5-b へ

インタビュアー(T): 先程、いつか映画や劇を作ってみたいとおっしゃられていましたが、映画や劇はよくご覧になるのですか?
―― 暇があるときや、劇場で観ておきたいのがあるときはね、よく『お忍び』で観に行っているわ。
T: お好きな作品は何ですか?
―― 好きな作品? 古典やB級にわりと好きなのが多いけど……とりあえず悲劇は嫌い。
T: それはなぜですか?
―― 登場人物に感情移入すると、どうしても『自分なら』って思っちゃうから。自分なら是が非でも『私のハッピーエンド』にするのにって。
 ……ふふふ。
<JBCS独占インタビュー『新しき王位第一継承者、その素顔』より>

「……死んだ」
 真っ暗な『奈落』の底で、ニトロは断言していた。
 真っ直ぐ上に、周りよりぼんやり薄く四角い闇がある。そこが奈落の入り口だった。ここから高さにして5mといったところか。そこから、いや、そもそも幕を掴み損ねてのおよそ10mの落下も経験して、よくもまだ生きているものだと感心する。
 運が良いのかと思いもするが、奈落の口が開いていたことは運が悪い。こんな舞台装置を開け放しておくなんて危険極まりないこと、誰かのミスに違いないだろう。それはものの見事に、一人の人間に『致命傷』を与えてくれた。
 驚くことに骨折一つ負っていないようであったが、しかし落下の衝撃に痺れた体は、大の字のまま動かすことはできない。少しずつ回復はしているが、
「死んだ」
 ニトロは絶望の眼で繰り返した。
 聞こえてくる。追っ手共の足音。聞こえてくる。追っ手共の歓声。
 絶体絶命だった。このまま捕まり姫の前にしょっ引かれるか、あの悪女を待つことになるだろう。
「……」
 ニトロは唇を噛んだ。全身の痛みまで噛み殺そうと、強く、噛み締めた。
 冗談ではない。まだ死にたくない。それも、こんなことで!
 彼は力を振り絞り、激痛に痺れる左腕を動かした。少し離れた所に、あのカメラケースがある。衝撃で蓋が開いて中身が散乱している。それは好都合だった。むしろ幸運と言ってもいい。ハラキリが、様々なアイテムの説明をした最後に渡してくれたものが、すぐ近くに転がっていたのだから。
 最後の手段。『本当に危機に陥った時』に使用するよう、手渡されたもの。手帳サイズの、銀色に輝く小さなケース。
 ニトロは、そのケースを手に取った。中開のケースは厚みがあり、中身は隙間なく詰められているのか揺れもせず、見た目よりは重い手応えがあった。
「っ!」
 背中を叩く激しい鈍痛に顔をしかめながら、ニトロは上半身を起こした。し、深い息を吐く。
 ハラキリはこのケースに一体何が入っているのか、「秘薬みたいなもんです」とだけ言ってその詳細を語ってはくれなかった。麻薬の類か、それともまさか自殺用の毒薬かさえ、教えてくれなかった。ただ自信を持って「リスクはありますが、必ず助かります」と、そう言っていた。
「頼むよ、ハラキリ」
 祈りながら、ニトロはケースを思い切って開いた。
 中身のほとんどは衝撃吸収剤だった。ゴム材のクッションが左右に開いたケース内に敷き詰められ、その中に抱かれるように、あるいは封じ込められているかのように、一本の注射器が埋め込まれていた。
 注射器の中には蛍光緑ネオングリーンの見るからに毒々しい液体がある。
 これを、打てと言うのか。
「…………」
 ニトロは固唾を呑みながら、注射器を慎重に取り出した。針を防護するキャップを静かに外し、震えが止まらない針先をジッと見つめる。
おー。俺っちの出番か〜い
 すると、突然どこから声がした。
「――――」
 ニトロは硬直した。
 え? マジ?
 そんな文字が脳裏を埋め尽くす。見開かれた眼からは、遠慮なくその情報が脳裏に送られてくるが、それを理解することは彼の全身が拒否している。
 ――注射器の針先から、小さな緑色の手が飛び出していた。
ぃよっ
 そんな掛け声をかけて、手は何か掴まるところを探してばたばたと宙を掻く。思わずニトロが注射器を取り落として後退ると、手は幸いとばかりに床に爪を立てた。
こらしょっ
 と、注射器の中から緑色の……雑に粘土で作った人形、、、、、のような生き物? が這い出てきた。
 そしてむくりと立ち上がると、こちらに振り向き飛び寄ってくる
「いやいやいやいやいいあいあやいや?」
 一瞬、粘水生命体ゲルリアンかとも思ったが、違う。粘水生命体ゲルリアンなら、こんな、ちょいとばかりに浮き上がったりするものか。
 では、何だ?
 粘水生命体でないとすれば、信じられない登場をやってのけたコイツは一体何だというのだ?
 それの頭には、旗が刺さっていた。
 風もないのにはためく旗には『天使』と書かれていた。なぜか裏側には『元祖!』とある。体はぼんやりと発光していた。
 元祖ともかく、しかし確かに、間違いなく、天の使いにゃ見えやしない……!
「馬鹿な幻覚だ非現実的だ幻術か催眠術か新手のガス攻撃か?」
 鉛と脳味噌が体当たり勝負しているかのような、とんでもない頭痛に世界が歪んで見える。
おう、にーちゃん。お困りかね
 ぴっと片手を挙げて、フランクな調子でそれは言ってきた。
俺っちを飲みな。ささ、ぐぐぐいっと。気持ち良くしてやるぜ〜?
「…………」
 ニトロは、腰をくねらせて踊っている自称『天使』の言葉に、唇を震わせた。
遠慮すんなって。ほらほら怖がるなって、ほらほらほらほら♪
「の」
の? 飲む? おーいえー
「飲めるかアホォォォォォウ!」
ぅをんぱサーーーッ!?
 ニトロの怒りの鉄拳が、緑のそれを、目の前にある現実を叩き潰した!
 拳ごと床に叩きつけられた『天使』は奇妙な悲鳴を上げて――
「?」
 ふと濡れた感触を得て、ニトロはおそるおそる腕を上げた。
 確かに『天使』を潰したはずの床には、緑色の液体がこぼれているだけだった。体を折って、拳を下から覗き込む。すると拳頭にも、緑色の液体がへばりついているだけ。ぽたりと一滴、床に落ちた。
 『天使』は跡形もなく消えていた。本当に幻覚だったのだろうか。それとも、この液体が。
「……」
 ニトロは拳の液体を凝視していた。
 なぜか、自分でも解らないが、逆らい難い衝動が胸に芽生え始めていた。食欲にも、性欲にも似た、熱い激情が心を揺さぶり始めていた。
 信じられないことに、その液体を、『飲み干したい』と。
「……いや、そんな……」
 ニトロの理性は強烈な警告音をかき鳴らしていた。明らかに妖しいその緑色の液体、あるいは本当に『天使』であった液体を、口に入れることなど……。
「……」
「いたぞ! ニトロ・ポルカトだ!」
 奈落の底に一条の光が射し込んできた。追っ手の懐中電灯サーチライトだった。
「……」
 だが、ニトロの意識は液体に引きつけられて離れない。
「下に行け! 奴はもう袋のネズミだ!」
 勝ち誇った声。
 ニトロは、少しずつ、拳を口に寄せていた。
「……」
 そして、彼はその緑色の液体を舐め取り、嚥下えんげした。
 ドクン!
「!?」
 その瞬間――ニトロの心臓が、壮絶に脈打った。
「あれれれ!? やっぱりヤバイものだったかねぇ!?」
 彼の悲鳴に合わせるように、心臓は早鐘を打ち始めた。
 ドクン! ドクン! ドクン!
 鼓動に合わせて、ニトロの体は痙攣を始めていた。
 熱い! 体の奥底から溶けた鉄が溢れ出してくるようだ。大量の汗が噴き出し、それがすぐさま蒸発していく。
 ドクン! ドクッ! ドクッ! ドク! ドク! ドク!
 動悸がさらに速くなっていく!
 ドク! ドクッ! ドク! ドッドッドドクドク! ドクッ! ドク!
 心臓が、心臓が、心臓が、心臓が……!
 ドッドッドクドク! ズンタタドドドドッ!!
「俺の心臓ハートがビートを刻むぜぇぇぇぇぇ!!」
 その絶叫は、舞台上で奈落を取り巻く追手の耳にも届いた。
 舞台に立ち増援を待つ三人のSPは互いに顔を見合わせた。
「何だ?」
「……さぁ?」
 彼らは申し合わせたように、奈落の底を覗き見た。懐中電灯サーチライトで逃亡者が倒れていた場所を照らし出す。
 だが、そこに少年はいなかった。
「!?」
 驚いて追っ手達は懐中電灯を手に、さらに奈落の底を覗き込んだ。その瞬間!
「ぐへっ!」
 奇妙な声が、観衆のない舞台に響いた。それは奈落のほとりで発せられ、同時にその腹底の暗がりに響いては飲み込まれていった。
 彼に起きたことは、同僚達の理解を超えることだった。
 仲間たる彼が無様な格好で、一人の大男に踏み潰されている。彼は完全に気を失い、だらしなく舌を口外に垂らしている。その顔面は、大男の足の下で滑稽に歪んでいた。
「ごっはー」
 吐息とともに大男の口から湯気が噴出した。千千ちぢに破れたシャツからのぞく筋肉の固まりが、みくみくと震えている。弾けたズボンの下では伸縮性に富んだトランクスがスパッツのように伸びきり、度を超えて発達した太腿があらわになっている。
 ありえない。いつの間に、こんな奴が現れたのだ。
「何者だ……」
 おののきに答えようとした時、大男ははっとして体に貼りつく服の残骸を慌てて千切り捨てた。非礼を誤魔化すように照れ笑いを浮かべる。白い歯が眩しかった。
「えと、ニトロ・ポルカトでございます」
「嘘ぉ!」
 SP達が信じられないのも無理はなかった。
 彼らの前にいる大男、身長はゆうに2mを超え、その筋肉加減ときたらボディビルのギャラクシー大会レベルすら超えている。どう考えても、あの少年ではない。我らアデムメデス星人は変身能力を備えてはいないし、例え変身能力を備えていたって、この短時間でこれはあまりにも生物の限界を超越しているってもんだ。
「ホラ吹くな!」
「マジっす」
 そう言いながら、ニトロ(?)は残ったSPの片方を殴り飛ばした。SPの体は見事な回転運動を見せながらすっ飛び、舞台袖に吸い込まれていった。肉と床板がぶつかる音、そして、何か大きなものが倒れる音が耳障りな不協和音でがなり立てる。
「マッスルに物足りぬぞ!」
 爛々と光る目玉をニトロ()が最後の一人に向けると、彼は呆然と立ち尽くし、惨めにも失禁していた。
「貴様ならば俺っちを満足させられるか?」
「無理無理無理無理。見ろよ俺ちびってるじゃん」
「恥辱にまみれた者は強くなる! てことで強い! さあ!」
「待て待て待て待て! 論理的に話し合おうじゃないか!」
 一歩踏み出してきたニトロの迫力に、SPは堪えられなかった。彼は悲鳴を上げながらレーザーガンの引き金を引いた。
 何度も訓練し、何度も体に染み込ませた通りに。
 瞬時に出力を最大にし、銃口を敵に向け、銃を腕でなく体全体で固定するように構えて。
 心臓に向けて。
 姫から禁じられた行為だということは、恐怖の圧で理性から消し飛ばされていた。血色の光線が、銃口とニトロの左胸を結ぶ。それは彼の肉体を焼きながら、心臓を貫き、背部へと貫通するはずだった。
「ヌン!」
 しかし! ほぼ光速の刹那の中! ニトロが気合とともにポージングを取ったその瞬間! 彼の大胸筋が内部で爆発したかのように膨れ上がり、噴出した汗がその表面をコーティングした! それはまるで光学兵器に対する鏡面装甲のように美しく輝き、見事にレーザーを逸らせてみせた!
「なんてマッスル!?」
 SPが絶叫する。ニトロの斜め後方、レーザーが着弾した壁が、急激な熱の上昇を受け止められずに爆発した。それを背中に、彼は口を耳まで裂かして歯ぎしりした。
「腑抜けるな! 貴様の魂込めてマッスルで語れ!」
「無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理無理!」
「ハイヤァァァぁァ!」
「いやああああああ!!」

 辛い事や苦しい事は、笑い飛ばしちゃえばいいのよ。一人でそれができないのなら、誰か笑わせてくれる人のそばに行って。
 ひとしきり笑ったら、きっと気づけるわ。寂しさと一緒に、自分の心の中にある、小さな「頑張れる」に。
<ラジオPQKロイヤルタグ『ちと真面目に相談コーナー』より>

 シェルリントン・タワー200階。警備の中枢であるモニター室。そこは今、集団パニックに陥っていた。
 階を丸々一つ使ったこのモニター室の中心を囲うよう円形に並べられている、何千と取り付けられたシェルリントン・タワーの監視カメラのモニター。各階ごとにまとめられたそのモニター群の前のデスクで、本来整然と、また冷静に、刻々と変化する状況を警備員に伝えるエキスパート達は見る影もない。
 誰もが自身の目を疑い、脳に入ってくる現実への拒否感から一貫性の無い反論を叫んでいる。さながら、ありえない事故が起きた研究所か、ライターが一人も原稿を仕上げていない〆切前日の編集部のようだ。
 だが、その中で一人ケラケラと楽しそうに笑う女がいた。王女、ティディアである。
 彼女は横柄にデスクの上で足を組み、ジュースを飲みながら混乱の中心である『クラント劇場』のモニターを眺めていた。
「邪魔っ!」
 目の前を落ち着きなく歩き回る監視員を蹴り飛ばし、ティディアは毒づいた。
「まったく。これしきで取り乱すようじゃ、完璧を誇るシェルリントン・タワーのセキュリティって看板はでまかせね。定例会見ここでやるの止めようかしら」
 その言葉は、隣に控える警備部長の、ただでさえ卒倒しそうな心理に煮えたぎる熱湯を注いだ。彼は懸命に硬直する咽喉を動かし、弁解の言葉を搾り出した。
「お言葉ですが姫様」
「何」
 取り繕った威厳溢れる表情に裏返った声を乗せる五十男に興味を引かれて、ティディアはモニターから目を離した。
「これは奇妙奇天烈な、まさに人外魔境が出現したかのごとき事でございます。あの大男、否、大変態を相手にすることなど、姫様直属の部隊でもありますまい。しかし、我がシェルリントン・セキュリティの精鋭は、勇敢にも戦っているではありませぬか」
 ティディアはモニターに目を戻した。
 筋肉ダルマの大男の拳が、前線要員のアンドロイド達の、10tトラックの激突にも耐える特殊アクリルの盾を粉砕している。吹っ飛ぶアンドロイド達の背後では、生身を厳しい訓練で鍛えぬいた警備員達が、バズーカを構えて照準を絞っていた。
 機を見計らい、撃つ。
 その時突然、大男の体から湯気が噴き出した! 爆霧を生み出す蒸気の力はあまりにも凄絶で、バズーカの弾頭は、まるで超衝撃吸収クッションに受け止められたかのように失速して床に落ちた。
 信じられない。警備員達の恐怖の顔に、半ば呆れの感情が上塗りされる。
 と、モニターの映像が急に白濁した。濃密な湯気がまさに雲となり、周囲を埋め尽くしたのだ。何も見えない。音声のない監視モニターには致命的である。即座に換気システムが働き、現場の視界を取り戻していく。
 監視カメラのレンズを装置が拭うと、モニターに水浸しの現場が現れた。警備員達は体に貼り付く制服を気にすることなく、警戒態勢を解いていない。その光景は、ティディアの予想を裏切っていた。
 彼女は、視界が晴れたら死屍累々ししるいるい、というのを期待していた。
 しかし、そこに現れた現実は、期待に応えてはくれなかった。
 モニターを指差して、ティディアは――
「ぎゃははははははは!」
 爆笑した。
 『水』を噴き出したことが原因だろう。ミイラが一つ、水溜りに転がっている。
 彼だ。ニトロだ。やってくれるぜあん畜生!
 警備員達が歓声を上げてミイラに駆け寄っていく。だが、驚いたことに、ミイラはまだ生きていた。ミイラはじたばたと動き出すと、水たまりの上を驚異的なスピードで這い回った。その体は砂漠の砂のように水分を吸収するとあっという間に膨らみ、一気に瑞々みずみずしさを取り戻した。
 それはもう、瑞々しすぎて、彼はいまや水太りの百貫デブである。顎の脂肪に邪魔されて、息をすることも苦しそうだ。
「あーひゃっひゃっひゃ!」
 ティディアは苦しげに腹を抱えて足をばたつかせた。
 水太りのニトロは、呆気に取られている警備員達に地響き立てて走った。我に返って、警備員達がレーザーガンを構える。敵は自滅した。あの人知を超えた筋肉を自ら捨て去った。これでもう、レーザーを皮膚で逸らすなんて非常識なことできやしない。
 何本もの光線がニトロを貫いた。だが、ニトロは走り続けていた。というか、なんだか体を波立たせて、走るというより床を滑っている。
 なんと! 彼は、粘水生命体ゲルリアンに変じていた!
 モニター内、再び阿鼻叫喚の地獄絵図。
「……ふう」
 満足気に息を吐いて、ティディアは長いこと放っていた警備部長に振り返った。彼女が笑いかけると、警備部長は蒼白となった顔をなんとか痙攣させた。それが彼にできる精一杯の笑顔であった。
 ティディアは艶っぽく目尻を下げ、警備部長を見ていた。モニターの光を反射する黒紫の瞳は警備部長を縫い付けて、彼から生きる心地を奪っていた。
 桃色の唇が開く。警備部長は息を呑んだ。
「ま、あなたの言うことももっともね。次回もよろしく、ドルアン警備部長」
 悪戯っぽく言う姫の言葉に、警備部長は体中の緊張を長く吐き出した。胸に提げている顔写真入りの身分証明書を、そこにある肩書きが変わる危機を免れたことを確かめるように、愛妻が名を刺繍してくれたハンカチで汗を拭いながらそっと手で触れる。
 その様子に、
(やっぱ嘘とか言ったら面白いだろうなー)
 などと思いながら、ティディアはモニターに目を戻した。
 と、モニターの中のニトロが、こちらを見つめていた。ティディアは彼と目があった気がして胸を高鳴らせた。
 ニトロは筋肉魔神に戻っていた。おそらくあれが素体ベースなのであろう。だが、そこに少年ほんらいの面影はない。彼の行動の全てを見続けていなければ、あれがニトロだと判断できなかったであろう。体躯は筋肉ダルマ、顔はもはや別人。さらに骨格まで変わっているのだから。
 彼はどこまでも楽しませてくれるものだ。こちらを挑戦的に睨みつけている眼は、誘っている。私を。この星で逆らう者のないクレイジー・プリンセス、ティディア・フォン・アデムメデス・ロディアーナを。
「いいわ。デートしましょう」
 身震いして頬を赤らめ、ティディアは立ち上がった。警備部長に後はこちらで引き継ぐと告げ、きびすを返し早足で歩く。
「犬」
 背後に控える執事に、彼女は問うた。
「端末はある? モニターを中継して」
「こちらに」
 ノートサイズの板晶画面ボードスクリーンを受け取って、ティディアはまた爆笑した。ニトロがものすごい勢いで非常階段を転げ落ちていっている。どうやら、足を滑らせたらしい。
「あー、楽しい。ま、これで少し余裕ができたわね。ゆっくり着替えられそう」
「『カード』の追跡ですが」
「うん?」
「ハラキリをロスト、との報告です」
 ティディアの口角が悪魔のように引きあがった。
「ふん、よく仕込まれてる。欲しくなっちゃうな。
 それでデータは? 使えそうなら」
「既に処理に入っています」
「よろしい。他の進行状況は?」
「ラストカットに間に合う、との報告です」
「よろしい。バッテスは?」
「配置完了致しました」
「よろしい。指導は?」
「滑舌をはじめ基礎から叩きなおしたとの報告です」
「よろしい」
 板晶画面ボードスクリーンを見つめたまま、ティディアは自然と刻まれる笑みを消すことができなかった。
 それは、そこに映るニトロが着実に終幕に向けて進んでいることを、彼がそうと知らずに進み続けていることを心から楽しみ、そして最後の時に彼が浮かべるのはどんな表情だろうと、サディスティックに夢見る欲望そのものだった。
「あとはハラキリ君の登場次第ね。盛り上げてくれると、嬉しいな」
 舌なめずりをするティディアの目に、監視カメラを殴り潰そうとするニトロの拳がせまり、そして消えた。

―私の理想の異性?
 この私と対等であれる者よ。
 でも、それは恋人であれ、敵であれ、全てに当てはまる。だって、そうじゃない? 自分と張り合ってくれる相手がいない人生なんて、退屈でしょうがないわ。
 あなただって、ロスラッツがいたから、大女優になれたのでしょう?
<コゴア社『週刊ウィー・対談「大女優イカチル×最恐王女ティディア」』より>

「うぬう……」
 怪訝と不満が、喉を鳴らした。
 ニトロは屋上まで残り一階というところまで昇ってきていた。なぜか、非常階段に戻ってからは追撃も待ち伏せもない。刺激を受けるほどに活発化する体の中の変なモノが、消化不良で気持ち悪かった。
 だからこそ、見上げる先の踊り場に独り大槍を携え仁王立つ戦士を見たその時……ニトロの頬は自然に笑みを刻んでいた。
 戦士は、ケルゲ公園で戦った男であった。死地より蘇り、ここに再び現れた。
「雪辱に参った。ニトロ・ポルカトよ」
此度こたびはしかと言えたな、我が名を。バッテス・ランラン」
「ありがとう」
 二人は、睨み合った。
 刹那、バッテスの大槍がニトロの鼻先に迫った。目にも留まらぬ恐るべきはやさで、必殺の突きがニトロに襲いかかっていた。
 だが、ニトロのショートアッパーが、穂先が彼の皮膚に触れるよりも早く大槍の腹を打ち、その軌道を上に逸らす。鈍い衝撃音とともに大槍が跳ね上がり、低い天井に激突した。バッテスの愛槍、すべてを切り裂くグングニルは苦もなく強化セラミックの建築材を切り裂き、天井に、深く深くめり込んだ。
「うぬ」
 口を結び、バッテスは衝撃に痺れる手を槍から離した。どうやら、天井から抜くには骨が折れそうだ。かの敵を前にその余裕はない。彼は武器を諦めた。
「やはり、やるな」
れ者め。これしきで我がマッスルを量れると思うな」
 ニトロは一段足を進め、双眸を吊り上げた。まなこに戦意と殺意がみなぎり、白々はくはくとした眼光が薄暗い非常階段で不気味に映える。盛り上がる肉体は、敵を求め渇き飢えている。彼からは湯気が立ち昇るように、闘志に満ちたオーラが湧き出ていた。
「貴様は以前よりましになったようだが……まだ、足りぬ。この筋細胞には、まだまだ刺激が物足りぬ」
 一歩一歩、ニトロは階段を上がっていった。踏み込むたびに足が階段にめり込み、足跡が刻まれる。ビル自体が揺れているような錯覚を味わいながら、バッテスは超合金で固められた自身が震えていることを感じた。だがそれは恐怖ではない。歓喜だ。
 戦士として生まれ変わった今、バッテスは武者震いに笑っていた。
「足りぬならば満たしてやろう。我が拳で!」
「来い!」
 階上から、バッテスはニトロに向けて踊りかかった。拳を引き絞り、全体重をかけて跳びかかった。狙うは、人を超えた腕力を勢いに加え、全体重303kgを乗せた一撃必殺の拳打だ。
 しかし!
「マッハパン!!」
 ニトロの放った音速の右ストレートが、美しきクロスカウンターでバッテスの顎を捕らえた!
 骨と金属がひしゃげる音とともにバッテスは迎撃された。勢い吹っ飛び天井で跳ね返り、踊り場に叩きつけられ壁でバウンドし、それでも止まらず階段へと転げた。
 ニトロの拳はバッテスの意識までをも完全に潰していた。巨躯には身を支える意志も力もなく、だらしなく一段落ちるたびに速度を増して、やがて己を敗北の底へ叩き落した敵に向けて落岩のように転げ落ちていく。
 ニトロは軽く飛んだ。その足先をバッテスが無情にすり抜け、バレリーナのように軽やかに着地した彼の背後で転がり続け、階下の踊り場の壁に衝突してようやく止まった。
 その間も常に勝者の眼は敗者を振り返ることなく、じっと門番の消えた扉に向けられていた。
 静寂を取り戻した非常階段でニトロは不敵に笑った。
 そして、残すところ13となった階段を力強く踏みしめ上がっていった。

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