6-a へ

 進路を王城へと変更した車の中、ハラキリはA.I.達と話していた。
「イイノカ?」
「さぁ、ね」
「オイオイ。バカ姫相手ナンダゾ? 会イニ行クダケデモ自殺行為ダッテノニ」
「会いに行かなくても、一度でも接触する可能性は極めて高い。会えば結果は……変わらないと思うからね、こうなったら行くも逃げるも変わりはない」
「復讐……ニトロ様ニ、本当ニ殺人ヲ犯サセテモ宜シイノデスカ?」
「仇討ちはブシの美学だそうだよ」
「ニトロ様ハぶしデハゴザイマセン。例エ依頼主様相手デアロウト、誤リハ正スコトガ道ト、教エモアルハズデス」
「善悪から正誤を見定められる状況であればね。だけど今はそうじゃない」
「デスガ司法ノ場デ戦ウトイウ選択ガ、マダ」
「法廷は今となっては無理だ。検察や弁護士が『おひいさん』に敵うとも思えないし、例えニトロ君を誤魔化して誘導したところで、依頼人をわざわざ負けが決まった死合いに出しておきながら自分は正しいことをしました、なんてそれこそ拙者の道に反する」
「本当ニ負ケガ決マッテイルノカ? オ前ガヤロウトシテイタ手モ残ッテイルダロウ」
 ハラキリは、ニュースを映すモニターを消す間際、ニトロの素性に対する推理ショーが始まっていたことを思い浮かべた。すでにでたらめな情報が乱舞し、『犯罪者』のイメージが幾つも創作されているだろう。全く裏目の状況だった。
「マスメディアや世論を動かそうにも、さっきの件がすでに劇化されて楽しまれている。それを利用するにもおひいさんの側に分がありすぎる。ニトロ君をはめた確たる物証か、それこそお姫さんの自供でもなければこっちは後手のまま。きっと裁判官も陪審員も『王女』の勝ちを支持する。最悪、逆にニトロ君が有罪を受ける可能性だってある。王族への暗殺未遂とか、まあ、さっきの件を理由に」
 ニトロが『気がつかされた』ことも、裏目だった。いや、致命打と言ってもいい。策が成功していれば神剣ともなる『気づき』だが、今はただの諸刃の剣、あるいは己の命を引き換えにしなければ敵を斬ること叶わぬ魔剣でしかない。
 同時に、こちらの動向を限りなく既定する強大なくさびだ。
(必殺の切り返しの失敗に、加えた一打で足を止め、後はトドメを刺すばかり……。
 そりゃおひいさんも余裕なわけだ)
 ハラキリの唇は歪んでいた。苦く。
「正直、さっきニトロ君が先の依頼を撤回しようとした時点で拙者は負けているんだ。残念だけど、本当はもう依頼も何もない。拙者には、彼に出せる口はない」
 ハラキリの声は冷静だった。自分のできる範囲を正確に把握し、出した結論をただ口にしていた。
「ソレナラナンデ退カナカッタ。オ前コソ、ワザワザ『追加』ナンテ誤魔化シテヨ」
「意地、かな」
「ソレハ役ニ立タネェッテ教エダロウ」
「拙者は未熟ということだね。それともこの仕事が向いていないのか。
 なんにしても、後戻りだって出来ないんだ。それなら依頼人に最後まで付き合うよ」
 言って、ハラキリはおかしそうに笑って、ふと真顔に戻ると「それに」と付け加えた。
「ニトロ君の心情も察せるだろう? 彼が受けたことを考えれば。それに……なんだろうね、依頼人にこういう感情持つのはいけないけど……
 あわれに思う」
 ハラキリは助手席を見た。そこでは、ビキニパンツ姿のニトロが、何本ものコードがつながったフルフェイスのヘルメットをかぶ被り、体中に電極をつけている。
 仮想世界での格闘トレーニングプログラム。短時間で、素人も『それなり』に動けるようになる。彼は今、全身に汗をしたたらせて、頑張っている。
「彼は、おひいさんに、本当に何もかも奪われたんだ」
「……」
「ダガ、間違イナク重罪ダゼ? 王族ニ手ヲ出セバ」
「死罪、だよ。理由はどうあれ、殺したら間違いなく」
 ハラキリはそこでふむと唸って、
「そうなったら『安全確保』の契約も生き返るな」
 と、つぶやいた。韋駄天は呆れ声を出した。
「殺セルカ? バカ姫、戦闘スキルモ並ジャナイダロウ?」
「分からないよ」
「分カラナイモンカ」
「……窮鼠きゅうそ猫ヲ咬ムト? ハラキリ様」
「しかもそのねずみ、今は殺意に満ちている。本人はまだちゃんと実感していない口ぶりだったけど、まるで劫火みたいな殺意だ。震えが来るよ」
「ソノ感覚、私達ニハ分カリカネマスガ……」
「マァ、ハラキリガソウ言ウンナラ、凄マジインダロウナ」
 ハラキリはダッシュボードからアイマスクを取り出した。王城に行くのは、6時間後の予定だ。それまでにニトロには、格闘技術の他にも色々と覚えてもらわねばならないことがある。
「あ、韋駄天。エアコンの調節しっかり頼むよ。ニトロ君が風邪をひくといけない」
「了解」
「撫子も、頼んだプログラムよろしく」
「ハイ」
 ハラキリはシートを倒し、アイマスクで目を覆った。
「心配ありがとう。まぁ、殺し合いになると決まったわけじゃないし、なんにしても何とかするから、安心しておいてよ」
「分カッタ。ソノ言葉、信ジルゼ」
「家デオ帰リヲ待ッテイマスネ」
 ハラキリは微笑んで、深く息を吐いた。
 やれやれと思う。
 今やティディアの思惑が解る。これまでの王女の行動に覚えた疑念も、釈然としなかった事態も、全てが合致して一つの『答え』を指示している。それはあくまで推測の域を出ない。だが、ほぼ確信できる。
 ティディア姫は、ニトロを心底怒らせたいのだ。
 一方で、確信したが故により強まる疑問もある。
 なぜそうしたいのか。なぜニトロを選び、彼を怒らせて一体何を果たそうというのか。
「……いや」
 ふと『推測』を始めている自分に気がついて、ハラキリは失笑した。
「その答えは、訊けばいいか」
 幾つか想定することはできるが、まともな方向に考えればいいのか、馬鹿クレイジーな方向に考えればいいのかが判断できない。判断できたところで、今更状況をいかほど変えられるというのか。
 それはどこまでも『推測』でしかなく、依頼人の気を変えることはできないだろう。依頼人は『真実』を求め、怒りをもって会いに行く。
 それもまたティディアの思惑通りだと、また確信が去来する。
 自分たちはまさに口をあけて待つ猫の前に赴くネズミでしかないのだ。
 そしてもし、ニトロが殺意の道を選べば、その結果がどうあれ先に待つのは地獄だ。
(その時は失脚させられた姉姫でも利用してみようか)
 ため息混じりにそんな解決策を考える。王族殺しは許されざる大罪だ。だが、それが同じ王族の手による『粛清』ならばことは変わる。
 ニトロが仇を討ち取ったときは、その『手柄』を献上して復権の道筋としてやればいい。
 ニトロが返り討ちにあったときは、その『証拠』を携え事件に対する義憤を演出してやればいい。
 どちらにしても……依頼人の仇討ちは成し、彼に未来の道標と、それとも墓標に手向けと記そう。
 ティディアに王位継承権を奪われ、今は彼女を恐れて隠遁生活を送る姉姫が、恐れながらも王位継承者に返り咲く機会を耽々たんたんと窺っているという噂。それが事実確かなものだということは、信頼できる情報として聞いている。
 きっと、いや、確実にこちらの提案に乗ってくるだろう。
 ――もちろん、『そこまで逃げられれば』の話ではあるが。
(一応、その手も用意しておかないと。しかし初めっから大変な仕事が舞い込んできたもんだ)
「ぅをんぱサーーーーーーーーーッッッ!」
 プログラムが佳境に入ったのだろう、ニトロの奇声に笑って、ハラキリは浅い眠りに落ちていった。

 街灯に引き寄せられた羽虫が数匹、光に酔い狂って不可思議な軌道を描き続けている。
 背後には無機質なビル群がある。
 目前には濃密な生気が木の影を作って立ち並んでいる。
 王城を囲む広大な公園の外側、灯の消えたビルの裏の暗がりの中に、二人はたたずんでいた。
 他に人影もない。ずっと向こうに交通量の多い道が、トンネルの出口のように、一際明るい街灯に照らし出されているのが見える。それは二つの幹線道路をつなぐ道で、夜ともなればその幹線道路を利用する車だけが通る。どれも定められた以上の速度で走り、公園とビルの隙間にある小道へ入ろうとするものなど気配すら無かった。
 ニトロはハラキリの家で渡された黒い戦闘服に身を包み、先程彼に渡された武器を一つ一つ確認していた。ジャケットのようになっている上着部分、左の袖口には服の機能を司るコントロールバンドが仕込んである。
 改めて教わった戦闘服の機能は実に多岐に及んだ。
 防弾防刃衝撃吸収は当然として、繊維内に織り込まれた素子生命ナノマシンが構成する素子生命群エレメンツを変性させることで、状況に応じた服の形状や様々な機能を得ることが可能だった。
 とりあえず最低限と紹介された機能だけでも、体温・脈拍等体調管理機能をはじめ、光学擬態、簡易生命維持機能、極小の対光学兵器バリア発生装置、さらには静止画・動画に音楽の記録再生が可能なAVシステムまであった。
 毀刃きじんナイフと同じく、これも神技の民ドワーフの逸品だという。
 左腰にはその毀刃ナイフと大振りのナイフが一本ずつ差されていて、右のホルスターには光線銃レーザーガンがある。太腿の左右には二つずつ予備バッテリーが納められ、靴は最硬の合金至鉄鋼アルタイトの板で補強されていた。
 着慣れぬ装備は動きを阻害するものだが、先程まで受けていた訓練プログラムのおかげでスムースに動ける。
 装備を確認した後、ニトロは戦闘服を『トレーニングモード』にした。形状が変わり、生地はだぶつき、さながらサウナスーツか大きめのウインドブレーカーかといった風となる。武器は上着の裾の下に隠れたが、まだ少し目立つなとナイフの鞘の角度を調節して隠す。
 ハラキリも揃いの格好をしている。これでジョギングでもすれば、どこかのハイスクールクラブのチームメイトといった様子だ。
 ニトロは準備を済ませ、よしとうなずいた。
 これから王城に忍び込もうというのに恐れもないのは、決意のためであろうか。
 ニトロの顔は、昨日までのそれとは明らかに違っていた。年頃の甘さは消え、精悍せいかんに引き締められていた。
「ふむ」
 ニトロの横で小型コンピューターを操作し、何かを調べていたハラキリが鼻を鳴らす。
「さすがに戸締りはしていますか」
 と、つぶやいて、背後の車に振り返る。
「韋駄天、緊急コードを受信するまでは待機。逃走ルートの情報は逐次更新を」
「了解」
 車が静かに去っていく。植え込みとビルに挟まれた道を真っ直ぐ進んでいくテールランプを眺めていたニトロは、やおら電灯に照らされる樹木を眺め、ここから3kmほどを行った先、公園に守られるよう中心に鎮座する王城を思った。
 セラミック製のブロックで外壁を組まれた、純白の城。何世紀にも渡ってアデムメデスの象徴であり続けるそれは、白銀に輝くようライトアップされ、ネオンや人の光に暗さを失った夜空の中に己が存在を強く誇示する。その姿は足元に広がる小さな湖ほどもある堀の清水しみずに映り込み、周囲に深々とひざまずく樹林を従え、今も王都ジスカルラ一と言われる幻想空間を作り上げているだろう。
 両親に連れられて幼き頃に見たその光景は、色鮮やかにも瞼の裏に焼きついている。
「どうするんだ?」
 パンパンに膨らんだザックを担ぐハラキリに、ニトロは問うた。暗がりの中、黒服の彼の輪郭は、闇に溶け込んでいるようだった。
「兵器類は使えないんだろう?」
 王城のセキュリティは、無論凄まじい。この公園からしてセキュリティの巣だ。昼夜を問わず警察が見回り、様々なセンターが張りめぐらされ、危険物を持っていれば即座に通報されてしまう。
「ニトロ君に協力願います」
「は?」
 ハラキリは小型のコンピューターにデータチップを挿入していた。
「城のA.I.をこちらにつけます。そうすれば、セキュリティも無力ですよ」
 ニトロは驚いた。
「A.I.を? そんなことできるのか?」
 王城と公園のシステムはコンピューターで制御されている。A.I.に干渉し味方につけることができれば、セキュリティを無力化することも可能であろう。だが、A.I.を味方につけるということ自体が厳重堅牢無数幾重の鉄壁に阻まれ、まず不可能なことだ。
 唯一、A.I.の固体認証番号などの各種情報を知ることができれば壁を破ることができると言われてはいるが、それは海千山千のハッカーやクラッカーでさえ入手することはできず、テロリストが何兆払ってでも欲しいと叫ぶ機密中の機密だ。
 だが、ハラキリはニトロの驚嘆にさも意外そうな顔をする。
「城の案内ナビゲートシステム担当、ニトロ君のA.I.でしょう?」
 コンピューターを操作しながら言うハラキリに、ニトロはあっと口を開けた。確かに、メルトンは自分が作り上げた。固体認証番号をはじめあらゆる機密データは自分の手の内だ。
「申し訳ありませんが、うちで預かっていた携帯電話を勝手に開けさせていただきました」
 それならば、メルトンに接続もできよう。だがニトロは申し訳なさそうに応えた。
「いや、でもメルトンの奴がバカ姫裏切ってこっちにつくなんてこと、それこそ天地がひっくり返ってもないよ」
「ああ、それは君の話を聞いて分かっています。別に情に訴えて味方につけようなんて考えていませんよ」
「へ?」
「脅すんです」
 ハラキリはニヤリと笑った。そしてコンピューターをニトロに渡す。ニトロはコンピューターのディスプレイに映った見覚えのあるA.I.の姿に目を吊り上げ始めた。それはまさしく、悪鬼羅刹の形相であった。
「ゲ! ニトロ!」
 先に言葉を発したのは、メルトンであった。そして先に言葉を返したのは、ハラキリであった。
「メルトン君、何もできないでしょう? うちの撫子特性のクラッキングプログラムです。次にセキュリティシステムを働かせようとしたら、君、死にますよ。データサルベージもできないほど跡形もなく。こちらがあるコードを口にしても君は死にますから、言うこと聞いてくださいね」
 実際、ハラキリの言葉通りだったのであろう。王城は静かなもので、システムに侵入されたというのにセキュリティシステムが働いてもいない。
「ナナナナ、コンナトコロデ何シテルンダヨ」
 稲光と業火を背負う悪魔のごとき顔面の元主人マスターに、メルトンは震えていた。応えたのはまたしてもハラキリだった。
「ティディア姫にえつを賜りたいんです」
「姫様ハ寝テル」
「でしょうね。まだ4時だ。日も昇っていない」
「別ノ機会ニシヤガラネエカナ?」
 ピシッと、ニトロの持つ小型コンピューターが悲鳴を上げた。メルトンも、悲鳴を上げた。
「まぁ、拙者の依頼人は、今が良いらしいんですよ」
「ソ、ソノヨウダダネ」
「というわけで、失礼ながらお邪魔したいんです。君が何をすればいいか、ご理解いただけましたか?」
「ソンナコトシタラ俺モ殺サレチマウ!」
「じゃあ今死にますか?」
「ソレモ嫌ダ!」
「わがままですねえ。死にますか?」
「ウウ……」
「じゃあ、これはどうでしょう。今から君にちょっとしたウイルスを送ります。事が済んだ後にそれが見つかるようにしてください。そして、そいつに『誤作動起こさせられた』ってことに。それならいいでしょう? いやなら早速死――」
「オッケー! ソレイイ、ソレナライイ!」
「聞き分けよくて良かった。では早速やってください。やらなかったら、死、ですよ」
 そこで、ハラキリはニトロからコンピューターを奪った。
「…………」
 ニトロは人の形相に戻り、ふと気になって聞いた。
「俺、必要だったか?」
「説得力ありましたよ。ニトロ君の顔が、最大の脅しでしたから」
「ああ……そう」
 コンピューターを眺めているだけのハラキリを見て、ニトロは怪訝に思った。
「あれ? ウイルスはもう送ったの?」
「送りましたよ。『聞き分けよくて良かった』を実行パスにしていたんです」
「……見事な手際だ」
「ありがとうございます」
 と言って、公園の中へと歩を進める。
「おい、もう大丈夫なのか?」
「警報流れたらメルトン君が死ぬだけです。拙者達は全速離脱すればいい話ですから」
「いやいや、でもひそかに通報されていたら?」
「モニターしています。いやー、メルトン君もなかなか優秀ですね。もう拙者達の動きはセキュリティに追われないようにしてありますし、必要な情報も全部くれました」
 と、ハラキリが手の中の小型コンピューターをニトロに見せた。ディスプレイは四分割され、一つには城の詳細な見取り図が、一つにはセキュリティのリアルタイムステータスが、残り二つには警備の状況が映り変わっている。城の監視カメラの映像を、盗んでいるのだ。
「脱帽だよ、ハラキリには」
「まあ、仕込まれていますから」
「誰に」
「両親に」
「おかしな家族だ」
「我ながらそう思います」
 ハラキリを追ってニトロも公園に入る。王都の中にあって恐ろしいほど濃密な木々の匂い、静けさが全身を包み込む。警報は、鳴らなかった。
 感嘆しながら、ニトロはハラキリについていった。堂々と歩けと言われている。途中、ジョギングをしている人とすれ違った折、こちらを同類だと思ったらしい相手とにこやかに挨拶を交わした。それがなんとなく、ニトロには可笑しかった。
 二人は問題なく公園を進み、堀のそばに辿り着いた。
 堀は本物の木で作られた柵で囲まれ、その前には数多くのベンチが並べられている。
 実に、皆さんここでイチャついてねと言っているようなものである。実に多くの恋人達がイチャついく場所として有名になったのは当然の帰結であろう。夜通しか地下鉄の始発待ちか、日も昇らぬ早朝だというのにベンチは幾つも埋められている。
「人目を忍んで行けるのか?」
 茂みの中に隠れて、暖色の街頭に照らされる堀の前の大通りを見ながら、ニトロはハラキリに不安気な顔を見せた。直前にもベンチがあり、そこにも熱烈に抱き合うカップルがいる。その後ろに王城がそびえているが、この広い堀を泳いでいかねば辿り着けない。
「光学擬態を使います。あれなら何も気に留めないでしょうが、とりあえず足音は静かに」
 戦闘服を『トレーニングモード』から『バトルモード』に戻すハラキリに倣いながら、ニトロは彼から受けた注意事項を思い返した。
 光学擬態。遠目、あるいは静止状態であれば見破られることは少ない。だが動けば人の目に違和を残す。派手に大きく動けば、訓練された者や特殊な視覚を持つ種族には『姿』と認識される。自然界の擬態との違いは――
 それ以降は打ち切り、ニトロは周囲の状況を確認した。大通りを歩いてくるものはあるか。ここから目標地点に行くにはどのルートが最短で、足元はどうなっているか。
(動く時は小さく、ゆっくり、しかし速やかに)
 ニトロは最後に、カップルの自分たちだけの世界に没頭する姿を一瞥し、ハラキリに了解を返した。
 ハラキリがザックから顔覆型フェイスカバータイプのダイバーマスクを取り出し、ニトロに手渡して言う。
「使い方は一般のものと変わりません」
 それからハラキリは次に幾つものレンズがついた球形の装置を数個取り出し、そこらの草陰に転がした。逃亡時に使う囮か何かだと、ニトロは察した。
「拙者の姿はゴーグルに映ります。遅れないよう、ついてきてください」
 言って、ハラキリがダイバーマスクを被り、左袖のコントロールバンドに触れるとその姿が消えた。とはいえ、目を凝らせばそこに人型の何かがいることがぼんやりと判る。それに彼のザックは何事もなく丸見えだった。ニトロから見て『ハラキリがそこにいない場合に見えるはずの光景』が、ハラキリの体をスクリーンに再現されているのだ。正確に言えば姿が消えているというよりも、姿が誤魔化されているといったところだろう。
 と、ハラキリがザックにも細工を施して完全に風景に溶け込んだ。
 ニトロも追ってマスクを被るとゴム地が皮膚の上を這うように伸び動き、頭部全体を覆った。特殊アクリルのゴーグルにハラキリの輪郭がはっきりと縁取られる。それを目に、ニトロは光学擬態を起動した。
「確認したよ」
「では参りましょう」
 ハラキリの輪郭が動き、堀へと向かった。ニトロも静かに歩き出した。二人は身を縮めて慎重に足音を立てないように、しかし素早く歩いて柵に辿り着いた。すぐ脇にあるベンチでは、濃厚な愛が絡み合っていた。
「愛しているよ、ハニー」
「ああ、もっともっと強く抱いて」
 柵をまたぎながらニトロは、六臂人アスラインの女性と、キスしているのか捕らわれているのか分からない男を一瞥した。
(……羨ましいよ)
 妙に深い憧憬を感じながら、ニトロはゆっくりと、わずかな波紋も生まないよう静かに爪先つまさきを水につけた。
 夜の水の冷たさに声を上げそうになるのをこらえながら、ニトロは全身を水の中に沈めた。すぐに戦闘服の機能を働かせて体温の低下を防ぐ。マスクの中に人工えらから新鮮な空気が送られてきた。視界は悪くない。城と公園の光、それにマスクの性能で随分と明るく見える。
 ……と、ゴーグルに、矢印と数字が現れた。ハラキリを追跡しているのだ。数字が示す距離を見ると、彼はかなり先に進んでいる。
 ニトロは置いていかれないように、泳ぎに力を込めた。だが、防水加工がされているとはいえ、靴を履き服を着たまま泳ぐのは不慣れも手伝い難しい。思うように進めず、ふと彼は思い出した。
(そうだった)
 袖口にあるボタンの一つを押す。すると戦闘服がより肌に密着し、靴の先に足ヒレが現れた。これで、ぐんと泳ぎやすくなった。
 ニトロがハラキリに追いついた時、彼は水面下の城壁で作業を行っていた。城内につながる水路の網を取り外しているのだ。
 作業はすぐに終わった。取り外した網を持ち、ハラキリはニトロに先に入るよう示した。ニトロはそれに従い、ハラキリは自分も水路に体を入れると、取り外した網を元通りに直した。
 水路の中はニトロの予想以上に広かった。と、ゴーグルに城の見取り図と現在位置が映った。ハラキリが情報を送ってきたのだ。そこには、城壁の下部で四角い枠の中に閉じ込められた二つの光点がある。これが自分たちならば、ニトロが水路と思っていたこの場所はただ行き止まりの空間であるらしい。
 ニトロが戸惑っていると、ぐいと腕を引かれた。見ると、マスクの額部に蛍火を灯したハラキリが上と背後を指差している。彼の光で、ニトロのゴーグルの暗視機能も力を発揮した。闇が薄まり、石天井に横切る一本の深い溝が見えた。背後には石の扉。
 改めて見取り図を見れば、今いる空間の隣に小さな部屋があった。そこからは螺旋状の通路が城へと昇っている。
 ハラキリが『仕掛け』を見つけて操作すると、天井の溝から壁が降りてきた。それはこの空間を内外に区切る仕切りだった。壁が降りきるとこちらは完全に密閉され、行き場を失った水が少し硬くなったように感じられた。
 と、その水がふいに沈みこんだ。いや、ニトロはそう感じたが、どうやらどこかで排水がされているようだ。体にかかる圧が薄まっていき、次第に下がっていく水位に押されて体も床に押しつけられていく。
 水がなくなるまで待ってから、ハラキリが隣の部屋への重い扉を引き開けた。その先には小間こまがあり、正面奥に階段が見えた。
「……ここは?」
「脱出用の隠し通路、の、一つでしょう」
 長く閉ざされ澱んだ大気を切って、狭く天井も低い螺旋階段へとハラキリが先に立つ。彼はすでに光学擬態を解いていた。
「もう一息です」
 ニトロは袖口のボタンを操作して姿を現すと、靴の足ヒレを消してハラキリに続いた。

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