紙一重

(番外編『知らぬ顔』の前)

『ティディア&ニトロ』として漫才コンビになるまでも大変だったが、無事に(不幸にも)デビューしてからがまた大変だった。
 年の瀬迫る時期。
 前代未聞の大型新人を放っておけるメディアはあるはずもなく、ニトロは今日も放送局にやって来ていた。これで13日連続。テレビ・ラジオ・電波・インターネットを問わねば何局巡ったか分からない。確か50は超えていた。その中には実際には“芸”を披露せず、要するに『希代の王女とその恋人』のための特集番組も数多くあったが、それにしたってバカに対するツッコミは不可欠であり、結局それはバカとの情報戦を加味したおおよそ漫才の体をなし、するとどちらにしたって馬鹿みたいに疲れることに相違はない。
 しかも高校生にとっては学期末である。
 学期末には試験がある。
 楽屋として提供された応接間でニトロは勉学に励んでいた。収録の間には雑誌やニュースメディアの取材もある。分刻みのスケジュールとはよく言ったものだ。寸暇があれば活用せねばならない。留年ともなればその事態を誰にどう利用されるか判らないから頑張らねばならない。重厚感溢れる机にコーヒーと並んで置かれた板晶画面ボードスクリーンには銀河共通文字がずらずらと表示されている。長文読解。異文化交流についての小論。内容把握は難しくない。しかし簡単なことを複雑に述べる文体が理解を妨げる。基本的に『やさしい言語』として開発された共通語でここまで難解な文章を作れることは驚きですらあった。
 こんがらがりそうな思考の糸をほぐしつつ、未知の単語の意味を調べようとニトロが辞書機能を呼び出した時である。ふいに声が上がった。
「うんバほーいさーい」
 ニトロは顔を上げた。
 机の向こう側に、ティディアがいる。彼女は斜になって座り、行儀悪く足を机に載せている。滑らかな足の裏がニトロの心を惹きたいとばかりに揺れていて、一本一本象牙から磨き出されたかのような指が時折グッパッと閉じては開く。リボンとフリルたっぷりのお嬢様ルック、甘ったるくも洗練されたロングスカートの裾が膝までずり上がっていた。陰に覗く太腿を越え、そこから精緻なレースで飾られた前身頃まえみごろさかのぼればお姫様の不機嫌な顔に辿り着く。
 ニトロは一目見た際、ティディアにその服は似合わないとはっきり答えた。以降すねてしまった彼女は沈黙し、今も彼の視線に、やはり応えない。
 ニトロは読解に戻った。未知の単語は『通過儀礼』という意味だった。
「うんバほーいさーい」
「……」
 ニトロは再び顔を上げた。ティディアの土踏まずが美々しいアーチを描いている。その向こうには不貞腐れた唇がある。
「……何だよ」
「……掛け声」
「掛け声?」
「マッケンバブトン祭の掛け声」
 ああ、とニトロはうなずいた。
「あの奇祭か」
 秘境感溢れる有名な温泉地の奇妙な祭を思い出す。だが、それがなんだというのか。ニトロはすぐさま勉強に戻った。文中において『通過儀礼』は本来の字義そのままに使われていたのではなく、『乗り越えるべき折衝中の文化間に生じる軋轢、それを乗り越えてこそ真に強靭にして成熟した文化を得られるもの』――という文脈で使われていた。続けて自論を理想としつつも自ら批判的考察を試みる一節が展開されて
「うんバほーいさーい」
 ニトロは三度顔を上げた。
 そして吹き出した。
 いつの間にかティディアは口紅を唇からはみ出させて塗りたくっていた。
 彼は口を拭い、努めて平静を取り戻し、言った。
「何してんだよ」
「マッケンバブトン祭の女衆めすの化粧はね、子どもの頃の化粧への憧れを表しているそうよ」
「ああ、つまり子どもが悪戯して失敗した化粧、みたいなもんか。そんな風に」
「そう。いかに独創的に失敗するかが女衆の腕の見せ所」
「で?」
「うんバほーいさーいって声を上げながら灰色の“泥”を辺り構わず投げつけるじゃない?」
「ああ」
「あれは元々馬の糞だったの」
「マジか」
「そもそもは堆肥にした糞だったけど、後年はそれじゃあ間に合わないからって発酵させる前のも持ち出していたみたい」
「マ・ジ・か」
「歴史的には男尊女卑の激しい地域だったから、祭は女衆のガス抜きでもあったのね。嫁姑での糞の食わせ合い、夫の浮気相手をヤるために糞担くそかつぎの男衆おすを囲い込んでの集中砲火なんかも風物詩だったそうよ」
「なんか色んな意味でエグいなあ」
「でも街道が拓けて、幽玄な温泉地として有名になり出した頃から事情が変わった。流石に糞を投げ合い擦り付け合う祭は保養地にそぐわない。てことで近辺から取れる泥を投げ合うことにした」
「ああ……それで今に至るのか」
「いいえ、またちょっと違う。昔の泥と今のは別物」
「それじゃあ?」
「温泉地、泥、ときたら?」
「あー、泥パック?」
「そ。糞から泥に変えて投げ合って数年、どうもその泥が肌に良いみたいだと噂が立った。町の特任を受けた学者が各地から取り寄せた文献を紐解き情報を集めてみると何やら他の場所では泥を使ったサービスが行われているらしい、しかもそれが評判だ。さらに学者によればうちの泥は非常に優秀であるらしい」
「てことは『商品』になる、からには無駄にはできない」
「世知辛いわよねー。でも女衆は投げたい。時代が下ってからも重要なガス抜きとして機能していたのね。一時は有名保養地として相応しい振る舞いを、ってことで投げつけ合いの廃止も検討されたけど大反対にあった。そこから紆余曲折を経た結果、現在の『ペースト』に行き着いたってわけ。衛生的に問題なく、特産の泥より成分はずっと少ないけれど一応『美容』を謳い文句に出来るものをわざわざ開発してまでね」
「そうか。興味深かったよ。じゃあ静かにしてくれ」
「うんバほーいさーい!」
「ぅゎうるせぇ!」
「うんバほーいさーい!」
 机の上に飛び乗って、両手を空に何度も振り上げながら口紅を塗りたくったティディアはぴょんぴょん跳び跳ねる。その奇行にニトロは度肝を抜かれた。彼のその顔を見て頬を明らめたティディアはいよいよ叫ぶ。
「うんバほーいさーい!!」
 ぴょんぴょんと跳び跳ねる度、彼女の足首まであるスカートの裾も一緒に小さく跳ね上がる。健康的な脛がちらめいて、ステップを踏む素足は実に軽やかだ。つられてコーヒーカップもがちゃがちゃと踊り出す。ニトロは慌ててカップを持ち上げた。
「うんバほーいさーい!」
「おいおい落ち着けどうしたティディア! なんだ! ついにその日が来たのか!?」
 その問いかけに、ティディアはキッと彼を見下ろした。
「もっと構え! 折角二人っきりなのに寂しいじゃない!」
 その返答にニトロは一瞬息を飲み、ガッと怒鳴り返す。
「ん何を抜かす! もう十二分すぎるほど構ってるだろうが!」
「どこが!?」
「こうして『漫才』に付き合ってる!」
「それは自分で承知した貴方の仕事でしょう!?」
「それで十二分だっつってんだ! できるならお前となんて少しも一緒にいたくないんだからな!」
「うわひっど! 流石に泣くわよ!?」
「泣けばいい!」
「慰めてくれる?」
「No!」
「この外道!」
「お前が言うなあ! つかな、そんなに寂しいんならヴィタさんと話でもしてこいよ」
「ヴィタは取り込み中だから駄目よ。彼女は――」
「待てそれ以上言うな聞きたくない」
王佐家おうぞくの馬鹿が詐欺に関係したからその始末の指示で忙しいの」
「ほらやっぱり聞きたくなかったー!」
「本人は詐欺に利用されただけみたいだけど、デリケートな案件だから今のところは秘密にしてね?」
「ンなこと誰にも言えるかッ! てかいい加減降りろよそして顔を拭けッ」
「そしたら構ってくれる?」
「これ以上構えと申すかこの強突ごうつく張り」
「やー、別にこんなふうに楽しませてくれなくてもいいのよぅ」
 クスクス笑いながらティディアは机から飛び降りた。スカートがふんわりと広がり、ふんわりと閉じる。ニトロはもうぬるくなっていたコーヒーを飲み干し、カップを置いた。そこにクレンジングシートで紅を落としたティディアが言う。
「例えば私を家庭教師にしてくれたら嬉しいな「断る」
「ど即答!?」
 度肝を抜き返されたティディアは瞠目し、両手で机を叩いて問う。
「何でよ!」
「まあ、お前はどうせ教え方も上手いんだろうよ」
「えへへ、そうよ、もちろんよ」
「だがどうせ余計な知識も植えつけようとしてくるに決まってる」
「あら、何を言うの、ニトロ。余計な知識なんてこの世に一つだってないのに」
「あぁん?」
「あるのは、知識を“活用できる”か“できない”か、それだけ。そしてその主語は知識でなく、あくまで人間よ」
 ニトロは眉をひそめた。何だかさっきまで読んでいた小論めいた言い回しだ。彼はティディアの主張を咀嚼し、その意を論述した。
「例えばある知識に対して『それが何の役に立つ』って言う場合は『それを自分は活用することができません』と言っていることに等しくて、つまり有用性でしか知識の価値を図れないのは己の無能力を宣伝している事に他ならない、と」
 ティディアはうなずき、
「ニトロはそうならないようにね?」
「てかそれなら既に無能宣言しているだろ俺は。だからこんな俺にはもう構わないでくれないか」
「それならそれで教育しがいがあるってものよ」
「ホントにお前は負けないなあ」
「愛があるからねー」
「そりゃ話が飛躍しているし、だとしても鬱陶しい愛だ」
「ちなみに問3の答えは『35214』よ」
 ニトロはきょとんとティディアを見た。
「何の答えだって?」
「次のテストの答え」
「……」
 ニトロの眉間に、皺が寄った。
「大丈夫、私が教えれば貴方は100点間違いなし! 何故なら私は全てを知っているから!」
 ニトロはあんぐりと口を開けた。全てを理解した彼は頭を抱えて天を仰ぎ、絶望的に叫んだ。
「おぉまぁええ! そりゃ教えるなんてもんじゃねえ! 完ッ全に不正じゃねぇか!」
「これほど役立つ知識はないわよ!?」
「知識の有用性について云々言ってた舌の根も乾かぬうちにッ、つかむしろそいつは絶対に役立たない知識だろうが!」
 ティディアは素朴に小首を傾げる。
「何で?」
 ニトロは地団太を踏みたかった。彼は血を吐かんばかりであった。
「聞いちまった以上その問題は回答不能になったからだ! 故にその知識を用いることは、永遠にない!」
「えー、遠慮しなくてもいいのにー」
「おいおいお前は俺をどう教育するつもりだ? お前がしようとしているのは堕落への誘惑だぞ」
「ええ。堕落させようとしているの。ねえ、一緒に堕落しましょう?」
「くそ食らえ」
 言って、ニトロははたと息を止めた。
 ティディアは満足そうに微笑んでいる。実に嬉しげに。
 ニトロはがりがりと頭を掻き、嘆息した。
「真偽は?」
「真」
「なら、本当にもう黙れ。もう一度でも漏洩しやがったら二度と口を利かない」
「最後に一つだけ、聞いてもいい?」
「……なんだよ」
 するとこれまで少しも悪びれた様子のなかったティディアが急に元気をなくし、物憂げにスカートを軽くつまんだ。
「これ、本当に似合っていない?」
 その時、ニトロは悟った。こいつは、つまり、この問いを投げるためにこそあれだけ無駄な会話を仕掛けてきたのだ。紆余曲折を自ら設けて、こちらを怒らせてまで。そんなことをせずにそれだけを問いかけてくれば良かったろうに。
 彼はティディアを半ば睨んだ。
 彼女はニトロを正面から見返し、回答を待つ。
「……見た目だけは、確かに似合ってるんだろうさ」
 やがてニトロは口を開いた。意地悪に、持ち上げてから落としてやろうと、毒づくように口も険しく言った。
「だけどやっぱり、お前には似合っていないよ」
 ニトロはティディアがしょげ返るか、それとも怒ってまた不機嫌になるだろうと思っていた。
 しかし、彼はまたもきょとんとした。
 意に反してティディアはぱっと花開くような満面の笑みを浮かべたのである。
 そしてそれはむしろ服がどれほど似合っていると称賛されたところで浮かべられるものとはとても思えないものですらあった。
 だから、ニトロには、ティディアのその幸福に満ちた笑顔の真意を捉えることができなかった。
 すると逆に彼の方が不機嫌に襲われた。何だか無性に馬鹿にされている気がしてむっつりと黙り込み、とにかく勉強に戻る。銀河共通語の練習問題を取り止め、数学の問題集をフォルダから引っ張り出す。苦手な教科こそが今の彼には薬だった。
 いまいち理解の深くない課題に取り組み出した少年を見つめながら、ティディアは一切の口をつぐんでいた。どうせ仕事の時間までの辛抱でもあるし、今、彼に何が必要なのかは、よく知っている。
 ティディアは立ち上がると執事の残していったワゴンへ寄った。
 湯を熱し、豆をミルにかける。
 のんびりとこりこりと豆が挽かれる間にニトロの前からカップとソーサーを引き下げる。
 カップを拭き清め、ソーサーも拭う。
 カップとコーヒーサーバーを先に湯で温める。
 ドリッパーに挽きたての粉を入れ、軽く揺すって表面を均し、サーバーの湯を捨ててセットし、適温に調った湯を細首のポットから静かに注ぐ。
 花開くように、凝縮していた香気が封を解かれた。
 バニラ、カカオ、カラメルにナッツ、豊かに甘苦く香ばしいアロマ、部屋が匂やかに満ちる。
 焙煎から日の浅い粉はガスを含んでドーム状に膨らんでいた。適時粉を蒸らした後、彼女は湯を回しかけていく。一つの躊躇いも無駄もない。ドリッパーからサーバーに風味を閉じ込めた濃褐色の液体が美しく落ちていく。
 新たに満たされたコーヒーカップが、金粉の散る黒い小皿に載せられたチョコレート菓子を添えて、そっと置かれた。
 その間、ニトロは一顧だにしなかった。今も一瞥すらしなかった。
 サーバーに残ったコーヒーを新しいカップに注ぎ、それを手にして席に戻ったティディアは衣擦れの音だけを立てて座し、白磁の縁へ薄紅に色づく唇を静かに寄せる。
 そして時の刻みに音も無い。
 ニトロは芳しい香りをかぎながら、その香りに頭脳を刺激されながら、先月習った公式を思い出そうと一人格闘していた。

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