彼の分別、彼女の流儀

 通う高校の最寄りのファミリーレストラン『ギルドランド』の個室。空調が効き、日が経つにつれ暑苦しさが増していく――来月の衣替えが待ち遠しい――冬の制服の上着を脱がずとも快適な部屋で、ハラキリ・ジジはアデムメデス一の生産量を誇るルモのコーヒーを飲み、携帯電話を眺めていた。
 その画面には彼のA.I.から送られてきた電子メールが開かれている。
 それは画面的にも文面的にも飾り気のない文章で、一見すると知人からの他愛もない言伝を知らせる文でしかない。だが、それは簡易ではあるがハラキリ以外には真意を読み取ることのできない暗号文であり、彼はざっとメッセージを読み終えた後、
(やれやれ、ついてない……)
 胸に苦々しいつぶやきをこぼし、窓の外、五月も半ばを過ぎ、しだいに新緑の色も渋く深まり出した街路樹へと目を移した。
 今日は予定を変更させられてばかりだ。
 下校時、友人とトレーニングジムに寄ってから帰るはずが、校門を出たところで友人がクラスメートから頼みがあると電話を受け、どうやらその頼みごとは他のクラスメートには聞かれたくない内容らしく、ここギルドランドで待ち合わせることになり。
 両者共に夜に予定があったため、時間的にジムに行くことは取り止めとなり。
 『ハラキリはいても問題ない』そうなので、流れ的に二人に付き合うことにして。
 一連の予定変更の旨を撫子に伝えたら、そこでまた一つ、予定を変更せざるを得ない情報が返ってきた。
 物事が思う通りに進むことこそ本来、稀。とは承知しているが……
(残念なことには変わりなし)
 心中でつぶやき、ハラキリは気持ちを切り替えて撫子へ了解と労いの言葉を返し、携帯を制服の胸ポケットにしまった。それから未練の残滓を吐き出すよう息をつき、小麦色のテーブルの向こうでぼんやりとカプチーノの入ったカップを口に添えている友人――ニトロ・ポルカトを見やる。
 その視線に気づいたニトロが白磁のカップを下げ、無防備な顔をハラキリに向けた。
「何?」
「申し訳ありません。来週の土日、駄目になりました」
 いつも笑っているような顔に少しばかりの惜しさを混ぜて、しかし口調はさらりと言いのけられ、ニトロはカップを取り落としそうになった。
「――え?」
 慌ててカップを両手で支え、かすれた疑問を一番の友に投げかける。
 彼はへらりと笑って、答えた。
「どうしても外せない用事が入ってしまいまして。だから、シゼモには行けなくなりました」
「ちょ……ちょっと待った、それは物凄く困るんだけど!」
「そう言われましても。拙者も温泉を楽しみにしていたんですが……まあ、しょうがないことですので」
「しょうがなくない!」
 ニトロはカップを乱暴にソーサーに置き、わなわなと体を震わせてハラキリを凝視した。
「用事って何だよ。それって外せないのか? どうしても? 友達の身の安全がかかってても外せないものなのか!?」
「いやいや、そんな必死にならなくても」
「必死にもなるさ! だってお前、シゼモだよ? 次の出張先は有名な温泉保養地だよ? そんな場所にティディアと一泊二日だよ!? せめて納得できる説明を要求する!!」
「一昨日のエフォラン紙の三面に載っていた記事、知ってます?」
 ハラキリの意外な切り出しを受けて、ニトロはきょとんと呆けた。
 エフォラン紙……ヤラセ曲解憶測報道が当たり前、扱うニュースも低俗なものばかりであるため、情報誌としては格別評価が低く、しかし流言蜚語のネタの提供元だけとして見ればそれなりの評価を受けている有名な三流ゴシップ紙だ。
 クレイジー・プリンセスがマスメディアに対して『ニトロ・ポルカト』の扱いは丁重にするよう睨みを利かせている中、さすがに犯罪まがいの取材はないまでも、最も多くの『ニトロ・ポルカト』に対する記事――ちょっとした情報(含む又聞き)から推測と憶測と妄想を基にした牽強付会な悪文――を載せていることで、ある面では最近最も名を上げている日刊紙でもある。
 ハラキリの口から出てくるのが不思議な名詞ではないが、多少なりともいい思いのない対象であり、もちろん購読などしていないニトロは首を横に振った。
 ハラキリは手元のカップを持ち上げ、
西副王都ウエスカルラの金持ちの家に空き巣が入り、そこの金庫が驚くほど短時間に穴を空けられて貴金属を盗まれていたっていう記事があったんです。〆切り直前によほど慌てて書いたのか、犯人は金属も切れるバターナイフを持っているに違いないってウケの一つも取れないまとめ方をしてたんですが……」
「それが?」
 ハラキリはコーヒーを一口すすった。
「キジン。この響きに憶えは?」
「あるよ。忘れられるわけないだろ」
 心持ち頬を強張らせ、ニトロは小声で応えた。それはあの『映画』でこの手に握ったナイフの名だ。最も硬い合金である至鉄鋼アルタイトですら、使用者がそれこそ子どもであっても容易に一瞬で切ることのできる神技の民の品ドワーフ・グッズ
 ニトロはハラキリの意図を察し、同時に彼の用事が『どうしても外せないもの』であることを納得してしまい、唇を固く結んだ。
 彼は……時々、ふらりとどこかにいなくなる時がある。それは単にちょっとした一人旅に行っているだけの時もあるし、仕事で忙しい彼の父親に会いに行っている時もある。たまにティディアと手を組んで悪巧みのために消えることもあるし、神技の民ドワーフに呼び出されたり、それとも母親の仕事の手伝いをしていたりすることもある。
 ――また、稀に、母親の仕事の取引相手が契約を破った際、実力行使を含んだ『交渉』のために出かけることも。
「本当に?」
 浮かない顔でニトロが確認すると、ハラキリは軽くうなずいた。
「気になって調べてみれば、取引相手の息子がソレを悪用してましてねぇ。取引相手本人とは契約を破ったペナルティ込みで話はついたので後はソレを回収するだけなんですが、悪用した息子にペナルティなしってのも何ですし、彼の仲間にもソレのことを知られちゃいましたから。そしたら息子さんってばちょうど性懲りもなくまた悪巧みをしているようなので、口止めついでにもろともナイトメアでも受けてもらおうということになりまして、で、その実行日がいつか撫子に探らせていたんですよ」
 ニトロはハラキリにとんでもないことを平然と――そのくせどこか愚痴っぽく――言い続けられ内心慌てていた。
 先ほど散々叫んだ自分が言えたことではないが、いくらここが他に人のない個室だとはいえ、もしかしたらそのドア越しに誰かが聞き耳を立てているかもしれないし、いつ何時そのドアを開けて待ち合わせをしているクラスメートが入ってくるかもしれないのだ。ハラキリが関係者以外に『秘密』を漏らすことはないと理解はしていても、これはどうにも心臓に悪い。
「そうしたら、」
「それが、来週末だったわけだ?」
 ニトロは口を強めて言った。
 事情への了解と、この話はやめようという意思を込められた語気にハラキリはかすかに眉をはね、
「残念なことに」
 ニトロの希望を受け入れ、それだけを言って口をつぐんだ。
 そして、
「……気をつけてな」
 願い通りこちらが話を切り上げたことに息をつき、その息の吐き終わりに付け足すようにして言ったニトロに、ハラキリは小さく笑みを浮かべて応えた。
「そちらこそお気をつけを。まあ、芍薬がいるから大丈夫でしょうけど」
 ニトロは苦笑した。
 こちらとあちらの気をつけるの意味合いには大きな隔たりがあるが、まあ確かに、ボディーガードが一人減ったからには彼の身よりもこちらの身をこそ案じねばならない。
 なにしろ――
「それでも油断はできないんだよ、あいつを相手にしてると。しかもあのバカ今回えらい張り切ってやがるし」
「シゼモは良いところですからねぇ。セグトス山脈の麓に広がる温泉地帯。山々から流れ落ちる水を束ねたリゴウ川、その本流支流に沿ってある湯の町々――その中で最も古く、最も大きく、最もセグトス温泉地帯の発展に貢献した湯元の街。悠久の歴史の中、一度も枯れることなくこんこんと沸き続ける湯を求めるのは日々の暮らしで心身に溜まった疲れを洗い流したい人、それとも温泉療法のために訪れる湯治客、あるいはただ温泉好きな旅行客、そして部屋付きのバスルームで体を洗い合い情緒溢れる温泉街の夜に寝屋を共にする恋人達
 朗々と、まるで観光案内かその街を讃える碑文でも詠んでいるかの調子でハラキリはそこまで言うと急に目を伏せ、頭を振った。
「いやいや……おひいさんが実に鼻息荒くその日を心待ちにしている姿が目に浮かびます」
「鬱陶しいんだそれがまた! 毎日毎日後二週間、後十三日、後、あとアトって満面の笑みでカウントダウンしやがって。絶対あいつはそっちをメインに仕事を入れやがったよ」
「そりゃ十分あり得ますねぇ。ああ、そうだ。そういえば地球ちたま日本にちほんの温泉文化は、セグトス地方のものに似ているそうですよ」
 ふと思い出したようにハラキリが言ったことは、ニトロに取って少々意外なものだった。これまでハラキリ経由で関わったの日本にちほんネタといえば戸惑わされるものや良い思いのないものが多かったのに、急に興味を引かれる情報を与えられて感嘆が口をついて出る。
「へえ、そうなんだ」
 アデムメデスの温泉は概ね『リゾート地』であるか『保養地』であるかに分かれる。前者は入浴や治療といったものより温水プールとそれに隣接した遊園地やカジノなど充実したアミューズメント施設で楽しむ、よりエンターテインメントによった観光地としてあり、後者は地方ごとの温泉療法の特色と共に育まれた文化が街を作り上げ、遊行ではなくより休息や療養を目的とした土地としてある。
 ニトロが来週『相方』と仕事に赴くシゼモを含めたセグトス地方の温泉は後者であり、元は宿場として、その後は入浴そのものを中心とした療法を主として発展してきた地域だ。
 写真や動画で見たその光景を脳裡に浮かべたニトロは、ハラキリの口から伝え聞くばかりの遠い辺境の星、その一地域に母星の景色を重ね合わせ、口元に自然と笑みを浮かべてつぶやいた。
「そりゃあ……ちょっと、親近感沸いたなあ」
「さすがに細かいところは違うでしょうけどね。ですが、ロカンという形式の宿やオヌセンダッキィュなるスポーツ施設、それとノタイモリなる料理もあれば概ね合っているそうです」
「へえ」
 異国の温泉話――それも父に語ってやれそうな料理の話が出てきてさらに心引かれたニトロが身を乗り出そうとした時、ふいにドアがノックされた。
 ニトロは身を戻し、ドアに目を向けた。
 一拍の間を置いて部屋に入ってきたのは、予想通りの顔だった。同じ高校の制服に明るい栗色の髪。帰宅がてらハラキリとトレーニングジムに向かう途中、電話を受けた相手……クラスメートの、クレイグ・スーミア。
 ニトロにとって大切な友の一人で、あの『赤と青の魔女』の日、スライレンドに誘ってくれたのも彼だった。
 クレイグはニトロと目が合うなり、すまなそうに顔を曇らせた。
「急に悪かったな」
「いや、いいよ」
 クレイグはハラキリのがわに座り、メニューを見ることもなくニトロに深い茶色の瞳を向けた。そこにはいつもの快活さはなく、友達への決まりの悪さだけが滲み出ていた。
 ニトロはカプチーノを一口飲み、クレイグの言葉を待とうとしたが……やめた。
 ここギルドランドで会おうと言ってきた電話越しの彼の声――それに彼の性格を思えば、あちらから話を切り出すのは苦しいだろう。
 ニトロはカップを置くと、メニューを表示する板晶画面ボードスクリーンに指を這わせ皆で食べられる物を注文しているらしいハラキリの横、顔だけでなく髪も瞳の色までをもくすませている友人に言った。
「それで、頼みたいことって?」
 何も遠慮はいらないよと、言葉と笑顔の裏にニトロは示していた。
 クレイグはしばしニトロを睨んでいるかのようにじっと見つめ、やがて、肩を落とすほど大きく息をついた。
「来週、シゼモに行くんだろ」
 ニトロがうなずく。
 クレイグはとにかく気の進まぬ様子で続けた。
「できたらでいいんだ。できたら、ウォゼットってホテルに泊まってくれないか」

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