中編−3 へ

 ビルとビルとの狭間にある平面駐車場の前で、ニトロは足を止めた。路地裏にぽかりと現れたその空間は、出入り口以外の三方を塀に、さらに外はビル壁に囲まれている。車一台が通れる広さの出入り口には杭型のゲートがあり、ゲート脇の表示板はスペースに空きがないことを知らせていた。
「……よし」
 ニトロは、その中に歩を進めた。
 さながら袋小路のような場所ではあるが、今の自分にとっては有利な場所でもある。
 芍薬が来れば逃げ場がなくなるのは狂騎士達だ。いざとなれば人一人が抜けられる逃げ道はある。持ち主には悪いが車に登り奥の塀を飛び越えれば、そこに見える数十センチのビル間の隙を抜けていける。
 地を乱れ打ち駆け込んできた足音を耳にして、ニトロは振り返った。
 街灯もわずかに、表からこぼれる繁華の光を受けて薄明るい路地を抜け、大男を先頭にして狂騎士達が追いついてきた。
 その数は三十を少し越えたくらいか。アンドロイドの操作やバックアップをしている者も考えると、相当な人数が参加しているようだ。
 表情のない仮面……いや、ティディアへの愛を宣言したきり硬直した顔を並べる一団を見て、ニトロは唇を一文字に結んだ。
 逃げ口を塞ぐよう広がった三十数人の中、一人金色の仮面を被る大男が一歩前に踏み出してきた。
 おそらく『隊長』であろう彼の足の後ろには得意気に揺れ動く尾があった。ミリタリージャケットを着込み、その袖から突き出た太い手首、そして甲にはフェルトのような短い体毛がある。
 狂騎士達のボスは、獣人ビースターだった。
「?」
 ニトロは、激しいデジャヴュを覚えて眉をひそめた。
 隊長……獣人ビースターで、大男……はて?
「追い詰めたぞ、ニトロ・ポルカト」
 含み笑いに咽喉を揺らし、そう言った金仮面の声を聞いたニトロはあっと声を上げた。
「そうか、あんたか」
 そして呆れ笑いを浮かべ、ニトロは腕を組んだ。
「久しぶりだね。隊長さん」
「――!」
「……?」
 ひどく驚いたようにティディア・マニア獣人ビースターが身を引くのを、ニトロは怪訝に思った。獣人ビースターだけではない、背後の連中もざわめいている。
「あれ? 俺、何か変なこと言った?」
 気になって問うと、隊長は慄きに震えた声で言った。
「なぜ判った!」
「いや、判るって。いくらなんでもあんたのことはよく覚えてるよ」
「顔は見えないだろう!?」
「この際、大きな問題じゃないと思うなぁ。背格好とか声とか、ティディア・マイラブ! だとか、特定条件きっちり揃ってるじゃないか。せめて尻尾くらい隠してきなよ」
「しかしなぜ隊長だと!?」
「?」
 その反論に、前回そう名乗っていただろうと言おうとして――ニトロははたと気づいた。
 獣人は勘違いしている。
 彼は現在の自分の呼称を、ニトロに言い当てられたと思っているのだ。そりゃいきなりコミュニティ内での呼称を、外様の、それも『敵』から言われれば驚きもする。
「……こっちには、強い味方がいるんだ」
 だが勘違いで勝手に動揺してくれるなら、そのままにしておこう。ニトロはそれだけを言って、ため息混じりに続けた。
「それにしても懲りないね。あの後、ティディアに絞られたんじゃないのか?」
「貴様また呼び捨てか! ティディアちゃんだ!」
「またその言い合いはしないぞ。いやしてなるかい」
「ティディアちゃんだ!!」
「うおわ!?」
 隊長の怒声にニトロが返した瞬間、隊長の背後に控える仮面達が合唱した。
「そうだ、ティディアちゃんだ!」
 それに鼓舞されたか、俄然隊長が勢いづく。
「我ら王立ティディア親衛隊の前で呼び捨ては許さぬ!」
「許さぬ!!」
「…………」
 随分と揃った声。訓練を……仮想空間ででも積んできたのだろう。
「ティディアちゃんに、怒られなかったのか?」
 肩を落としながら改めてニトロは問い、そしてふと首を傾げた。
「ん? 王立? 前は私立って言ってなかったっけ?」
 ニトロの疑念に、隊長はなぜか誇らしげに胸を張った。
「参謀!」
「はっ!」
 隊長が部下を呼び、それが応える。女性の声だった。徹夜で歌い通した後の声のようにしゃがれている。
 そしてその声を耳にしたニトロの頬が、自動的に引きつった。
「アレを、これへ!」
「かしこまりました!」
 参謀であろう銀色の仮面をつけた女が肩で風を切り、されど微妙に揺らめきながら前に進み出てくる。
 そしてその姿を見たニトロの目が、えらい勢いで血走った。
「こちらです!」
「ご苦労!」
「待てーーーーーーーーーーーーい!!!」
 爆発した怒号が響き渡り、その場にいた皆が身をすくめた。隊長たる獣人も、一様の仮面をつけた狂騎士達も、何やら堅牢な黒い箱を大事そうに手に持ち隊長の左に控えた『参謀』も。
「くぉら王立ティディア親衛隊隊員!」
 びっとニトロに指差され、隊員達が姿勢を正した。
「そして隊長!!」
「はい!」
 次に指差され怒声を一身に浴びて、隊長も気をつけをする。
「お前らが守るのは誰だ!」
「ティディアちゃんであります!」
 皆が声を揃えて叫ぶ。
「じゃあそこにいるのは誰だ!!」
 最後にニトロが指差した参謀を誰もが注目し、そして一斉に首を傾げた。
 全く同じデザインの仮面が揃って呆けたように参謀を見つめ、押し黙る。その沈黙はニトロに返す正答を持たぬためではなく、彼の質問が至極理解できぬというようだった。
「……何を、言っているのだ?」
 ややあって、獣人が応えてくる。
「参謀に決まっているではないか」
「そうじゃねぇだろ! ティディアだ! お前らがマイラブしてやまないティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナ! そいつがそうだろ!!」
 ニトロは相手の正体が狂騎士と確定するまで――もしかするとそれからも頭のどこかでずっと、この件にティディアが絡んでいるのではないかと疑いを持っていた。だが、まさかティディア本人が騒動に参加しているとまでは思っていなかった。
 彼女の病気は本当だ。芍薬が確認を取ったし、その時でさえかなりの高熱が出ていた。だから参加していたとしても病床から指示を出す程度で、狂騎士に紛れているのは変装が特技のヴィタ、それとも彼女直属の兵あたりだろうと思っていた。
 しかしそこにいる参謀、彼女は、間っ違いなくティディアだ本人だ!
 正体を隠そうなんて努力はさらさらない。
 その背格好、肩に流れるセミロングの髪は黒紫色のまま。
 声は風邪のせいでしゃがれているが、どう聞いてもティディアのものだ。てか、ティディアですと主張せんばかりに枯れ声を張り、地声に近づけられてさえいる。
 立ち姿にはみなぎる自信、並べば隊長よりも偉そうに。
 着ている服だって彼女が最近好んでいるブランドで、コーディネートまで同じに揃えている。
 仮面で顔を隠していても判るどころか、むしろティディア・マニアを称するのなら判らなけりゃ恥だ。
「……ふっふっふっ」
 突然、隊長が肩を揺らして笑い出した。つられて親衛隊員達も笑い出し、ついには大声で嘲笑を上げる。
「馬脚をあらわしたなニトロ・ポルカトよ!」
「何がだ!」
「参謀はティディアちゃんではない!」
「いやいやお前、本気で言ってるのか!? 多分何千何万回ってティディアの姿を見てるんだろう!?」
「ああ、見ているとも!」
「ならスタイルも、背も、ファッションも髪も髪型も! 何もかもばっちりティディアじゃねぇか!」
「声が違う!」
「風邪のせいだ! よく聞いてみろそのままティディアのかすれ声だろ!」
「当たり前だ!」
 獣人の矛盾極まりない発言にツッコミ返そうとした時――
「当然よ!」
 意外にも参謀が叫んだ。咳き込むのを懸命に堪えているようだった。
「あたくしはとある貴族の娘。ティディア様に憧れて、ティディア様に近づきたくて近づきたくて……思い切って全身整形したのが一昨年の夏。
 そう、ティディア様と全く同じ体を手に入れたあたくしは、いつでもティディア様の身代わりとして死ぬ覚悟!」
「見事な!!」
 隊長は、感涙にむせんでいるようだ。狂騎士達からも賞賛の声が聞こえる。
 ニトロは……唖然としていた。
「で、声は?」
 なんとか、それだけを問う。
 とある貴族の娘は胸を張った。
「手術失敗! 超絶やぶに当たって手に入ったのはティディア様のかすれ声!」
「哀れな!」
 隊長は、悲涙にむせんでいるようだ。狂騎士達からも同情の声が聞こえる。
 ニトロは膝から崩れ落ちそうになるのを懸命に堪えていた。
 なーんかもう、どうでもよくなってきた。
 狂騎士達に不穏な動きがあると知り、尾行に気づいてからずっと抑え込んでいたものが、音を立てて崩壊していた。
 不安も恐れも緊張感も何もかも飛んでいく。
 緊迫なんかできようもない。
 あー、芍薬がきたら一緒にティディアに脳天チョップでもかましてやろう。
「あのさ、考えようよもっと。不自然だろ? 大体、貴族にまんまティディア・ちゃんなのがいたら話題になるはずじゃないか。てかティディアちゃんも黙ってるはずがないだろう?」
「ばっかもーーーん!!」
「ば……えええええ!?」
「この冷血漢めが! 仲間を信じずしてどうする!」
 熱く隊長が叫ぶ。
 根はいい奴なのかもしれないなあと思いながら、ニトロは嘆息した。
 まあ、それに特別異論はない。いや異論を唱えるよりも、思い切りだまくらかしている『仲間』を横にする彼に、むしろ同情が先に立つ。
 うまく言いくるめられたのだろう、あいつに。
 ニトロの鋭い眼差しを受ける参謀ティディアは沈黙したまま……熱が下がりきってないらしく、どことなく足元を浮つかせて佇んでいる。
 まったくそんなに無理してまで、一体何が目的で騒ぎに加わっているのだこのバカは。
 これでは――例えば、自分を危機に陥れておいて助けに来る、なんてヒロイン気取りももうできない。他に何か大きなメリットが彼女にあるとは思えないのだが……
「しかし……よもやティディアちゃんの声の真贋しんがんもつかぬとは呆れ果てる」
 頭を振って言う隊長の後ろで、ため息が群れをなしていた。
「ニトロ・ポルカトよ」
「なんだよ」
 もはや完全に危機感を失ったニトロはやさぐれ気味に応えた。
「これを聞けば、いくら愚鈍なる貴様の記憶も女神の声を思い出そう。
 そして、我らが『王立』なるを認めるだろう」
 隊長はニトロの不機嫌に全く気づかず悦に入った口振りで告げると、左手首の腕時計型の携帯電話を操作した。すると、参謀が持つ箱の上部に応答を示す光が走った。
 その箱にニトロは見覚えがあった。大切なメモリーカードを半永久的に保護する、対衝撃防水防火に優れたセーフボックスだった。
「心せよ」
 獣人が腕時計をまた操作する。そして、『声』が再生された。
「――ニトロを襲ったのはいけないわ。もう二度としないでね? 今回は許してあげるから」
 それは、ティディアの声。
 とても穏やかで温かみを帯びた――ニトロからすれば決して気を許してはいけない声が、箱から形無きラインを通り音量も特大に隊長の左手首から溢れ出していた。
「でも……ありがとう。私のためにそこまでしてくれるのは嬉しかった。これからも私のこと、よろしくね」
 そこで『声』は途切れた。感じからすると留守録にでも吹き込まれた言葉だろうか。
 しかしなるほど。確かに『襲撃』を行いながらもこんな優しい言葉を愛しい女神からかけられれば、舞い上がるのも納得できる。そしてティディアから直接かけられた肉声を持っていれば、『バカの馬鹿マニア』の中では格別に注目の的だろう。
 だが、それだけでこんなにも多くの狂騎士を部下とできるだろうか。
「どうだ!」
 叫ぶ隊長の金仮面の下、あの怒りに満ちた表情しか記憶にない獣人の顔が、至極誉れに蕩けているのが見えるようだった。
「これぞ我が活動を、ティディアちゃんがお認め下さった証拠!」
「もいっちょ待てーーーーーい!」
 さすがに看過できず、ニトロはなおも誇り高く言わんとする隊長を制した。
「どうしてそうなる? そのバ……ティディアちゃん、一言もあんたの活動認めるなんて言ってないぞ!?」
 ニトロは参謀を睨みつけた。参謀――ティディアは、その視線に硬直していた。
「貴様の耳は節穴か! 言っていたではないか、『よろしくね』と!」
「うん、言ってたけど!」
「それはつまり、これからも親衛隊として守ってねということではないか!」
 ニトロは愕然とした。
「いや、え? どうしたらそう解釈できるの?」
 ティディアの言葉は曖昧で、そう解釈することもできるのかもしれない。だが『ニトロを襲ったこと』をしっかり否定していたことを考えれば、あれは明らかに支持者に対するただの社交辞令だ。
「やはり貴様の耳は節穴だ。いや、さすがは心腐った下衆、ということか」
 困惑するしかないニトロに、隊長は最大のさげすみを吐き出した。
「愛を持ってして聞けば、本当は恥ずかしがり屋なティディアちゃんが言葉の裏に秘めた真意を感じ取れるはずだ。
 つまーり、貴様がそう感じられないのは、ティディアちゃんを愛していないからなのだ!」
「ぃや……そう言われるともう『愛』って電波受信機ですか? としか……
 てか、二度と俺を襲うなって言われてるのは何でスルー?」
「ティディアちゃんを悪魔の手から守るため、その愛のためならば女神の意志に叛き罪も背負おう!」
「えっと……それは愛を便利に扱いすぎじゃあ……」
「愛の可能性は無限! 便利も何もない!」
「そうかなあ、結構不便なものだと思うんだけど」
「若造が知ったようなことを言うな!」
「…………」
 そもそもその『愛』のために自分はこうして迷惑を被っていて、ティディアに『愛されて』からというものこんな目に会い続けているのだ。
 愛に無限の可能性があるのなら、どうしてこんなにも一方通行なことばかりこの身に降り注いでくれるのかと叫びたくもなるが、それを言うと虚しくなるだけなのでニトロは口をつぐんだ。
 それを隊長は、ニトロが自分の言い分を肯定したと受け取った。
「まあ、貴様が何を言おうとも本来問題ではない」
 腕を広げ、背後の揃いの仮面をつけた仲間を誇るように彼は言った。
「このティディアちゃんの言葉を聞き、我が親衛隊に賛同した親愛なる部下達がいる限り、貴様がいくら否定しようとも我らが、我らが女神に注がれた愛は存在するのだから!」
 言ううちに心が高揚してきたか、獣人の声に熱がこもった。
「我が親衛隊はティディアちゃんに認められた――つまり唯一の!」
「王立ティディア親衛隊!!」
「なのだ!!」
 親衛隊員達の名乗りを受けて、血気盛んに隊長は腕を振り上げた。
「そして我等はニトロ・ポルカトに要求する!」
 狂騎士達が声を揃えて叫ぶ。
 隊長も拳を握り渾身の声で叫んでいる。
 その隣にいる参謀は静かに、ニトロに仮面に覆われた顔を向けていた。
「ティディアちゃんと別れよ!」
 その声は路地裏に、ニトロが逃げ込んだ駐車場を囲むビルの壁に反響し、四方八方から音の洪水を引き起こした。
「我等はニトロ・ポルカトに要求する!」
 鼓膜が痛い。
「ティディアちゃんに自ら別れを告げよ! 我等に脅され、嫌になったとそう告げるのだ!」
 腹の底に重みが響く。
「我等はニトロ・ポルカトに要求する!」
「涙目で、無様に、ティディアちゃんにすがりつくのだ! 結婚など言語道断! 別れなければ己がどうなるか分からない、保身に走りティディアちゃんを心から失望させるのだ!」
 心が震えた。
「我等はニトロ・ポルカトに要求する!」
「本日は警告で留めよう……しかし! 明日までに要求を呑まぬなら、天に代わり罰を与える! その汚れた身に我らが鉄槌を――打ち込んでくれる!」
「幾たびも!」
「女神を解放するまで我らは幾度でも貴様の前に我等は現れよう! よく覚えておけ、ニトロ・ポルカト! 例え貴様が悪臭放つ臓腑をその口から吐き出そうとも!」
「我らが怒りは!!」
「尽きることなく貴様に天罰を!!」
「だーかーーらーーー!!!」
 とうとう――
 ニトロは我慢しきれず、地団太を踏んだ。
「俺はあいつと付き合ってないって色んなところで明言してるだろうが! お前らの要求は初めっから的外れだって何で分からないんだ!!」
「そんなことは知らん!」
「なんで!?」
 そっぽを向いて隊長が言う。
「貴様に興味はないからだ!」
「うっわ身も蓋もねぇ!」
「そもそも貴様の言葉など信用できぬし!」
「そーれなら信用するまでいっくらでも何度だって言ってやる! 俺はあいつと付き合っちゃいねぇ! お前らの女神に誓ってもいい! 徹底的に恋人じゃなーーーい!」
 その言葉に獣人の腕が戦慄わなないた。
「では貴様は……そんな……恋人でもない野郎が、ティディアちゃんの胸……胸に顔を埋められるというのか!」
「? …………ああ、『銀行』の一件か。って、まさかあれが羨ましいってのか?」
「羨ましい!」
 狂騎士達も色めき立ち、さんざめく。ニトロに向けて罵声を上げて、隊長を支持し、憎むべき『ティディアの恋人』にプレッシャーを与える。
「あのな、あれで俺は窒息しかけたんだぞ!?」
「う、羨ましすぎるではないか!」
「あーもー」
 ニトロは頭を掻き、そして叫んだ。
「そんなに羨ましいんならいつでも代わってやるってんだ!」
 ニトロが上げた怒声に、突然、沈黙が訪れた。
 それは、沈黙と言うには冷た過ぎる静止だった。
 空気は切れる寸前までに引き伸ばされたようで、それに触れる肌が痛い。
 王立ティディア親衛隊隊長たる獣人、部下たる狂騎士達、仮面に隠れて顔が見えなくとも、その全身から放たれる怒気が殺意を帯びたとはっきり知れる。
 やがて誰かが何かを言った。
 ニトロにはよく聞こえなかったその言葉は、感情の奔流を押し込めていた沈黙という堤防に穴を穿ち、そして――激怒がニトロに浴びせかけられた。
「……貴様、今なんと言ったあああ!!」
 怒りに沸き立ちニトロににじり寄る狂騎達士の中、先頭に立つ隊長が咆哮を上げる。
「それは騙されているとはいえ、貴様を、愛している……我らが女神の心を踏み躙る言葉だ!!」
 ニトロは少しずつ押し寄せてくる怒りの波から逃れるよう、駐車場の奥へ後退しながら胸中でうめいた。
(――しまった)
 反射的に言った言葉が相手の神経を逆なでする言葉だったと、緊張と緊迫を取り戻した今さら思い至る。
(地雷を踏んだ!)
 ティディアが現れたことで悪い方向に心が緩んでいた。
 脅しの電話でボスと思しき人物が激昂しやすいタイプだと気づいていたのに、慎重を欠いていた。
 少しの警戒があればこんな『ティディアの恋人』でなければ言えないセリフを、それも奴らからすれば優越感にまみれたセリフを吐くことは決してなかったのに!
(どうする?)
 このままでは袋叩きだ。
 芍薬に『待っている』と言い聞かせた手前もある。ここで怪我でもすれば変に責任を感じさせてしまうかもしれない。芍薬はもういつ追いついてきてもいい頃、なんとかそれまで時間を稼がなければ。
(逃げるか)
 幸い隊長は、それに導かれる部下達の歩はまだにじり寄ってくる程度だ。このまま距離を保ったまま全力でなだめすかしつ逃げ道に近づき、機を見て踵を返――
「隊長! 怒りの鉄槌を、あなたのその豪腕で!!」
(うわ何煽ってやがる!)
「天罰を!」
 ずっと沈黙していたティディアが、ここぞとばかりにかすれた声を張り上げて獣人を煽った。ティディアの声に良く似たその声に押され、獣人は興奮の度合いを増している。肩を怒らせ、ニトロに向けて大股に歩み迫ってくる。
「そうだ、天罰を!」
 狂騎士の誰かが叫んだ。
 参謀がまた煽る。
「そうよ、天罰を!!」
 憤怒を纏い近づいてくる獣人から受ける重圧は、以前にも増して強烈だった。
「天罰! 天罰!! 天罰!!!
 取り巻く狂騎士達は先陣を切る隊長を、参謀につられるように声を上げて後押ししていた。
「天罰! 天罰!! 天罰!!!
「天罰! 天罰!! 天罰!!!」「天罰! 天罰!! 天罰!!!
 完全に、おそらくはこの中で最強であろう獣人の大男に、『ニトロ・ポルカト』への制裁を一任している。
「天罰! 天罰!! 天罰!!!
    「天罰! 天罰!! 天罰!!!
 「天罰! 天罰!! 天罰!!!
「天罰! 天罰!! 天罰!!!」 「天罰! 天罰!! 天罰!!!
 「天罰! 天罰!! 天罰!!!」  「天罰! 天罰!! 天罰!!!」「天罰! 天罰!! 天罰!!!」 「天罰! 天罰!! 天罰!!!
  「天罰! 天罰!! 天罰!!!」「天罰! 天罰!! 天罰!!!」「天罰! 天罰!! 天罰!!!
 大合唱が生み出す雪崩に巻き込まれたような圧迫感に身を叩かれながら、ニトロは歯を噛み締め脳をフル回転させた。
 もはやなだめることもすかすこともできなさそうだ。迫る獣人は止められまい。
 ならば、
(やっぱ逃げ?)
 いや、もう遅い。逃げを打つ機はティディアに盗られた。あいつはこちらの思考を見透かしたように絶妙なタイミングで煽りをかけてきた。それに気を取られてしまったせいで、すでに獣人との間合いが縮まりすぎている。
 それだけではない。逃げる素振りを見せれば、煽る参謀に引きずられ、今は隊長を鼓舞するだけでいてくれている親衛隊員達をいたずらに刺激してしまう。
 激情がそこかしこで渦巻いているのだ。叫びは叫ばれる度に熱が増し、己らの雄叫びに彼ら自身が勢いづいているのが肌に響く。ほんの少しの一押しがあれば、堰を切って隊長と共に襲い掛かってくるだろう。
(選択肢は)
 考えられるのは
 芍薬が来るまでどうにかして時間を稼ぐ。
 何かしらの手段で相手を呑み、隙を作る。
 思うように殴らせて、相手を満足させる。
(ええい!)
 獣人が拳を握った。
 ニトロは大きく後退しながら、砕けそうになる膝とすくみそうな肩を張り、構えを取った。
(一か八か!)
 その時だった。
『体が硬い!』
 まるで以前、この獣人ビースターに襲われた時のように、先生の声が脳裡に響いた。
『肩の力を抜く!』
 反射的に、体から余分な力がふっと溶け消えた。
『さあ、まずは集中』
 それは稽古をつけてもらっていた時、いつか言われたことだった。
『目だけ先に逃げちゃ駄目です。相手をよく観て――』
「ニトロ・ポルカトォォォォ!!」
 獣人が獰猛にえた。
 怒りに任せて地を蹴り駆け込んでくる。
 その渾身と握られた右拳を頭の後ろまで大きく引き絞り、
(あ、テレフォン
 もしもしこれからパンチを打ちますよ〜と、獣人は示していた。
 自分のものより二周りほど大きい獣人の拳を、まともに食らえば怪我では済むまい。
 だがニトロは、自分でも驚くほど平静な心でそれを見ていた。
 『格闘プログラム』で脳と体に刷り込み、繰り返し『トレーニング』で血肉と骨と心に叩き込んだ動作に身を任せ、左に踏み出す。
 ニトロの右耳の向こうを豪腕が通り過ぎ、勢い余って獣人は体ごと彼の脇を抜けていった。
(左かな)
 渾身の一撃をかわされた獣人は首筋を憤激に引きつらせ、己の右手に回り込んだ標的を打とうと左の拳をまた大きく引き絞った。
 予想通りのパンチを全身に染み込んだ体捌たいさばきでかわし、獣人の左側面、彼が最も攻撃しにくい角度のスペースに身を入れる。
(遅い)
 いつも戦っている『敵』はもっと速い。にこにこ笑いながら遠慮なく叩きのめしてくれるトレーナー、友人に対して容赦のないハラキリ。
 獣人は彼らと比べようもなかった。何もかもが大雑把過ぎる。以前と変わりない、いや以前にも増して隙だらけと判る、成長のない攻撃。
 ニトロは――
 本当は獣人一人を相手に逃げ続け、できる限り時間を稼ぐつもりだった。
 だが、彼の体は懸命に覚えてきた動きのままに、今やごく自然と攻勢に備えていた。
(右)
 二度も拳をかわされた獣人はむきになり、肩だけでなく全身に力が入り過ぎている。
 今度こそとさらに力任せに、右手で殴るには殴りにくい位置にいるニトロを追って体ごと腕を振り回してくる。
「フッ!」
 ニトロは小さく息を吐き、そこにカウンターを放った。
 獣人の懐にもぐりこみ、攻撃をもらわぬよう頭を下げて、大男の顎に向けしなやかな力で右拳をぶち込む!
 !!
 骨と骨がぶつかる感触がニトロの腕に伝わった。
 渾身のパンチを放ったところへ綺麗に顎を打ち抜かれた獣人はうめく間もなく尻餅をついて倒れた。
 大男が倒れる鈍重な音はやけに大きかった。一拍の間を置いて何か硬いものがアスファルトに落ち、その音がビル壁に当たりこだました。
 落ちたのは、隊長がつけていた金色の仮面だった。それは二・三度跳ねると未練もなく地に伏せ、黒い舗装の上でそれきり動かなくなった。
「――――――?――――――」
 沈黙が、訪れていた。
 先ほどの沈黙とは違う、戸惑いに満ちた静寂が仮面の奥から声を奪っていた。
 ニトロは周囲を見回した。
 隊長が、天を仰ぎ大の字に倒れている……どうしてそうなったと理解できぬのか、それとも目の前で起こったことを理解したくないのか、この上なくうろたえている狂騎士達が、ニトロの視線を避けるように身を縮めている。壮絶な瞬間を目の当たりにし、彼がいつか『狂戦士』と称されたことを思い出したようだった。
 萎縮する狂騎士達の様子に、相手が完全に呑まれていると確信したニトロは、最後に彼女に目を留めた。
 一人だけ集団から数歩前に飛び出ている銀色の仮面は、じっとニトロを見つめていた。
 彼女はふらついている。
 先ほどまでの足元が浮つく程度ではない。まるで支柱が折れたように揺らめいている。
 ニトロは内心に嘆息を吐き、意識の飛んだ瞳で空を見ている獣人を視界に置きながら、そちらへと歩いた。
「うぬ!?」
 獣人が気を取り戻し、疑念の声を上げた。体を起こしてなぜ自分が倒れているのか解らない顔で周囲を見、そして去ろうとするニトロに気づいて叫んだ。
「待て! どこへ行く!」
 立ち上がろうとする獣人の、露になったその顔が以前と変わらず怒りの形相であるのを横目にニトロは言った。
「無理はしないほうがいいよ」
「無理などしておらぬ!」
「ダウンしていたのに?」
 苦笑混じりにニトロに言われ、そして立ち上がろうとした途端また尻餅をついた獣人は、笑う膝にようやく何が起こったのか悟らされた。地に落ちた仮面を見て己の顔面を初めて改め、それから慌てて部下達を見る。
 誰も、何も言えなかった。
「おのれ!」
 羞恥を激昂で拭おうとする絶叫が、耳をつんざいた。
「これではティディアちゃんへの愛が……! ニトロ・ポルカト!」
「その気持ちは伝わってるんじゃないかな」
 苦笑いを消さず、代わりにその声に労わりが加えられたニトロの言葉に、震える足で必死に立ち上がった獣人は目を見開いた。
 あっと、誰かが声を上げた。
 ふらついていた銀の仮面――参謀の体が、ぐらりと大きく傾いだ。
 あの女神の声を守る黒い箱が彼女の手からこぼれ、アスファルトに硬い音を落とした。
 そこにニトロの手が伸びた。彼は倒れこんできた彼女の体をしっかりと受け止め、支えた。
「まあ……さ」
 そして、ニトロは息を飲んで参謀を見守る親衛隊員達を、隊長を、順に見た。
「俺を嫌うのも、ティディアと別れさせようとするのもいいけどさ。
 それより仲間の不調にくらい気づいてやりなよ」
 ニトロはしなだれかかってくる彼女を背に負った。
 誰かが何かを言おうとするよりも早く、ニトロは言った。
「酷い熱だ。この人は俺が責任を持って医者に連れて行く。ちょっと……今のあんた達には任せられないから」
 隊長――獣人の大男が少年ニトロに倒された衝撃、さらに倒れた仲間を敵に助けられたという事実が固めたこの優勢を失わぬよう、ニトロは余裕すら見せて穏やかに言い続けた。
 しっかりとティディアを背負い、少しだけしがみつくように彼女の腕に力がこもるのを感じながら、立ち上がる。
 彼はゆったりと駐車場の出入り口に向かった。
「それと、あんた達の身元、調べようと思えば調べられるけど……まあ、今回は見逃す」
 気圧されたように、また降参したように道を開ける狂騎士達の間を歩き、駐車場を出たところでニトロは振り向いた。
 誰も何も言わない。獣人も毒気を抜かれてこちらをただ見つめている。
 そしてニトロは、考えうる限り最も恐ろしい表情をその面に浮かべた。
「ティディアにも手出しはさせないから、安心していいよ」
 にっこりと笑ったニトロの言葉は、言葉とは裏腹に死の宣告にも似た意味を含み。
 彼が倒れた参謀なかまを連れて去った後、この場に残ったのは――
 沈痛、それだけだった。

中編−3 へ   後編−2へ

メニューへ