(第三部の直前)

2015『吉A』と『吉@』の間

 ソレが生息するくにでは、ソレはほぼ例外なく嫌われている。否、嫌われている、というのは生易しいかもしれない。ソレは嫌悪のあまり恐怖の対象とまでに至っている。
 ソレは、強い。非常識なまでの生命力を保持する。しかし、ソレが知性を持ったことはない。大宇宙の隅々まで見ても数多くの『人類』の中にソレから進化してきた末裔は見当たらない。
 それはなぜか。
 ある学者は言った。ソレは既に完成している。ソレは知性を必要としない。ソレにとって知性はむしろ邪魔なのだ、と。あるいは知性とも思えるほどに研ぎ澄まされた本能と、その生命力があれば十分であるのだと。生存のために知性は必ずしも必要ではない。見るがよい! 現実に、ソレは常に知的生命体の数よりも多い同胞と共に、今もここかしこに潜んでいるではないか!
 ……そう、ここかしこに潜んでいる。
 ここアデムメデスにも、ソレは生存している。
 そして例によってソレはアデムメデスにおいて不動の嫌われ害虫のトップであり続けている。時として場に凄惨な混乱を招く、黒い悪魔として恐れられている。実際アデムメデス神話の中にはゴキブリのことだと言われる魔物までいるほどだ。
 ソレは、どんなに清潔な場所にも、どんなに忌避剤を駆使した場所にも、静かにやってくる。隙間一つない部屋にもソレはどういうわけか侵入してくる。――どういうわけか? いいや、それはただ人が知らない、あるいは気がつかないだけだ。
 例えば、ソレは出入り口の開く時を待っている。己には重すぎる扉の前で、じっと息を潜めて待っている、その美味たる食物の溢れる天国への門が開くのを。
 時にはまた、ソレは誰かに取り付く――大胆にも、天敵であるはずの大きな動物の体のどこかに取り付いて侵入を試みる。運び屋となるその人は気がつかない。否、気がつかぬ方が幸せだろう。油めいて照り光る黒い楕円のブローチを、意図せぬアクセサリーとして我が身に着けているなどとは知らぬが天使の微笑みである。もし背ではなく目につくところ、例えばソレが肩に着地したともなれば恐慌は必至であろう。
 今夜、ソレは、街路樹を飾るイルミネーションを伝っていた。腹を空かせて、食物を探して、無心に、無邪気に。そしてふいに足を滑らせ、ぽとりと落ちた。すると、ソレはある女性のトートバッグに落ち込んだ。トートバッグのファスナーは開いていた。これは幸い、ソレは隠れるに好ましい暗い場所へ潜っていった。女性は気がつかない。女性は頬を赤らめて、待ち合わせ場所に先に来ていた婚約者に手を振って駆け寄っていく。
 女性は婚約者と連れ立って、予約したレストランへと向かった。
 そのレストランの前には人だかりができていた。皆して中を覗き込もうとしている。しかし窓にはブラインド機能が働いていて、外から内側を覗きこむことはできない。
 女性と婚約者は不思議に思った。確かにこのレストランは味が良いことで知られているが、これほど人を集めるほどの有名店ではない。それなら誰か有名人でも来ているのだろうか? だとしたら、この日に予約を入れていたのは幸運だったかもしれない。
 締め切られた玄関で予約したことを告げるとばかに慎重な照会を受け、二人は緊張した面持ちのウェイターの案内で店内へと入っていった。
 そうしてソレは、レストラン『ヴァニチュー』の中へと運ばれていったのである。

 およそ四時間前、ニトロは全ての教科の年度末テストを受け終えた。高校二年の前後期で学習した内容確認の授業と試験が続く総括期、その最後の一週間は無呼吸でロッククライミングをし続けるようなものだと例えられる。しかし、その山を乗り越えた先には素晴らしい開放感と清々しい空気がある。そこに辿り着いた学生達は、最後のテスト時間の終わりを告げるベルの音に重ねて休暇中の予定を語り出す。赤点を取ると春休みに厳しい補講を受けなければならず、その補講で合格点に至らねば留年決定であるが、そのことはひとまず忘れて、友と遊びに行きたい者は友と望みを交わし、一人自由を満喫したい者は心で望みを噛み締める。
 およそ三時間五十九分前、ニトロは仲の良い友人と言葉を交わす間もなく即座に校舎を出て、教職員用駐車場にやってきていた飛行車スカイカーに乗り込んだ。向かうは王城、仕事である。来月と来々月、『漫才コンビ』として訪れる予定のイベントに来客を請う告知番組を、王城のあちこちを舞台にして撮影することがその内容だった。本来はそれぞれのイベントと協賛しているメディアやスポンサー企業の用意する場所に出向いて撮るはずだったのだが、何の気まぐれか、一昨日になってティディアが「王城の紹介も兼ねて」と予定を変更してきたのである。撮影場所の中には宝物庫の中――なかなか公開されない国宝も見切れるようにするらしい――などがあって驚いたものだが、まあ、その程度のぶっ飛び具合なら『クレイジー・プリンセス』にとっては平常運転だろう。
 およそ三時間十五分前、ニトロはティディアとの宣伝用ビデオ撮影を開始した。基本的に宣伝と言う名の無軌道な弾丸トークを繰り出すバカ姫を適宜軌道修正し続けることが、ニトロの役目である。急に政治スキャンダルの裏話とか、報道前の芸能ゴシップなどを“うっかり”口にしようとすることがあるから気が抜けない。放送禁止用語を誤魔化すのにも苦労する。いつもながら厄介で面倒で疲れる仕事だが、それが既に『仕事』として成立してしまっているのがいつもながらに悲しくなる。
 およそ一時間前、ニトロは仕事を終えた。ちょっと喉が嗄れている。年度末テストの後に怒涛の連続撮影をこなしたもんだから疲労もピークに達し、体は滋養を求めていた。そこにハラキリが「打ち上げしません?」とメールしてきた。一も二もなく返事をした。了解と――反射的に、“打ち上げ”とか“お疲れカラオケ”とかあまりにそういう『日常的なもの』にも餓えていたものだから、ほとんど思考回路を介さず了解と返事をしてしまっていた。
 三十分前、妹姫と公務について話すことがあるというティディアと別れたニトロは城を出て、家路の途中でハラキリと合流した。
 十分前、ハラキリはニトロを王城近辺では最も寂れた繁華街に連れてきた。街を盛り上げるための涙ぐましいイルミネーションに飾られた街路を歩き、やがて『ヴァニチュー』というレストランに入った。個人経営の店で、そこそこ老舗であるらしい。学生にとっては少々高すぎる価格帯だが、それ故に『ニトロ・ポルカト』が無遠慮な客らに取り囲まれるという事態を許す空気がここにはない。リザーブカードの置かれた奥の壁際のテーブルに案内されたところで、ニトロはようやく解放感を味わった。人心地の吐息をつき、ウェイトレスの丁寧な挨拶と共に渡されたメニューを見ると、期待以上に美味しそうな写真が並んでいて腹が鳴った。
 一分前、丹念にメニューを吟味していたニトロの元に、美しい女性が二人やってきた。
 三秒前、ハラキリがしれっと、
「こちら本日のスポンサー様です」
 いそいそと隣の席に腰を落ち着け、さらにこちら側に詰め寄ってこようとするティディアを押し止めながら、ニトロはハラキリを睨みつける。
「打ち上げってのは、つまり嘘だったわけだな」
「いやいや、スポンサーが参加する打ち上げもあるでしょう?」
「でもそれは少なくとも気楽な仲間内のものじゃないよな」
「拙者とは年度末テストお疲れ様の打ち上げ、おひいさんとなら番宣撮影お疲れ様の打ち上げ、となればどちらも仲間内となりますが」
「なるほど『嘘はついてない』か」
「納得いただけたようで何よりです」
 悪びれもせずハラキリは笑む。
 ニトロは嘆息した。油断していた、もっと考えて返事をするべきだったと後悔してももう遅い。防御のために突っ張る左手にはいつまでも諦め悪く椅子を寄せようとしてくるティディアの肩の感触がある。
 彼女は、別れた時から服装を変えていた。最後に見た時はソリッドな印象のパンツスーツを着ていたが、今は最近のアデムメデスのどこででも見られる流行のタイトワンピースに身を包んでいる。しかもそれは一見して解るほど有名な――有名すぎてほとんど大衆化したブランドものであり、柄も最も人気のチェック柄、鎖骨がはっきり出るくらいに大きく開く襟もやはり流行りだし、三分丈の袖もそう、色の濃いワンピースに透け感のあるボレロを合わせるのも“最新の教科書”通りのコーディネートだ。テーブルの下に隠れている、セミフォーマルに堪えるデザインのパンプスに至っても発売されたばかりの入手困難な品物であった。
 はっきりと言えば、ティディアの服装は、チープである。
 鼻に突くほどの陳腐な選択である。
 それなのに、とてもそうは感じられない。
 飽きるほど巷に溢れている外観なのに、何故だろうか、彼女が着ているそれは一点物の希少なドレスに感じられてならない。そして彼女が身じろぎするだけではっきりと現れるボディラインはまるで体温まで伝えてくるように、誘いかけて噛み付いてくるかのように、扇情的だ。
 ふと、ニトロは周囲が静まり返っていることに気がついた。ティディアが店内に入ってきた時から、この場所には落ち着いた空気も、気軽な食事を楽しむ人々が織り成すざわめきもなくなってしまっていた。流石に歓声を上げて押し寄せてはこないものの、皆関心を奪われているのだ。皆、ちらちらと、時にははっきりこちらを窺いながら黙々とシェフ渾身の料理を口に運んでいる。しかし、きっと味はしなかろう。彼ら彼女らの全神経は舌ではなく目と、特に耳に集中している。そしてその集中線は、無言で駄々をこねる子どものように椅子をガタガタと揺らすお姫様に向かって収束している。
 王女に対する敬意と崇拝に混じって、一人の女に対する羨望があった。嫉妬があった、憧れがあった。こちらを見つめるそれら女性達の眼差しを眺めて、ニトロはふと思う。チープなのに特別に見える     。……ひょっとしたら、『チープ、なのに特別』というものがより多くの人間の心を掴むものなのかもしれない。そして多くの人がわたしもそういう『特別』になりたいと願う。例え自分が特別な人間でなくても『特別』になれることに希望を抱き、それを夢見させてくれる存在を――例えその存在が“特別”な人間であったとしても――共感の対象とするために讃える。讃えることで共感して、羨望しながら、嫉妬しながら、憧れる。
 思えば、今の自分もその『特別』なのだろう。はっきりとこちらに顔を向ける人々の合間に、何度も目を逸らしながら『ニトロ・ポルカト』をちらちらと盗み見る男達が幾人か窺える。そこにあるのも、羨望、嫉妬、憧れ。だが共感という自己投影よりも、そこには“簒奪”への欲望が低音にあるように感じられる。
 言葉にすれば同じ感情でも、色合いは大分違うものだ。
 そして全ての感情を上書きするように、悪戯っぽく煌く瞳がこちらを見つめてきている。その光に透かす黒曜石にも似た瞳の持ち主は、どうあってもこちらに侵攻してこようと肩を押し込み続けてくる。
「いい加減諦めろよ」
 嘆息混じりに、ニトロは言った。彼の視界の端には、客の――賓客の座りがいつまで経っても落ち着かないため当惑しているウェイトレスの顔がある。ティディアが来る前からこのテーブルの担当になっていた彼女が、引き続きここを任されたらしい。その頬は紅潮しながら半ば凍りついている。希代の王女にサーブするという光栄に浴しながら、反面、あからさまに不機嫌を表す『恋人』の様子に不穏な展開を想像せずにはいられないのだろう。
「ちゃんと席に着け。窮屈だと食べづらい
「うん、分かった」
 ニトロのディナーを受け入れる言葉に、ティディアは少し子どもっぽく答えた。それは周囲には『恋人』に甘える言葉と受け取られたはずだ。ニトロはそれに内心歯噛みながらも、ようやくこちらを逃がさぬように壁に押し込もうとするのを止めたティディアにメニューを映す板晶画面ボードスクリーンを渡した。そしてハラキリを再び睨む。
「芍薬から山ほど抗議がいくからな」
「撫子に任せます」
「撫子も大変だな」
「芍薬ほどではありません」
 皮肉を飄々と切り返すハラキリの横では、クラシカルな趣のワンピースを着たヴィタが実に楽しそうに目を細めている。彼女は神秘的な藍銀色の髪を一見無造作に纏め上げ、その髪のシルエットがふわりとした服のラインによく似合っていた。レース状になった袖からは白い肌が透けて見えている。それがそのままふわりとした布地に隠された彼女のスレンダーな肢体を想像させるため、静淑な居住まいの奥から噛み含むようなエロティスムが滲み出していた。
 一方、ニトロとハラキリは高校の制服を着ていた。ニトロは当初直帰する予定だったので着替えを持ってきていなかったし、ハラキリはどうやら友人の事情を考え制服で合わせてくれたらしい。アデムメデスにおいて学生の制服は、冠婚葬祭、はたまた勲章授与式のような国家的な行事においても正式な服装として認められている。崩して着こなせばカジュアルなシーンでも堅苦しさを軽減することは可能だ。このレストランは高級志向ということもあって、制服姿はけして不自然ではない。
 しかし、それぞれにアダルトな魅力を放つ二人の美女を伴う、あるいは伴われる制服姿の少年達――という図式には妙にアンバランスな様相があり、どこか背徳的でさえある。
 これは悪目立ちであった。
 いかに自分が王女の『恋人』として世間に認識されていても、いざこの相関図を眺めれば悪戯に心騒がされる者もあろう。実際、周囲から注がれる好奇の目に“熟れ過ぎた桃色”が加わっているのを、ニトロは敏感に感じ取っていた。
 見れば、ニトロが感じ取ったことをさらに敏感に見抜いたティディアとヴィタが双眸を弓なりに歪めている。
「悪趣味な」
 女二人はそれぞれに色気の豊かな微笑を漂わせ、それからティディアがメニューを一瞥した後、ニトロへ目配せをする。ニトロはうなずいた。ハラキリも追ってうなずく。ティディアが手を軽く差し上げると、今か今かと待ち構えていたウェイトレスが瞳を輝かせてやってきた。
 四人共にコースを頼んだ。初めニトロはハンバーグとパンを頼み、それからハラキリとサラダを分け合おうかと考えていたのだが、ティディアとヴィタがやってきたからにはコースを選択しなくてはならなくなることを飲み込んでいた。その中で、幾つか選択するものがあり、ニトロは鴨のローストと、チョコレートアイスを頼んだ。
「食前酒はどうなさいますか?」
「リスドネを」
 ウェイトレスにティディアが応える。『リスドネ』は名の知れたスパークリングワインだ。
「同じものを」
 ヴィタが続く。
「こちらも」
 ハラキリが告げる。
「おいこら未成年」
 ニトロがツッコむ。
 するとハラキリがさも心外そうに目を丸くし、
「しかしニトロ君、折角の機会なんですし」
「どんな機会だ。これが同級生の成人祝いならまだしも、ただのディナーだろ?」
 ド真正面からの論駁にも負けず、ハラキリは食い下がる。
「お姫さんとのディナーなんて『ただの』とは言えないと思いますが」
 妙なしつこさに、ニトロはしかし即座に切り返す。
「だからって『折角』とまで言えるまでのもんでもないだろ、わりと折に触れて一緒に食ってるじゃないか」
「それもそうですねぇ。いつもご相伴に預かり、拙者は幸せ者です」
 そこでハラキリはにこりと笑った。彼のその言い回しに、ニトロは「あ」と口を開ける。しまった、また失敗した。これではまるで自分とティディアの『仲良しエピソード』を滲ませているようなものではないか。慌てて状況を覆そうとニトロは口を開きかけるが、そこにティディアが嘴を挟んできた。
「『王権』を使って認めましょうか?」
「こんなくっだらないことに王権行使しようとすんな!」
 思わずツッコンだところでニトロはまた口を「あ」の形に固める。ティディアの言葉を受けてしまったことで会話の向きが完全に変わってしまった。もはや挽回の余地はない。何しろ微笑ましげにこちらを見やるウェイトレスの眼差しは如実に「何だかんだで……」と語っている。そうだ、いつもこうして『照れ隠しのためにティディア姫への辺りが強くなるニトロ・ポルカト』像が鉄よりも固くなっていってしまうのだ。ここからどんな態度を取ろうがティディアの印象操作はそれをどこまでも『照れ隠し』にしてしまうだろう。最悪、あの『クレイジー・プリンセス』が『恋人』に甲斐甲斐しく気を遣うことで『ニトロ・ポルカト』が特別なのだという印象をひたすら強化するだけにもなろう。後は傷を広げないか、より深手にするかの選択肢しか残っていない。
 ――いつものことである、チクショウ。
「……」
 ニトロはハラキリを三度睨んだ。
「では、シュラシカにしましょう」
 ハラキリはまるで一仕事を終えたとばかりにくつろいだ様子である。『シュラシカ』はノンアルコールのスパークリングワインだ。といってもただの微炭酸ブドウジュースですけどね、と、わずかに片眉を跳ね上げるハラキリの顔はそう言っていた。
 色々諦め、ニトロも同じものを頼む。
 ウェイトレスが下がると、早速ティディアが今日の撮影のことをハラキリに向けて話し始めた。ハラキリはティディアへ相槌を返しながら、その話題をニトロへ反射させる。ハラキリに体験談をするのは好きなので、ニトロも自然と饒舌になっていく。ヴィタは適度にうなずき、会話を潤滑にする必要最小限の言葉を挟みつつ、話すよりも聴くことが楽しげにマリンブルーの瞳を煌かせている。
 すぐに飲み物が来た。
 四人の前に細いワイングラスが置かれる。八分ばかりに満たされた淡い黄金に輝く液体の底からは微細な泡が無限に天へ向かい続けている。水面で泡が弾けると、そこに封じられていた爽やかな香りがぱちぱちと広がる。
「それじゃ、楽しいディナーに乾杯しましょう?」
 ティディアの提案に、ニトロは軽く息をつく。
「楽しいディナーね」
「ええ、楽しいディナー」
「精一杯楽しむとするよ」
「ふふ、ええ、楽しみましょう」
 心底楽しそうな王女の微笑みに、どこかからため息が漏れた。それに気づいたティディアがそちらに目をやり、微笑を送る。と、グラスが倒れる音がした。慌てる女性の声がそれに続いた。グラスは白いテーブルクロスに血のような染みをつけながら転がり、床に落ちて耳障りな破砕音を立てる。彼女が立ち上がった拍子にハンドバッグが床に落ちる。床に溜まった赤ワインの中でグラスの破片がぎらりと光っていた。彼女はまた慌て、連れの男性も助けるために慌てて立ち上がろうとして椅子を蹴倒してしまう。周囲の人間がどよめき、ウェイターが二人、そのテーブルへ足早に向かっていく。
 己の微笑により混乱が引き起こされた現場から目を戻し、ティディアはニトロに奇妙な笑顔を見せた。彼は応える代わりにグラスに口をつけた。もう乾杯をするような流れではない。彼女は『恋人』のつれない反応に面白くなさそうな顔をしたが、愉快気なヴィタとハラキリがニトロに応じてグラスに口をつけたため、気を取り直して自分もスパークリングワインを口に含む。混乱は既に止んでいる。良いウェイター達だ。片方は給仕頭か、粗相をした客に丁寧に応対し、落ち着かせている。小さな掃除ロボットが素早く床を滑っていき、こぼれたワインをガラス片ごと吸い取っていく。
 店員の対応は店内に秩序を取り戻した。にわかに沸き起こったどよめきは静まり、再び奥のテーブルへの関心が高まる。しかし今の騒ぎが契機となったらしく、先ほどとは違って各テーブルでも各々の会話が囁かれてもいた。――その穏やかな喧騒が心地良い。
 ニトロはウェイターに頭を下げている女性からティディアに視線を移した。まさか、こいつはこれを狙ったわけではないのだろうが……
「どうしたの?」
 ふいにニトロと目が合いきょとんとしたティディアは、珍しく隙だらけだった。その表情に何らかの企ての跡はない。ただ頬に新しい赤みが幽かに表れる。
「いや」
 と、ニトロは曖昧に答え、ヴィタに話を振った。ティディアはニトロを追求しようとして、ふと、やめた。その躊躇は喉の裏側にほんの微かな痙攣として現れただけで、ニトロはもちろん、ハラキリにもヴィタにも認めることはできなかった。もしそれを見ようというのなら人間の目には備わらぬセンサーが必要だっただろう。
 ウェイトレスがやってきて、会話の邪魔をせぬようテーブルにカトラリーを並べていく。
「え? あのグーテリアはうちから持ってったの?」
「言いませんでしたか?」
「聞いてないし、母さんからも聞いてない」
「綺麗な色の入り方をしていましたので、お願いして去年の秋に株分けしてもらったものです。順調に蕾も大きくなっていますし、六月が楽しみです」
「ああ、そうなんだ」
「楽しみといえば、ニトロ君のお母さんから頂いた『盆栽ポッテッド・プラント』のボタンザクラも蕾がほころびそうですよ」
「え? もう?」
 ニトロだけでなく、ヴィタも首を傾げる。
「あれは四月下旬からのはずですが」
「早くないか? ハラキリんちに温室はないだろ?」
「ありませんが、うちの牡丹が早く見たいと熱心に世話をしていましてね。冬の間は常に一番温かい所へ鉢を移動させていました」
 なるほどそれなら、とニトロとヴィタがうなずくのを――納得顔のニトロがハラキリに牡丹のボタンザクラへの期待について訊ねているのを、ティディアが目を細めて眺めていると、ウェイトレスが同僚と共に前菜を運んできた。
 その後方では、トートバッグを肩から提げた女性が連れの男性と共にフロアに入ってきていた。席へ案内するウェイターの後ろにいそいそと続いていたが、ふと壁際のテーブルを見て驚きのあまり立ち止まり、口をあんぐりと大きく開ける。彼女の連れの男性も同じ顔をしていた。しかし、そのような顔はティディアにとっては見慣れた顔だ。それよりもニトロの顔が見たい。葉野菜と食用花のテリーヌと根菜のサラダが、模様を描くソースに彩り美しく囲まれた皿に目を奪われているニトロの顔をもっと見ていたい。彼は素直な感想をその双眸にきらめかせ、最初の不機嫌など完全に忘れ去ったかのように目元を緩めている。
「ん」
 と、根菜のサラダを口に運んだニトロが喉を鳴らした。思わぬ食感だったのか目を丸くし、同時にその味への賛嘆を刻む彼の顔はとても微笑ましい。もしここにシェフがいて、彼と共に二つの宝石をランランと輝かせているヴィタとを並べて見れば、料理人としてこれほど嬉しい光景に立ち会えることはそうそうないだろう。
「美味しい?」
 食前酒で口を湿らせて、前菜用のナイフとフォークを手にしながら、ティディアはニトロへ聞かずとも分かることをあえて訊ねた。純粋な喜びを浮かべて彼はうなずく。そこにあるのは料理人への賛辞のみとはいえ、そんな顔で私に応えてくれるのはティディアにとってとても嬉しいことだった。喉を通った炭酸よりも刺激があって、胃の腑に落ちたアルコールよりも胸を温めてくれる。
 さて、これは感想を言い合わねばなるまい。
 ティディアは鮮やかな赤の輪の内に瑞々しい白を閉じ込めるラディッシュを口に運ぼうといそいそと、されど優雅にナイフとフォークを動かし――
「きぃやあああ!」
 絹を引き裂くような悲鳴が、店内に轟いた。
 ティディアは手を止め、ヴィタはランッとさらに瞳を輝かせ、ハラキリは平静にちらりと一瞥するだけだがニトロは仰天してそちらへ顔を向ける。
 悲鳴を上げたのは、つい今しがた来店した女性だった。
 何が起こったのか、トートバッグの中身が床に散乱している。彼女は立ち上がり、何か危険なものでも触りでもしたのか手をバタバタと振りながら恐怖の面持ちで小さく断続的に鋭い声を上げ続けている。連れの男性が落ち着くように声をかけているが効果はない。隣席の夫人が何事かと目を見開いていたが、ふいに女性が何に怯えているのかに気づいて自身も悲鳴を上げた。
「ゴキブリ――!」
 その一言が『ヴァニチュー』に恐慌をもたらした。
 夫人が夫の制止も聞かずに立ち上がり、トートバッグの女性と夫人の間の床でちょろちょろと素早く動き回る黒いソレを避けるように、あるいは万一にも踏み潰さぬように足踏みする。二人揃って不可思議なダンスを踊っているように見えるのは滑稽だが、その周囲のテーブルに座る人々には他人事ではない。最寄りの若い男性が少しでも現場から離れようと身を引いた瞬間バランスを崩して椅子ごと倒れてしまう。その拍子に彼は倒れてなるかとばかりにテーブルクロスを掴み、引きずられたクロスは載っていた料理のことごとくを道連れに床に零れ落ちてけたたましい音を立てる。そのクロスが引っ張られるのを防ごうとしたらしい婦人――母だろう――が放り投げてしまったナイフが他のテーブルの紳士に襲いかかり、紳士は「ぎゃっ」と声を上げて身を翻す。その手に持ったワイングラスから一杯3000リェンの赤ワインが飛び散り、熟成された果実と樽の香りの融和する逸品がたまの贅沢を楽しみにきた家族連れに降りかかる。そして『ゴキブリ』という単語に反応した多くの人々が体を硬直させて、恐ろしい速度で走り回るソレが己の下に来ないように口の中で神へ祈りを捧げた。が、その願いを聞き届けてもらえなかった一人の女性にソレは向かっていった。無情にも。不気味にも。すると王女様と同じような流行のワンピースに身を包んだ彼女は奇声を上げて、ソレを蹴飛ばそうというのか思い切り足を振り上げようとした。しかし彼女の着るのは流行のワンピース――タイトなワンピースである。足を振り上げるには自由が効かない。体勢を崩した彼女は派手にスープ皿に手を突っ込み、ソレに対する注意の外から不意にやってきた熱さにまた驚いて悲鳴を上げる。トラブル解決を試みたいウェイター達は、拡大する被害を前にして呆然とするばかりである。
「素晴らしい」
 と、つぶやいたのはヴィタだった。
 ハラキリは騒ぎをよそにテリーヌを堪能している。
 ニトロはそんな二人の様子に小さく苦笑し、さらに負の連鎖が繋がる現場を眺めてその苦笑を大きくした。――と、そこで彼は気づいた。ティディアが少し……こういう場面に接したら、ヴィタと同じく嬉々とするであろうはずの『クレイジー・プリンセス』が……いや、確かに楽しんではいる。楽しんではいるが、しかし同時に少しばかり不機嫌を噛み殺しているように思えてならない。
「アアッ」
 誰かが叫んだ。
 はっとしてニトロがそちらを見ると、そこにはフロアの照明を受けて黒く輝く飛行物体があった。広げられた硬質の黒い翅がぐっと持ち上げられ、そのすぐ下で半透明の薄翅が超高速で羽ばたき、ソレは何を思ったのだろうか、初めに悲鳴を上げたトートバッグの女性の胸にぶーんと飛びついた。
「ぎいぃやあああああ!」
 金属を引き裂くような悲鳴が、店を揺るがした。
 女性は胸に張り付いたソレを叩き落とす勇気もなく、しかし喉元へにじり上がってこようとするソレをそのままにしておくこともできず、顔のパーツが全て中心へ凝縮してしまったかのような凄まじいしかめ面で右往左往する。連れの男性は恋人らしいが、胸に止まるソレに手出しが出来ない。いつしか女性が手にしていたナイフが本来牽制したいソレをどうすることもできずに、ただ恋人だけを牽制してしまっている。そうしているうち、カサカサッと、ソレは女性の首へと駆けた。
「ヒ」
 と短い声を上げ、女性が膝からくずおれる。嫌悪から生じた恐怖のあまりに気が遠くなったらしい彼女を何とか連れの男性が受け止め、その瞬間、再びソレが舞い上がった。
 今一度周囲から悲鳴が上がる。しかし、それは後を続けない。
 ソレも、いつまでも恐慌の場にあっては己の身が危ういと思ったのだろう。
 ソレは、この場において最も静かな場所、すなわちニトロ達のテーブルに向かってきた。
 これにはニトロも流石に身を引く。
 豆粒ほどの大きさに見えたソレが、あっという間に等身大となって迫ってくる。ソレはまっすぐ飛んでくる!
「まったく」
 と、ティディアがつぶやき、その左手がふっと閃いた。
 次の瞬間、ニトロの視界から、ソレが消えていた。
「?」
 ニトロが眉の間に浮かべた疑問符は、フロア全体にも浮かんでいた。つい数秒前まであれほど騒がしかった店内が、この恒星間移動も容易な世にあって本物の魔法を見たかのように静まり返っていた。
「……」
 一体何が起こったのか――ティディアの左手に閃くナイフを見て、はたと察したニトロは立ち上がり、彼女の向こうに見える床を見下ろした。
 そこには、やはり――
「うお」
 頭から胴体にかけてまるで切られたかのように叩き潰されている体長5cmほどのゴキブリが、床の上でか細い足をぴくぴくと震わせていた。ニトロの口から思わず吐息が漏れる。
「峰打ちよ」
 ティディアが、ニトロの反応に気を良くして言う。
「真っ二つに切って汁が飛んだりしたら、嫌だからね」
「てことは切ることも出来たって? 飛んでくる相手を?」
「どうかしら。やってみなくちゃわからないけれど……」
 ティディアも床の屍を一瞥して、
「この様子だと出来たかもしれないわねー」
「お前は平然と言うけどな……」
 ニトロはそれ以上続けなかった。――続けられなかった。ティディアが剣術を得意にしていることは知っている。だが、だからといって……
「まあ、でも、当たるのが刃だろうが峰だろうが関係ないか……」
 何とか継いだ言葉に感嘆の吐息が混じってしまうのをニトロは避けられなかった。その様子にティディアは微笑する。
 それから彼女はニトロと同様に息を飲んでいる周囲に目を移し、そこに不穏の種があることを見て取った。騒ぎの中心地、その周囲は酷い有様である。幾つかのテーブルでは料理が台無しになったし、汚れてしまった服を嘆く心も次第に大きくなりつつある。誰もが意図的に損害を生み出したわけではないとはいえ諍いが起きるのは避けられまい。そして諍いがすぐに収まったとしても、この場の空気はぎくしゃくと強張り続けることだろう。
「……」
 食事は楽しい方がいい。特に一緒に楽しみたい相手とのディナーは。
「なかなか面白かったわ」
 にこりと笑って、ティディアは言った。
 澄んだ声、特に力を込めているわけでもないのに壁際から向こうの窓まで濁りなく響く華やかな声である。たった一匹のゴキブリ――しかし滑稽なまでに恐ろしい脅威がなくなった今、にわかに成長を始めていた無軌道な敵意の芽はその声にぐっと束ねられ、皆がティディアを見つめた。その眼差しにはこれから彼女が何を言うのかという緊張がある。シンと冷たく静まり返った中、彼女は脅威を潰したナイフを軽く振りながら、
「でも、ちょっと被害が大きくなっちゃったわね。楽しませてもらった分、ここは私が持つから、みな、改めて食事を堪能なさい。それからそこのお嬢さん?」
 と、家族連れの中の一人に洒落めかせて話しかける。プリーツと裾のレースがかわいい薄ピンクのスカートに真っ赤な染みがついてしまったことで涙ぐんでいた中学生くらいの少女が、やっと王女が自分に話しかけているのだと気づいて顔を赤らめる。ざっと見たところ、一番の被害を受けたのは彼女らしい。
「急いでクリーニングに出しましょう。腕の良い職人が綺麗にしてくれるわ。他の者も、後に残りそうなものは同じように。すぐに係りの者がやってくるから」
 主人に命じられるまでもなく執事は手元で携帯電話モバイルを操作している。そして執事の働きを確認することもなく、主人は事が全て滞りなく進むことを確信した調子で続ける。
「それから代わりの服は――そうね、それも私からプレゼントしましょう。“お下がり”でも構わないかしら? ラップスカートなら着られるものがあると思うんだけど。それともすぐそこにお店があったはずだから、そこで選んでくるといいわ」
「……」
 少女はぽかんとしている。というよりも、少女の家族も呆気にとられている。
「み、身にあまりゅれしゅ!」
 ともかく返事をすべきだと悟ったらしい少女が上擦った声で叫んだが、それは全く言葉になっていなかった。それに構わずティディアは微笑みを返し、
「それから」
 と、恐慌は収まったとはいえタイミングを逸して動けずにいる店のスタッフを目で呼び寄せ、やってきたウェイトレスにティディアはナイフの柄を向ける。
「流石にこれで食事はできないから、替えてくれるかしら」
「かひこまりました」
 ウェイトレスの声も上擦っていた。彼女の目は輝き、その頬は上気していた。恭しくナイフを受け取る手は震えている。
「額に入れて店に飾ってもいいわよ? 『ゴキブリ殺しのナイフ』なんてどう?」
「いやそれはどうだろう」
 ふと漏らすようにニトロがツッコむ。自身どんなに治そうと思っても治らない、ニトロ・ポルカトの長所にして短所である特技。くすりと誰かが笑って、空気が、ほころんだ。王女の声に支配され、息を殺してその言葉を静聴していた場に温もりが戻ってきた。
 ティディアは、一度振り返り、ニトロに眼差しを送った。そしてまた店内に向けて振り返った王女の顔には、新しく昇った太陽のような笑みがあった。
「飲める人にはこの店で一番良いワインを出してあげて」
 ティディアはウェイトレスに言い、次いで聴衆に向き直り、
「飲めない人は、その分遠慮なく食べたいものを食べなさい」
 そこで、パン、と一つ彼女は手を叩く。それを合図に、彼女の笑顔に照らされて、皆も自然と笑顔を浮かべる。
「さあ、素敵なディナーを楽しみましょう」

 ゴキブリ騒ぎの前にも増して朗らかな雰囲気で、『ヴァニチュー』のディナータイムは再び時計の針を進めていた。
 騒ぎの影響を受けなかった場所では歓談の声が上がり、またその目はちゃくちゃくと進行していく“後片付け”を一種の見世物として楽しんでいる。
 店員達が荒れた場所を静かに、しかし手早く片付け、掃除ロボットが床を綺麗に磨き上げていく。またフロアの一画では、本当にすぐにやってきた王城の職員が、ワインで汚れた少女のスカートをはじめクリーニングの必要な服を回収していた。この場で汚れを落とせる物は熟練の技と最新の洗浄剤ですぐに綺麗にしてしまうのには感動の声が上がっている。そして王女の側仕えが持ってきた巻きラップスカートを身に着けた少女は、感激のあまり声にならない声でティディアに何度も礼を言い、席に戻ってからも何度も頭を下げていた。
 レストランのオーナーがやってきて、やはりティディアに感謝を表明する。彼が厨房に戻っていくと、ようやくニトロ達のテーブルにもいくらかの落ち着きが戻ってきた。オーナーが前菜を新しいものに取り替えることを提案してきたので――食べかけの分は勿体無いが、料理人としては最善の状態のものを食べて欲しいのであろう気持ちを汲んで――テーブルの上には再び前菜の皿が並んでいる。先のものを一人食べ終えていたヴィタは大喜びだ。テリーヌが気に入ったらしいハラキリも満足そうである。
 最後に、騒ぎの原因となった女性がティディアの下へやってきていた。正気を取り戻した時からずっと土気色だった顔が、今は姫君の言葉を受けて生気に輝いている。彼女は付き添ってくれている男性と近々結婚するという。ティディアが祝福を送ると、二人揃って目を潤ませていた。
 深々と長く頭を下げ、二人がテーブルへ戻っていく。その幸福な様子が店内をもう一度温める。
 ティディアは内心吐息をつき、テーブルに向き直った。と、視野の端にニトロの視線が入り込んできた。彼に見つめられていたことに気づいた彼女はぱっと頬に朱を散らし、視線を合わせようと瞳を向けた。
 しかし、ニトロはすいっと目を前菜の皿に落としてティディアの瞳を避けた。葉野菜と食用花のテリーヌを切り分けて口に運ぼうとするその態度には、得も言われぬ複雑なものがある。
「――」
 ティディアは、頬の緩みを止められなかった。
 ニトロの様子には彼の心が明らかに滲み出していた。彼は、今、私を良く思ってくれているのだ。彼のその態度は、ティディアにとっては誉め言葉そのものだった。朱の散った彼女の頬に、熱がこもる。そしていつまでも頬の緩みが止められない。そのことに彼女自身驚く。だが、本当に嬉しかった。どうしてだろうか、信じられないほどに心地良く感じられてならないのだ。
 しかし自身の内部のその感触を、彼女は、今はまだそれが己に起こった変化なのだとは自覚せず、ただ悪戯っぽく微笑んで彼に呼びかける。
「ね、ニトロ」
 テリーヌを口に運びかけていたニトロが手を止めて眉間に皺を刻む。ティディアは振り返った彼の瞳を見つめ、目尻を垂れて、
「見直した?」
 一瞬、ニトロは眉間の皺を深くした。が、何を言うこともなくその影を消し、ティディアから視線を外した。向こうのテーブルで嬉しそうにお姫様をちらちらと見やってくる少女を一瞥した後、食べかけていたテリーヌを口にして唇を緩める。それから正面に向き直り、
「それにしても」
 と、根菜サラダのポテトにフォークを刺しながら言う。
「ヴィタさんは平気なんだね」
「ゴキブリですか?」
 食事を続けながら――良い反応をもらえず残念そうな主人を傍目にしながら――ヴィタは涼しげに言う。
「食材になるものに怖いものなどありません」
「いや、食材て」
「アデムメデスでは大抵ゲテモノですが、星によっては重要なタンパク源ですから」
「それは知ってるけど種類が違ったような……ああ、まあ、でもヴィタさんの基準はそれなんだね、怖いか怖くないかって」
「はい」
「てことは怖いものがあるとすれば、それは食えないもの?」
「そういうことになりますね」
「オバケとか」
「霊的なものが可食かどうかは試した者がいませんから、判りません。食べられるのなら怖くはないでしょう」
「おっと、そう返されるとは思わなかった」
「それに、怖いものは、大抵は即物的なものであるものです」
「それはヴィタさんの哲学?」
 是とも非ともつかぬ微笑みを浮かべ、ヴィタはテリーヌの最後の一切れを食べ、
「ニトロ様も平気そうでしたね。飛んでくるのには少々驚かれたようですが」
「ああ、さすがに向かってくるとねー」
「飛ばれなければ大丈夫ですか」
「庭仕事とか手伝ってたから、虫にはわりと免疫があってね。それとゴキブリはバイ菌ともかく刺しもしないし噛みもしないから。だから、怖いのは虫そのものよりそういうことになるかな」
「なるほど。ニトロ様の基準はそれですか」
 ニトロはうなずき、笑った。それから正面に向き直り、
「ハラキリは?」
「ゴキブリ程度を怖がっていたら下水菅の中を這っていくことなどできません。何しろ「話を振った身で悪いがそこまでにしてもらおう」
「おや、これはまだニトロ君には話していないことなんですが」
「今は食事中だし、できればこれからも話さないでくれないか」
「えー」
「そんな心外そうにしても絶対聞かないからな」
 そこで一度話を切り、ニトロもテリーヌを平らげる。前菜はどれも美味しく、この後の料理への期待が高まるものばかりだ。
「……ねえ」
 と、会話の谷間で新たな話題が出てくるのを待つニトロに、ティディアが訊ねる。どうやら高められていた期待の行き場を求めているらしく、やたらと目を輝かせ、
「私には?」
 ニトロはティディアに怪訝な目を向けた。
「何が?」
「私には聞いてくれないの?」
「何を?」
「ゴキブリは平気なのかって」
「平然とナイフで仕留めた奴が何を言ってんだ?」
「それと、怖いものとか」
 ニトロは顔で腕組みをしているような表情を浮かべ、うなる。
「いや、何ていうか……お前に怖いものがあるって想像しづらい。てか、無いだろ、お前に怖いものなんて」
 世間では『無敵の王女』とも呼ばれているティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ。しかし彼女は失礼なとばかりに顔を変え、
「やー、私にも怖いものはあるわよぅ」
「……例えば?」
「私はね、ニトロが怖い」
 ニトロは顔を元に戻し、残っていた根菜を食べた。
 少し考える。
 模範解答としてはオッチゴ説話集の『クッキー怖い』になぞらえてツッコむところだろうか? いや、しかしあれは原本では最終的にクッキーの食いすぎで本当に死んでしまうものだ。そこを切り返されたら抵抗できない上に訳も分からなくなろう。
 ハラキリとヴィタは口を挟まず、どこか心待ちにするようにこちらの言葉を待っている。
 そろそろ次のコース料理がやってくる頃合だ。
 ニトロは残っていた前菜全てを平らげる。
 そして、周囲から尊敬と親しみのこもった眼差しを集めているお姫様を一度見て、天井を見て、小首を傾げ、それからじっとこちらを見つめるティディアを見る。
 彼は、笑って言った。
「馬鹿抜かせ。お前は俺から逃げるどころか、追い払おうともしてくれないじゃないか」

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   大凶

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