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 カルテジアの示した残りの作業は、全て順調に進んでいった。
 ニトロとハラキリが買ってきた飲み物と菓子を口にしつつ灰が冷めるまで待ち、冷めた後はそれを美術室まで運ぶ。運んだ後は、灰を黒い大皿に移す。そして専用の“場”を作り、展示する。常設展示をするわけではないが、この作品は展示して初めて完成するというのだから、ひとまずそこまでやり通す。
 既に日は落ち、外は夜の帳に包まれていた。
 現在、時刻は六時半。
 通常七時に閉門するため普段ならこの時間まで校内に残る生徒は少ない。が、今日は普段以上に居残りが発生し、美術室前の廊下には観客ギャラリーが溢れていた。彼ら彼女らの関心はもちろん『ニトロ・ポルカト』であり、そして彼の手伝う美術部員の活動である。
 図らずも注目を浴びることとなったカルテジアは、しかしこれも一種の行動芸術だと思ったらしく、美術室のドアを全開にし、廊下側の窓からも製作過程を窺えるよう片面不透明化機能を切っていた。部員だという二年生が三人、写生を終えて戻ってきていて、引率・指導していた顧問の外部インストラクターも教室にいる。三年生の部員がもう一人いるそうだが、そちらは既に帰宅しているとのことだった。部活動の見学に来た新入生は未だない。学年問わず新入部員はいつでも歓迎中。今度のことは良い宣伝にもなっただろうか。
 今、机を全て後ろに寄せて美術室の前部に作られたスペースに、ダレイが二年生唯一の男子と共にシーツほどの大きさの帆布を何枚も広げては敷き重ねている。そこに裸足となったカルテジアがスプレータイプの固定剤を手に忙しく動き回り、広げられた純白の帆布に波を起こし、あるいは渦を巻かせ、そうすることでその場所をさながら白い海原へと作り変えている。
 二年の女子二人はカルテジアとの距離が未だに掴めないでいるようで、外から戻ってきてからまだ一度も先輩と接触しようとしていない。先輩が真剣に創っている物への関心はあるようだが、どうやらその関心だけでは破れぬ壁があるらしい。手持ち無沙汰で、しかし帰宅することもできず、そこで消化されぬ関心の全てを『ニトロ・ポルカト』に向けている。それでも携帯モバイルを見つめるニトロに話しかけるだけの勇気はないらしく、二人揃って内気な様子で遠巻きにちらちらと視線を送るだけであった。
 ニトロは一つ息をつき、モバイルをポケットに入れた。
 少々大きな波を作るために呼ばれていたハラキリが戻ってきて、彼に訊ねる。
「芍薬は、なんと?」
「デマを有効活用する奴って何て言うんだろうな」
「そうですねぇ、確信犯にしろ故意犯にしろ、有りていに言えば悪人じゃないですか?」
 ハラキリはくっくと喉を鳴らす。
 今、美術室前には当然いるはずの人がいない。
 その人物は六時を回る前から駐車場で直立不動であるという。
 彼の待ち人は、予定では七時に学校へやってくることになっていた。彼が心待ちにしている相手の当校への訪問は公的なスケジュールにはなく、内々に取り決められたものであり、しかも極めて私的な理由によるものだ。何故なら、愛する“彼”が『スライレンドの救世主』となったことによって学校にまた迷惑がかかるだろう、だから今後の警備についても改めて話し合わねばならない――その名目で、王女はニトロとハラキリを交えて校長と面談しに御光来あそばされるのだから。
 芍薬が表示したフキダシにはこう書かれていた――『王権を使ってまで法定速度をぶっ飛ばしてやがるよ』
 校長の馬鹿みたいに早い行動は、きっと報われることだろう。
「疲れていますか?」
 ハラキリが全く関心のない顔で問うてくる。
 ニトロは笑った。
「不思議と疲れてないな」
「それはまた不思議なことで」
「気の持ちようかなあ」
 ニトロは、最後の波を生み出している少女を見つめる。
「今は、わくわくしている」
 やがて、カルテジアは全ての作業を終えた。
「――できた」
 静かな彼女の声には、充実感が沁み出ていた。
「タイトルは?」
 こまごまとした片付けを終えたダレイが聞く。
 カルテジアは一番の協力者をほんの一息の間、どこかこの世から遠ざかった者のような目つきで眺めた後、答えた。
「『環悩』」
 真っ白な海原の中心……周囲は二重の大渦を描くように波打ちながら、しかしそこだけ凪いだかのように真っ平らな場所に、真っ黒な大皿がひっそりと置かれていた。その黒は一粒の光も照り返さない暗黒である。その上に、低くなだらかな灰の山がある。白波の激しさに黒と灰の静けさが同居する光景は、一種静謐で、ある種不気味であるのに、同時に壮麗ですらある。だが、しばらく見つめていると、この景色の中で最も苛烈な息を吐き出しているのは逆巻く周囲の波ではなく、燃え尽きた灰であることに気がつく。ニトロは感じた。それは、そのあまりに低く山なす灰は、いいや「燃え尽きた」などとはとても言えない、その灰こそは、全てが凍りつく白い空間の中、圧倒的な存在感を誇る黒皿を凶暴に踏みつけるようにして今なお活動しているのだと。
「セケル」
 カルテジアが言う。
 すると海原から水煙――立体映像ホログラムによる演出だ――が湧き起こり、やがて黒皿も灰もそれに覆い隠されていく。黒と灰を飲み込んだ白煙は次第にその真上にも立ち昇っていき、それが天井にも届こうかという段になった時、その煙幕の中からまた別の映像が表れた。
 それは『苦悩する人』が描かれていく過程であった。
 カンバスに走り、迷い、突き進む一筆一筆がそこに再現されていく。
 二年がかりでやっと描き上げられた絵画は、およそ二分で完成に至った。
 苦悩する人が今再び、静かに、激しく苦闘していた。その苦しみは己を内から焼き尽くさんとしている。その絵を見て息を飲む気配がギャラリーの中にあった。苦悩する人はやがて本当に焼き尽くされていく、足元に灯った小さな火種からやがて大火に包まれて。その際にその場にあったバーベキューコンロと絵を支えていたニトロの影は、『セケル』が主人の命を受けて加工したのだろう、映像から除外されている。純粋に燃えていく絵だけがそこにあり、燃えていく様を画家が一瞬も目をそらさず見届けたその作品が、今再び、とうとう全て灰になる。一度一所ひとところにわだかまった後、灰は砂時計の砂が落ちるように海へとこぼれていった。それに従い水煙が薄れ、消え、灰が全て零れ落ちると同時にあの黒い大皿とその上に鎮座する灰がまざまざと鑑賞者達の目前に再生する。
 それは、輪廻であった。
 苦悩する人は消えた。
 しかし苦悩はそこに残っている――炎に焼かれ虚無に飲まれた苦悩する人は、己を飲みこんだ虚無の内側から虚無を食い破って再びそこに現れ、形を変えながらも生きてまた存在のために苦しんでいる
 ……ギャラリーの反応は、微妙だった。
 拍手はない。
 歓声など無論ない。
 深い戸惑いにも似た顔が無数に並んでいた。
 だが、中には心を激しく揺さぶられた者があるだろう。逆に何も感じなかった者もいるだろう。美術部の後輩三人ははっきりと何らかの影響を受けているようだ。顧問は作品よりも少女に嘱望の目を向けている。作者はそれら全てを受け入れようとしていた。期待と不安が入り混じり、どこか落ち着かず、どこか寂しげにしながらも、むしろ彼女は自ら観察者になろうとしていた。感動、無感動のどちらにしても、そこにはその人がそう感じるに至った心がある。彼女の言葉を借りるならば、そこには文学がある。そしてもし文学がそこにあるのならば、何らかの文学によってこの作品を作り上げた彼女は、その瞬間、きっとそこに求むべく偉大な系譜を見出すのだ。
(――と、こう考えるのも文学的なのかな?)
 カルテジアを見つめながら、ニトロは胸の中でつぶやく。
 目を転じると、ダレイは彼女の作品を静かに見つめていた。彼がどんな感想を抱いているのかは判らない。もしかしたら全く理解はないのかもしれない。だが、例え理解はなくともそれでいいのだろう。ニトロは次にハラキリを見た。親友は作品を脇目に、作者のそれより透徹した眼で周囲の人間を眺めていた。
 ニトロが改めて作品を観賞しようと目を戻したその時、突然ギャラリーの一部から歓声が上がった。
 仰天したカルテジアがそちらへと顔を向ける。
 歓声は美術室の後ろのドア付近を源として、既に全体に波及していた。生徒達は皆廊下の外を見ている。教室棟と特別教室棟に挟まれた中庭の、その中空の一点を。
 絹を引き裂く悲鳴じみた狂喜。
 雄叫びにも似た驚嘆。
 一瞬にして事態を理解したニトロは頭を抱えていた。
 ああ、あの阿呆、よもや駐車場を完全無視してくるとは! しかもそこは飛行禁止区域じゃねぇか。どうせお気軽に王権を行使したんだろうが、ほぅらやっぱり芍薬からの連絡だ。芍薬は「もう手遅れだろうけど」と不機嫌だ。俺も不機嫌だ。いや、そもそも俺が甘かった。あいつが駐車場に着くまではここで見届け、そして着いたらすぐにこちらから出迎え、そうしてこの美術室を安全に保とう――そう思っていたのに……いいや、本気で安全を保つためなら見届けるのを諦め、校長と肩を並べてずっと駐車場で待っているべきだったのだ。
 疑惑と確認が飛び交い、興奮が煮え滾り、生徒達はそろそろパニックを引き起こしそうになりながらも不思議なことに道を作り出している。
 まさしくその人の行く手を遮ってはならないと、人によっては涙を落としながら身を退いている。
 美術室後方のドアから、ホバリングする飛行車スカイカーに向けて透明なカーペットが敷かれたかのように道が開いた。
 誰かの手によって廊下の窓が開けられる。
 何の合図がなくとも皆が一斉に叫んだ。
「「ティディア様!」」
 その瞬間、大型のスカイカーの後部ドアがスライドし、車内からさながらアクション映画のごとく人影が飛び出してきた! 人影は窓から廊下に飛び込むと派手な前回り受身を美しく決め、さらに勢いもそのままに美術室に転がり込んでくる。転がり込んできて、ドアの前に寄せられていた机の太い脚に派手に激突してぐえっと悲鳴を上げる。
 カルテジアがあっと叫んだ。ダレイは瞠目し、後輩三人は身を硬直させ、顧問は反射的に膝を折る。このくにの王女は、しかしへこたれない。己の激突した机に飛び乗り、叫ぶ!
「ヌードなモデルのニトロは何処いずこ!」
 そのニトロは腕を組み、一段高い場所で歓声を浴びるバカを睨んでいた。彼女は白いTシャツにジャージという出で立ちで、まさにこれから絵の具で汚れることを想定した服装である。
 美術室を見下ろす黒紫の瞳が、それを見上げる黒い瞳とぶつかった。
 すると、やんごとなき王女様は愕然とし、悲しげに顔を曇らせる。
「何故!?」
 その声は少年少女の大きな歓声の中でも明瞭に響いた。
「何故、局部を露出していないの!?」
「サイッテーな物言いだな、おい」
 ニトロの声は怒気に満ちていた。その迫力が、周囲の声の一切を止めた。だがティディアだけは止まらない。
「嗚呼! ということはもう終わってしまったのね! 急いで駆けつけたのに! 何ということ、嗚呼、何という悲劇!」
 あからさまに演技がかっているというのに、その声には真実深い悲嘆がある。人の心を揺さぶる感情がある。感受性が強いのだろう、生徒の中にティディアと同じ顔色になる者が幾人か見えた。ニトロは、カルテジアは一体どんな顔をしているだろうと思いながら、言う。
「終わるも何も、初めからヌードモデルなんぞしてねえ」
「だって掲示板に書いてあったじゃない! それとも何? 誰かが私を騙したっていうの!?」
 ギャラリーの一部にちょっとした動揺があった。が、ニトロはそれは無視して言った。
「騙された振りしてギャーギャー喚くな、鬱陶しい」
 そのセリフがギャラリーにまた動揺をもたらした。彼の声は、その態度は、実に刺々しい。皆はいくらなんでもティディア姫がそれに怒りを発するのではと危惧したのだ。しかし姫君は頬をむくれさせ、むしろ可愛らしく唇を尖らせる。
「もー、いけずー」
 次いで彼女は明るく言った。
「それなら今から始めましょうよ、ヌードデッサン」
「断る」
「あ、別にニトロがヌードじゃなくってもいいのよ? ニトロが描いてくれればそれはそれで」
「は?」
 嫌な予感がした。ニトロは反射的に足を踏み出した。ティディアは馬鹿に明るく言う!
「若い才能のためなら私は一肌脱ぐのにやぶさかではないもの!」
 やはり!
 ティディアの腕が交差し、両の手がシャツの裾に掛かる。
 ニトロは机に駆け上った。や・は・り!!
「芸術万歳!」
 がばっと王女はシャツを捲り上げた。谷間と横乳をさらけ出す扇情的なブラジャーが露となった瞬間、少女達は悲鳴に近い声を長く上げ、少年達は短くおかしな声を発した。
「やめい!」
 ティディアが完全に脱いでしまう前にニトロはシャツの裾を掴むことに成功した。そしてそれを思い切り引き下げる。今にもシャツを脱ごうとしていた王女の顔がしゅぽんと現れ出た。
「何がしたいんだお前は!」
 ニトロはもう片方の手でなおも脱衣を試みる王女の片腕を押さえ、ごつんと彼女の額に額をぶつけて叫ぶ。
「もうひとボケ終わっただろう!? しかも一発ネタだ、さらに続けてグダッてどうする!」
「仕方ないでしょ!」
 先ほどまで僅かにも怒りを見せていなかったティディアが激昂し、ニトロの額に額をぶつけ返しながら怒号する。
「ニトロのツッコミが冷たすぎて笑えなかったんだから!」
「ありゃツッコミじゃねぇ! 思った通りの感想だ!」
「ひど!」
「酷いのはお前の無駄な行動力だろうが! 何してんだ直接飛び込んできやがって、校長スルーされて絶対涙目だぞ!」
「いいのよ彼はドMだから! いっそご褒美になるんじゃない!?」
「おいぉおい! いきなり生徒の前で校長の性癖バラすなド阿呆!」
「バラすも何も周知の事実じゃない!」
「どこの周知だ!」
「銀河!」
「大きく出たなぁ!」
 ティディアのシャツを握ったまま――観客オーディエンスから笑い声が聞こえる――ニトロはいやいやと頭を振る。
「そうか、お前は『映画』のことを言ってるのか」
「そう! 校長先生ったら女教師の鞭に大興奮!」
あれは! フィクションだ!」
「当たり役ってあると思わない?」
「当たり『役』だろうが!」
 事実、校長はドMであり、生徒間でもそれは“公式”になっている。だがニトロは懸命に否定する。それを第一王位継承者公認にまでしてしまうのは彼があまりに哀れである。
「何をお前は“あの女優さんはあんな悪い役をしているから悪人に違いない”レベルの話で人の評判落とそうとしてんだ!」
「だってそうでなくってあんな迫真の演技ができると思う!?」
迫真の演技でお前を殺した俺は人を殺しているのかな!?」
「私は貴方に心臓を射抜かれた!」
「意味が違う! いやそれも違うけど違う!」
「違う違うって何が違うのよ!」
「ああもうとにかく! 校長先生は大興奮な振りをしていただけだ! 事実と違う!」
「そんな! それじゃあ校長先生も私を騙したっていうの!?」
「だから騙された振りしてギャーギャー喚くなっつってんだろうが!」
「振りなんかじゃない! 信じ込もうとしているの!」
「なお悪いわ! 完ッ全に故意犯じゃねぇか!」
「ところでニトロ、あんまり引っ張るものだからシャツが伸び切っちゃって襟も伸び切っちゃって、ブラも丸見えだと思うんだけれどそれも故意犯?」
「――……過失」
「エッチ」
「……」
 ニトロは歯噛んだ。確かにティディアのブラジャーはニトロに丸見えである。下にいる連中にも見えているだろう。ティディアは今更恥ずかしそうにだらんとした襟をそっと胸元に引き寄せようとする。今や笑い顔に満ちた生徒達の中から変な声が上がる。からかいのような、非難のような……ニトロは顔を真っ赤にしてティディアのシャツから手を離すとブレザーを脱いだ。
「ひとまずこれで隠しとけ」
「やーん、紳士♪」
「うっさい!」
 しかし少女達が歓声を上げる。少年達は……嫉妬の目も多い。その少年達にティディアは媚態を振りまき、
「残念だけどここまで。今夜のおかずはあれで満ぞァ痛!」
 即座にバカ姫の頭を引っ叩き、そしてニトロはドアの傍らに鋭い目を送る。
「ヴィタさん! シャツを一枚大急ぎ!」
 王女の執事はいつの間にか美術室の中に入ってきていた。彼女は満足そうにうなずき、するりと生徒達の間をすり抜け外へ出て行く。
 それが区切りとなって場の空気が変化した。
 高貴な女性への敬愛と好奇と興味に満ちた視線の中、ティディアはおよそ貴婦人らしくもなくのん気に美術室をぐるりと見回し、
「それは?」
「ああ」
 ニトロはうなずき、カルテジアを見た。彼女は直立不動のダレイの隣で瞠目している。
「彼女の作品」
「へえ」
 ティディアは机の上を歩き、床に飛び降りる。軽やかに。着地の音も柔らかに。
みな、楽になさい」
 同じ高さに下りてきた姫君を迎え、石膏像のように身を硬くしている美術部員達にティディアが言うと、その声の強制力は即座に作用し、二枚貝のように閉められていた唇から吐息が漏れ、血を失っていたその胸に温かな憧れが溢れ、枯渇していた皆の瞳は永遠の名画を見るかのごとくキラキラと輝き出した。
 その頃、駐車場で待ちぼうけを食らっていた校長がやっと廊下に現れていた。彼は声を張り上げて美術室前に集う生徒達を追い払おうとしている。“失態”を挽回しようと躍起になっているようだが、生徒達の己へ向ける奇妙な視線に困惑してもいるらしく、どうもいまいち威厳を表せていない。顔を真っ赤にして叱責し、怒鳴る。が全く効果がない。彼がとうとう『停学』さらには『退学』というフレーズまで口にし出したところで、やっと野次馬の群はばらけ出した。散り散りに、とはいえ逃げ去ることはせず、自分達を追い立てる男の隙を伺いながら周囲に留まり続け、同時に誰よりもその人のお側近くに寄りたいと仲間内でも好位を争い続けている。
 また、校長が現れたとほぼ同時、美術室後方のドアをハラキリが閉め切っていた。前方のドアもいつの間にか閉められていて、どうやらロックもされている。王女とその『恋人』のショーが終わった今、そうしていなければ廊下の生徒達が美術室に雪崩れ込んできていただろう。知らぬ間に騒乱を防いでいただけでなく、そのまま番をするようにドアの傍に佇み、そうして飄々と事の成り行きを眺めている親友に一瞥を送り、ニトロも床に下りた。後で机を拭いておかないと、と思いながら自分のブレザーを両手で胸に当てているティディアに並び、彼女が目で促してきたので仕方なく応える。
「タイトルは『環悩』」
 ティディアは白い海の上、黒い皿の中の冷たい灰をしばし見つめる。
 その傍らでニトロはカルテジアへ視線を送った。すると未だ直立不動のダレイの隣で瞠目したままカルテジアはうなずき、
「セケル」
 彼女のオリジナルA.I.への呼びかけは、およそ祈りであった。
 映像が再生される。
 その時、ニトロは、そして誰よりもカルテジアはティディアの奇妙な目つきに気がついた。その映像は作られたばかりであり、王女にとっては間違いなく初めて観るものであるはずなのに、どういうわけかそこには単純な確認作業をしているような様子がある。何の気もないという風ではないのに、さして興味が深そうでもない。ニトロは胸が痛くなりそうだった。カルテジアは万力で胸が潰されるようだった。
 全てを見終えると、王女は、微笑を以て少女を見つめた。
「貴女はちょっと痩せ過ぎね。体を大事になさい」
 姫君の柔らかな声は、少女に鋭く突き刺さった。よもや労りの言葉をかけられるとは思ってもみなかった。胸の痛みにその驚きが加わり、彼女は返答を言葉にできず、ただ深々と頭を垂れる。その細い指は倒れないようにダレイに支えを求めていた。
 そして頭を上げた時、少女は大きく息を飲んだ。
 眼前に、長い睫毛に飾られた美しい宝石があった。
 王女がぐっと身を寄せて自分を覗き込んできていた。
 間近で二人の瞳が重なる。
 少女は甘美な熱が感じられるほど近づけられたその尊顔に恍惚となる。
 その黒紫色の瞳に、嗚呼、吸い込まれてしまいそうだ。
 そこには愛撫するような眼差しがあった。言葉よりも雄弁に誉れを与えてくれる視線。少女の膝は震え、王女の双眸はさらに細められる。妖美な笑みを浮かべた王女は『恋人』の横に身を戻し、そこで、囁くように言った。
「ハステス、『海胎うなばら』の一篇」
 その瞬間、カルテジアは叫んだ。
「その通りです!」
 胸の痛みが歓喜によって爆発し、そのあまりの衝撃に彼女の全身が震えた。髪や産毛が一斉に逆立ち、灰褐色の瞳に火花が散る。人生最大のショックが肉体を駆け抜けた直後、彼女はまるで水中で息のできる場所を探すかのようにニトロに手を伸ばし、
「ほら――ほら! ティディア様はこんなにも芸術を解されている!」
 ニトロはその手を受け止めながら、ティディアを見ていた。その無言の問いかけに王女はちょっと首を傾げてみせ、
「本当は古語で、ほんの一部だけだけど――

我が愛も 我が悩みも
やがては塵に
塵はまた塵に
塵はまた愛に
そしてまた我は悩めり」

 朗々とした、歌にも似た暗誦だった。
 カルテジアの眼から滴が落ちた。
 ダレイも痺れたように立ち竦んでいた。
 二人だけではない、美術部の関係者は皆魂を刺激されたらしい。顧問などは手を痙攣させている。それほどにティディアの声は優雅であり、また優艶なる華があった。
「古語の方が韻律も素晴らしいんだけど、ま、そういう意味。ちなみにハステスは前史時代の詩人で、化学と哲学でも功績を残しているわ」
 ニトロはカルテジアの震える手を彼女に返してやり、それから頭を掻いた。
「本当に、お前は何なんだろうな」
「んー、お姫様だけど?」
「いやそういうこっちゃなくてだな」
 美術室の隅ではハラキリが笑っている。その小さな笑い声に引かれて目を向ければ、またもいつの間にか、ヴィタが戻っていた。
「ほら、着替えて来い。そしてそれを返せ」
「ニトロがめちゃめちゃにしたくせにー」
「悪かった」
 ティディアは悪戯が成功した子どものように目を丸くすると、うなずいて踵を返した。校長の怒声が轟き、それに負けじと野次馬の波頭が押し寄せつつある。
「旦那様が怒るから男どもは前を向いてなさい。あ、ニトロはこっちを見ていてね」
「見てたまるか「いけずー」
 そして誰が旦那様だ――と、ニトロが続けてそう言おうとした寸前、ティディアにそれを潰されてしまった。改めて言おうにもタイミングを完全に逸してしまい、しかも彼女の言葉に反応した女子が騒いでいるので今から言っても誰も聞きはしないだろう。
 渋面のニトロの元へ、ティディアとすれ違ってハラキリが歩いてくる。ダレイと二年の男子は既に前を向いていた。ヴィタの操作で教室のシステムが働き、窓の全てが一瞬にして不透明となる。あからさまに落胆の吐息が廊下に響き渡った。それから、ひそひそとした非難の声。
 ニトロはティディアがヴィタから新しいシャツを受け取っているのを見届けてから、泣きじゃくっているカルテジアに聞いてみた。
「折角だから、モデルに描いてみる? 残りの生涯を失う必要はないと思うけど」
 すると彼女は目を見開いて、言った。
「違うわ、ニトロ。あれはそういう意味で言ったんじゃないの」
「? それじゃあ?」
「私には、まだ『ティディア様』を描けるだけの力はないの。だから」
「つまり悪魔との取引的な意味合いですか」
 ハラキリが話に入ってくる。ニトロは、ああ、と理解した。カルテジアはハンカチに顔を埋め、何度もうなずいている。
「それじゃ、悪いこと言ったね」
 彼女は顔を埋めたまま首を振る。
「カルテジアさん……えーっと、こう言うのがいいことなのか判らないけど……良かったね」
 するとカルテジアが顔を上げた。
「一緒に作品を作った仲じゃない。私はクオリアよ、ニトロ」
 そう言えば、つい今しがた『ニトロ』と名で呼ばれていたことに彼は気づいた。
「ハラキリも、良かったら」
 苦笑にも似た顔で、ハラキリはうなずく。
「なぁに? 青春しているの?」
 と、ニトロの耳朶を甘い吐息が急襲した。クオリア・カルテジアがびっくりしている。ニトロはため息をつき、言葉と同時に胸に回ってきていたティディアの腕からさらりと逃れて振り返り、そこで頬を痙攣させた。目の前に立つバカ姫は確かに着替えを済ませてきたものの、が、しかし、
「何でブレザーまで着てるんだよ、返せ」
「やーよー。折角貸してくれたんだから、しばらく返さない」
「どういう理屈だ」
「いいじゃない、ここの生徒気分を味わわせてよ」
 襟を掴もうとしたニトロの手をすり抜けてティディアは言う。再び白いTシャツを着て、その上にサイズの合わない男物の制服を着る王女には妙な色気がある。美術部員唯一の男子が頬を赤らめていた。ブレザーを是が非でも取り返そうと思っていたニトロはその純情そうな二年生の様子に何故だか気勢を削がれて、動きを止めた。――それに、下手にこのバカと戯れ合えばすぐ傍にある『環悩』を壊してしまうかもしれない。
「……帰る時にはちゃんと返せよ」
「ええ、しっかり私の匂いが染み込んだところで返すわ」
「正式にクリーニング代を請求する」
「ひッど!」
 ニトロはティディアの抗議には取り合わず、さらに食ってかかってきそうな彼女を制するようにヴィタへ問う。
「そろそろ七時かな」
「あと三分です」
 改めて見ればヴィタもラフな格好をしていた。何かとミステリアスな女執事の画力、そして美術分野への見識は気になるが――ニトロは目をハラキリへ移す。
「それじゃあ行こうか」
 ハラキリはうなずく。彼の後ろに控える美術部員の後輩三人と顧問は王女に声をかけたがっているようだ。が、ニトロはそれを拒む立場にも、許す立場にもない。さらには促す立場にもないと思い、自分の取るべき行動を取る。
「ティディアも。校長先生もそこで待ってる」
 廊下側の窓は未だに曇っていてはっきりと外は見えない。しかし無数の人影がぼんやりと散開していて、その中心に一人異常に肩をそびやかす者がある。
「あまり待たせちゃ悪いだろ」
「いくら待たせてもいいじゃない」
「お世話になってるんだ。――敬意は払うべきだよ」
 校長の思惑を思えば純粋に感謝を抱くことは難しい。その滑稽な態度に失望するなというのも無理な話だ。しかし、ニトロの言う敬意も真実であった。王女に良いように利用され続けていて、おそらくはそれに甘んじている、尊敬できる人間かと問われればがえんぜない相手ではあるが、それでも一つの敬意は抱けるのだ。そしてニトロは、その敬意だけは捨ててはいけないと思う。校長先生はアデムメデスの他のどの高校よりも大変な環境にあるここで、事実、様々な問題に対処し続けているのだから。
「ニトロは真面目よねー」
「反面教師がいるからな」
「紹介してくれる?」
「鏡を見ろ」
「きっと美女がいるだけね」
「よぉし、後でぶん殴ってやる」
「その後は優しくしてね? い・つ・も・ど・お・り」
「……」
 閉口しながら、ニトロはティディアと共に教室前部のドアへ向かう。そこに思い切って後輩の美術部員が三人揃って王女へ挨拶に来た。それに王女は穏やかに応じる……と同時にニトロと腕を組む。彼はそれを振り払えない。振り払えば美術部員にきっと“危害”が及ぶ。渋面極まる『王女の恋人』の後ろにハラキリが続いた。ヴィタがロックされていたドアを開き、と、出遅れていた顧問が慌てて挨拶に駆けつける。
 その様を眺めていたクオリアは、ふと己の作品に目を移した。そこにある灰は、展示する度、移動させる度、少しずつ失われ、いずれは全て吹き飛ばされるだろう。少しは皿にこびりついて残るかもしれないが、それもいつかは失われる時が来るはずだ。
 クオリアにとって、既にその作品は固着していた。
 愛着はある。しかし執着はない。それは既に過去の衝動である。反省は、ある。もっと良くできたのでは? あの絵の描かれるまでの、そして描かれたものが燃える様を映像化した部分は不要だったのではないだろうか。ティディア様のように理解してくれる人がいるのなら、ただ灰を真っ白な海原に置き、それだけでも良かったのでは? だが、それではあまりに独り善がりではないだろうか。誰にも解ってもらえないかもしれないと思えば心細い。しかし心細いと思うのはまだ自分が本当には作品に向き合い切れず、透徹できていないからかもしれない。――その惑いも、今は過去。全ては結晶となってそこにある。後は見る人に、見てくれる人に未来を委ねよう。
 彼女の胸には新たな衝動がある。
 その衝動は、熱だ。熱は揺らめき、己の熱に煽られ自ら波となり、風となり、体内を駆け巡り、私の心の底に溜まる何かを気化させて、しかもそれを心の外で固体にしようとエネルギーを増していく。
 疼く。
 彼女はダレイに訊ねた。
「演劇部は満足していた?」
「また頼むと」
「また頼まれようかな。私は、もっと創りたい」
 ダレイはうなずく。
 クオリアは、ドアを抜けていく新しい友人と王女を見送る。
 ニトロがドアを抜けると、そこには麗しの姫君と何とか言葉を交わそうという野望に燃えた生徒達が今こそはと結集しつつあった。まるで馬の群が統率を失ったまま一箇所に駆け込んでこようとしている、暴走の気配が廊下に漲っていた。
 その暴走が一度始まれば誰も止めることはできなかっただろう。
 しかし、その気配を容易に留め、それどころか跳ね返すものがあった。
 それは他でもない、ティディアの眼差しである。
 その目は生徒達に無分別を控えるよう柔らかく諭していた。優しい眼差しに、されど奥底に馬の大群すら飲み込む魔力を湛える黒紫の瞳に少年達少女達は訳も知らずに惹かれ、そして、畏怖した。それが無意識にも足をその場に釘付けにしたのだ。
 そこに露払いとして校長が先頭に立った。
 後陣にはハラキリとヴィタが控える。二人は絶妙な距離、外側から追い越すにも中間を抜けるにも躊躇を招く距離を取って並んでいて、しかも一人はこちらも美しい貴婦人であり、もう一人はどんな荒事にも動じないニトロ・ポルカトの親友である。それはもはや強大な城壁であった。
 これ以上ないほどに背筋を伸ばした校長が、まるでどこかに鼓手がいるかのごとく一定の歩調を取って進み出す。
 近づけなくとも姫君へ言葉や喜びを捧げながら追ってくる生徒達を引き連れて、ニトロもティディアと腕を組んだまま歩き出した。そう、腕を組んだまま、実に恋人同士のように。無論これは彼の本意ではない。しかし振り払う機を逸した後にはがっちり完全に捕獲されてしまった腕を“敵”から解放することができず、彼は胸の裏側を憤懣で焼いていた。しかもこいつはあつかましくもその乳房をこちらの腕へぐいぐい押しつけてくるから非常に鬱陶しい。肘を肋骨へ突き立てようにも上手いこといなされ、下手をすれば愛撫になってしまいそうだ。彼は歯噛む。彼女はほくそ笑む。
 一方、校長は己の背後で行われている静かな戦闘など露知らず、一歩一歩を噛み締めるように踏み込みながら、前方にいる生徒達へ教室側――つまり王女への接近を防ぐためニトロ(騎士として恋人を守るべき『ニトロ・ポルカト』)の歩く側の端に寄り、礼を尽くすよういかめしい声で指示を出していた。生徒達は幸せそうな王女の歩みを妨げてはならないと端に寄っていく。中には校長の意に反して中庭側に身を寄せる者もいるが、それはもちろん王女を可能な限り近くで見たいためであり、どこか夢見がちな顔には無謀な行為へ出ようという意志はない。それを見取った校長は、一際厳しく牽制の眼差しを送りながらも己の庇護にある者達をぎりぎりのところで黙認する。
 しかし己の庇護者気取りの女を一切黙認できないのがニトロ・ポルカトである。すり寄せられてくる頬を、肩を張り出して押し返す。さらに少しでも気を許せば恋人らしく囁きかけてくるであろう相手から逃れるように顔を横に向ける。その拍子に、廊下に面した美術室の曇り窓の向こうにぼんやりと佇む太い影と細い影が目に飛び込んできた。偽りの恋人への抵抗を続ける最中、ニトロの脳裡に別の思考が立ち上がる。
 あの二人はこれから片付けを始めるのだろうか。それとも明日早く登校して片付けるのだろうか。どちらにせよ閉門時間を過ぎるのは確実だから、二人だけでなく美術部全員が顧問と共に通用門を抜けねばならない。生徒はちょっとした手続きを踏まないといけないし、顧問は小言をもらうはずだ。もう美術室を通り過ぎる。それにしても今日は貴重な体験をさせてもらった。だけど、これはやはり迷惑をかけてしまったな――と、思ったその時、ぱっと窓が透き通った。
 その瞬間、ニトロとクオリアの目が合った。
 次の瞬間には、小さく手を振る少女の姿は視野から外れてしまった。
 しかし、そのたった一歩を踏み込む間に、彼は彼女の心をはっきりと捉えていた。
「いつか私達から栄誉を授けられるようになってくれれば嬉しいわね」
 ティディアが囁きかけてくる。
 ニトロは思わず振り返った。すぐ間近に、花壇に芽吹く双葉を見る面差しがあった。彼女のその表情に彼は一瞬油断しかけたが、簡単に唇で唇に触れられる距離であることに気づくと慌てて顔を背け、ぼそりと言った。
「……『私』な。俺も数えるな」
 ティディアはニトロの耳の後ろに息を吹きかけるようにくすくすと笑う。
「待ちなさ――待て!」
 急に校長が荒げた声に二人が振り返ると、彼の制止を強引に突破し、おさげの少女が夢中になって駆け寄ってきていた。その目には一つの望みのために身を滅ぼしかねない忘我の境地が現れている。それを王女は淡く嗜めながら、差し伸べられたその手に温かく手を触れてやる。
 ……そう、夢中だ。
 ニトロの瞼にクオリアが蘇る。
 彼女は夢中で、今もまだ夢中だ。そしてその夢は濃度を増している。それは妄念のためではない。情熱のためだ。最後に見たクラスメイトの瞳には青春が炸裂していた。そしてその青春は、彼女の情熱の続く限りきっと永久に失われないのだろう。
 ニトロには、それが羨ましかった。
 そして彼は、それをまだ羨ましいと思えることが奇妙にも嬉しくてならなかった。
 春、たけなわ。
 少年の頬には我知らず微笑がこぼれ、それは花の咲き乱れる季節に相応しく、それを見る王女もまた胸に萌える情動に、我知らず、そっと微笑むのであった。

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