「主様、起キテ。朝ダヨ」
穏やかな声がまどろみの中に優しく、次いでカーテンレールをコマが滑る小気味いい音が耳をくすぐった。
朝の光が瞼の奥に沁み込んでくる。痛みにも似た眩しさに目を擦り、ニトロはむくりと体を起こした。
「――」
ぼんやりと呆けたまま毛布がかかる自分の膝を見る。
はつらつとした光に照らされる視界の隅を、カーテンを開いた
「……」
何気なしにそれを目で追うと、
「…………」
差し出されたコップを受け取り冷たい水を一口含む。霞みがかっていた脳裡に光が射した。
一口飲むたびに頭の中は晴れ渡っていき、ゆっくり一杯飲み切った頃には完全に目も覚め、ニトロは人心地の吐息をついた。
「おはよう、芍薬」
「オハヨウ、主様」
ロボットアームはレンジのスイッチを押さなかったが、芍薬に直接システムを動かされたレンジはすぐに食パンをトーストし始めた。
テーブルにサラダが置かれるのを見ながら、コップを持ったニトロは冷蔵庫を開いてハムと卵を取り出した。
芍薬はすでにフライパンをクッキングヒーターの上に置き、油を温めてくれていた。そこに少し厚切りのハムを二枚、それから卵を片手で割って落とす。ジュウシュウと、いい香りが立った。
ニトロは卵の殻をシンクのディスポーザーに放り込み、手を洗うついでにコップに水を注ぎフライパンに適量加える。待ってましたとロボットアームがすぐに蓋をした。景気よく水と油の喧嘩する声、水が弾けて湯気と煙る音がキッチンを賑やかした。
目玉焼きは半熟が好きだ。
ちょうどの焼き時間は芍薬が数えてくれている。
ニトロは冷蔵庫から牛乳瓶を取り出した。それと食器棚からフォークとバターナイフを取り出し、一緒にテーブルへ持っていく。
食器をテーブルに無造作に並べて、昨日配達されてきたばかりの新鮮な牛乳を、朝の爽快感を存分に味わいながらコップに注ぐ。
「主様」
芍薬の合図を受けてニトロはキッチンに戻り、芍薬が用意していた二つの皿の片方へ抜群のタイミングで火から下ろした目玉焼きを盛り付けた。
ややあってトースターも調理完了の音を鳴らした。
ニトロがトーストを取り出している間に
「いただきます」
テーブルについたニトロはトーストにバターを塗り、目玉焼きにソースを垂らした。寝ていた間に空となった胃が早く早くと食物を待つ。さっそく彼はトーストにかじりつき、安価ながらも十分な香りを持つバターの味に舌鼓を打った。
「ソウソウ、バカ姫ガ風邪ヒイタッテ」
「?」
ニトロは芍薬が何を言ったのか一瞬理解できず、しばらくトーストを咀嚼しながら頭の中でその言葉を反芻した。
「…………あ、ティディアが?」
初めは『馬鹿は風邪をひかない』という言い伝えを芍薬が何かに洒落たのかと思ったが、ようやく理解が追いついた。
バカが風邪をひいた。
言い伝えとは逆の言葉に戸惑ったのもあるが、それより体調管理も完璧なティディアが風邪を引く、ということ自体が考えの外にあった。そもそも彼女が風邪をひいたなど、覚えている限り初めてのことだ。
「なんでまた」
「原因不明。流行性感冒デハナイミタイダヨ」
「となるとまあ……風邪の原因なんて色々か。ニュースは?」
「ドコノチャンネルモトップデ扱ッテル」
壁掛けのテレビモニターに電源が入り、各局のニュースチャンネルに次々と画面が切り替わる。芍薬の言う通り、どの番組でもティディアの病気が報じられていた。
「……同じような内容ばっかりか……」
「御意」
最後に画面に現れたのは、自分との『独占インタビュー』で一躍名を上げ、
その顔は真剣さを表しているのか、それとも重大な緊張を押し潰し切れずにいるのか。どちらともつかない造り顔の彼女は声も固くして、そのせいで流暢とは言いがたい口でティディアの病状を説明している。
(相変わらず……)
実力の不足が、あからさまに露呈しているとニトロは思った。
『独占インタビュー』で名を上げたのはいいが、それからサブキャスターなどで経験を積むこともなく単独で番組を持ってしまったのは、彼女に取って不幸なことだったかもしれない。
たまにキャスターとしてのジョシュリーの評価を目にすることがあるが、どれも芳しくないものばかりだ。自分が見ていてもニュースの詳細を専門家とやりとりする時のコメントはピンボケが珍しくなく、またよくとちりもする。
ジョシュリー本人はそのあたりに気を回してはいないのか、今が絶頂とばかりに活き活きとしているが……
(周りにいい『先生』がいればいいけどね)
例えば自分にとってトレーニング中のハラキリのような、歯に衣着せず欠点を的確に指摘してくれる人がいれば、彼女も実力を必要なレベルへ持ち上げて立派なキャスターになれるだろう。
そうでなければ、いずれ多くの同僚や新人に追い抜かれてしまうだけだ。
「もう切っていいよ」
「承諾」
結局ティディアの風邪の原因は特に伝えられていない。判ったのは、発病が南極圏の都市へ『視察』へ行った後ということだけだ。
「寒いところに行ったくらいで風邪ひくほど、やわな奴じゃないけどなあ」
昨夜作っておき、さっき芍薬が鮮度を戻してくれていたレタスサラダを、シャモシャモと頬張りながらニトロはつぶやいた。
『風邪』は現在でも最も身近で治りにくい病だ。人間である以上ティディアが罹ってもなんらおかしくはないが、それでもすんなり受け入れるには疑いが残る。
「……仮病じゃないよな」
「確カメテミヨウカ?」
「うん、よろしく」
「承諾。行ッテクルネ」
目玉焼きをフォークで切るといい具合に半熟の黄身がとろりと、香ばしく焼けたハムにこぼれた。それをハムによくまぶし、白身と合わせてバターを塗らなかったトーストに乗せ、そして大口を開けて齧る。
「――エエット」
至福を味わいながらトーストを食べ終えた時、ホットラインを通じて王家へ調べに行っていた芍薬が戻ってきた。
「風邪ニ……間違イナカッタヨ。ケッコウナ熱モ、出テル」
芍薬は珍しく困惑しているようだった。ニトロは芍薬の
「どうした?」
「原因、ハッキリ判ッタンダケド……」
「うん?」
「馬鹿ナモノ持タサレチャッテネ、エット……――見セタ方ガ早イネ」
芍薬は言うや、テレビモニターにそれを映し出した。
ニトロは何やら妙に明るく輝くモニターに緩慢に目を転じ――言葉を失った。
「ぅぁ…………」
テレビモニターを銀色に輝かせる、一枚の写真。
そこには雪に覆われた極圏の針葉樹林を背景に、キラキラと輝く――ダイヤモンドダストだろうか、薄い氷霧の中で満面の笑顔で飛び跳ねる白いビキニ姿の女性がいた。
ティディアだ。
白磁の肌が氷霧を輝かせる薄日を浴びて、真珠のように輝いている。
なかなか強い風が吹いているらしく、煌めくダイヤモンドダストに包まれてなお艶めく黒紫の髪が、なびき乱れて零下の世界に映えている。
ティディアだ。
このバカなにを極寒の中、ビキニ姿で飛び跳ね朗らかに笑っていやがる。
ティディアだ。
お前は一体、何をしたいのだ。
白いビキニは、ああ、正直良く似合っている。
だけどもうなんちゅーか、呆れが先立っちゃってツッコム気力も萎え萎えです。
「ファイル名:『親愛なるニトロ様、極寒の地からエロスを込めて』」
芍薬が、ニトロと同じ気持ちなのか抑揚のない声で言った。
「コンナ写真集作ッテリャ、ソリャ風邪モヒクヨ」
ニトロは眉間の皺を指で叩いていた。
バカだアホだと思っていたが――いや、だからこその真骨頂か。
「アト、メールガ添付サレテル」
「何て?」
「見舞イニ来テッテ」
ニトロは頬を引きつらせ、鼻で笑った。
「件名:拒否
本文:断固拒否」
「承諾」
「それとこの写真集、
「承諾」
テレビモニターから笑顔輝かせるティディアが消えた。
ニトロはため息をつき、レタスサラダを口に運んだ。
「ん〜?」
何故だろう。さっきまで美味しかったのに、味がしない。
皿の底に残るドレッシングの残滓を見ながらレタスを飲み込み、脱力した声でニトロは言った。
「ティディアが回復するまで学校休むよ」
「御意」
芍薬は理由を
学校に行けばティディアの誕生日――彼女がその日に結婚すると宣言した『約束の日』を間近にした今、いつにも増して面倒臭いことが起きることは分析するまでもなく断定できることだった。
「ソレジャ、今日ハドウスルンダイ?」
芍薬に問われたニトロは少し考え、やおらフォークをぷらぷら振りながら言った。
「大人しく閉じこもっておくよ。
芍薬、久しぶりにゲームでも一緒にやろうか」