけじゃないの。だけど、答えはさっきと一緒。なんでもないわ」
 ミーシャはまた取ってきていたオレンジピールのレアチーズケーキを口にした。
「……ダレイはさ」
「うん」
「きっとクオリアのことが好きだ」
 クオリアはそっと目を伏せた。ミルクティーをスプーンで一混ぜし、
「私はそうは思わない」
「なんで?」
 ミーシャは目を丸くした。クオリアは細い肩をすくめる。
「そう言われたことがないから」
「どういうこと?」
「私ね、自分のことに関しては、その人が私のことをどう思っているのか、好きか嫌いかちゃんと言われないと、どっちだろうって決めないことにしてるの」
「え? じゃあ、クオリアはあたしがクオリアのこと好きだって思ってくれてないのか?」
 随分簡単にそれを口にされ、今度はクオリアが目を丸くした。ミーシャは自分が何を言ったのか思い当たり、はっとして顔を赤くする。が、すぐにクオリアを見つめ、
「でも、本当だよ」
「ありがとう」
 嬉しそうに応えられ、どう反応したものか戸惑うようにミーシャはチョコレートケーキを食べる。唇から離したフォークを軽く振り、
「だけどさ、そういうのって、何となく分かるだろう?」
 クオリアは内心、ある少年への片思いをずっと秘めている友達の言葉に、苦笑とも困惑とも言えぬものを抱いた。しかしそれを表さぬようにうなずき、
「そうかもなって思うことはね」
「それじゃあ?」
「それでも決めないことにしているの。この人は私を好きかも知れないけれど、そう決めない。この人は私を嫌いだろうけれど、そう決めない」
 そう言うクオリアの声音に、ミーシャは何か重いものを感じながら、しかし言う。
「でもさ、嫌いって言われないとそう決めないってのは、辛くないか? 嫌われてるって感じてるのに普通にするのはキツイし、つうか直接嫌いって言われるのはもっとキツイじゃん」
「私はほら、つい熱中しちゃうタイプだから。一つ思えばこう、ガーッと」
「? うん、そういうタイプだよな、いや悪い意味じゃなくて。クオリアのそういうとこ凄いと思ってる」
「ありがとう」
 嬉しいのだろうが、どこか困ったように笑って、クオリアはミルクティーを一口飲む。
「だけどね、私のことを好きでいてくれる人を『嫌ってる』って決めつけて、私のことを嫌ってる人に『好きでいてくれる』って思い込んじゃうのもキツイものよ」
 それをクオリアはまるで一般論をそらんじるように言った。ミーシャは、思わず顔を強張らせた。クオリアは微笑む、なんでもないように。
「変ね、あまりこういうことを話すのは好きじゃないんだけど」
「じゃあいいよ、言わなくてさ」
「ううん、ただ、私はこれまでたくさん失敗をしてきたの」
「――うん」
「昔は自分はそれで後悔するような人間じゃないと思っていたけれど、どうもそうじゃないみたいで、だけどもう過ぎちゃったことだからいいやって思っていて、でも、これ以上失敗はしたくないかなぁって思ってる」
「うん」
「私はよく変わってるって言われるんだけど、変に普通なところもあるみたい」
「うん」
「最近は、ちょっとね、楽しいんだ」
「うん」
「本当にダレイのお陰。思いもしなかったな、ハラキ――ハリーと」
 言い直されたその名にミーシャは思わず吹き出しそうになる。しかし一歩離れたテーブルも埋まっているから、その“配慮”にうなずいてみせる。
ポルカロが、面白い人たちだったのは」
「そうだな」
 流石にミーシャは笑ってしまう。クオリアも小さく笑い、
「初めてだったんだ。初対面で私は『爆発』したのに、ポルカロは驚いてもすぐに普通にお話ししてくれて、ハリーなんてむしろどこかどうでもよさげにしているんだもの」
「ああ、うん、わかるわかる、あいつはそうだよな」
「そのわりに彼もちゃんとお話ししてくれて」
「うん」
「ポルカロは、いつも真面目に考えてくれるわね」
「うんうん、てかお人好しだよ」
「私は別にそれまで寂しかったわけじゃないし、楽しくなかったわけじゃないの。本を読んで絵を描いて、ちゃんと楽しかった」
「うん、信じるよ」
「……。でね? だけどミーシャとも知り合えて、今はもっと楽しい」
「改めて言われると照れるなあ」
「意外なことに、言った私も照れると思ってたのに照れてない」
 ミーシャは笑う。クオリアはチーズケーキの残りを食べる。
「それでも、楽しい今も、やっぱり私は『決めない』んだ」
 話題が戻ったことに気づいてミーシャはうなずく。
「決めないままで楽しかった毎日がもっと楽しくなっているのに、それを変える必要もないでしょう?」
 本心で言えば、ミーシャはそれを否定したかった。いや、以前の自分だったら即座に否定しようと躍起になっていただろう。しかしクオリアがハラキリとニトロの影響を受けて楽しんでいるように、自分もあの二人の影響を受けていた。冷淡なようで妙に人を観察している曲者と、大変な生活を送りながらも人を気遣えるツッコミ屋。今、ミーシャはクオリアのその信念にも似た言葉を寂しく思いながらも、それを尊重しなくてはならないと感じていた。やっぱりクオリアは間違っていると思うし、もしそれに意見して良いならそうしたいけれど、少なくとも、それは今ではない。
 オレンジピールのレアチーズケーキを食べ終えて、ミーシャは言った。
「じゃあ、ダレイに告られたら?」
 クオリアはミーシャを見つめた。その大きな眼に、何故かミーシャはどきどきしてしまった。するとクオリアが掴み所のない笑顔となる。
「その時にならないと判らないわ」
「え……なんで?」
「だってこの人は私を好きかもって考えないんだから、好きって言われたらどうしようとも考えないもの」
「いやでもちょっとは考えるだろ?」
「その時、うんと応えるかもね」
 ぱっとミーシャの瞳が輝く。さらにクオリアは言う。
「逆に私の方から勢いで好きって言うかもしれない」
 いよいよミーシャの瞳が光を放つ。頬は赤らみ、期待に口元が緩む。
「だけど私は思わずハリーに告白するかもしれない」
「え!?」
 思わず、ミーシャは大きな声を上げてしまった。一瞬周囲の視線が集まり、それに気づいてミーシャは慌てて居住まいを正す。そして彼女はクオリアをそっと窺った。クオリアは平然としていた。
「彼と話すのはとても楽しいわ。色んなことを知ってるし、ちょっと捻くれてるし」
ちょっと?」
 クオリアはふふと笑い、見つめる。ミーシャは懐疑的な眼差しを向け続けてきている。一方でそこには“もしかしたら”の動揺もあるようだ。クオリアは空中に筆を走らせるように指を振り、
「ひょっとしたらポルカロに告白することもあるかもね。彼に絵を誉められるとすごく嬉しいから」
 と、そこでミーシャは煙に巻かれていたのだとやっと気づいた。じろりと睨みつける。クオリアは目尻をそばめながら薄い唇をかすかにすぼめ、そこに骨ばった人差し指をそっと添えた。そのジェスチャーに、彼女のその表情に、ミーシャは意表を突かれた。
 どういう意味だろう? 内緒? それとも、この話はもうおしまい? どうしてそんな顔ができるんだろう?
「取ってくるね」
 困惑するミーシャを残し、クオリアは皿を持ってビュッフェ台に向かってしまった。
 それを見送ったミーシャは機械的にカフェオレを一口飲んで、ふと、食べかけのケーキに目を落とす。
 ……でも、内緒だとしたら、何故だろう? いや、誰に内緒にしろと言うのだろう?
 ミーシャはやはりそれはダレイだと自然に思う。ハラキリとニトロは煙を描くための画材だ。そりゃちょっとはその可能性はあってもおかしくないけど、でも今の話の流れからしたら――それならやっぱりあんな顔をしたクオリアは……
「とってもニヤニヤしてる」
 思わぬほど近くで声が聞こえて、はっと目を上げたミーシャは驚いた。すぐ間近にクオリアの大きな眼がある。ささやかな吐息もかかる距離。こちらを覗き込んでくる瞳には訴えかけるような、それとも問いかけてくるような圧があり、ミーシャはたじろぐ。するとクオリアは身を引いてフルーツゼリーを載せた皿を置き、椅子に座りながら、
「ね」
 と、彼女の示した視線を追って、ミーシャはそちらを見た。
 三つほど先のテーブルに、くりっとした印象の女性がいた。太っているわけではないが全体的に丸みを帯びた輪郭をしていて、丸い頬の上にはくりっとした目があり、そこに輝く青い瞳はとても綺麗で、その上で細い眉も朗らかに弧を描いている。肩に流れる髪は栗色。毛先をくりっと躍らせているのを見ると、どうやら彼女は自分の丸みをチャームポイントにしているらしい。実際、可愛らしい人だ。淡いピンクのブラウスには上品なフリル襟、ベージュのアンクルタイドパンツのシルエットも柔らかい。
 ミーシャは声を潜めてクオリアへ訊ねた。
「で、あの人が?」
「見ていて」
 気がつけば、その女性は他の客達からも注目されていた。
 ――何故、彼女がそんなにも人目を引いているのか。
 それをすぐにミーシャは理解した。
 彼女の皿にはケーキがたくさん載っている。食べ放題なのだからそれに不思議はない。が、テーブルにはそれとは別にプリンやゼリーを載せた皿もあり、さらに空になったジェラートのカップが幾重にも重なっている。そして彼女は今、全品中で最大サイズのシュークリームにかぶりついている。
 まさか食べ切れるのかと誰もが疑う量であった。
 しかし彼女はすいすいと食べ続けている。
 そこに苦悶はない。ただひたすら幸せそうである。
 周囲の様子からして、どうやら彼女のテーブルに並ぶスイーツは初めて運んできたものではないらしい。ジェラートの空きカップの量からしても、少なくとも3往復はしているだろう。ふと見ればウェイター達まで彼女に注目していて、どうやらこの店のオーナーであるらしい青年が顔を青くしている。ビュッフェ台の向こうにはコックコート姿の青年が現れていた。その若いパティシエは女性の食べっぷりに驚きながらも嬉しそうな顔をしていて、そのわりにどこか不安そうな様子である。――そのわけも、すぐに分かった。
 シュークリームを食べ終えた女性は居並ぶ皿に取りかかる。
 まずはケーキ、十個近くはあるだろう。皿に乗る限り盛られているのに整然としていて、一つも他と触れ合う物はない。そこに彼女のフォークが優雅に飛び込んでいく。フォークは軽やかにケーキを運ぶ。皿と彼女の口とを踊るように往復する。食べ方の綺麗な人だった。大食いなのにそれを感じさせず、見ているだけで快い。そしてミーシャは気づいた。その女性の顔は常に朗らかであるが、眉だけが三段階に変化していた。上中下の動きだ。大抵は真ん中で朗らかである。それが時折ひょいと額へ上がる。美味しいらしい。さらに時折、ひょいと瞼へ落ちる。それは失望であった。不味いわけではなさそうだが、つまらない、とその眉目は語っていた。そういう時、いつの間にか三人揃っていたパティシエ達の顔には戦慄が走る。その内の一人は熱心にメモを取っていた。
 見る間にテーブル上のものを平らげた女性は音もなく立ち上がると、まずケーキを取りに向かった。台の前にいた客が思わず場所を開けてしまう。彼女は会釈すると素早くまたも十個ほどのケーキを皿に並べた。中には先ほど食べていたものもあった。どうやらお気に召したらしい。その一つがオレンジピールのレアチーズケーキだということを知って、ミーシャは嬉しくなってしまった。それを作ったパティシエは誇らしげである。ケーキの皿を片手に、彼女は三種のロールケーキを載せた皿をもう一つ、じっとミニパフェのコーナーを見るが手が足らないので一度テーブルに戻る。すぐに踵を返してひとまずフルーツとチョコレートのミニパフェをそれぞれ両手に取り、再度テーブルに戻ると微笑み、すいすいと食べ始める。彼女の隣の席に座る三人組の女性達が、思わず笑ってしまっていた。
「凄いな」
 ミーシャも口元に笑みが浮かぶのを止められなかった。じっと女性を見つめていたクオリアはミーシャに振り返り、
「あの人は元を取れるわね」
 そう言えばそんな話もしていた。ミーシャはまた笑い、
「もう取りすぎてるって」
 店のオーナーはもはや諦め、ひたすら見守ることにことに決めたようだ。その顔はどこか清々しい。あの女性はまたもケーキの台へ行く。どうやらケーキは全品味見を決行するつもりらしい。時間が許せば他のジャンルも制覇したいはずだ。そして彼女があんまり軽々しく食べるものだから、それに影響されてミーシャは皿に残っていたケーキを食べるとすぐに立ち上がった。次は軽いものをと思っていたのに、チョコレートムースとモンブランと紅茶のロールケーキを皿に盛る。ついでにストロベリーのジェラートも持ってきた。
「食べ切れるの?」
 ゼリーを小口に食べ進めているクオリアが心配げに言う。ミーシャは――内心ちょっとやばいかな? と思ったが――大きくうなずいた。あの女性はペースを落とすことなく食べ続けている。
「いける。駄目でも根性見せるよ」
「分かった。頑張って」
 食べ放題の終了時間はもう遠くない。気合いを入れるように一息ついて、ミーシャはフォークを手に取った。そして難敵であろうロールケーキから片付けようと取りかかった時、ふいに店の入口が騒がしくなった。
 聞こえてきたのは男の声で、ウェイターと何かもめているらしい。そちらに注目が集まる。オーナーが歩み寄るが、その男は店内を見渡すと、
「あれが連れだ」
 と指差した。
 ロールケーキを頬張っていたミーシャが目を見張る。クオリアは眉をひそめた。男が指差したのは、他の誰でもない、自分達であった。
 男がずかずかと進んでくる。連れがいるとなれば止められないのか、店員はその場に留まっていた。ミーシャとクオリアはその男のことなど知らない。しかしどこかで見た覚えがあるような気がする。
「探しましたよ」
 近くにあった使われていない椅子を、そのテーブルに座る婦人達に断りもなく引き寄せ、男が強引に相席してくる。
 そこでミーシャは思い出した。
 その男は、カルカリ川の橋でクオリアにぶつかってきた男だった。年の頃は三十前後、髪型は整っているが、無精髭がだらしなく顎を汚している。服装にはさほど気にかかるところはないものの、顔色が悪く、目が妙に赤く潤んでいて、粘るようにぎらついている。
「いや良かった、見つかって本当に良かった」
 随分走り回っていたのだろう、男は額から落ちる大粒の汗をぐしゃぐしゃのハンカチで雑に拭った。
 ミーシャは男を睨みつけていた。
 クオリアは男から遠ざかるように身を引いている。
 周囲の目もここに集まり、ほとんどは胡散臭げに男を見やっていた。店員は、どう対処すれば良いのか判断つきかねているらしい。
「えー、ミサミニアナ・ジェードさん」
「え!?」
 突然フルネームで呼ばれ、ミーシャは思わず声を上げた。
「それから……そう、クオリア・カルテジアさん、でしたね」
 クオリアは眼をすがめ、男を見つめる。
 いよいよ周囲の目は怪訝に染まる。しかし名を知っているからには何も無関係な間柄ではないらしいと様子を伺う空気の中で、男は言う。
「先ほどは幸運にもお二人にお会いしておきながら、大変失礼を致しました」
 言葉遣いは丁寧であるが、それだけに怪しい。ミーシャはいざともなれば男を突き飛ばそう、そして店員に助けを求めようと身構える。その気配を察知したのか、男が居住まいを正すようにしてクオリアの方へ少しだけ身を寄せた。
「いえいえ、心配されることはありません。わたくしはあなた方に相談があって参ったのです」
「相談?」
 無防備にもミーシャは問い返してしまった。男が満面の笑顔で大きくうなずく。
「ええ、そうです、相談です。これはあなた方にしか頼めないことでありまして、またあなた方にとって大変有益なことなのです」
「申し訳ありませんが、私達がそのご相談を受けることはないでしょう」
 背筋を伸ばし、クオリアが言った。彼女の顔にはあからさまな嫌悪がある。だが、男はむしろ親しげに、
「いえいえまずは内容をお聞きになってからでも。聞くだけならば何の損もございませんでしょう? ほんの少しのお時間を、こちらを助けるとでも思って。ですが、わたくしはやはりあなた方のためを思って言いましょう、お聞きになれば有益だと」
 どこか卑屈に男は言う。ふつふつとミーシャの胸に怒りが湧き上がる。
「もういい! どこであたし達の名前を知ったのか知らないけど」
 感情に任せてミーシャは男を追い返しにかかったが、しかしその声に怯えが潜んでいることを男は聞き逃さなかった。クオリア側に寄せていた身をぐっと彼女へ寄せる。思わぬ反応に少女は言葉を途切らせた。そこに男が声を強めて言う。
「ええ、わたくしはあなた方を存じ上げています」
 と、そこで声を潜める。
「よく、ね? よく知っている」
 ミーシャは、ゾッとした。クオリアは鼻頭に皺を寄せて男を睨みつける。男は自分達の何を知っているというのか。それはただのハッタリかも知れぬ言葉であったが、それでも少女を怯えさせるには十分だった。
「まあ仲良くやりましょう。最前さいぜんから申し上げている通り、別にあなた方に危害を加えにやってきたのではないのです。ただ有益なお話を持ってきたのです。そう、あなた方はとてもと仲が良い」
 そのセリフに、瞬間、ミーシャの眉目が吊り上がる。
「おい、てめえ!」
 反射的にテーブルを叩き、彼女は立ち上がった。店内がざわめく。男は何も聞こえなかったかのように笑顔のまま、
「そう、わたくしは『ニトロ・ポルカト』の件でお話をしにきたのですよ、ミサミニアナ・ジェードさん。いえ、ミーシャさんとお呼びした方がよろしいですか? ミーシャ、ミーシャ! そう彼もあなたを呼んでいる」
 ミーシャは吐き気がした。もう怒りは脳天にまで発している。だが、それ以上に怖かった。見知らぬ男に『愛称』で呼ばれることがこんなにも怖いとは知らなかった。
「ああ! これはビジネスですよ!」
 男が急に背後へ振り返り、叫んだ。そこにはオーナーが近づいてきていた。
「ビジネス! なにもこの子達に手をつけようってんじゃねえんだ! それともなんだ、ここじゃビジネスの話をしちゃいけねえってえのか! この店は客に自由に話させねぇってえのか!?」
 口調も豹変させてオーナーを押し留めた男は、次の瞬間には別の方角へ振り返り、
「そこのオンナ! なに撮ろうとしてやがんだ!」
 携帯電話モバイルを構えていた若い女性が肩を震わせる。他にも何人かが慌てて自分の携帯カメラを隠した。
「さっさと止めろ、オイ、訴えんぞ! 権利の! 侵害! こっちはプロだ! どうなるか解ってんだろうなあ!!」
 若い女性は涙を浮かべて首を振った。モバイルを腰の後ろに隠して、それきりうつむいて顔を上げない。
 男はミーシャとクオリアへ顔を戻した。その時にはもう、彼は満面の笑顔であった。
 ――ミーシャは、もはや怯えきっていた。
 立ち上がっていたはずなのに自分でも気づかぬ間に椅子に座りこんでしまっている。怒号を上げる男の声は聞いたことのない『男』のもので、そこに荒れ狂った暴力の陰が彼女の膝を震わせていた。
 いいや彼女だけではない。今の一喝はこの場をも全く萎縮させてしまった。中には恐る恐る敵意を男に向けている者もいるが、それが何の助けにもならないことは明らかだった。さらに悪いことに――『ニトロ・ポルカト』――その名が出た時、一種奇妙な結託が男と周囲の間に走っていた。それは明確なものではなく、周りの誰も自覚はしていないだろうが、その名に含まれる“情報”がこの場を縛ったのである。
 そう、誰だって知りたいのだ、彼のことを。
「そんなに彼と親しいあなた方だ。まだ皆の知らない『ニトロ・ポルカト』の情報をたくさん持っておられるでしょう」
 男は言う。
「それは皆の宝です。それを少しばかり公開することを、わたくしに交渉させていただきたいのです。あなた方には何の悪いこともない。もちろん情報源は秘匿いたします。『ニトロ・ポルカト』には誰が話したかなんて判りませんよ。ね、悪い話ではないでしょう? あなた方はただちょっとわたくしと『ニトロ・ポルカト』についてお話するだけでよろしいのですから。美味しいレストランに行きましょう。そこでじっくりお話しましょう。もちろん支払いはわたくしに任せてください。ああ、謝礼のことをまだ申し上げておりませんでしたね。当然、あなた方には相応の対価を支払わせていただきます。何しろあなた方はお宝を持っておられるのだから! ただでなどとは! いやはや、そんな無礼なことを申し上げるはずがないではありませんか。ねえ? なんにも悪いことはないんですから。あなた方は『ニトロ・ポルカト』を誉めてくださるだけでいいのです。それで良い服が買えるんです。お小遣いですよ、ラッキーなアルバイトです、いやアルバイトなどと言っては失礼ですね、違いますよ、ただただわたくしがあなた方にご奉仕致したいのです。ね? 悪い話じゃないでしょう?」
 ミーシャは泣きそうだった。男の話を聞いていたくなんかなかった。しかし足が動かない。何かを言おうとすると顎が震えて、喉からは嗚咽が溢れそうだ。彼女は怖かった。何が怖いと言えば、悪意である。男の声にはべっとりとした感情が絡みついている。男が『ニトロ・ポルカト』と言うたびに、そこに尋常ならざる敵意を感じる。まるで怨みがあるかのように、顔には笑顔を張りつかせたまま、その裏側ではあたしの大事な友達の首を噛み千切ろうとしている。――それに協力しろと言うのだ! そしてそれが“悪いことではない”と言うのだ!
「ああ、そうか!」
 男はうっかり大事なことを見落としていたとばかりに手を打った。
「謝礼と言いながら、それについて何の具体的なお話をしておりませんでした。少なくとも10万、お話によっては100も1000も可能です。お話がとてもとても興味深いものであればあるほど、あなた方は儲けられる。いえ金ばかりじゃありません。もしや彼の偽善を暴けるようなら、あなた方は正義です……あの希代の王女様を巧妙な罠から救う正義のヒロインとして世に讃えられるのです!」
「息が臭い」
 ふいに、誰かが言った。
 ミーシャは初め、どこか遠いところでその声がしたのだと思った。
 男も呆気に取られているらしい、彼はそちらに振り向いて、さらにポカンとする。
「ゴミ溜めよりも臭い。糞を食ったってそうはならない」
 ミーシャはその声の源に気づき、彼女を見た。
 頬のこけた痩せぎすの少女が、正面から男へ言い放つ。
「その口を閉じてさっさと消えろ。二度と現れるな。でなければ、絞め殺してやる」
 呆気に取られたまま、男はしばらくクオリアを見つめていた。
 やがて自分がこんな今にも骨の折れそうなガキに面罵されたのだと理解すると、その顔をどす黒く変色させた。怒りだけでなく、笑顔の裏にあった悪感情の全てが混ぜ合わされたようであった。ミーシャは必死に立とうとした。きっと男はクオリアを殴る。それより早く男を突き飛ばさなければ!
「先ほどから景気のよいお話をなさっていますね」
 その時、明るい声がその場に入り込んできた。
 皆がそちらへ振り返る。クオリアへ激情をぶつけようとしていた男さえも驚き振り返っていた。
 いつの間にその人は近づいてきたのだろう?
 男のすぐ背後にあの底無しの胃袋を持つ女性が立っていた。
 彼女は朗らかな様子で、この荒れた場にあって何の波風も感じていないかのようにくりっとした目を男の顔に向けて、かすかに鼻にかかった声で言う。
「ヘンリー・ユステスさん、あなたは困窮しているとお伺いしておりますが」
 唖然として、肩越しに振り向き女の顔を見上げたまま、男は何か喘ぐように口を動かす。
「失礼、ご自分のペンネームをお忘れでしたか。ではご本名を」
「誰だテメエ!」
「恥ずかしながら、ご同業ですわ。セトロ・モドマンさん。お噂はかねがね。いつかはニトロ・ポルカト様に盗聴を仕掛けたところ、大切なA.I.ごとお仕事の全てを失ったとか。最近もまた大変な失態を犯したそうですわね」
 男の顔色は、またもどす黒かった。しかしそれは先ほどの色とは違った。女の青く透き通る瞳を見る彼の目は、揺らいでいる。そこには逆に自分が見知らぬ者に知られていることへの恐怖があった。それでも男はこれくらいの事態には慣れているとばかりに、自分に不利になる感情の全てを怒りで上書きするように、
「だからどうしたって言いやがる! まずはこっちに答えるのが礼儀だろうが! テメエは誰だ!」
「落ち着いてくださいませ」
 女はポンと男の肩に手をやった。そして男の耳元に唇を寄せると何かを囁く。その瞬間、男の顔から血の気が引いた。どす黒かったものが蒼白となった。驚愕に瞼が限界まで開き切る。彼は立ち上がろうとしたようだが、どうしたことか、何か巨大な物体に押さえつけられているかのように足を滑らせるだけで立ち上がることができない。周囲にはそれがただ彼が衝撃のあまりに腰を抜かしたようにしか見えなかった。が、男は立ち上がれない事実にまた血の気を失っていた。
「やめろ……」
 ようやく、男は搾り出すように言った。
「それはやめてくれ、やめろ、頼む」
「あら、本当に息が臭い」
 女性は顔をしかめ、その拍子にぐっと手に力を込めたようだった。きっと爪でも食い込んだのだろう、男がギャッと声を上げる。
「やめてくれ! マジで頼む、頼むよ! やめてくれ」
 苦痛に顔を歪めて男は懇願し始めた。今にも泣き出しそうな顔で、神に祈るように手を組んで女を拝む。ミーシャとクオリアはもちろん、誰もがその異様な光景に息を飲んでいた。男の肩に手を置いたまま、朗らかに男を見下ろしていた女は言う。
「では消えなさい。そして二度と現れないこと。でなければ、絞め殺されますわよ?」
「なあ、頼むよ? マジでそれだけはやめてくれよ?」
「さあ!」
 その言葉に、男は鋭く喉を鳴らした。本当に絞め殺されてしまったかのように顔をまたどす黒くして、うなずいた。
 男は立ち上がった。
 それと同時に女の手が男の肩から振り落とされた。
「ああ、お待ちになって」
 逃げ出そうとしていた男の手首を掴み、女が引き止める。すると男は大袈裟な悲鳴を上げた。
「何しやがる!」
 それは思わず毒づいてしまったらしい、すぐに男ははっとして女に謝り始めた。ごめん、ごめんと卑屈に、まるで縋りつくように。
「わたしに謝ってもしかたがありません。このお嬢様方に」
「申し訳ありませんでした!」
 即座に男は従い、茫然としている少女達に頭を下げる。
「お約束いたします! 二度と現れませんのでお許しください!」
 女は、二人にその美しい瞳で訊ねた。
 ミーシャとクオリアは互いに目を合わせた。しばし目を合わせたまま考え、やがてクオリアがうなずく。そこでミーシャは女にうなずいてみせた。
「感謝なさい」
「感謝いたします!」
 再び男に頭を下げられても、二人はどう反応すれば良いのか分からない。
「それから迷惑をかけたのですから、ここの支払いはあなたがなさいませ」
「はい、はい、どんなことでもいたしますから」
「よろしいでしょうか。お嬢様方には返金していただくということで?」
 問われたのはオーナーである。彼は一も二もなくうなずいた。
「いいや!」
 そこに叫んだのはミーシャであった。女が振り返る。男は舌打ちをするようにミーシャを見た。そこには余計なことをするなという脅しがあった。ミーシャは、今度ばかりは屈さなかった。
「それじゃそいつの金で飲み食いしたことになる。それは嫌だ。絶対にごめんだ!」
 その興奮した少女の言葉に、女は感じ入ったかのように唇を開いた。男は歯噛みしているようだったが、女の一瞥を受けて震え上がる。女はオーナーを見た。オーナーは感嘆の念を目に浮かべていた。そこに拒否はない。
「これは考えが至らず、差し出がましいことをいたしました」
 女は少女に頭を垂れると、男の手首を離した。
 男は今度こそ逃げ出していった。事態を把握できず不安げに店内を伺っていた順番待ちの列を掻き分けるようにして、脇目も振らずどこかへ走り去っていく。
 ――嵐の去った後、店内は静まり返っていた。
 皆が女を見つめていた。
 先刻まではその食べっぷりで注目を集めていた女が、今は全く別の存在として皆の目に映っていた。
「まあ、あの方は色々と怖い方々にも目をつけられているのですわ」
 自分に集まる視線が『何を言って男を脅したのか』という問いかけであるとでも思ったのか、女はそう言った。だが、もちろん誰もそんな問いかけをしていたのではない。それでも驚愕を構成していた一部が明かされたことで、周囲には奇妙な安堵が広がっていく。
 ほお、と、どこかで吐息が漏れた。
 それが一気に空間を緩和した。
 ざわめき出す。
 オーナーが騒ぎについて客達にお詫びをし始める。
 その声を聞きながら、やはり皆は謎の女から意識を外せないでいた。
 半ば呆けるように女を見つめていたミーシャは、ふと、吐息を漏らしたのは誰であったかを知った。
 クオリアだった。
 食べかけのスイーツの向こうで、友達は懸命に涙を堪えているようだった。体が震えている。ミーシャは、ああ、と思い至った。あれだけを言うために、彼女はどれほどの勇気を振り絞ったのだろう。
「クオリア」
 ミーシャはそっと手を伸ばした。そこで彼女は自身も震えていることに気づいた。
 クオリアが微笑み、やっと手を伸ばしてくる。その手もやはり震えていた。
 二人は手を組んだ。
 震える二人は、お互いの震えがぶつかり合って、しだいに消えていくことを感じた。
「大変でしたわね」
 あの女性が声をかけてくる。
 二人は彼女を見上げ、しかし何も言えない。
「とても立派なお振る舞いでした。あなた方は淑女レディですわ」
 目を細めて女は言う。その言葉にミーシャは涙ぐむ。そのまま堪えていたものが決壊し、ぼろぼろと溢れ出す。クオリアも同じであるようだった。ただ彼女はそれでも懸命に涙を堪えていた。二人の様子に隣の――あの男に椅子を奪われたテーブルの婦人達が慌てて近寄ってくる。見知らぬ婦人の優しい声に、ミーシャは少しだけ平静を取り戻した。
「少し、休ませておあげになってくださいませね」
 女がオーナーに言うと、彼はもちろんだと胸を張った。
 ところで店内はまだ正常ではない。
 まだ誰も、再び甘い世界に溺れようとはしていない。
 当然であろう。
 しかしそれを打ち破ろうとするかのように、女は大袈裟にため息をついた。
「それにしても、思わぬことで大切な時間を使ってしまいましたわ」
 そこにオーナーが何かを言おうとする。無論、その時間を巻き戻そうとしたのだろう。だが女は目で制した。美しい瞳に射抜かれてオーナーは沈黙する。そして女は続けた。
「後で食べようと思っていたパフェも、五段重ねにしてみたかったパンケーキも、特に美味しかったケーキだってあと三つずつは頂きたかったのに。そうそう、マカロンも口一杯に頬張るつもりだったのですわ」
 そこかしこで吐息が漏れた。それは明らかに呆れ声が形にならずに漏れ出したものであった。ミーシャも流石に呆れてしまった。この人はまだまだまだまだ食べようとしていたのか!
「でも何より残念なのは、最後の一杯を頂けなかったことですわね」
 そう言いながら席に戻り、小旅行に行けそうなバッグを重そうによいしょと持ち上げる。実際、これから彼女は出張でもするのかもしれない。
 帰り支度をする彼女はちらりと少女達を見る。
 その視線に気づいたミーシャはクオリアと目を見合わせた。
「大変ご馳走になりました。皆様ご将来が楽しみですわ」
 ビュッフェ台の後ろでまごついていたパティシエ達が恐縮そうに頭を下げる。女はオーナーに礼を言い、ウェイター達にも微笑を残して去っていこうとする。
「あの!」
 まだ膝に力の入らぬミーシャは彼女を大声で呼び止めた。
 太陽にきらめく海のような瞳が振り返る。
「何でしょうか」
 彼女の眼差しはこちらに期待を寄せている。ミーシャは、言った。
「最後の一杯って……」
 すると謎の女は格別に微笑んだ。
「エスプレッソですわ」
 その幸せな声に、ミーシャはつりこまれた。彼女だけではない。クオリアも、他の誰もがそれを聞く。
「わたしはスイーツの後に飲むエスプレッソが大好きですの。量はシングル。お砂糖はたっぷり。香りを楽しみながらスイーツの思い出を振り返り、その思い出ごとさっと飲み干して、それから底に溶け残ったお砂糖をすくって食べるのです。とても苦くて、くどいほど甘くて、ほろ苦い。それこそ大人の味なのですわ、素敵なお嬢様方」



 翌日の朝。
 ミーシャとクオリアは登校するなりクラスメートに囲まれてしまった。スイーツバイキング店『グラン・ボナ』での一件が、結局あの場に居合わせた客達によってインターネットメディアに伝えられたためである。その反響は大きく、一夜が空けると大手報道機関にも取り上げられ、各局のワイドショーでは『いたいけな少女達に絡んだ“自称プロ”』への罵倒が繰り返されていた。
 もちろんその悪漢に絡まれた少女達が誰であったのかという具体的な証言はどこにも見られなかったが、二人を知る者にとっては、それがミサミニアナ・ジェードとクオリア・カルテジアのことであることは容易に知れた。教室にはミーシャを慕う陸上部の後輩達もやってきて、SNSで連絡を取っていたとはいえ、先輩の無事な姿を実際に確認するや安堵の涙を流した。同期の部員達も彼女を見舞いに来ては安堵を隠さない。
 しかし事件のことで動揺しているのは周囲ばかりで、当の二人は奇妙なほどに落ち着いていた。
 それが周りには不思議であった。
 ミーシャは心配してくれた相手に明るく応じるし、時にはもらい泣きしながら相手の見舞いの言葉に偽りない喜びと感謝を示す一方、事件について答える際にはどこかニュースで知ったことを話すような調子となる。恐怖や嫌悪を否定はしないが、事件そのものについては全く淡白なのだ。そう、それは妙に客観的であり、まだ一日と経っていないのに既に飲み込まれた遠い過去のことと言わんばかり。クオリアに至ってはそもそもそんな事件になど遭遇していないというように、誰に何を聞かれても黙々と朝から熱心に絵を描き続けるだけ。
 昼休みには校長が二人を呼び出した。慰めの言葉と共に悪漢への怒りが表明され、そして力になれることがあれば何でもすると約束したらしい。教室に戻ってきた二人を早速皆が取り囲んだが、やはりミーシャは明るいだけで冒険譚を語るような興奮はなく、動揺もなく、クオリアはひたすらペンを動かし続ける。その反応が、学内におけるこの事件への興味を静かに、しかし急速に鎮めていった。
 そのため“見舞い客”もすっかりなくなった放課後、ニトロはようやく二人とゆっくり言葉を交わすことができるようになった。
 二人に降りかかった災難を知った時、彼は大きな衝撃を受けたものである。すぐに連絡を取った。だが、
「だからもうなんでもないんだって」
 あっけらかんと、ミーシャはやはりそのように言う。机に腰かけた彼女は足を組んで腕を組み、
「電話でも言ったろ? ニトロが気にするようなことは何もないんだ」
 彼女の座る机の椅子にはクオリアがいる。彼女は今もまだ大判の板晶画面ボードスクリーンを広げて熱心に描き続けていた。見舞いにやってきた美術部と文学部の仲間はこれを見るや皆一様にうなずき何の言葉もかけずに去ったものである。この特質を知らない者は彼女の対応に不愉快を得ていたようだが、しかし文句を言ったり無理に反応を引き出そうとしたりした者は一人もいない。なにしろ彼女の傍には常にダレイがいた。大きな体躯で門番のように見守っていた。もしどうしても画家と話したい方がいらっしゃれば、窓口はこちらです。まずは当方にご相談ください。――そのような状況だった。
「クオリアもそう言ってただろ?」
 昨晩、ニトロの電話口に出たのは二人同時だった。ミーシャと、ミーシャの家に泊まることにしたクオリアとの会話を思い浮かべ、彼はその時の困惑をそのまま再現するように、
「まあ、そう言ってたけどさ」
「ならもういいだろ」
「そうは言われても、やっぱり何かできることがあるなら」
「しつこい」
 ミーシャは唇をへの字にする。むき出しの膝の下で揺れていたつま先が、まるで獲物を狙うかのように静止する。
 ニトロは、吐息をついた。引き際である。ミーシャがそこまで言うのであれば、そしてそう言った時の彼女の顔を思えば、こちらからはもう何も言えることはない。ただ、
「本当に無事でよかった」
「うん、ありがと」
 彼が引いたことが実に満足であるように、ミーシャは大きくうなずいた。近くにはこちらを見つめるキャシーがいて、その隣でクレイグは笑っている。先ほどミーシャと口喧嘩を繰り広げていたフルニエは少し離れた席でまだ不満そうだ。彼は“自称プロ”への正義の執行をあくまで主張していたのだが、逆にミーシャはそれこそがどうにも我慢できないらしい。別に博愛精神なわけじゃない、ただそれが気に食わないの一点張りで退ける。妥協点も譲歩もないその喧嘩をとりなしたのはダレイであり、その最中もクオリアは意に介せず絵を描き続けていて、
「お、ハラキリ、どこ行ってたんだよ」
 教室に戻ってきたハラキリにミーシャが声をかける。
「トイレですよ」
「随分長かったぞ?」
「答えましょうか?」
「やめろ」
 顔を歪めるミーシャへ飄々と肩をすくめてみせたハラキリは、そこで自然にニトロを一瞥した。その目に異常を報せるものはない。彼に各方面に探りを入れてもらっていたニトロは、やっと――心の底から――安心した。
「食事風景ですか」
 クオリアの絵を覗き込み、ハラキリが言う。
「と言うより食事する女性ですかね、主題は」
 そういえばニトロはクオリアの絵をまだしっかりとは見ていなかった。彼女の背後に回りこめば線画が目に入る。確かに満席の店内が描かれ、客は皆甘味かんみに舌鼓を打っていた。しかしそれらは『背景』にすぎない。緻密で写実的なその絵の構図は、多くの線の中でもある女性が一人えるように計算されていた。その女性は全体的に“くりっ”とした容姿をしていて、彼女のテーブルにはケーキが山とあり、さらにはパフェやジェラートやマカロンなども大量に集められている。
「一人大食い選手権?」
 そうつぶやいたと同時、ニトロは合点した。
「ああ、これが?」
「とっても素敵な人だったよ」
 ミーシャが言った。
 現在、電脳情報界ネットスフィアはその謎の大食い女の話で持ちきりである。彼女は一体誰であるのか? という疑問がその焦点であった。メディア関係者であるらしいことは解っていたからすぐに正体を知れるだろうと楽観的に思われていたのに、いつまで経っても有力な情報は出てこない。簡単なようで難しい謎、というものは人心を強く引くものだ。止むことなくその人物に関する情報が現れては否定され、謎が謎を呼び、次々と新たな探偵が登場しては退場し、さながら推理ゲームの様相の中で誰が言い出したのか、名も知れぬ女性は今では『レディ・グラトニー』とあだ名されている。
 クオリアがペンを止め、ボードスクリーンを操作した。カラーパレットを呼び出して色を作り出す。色調は青。『レディ・グラトニー』は青い目をしている……都市伝説を語るように、それは口から口にコピーされている。だが、どんな青だったのだろう? 彼女をはっきり捉えた画像は出回っていない。
 画家は何度も何度も色を作り直した。キャシーとクレイグも覗きにくる。フルニエだけ一人離れて不貞腐れている。
「ああ!」
 苛立たしげに、クオリアが息を吐いた。
 そこではたと絵を覗かれていることに気づき、周りを見る。そしてニトロと目が合った時、
「あ!」
 一個に囚われていた視界が一気に全体へ広がったように眼を見開いて、彼女は急いで言った。
「セケル、ヴィタ様を」
 今度はニトロが目を丸くする。クオリアのボードスクリーンにA.I.が王女の執事の画像をいくつか表示する。彼女は執事の瞳に宿るマリンブルーをカラーパレットに吸い出した。再び描画に戻り、その女性の瞳を塗っていく。何より画家の心に残ったらしい色彩が、生気に溢れる瞳を描き出す。
 ニトロはハラキリを見た。ハラキリはただ絵の描かれていくのが楽しいといった様子で画面を見ている。ニトロも絵に目を戻した。
「うん、うん!」
 ミーシャが勢いよくうなずいている。どうやらそれが『正解』らしい。
 やっと満足がいったクオリアは、そこで一息をついた。手を組んで伸びをして、その体勢のまま背後のニトロへ振り返る。
「ねえ、ヴィタ様にご姉妹はいらっしゃるのかしら」
「――いや、聞いたことはないな。なんで?」
「こんなに綺麗な瞳はそうそうないと思うんだ。もちろん皆無とは言わないけれど、でもお身内だったらその可能性は高くなるでしょう? あの物腰もそれだったら納得だし、ヴィタ様も健啖家だってお聞きしているわ」
「顔は全然似てないけどな。声も全然違ったし。だけどあたしもそう思う」
 合いの手のようにミーシャが言う。クオリアはうなずき、
従姉妹いとことか、ご親戚かもしれない」
 ニトロは首を傾げる。ハラキリは筆が止まったのを機に適当な席に座り、あくびをしている。
「何もしなくていいって言ったけどさ」
 クオリアの提示した可能性に興奮を隠さず、ミーシャがニトロへ言う。
「聞いてみてくれないか? もう一度会いたいんだ」
「私も」
 ニトロはまた首を傾げた。二人だけでなく、キャシーにもクレイグにも、ダレイにもフルニエにも注目されて居心地が悪い。ハラキリは眠そうである。そんな友へ殴りかかりたい気持ちを抑えつつ、ニトロは言った。
「同じ大食いってことで親近感を感じて“カラコン”を入れてたんじゃないのかな。それだと身内でなくても、誰でも可能性は高くなる」
「そう言われると自信がなくなるけど、あれはそういうのじゃないわ」
 言葉とは裏腹に、クオリアは断言する。ニトロは少し考え、
「分かった。一応聞いてみるよ」
「その言い方だと、なんだか望みうすみたいね」
「職業柄、秘密も多い人だからね」
 彼の指摘はもっともで、そのため皆の顔に失望が現れる。特にミーシャとクオリアは、まるで女執事の血縁にその人がいるとすっかり確信していたかのようにがっかりする。それが心に刺さり、ニトロは思わず言った。
「ただ、もし本当にヴィタ様のお身内にその人がいらっしゃったとして」
 二人が目を上げる。ニトロは続ける。
「そしてやっぱりそれを明かせなかったとしても、一応、伝言を預かっておくよ」
 彼の口振りから、それがお人好しの心遣いであることを二人は悟った。何か言い合うように目を合わせ、ふいに、どうしたことか手をつなぎ合う。奇妙なやり取りにニトロが戸惑っていると、二人の総意を伝えるようにミーシャが言った。
「あたし達にはまだエスプレッソはにが過ぎた」
 思わぬ言葉にニトロは眉根を寄せた。皆も理解できず、ハラキリも目を醒ましたようにこちらを見ている。その中で、ミーシャとクオリアはくすくすと笑い合う。
「とりあえず、それだけ?」
 ニトロが確認すると、笑い合っていた二人の顔がぐっと真剣みを帯びる。
「つい、お礼を言いそびれたの。あの時はまだ気持ちがまとまってなくて」
 クオリアの後を受けミーシャが続ける。
「だから本当にありがとうございましたって――本当に、本当に!」

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