黄色い嘴

(第二部『幕間1』の後、『ニトロ、そして鍛える』の18日後)

 ニトロ・ポルカトの手には銀に輝く細身の剣がある。
 赤土のむき出した荒れ地に立つのは彼、一人。
 周囲には崩れた城壁。
 アデムメデス統一前の古戦場跡で、彼は剣を構える。
 その起源から現在においてなお古びた名で呼ばれる『宮廷剣術』――そのヴォンの構え。両足をおよそ肩幅に開き、左足をやや前に、右足をやや後ろに置き、両手で剣を持つ。
 右掛けに差し上げた剣を、左斜め下へ、右足を一歩踏み込みながら一線を描いて振り下ろす。
 くうを切る音が鳴る。
 剣を構え、振るう。
 ひゅん、ひゅんと、刃の振るわれる度に空が泣く。
 彼は一人で剣を振っていた。
 しかし彼は“一人”ではなかった。
 剣を構え、振るう。
 一度目に振るった時には彼は一人であった。
 しかし二度目には、彼は“二人”となっていた。
 今ここに、同じ場所に、現在の自分が存在する同じ座標に“過去の自分”が“同時に”重なり合う。
 空を切る音が一つ鳴り、すると彼はまた一人に戻る。
 そしてまた剣を振ろうと体が動いた時、彼は三人になった。
 重なり合った三人のニトロ・ポルカトは剣を振り下ろし、一人に戻る。その一度の素振りが一回の実践でありながら二回分の復習ともなり、しかもそれぞれ体の各部を精密に等しく稼動させた記憶として一時いちどきに神経へ刷り込まれる。
 三度目の素振りで六回分の経験を積み立てた彼は次の四度目には十回分を納める。
 そうして厚みを増していく経験を、一度目も、百度目も全く同じ動作、力学的にも身体的にも最適かつ正確な姿勢フォームで繰り返し、積み重ねていく。
 次にビィオの構え。
 右足を前に深く出して半身に構える。
 左手を左腰に添え、差し出した右手に剣を持ち、右足を踏み出しながら突く。
 眼前に男がいるとしたならば、その切っ先は喉を裂く。
 何度も何度も、喉笛に穴を穿ち、頚動脈を絶ち、頚椎を貫く。
 もう何百と剣を振るっただろう?
 ニトロは汗一つ落としていなかった。
 この場所に気温はない。
 体温もない。
 ただ剣を振るう感覚と、振るわれた剣の感覚だけがここにある。
 そらに太陽もない。されどここは明るく、赤土には影が落ちている。
 やがて、ニトロは風を感じ始めた。
 真っ白なトレーニングウェアを着た彼は宮廷剣術の基本練習を一通り終えたところで、初めて体に火照りを感じた。
 汗がじわりと額に浮かぶ。
 崩れた城壁の陰から、人が現れた。
 その人も真っ白だった。
 ニトロと同じ身長で、体つきも同じである。
 ただ違うのはマネキンのような体躯の全てが真っ白で、その表面にはワイヤーフレームが浮かんでいるということ。
 敵である。
 これからは応用練習。模擬戦シミュレーションが始まる。体の火照りが感じられ、汗が浮かんだのは、これからは痛覚があるぞという“システム”からの合図であった。
 敵の手にニトロのものと全く同じ剣が現れる。
 斬られれば、痛む。
 痛むといってもピリと痺れる程度だが、それでも嫌悪の走る刺激である。致命傷を受けた際には相応にビリと来る。
 敵が襲いかかってきた。
 ニトロの体を、彼の意志とは別のところにある意思が操る。
 彼はそれに従い、敵の剣を避ける。避けて反撃し、斬り倒す。
『お手本』である。
『お手本』は速やかにこの場から離れることを促して終わる。
 敵を返り討ちにすることがこのシミュレーションの本分ではない。あくまで“逃げる”ために“戦い方を知る”ことこそが目的である。
 敵が襲いかかってきた。
 斬り倒されたはずの敵が、再度さっきと全く同じ様子で襲いかかってきた。
 ニトロの体を、今は、彼の意志とは別のところにある意思は操ろうとしない。
 彼は自由に体を動かして『お手本』を忠実になぞろうとする。
 わずかに体がズレた。
 敵の剣の切っ先が腕をかすめる。
 そこにヒリと熱を感じる。
 しかし反撃は上手くいき、敵は斬り倒された。
 敵が襲いかかってきた。
 三度敵の剣が振り下ろされようとした時、時間が止まった。
 止まった時間の中、ニトロの体から彼の影が抜け出した。その影は本体とは違う行動を取る。その影は“失敗の記録”であった。
 止まった時間がゆっくりと動き出す。
 別のところにある意思によってニトロの体は正しい動きをなぞり、一方、影はそこからわずかに外れて動く。
 影は腕を切られた。
 別のところにある意思が、ニトロの神経に直接どうしてそうなったのかと指摘する。
 足の位置が悪い。
 それを彼は意識することなく意識する。
 そして記憶する。
 記憶して、修正する。
 敵が襲いかかってきた。
 今度こそニトロは攻撃を完全にかわし、反撃を成功させた。
 敵が襲いかかってきた。
 ニトロは“二人で”同時に攻撃をかわし、反撃を成功させた。
 敵が襲いかかってきた。
 ニトロは“四人で”反撃を成功させた。
 敵が襲いかかってきた。
 ニトロは、失敗した。頭を割られた。ビリリと強い“痛み”が脳天に走る。その時、彼は痛みに顔をしかめることもなく、そんなことよりも何故失敗したのかという方に意識を取られていた。
 敵が襲いかかってきた。
 敵の剣が振り下ろされようとした時、時間が止まった。
 ニトロは気づいた。
 敵の踏み込みがさっきより深い。
 だから剣の軌道は同じように見えても脳天にまで届いてきたのだ。
『お手本』に動かされる彼は取り残された影――過去の己が“死ぬ”のを見た。
 敵が襲いかかってくる。
 ニトロは防御を成功させ、反撃にも成功した。
 そうして失敗を克服し成功を積み重ねていくとシミュレーションのパターンが変わり、さらに成功を繰り返して習練していく――主に宮廷剣術の規範にのっとり、時にそこから大きく反則いつだつしながら習得していく。と、やがて相手も変わる。
 ひょろりと背の高いワイヤーフレーム人間が城壁の陰から現れた。
 リーチ差が激しい。
 彼は敵の懐に飛び込む勇気を、それが必要だと理解しつつも実現するには何度も死ぬ必要があった。初めの『お手本』以降はなす術もなく喉を突かれ、心臓を突かれ、ビリリと強い痛みが繰り返される。百度の死を越えて彼は一度の勝利を掴み、さらに勝利を繰り返していく。
 彼は習練を積んでいった。
 習得を続けていった。
 もう何人の敵を斬り、あるいは斬られたか分からない。
 分かるのは、その経験が身に沁み込んできているということだけである。
 ――そろそろ終わりかな。
 と、ニトロは意識した。
 千度殺されて、やっと倒せるようになった大剣を持つ大男が彼の足元から消えていく。
 ……いや?
 地に伏すその大男は消えなかった。
 溶けるように地面に広がっていった。
 白い体が赤土の上で黒くなっていく。
 初め薄墨の小さな水溜りのようであったそれは、やがて色を濃くしながらもっと大きくなっていく。
 その輪郭が変形し、何かの形を描く。
 突如、風が吹き下りてきた。
 それは強い風であった。
 荒れ地に生える貧弱な草が叩き伏せられる。
 何事かと空を仰ぎ見れば、太陽のない空に、忽然と、巨大な鳥が現れていた。
 広げられた翼は10mにも近い。
 胴体は3mを超えようか。
 恐ろしく黄色いくちばしは成人男性の頭より大きい。
 大剣を携える大男であったはずのものは、けたたましく鳴くその怪鳥の影となって地に広がっていた。
「え?」
 と、ニトロは呻き、呻いた自分の声に驚いた。
「えッ?」
 声が発せられる?
 しかも聞こえる?
 例えば剣を振るう時に気合の声を叫んだとしても、それを意識の中で意識すること以上にはこの世界で発現されるはずはないはずなのに……そういう『設定』であるはずなのに!
 怪鳥が鳴く。
 その音が耳に痛い
 それは『痛み』を通知する電気的な信号などではない、明らかに『知覚』であった。
 ホバリングする怪鳥が翼を動かす度に生まれる風に打たれてニトロはうろたえる。
 どういうことだ?
 どういうことだ!?
 確かに、ハラキリは意心没入式マインドスライドを用いた『格闘プログラム』に時々おかしな訓練を――例えば暴れ牛と追いかけっこをするというような変り種を加えてきたりすることもあるが、とはいえそれらは全て『格闘プログラム』の『標準設定』に準拠していたし、“おかしい”といってもまだ常識的に考えられる状態だった。こんな風に『知覚できる』状況はありえない。――ありえない!
 怪鳥が襲いかかってくる。
 ニトロは狼狽を極めた。
 不測の事態。
 あまりにも想定を外れた事態に体が硬直し、その場に“居ついた”彼は怪鳥にとって隠れ場を持たぬ芋虫も同然であった。
 急降下してきた怪鳥はその恐ろしい足でニトロを捕らえた。
 鋭い爪が彼の体に食い込む。
「ぎゃ!?」
 激しい痛みに彼は悲鳴を上げた。
 同時に、彼は当惑していた。
 確かに痛い――が、その痛みは不思議な痛みであった。何と言おうか、オブラートに包まれた痛み……とでもいうのだろうか。間違いなく痛い、だが、手心は加えられている。
 となればこれもやはり『格闘プログラム』の設定下にはあるのだ。
 その事実にニトロは混乱の中にあって一定の安心を得ることができた。
 もし、急に没入深度スライドレベルが上げられ、設定も全く別物に変化したとなれば最悪の事態を想定しなければならなかったが、そうでないのなら本当に死ぬことはない。
 ……そう、確かに『死ぬ』ことはない――しかしそれが何を意味するのか、彼はまだ理解していなかった。理解できようもなかった。
 彼を掴んだ怪鳥は軽く上昇した後、地に降り立った。
 地に叩きつけられ、怪鳥にしかかられ、彼はくぐもった悲鳴を上げた。
 一瞬、怪鳥の戒めが解ける。
 しかし体に残るダメージによって彼は逃げることができなかった。
 彼は再び捕らえられた。怪鳥が彼を踏みつける。
「ぐえ!」
 怪鳥に上半身を踏み押さえられたニトロは、理解した。
 一瞬の解放が意味したものは、怪鳥が獲物を食べやすいように位置を整えるためであったのだと。
 さらにニトロは気づく。
 出血していた。
 真っ白なトレーニングウェアを、凶悪な爪にえぐられた肉から溢れる血が染めていた。
 それに気づいた彼は同時にその傷の痛みを知覚した。痛い! ああ、痛い
 るるるる――と怪鳥が喉を鳴らす。
「――ッやめ――!」
 ニトロの嘆願が言葉になり切る前に、怪鳥の嘴が彼の腹を突き破った。
 彼は悲鳴を上げた。
 痛みのあまりに渾身の力で身をよじった。
 しかし赤土に爪を食い込ませた怪鳥の足はびくともしない。例え爪が浮いていたとしても、彼の力でこれを押し上げることは到底不可能であったろう。
 怪鳥は彼のはらわたをついばむ。
「ぎゃあッア!」
 皮を、肉を、臓物をついばまれ、絶叫するニトロはやがてあることに気がついた。
 本来ならもう“ショック死”していてもおかしくない激痛はやはりオブラートに包まれていて、どんなにしても一定以上のショックを与えてこない。“死”という遮断機ブレーカーはここにはない。
 そのため、彼は知覚し続けていた。
 知覚せざるを得なかった。
 膀胱が突き破られ、小腸が引き出され、腎臓がくちりと潰される感触を。
「おあ、うあああ」
 いっそ本当に『死』に至る痛みがあれば幸せであったろう。この体験は嫌悪に満ちている。絶望に包まれている。ああ、ついばまれる。ああ、俺が、食べられていく!
「うわあああああ!!」
 ニトロは叫んだ。その恐怖のあまりに
――――「主様!」

「……」
 目を開いたニトロの視界は、闇に包まれていた。
 その世界で最後に聞いた芍薬の声が、未だ脳内にこだましている。
 彼は手を握ってみて、指を順番に動かしてみた。それがちゃんと意識した通りに、予想した感触を伴って動くのを確認してから、両手を頭の横へと動かして、フルフェイスタイプの意心没入式マインドスライドデバイスを外す。
 暗い天井が目に入った。カーテンに光を遮られ、晴れた日の朝だというのに夜のごとく暗いその天井はニトロがそこに在ると知っているものであった。それを見た瞬間、ニトロの心は安堵に震えた。
「主様?」
 芍薬の声が鼓膜を揺らしてくる。それも確かにこの耳を通して聞こえた。その声音は微かに震えていた。
 ニトロは上半身を起こした。
 彼は己の腹を見つめた。
 無傷である。
 下着だけ身につけた体のどこにも鳥についばまれた跡はない。あるのは全身各所に貼り付けられた電極であり、それも多目的掃除機マルチクリーナーのロボットハンドによって一つ一つ外されていっている。
 ニトロは電極から伸びる線をなぞって台座のような形の筐体きょうたいを見やった。次いでその筐体から伸びるケーブルを追って手の中のデバイスを見る。これらは自宅でも『格闘プログラム』を活用できるようにと、ハラキリ・ジジに提供してもらったものだ。
 芍薬の、震えを残した声がする。
「主様ガ呻キ出シタカラ、オカシイト思ッテあたしモ入ッタンダ」
 ニトロの全身は汗に濡れていた。冷や汗と脂汗が混じっている。気色が悪かった。
「あれは……仕様?」
 やっとのことで、ニトロは声を出した。仮想空間と同じように、あの最期の時のように自分の声が聞こえた。それに思わずゾッとするが、ロボットハンドが腕に触れ、彼は息を落ち着ける。芍薬は言う。
「仕様ト言エバ仕様ダッタ。ランダム発生スル形式タイプデネ――ヤッパリ、主様モ聞イテイナカッタンダネ?」
「……うん」
「モシカシタラ『特殊訓練』カモシレナイト思ッタンダケド、主様ニ対シテ、アレハ非道イ。ダカラ強制終了シタンダ。……良カッタカイ?」
「もちろんだよ。本当に助かった」
 ニトロは、大きく息を吐いた。差し出されたタオルで顔を拭い、
「あのままだったらと思うと、気が変になりそうだ」
「抗議ニ行ッテクルネ」
 怒気のこもった芍薬の声に、ニトロは慌てて言った。
「待った」
「エ?」
 驚いたような、戸惑ったような芍薬に、彼は努めて落ち着いて言う。
「ハラキリが無駄にこんなことをするとは思えないから、意図を確かめたいんだ。抗議するとしても、その後にしよう」

 登校したニトロは真っ直ぐ目当ての教室へ向かった。
 彼も既に登校していることは芍薬に聞いている。
 ニトロががらりとドアを――思わず強く――引き開けてそのクラスに入ると、一拍の間を置き、声が上がった。
 声を上げたのは数人の生徒。男女共に話題の『王女の恋人』が突然やってきたことに意表を突かれ、中には歓声を上げている者もいた。
 しかしニトロはその声が全く聞こえていないかのように歩を進め、乱暴な勢いで目当ての席へ腰を下ろした。
「おはよう」
 ニトロが座ったのは、携帯電話モバイルで何かを読んでいたハラキリ・ジジの前の席であった。
「……おはようございます」
 様子の違うニトロの来訪に、ハラキリは眉根を寄せる。その顔にニトロは軽く苛立つ。が、
「ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「はあ、何でしょう」
「場合によってはマッハパンチな、鼻に」
「いきなり穏やかじゃないですねえ」
「穏やかなはずがあるもんか、いいか? 真面目に答えろよ?」
 そのためにわざわざ直接聞きに来たんだ、そう目で語り、
「今朝『格闘プログラム』を使っていたらな――」
 ニトロは体験したことをそのまま語った。
 すると教室のそこかしこで呻き声が上がった。有名人の会話に耳を済ませていた生徒達が、ニトロ・ポルカトのあまりに真に迫る体験談にドン引きしたのだ。間近な席にいる黄色い靴紐の女子などは青褪めてさえいる。一方、その話を真正面からぶつけられている当のハラキリ・ジジは誰よりも平然としていた。
「マジで『格闘』なんて穏やかなもんじゃねえぞ、あれは。もし止めてもらえてなかったらいくら低深度レベルでも事故を起こしてたぞ、絶対に」
 ニトロがそう総括した言葉に、周囲の誰もが同意していた。しかし唯一それに同意しないのが、やはりハラキリであった。
「つまり、聞きたいことは、何故あんなものが入っていたのか、ということですね?」
 彼はモバイルを操作しながら言う。その態度にニトロは心を抑えつつ、
「そうだ」
「それはですね」
 モバイルを机に置いて、ハラキリは言う。
「君を慣れさせないためです」
「何にッ?」
 平然どころか薄笑いすら浮かべたハラキリに、思わず怒りを含ませてニトロが問う。と、ハラキリは一瞬目を軽く伏せ、
「決まっているでしょう? 『格闘プログラム』にですよ」
 ニトロの眉間に深く皺が刻まれる。
「どういうことだ?」
「『格闘プログラム』は非常に便利です」
「うん。お陰で助かってる」
「しかし便利な一方で、その手軽さ故に慣れを生みやすい」
「それが何か悪いのか? そもそも『格闘プログラム』はその手の動きに慣れさせるためのものじゃないか」
「慣れも過ぎては害悪です。技術を要する作業において『慣れた頃が一番怖い』とはよく言うことでしょう? 話によれば、君は剣術の練習で何度も“死んで”いましたね」
「ん? うん」
「君はそれに慣れていましたか?」
「……ああ、まあ、こんなもんだって感じでは、そうかな」
 ニトロの正直な肯定に、ハラキリはうなずく。そして彼は話の拍子を取るように指で机をトンと叩いて言った。
「それはもちろん形式的な死です。しかし形式的な死であってもそれを習慣的に経験しているだけでは、やがてはそれが『死という形式』にすり変わってしまう。体感型ゲームでよく聞くことですが、初めは強敵に殺されることに衝撃を覚えたプレイヤーも、ゲームの攻略法を見つけるために何度も殺されているうちに、殺されることが普通で、しかも、その死の衝撃を体感することすらもが一つの作業になっていくと。――ゲームならそれでいいです。しかし『格闘プログラム』においては困る。現実に置き換えた時、その状況で死ぬのは実際には“自分”であるはずなのに、訓練だからとはいえ自分の“分身”が死んでいるのだと勘違いされてしまっては訓練の質も落ちてしまいますし、さらには実際危険でもあります」
「――うん」
「そこで、それを防ぐために突発的にイレギュラーな環境を差し込むことで習慣化への警告をすると同時に、異質な“死”を体験することで初心に返ってもらおうと。もちろん、それもまた擬似的なものでヴァーチャルなものでしかありませんが。
 ……効いたでしょう?」
 ニトロは、うなずいた。彼の視線はハラキリのモバイルにある。そこには『覚えあり、しかし要調査』と書かれていた。
 やおら、ニトロは思わず笑ってしまった。
 ハラキリが完全には把握していないことが起こっていたということには恐怖を覚えるが、それ以上に、この話を聞いて、おそらくはこちらと同様に驚いているはずのハラキリが、それでもすらすらと方便を述べてきたことに呆れると同時に感心してしまったのである。しかもその方便が妙に納得させられるだけの筋を立てているのだから堪らない。
 しばらくして、笑いを鎮めた彼は言う。
「効き過ぎだ。つか強烈すぎるだろ」
「以後気をつけましょう」
 軽く頭を下げたハラキリにうなずき、ニトロは立ち上がった。
 ドン引きしていた教室の様子は、ハラキリ・ジジが珍しく口数多く語った姿と、彼のその無茶苦茶な主張を受け入れてしまった『王女の恋人』の度量によって、今や半ば呆気に取られながらも感心しているようだった。
 その景色を見てニトロはちょっと失態を演じてしまった――少なくともハラキリを引っ張り出して人に聞かれぬ場所で話すべきだった、と後悔する。
 だが、まあ、仕方がない。
 もっとハラキリ・ジジと話をしないのかとこちらへ向けられる周囲の期待を振り払うように、ニトロは一歩足を踏み出した。
「それじゃあ、また後でな」
 その念押しに、ハラキリはうなずいた。
「ええ」
 そしてちょっと面倒臭そうな様子で付け加える。
「今日はジムにも付き合いましょう」
 それは『調査報告』はその時にということである。
 ニトロは了解し、そして教室を出て行った。

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