(『第三部 彼の分別、彼女の流儀』の1と2の間)

 パキリ、パキリと音が鳴る。
 彼女がプラスチックシートを折り曲げる度、パキリ、パキリと音が鳴る。
 艶のない銀色をしたそのプラスチックシートはおよそ1cm間隔で溝を刻みながら五つばかりに連なっていて、溝と溝に挟まれた中央部には透明な膨らみがあり、その内部には象牙色をした先端の丸い円錐えんすい状の物体が収められている。
 パキリ、パキリと音が鳴る。
 鳴る。
 黙々と一定のリズムでその梱包材を折りまくる音に、ニトロはとうとう我慢できなくなった。
「何やってんだよ」
「お薬の準備」
「……」
 ニトロは深い焦げ茶に艶めくテーブルの上、折り取られては積み上げられるその薬を見た。
 座薬である。
「だから何やってんだよ」
「入れる? 入れられる?」
「断る」
 パキリと音が鳴る。
「折角買ってきたのに」
「買ってくんなよ」
「これは痔の薬」
「いらぬ」
「銀河を渡るようになっても人間は痔になるのよね」
「おかしな感慨を抱くなよ」
「肉体を捨てれば痔なんてものからは永久に別れることができるけど、だけど果たして肉体を持たない人間は人間なのかしら、動物であることを止めた動物はもはや別種の“ぶつ”ではないのかしら。そうなってなおその存在が『人間』と名乗ろうというのなら、あるいはそのような存在を『人間』と呼ぼうというのなら、その時『人間』というものは実体の如何いかんを問わぬ一種の尊称に成り下がるのではないのかしら」
「痔からいきなりえらい深遠なテーマに移行したな、おい」
「ニトロはどう思う?」
「『魂に至る道は未だ発見されていない』」
「この手の議論の常套句ね。『思考を電脳に移行することは可能であっても、思考と精神は同義ではない。いわんや魂においてをや』」
「学者も思想家も宗教家にも結論出せてないのに俺が分かるか」
 パキリと音が鳴る。
「つまらない答えねー」
「……。
 一つ、思うのは」
「ええ」
「肉体がなくても『人間』であれるんなら、既にオリジナルA.I.が『人間』じゃないか。それならその議論自体がもう時代遅れだよ」
 ティディアはちらりとニトロを見やった。口元には微かな笑みがある。
「それじゃあ人間とオリジナルA.I.は同じ存在だと思う?」
「別物だろうな」
 ニトロは即答した。彼の後ろに控える警備アンドロイドがほんの僅か身じろぎしたようにティディアには見えた。
「だけど、俺とお前も別物だ」
 パキリ、と、音が鳴った。
「もしニトロが“移行”の機会を得たら、どうする? 理論上は永遠に等しい命を得られるわよ?」
「命がそうでも、その暮らしは本当に『人間』なのかな」
「どうして?」
「移行後の俺はどんな風に“生きる”んだろうな」
「今の生活をそのまま移す、っていうのが分かりやすいところでしょうね」
「肉体を捨てても食事をして、寝て」
「セックスして」
「……万事、今は仮想である空間が現実になる、か」
「ええ、すっかりそのまま、ただ肉体に関する煩わしさはなくなり、どんな快楽も再現できて、知的探求においても頭脳を付属品によって無限とも思えるほど拡張できる、死も克服できる」
「それは夢のようで理想的に聞こえる、けど個人的には、肉体の外に精神を移して死まで克服してからも肉体に由来する欲や思考に拘るようなら、そんな“移行”なんてする意味は薄いと思う。再現される快楽とか、そういうのはやっぱり『人間』のもので、そこを離れたらどうしたってそれは『人間的』なものになるんだと思う。俺は、人間でありたい」
 ちらりとティディアがニトロの目を覗く。それは深淵を深淵から覗き込んでいるような、逆に岸辺から水面を撫でるだけのような、不思議な眼差しであった。しかし彼女は何も言わない。ただ彼を見つめる。彼は深淵にも水面にも背くように一つ息をつき、
「もちろん肉体に関する煩わしさ――病気とかがないのは素晴らしいことだと思う。だけど、そういう世界でも病気を作り出す奴がきっといるだろうよ」
 ティディアは目を細めた。
「やけに悲観的ね」
「実際全星系連星ユニオリスタでの『機械化』への規制の根拠の一つが、それで一星いっこくが滅んだからじゃないか」
「それについては病気ウィルスは確かに重大な因子の一つだったけど、実際にはもっと複雑ね。星内全地域でのEMP兵器の同時発動とか、犯人自らが星の全人類のサイボーグ化・機械化を推し進めていたとか、おそらく今後の銀河史でも起こることのない例外よ」
「だとしても“A.I.キラー”みたいなウィルスも絶え間ないんだ。例外は例外としても、そのミニマムコピーはあるだろう」
「やっぱり悲観的ねー。もっと人間の善意を信じない?」
「信じられない奴を目の前にしてンなこと言えるほどお人好しじゃあない」
「え〜。こんな善意の化身を前に酷いじゃない」
「おかしい、幻聴が聞こえやがる」
「それならこれが幻聴に効く座薬」
「え、そんなのもあんの?」
「色々あるわよー。みんな同じように見えるけど、これは麻薬」
「まっ!」
「昔の医療用ね」
「あ、ああ。でもそりゃ医療用なられっきとした薬だろ」
「こっちは過剰摂取オーバードーズ引き起こしまくって中毒者ジャンキーも裸足で逃げ出す麻薬」
「マッ!?」
「これが下剤で、これが解熱、鎮痛、消炎、性病、あ、これは媚薬ね」
「おいおいおいおいホントにお前は何考えてんだ!?」
「肉体があることを実感してみない?」
「座薬で!?」
「そして私に入れさせて! ていうかそういうプレイはいかがでしょう!」
「結局そういう話か断じて断る!」
「なら私に入れて!」
「断じて拒否する!」
「また熱を出しちゃった時にはよろしくね!?」
「そん時ゃ医者に任せろ! もしくはロボットに!」
「ちぇー。でも本当に必要な時にはしてくれるって信じてる」
「不信を極めてくれると助かるんだがなあ」
「なら助けないわー」
 パキリと音が鳴る。
「まだ分けるのかよ。つか麻薬は本物か? だったらこんなところにあっていいもんじゃねえだろ」
「これねぇ、実は全部お菓子なのよ」
「それは……」
「これは本当の話。クァランって聞いたことない?」
「ああ、えーと」
「レンジュカ」
 後ろから芍薬が助ける。
「そうだ、レンジュカこくの最高級の砂糖を使ったやつだろ。こっちで買うと一個一万リェンはいくっていう」
「そう、それ」
「え、じゃあこれ全部?」
「そうよー。座薬型に作らせたの。職人芸よねえ、見事な出来映えだわ」
「そうだなあ。そう聞くとなんてことしやがると思うな」
「食べ物って見た目の影響が大きいわよね」
「……お前、まさか」
「ここにある50個、50人がそれぞれどんな顔で食べるか、そして食べた後にどんな顔をするか、きっと多彩で楽しい見物みものよ。食べ物の見た目が味わいに与える影響ってテーマでレポートだって書けちゃうわ」
 瞳を輝かせて鼻息荒いティディアに対し、ニトロは酷く渋面となる。
「お前は本当に下らないことを……てか食べ物で遊ぶなよ」
「遊んでなんかいないわ、本当にレポート書くもの。他に50個、全く同じ形だけどキャンディ包みにしてあるのがあって、それが対照群」
「……」
 ニトロの沈黙に、ティディアはにやにやと笑った。彼女の意図を察しても無駄に武装された理屈が勝って攻められない。それが悪戯に過ぎないとしても、強いて止めるにはこちらに理屈が無さすぎる。人に迷惑をかけるなと言ったところでこれが迷惑になるとは限らない。逆に、こんな高級菓子を王女から賜れることを邪魔されてしまった人々からこちらが非難されることすらあり得よう。
「もちろんそれ以前にいきなりお姫様から座薬をプレゼントされた相手がどんな反応をするかってのも楽しみなんだけどね」
 まるでこちらの葛藤を読み取ったかのごとく悪趣味な嗜好を付け加えてくるお姫様に、しかしニトロは何も言えない――そう『プレゼント』だ――彼の眉間の深い皺の底に敗色を認めたティディアは勝ち誇り、折り分けた“座薬”を袋に入れると立ち上がった。椅子の背にかけてあったパーカーを羽織ってフードを被る。
「ニトロも来る?」
「行かねぇよ」
「残念」
「判ってただろ」
「レポートを楽しみにしていてねー」
 と、ニトロの横手からすらりとした腕が伸びてきて、コトリと、彼の前に黒い皿が置かれた。さらに緑とも青ともつかぬ色の茶が添えられる。給仕を行ったヴィタが頭を下げて身を退いた。彼女も主人と色違いのパーカーを着てフードを被っていた。
「レンジュカのお菓子には、やっぱりレンジュカのお茶」
 そう言うティディアの顔はわくわくしている。その後ろではフードの陰に潜むマリンブルーの瞳がうきうきしている。
 ニトロは菓子を突き返そうかとも思ったが、それと同時にこの名高い異星の菓子への興味が胸を突き、その興味は舌まで昇って来ると逆らいがたい欲となる。
 とはいえ性悪二人の期待に応えるのは癪に障って仕方がない。
「……」
 ニトロは砂糖菓子を摘まみ上げた。
 ティディアが食い入るように目を剥いて、ヴィタが食いつくように身を乗り出す。
 ニトロは摘まんだ砂糖菓子を、パキリと折った。
 瞬時に女二人の顔が失望に染まった。
 形を変えた砂糖菓子はその外見の生む意味合いを変えながら、しかし味わいは変わらない。ニトロは悠々とそれを口にした。
 すると、失望していたはずのティディアがにこりと微笑んだ。
 ニトロは彼女の微笑に優越感を見た。そしてその意味をすぐに悟った。
 彼は、彼女の予期通りに己の頬が緩むのを防げなかった。
 何だろう、この恍惚な雪解けは! 口に入れた瞬間、淡く深くほどけていき、ほどけた後には喜びとしか言えない余韻が長く続く。お茶を含むと程よい渋味と風味が、その甘い余韻と美しい調和を奏じて爽やかに消えていく。
「それじゃあ、ちょっと行ってくるわね」
 すっかり気を取り直し、考えついた悪戯を早く実行したくてたまらない様子の悪女が種を仕込んだ袋を片手に今にも踊り出しそうな足取りでドアに向かう。共犯者の足取りも実に軽やかだ。
「収録に遅れるなよ」
 せめてものニトロの一言にティディアは「はーい」と応え、ヴィタによって静かにドアが閉められる。
「……」
 ニトロは、息をついた。
「これは、珍しく気楽にしていられるって喜ぶべきなのかな」
「別ニ誰ヲ犠牲ニシタワケジャナイト思ウヨ」
 芍薬は、マスターの言葉にではなく、その胸中にずばりと応えた。ニトロは頬杖を突いた。
「うん、そうだけどね」
 だが、折角の高級菓子を座薬の見た目で食べさせられるのは不幸ではないのか? それでもやっぱり王女から賜る歓喜が上回るのか……ニトロには結論が出ない。それにその人は座薬の印象なんて忘れるくらいの美味をも得よう――これを食べた後にはそうも思う。
 彼はまた一つ、今度は座薬型のまま砂糖菓子を口にした。
 初めからずっとこの形で認識してきていたから、今更彼に見た目から生じる抵抗感はなくなっていた。
 そう、彼にとってこの砂糖菓子の形状は、既に座薬型がデフォルトになってしまっているのだ。
 無論、喜ばしいことではない。
 彼がため息をつくと、芍薬が言った。
「バカニ頭ガ回ル、資金モ豊富、相変ワラズ変ナ所ニ情熱燃ヤシテ、シカモ妙ニ掴ミ所モナイ」
「つまり総じて厄介だ」
 合いの手を入れるようにそう言って、ニトロは苦笑した。芍薬もきっと苦笑しているだろう。顔を見合わせず苦笑し合った二人は、やおら同時に息をつき、それがあんまり同時であったから、二人は思わず声を上げて笑ってしまった。






「随分ほくほく顔で戻ってきたじゃねぇか」
「やー、楽しかったわー。変に舞い上がった10人ばかりが話を聞かずに持って帰っちゃってね、その内の一人は渡した場所がトイレ近くだったものだから早速“使用”しちゃうところだった」
「止めたろうな?」
「止めなきゃニトロが怒るでしょ?」
「怒られなきゃ止めねぇつもりか」
「怒られない事を何で止めなければいけないの? というか怒られる事でも何でやっちゃいけないのよ、むしろ何で怒るのよ」
「付き合わないぞ」
「えー。他愛無いお話から小難しいお話までたくさんお話ししてお互いの理解を深めましょうよぅ、さっきみたいにぃ」
「で?」
「止めに入ったらズボンを下ろしていて……見ちゃった」
「ああ、かわいそうに」
「そう、私はかわいそうなの、慰めて、頭を撫でて慰めて」
「いやお前じゃねぇ、相手がだ」
「あれはあれで面白かったわ。熊みたいなのが女の子みたいな悲鳴を上げちゃって、やー、可愛かったわー」
「……」
「そ、察しの通りあの大道具係り」
「彼はお前の『マニア』だろ?」
「未遂で良かった」
「クソ女め」
「他のも止めてあるから安心してね」
「大道具さんのメンタルケアもしっかりやっとけよ」
「なかなかご立派、って誉めといた」
「……」
「でも「言いたいことは解ってる、もう言うな、何も言うな」
「こんな私がお姫様!」
「ぃやかましいッ!」
「でもネタバラシ後にクァランを食べた皆はなんだかんだで幸せそうだったわ」
「そりゃ良かった、けどなあ、そもそも何で座薬なんだ?」
「雑誌に『おもしろ同音異義語特集』があって、そこにラミラスこくには『ザヤク』って料理がある――って出ていたから」
「ああ……」
「ちなみにあっちの『ザヤク』はこっちで言うなら『脳味噌のムース』」
「マジか」
「あっちの晩餐会で食べたことがありました」
「マジでか」
「それを思い出して懐かしかったから座薬にしてみたの」
「なんでかッ!」
脳味噌あたまのお通じがよくなるかなーって」
「全然思ってないよな」
「ところがこっちがすっきりするばかり」
「あーもういい、仕事行くぞ」
「はーい」

末吉

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