ラウンジカフェの緩やかなBGMに
「本日ノトレーニングデスガ、
撫子が最後まで言う前にニトロは反射的に問い返していた。
「え、急用?」
「ハイ」
穏やかな肯定を受け、ニトロは驚きを鎮めて撫子の次の言葉を待つ。撫子もニトロが聞く態度を固めたのを察して言う。
「ドウシテモ外セナイ用件デスノデ、ソチラニ伺ウコトガデキナクナリマシタ。誠ニ申シ訳ゴザイマセン」
ニトロはうつむいた。昨日、そろそろ年の瀬ですから特別なトレーニングをしましょうとハラキリは楽しげに言っていた(意味不明な理由にはもちろんツッコミを入れた)。それなのに“ドタキャン”をするということは……
「それは、『大変』な事?」
声を潜めて問うと、受話口からは柔らかな口調が返ってくる。
「ゴ心配感謝イタシマス。シカシゴ案ジナサレルヨウナ事デハアリマセン。――奥方様ノ御友人ヲ案内スルヨウ用命サレタノデス」
「ああ」
ニトロは小さくうなった。撫子はそう言うが、それは実際『大変』なことだ。
「それじゃあ……しばらく出かけるのかな?」
「イエ、明日ニハ戻リマス」
その答えに、ニトロは頬が引きつらないようにするのに精一杯だった。
(てことは、来てるのか)
友人の、場合によっては国際問題に発展してしまうその交友関係については既に何度も耳にしているし理解もしているつもりだが、それでもすぐ傍らの事情として触れると心がすぼまる。ニトロは動揺を抑えながら、訊ねてみた。
「なら、明日は収録に付き合ってもらえるのかな」
「ハイ。ソレハ間違イナク」
そのテレビ収録は昼にある。異星人を『案内』しながらそれに間違いなく付き合えるというのなら、
(てことは、まさか王都に滞在するのか? 観光でもしていくつもりのか?)
心の中に冷や汗をかきつつ――明日、王城では王、王妃、さらに第一王位継承者がセスカニアンとラミラスの駐アデムメデス大使も招いて晩餐会を行う(そしてその
「分かった。それで、今日のトレーニングについて何か言付けはある?」
「変更ニツイテハ既ニマドネル氏ニ伝エテアリマスノデ、彼ノ指示ニ従ウヨウニ、トノコトデス。マタ『怯えて居つけば死ぬだけですよ』ト」
「……ハラキリは、どんな変更をマドネルさんに伝えたの?」
「ドウゾ指示ニオ従イ下サイ」
さらりと言ってのけられ、ニトロは苦笑した。
「うちの『師匠』はサディストだね」
「ハラキリガコレホド熱心ニ誰カヲ教エルヨウニナルトハ思ッテモミマセンデシタ」
その言葉にニトロは、少し、何と言っていいか分からなくてまた苦笑した。
「そうだね、それじゃあ死なないように頑張ることにするよ。ハラキリにはまた明日と伝えておいてくれるかな」
「カシコマリマシタ。ソレデハ失礼イタシマス」
通話が切れ、ニトロが携帯をしまう前に画面をふと一瞥すると、そこにはちょこんと正座をする撫子のデフォルメ
「――さて」
今度こそ携帯をしまい、ドリンクの残りを飲み干して、ニトロはフロントへ向かった。
受け付けを済ませ、ジムのシステム上のパーソナルデータをアクティブにする。
ロッカールームの前で靴をシューズボックスに入れ、ドアノブの上の指紋認証リーダーに指をかざす。すると清潔感のあるアイボリーのドアがすっとスライドした。
目隠しとなっている衝立の横から内に入ると十人程の利用者がいて、間近にいた見覚えのない青年がニトロを見るや驚きの顔で胸を隠した。その一方で顔馴染みの中年男性がたるんだ腹を揺らして挨拶を寄越してくる。定型句のように腹がへこまないことを訴えてくる
「今日はあの友達はいないのかい? ほら、ちょっと年上の、お腹の割れてる」
腹をさすりながら中年男性が聞いてくる。新顔の青年が興味津々と言った様子で聞き耳を立てていて、他の数人の利用客は各々着替えたり、汗を流すためにシャワー室に向かったりしている。ニトロは問いの中にある誤解はそのままにしておいて、
「用事があって今日は来れないんです」
スポーツバッグから有名すぎて一般化してしまったメーカーのトレーニングウェアを取り出し、エアロバイクで10km走ったことを自慢してくる顔馴染みに話を合わせながら着替えを済ませ、畳んだ服とハンガーに掛けたジャケットをロッカーに入れて、逆に取り出したフィットネスシューズを履く。さらにオープンフィンガーグローブとファールカップをバッグに移して、準備が完了した。
「頑張ってくれたまえ、若者よ」
「ええ、頑張ります。そちらもあまり食べ過ぎませんように」
「いやあ、運動の後のビールは格別なんだよ」
がははと笑う顔馴染みに会釈し、ニトロは肩に掛けたスポーツバッグに携帯を押し込みながら各トレーニングエリアへの通路に出た。フロントで今日のプログラムは
「おめでとうございます」
「ありがとう。試合前に笑わせてもらったお陰よ」
「それは……」
ふいに口に現れた苦虫を胃に落とし込み、ニトロはどうにか笑みを保った。
「お役に立てたのなら嬉しいです」
「またよろしくね。応援してるよ」
「ありがとうございます」
短くそれだけ交わして、互いにすれ違う。
人いきれとマシンの音に賑わうマシンジムへの入り口を通り過ぎ、そこからすぐ近くのドアから格闘技用トレーニングルームに入ると、急に、ニトロの耳を静寂が覆った。吊るされたサンドバッグは静止し、風を切る縄跳びとリズミカルな足音は消え、パンチングマシーンの反復する音もない。彼の他に利用者はいない。どうやら貸切となっているらしい。
ただ一人、トレーニングルームの真ん中に胡坐をかいている男がいた。座る彼のシルエットは鎮座する岩のようだ。顔はうつむき、目は半ば閉じている。瞑想でもしているようである。
「やあ、おはようございます、ポルカトさん」
トレーニーが入ってきたことを察し、男が顔を上げてにこやかに言った。ジムのスタッフは24時間いつでも“おはようございます”だ。
「お待ちしていました。ジジさんが本日来られないのは残念でしたが、しかし特別プログラムについてはしっかり承っていますので、この僧帽筋に乗ったつもりでお任せください」
格闘技のトレーナー、ドルドンド・マドネルが立ち上がる。岩が大男に変わる。身長187cm・体重121kg・体脂肪率8%の巨漢。タンクトップとハーフパンツから抜き出る四肢は丸太のごとく、話題の僧帽筋から首にかけての盛り上がりは猛牛を思わせる。
「おはようございます、マドネルさん。今日もよろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げたニトロへマドネルが手を差し出してくる。いつものように握手をする。こうしてトレーナーと握手をする度に、ニトロはいつも手が握り潰されるのではないかという感触を得ていた。それは今日も変わらない。――が、
(?)
ニトロは、なぜか、下腹の底に不可思議なほどの寒気を感じた。いつも通りの手が握り潰されそうな感触と共に、いつもとは違う、例えるなら今にも滑走し始めようというジェットコースターに乗っている時のようなあの寒気が下腹から
「ではまずは体を温めてください」
解放された手を見ていたニトロに、マドネルはいつもようににこやかに、外見に比してずっとにこやかな声で言う。
「いつもの準備運動で構いません。その間に用意を済ませてしまいますから……芍薬さんは呼べますか?」
「え?」
常にはないトレーナーからのリクエストに、ニトロは驚いた。
「ええ、多分、大丈夫です」
「それは良かった。
ジジさんからの伝言ナンバーワン」
と、マドネルは太い木の根のような指を一本立てて、
「『今日の復習はしっかりと』」
ニトロの心が一気に引き締まった。
マドネルの握手に感じた寒気、そしていつもと変わらないのにどこか違和感のあるトレーナー、そして『師匠』の伝言。ナンバーワン――その一つ目からして終わった後を持ち出してきている。
芍薬は二つ返事でやってきた。これまたマドネルから指定されたアンドロイド、それもジムの医療用アンドロイドを操作して。
「一体、何ヲスルンダイ?」
トレーニングルームに入ってきたアンドロイドは困惑の顔をしていた、いや、医療用アンドロイドは不安の表情を浮かべられないようにできている。しかしニトロには看護師のお手本のような柔和な顔の裏に、芍薬の眉の垂れた表情がありありと見えた。その両手にはジムのロゴの入った貸し出しのヘッドギアとボディプロテクターがある。
ニトロは目を丸くした。
ヘッドギアはスパーリング時によく使う。だが、ボディプロテクターは珍しい。しかもそれほど大仰な物は始めて用意された。フルフェイスタイプのヘッドギアと同じくさほど厚みはないが、現代スポーツ科学の粋を集めたプロテクター。見た目的にはノースリーブの、衝撃吸収プレートを連ねたスケイルアーマーといった様子である。
「ファールカップもつけてください。マウスピースもしっかりと。グローブはお好みでお着けください。芍薬さんが持ってきてくださったプロテクターは必須です」
マドネルを見ると、彼は分厚い
「一体、ハラキリはどんな指示を?」
準備運動で温まった体が、一気に冷えていくような気がする。『居つけば死ぬ』――撫子からの伝言を思い出す――死ぬ――し・ぬ。
「伝言ナンバーツー」
指が上がらないので大胸筋を二回ぴくつかせてマドネルは言う。
「『ちょっと本気で二対一からすっかり本気で一対一に変更です』」
ニトロの頬がひくつく。
すっかり本気?
元プロの
「ナンバースリー」
と、現役ボディビルダーは背中の筋肉を誇るダブルバイセプスのポーズを取り、肩越しに振り返り白い歯を見せて言う。
「『積める経験は積んでおきましょう。上には上がいるように、上には上があることも実感しておきましょう。危険なところで殺さないように、安全なところで殺しておきましょう』――ジジさんは哲学的なことを言いますね。私からは一言です。ポルカトさん、先に謝罪しておきます、私はポルカトさんを非道く苦しめるでしょう。胸のマッスルが痛みます。ですが最大の苦しみの先にこそ明日の大いなるマッスルがあるのです。おっと、一言が長くなってしまいました。では、よろしいですか? よろしければそれらをお着け下さい」
ニトロは……うなずいた。
やはり心配そうではあるが、芍薬は黙してマスターがプロテクターを着けるのを手伝う。
マシンジムに臨むガラス張りの壁が、マドネルの
緊張が
オープンフィンガーグローブを着けたニトロが最後にヘッドギアを被ろうとする直前、芍薬が囁くように言った。
「気ヲツケテネ」
ニトロはうなずき、トレーニングルーム中央に佇む巨漢の前に立った。――いつもより、彼が大きく見えた。
「ではルールを説明します。こちらはカテゴリー2・A。ポルカトさんは、0です」
「……」
その区分はハラキリが便宜上作ったものであり、カテゴリー2・Aは首への関節技、目突き、噛み付き、金的を禁止し、その他は何でもあり。倒れた相手の頭部への蹴りも踏みつけも有効だ。カテゴリー0は、無論、全ての制約がゼロである。
「よろしいですね?」
「はい」
ニトロは、うなずいた。その声の力強さにマドネルもにこやかにうなずいた。
常なるドルドンド・マドネルは、スパーリングでニトロをにこやかに追いつめる。にこにこと笑いながら容赦のない攻撃を以てトレーニーに地獄を見せる。
「では始めましょう」
にこやかな声が途切れ、そして、ニトロは息を飲んだ。
「!」
反射的に腕を上げ、それが構えとも防御ともつかない形を作る。
その時にはマドネルが猛牛の突進のごとく間合いを詰めていた。
ニトロの知らぬ顔が、そこにあった。
マドネルの左膝が上がったと思う。
それをニトロは視界の下辺に捉えたと思う。
だが、動けない。
マドネルの巨体が、
ごう、と。
嵐が通り過ぎる音が耳に聞こえた気がした。
――否。
それは、マドネルの足底が
その場に根を張った木のように居ついていたニトロの体が、刹那、吹き飛ばされる!
「主様!?」
芍薬の悲鳴が、ニトロにはたわんだ金属板の揺らぐ波形に聞こえた。
世界は回っていた。
天井と床とが何順か巡った後、彼は仰向けに倒れていた。
倒れている――と自覚した瞬間、彼は耐え切れず身を転じ、背を丸めて嘔吐した。吐き出そうとしたマウスピースがヘッドギアの顎を守る部分に引っかかり、それが堤防となって嘔吐物の一部が逆流しそうになる。
「主様!」
全速力で駆けつけてきた芍薬がヘッドギアを奪い取り、ニトロは窒息を免れた。そして、また嘔吐する。
「主様シッカリ!」
ニトロには、今度はその声はまともに聞こえた。が、応えることはできない。嘔吐し、歯を食いしばり、鳩尾に受けた衝撃のあまりに呼吸がままならず苦しみ悶える。脂汗が吹き出した。
視界の隅にマドネルの足が見えた。彼は、待っていた。
ニトロは懸命に苦悶と戦った。横隔膜を萎縮させる激しい鈍痛に抵抗するうちに、どうにか呼吸を取り戻していく。鳩尾に支配された意識を解放していくと、それにつれて酸味と胃酸の喉を焼く痛みが存在を増してくる。ペットボトルが差し出された。苦痛に血走った眼を向けると水を差し出す手の先にアンドロイドの柔和な顔があった。その柔和な顔の裏には、芍薬の厳しい顔が見えた。
何とか礼を言ってニトロはペットボトルを受け取り、がらがらとうがいをした。別のサポートアンドロイドが持ってきたバケツに吐き出し、まだ焼けるように酸っぱい口を腕で拭う。涙と鼻水と脂汗に汚れた顔を芍薬が拭ってくれた。汚れたマウスピースも洗ってくれていた。腹腔内に凝り固まる鈍痛を押し出すように背を逸らし、息を無理矢理整え、彼はマウスピースを口に入れた。反射的にえずくが吐き気を懸命に飲み込み、芍薬が拭き清めてくれたヘッドギアを被る。傍らではサポートアンドロイドが床を綺麗に拭き上げていた。
マスターをじっと見つめた後、芍薬は意を決したように引き下がった。
ニトロは、マドネルの真正面に立った。
――ただの前蹴り。それだけで、
(一度死んだな)
薄まってくれない苦悶を抱え、ニトロは戦慄する。
『怯えて居つけば死ぬだけですよ』
最初の伝言は予言であり、それは実現した。
(これだと『ちょっと本気の二対一』の方がずっと楽だったろうなあ)
そう思うと突然やってきたのであろう
(……よし)
ある程度落ち着いたところで、ニトロはマドネルを真っ直ぐ見つめ、一礼し、構えた。拳は震えていた。
「ポルカトさんは、勇敢だ」
一瞬、にこやかなマドネルが戻ってきた。
だが、次の瞬間、鬼のマドネルの拳がニトロに襲い掛かっていた。
遠間からのあからさまな右フック。
ニトロは今度こそしっかりガードした。が、そのガードは無意味だった。
「!」
凄まじい威力に体が傾ぐ。腕とヘッドギアを挟んでなお衝撃が頭部に伝わってくる。マドネルのグローブが練習用でなければ腕は折れ曲がっていただろう。
体勢を崩したニトロは、ああ、蹴り殺されるな――と思った。
そしてそう思った瞬間、何が見えていたわけではない、彼はただ蹴り殺されることへの恐怖をそのまま力に変えた。恐怖のみに引かれることで思考を止め、一方、体はこれまでのあらゆる練習で染み込ませてきた動作に従わせる。彼は自動的に、意図的に、尻餅をついた。頭上を何か太い物が通り過ぎる。もし立ち止まったままであればハイキックによって首をへし折られていたかもしれない。
(――ぅわ!)
一瞬遅れて事態を理解したニトロは振り上げられたマドネルの足から即座に離れた。
ズドン、と、121kgの体重を乗せた足が床を揺らした。
ニトロは一つ理解した。
マドネルは、これでもまだ手加減をしている。それは多分、追撃を一度で止めて立ち上がる隙を与えてくれたことだけでなく、動きを見えやすくしてくれているのもそうだ。今の踏みつけのように。――きっと、さっきの前蹴りまでも。
しかしそれが解ったからといって何になるだろう?
ゆらゆらと揺れるように構えるマドネルから感じるプレッシャーは変わらない、いや、むしろ増大している。対峙しているだけで怖い。また痛い思いをするかと思えば不安が喉をついて吐き気を催す。
それでもニトロは、息を吸った。
考えても仕方がない。
考える余裕もない。
考えずに体が覚えた動きに身を任せた方が良いこともつい今しがた確認された。
その中で、今、考えるべきはこの特別プログラムに全身全霊を懸けて挑戦することだけ。
これで何が得られるかは解らない。
しかし『師匠』は無意味なことはしない。
生き残れば芽吹く種も花咲く蕾もきっとこの身に宿ることだろう。
恐怖を飲み込み、不安を振り切り、恐ろしい巌へと思い切り踏み込む。自ら仕掛ける!
「ッシ!」
ただの、全力の、内腿へのローキック。
あわよくば入射角を変えて金的を狙う左足。
だが、渾身の蹴りも鉄製のゴムマリとでも言うべき大内転筋に軽く弾かれてしまった。
マドネルの反撃のコンビネーションは鋭く重い。最後のローキックは技術を駆使し威力を最大限削いでなお大腿四頭筋が
およそ未だ知らぬ苦痛の中、ニトロは見た。
マドネルの見知らぬ鬼の顔に深い情けを。
そして繰り出されたレバーブローに、地獄を。
トクテクト・バーガー・アデムメデス国際空港第二ターミナル店にやってきたハラキリは、客のまばらな店内をぐるりと見渡し、中ごろの二人掛けの席に座ってダブル・ビッグ・バーガーに齧りついている目当ての人物へと歩み寄った。
するとその美青年――アデムメデス人にはそう見える――は歩み寄ってきた相手がちょうど声をかけようとしたところに目をやって、
「あら、早いお着きね」
にこりともせず、男とも女ともつかぬ声を受けてハラキリは肩をすくめる。
「突然ではありましたが、たまたま高速の入り口近くで母から連絡を受けましたもので」
そう言いながら、彼は髪を五色に染め分けた異星人の対面に座った。テーブルの傍らには大きなトランクが二つ並べて置いてある。
「どこかに行くところだったのかしら」
ポテトを齧りながら異星人はやはりにこりともせず言う。が、ハラキリはその目元がかすかに細められていることを認めた。これでも相手なりに親愛の笑みを浮かべているのだ。
「友人と楽しい鬼ごっこをする予定だったんですよ」
「ああ、ニトロ・ポルカト君と。それは悪いことをしたわね」
ハラキリは異星人を見つめたまま、周囲の気配を窺った。が、すぐ隣で五色の髪の美青年に眼差しをちらちらと送っている少女は“その名前”に何の反応も示さない。
「問題ないわ」
事も無げに異星人が言う。口角が少しだけ下がっている。満面の笑みだ。そしてその眼差しが示すのは木目調のテーブルに置かれた革の財布、いや、財布に見せかけた“何か”だった。
「わたし達の話は、お隣には最新ファッションの話題になってるわ。サ
サ
「新製品ですか?」
「ただの玩具。暇潰しに作ってみたの」
「はあ、そうですか」
アデムメデスで売り出したら儲かるかなと思いつつ、機械を置く。
「あげないわよ」
「母への土産でしょう? どうせ来週には壊されてますよ」
「あら、あら、相変わらず生意気だこと」
異星人はほとんど無表情で大きなハンバーガーをまた一齧りする。もしその額に閉じられた眼が開いていれば、そこには実に豊かな情感が表されていたことだろう。
「ピッパさんも、相変わらずそれが好きですね」
「アデムメデスに来たらこれを絶対に食べないと。ザ・ジャンクフード! 実に美味しいのにクソ不味いなんて素晴らしい
「ひたすらどん詰まるだけのサジェスチョンだと思いますが」
「
「ロマンとやらで悪夢を見せられる人もいるわけですがね」
ハラキリの痛烈な皮肉にピッパは肩を揺らした。これはアデムメデス人にも分かりやすい。喧嘩でもしているのかと心配していたらしい少女が安堵の色を見せる。
「この時期に来るのはまずいと思いませんでしたか?」
「関係ないわ」
「でしょうね。で? まさか母に会いに来た、ついでにハンバーガーを食べて観光するつもりだった、というだけじゃあないんでしょう?」
ハラキリはちらりとトランクを一瞥した。ピッパは首を傾げる。肯定のうなずきだ。他のアデムメデス人――例えばもしニトロを相手にしているならばピッパは縦にうなずくだろうが、勝手知ったるジジ家の人間には
「こっちを持っていって」
と、ピッパが細長い靴の先でトランクの片方を叩く。
「で、こっちは鞄持ちをよろしく」
ポテトを咀嚼しながら目でもう片方を示す。ハラキリはかすかに苦笑しつつ、
「中身は?」
「新しい『戦闘服』と、『天使』の追加。それから『
「了解しました」
「『戦闘服』と『天使』は報告できる時で構わないから」
「悠長な開発環境ですねえ。まあ、今に始まったことじゃありませんが」
「でも開発者は期待してるようよ。ニトロ・ポルカトとあのお
「そうですか。ニトロ君が聞いたら眉間に皺を寄せて嫌がりますよ」
「だろうね」
ピッパは肩を揺らす。しかしその目に興味の色はない。ニトロに会いたいという気持ちが皆無なのだ。いや、ティディアに対しても興味はあるまい。ハラキリは指定されたトランクを少し引き寄せ、
「それで『鍛冶神』は悠長とはいかないようですが、これはどんなもので?」
「玩具」
「玩具?」
「玩具」
「それを拙者に?」
「『玩具』を壊したからこそのご指名よ」
その『玩具』こそ、セスカニアン星の宙域においてラミラス籍の宇宙船内で暴走し、多数の死者を出した
ハラキリははっきりと苦笑し、
「随分ひねくれた依頼理由ですねえ」
「生真面目なモニターじゃ得られないデータを期待してるのよ」
「なるほど」
「一ヶ月以内に一度使用感を伝えてちょうだい。でもきつい言葉は控えてね、それ作ってるのメンタル異常に弱いから。改善点他要望等は不要。誉め言葉は大歓迎。できれば過酷な環境で――もちろん生身で――使ってみて、そのデータももらえると助かるって」
「できれば、というよりそれが本命でしょう?」
「火口とか海底とか砂漠とか宇宙空間とか餓えた猛獣の目の前とか死ぬ、って思える場面で死ぬ、って思いながら使ってみて欲しいって言ってた」
「玩具、と確かそう言っていたはずですが」
「あれが何を考えてるのかは知らない。キャッチコピーにでもしたいのかもね」
「“使用者が死んでも動作保障”とかですか」
「提案しておくわ」
「ついでにその本命と誉め言葉については生真面目なほど非協力的だったと伝えておいてください。罵倒は飲み込んでおきます」
ピッパは縦にうなずいた。否定的なニュアンスを含むうなずきだった。『(良くて)気が向いたら』という程度である。しかし慣れているハラキリは苛立ちもせずに、バーガーもポテトも食べ切りソーダを飲み干そうというピッパへ問う。
「母は三時間ほどで王都に戻ってきます。それまでどうしますか?」
「『天啓の間』を見たい」
「ふむ?」
ハラキリは、不機嫌に眉根を寄せた。ずぞぞとソーダを飲み干すピッパは揺るがない。ハラキリは第一王位継承者から『天啓の間』に招待されたことがあり、その歴史的な部屋の素晴らしさを母に語ったことがある。母はピッパにそれを聞かせたのだろう、それでこの
(とすると)
ハラキリは素早く算を打つ。
ひとまずこちらは相手の損になることではない。あのお姫様に借りを作ることになってはしまうが、ある意味では逆に利を与えることにもなる。無論明日の晩餐会を前に
「……いいでしょう」
ややあって、ハラキリはうなずいた。
「『天啓の間』の“仕掛け”の見学を所望、ということでいいですね」
パン、と、ピッパが手を打った。隣席の少女がびくりと震えてこちらに振り返り、そして目を瞠った。ピッパが魅力を増していたのだ。表面の何が変わったわけでもない。表情も先と同じままだ。だが、顔色が違った。生命の輝きが増している。今、アデムメデス人にはピッパが女性に見えた。少女は戸惑っているようだ。もしピッパが額の眼を開けばその虹彩はキラキラと輝いているだろうし、もしそれを見れば少女はさらに目を見開くことだろう。
「ハラキリはガイドに向いてる」
異星人は喜色満面に言った。
「何なら
「嫌ですよ、面倒臭い連中ばかりでしょうし、拙者は万人受けするタイプではありませんからね」
「そう言いながら相手なりにそつなくこなすでしょうに」
「買い被りです」
「値段交渉が得意な奴は少ないからね、うちには」
「でしょうねえ。それに、それを勧めるのはピッパさんが楽をしたいからでしょう?」
「まあ、まあ、相変わらず生意気な奴」
「ほら、万人向けしない」
ピッパはもう一度手を叩いた。隣席の少女はそれが美青年――あるいは美女の喜びに類する表現だと気づいたらしく、もうびくつかない。ピッパは言う。
「けどね、気が向いたら連絡しなさいな。前から言ってるけど一度だけは親身になってあげるから」
ハラキリは笑った。それは言葉を変えれば一度の世話以外はしないということだ。今もこうして親しく話しているが、ピッパは本質的にはこちらに興味を持っていない。アデムメデス人の内でこの神技の民が心を差し向けるのは友のラン・ジジだけである。その一度の世話にしても親友に対する義理の域を出ない。母がなければ自分も隣席の少女と同じ程度に扱われているだろう。――ビジネスの相手という関心は残ったとしても。
食事で汚れた手をウェットティッシュで拭く異星人を傍らに、ハラキリは王城の実質的な主へと電話をかけた。出たのは執事であり、王女とは話を通じ得なかったが、許可は容易に下りた。ティディアと直接交渉しないで済んだのは、もちろん好都合である。
「では参りましょうか」
立ち上がり、ハラキリは大きなトランク二つを転がした。このトランク自体は既製品であるらしい。
「母からの伝言です。クロノウォレスの良い酒を出す店を見つけたから、そこで飲もうと」
ピッパはちらりと額の眼を開いた。真正面に立つハラキリにしか見えない角度で、開いたと言ってもほんの糸筋程度であったが、しかしそれが思わず出た行為であるだけにピッパの喜びの強さを伝えるものであった。
「それは楽しみね」
ピッパは言い、そして手を擦り合わせながらもう一度言った。
「ああ、楽しみ」
胸を高鳴らせて、ティディアはそのドアから中へと入った。
裏地に粗く映る大柄なスキンヘッドの男の背を追い、目隠しとなっている衝立の横から奥へと歩を進める。すると、間近にいた青年が慌てて胸を隠すのが目に入った。青年はタンクトップから棍棒のような腕を抜き出す男へ盗み見るような羨望を送っている。男が行き過ぎたところで青年が腕を下ろすと薄い胸板が露となった。見るからにトレーニングを始めたばかりらしい。他人の目から隠れるようにそそくさと服を着る青年を眺めながら、ティディアは足を忍ばせぴったり壁際を進んでいく。
ロッカールームは閑散としていた。評価の良い高級スポーツジムであるのに青年とスキンヘッドの男、それから談笑している二人しかいない。ここを利用する者の少ない“谷間”というやつだ。スキンヘッドの男は談笑している二人に声をかけた。知り合いらしい。話題は投資についてのようだ。為替と株の用語に筋肉の話が交差する。
やおら壁際を離れ、ティディアは目的のロッカーに辿り着いた。
ロックは
(ふふふ)
無事、侵入に成功した。
そろそろと全身を隠していた光学迷彩クロスを手繰って丸めていく。丸めて潰すとクッションにちょうどいい大きさになったので、ティディアは身じろぎしてそれを腰にあてがった。他に身につけているのはスポーツ用(ということになっている)水着である。
ティディアは、達成感に満たされていた。
いくらこの光学迷彩クロスが高性能だとしても、移動中を間近で凝視されればどうしても違和感を与えてしまう。あの青年がスキンヘッドに気を取られてくれて、その上着替えに集中してくれて助かった。スキンヘッドも、すぐに談笑に加わってくれて良かった。
(ついているわー)
ばれたらばれたでその場にいた男達をどうにかする手段はいくらでもあったが、やはりこうして『ゲーム』をクリアした方が気持ち良い。スリルを味わった心臓が未だ高鳴っている。――いや、この高鳴りは、これから起こるはずのことへの期待である。
(ニトロ、どんな顔をするかしら)
収録前の練習のため、今日は初めからジムに迎えに来ることを伝えてある。お陰で芍薬の邪魔もなく、一度やってみたかったこの企てをようやく実行することができた。
(ニトロは……きっと驚く)
扉に換気用の小さな溝もなく、ただ脱臭孔のあるため空気の滞りのない暗闇の中で膝を抱え、ティディアは瞼にあれこれと彼の顔の形を思い浮かべてじっと待つ。背中の当たるロッカーの肌も、こちらの温もりを受けてじんわりと温まってきた。
(ニトロの匂い……)
吊るされたジャケットが頬に触れ、ティディアは静かに息をする。
扉越しに聞こえるロッカールームの賑やかさ。人が増えたようだ。すぐ近く、二つか三つ隣のロッカーが開いた。ごとごとと荷物を扱う音が響いてくる。扉の閉められる音は大きく響いた。
(ニトロは私の匂いを嗅いだらどう思うのかしら)
そう思うと、少し、頬の奥が熱くなる。それをティディアは不思議に感じた。恥ずかしいのではない。いや、恥ずかしいのだろうか。それともこれも期待だろうか。私とすれ違う男が皆見せる顔を彼の上にも見たい。髪の匂いに接吻させて、物を乞うような眼差しを浮かべさせたい。
(だけどニトロはまだしぶとい)
無事に『漫才』はスタートした。そろそろ年の瀬。年が明けて三ヶ月も経てば彼と付き合い始めてから一年だ。その頃には『夫婦漫才』もスタートできているだろうか? 希望としてはそうしたいが、立てた予定は常に狂い続けている。
ロッカールームが一際大きくざわついた。
(――来た)
ティディアは息を大きく吸った。
そして、息を潜める。
ざわめきの源が近づいてくるにつれ、とよもす声が厚みを増してくる。
ティディアは意識を集中した。
胸が高鳴る。
心が浮き立つ。
ロッカーの前に人の止まった気配がする。
ニトロだ。
指紋認証の音がする。扉に手のかかる音が鳴る。
ティディアの頬が堪え切れずに緩む。瞳は輝き、緩く開いた扉の隙間から差し込む光に暗闇に慣れた網膜が敏感に反応する。しかし目の痛みよりも、彼女の興奮が勝った。
さあ、ニトロ! 貴方はどんな風に驚くかしら!?
扉が引き開けられた。
「ぅわ!」
と、驚きの声を上げたのは、ティディアだった。
開かれたロッカーの前、彼女から見て長方形に切り取られた光の中に立つのは憔悴し切った少年である。少年は間違いなくニトロ・ポルカトである。だが、その顔はちょっと見たことのない色になっていた。疲労困憊、苦痛に苛まれ、ほのかに見える達成感が彼にわずかな生気を帯びさせているが、もしそれがなければ長患いの末に救われることなく息絶えた苦行僧の死体とも思えただろう。
「「うわあ!」」
と、重なった複数の驚愕は、少年の体の陰、ロッカーに潜んでいたお姫様に気づいた他の利用者達のものである。
――ニトロ自身は、何も発さない。彼はスポーツバッグを落とすように置くと、のろのろとジムのロゴが入ったサンダルを脱ぎ、それからこちらもジムのロゴの入ったシャツを脱ぎ出した。
「わおッ♪」
ティディアは思わず歓声を上げ、次の瞬間、
「……わぉ」
呻いた。
王女の存在が伝播し、ニトロの周囲で人垣となりつつあった人々も声を上げた。
シャツを脱いだ彼の体には痣があった。それほど酷いものではなく、色も薄い。しかし数が多い。無数にある。さらに両腕には酷く赤黒い場所もある。彼がズボンを脱ぐと、先とは違う種類の声が波を打った。太腿は、外側も内側も、広範囲に紫色を帯びていた。
陰るロッカーの底で息を止め、ティディアは動きをも止めていた。目の前にあるトランクス姿のニトロ・ポルカト。以前に比べて引き締まり、ずっと逞しくなった少年の肉体は、それだけに悲惨な様相を呈している。
世に幸運と語られるその少年は眼前の『恋人』に一切構わず、のろのろと脇にのけられていた服を取ろうとした。慌てて彼女が腕を伸ばしてそれを持ち上げてやる。彼はそれを何とも思っていない様子で受け取り――どうやら既に応急処置を済ませてあるらしいが、それでやっとこの有様だ、時折びくりと痛みに震えつつ服を着る。よく見ると唇の内側に向けて裂傷があった。左目の下にも朧げに痣がある。これでは収録に障る、今夜から病院に泊り込ませて
そして最後にジャケットを着たニトロが、緩慢に、足元のスポーツバッグに脱いだシャツとズボンを押し込むために屈もうとし、小さく呻き、やっと屈み込む。
彼はのそりのそりと服をバッグに押し込んでいく。
同時に用をなくしたロッカーの扉が肘に押されて閉められていく。
唖然とした観衆が見つめる中、半ば呆然とした王女が再びロッカーの中に隠れていく。
「あ」
と、声を上げ、ティディアが慌ててロッカーから飛び出ようとしたその瞬間、扉は閉まった。ロックされる音がする。飛び出そうとした彼女は扉に額をしたたか打ちつけ、激しい音を立てて狭いロッカーの中でもんどりうった。
「ああ!」
闇の中、ティディアは叫んだ。
当然ではあるがこのロッカーのロックを内側から外す手段はない。通信手段も今は手にない。光学迷彩クロス? 事ここに至って何の役に立つ!
「ニトロ! ちょっとニトロ!」
体勢を立て直し扉を叩いて必死に叫ぶが応答はない。どよめきは聞こえる。
「ニトロ!?」
やはり応答はない。ニトロは去ってしまったらしい。では消えぬどよめきは閉じ込められた王女への対処を迷う民草の戸惑いであろう。
そこでティディアは声を上げるのを止めた。
戸惑う連中に期待はできない。何しろこれは『クレイジー・プリンセス』のすることである。対処を誤ればえらいしっぺ返しを食らうのは明白だ。そしてこういう場合において何よりも明瞭な頼みとなる少年はバカ姫を放って行ってしまった。もしかしたらこれは彼の“お仕置き”なのかもしれない。では、合理的に考えてどうすることが最も無難であろうか。無論、少年に任せて放っておくことである。
ならば、今、ティディアにできることは三つだけ。
一つはニトロが戻ってくるのを願うこと。
二つは監視カメラで今のやり取りを見ていたはずのヴィタを待つこと。
三つは――彼女は吐息をついた――扉が開けられるのを待つ間、考えること。
(ハラキリ君は、ジムに来ていない)
そのことはここの事務室で聞いた。どこに行ったのかは知らないが、彼が気ままに動くのは今日に始まったことではない。
(芍薬ちゃんがあそこまでするとは思えない)
マスターへの献身振りを鑑みれば逆にあり得ることではある。が、いかに現代医療を当てにしたとしても、テレビ局での収録を明日に控えた晩に、しかも“私”と会う直前であるというのに芍薬自らがマスターへ大ダメージを負わせることなどあり得ない。
となれば。
(マドネルか)
しかし、それもにわかには信じられないことである。
ドルドンド・マドネルに関する報告書に、現役のMAファイター時代であっても彼があれほど“格下”を打ちのめした話はない。それがトレーニングを施す相手に対してならば無論のことだ。なのに?
(ハラキリ君が依頼したのは間違いないとして……)
その目的も、無論、ニトロを鍛えるため。
それも肉体よりずっと鍛えることが難しい所を鍛え、格闘技術よりずっと修得の難しいものを得させるために。
だが、それでもマドネルが首肯する理由としてはまだ足りない。そう思う。
ティディアはぐるりと思考をもう一度巡らせ、
(――そうか)
ニトロのためだけではない。それはハラキリのためでもあるのだ。
マドネルは奇妙な『師弟』を最も間近に見ている人間である。マシントレーニングやストレッチ、スイミングやボディメイキング等のトレーナーもニトロを手伝っているが、それでもマドネルほど『師弟』に接してはいない。ニトロがこのジムにやってきて以来、彼だけが見続けてきたのだ。友への目潰しも金的攻撃をも平然と厭わぬ『師匠』と、何度苦痛を味わわされようが友への信頼を失わない『弟子』を――素直に勤勉に全力で目標に向かおうとする少年と、的確な最善と最悪とを駆使してそれを助ける若者を。その二人の姿に、優しすぎるが故に活躍できず、ジムの
だからこそ彼はニトロをあれほど打ちのめし、そして打ちのめすことができたのだ。
ティディアは笑った。
(やー。これじゃあこれからもニトロがもっともっとしぶとくなる一方じゃない)
それにしても癪なのはハラキリ・ジジだ。彼はニトロと私の明日の予定を了解しつつも『弟子』を容赦なく追い込み、さらに、あの曲者は、おそらく明日があるからこそ医療費を
(本当、癪に障るわねー)
そろそろニトロかヴィタがやってくるだろう。
少年の残り香を嗅ぎながら、笑いながら、王女は助けが来るまで他の誰よりも気に入るニトロ・ポルカトがどれほど性能を上げていくかと夢想に耽ることにした。
「ああ、そういえば、何かティディアがいた気がするな」
と、やっと正常化した思考力を働かせた時のこと。
その場面を目撃した者は語る。
その時、偉大な姫君は幼子のように拗ねていた。それは私達の知らぬ顔であった――と。
終
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