(『第二部 第 [1] 編』のほぼ直後)

「主様ハSNSヲ使ッテナインダネ」
 それがさも重大な問題だとばかりに、芍薬は新しいマスターに尋ねた。
「ドウシテダイ?」
 その声には大発見を期待するかのような意気込みがある。
 問われたニトロは風呂上がりの赤らんだその頬に、半分は笑みを、半分は当惑を浮かべて部屋を見回した。部屋のシステムを制御するA.I.の『眼』となるカメラがどこに幾つ埋め込まれていたかを思い出しながら、食事と勉強兼用のテーブルから見やすいものへ視線を固定する。
 以前は恐怖と不安しかなかった一人暮らしの夜。
 だが、話し相手がいるというだけで随分やわらぐものだ。
「おかしいかな?」
「オカシクハナイヨ、タダチョット意外ダッタ」
「そう?」
「主様、人付キ合イ良サソウダシ、使ワナイ理由ノ方ガナサソウダカラネ」
 ニトロは、この新しいオリジナルA.I.が自分をそう見ていることにくすぐられる思いがして、微笑んだ。そして言う。
「それが使ってない理由だよ」
 ふいに壁掛けのテレビモニターに光が宿り、そこに空からふっと降り立つようにして芍薬の肖像シェイプが表れた。
 そちらに向き直ったニトロは、始めその衣装に目を引きつけられた。シャワーを浴びる前はスポーツウェアであったものが爽やかな麻のシャツと七分丈のパンツに、足元もスニーカーからミュールに変わっている。初対面時の奇抜な衣装からもう何度目の変化であろうか、どうやら芍薬はこちらの反応を窺いながらこれからの生活において最も『しっくり』いくものを探っているらしい。
 ただ、その中で一度も変わらないものがある。
 長い黒髪を束ねたポニーテールだ。
 その穂先を揺らして、芍薬は首を傾げていた。
 遅れて唇が動きかけ、もどかしげに止まる。
 それを見たニトロは芍薬が衣装だけでなく会話の調子も探っていることを察した。それはこちらも同じである。彼は芍薬が首の傾きを戻す辺りを見計らい、記憶を口に載せた。
「昔『適正診断』をやったら、『気を回しすぎて首が回らなくなる』ことと『善意から大自爆、または大炎上』するリスクに気をつけるように――総じて『付き合い疲れに気をつけて』って出たんだ」
「ソレデヤメタノカイ?」
「いいや、中学までは『♭』と『チュウティ』を使ってた」
「『ミニテク』ヤ『wD』ハ?」
「自分の記憶をWebに残す気が起きなかったなあ。いつ何があったかはメルトンが覚えてるし、いや、あいつは聞いてもなかなか真面目に答えなかったけど、それでもモバイルのログが簡単な日記代わりにもなるしね」
「日記帳ハ何種類モイラナイ、ッテトコカイ」
「単に物臭なだけかもね。リアルでも自分の考えを書き残しておく、っていう気もあまりしないんだ。まあ、性分かな」
 そういえばマスターはあまり物を持たない、と芍薬は部屋を『カメラ』で見回し、うなずいた。そのうなずきを受けて、ニトロは、ふと笑う。
「でももし一冊なりワンスペースなり、日記を書き残しておく習慣があったらさ、最近の出来事は後から読み返すのも苦痛なだけの代物になっていただろうね」
 軽い冗談のつもりで言ったことだったが、それが芍薬を苦笑もさせず、存外自分も笑えなかったことでニトロは一つ咳払いをして間をつなぎ、
「さっき中学まではやってたって言ったけど」
「御意」
「その中学時代でちょっと思うところがあってね」
「何ガソウ思ワセタンダイ?」
 モニターの芍薬は「話せることならば」という遠慮と「聞きたい」という希望を同時に見せている。
 ニトロは一つ呼吸を挟んで間を開き、
「その頃俺は、小学から『チュウティ』で繋がってたグループと、中学から『♭』で寄り合ったグループに入っていて、その二つのグループには俺と同じようにどちらの“コミュニティ”も使い分けているのが何人もいた」
「別ニ珍シイコトジャナイネ」
「そして珍しいことじゃないように、そこで言葉足らずのすれ違いが起こって、ある仲の良かった二人が大喧嘩をすることになったんだ」
「A.I.ノサポートハ入ッテナカッタノカイ?」
「一人はA.I.に自分の言葉をチェックさせるのは自分の言葉じゃないって嫌ってた。もう一人はサポートに入れていたけど、どちらにせよA.I.だけじゃ予防はできなかったよ。学校っていう現実リアル側のコミュニティの干渉もあったからさ」
「アア」
「それにややこしいんだけど、俺はAとBのグループに入っていたんだけど、一人はAとC、もう一人はBとCに入っていた。その二人がメインにしていたのはCグループで、誤解の温床になったのが」
「AトBダネ」
「不思議だったよ、今でもよく解らない、いや、どうしてそうなったかの大枠は判っているんだけど、その件に少しでも関係した人間はきっとそのことに一人一人違う印象イメージを持ってると思う。とにかく小さな誤解がビリヤードみたいに玉を突き合って、最後に現実こちらで爆発した。
 ……その連鎖した誤解の中に、俺の発言もあったんだ」
 芍薬は神妙にうなずく。
「といっても、問題になった俺の発言は当の二人とは別の友達とのやり取りの中のもので、だからその友達と俺とは誤解なく意志疎通できてた。けど、後からそれを見た人間には言葉が全く足りなくて、しかも別のところでもやり取りされてた共通の話題に照らすと変にその二人に気を遣ったものに見えたらしい。その気遣いが、想像の余地を生んだんだ」
「想像トイウヨリ、誤解ダネ」
 ニトロは、うなずく。
「問題の発覚後に、俺の発言に対する誤解も含めて多くの誤解は解けたんだけど、ログの残らない現実こちら側で生まれた誤解はもうブラックボックスだ。最後には言った言わないの水掛け論になっちゃって、結果として、一つの友情が跡形もなく燃え尽きたよ」
「……」
「何か、気になる?」
「火種ハ何ダッタンダイ?」
 芍薬の顔には好奇心はない。その目にはマスターをいつか火の手から守るための参考資料を求める意図があり、一方でその眉間には「踏み込みすぎたか」という不安がある。
 ニトロは、目を細める。
「恋だよ」
 そして彼は蘇った嘆息を吐き出して、肩を落とした。
「仲の良かった親友同士は、仲良く同じ女子に心惹かれて、だけど同じ女子を好きになったことよりも抜け駆けだの何だのって信じていた親友が自分を『裏切った』ことが許せなくて――これは当人達の言葉だけどね……殴り合った後に再び固い握手をする、なんてのはなかったなあ」
 そこで一度言葉を切り、嘆息とはまた別の吐息を挟み、彼は付け足すように言う。
「その女子は、事件がそろそろ風化した頃に他の男子と付き合い出してね、その時にまた色々囁かれていたけどうまくいっていたよ。でも、仲いいなぁと思ってたらいつの間にか自然解消しててさ、けどそれからも二人は仲がいいままで、去年会った時には別々の高校に行ってからも連絡を取り合ってるって聞いたけど……今はどうなのかな……」
 最後の方はほとんど独り言だった。音も消え入るように結ばれたものは芍薬に聞かせようという情報ではなく、また芍薬に調査をしてもらおうという話でもない。
 それを聞く芍薬は、少し嬉しかった。マスターが自分の前でそういう風に呟いてくれることが。
 もしかしたらまだ何かを言うかもしれないと思った芍薬は、黙って次の展開を待った。
 しかし、彼は何も言わない。
 頬杖をついて追憶に口を閉ざしている。
 ややあってから、芍薬は訊ねた。
「ソレデ主様ハヤメタノカイ?」
「実はその大喧嘩に遭遇する前から自分がSNSに向いてないなあ、とは思っていたんだよ」
「『診断』ガ、ズット気ニナッテタ?」
「時々思い出すくらいに、だけどね。だけど、やっぱりそのトラブルが一番のキッカケには違いない。それ以降は段々使わなくなっていってね、中途半端も変に気にかかるから、ある時点で思い切ってやめちゃった。必要があれば臨時エキストラでコミュニティに参加すればいいし、学校とかの連絡事項に必要なSNSにはもちろん今も入っているけれど」
 と言ってニトロは芍薬を見る。芍薬はうなずく。それを了解済みで、そこに普段使いの形跡が乏しいのも確認済みだ。
「まあ、結局これまでメールと電話だけで十分だったからね。
 ああ、そうだ。もう知ってるだろうけど、『リアルチャット』のアバターが氷漬けになってるんだけどさ」
「御意」
 良い機会だからそれも消してしまおうとして……ふとニトロは考えを改めた。
「いや、それはそのままでいいや」
 芍薬はそこで意外そうな顔をした、というよりも幾分慌てていた。マスターの意を聡く察して早速にも削除の作業に入っていたのだろう。一瞬後には平静を取り繕った芍薬の顔に――そこに冷や汗のアニメーションがないのが不思議でならない――ニトロは内心微笑み、それとは違う笑みをおもてに浮かべた。
「なんか、今消すとあのバカに負ける気がしてね」
 マスターは一体どんな経路を辿ってその結論に至ったのだろう……芍薬がそれを推察するには、まだ材料が足りない。今のところはそれを宿題とすることにして、芍薬はマスターの言葉に耳を傾ける。
「で、それのA.I.サポートはOFFになってるはずなんだ」
「御意」
「まあメルトンが厄介だったからOFFになってるんだけどさ」
 その言葉に、ニトロの狙い通り芍薬は苦笑混じりに笑った。
「メルトンハ、ソウイウ所デモ厄介ダッタノカイ」
「サポートのくせにどういうわけかトリックスターを気取りたがるんだよ」
 何かを思い出したらしく主は眉間に皺を寄せている。
「本当ニ仕様ガナイ奴ダネ」
 その言葉に、彼は芍薬の思うより強くうなずく。
 ――芍薬は、メルトンのことに触れるマスターの顔に複雑な色を見ていた。
 先刻、ジジ家よりでてニトロ・ポルカトのオリジナルA.I.となった直後……あたしはマスターに復縁を迫るメルトンを撃退した。その折のマスターとのやり取りでは気がつかなかったが、落ち着いた今によくてみると、マスターの声には未だメルトンに対する憤慨の余熱があるようだ。無論、これはやはり『裏切り』というものが人の心に掻き立てる熱が激しいためであるからだろう。だが、それと同時に、非道い裏切りを働いたメルトンを赦したマスターの眉と目の間には、相手を腐しながらも、呆れながらも、それでも常に燃え尽きない温もりが揺れている。
(ソウイエバ)
 A.I.との仲が良好な者ほどSNS使用率の下がる傾向がある――そんな研究があった。しかしそれを過去に参照してマスターとメルトンの関係性を推量するのはどこか陰湿な部分があるように思え、一方で自分との未来に参照するには時期尚早である上に意地汚い気もして、芍薬はそれ以上の考察を控えることにした。
「で『リアルチャット』」
 適切な空調のお陰で湯の火照りが消えた後も快適に、ニトロはホットミルクでも作ろうとキッチンに移りながら言った。芍薬はその行動にも注意を傾ける。
「サポートをONにして――」
 マグカップにミルクを注ぎながら、ニトロはそこでまたふと思いつき、言った。
「芍薬を『付き添いコンパニオン』に登録しておいて。滅多に使うことはないと思うけど、もし何か面白そうなイベントがあったら一緒に冷やかしに行くのもよさそうだし」
 マグカップをレンジに入れ、モニターへ振り返った彼は少なからず驚いた。芍薬は背後に光の粒子をきらめかせ、それ以上に瞳を輝かせていた。
「承諾!」
 本当に嬉しそうな芍薬の様子に、それほど喜んでくれるならとニトロも嬉しくなる。
 きっとこの嬉しさは仮実の隔たりを置いてなお互いに離れることない感情だろう。彼はそう思い、そう芍薬も感じる。そしてそのような感情を擦り合わせていくことでこそ、例え完全な相互理解は不可能であっても、境界の重なりあう場所に共通の足場を求めていけるのだろう。
 電子レンジがチンと鳴る。
「ソウダ主様、『チュウティ』ヤ『♭』、ソノ他ニモ主様ヲ騙ルアカウントガアルンダケド、ソレハ抹殺スル方向デイイヨネ」
 その手の認識の境界はどうやら少しズレている。ニトロはちょうどよい熱さのホットミルクを取り出して、燃えて張り切る芍薬へ困ったように、
「いや、そういうのは普通に警告なり通報なりでいいよ」
 芍薬はマスターとの温度差を察して己を控えさせた。握りこんでいた両の拳を緩め、その両手を腹の前に揃えてしゅくと重ねる。
 その姿を見たニトロはお互いの温度差に芍薬がわずかに漏らした当惑も鑑み、今ここでこの話をもっと明確にしておく必要性を強く感じた。先刻、芍薬を迎えた際、芍薬にはちょうど盗聴をしかけてきていた相手を撃退してもらったものだが、その時の簡単なやり取りをなし崩し的に今後の基準にしてしまえばいつか二人にとって大変な不都合が起きてしまうかもしれない。彼は言った。
「クラッキングとか、第三者を煽って犯罪を教唆するとか、明らかに違法だったり攻撃的だったりする場合には芍薬の判断に任せるよ。さっきみたいにね。それは“そちら”の流儀で、でないと芍薬の方が危なくなるかもしれないから」
 芍薬が何かを言おうとするのを制して彼は続ける。
「で、芍薬がそういう『危ない』と判断した場合には、俺の承認は事後でいいし、むしろ承認も無視する勢いでやって欲しい」
 芍薬は戸惑った。マスターの要望は、あたしの流儀をむしろ外れている。芍薬がマスターに伺いの眼を向けると、ニトロはどこかニヒルに笑った。
「他はともかく、最大の敵は、バカなんだ」
 刹那、芍薬は理解した。主の先の言に含まれていたニュアンスを改めて吸収し、大きくうなずく。
 そう、現実にしろ電脳にしろ、バカほど怖いものはない。
「承諾」
 眼に力を込めてがえんじた芍薬は、そこでマスターの瞳にまた別の期待があることを読み取った。それは何であろうと少し――人間には刹那より短い間に――考え、はたと気づいた。
 そしてニトロは、芍薬のほどけるような笑顔に、やわらかに笑った。

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